花巻城跡。花巻市城内。
2023年6月10日(土)。
イギリス海岸から西に進み花巻城跡を見学した。本丸跡付近に駐車スペースがなく、道路反対側の花巻小学校の空地に駐車した。








花巻城は、北上川に沿って形成された台地が東方に大きく突き出した地形を利用した平山城である。現在は市街地が広がり、城内には市役所や病院など大規模な施設が建ち、住宅も密集していて、城の形状はほぼ失われている。
比高20mほどの台地にあり、かつては北側を瀬川、北東を北上川が流れ、南には豊沢川と城の三方を河川に囲まれた急崖をなしていた。西側は台地続きのため幅30m以上の巨大な堀で切断し、崖がやや緩やかな南東斜面にまでめぐらしている。
花巻城は、古くは鳥谷ヶ崎(とやがさき)城といい、平安時代後期には安倍氏の鶴脛(つるはぎ)柵があったという。鎌倉時代以降、稗貫(ひえぬき)郡の領主であった稗貫氏が15世紀半ば以降本城とした。稗貫氏は鎌倉時代、源頼朝に稗貫郡を与えられ入部、中世末期まで続いた豪族である。所領は現在の南部を除く花巻市に及び「稗貫五十三郷」といわれる。当初は小瀬川館(あるいは瀬川館)を本拠としたが、室町時代には十八ヶ(さかりが)城(稗貫郡宮野目村)を本城とし、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。
天正18年(1590)最後の当主となった稗貫広忠は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため領地を没収され、当城には浅野長吉が入って家臣の浅野重吉を目代とし、城の改修をしたようである。同年冬、広忠は同じく所領を没収された弟・和賀義忠(わがよしただ)がかつての本拠・二子城を攻めるのに呼応して鳥谷ヶ崎奪還に立ち上がり、一時は成功したと伝えられている(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正19年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧され、同年中に稗貫郡は南部領と決められた。
南部信直は当地を仙台藩に対する警備の一拠点と考え、天正19年重臣である北秀愛(きたひでちか)に8000石を与え、鳥谷ヶ崎に城代として入城させた。この時、秀愛はそれまでの「鳥谷ヶ崎」という名を「花巻」と改め、城下町の整備や城の改修に着手したが、慶長3年(1598)に没した。秀愛の死後は父の北信愛(のぶちか)が城代を継承した。慶長5年(1600年)、南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している隙を狙い、密かに領土拡大を狙った伊達政宗に煽動された和賀忠親が旧領・和賀郡の奪還を目指して一揆を起こした(岩崎一揆)。和賀勢は花巻城や、大瀬川館など周辺諸城を攻め、花巻城の三の丸、二ノ丸を攻略して本丸に迫ったが、援軍を得た北信愛は本丸台所門で撃退した。北信愛は慶長18年(1613年)に死去するまで花巻城および城下町の整備に努めた。
北信愛の死後、藩主・南部利直は次男(庶子)の政直に和賀・稗貫(ひえぬき)の地から2万石を与え花巻城主とし、仙台藩境の警備にあたらせた。政直は花巻城を近世城郭として完成させ、本丸に二層二階の櫓や多くの重層の城門が建てられた。
寛永元年(1624年)、政直は急死した。死因は、酒宴で毒が入った酒を飲んだためである。かねてより、南部家一族は岩崎城代・柏山伊勢守明助が伊達政宗と内通しているのではないかと疑いを持っており、江戸へ向かう藩主・南部利直一行が花巻城に宿泊し酒宴を催したときに毒殺することを画策した。南部利直は、花巻城に柏山を突然呼び出し、伺候した柏山に利直は、御前での盃頂戴の儀式を伝えた。訝しく思いながらも謹んで賜る旨を言上したので、利直はまずは政直に盃を飲むようにいい、政直はわかっていたがこれを口にし、その盃を柏山に回したため二人とも毒死したのである。
政直の死後は嫡子がなく、寛永元年(1624)からは城代を置き、以後明治維新まで存続した。
花巻城の縄張。
江戸時代の絵図によると、内郭は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、それぞれを広い水堀で区画し、各郭の周囲には土塁や柵をめぐらしている。本丸に天守はなく、二の丸には郡代屋敷や馬場、御蔵が、三の丸は上級家臣団の屋敷になっていた。城の裏口にあたる搦手門(からめてもん)は「円城寺門」と呼ばれ、和賀氏の本拠・二子城大手門だったものを移築したもので、鳥谷ヶ崎神社に現存している。また二の丸にあった「時鐘」は市役所前に移築されている。さらに二の丸周辺は鳥谷ヶ崎公園として整備され、平成7年に白壁の西御門が復元されている。



本丸と二ノ丸の間の馬出跡。

宮沢賢治と花巻城。



復元・西御門。外側。



本丸跡。本丸には、城代以下が執務する詰所と、藩主が訪れた時に利用する本丸御殿があった。ほとんどの絵図に御殿は描かれていないが、御殿の様子は限られた給人らが知るところであった。御殿絵図が伝わっており、御居間(松の間)、菊の間、桐の間のほか、湯殿や料理の間といった生活スペースと城代席などの執務空間とに分かれていた。
南西隅に天守相当の櫓台、東の突端には菱櫓があった。正門は西御門で、南辺中央に台所門があった。

