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岩手県一関市 骨寺村荘園遺跡 世界遺産関連資産・国史跡・重要文化的景観地区

2024年01月13日 12時58分34秒 | 岩手県

骨寺村荘園遺跡。骨寺村荘園交流館「若神子亭」。岩手県一関市厳美町若神子。

2023年6月15日(木)。

厳美渓見学後、西に進んで世界遺産関連資産・国史跡・重要文化的景観地区である骨寺(ほねでら)村荘園遺跡の見学に向かい、ガイダンス施設である骨寺村荘園交流館「若神子(わかみこ)亭」に15時30分頃に着いた。雨が激しくなったので、傘を差そうとしたら見当たらなかった。道の駅「厳美渓」で土産を買ったときに店先に忘れたようだ。館内に入るとシアターで映像を見るように勧められたが、職員に話すと、このあたりは電波事情が悪いといい、固定電話で道の駅に電話してもらい、傘を保管してもらうように依頼した。概要は一関市博物館の特集展示で見ていたが、シアターで映像を、展示室で見学したのち、散策マップと小冊子を貰い、傘を借りて現地主要部を見学した。

骨寺村荘園遺跡。

骨寺村荘園遺跡は、平泉の中心部から西約12km付近の磐井川沿いに位置し、『吾妻鏡』や『中尊寺文書』、『陸奥国骨寺村絵図』に描かれた中尊寺経蔵別当領として、中尊寺経蔵と一体不可分の関係にある荘園遺跡である。発掘調査の結果、12世紀の平泉の遺跡群に共通した遺物が発見され中尊寺との関係性を裏付ける。

骨寺村荘園遺跡は、中尊寺伝蔵の2枚の『陸奥国骨寺村絵図』によって奥山、里山、水田耕作地や居住地など全体の空間構成が照合できる。平野部には水田耕作地と居住地、山稜部には信仰拠点が分布するなど中世の農村の土地の利用状況を伝えており、史資料に裏付けられる中世の農村空間が今日まで維持された世界的に類例を見ない稀有な事例である。

顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、『陸奥国骨寺村絵図』に描かれ、地上に表出する骨寺村荘園遺跡全体が中世以来の農村景観や信仰拠点(山王窟、白山社、ミタケ堂跡、不動窟、慈恵塚、若神子社、桧山川、真坂道、水利に伴う水田など)を維持し、地下には埋蔵される遺構・遺物(梅木田遺跡、遠西遺跡など)がある。

また、山間部にある本寺地区は、中世以降、現代に至るまで地形に沿って形成された水利により区画された水田耕作地が土地利用の基本構造となっており、大規模な開発が行われてこなかった。このことから、本寺地区においては、中世以来の土地利用の形態が大きく変わることなく、時代に応じて技術や工夫を加えながら農村のくらしを緩やかに発展させた。その結果、地域の特色をよく表す文化的景観が形成されている。(文化庁)

遠西遺跡南から田屋敷風景。

遠西遺跡。

遠西遺跡から田屋敷風景。。

駒形根神社下。

駒形根神社下から。本寺川、遠西遺跡方向。

駒形根神社。

栗駒山(須川岳)を拝むための神社。絵図では六所宮と推定される。

駒形根神社境内からの風景。

西端の山王窟。

 

一関市厳美町の本寺地区は、その昔、「骨寺村」と呼ばれた荘園で、中尊寺の経蔵別当の所領でした。骨寺村については、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に村の四方の境が示されていて、その範囲が明らかです。また、中尊寺に伝存する古文書や、一枚の『陸奥国骨寺村絵図』によって、中世の村の姿を視覚的に体験することができます。

現在も、山々に囲まれた地域には、曲がりくねった水路や、不整形な水田が広がり、イグネに守られた家々が点在し、神社や小さな祠が要所にまつられています。

たえまない営みが醸しだす穏やかな農村の姿は、自然を巧みに利用して築き上げてきた、代表的な日本の原風景です。

骨寺村荘園遺跡は奥州藤原氏ゆかりの荘園遺跡であるとともに、これまで見慣れてきた、美しい農村の風景が各地で失われつつある現在、伝統的な農村の景観が維持されているかけがえのない貴重な遺産です。

