骨寺村荘園遺跡。骨寺村荘園交流館「若神子亭」。岩手県一関市厳美町若神子。
2023年6月15日(木)。
厳美渓見学後、西に進んで世界遺産関連資産・国史跡・重要文化的景観地区である骨寺(ほねでら)村荘園遺跡の見学に向かい、ガイダンス施設である骨寺村荘園交流館「若神子(わかみこ)亭」に15時30分頃に着いた。雨が激しくなったので、傘を差そうとしたら見当たらなかった。道の駅「厳美渓」で土産を買ったときに店先に忘れたようだ。館内に入るとシアターで映像を見るように勧められたが、職員に話すと、このあたりは電波事情が悪いといい、固定電話で道の駅に電話してもらい、傘を保管してもらうように依頼した。概要は一関市博物館の特集展示で見ていたが、シアターで映像を、展示室で見学したのち、散策マップと小冊子を貰い、傘を借りて現地主要部を見学した。
骨寺村荘園遺跡。
骨寺村荘園遺跡は、平泉の中心部から西約12km付近の磐井川沿いに位置し、『吾妻鏡』や『中尊寺文書』、『陸奥国骨寺村絵図』に描かれた中尊寺経蔵別当領として、中尊寺経蔵と一体不可分の関係にある荘園遺跡である。発掘調査の結果、12世紀の平泉の遺跡群に共通した遺物が発見され中尊寺との関係性を裏付ける。
骨寺村荘園遺跡は、中尊寺伝蔵の2枚の『陸奥国骨寺村絵図』によって奥山、里山、水田耕作地や居住地など全体の空間構成が照合できる。平野部には水田耕作地と居住地、山稜部には信仰拠点が分布するなど中世の農村の土地の利用状況を伝えており、史資料に裏付けられる中世の農村空間が今日まで維持された世界的に類例を見ない稀有な事例である。
顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、『陸奥国骨寺村絵図』に描かれ、地上に表出する骨寺村荘園遺跡全体が中世以来の農村景観や信仰拠点(山王窟、白山社、ミタケ堂跡、不動窟、慈恵塚、若神子社、桧山川、真坂道、水利に伴う水田など)を維持し、地下には埋蔵される遺構・遺物(梅木田遺跡、遠西遺跡など)がある。
また、山間部にある本寺地区は、中世以降、現代に至るまで地形に沿って形成された水利により区画された水田耕作地が土地利用の基本構造となっており、大規模な開発が行われてこなかった。このことから、本寺地区においては、中世以来の土地利用の形態が大きく変わることなく、時代に応じて技術や工夫を加えながら農村のくらしを緩やかに発展させた。その結果、地域の特色をよく表す文化的景観が形成されている。(文化庁)
遠西遺跡南から田屋敷風景。
遠西遺跡。
遠西遺跡から田屋敷風景。。
駒形根神社下。
駒形根神社下から。本寺川、遠西遺跡方向。
駒形根神社。
栗駒山(須川岳)を拝むための神社。絵図では六所宮と推定される。
駒形根神社境内からの風景。
西端の山王窟。
一関市厳美町の本寺地区は、その昔、「骨寺村」と呼ばれた荘園で、中尊寺の経蔵別当の所領でした。骨寺村については、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に村の四方の境が示されていて、その範囲が明らかです。また、中尊寺に伝存する古文書や、一枚の『陸奥国骨寺村絵図』によって、中世の村の姿を視覚的に体験することができます。
現在も、山々に囲まれた地域には、曲がりくねった水路や、不整形な水田が広がり、イグネに守られた家々が点在し、神社や小さな祠が要所にまつられています。
たえまない営みが醸しだす穏やかな農村の姿は、自然を巧みに利用して築き上げてきた、代表的な日本の原風景です。
骨寺村荘園遺跡は奥州藤原氏ゆかりの荘園遺跡であるとともに、これまで見慣れてきた、美しい農村の風景が各地で失われつつある現在、伝統的な農村の景観が維持されているかけがえのない貴重な遺産です。
中尊寺領骨寺村のはじまり
時は12世紀。平安浄土の国づくりを理想にかかげた藤原清衡は、自らの発願による『紺紙金銀字交書一切経』(国宝)の完成に功のあった自在房蓮光を、そのお経を納める中尊寺経蔵の初代の別当に任命しました。そこで蓮光は私領であった骨寺村を経蔵に寄進し、経蔵の維持のための費用をまかなう土地(荘園)として、あらためてそれを清衡から認められました。これが中尊寺経蔵別当領骨寺村のはじまりです。