本丸跡から北方向への眺望。
花巻市博物館研究紀要 第15号 2020年3月
花巻城本丸御殿の建築空間(1) 八戸市博物館 中村隼人 (抄)
大名となった南部氏が盛岡藩政初期段階に形成した地方支配の体制は、在地性の強い中世段階の旧領主層(有力国人層)を由来とする上級家臣を「城主」に任じ、引き続き知行地を運営させる方式と、譜代の有力家臣層を「城代」に任じ、藩内の要衝へと異動させ、地域運営をさせる方式が主で、三戸南部氏が派遣した「代官」によって地域運営をさせる方式は少なかった。
南部利直の治世になると、在地性の強い旧領主層の多くが処罰を受け、断絶ないしは没落させられた。また、南部重信の治世になると譜代有力家臣らの特権性も縮小させられるなど、藩主への集権を進める方針がとられた。
寛永年間段階(1624〜 1644)になると一部の例外を除き、領内のほぼ全ての地域は盛岡から派遣される代官によって運営されるようになった。
享保二十年頃(1735)になると、十郡三十三通二十五代官区による運営が実体化した。この段階になると鍋倉城を治所として遠野通を運営した八戸氏と、花巻城を治所として同地方の運営を総括した花巻城代の二例を除き、領内全ての代官区は代官によって運営されるようになった。
盛岡藩屈指の穀倉地帯である和賀稗貫の両郡は、北上川舟運と領内南半の陸運を統べる結節点でもあり、藩経済の安定と発展を考えるうえでも、重要視されていた。また、南接する仙台藩との折衝地域でもあり、軍事的にも要地として認識されていた。両郡の運営を総括する治所には稗貫氏の本城である鳥谷崎城跡地が選ばれた。
鳥谷崎城が立地した河岸段丘端部は、北上川を睨む好地にあたり、経済・交通・軍事の全てにおいて、利便性が高かった。なお、鳥谷崎城段階の城館主体部については、花巻城の三之丸にあったとする説や、二之丸東端にあったとする説がある。また、花巻城本丸には中世段階には瑞興寺という寺院があり、近世初頭に現在位置の花巻市坂本町に移されたとも伝えられる。
花巻城とその城下の開発は、北氏城代期 (1591 〜 1613)、南部氏城主期 (1614 〜 1624)、藩士城代期 (1625 〜 1873)の三段階に分類することができる。
北秀愛は文禄年間(1593 〜 1596)に城下四日町を開町するなど、花巻城内外の整備を進めようとしたが、慶長3年(1598)に没した。同年以降は秀愛の父である北信愛が城代を継ぎ、慶長14年(1609)頃から城内外の本格的な改修を行った。本丸・馬出・二之丸・三之丸という後世にも続く縄張り整備を行ったほか、城内の主要施設である本丸御殿・御役屋・門などの作事を行った。花巻城の整備の多くは、この段階に実施されたものだと考えられている。
慶長18年(1613)の北信愛の死去を受け、盛岡藩主南部利直は、第二子南部政直を花巻城主に任じた。政直は家老の北湯口主膳や石井善太夫らとともに花巻城内外の開発を進めようとしたが、寛永元年(1624)、25歳の若さで早世した。
南部政直の死後、花巻城の運営は同城家老であった北湯口と石井に引き継がれた。以降花巻城と和賀稗貫二郡の運営は盛岡から派遣される花巻城代二名が総括する体制へと移行した。花巻城代は花巻郡代とも呼ばれるなど、他の通を管轄した代官とは明確に異なる存在として、重要視されていた。
花巻城代は地方行政官中最大の重要人事として認識されており、二百石から五百石程度の高知の藩士が起用された。永年勤続を基本にしており、長期間同職を務める藩士も多くいた。近世後期段階の花巻は人口五千人を数え、盛岡に次ぐ藩内第二の都市として発展した。
花巻城は、北上川と豊沢川によって形成された東西方向に長い河岸段丘の東端に位置する。段丘基部に南北方向の堀を掘削することにより段丘端部を独立させ、これを城内とした。段丘端部のうち、北・東・南の三面は急峻な段丘崖が巡る要害である。段丘平坦面が連続する城域西端は南北方向に掘られた濁御堀によって分断させられた。城館規模はおよそ東西700m×南北500mで、下位の段丘面との比高差は約12mである。
城内には北から本丸・二之丸・三ノ丸という三つの曲輪が存在した。また本丸の西側には土橋によって連結された馬出が存在した。この三つの曲輪と馬出は、それぞれを水堀と土塁によって区画した。
花巻城築城当初は本丸北側崖下直下に北上川が流れ、天然堀の役割を果たしていた。しかし度重なる河川氾濫と洪水被害により、花巻城北側の町場が甚大な被害を受けることも多かった。このため17世紀中期頃から三度にわたる治水工事が行われ、現在位置への流路改変が行われた。
本丸。本丸は東西180m×南北70m程度の規模を持つ曲輪で、曲輪中央には本丸御殿と呼ばれる建物が建てられていた。西接する馬出から連続する曲輪西端中央の西御門を正門とした。
このほかにも南接する二ノ丸から連続する曲輪南端中央に土橋があり、御台所前御門(中ノ口御門)を構えた。曲輪東端には菱御櫓と呼ばれる矢倉が建てられていた。
本丸御殿は、城代及び花巻御給人達が平時の執務を行う建物である。また、これとは別に藩主が、領内巡検や参勤交代を行う際に、宿泊や休憩をする御仮屋として本丸御殿は使用された。
このあと、羅須地人協会跡へ向かった。