中尊寺領骨寺村のはじまり

時は12世紀。平安浄土の国づくりを理想にかかげた藤原清衡は、自らの発願による『紺紙金銀字交書一切経』(国宝)の完成に功のあった自在房蓮光を、そのお経を納める中尊寺経蔵の初代の別当に任命しました。そこで蓮光は私領であった骨寺村を経蔵に寄進し、経蔵の維持のための費用をまかなう土地(荘園)として、あらためてそれを清衡から認められました。これが中尊寺経蔵別当領骨寺村のはじまりです。

これ以降、骨寺村は経蔵別当領となり、藤原氏滅亡後は、この地方の地頭となった葛西氏などと相論を繰り返しながら、鎌倉時代を経て、15世紀の室町時代まで伝領されていきます。2枚の『陸奥国骨寺村絵図』は、その過程で作成されたものと思われます。

江戸時代になると、本寺地区は仙台藩の直轄領となり、明治維新まで経営されます。骨寺が本寺に転訛したのは、この時期といわれています。

2枚の絵図は、それぞれ簡略絵図(仏神絵図)、詳細絵図(在家絵図)と呼ばれ、簡略絵図は鎌倉時代中期詳細絵図は鎌倉時代後期に描かれたものとされています。これらの絵図は骨寺村の領主であった中尊寺経蔵別当職を継承した大長寿院に伝来したものであり、中世の村落景観を窺うことができる貴重な資料として、平成七年(1995年)に重要文化財に指定されました。

2枚の絵図とも、栗駒山(須川岳)を正面に、骨寺村の四方の境、すなわち東は鎰懸、西は山王窟、南は岩井河(磐井川)、北はミタケ堂馬坂に囲まれた領域を描いています。このうち詳細絵図には、平野部に在家や田の図像が描かれ、とくに本寺川の両岸には上流から下流まで田が点在する景観が読み取れます。他方、簡略絵図には、図像こそ描かれていないものの、田や畠の文字が記されています。

骨寺村の由来絵図に「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、建物の礎石のような図像が描かれています。かつてここに骨寺という寺があって、絵図が描かれた鎌倉時代の後期には廃寺になっていたことが分かります。今はその跡も確認できませんが、その寺の名前が村の由来になったと考えられます。

骨寺とは珍しい名前ですが、亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習(分骨)があります。この骨寺はそのための場だったのではないでしょうか。

髑髏(どくろ)伝説。鎌倉時代の『撰集抄』という説話集に、平泉郡にいた一人の娘が、天井裏の髑髏から法華経の読み方を習い、その髑髏を逆柴山に葬ったという話があります。その髑髏は、比叡山の高僧第18代座主の慈恵大師良源の髑髏で、葬った場所が慈恵塚だと本寺では伝えられています。このことが、骨寺村という名前の由来であるともいわれています。

重要文化的景観「一関本寺の農村景観」。平成18年7月に、絵図に描かれた水田と屋敷を中心とする領域(史跡指定地も含む)が国の重要文化的景観に選定されました。

本寺地区の文化的景観の最も重要な要素は、現地の微地形を反映した曲線状の農道・用水路・畦畔群です。これらは中世以来の「田屋敷型散居集落」の景観の特質を今に残すものとして高く評価されています。「田屋敷」(田在家とも言う)とは、独自の水源を持つ一団の水田群と屋敷地からなる土地利用上の単位で、中世における百姓支配の方式(賦課単位)でありました。詳細絵図に見られる田と屋敷のセットが、これに相当すると言われています。(本寺地区地域づくり推進協議会)

 

2023年6月15日(木)16時30分に骨寺村荘園遺跡の見学を終えて、5月31日(水)早朝に名古屋市の自宅を出発、6月1日(木)に秋田県にかほ市象潟から始めた秋田県・岩手県への旅行を終えた。

帰路は、一関市のイオン駐車場で、ナビに自宅を指示すると仙台市の海側からいわき市、東京、静岡経由ルートを示したが、国道1号線の渋滞に懲りているので、国道19号線長野県松本市経由を指示すると予想通り福島市、会津、小千谷市のルートを指示したので、初めてのルートであるが、進んでみることにして宮城県大崎市へ。6月16日(金)、道の駅「大崎」から仙台市西郊を通ると渋滞はなく、福島市・土湯・裏磐梯・会津坂下から只見川沿いの山間道路に入り、田子倉ダム・六十里越の道路を楽しみ、追走してきた車を振りきって新潟県の小出に出て、長野市の道の駅「信州新町」で車中泊。6月17日(土)早朝の松本・塩尻には渋滞はなかったので、12時頃に帰宅できた。

