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都知事選 石丸氏 選対本部長は萩生田光一議員主宰TOKYO自民党政経塾の小田全宏塾長代行

2024年07月06日 17時02分34秒 | 社会

都知事選 石丸氏 選対本部長は自民系

2024年7月5日(金) しんぶん赤旗

 東京都知事選(7月7日投開票)に立候補している前安芸高田市長の石丸伸二氏。4日の新宿区四谷の街頭演説では、平日の昼間にもかかわらず、若者からお年寄り、子連れ、会社員が次々に足を止めるなど、熱気が増しています。

 石丸氏は、「政治屋の一掃」などと豪語しますが、「裏金議員」の一人である自民党の萩生田光一衆院議員が主宰するTOKYO自民党政経塾の小田全宏塾長代行が、石丸氏の選対本部長を務めています。

 市長時代には市議や記者に対し「恥を知れ」「偏向報道」といった攻撃的な言葉を多用し、動画の再生回数を稼ぎました。市議らへの嫌がらせも起きており、議会の一般質問は減っています。

 石丸氏の虚偽の発言で名誉を傷つけられたとして市議が、同氏や市に対し損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決は、市に賠償の支払いを命じた一審判決を支持しています。

 都知事選の大きな争点となっている神宮外苑の再開発。都の規制緩和が無ければできなかった事業にもかかわらず、石丸氏は「民間事業の開発」だと発言。都も緑の体積は減ると答弁していますが、石丸氏は「緑の量は減らない、むしろ増える」と主張しています。

 再開発の見直しを求める署名は23万人を超えています。それらに向き合い、住民の声を真摯(しんし)に聞こうと蓮舫氏が掲げた「都民投票」を、石丸氏は維新の「都」構想の住民投票と並べ、「金がかかる」と批判しています。

自民党都議 石丸伸二氏の選対本部長務めた党関係者に「絶句した」「けじめをつけるべき」

「パワハラ臭ぷんぷん」石丸伸二氏 ラジオ番組での対応が“高圧的”と批判続出


福島県磐梯町 国史跡・慧日寺跡 慧日寺資料館 徳一 名水百選・龍ヶ沢湧水

2024年07月06日 16時29分28秒 | 福島県

磐梯山慧日寺資料館。福島県磐梯町磐梯寺西。

2024年5月29日(水)

猪苗代町の猪苗代城跡を見学後、国史跡・慧日寺(えにちじ)跡へ向かい、駐車場に9時頃に着いた。慧日寺資料館は9時開館である。

資料館が視界に入らず困惑しながら歩道を進むと、樹木や池に囲まれた資料館が見えてきた。入館すると、受付の女性が私は名古屋出身ですと話しかけてきて、ここはどうして知りましたかと尋ねてきた。慧日寺は、山川出版社の福島県の歴史で知ったが、一般的には無名だ。写真撮影は禁止なので、5分ほど歩いて復元された史跡公園へ向かう。

慧日寺平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一(とくいつ)(8世紀半ば~9世紀前半)によって開かれた。徳一はもともと南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。慧日寺は、民間信仰、ことに山岳信仰と密接な関係をもち、磐梯山を奥院として成立したものと考えられる。

また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどした。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与が跡を継いだ。この頃の慧日寺は会津一円を支配し、僧兵集団を保持し、封建領主としての権力をそなえており、寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。

「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、平将門の最後の合戦の時に、三女が恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称して留まり、将門の死後33年目に郷里(茨城県坂東市)に帰ったと伝わる。

平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。

平安末期から鎌倉時代にかけてのころ、密教化-修験化の方向をたどり、鎌倉末期から室町時代にかけて磐梯修験と強力な結びつきをもったと思われる。領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。

しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、隣地に「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。