これ以降、骨寺村は経蔵別当領となり、藤原氏滅亡後は、この地方の地頭となった葛西氏などと相論を繰り返しながら、鎌倉時代を経て、15世紀の室町時代まで伝領されていきます。2枚の『陸奥国骨寺村絵図』は、その過程で作成されたものと思われます。
江戸時代になると、本寺地区は仙台藩の直轄領となり、明治維新まで経営されます。骨寺が本寺に転訛したのは、この時期といわれています。
2枚の絵図は、それぞれ簡略絵図(仏神絵図)、詳細絵図(在家絵図)と呼ばれ、簡略絵図は鎌倉時代中期、詳細絵図は鎌倉時代後期に描かれたものとされています。これらの絵図は骨寺村の領主であった中尊寺経蔵別当職を継承した大長寿院に伝来したものであり、中世の村落景観を窺うことができる貴重な資料として、平成七年(1995年)に重要文化財に指定されました。
2枚の絵図とも、栗駒山(須川岳)を正面に、骨寺村の四方の境、すなわち東は鎰懸、西は山王窟、南は岩井河(磐井川)、北はミタケ堂馬坂に囲まれた領域を描いています。このうち詳細絵図には、平野部に在家や田の図像が描かれ、とくに本寺川の両岸には上流から下流まで田が点在する景観が読み取れます。他方、簡略絵図には、図像こそ描かれていないものの、田や畠の文字が記されています。
骨寺村の由来。絵図に「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、建物の礎石のような図像が描かれています。かつてここに骨寺という寺があって、絵図が描かれた鎌倉時代の後期には廃寺になっていたことが分かります。今はその跡も確認できませんが、その寺の名前が村の由来になったと考えられます。
骨寺とは珍しい名前ですが、亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習(分骨)があります。この骨寺はそのための場だったのではないでしょうか。
髑髏(どくろ)伝説。鎌倉時代の『撰集抄』という説話集に、平泉郡にいた一人の娘が、天井裏の髑髏から法華経の読み方を習い、その髑髏を逆柴山に葬ったという話があります。その髑髏は、比叡山の高僧第18代座主の慈恵大師良源の髑髏で、葬った場所が慈恵塚だと本寺では伝えられています。このことが、骨寺村という名前の由来であるともいわれています。
重要文化的景観「一関本寺の農村景観」。平成18年7月に、絵図に描かれた水田と屋敷を中心とする領域(史跡指定地も含む)が国の重要文化的景観に選定されました。
本寺地区の文化的景観の最も重要な要素は、現地の微地形を反映した曲線状の農道・用水路・畦畔群です。これらは中世以来の「田屋敷型散居集落」の景観の特質を今に残すものとして高く評価されています。「田屋敷」(田在家とも言う)とは、独自の水源を持つ一団の水田群と屋敷地からなる土地利用上の単位で、中世における百姓支配の方式(賦課単位)でありました。詳細絵図に見られる田と屋敷のセットが、これに相当すると言われています。(本寺地区地域づくり推進協議会)
2023年6月15日(木)16時30分に骨寺村荘園遺跡の見学を終えて、5月31日(水)早朝に名古屋市の自宅を出発、6月1日(木)に秋田県にかほ市象潟から始めた秋田県・岩手県への旅行を終えた。
帰路は、一関市のイオン駐車場で、ナビに自宅を指示すると仙台市の海側からいわき市、東京、静岡経由ルートを示したが、国道1号線の渋滞に懲りているので、国道19号線長野県松本市経由を指示すると予想通り福島市、会津、小千谷市のルートを指示したので、初めてのルートであるが、進んでみることにして宮城県大崎市へ。6月16日(金)、道の駅「大崎」から仙台市西郊を通ると渋滞はなく、福島市・土湯・裏磐梯・会津坂下から只見川沿いの山間道路に入り、田子倉ダム・六十里越の道路を楽しみ、追走してきた車を振りきって新潟県の小出に出て、長野市の道の駅「信州新町」で車中泊。6月17日(土)早朝の松本・塩尻には渋滞はなかったので、12時頃に帰宅できた。