岩手県一関市 一関市博物館 日本刀のルーツ・舞草刀 名勝・厳美渓


岩手県一関市 一関市博物館 日本刀のルーツ・舞草刀 名勝・厳美渓

2024年01月12日 13時19分02秒 | 岩手県

一関市博物館。岩手県一関市厳美町字沖野々。

2023年6月15日(木)。

達谷窟見学後、道の駅「厳美渓」に隣接する一関市博物館へ向かい、14時頃に着いた。

一関市博物館には、達谷窟と同じく世界遺産平泉の候補である骨寺村荘園遺跡の特集展示がある。そのほか、日本刀の源流の一つ舞草刀(もくさとう)蘭学者大槻玄沢、言海の著者大槻文彦、和算についての展示もある。

谷起島(やぎしま)式土器。弥生時代中期の土器。

谷起島遺跡は、磐井(いわい)川南岸、同川支流の久保川・市野々川・栃倉川が形成した袋状地形の南側低位段丘上にある。標高約40m。1955年岩手県における弥生時代谷起島式土器の標準遺跡として紹介された。検出された遺構には住居跡はなく、土壙・甕棺墓・配石・集石・焼土ブロックと遺物包含層である。

遺物包含層では上位層から弥生時代の谷起島式土器下位層からは縄文時代晩期の大洞A′式土器が出土し、ほかからの出土土器はすべて谷起島式である。

蓋型土器の出現は、「蒸す」という調理法が加わった調理法の変遷を示す。

「舞草刀(もくさとう)」は、古代から中世初期まで日本屈指の鍛冶集団であった舞草鍛冶が鍛刀した日本刀である。日本最古の刀剣古伝書である観智院本「銘尽」に、神代から当代(鎌倉末期)までの名人42人が掲載されており、そのうち8人が舞草鍛冶である。

舞草刀は、平安時代の朝廷と蝦夷(えみし)の戦をきっかけに奥州藤原氏の庇護を受け作刀された。東北に住む武士、京都の武士にも舞草刀は好まれ、各地に舞草派にまつわる逸話、伝承を残す。そして「直刀」から「湾刀」への変遷にかかわっていたと示唆されることから舞草派の鍛冶場跡は「日本刀発祥の地」としても有名である。

平泉を本拠として平安時代末期から南北朝時代まで活動していた鍛冶集団に「宝寿派」(ほうじゅは)があり、この一派の祖「文寿」(もんじゅ)は舞草派の流れを汲む刀工だと伝えられている。宝寿は文寿の子と伝わり、宝寿派当主は代々この名前を継いでいる。

太刀 銘 舞草。

鎌倉時代/13世紀。鎬造り。中切先、刃文は直刃、湾(のたれ)刃。地肌は板目肌。彫り物はなし。目釘穴1、茎は槌目。長さ72.8㎝、反り2.1㎝、元幅3.2㎝。

国名勝・厳美渓(げんびけい)。一関市厳美町字滝の上。

一関市博物館見学後、北西近くの国名勝・厳美渓(げんびけい)へ向かった。磐井川を渡る橋の中ほどから川の中央にある岩場に観光客が数人おり、厳美渓のエッセンスを確認した。駐車場を探すと300円の有料駐車場しかなかったので、一つ上流の長者滝橋へ向かい、路駐して見学した。

厳美渓は、磐井川中流の渓谷で、栗駒山(須川岳)を水源とする。全長2㎞で奇岩や怪岩に富む。

 

厳美渓見学後、西に進んで骨寺村荘園遺跡へ向かった。

岩手県平泉町 達谷窟 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター③大池伽藍跡 毛越寺


岩手県平泉町 達谷窟 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター③大池伽藍跡 毛越寺

2024年01月11日 13時32分58秒 | 岩手県

岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター。平泉町平泉字伽羅楽。

2023年6月15日(木)。

中尊寺。

中尊寺は、平泉の中心部北側の関山丘陵に位置する寺院である。奥州藤原氏初代清衡は、日本の北方領域における政治・行政上の拠点として平泉を造営するのに当たり、12世紀初頭から四半世紀をかけて、現世における仏国土(浄土)を表す中核の寺院として最初に中尊寺を造営した。

境内は、中尊寺及び支院群が位置する北丘陵と山林に覆われた南丘陵に二分できる。北丘陵には、東麓から尾根沿いに西の丘陵頂部に向かって月見坂と呼ぶ杉並木の表参道が延びる。丘陵頂部に近い開けた平坦地には本堂など一群の建造物が存在するほか、境内の地下には大池及び三重池などの園池跡や建物跡が埋蔵されている。