国史跡・慧日寺跡。

慧日寺の遺構は「本寺地区」「戒壇地区」「観音寺地区」の三カ所に残されている。

「本寺地区」は慧日寺の中心伽藍があった場所で、発掘調査によって、創建当初は中門、金堂、講堂、食堂と推定される主要な建物が南北一列に建立されたことが判明している。

現在、中心伽藍跡は史跡公園として整備されており、2008年(平成20年)には金堂が、翌2009年(平成21年)には中門が復元された。さらに金堂内に復元された薬師如来坐像が2018年(平成30年)7月30日に公開された。

復元地域には右横上にある受付施設から入場する。

会津へ伝わった仏教は、平安初期、奈良の東大寺や興福寺で学んだ僧・徳一が、山の神、磐梯明神を守護神として会津磐梯山の麓に開いた慧日寺によって会津一帯に広められた。慧日寺は、自然崇拝を素地とする会津の磐梯山信仰を受け継ぎ、仏教的に組み替えることで会津の信仰の中心となった。さらに徳一は会津五薬師ほか多くの寺院を開いて、人々の素朴な信仰を仏教、薬師・観音信仰に取り込んでいった。こうしたことにより会津は、今も勝常寺の薬師如来坐像をはじめとする平安初期から中世、近世の仏像や寺院が多く残り、東北地方でいち早く仏教文化が花開いた地として「仏都会津」と呼ばれる。

樹齢800年を数えるエドヒガンザクラ「木ざし桜」。平安末期ごろ、慧日寺の宗徒頭・乗丹坊が挿した桜の杖がこの木になったという伝承が残る。種まき桜ともいわれ、この桜の花が咲き始めると田畑作業を始める目安とされていた。

中心伽藍の北には徳一廟が残されている。徳一廟の内部には平安時代に建立されたと推定される五輪塔があり、徳一の墓と伝えられている。

五重の石塔は、高さ2.95m、屋根と上重軸部が一石になっていて、屋根は錣葺(しころぶき)形に造られ、軒先には風鐸をつり下げた痕がある。石塔は風雨にさらされ、戦後の大雪で倒壊した際に二重目の塔身に納められた土師器の甕が発見された。昭和54年~57年にかけて保存修理を行い現在の覆堂を設けたさい、石塔の下から経石131個が出土した。経石は江戸時代末期のもので、真言宗の尊師や父母兄弟の供養のため書写され、埋納されたものと考えられる。

慧日寺周辺の住民は石塔を削り、薬として服用したこともあったので、軸部などが細くなってしまっている。この風習は慧日寺の本尊、薬師如来信仰によるものと思われる。

日本名水百選「磐梯西山麓湧水群」の代表的な湧水池である龍ヶ沢湧水が資料館前まで引水されており、水汲みに訪れる人も多い。

 

三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)は、平安時代初期の弘仁8年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

法相宗の五性各別論では、衆生が本来そなえている仏教を信じ理解し実践する宗教的能力を五つに分類する。①定性声聞(声聞定姓)は、声聞の覚りである阿羅漢果を得ることが決まっているもの。②定性縁覚(独覚定姓)は、縁覚の覚りである辟支仏果が得られると決まっているもの。③定性菩薩(菩薩定姓)は、菩薩の覚りである仏果が得られると決まっているもの。④不定性(不定種性、三乗不定姓)は、以上の三乗の修行とその結果が定まっていないもの⑤無性(無種性、無姓有情)は、覚りの果を得ることができないもの。これらのうち、成仏すなわち仏果が得られるのは③④のみとなる。

 

このあと、会津若松市の会津大塚山古墳へ向かった。

福島県猪苗代町 猪苗代城跡 三浦一族・猪苗代氏累代の城


釧路市立博物館②縄文晩期 幣舞(ぬさまい)式土器 緑ヶ岡式土器 続縄文・擦文時代

2024年07月06日 11時28分17秒 | 北海道

釧路市立博物館。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

大洞C2式土器。縄文時代晩期中葉の土器。

大洞式土器は昭和12年、故山内清男氏が岩手県大洞貝塚などの調査成果をもとに、従来の亀ヶ岡式土器を整理改称したもので、B、BC、C1、C2、A、A’式の6型式に細分される。胴部にLR縄文地に「工字文」が描かれるものが多い。