大池伽藍跡。

12世紀前半に「鎮護国家大伽藍一区」(『供養願文』)が建立されたとみられる区域には、「大池跡」と呼ぶ池の痕跡を示す地形が残されており、これまでの発掘調査によって西に仏堂が建ち、その東側の低地に石を用いて意匠した園池が広がっていることが判明した。特に「大池跡」は長径約120m、短径約70mの不正形円で、中央に中島を擁し、西側に仏堂を配置する浄土庭園の遺跡である。

大池伽藍跡は、清衡が、奥州における多くの戦で落命した全ての霊魂を敵味方の区別なく浄刹(浄土)へと導くとともに、自らの浄土への往生をも祈願し、現世における仏国土(浄土)の表現を目的として造営した浄土庭園の考古学的遺跡であると考えられる。

 

北上市立博物館

毛越寺。

平泉の中心部の南側に位置し、12世紀中頃に奥州藤原氏二代基衡が造営した寺院である。それは、平安京東郊の白河の地に天皇の御願寺として造営された法勝寺を模範とした可能性が高いとされている。また、毛越寺の地割の東端が金鶏山の山頂から南への延長線に合致することから、毛越寺の設計は金鶏山の位置と緊密な関係を持っていたことが知られる。

12世紀末期の毛越寺には、40にも及ぶ堂宇と500にものぼる禅坊が存在したとされている(『吾妻鏡』)。毛越寺の主要伽藍は、二代基衡が建造した円隆寺三代秀衡が建造した嘉勝寺などから成る。壮麗さにおいては国内で並ぶものがないと評された円隆寺は、北側に位置する塔山(標高121m)などの丘陵の区域を背景として建てられ(『吾妻鏡』)、堂内には平安京の仏師に製作を依頼して完成した薬師如来像が本尊として安置された。金堂の両側から東西に向かって回廊が延び、途中で南に折れ、その南端には経楼と鐘楼が建てられた。これらの堂宇の南側には大きな園池が広がり、堂宇の周辺を含めて主に薬師如来の仏国土(浄土)を表す浄土庭園が造成された。

円隆寺の西側には嘉勝寺、後方には講堂、東には常行堂・法華堂などの主要堂宇が建ち並んでいた。さらに、その南側には南大門が建ち、東西の大路に面していた。

1226年に円隆寺金堂が焼失し、1573年には南大門が焼失した。また1597年には常行堂・法華堂が焼失した。17世紀から19世紀半ばにかけては仙台藩主伊達氏の庇護の下に境内の状態が保護され、1732年には現存する常行堂が建立された。

現在の常行堂では、毎年1月に常行三昧の修法とともに重要無形民俗文化財に指定されている「毛越寺の延年」の舞が行われるなど、様々な宗教行事が活発に行われている。

毛越寺庭園。

毛越寺境内の仏堂の前面に設けられた「大泉が池」を中心とする庭園で、主に薬師如来の仏国土(浄土)を表現した独特の造形空間である。「大泉が池」は東西約190m×南北約60mの規模を持ち、洲浜・出島・立石・築山など多様な構成要素から成る。東岸には優美な海岸線の風情を漂わせる緩やかな曲線の洲浜が入江を形成するのをはじめ、南東岸には波が多く岩石の多い海岸である荒磯を表現して高さ約2mの立石を中心とする出島があり、南西岸には荒々しい岩肌が断崖の風情を漂わせる高さ4mの築山がある。北東岸の遣水を経て導き入れられた水は池中を東から西へと流れた後、池尻に当たる西南岸から境内外へと排水される。

緩やかに蛇行する遣水は長さ約80m、幅約1.5mあり、庭園における遣水の意匠・技術の全容を知る上で極めて貴重な遺構である。

この庭園の構成及び細部の意匠・技術は、11世紀後半の作庭技術書である『作庭記』に「自然を尊重し、自然に習う」と記された当時の作庭の理念、意匠・技術に正確に基づくものである。

「大泉が池」の中央には中島があり、その南と北には2基の木橋の遺構が発見された。また、園池の北岸では、儀式の際に幡などを立てたと推定される特殊な柱穴跡も5基並んで発見された。

南大門跡、中島、2基の橋の橋脚、幡などを立てたと推定される一群の柱穴跡、円隆寺金堂跡を結ぶ伽藍の中軸線は正しく南北方向に一致し、さらにその北側に当たる伽藍の背後には塔山が控えている。園池のみならず、仏堂の周囲を含め、伽藍全域の地表面が小さな礫で覆われ、朱塗柱に輝く仏堂や緑成す背後の塔山と小礫で覆われた園池との色彩的対比は、本尊である薬師如来の仏国土(浄瑠璃浄土)を想起させるのに十分であったに相違ない。

このように、毛越寺庭園は、左右対称形の翼廊を伴う仏堂の南側に園池を設け、仏堂背後の塔山と一体となって、主に薬師如来の仏国土(浄土)の表現を意図して造られた浄土庭園であり、12世紀の様相を完全な形で現在に伝える。

 

国史跡。達谷窟(たっこくのいわや)。岩手県平泉町平泉字北沢。

平泉の南西約6kmに位置する。延暦20年(801年)9世紀初頭に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝と仏の加護への祈願を込めて、京都の鞍馬寺から多聞天(毘沙門天)を勧請し、毘沙門堂を建立したのが始まりと伝えられている。1189年には、源頼朝が文治五年奥州合戦の帰路に参詣している(『吾妻鏡』)。

北上川の支流太田川を西にさかのぼると丘陵尾根があり、その先端部に現在の天台宗達谷西光寺がある。達谷西光寺境内の西側に、東西の長さ約150m、最大標高差およそ35mにおよぶ岩壁があり、その下方の岩屋に昭和36年(1961年)に再建された懸造の毘沙門堂がある。別当は達谷西光寺であるが、境内入口には鳥居が建てられており、神仏混淆の社寺となっている。

達谷窟付近の現在の道路は、太田川と丘陵とが接する地形的な制約により大きく屈曲しており、12世紀の日本の北方領域における南北幹線道であった「奥大道」と重なっているものと推測される。

達谷窟は、政治・行政上の拠点である平泉と周辺の地域とを結ぶ奥大道の沿線に位置し、交通の要衝を成す重要な寺院であった。

発掘調査の結果、達谷窟は12世紀後半に繁栄していたことが判明している。毘沙門堂の南側に位置する現在の蝦蟇が池は、往時には池中の中央に中島を擁し、玉石護岸を伴う園池であったことが判明しており、仏堂の前面に設けられた浄土庭園としての空間を構成していた。

窟に設けられた毘沙門堂は、12世紀以降、何度かの火災に遭いながらも再建を繰り返し、別当西光寺の管理の下に現在まで存続している。江戸時代以降の境内の様相については、現在に残る文書や絵図・木版画等によって知ることができる。

毘沙門堂の西方には、凝灰岩の岩壁に刻まれた大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏があり、現在もなお人々の厚い信仰を集めている。

 

このあと、道の駅「厳美渓」に隣接する一関市博物館へ向かった。

岩手県平泉町 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター②柳之御所遺跡出土品


岩手県平泉町 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター②柳之御所遺跡出土品

2024年01月10日 16時15分24秒 | 岩手県

岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター。平泉町平泉字伽羅楽。

2023年6月15日(木)。

 

柳之御所遺跡から出土した遺物の大半は12世紀のもので、その中には火舎・花瓶・輪宝などの密教儀礼に関わる仏具、小型の木製宝塔などの仏教関係の遺物を含む。その他、儀式などの宴会に用いられた10トン以上にも及ぶ膨大な量のかわらけをはじめ、中国産の白磁四耳壺及び青白磁皿の陶磁器類が出土しており、京都の貴族のみならず中国大陸との間に強い関係があったことを示している。

建築部材などの様々な木製品、内面に金が付着した片口鉢の破片なども出土している。これらの多彩な遺物は、柳之御所遺跡が平泉の政治・行政上の中核的機能を担い、交易・交流の結節点としての役割を持っていたことを示している。

岩手県平泉町 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター①柳之御所遺跡

 


岩手県平泉町 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター①柳之御所遺跡

2024年01月09日 13時07分27秒 | 岩手県

岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター。平泉町平泉字伽羅楽。

2023年6月15日(木)。

観自在王院跡を見学後、駐車した平泉町立平泉文化遺産センターへ10時30分ごろ戻り、見学した。撮影禁止なので展示内容の記憶はない。道の駅・柳之御所遺跡史跡公園に隣接する2021年11月開館の岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターに12時前に移動して見学した。奥州藤原氏の政庁跡とされる柳之御所遺跡の発掘調査の成果を主に展示紹介するとともに、世界遺産としての平泉を紹介するガイダンス施設である。

「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の顕著な普遍的価値

 平泉は、12世紀日本の中央政権の支配領域と本州北部、さらにはその北方の地域との活発な交易活動を基盤としつつ、本州北部の境界領域において、仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点である。それは、精神的支柱を成した寺院や政治・行政上の中核を成した居館などから成り、宗教を主軸とする独特の支配の形態として生み出された。

 特に、仏堂・浄土庭園をはじめとする一群の構成資産は、6~12世紀に中国大陸から日本列島の最東端へと伝わる過程で日本に固有の自然崇拝思想とも融合しつつ独特の性質を持つものへと展開を遂げた仏教、その中でも特に末法の世が近づくにつれて興隆した阿弥陀如来の極楽浄土信仰を中心とする浄土思想に基づき、現世における仏国土(浄土)の空間的な表現を目的として創造された独特の事例である。

 それらは、浄土思想を含む仏教の伝来・普及に伴い、寺院における建築・庭園の発展に重要な影響を与えた価値観の交流を示し、地上に現存するもののみならず地下に遺存する考古学的遺跡も含め、建築・庭園の分野における人類の歴史の重要な段階を示す傑出した類型でもある。

 さらに、そのような建築・庭園を創造する源泉となり、現世と来世に基づく死生観を育んだ浄土思想は、今日における平泉の宗教儀礼や民俗芸能にも確実に継承されている。

柳之御所遺跡は、奥州藤原氏の住居・政務の場であった居館の考古学的遺跡であり『吾妻鏡』に記す「平泉館」の跡とされている。居館は 11 世紀末期~12 世紀初頭に造営が開始され、12 世紀末期に奥州藤原氏が滅亡するとともに焼失した。

それは、為政者としての奥州藤原氏が仏教に基づく理想世界の実現を目指し、平泉の造営を進める上での重要な起点となっただけではなく、初代清衡が造営した中尊寺金色堂、三代秀衡が造営した無量光院など、仏国土(浄土)を空間的に表現する建築・庭園とも空間上の緊密な位置関係を持っていた。

柳之御所遺跡は、平泉中心部の東側を流れる北上川と西側の猫間が淵の低地に挟まれた標高22~30mの段丘の縁辺部に立地する。北西から南東の方向に細長い区画を成し、最大長約750m、最大幅約220m、総面積約11万㎡である。これまでに実施された計70回に及ぶ発掘調査により、奥州藤原氏四代の居館に関する豊富な情報が明らかとなった。

遺跡は、堀で囲まれた遺跡全体の約3分の2に相当する東南の区域と、堀の外側に展開する北西の区域に分かれる。

堀で囲まれた東南の区域では、道路状遺構・塀跡・掘立柱建物跡・竪穴建物跡・園池跡・井戸跡などの遺構が発見された。堀跡は幅約10m、深さ約2.5mで、全長が約500mにも及ぶ。東と南の堀では、道路状遺構に連続する橋脚跡が確認された。堀で囲まれた区域の内部には塀で囲まれた区画があり、区画内の北半部には建物群が、南半部には園池が、それぞれ設けられていた。

建物は掘立柱構造で、寺院で発見されている建物跡が礎石建の構造であるのと対照的である。園池の北側の区域には比較的規模の大きな建物が密に分布し、区画の中でも中心的な部分を成す。四面に庇を伴う大型建物の周辺には中小規模の建物が分布し、整然とした規格性が見られる。また、総柱で構成される建物は高床倉庫と推定され、平泉館の焼亡時に倉のみが焼け残り、その内部に犀角、象牙の笛、水牛角、紺瑠璃の笏などの舶載品が唐木製の厨子に納められていたと記す『吾妻鏡』の記述との関連性がうかがえる。

堀に囲まれた区域の外側に当たる北西の区域では、西の中尊寺金色堂の方向に向かって伸びる幅約7mの道路の跡が発見されており、「金色堂の正面方向に平泉館がある」とする『吾妻鏡』の記述とも合致する。道路を挟んだ両側の地域には、方形の区画が並んで展開していることが確認されており、堀に囲まれた区域とも密接に関連する一族の屋敷地跡と推定されている。

奥州藤原氏の政庁のうち三代秀衡の頃の「平泉館」の復元ジオラマにより、奥州藤原氏の政庁・居館として、建物や広場、池などが造られていた当時の姿を再現している。

岩手県平泉町 世界遺産・観自在王院跡