大洞系土器は東海、近畿地方はもとより、近年では九州、中国、四国地方でも出土が目立っている。

北海道においては、第Ⅰ期(大洞B・BC式土器期)が北海道渡島半島の西南端と石狩勇払低地帯付近に存在し、第Ⅱ期(大洞C1式土器期)は奥地へ進出して小樽市郊外の余市町から石狩低地帯の東側を通って苫小牧を結ぶ線まで、第Ⅲ期(大洞C2式土器期)は、小樽市から南の室蘭市を結ぶ線まで達し、第Ⅳ期(大洞A式土器期)は、遠く宗谷岬の稚内市大岬オニキリベツから、東は釧路市の緑ヶ岡遺跡になるとされている。

道東北部では、栗沢式など縄文時代後期末ないし晩期初頭に至る土器のあと、大規模な遺跡が出現しないまま晩期終末をむかえるが、ここに至って、ふたたび中期以来の土着土器の隆盛期をむかえることになる。幣舞(ぬさまい)式土器とその流れをくむ緑ヶ岡式土器である。

幣舞(ぬさまい)式土器。

幣舞式土器は、縄文時代晩期後半の道東部を中心に拡がる在地色の強い土器である。釧路市南大通三丁目の幣舞遺跡から出土した土器をもとに設定された。

幣舞遺跡は、釧路川の河口を見おろす高台にあったため、早くから官庁街として開け、昭和三十七年の釧路市立郷土博物館による部分的な調査が行われただけで、大部分が破壊されて消滅した。昭和四十三年に付近の道路工事中に矢柄研磨器と日ノ浜式の精製壷を伴う晩期の墓壙が発見されたことから、墓地遺跡であったことが想定できる。

幣舞式土器は丸底の器形が特徴で、多種の器形で構成されることである。深鉢を主体として、浅鉢、壷形、舟形、片口、皿形の注口、双口土器などがある。特に深鉢の大形品が多いが、実用品とは考えられない小形品もしばしば見られる。底部は丸底や丸底気味の不安定なものが多い。

文様は縄文が多用されるが特に深鉢、浅鉢など日常の煮沸用土器に多い。普通は縄文の地文の上に、沈線文、縄線文、撚糸文などが施される。舟形土器は、縄文を地文とし、太めあるいは細めの沈線文を配し全面を真赤にベニガラを塗布したものも多い。

深鉢や壷形土器の口頸部には、沈線文や撚糸文が段状に施されることが多い。また、胴部まで縦にくねくねと鋸歯状(のこぎりばじょう)に施文された例がしばしば見られ、この型式の特徴の一つとなっている。

幣舞式土器には道南部の日ノ浜式の精製朱塗り壷形土器が伴出することがしばしば知られている。幣舞遺跡では完形壷形土器一個と数個体分の破片が出土している。

舟形土器は舳先に相当する部分が片方しか残っていないものの、舟のような形に復元される。こうした変わった形の土器は、墓への供え物など特殊な用途に使われたらしい。

幣舞式土器に伴う石器には、石鏃、石槍、靴形石匙(ナイフ)、搔器、削器、磨製石斧、矢柄研磨器などがある。特徴的な石器としては、黒曜石や玉隋などから作った靴形石器がある。

靴形石器はエスキモーが近年まで陸獣や海獣の解体処理に使用した石器に類似し、千島列島、アリューシャン、カムチャツカ方面の遺跡からも出土するところから、この方面から道東北部に伝播してきたものと考えられる。また、釧路市貝塚町一丁目の晩期の土壙墓から、被葬者の頭蓋骨下数センチメートルのベンガラ中よりソラ豆大の鉄片が出土している。このことから、道東部の縄文時代晩期には、すでに金属器の使用される時代に入っていたことを示している。

緑ヶ岡式土器。

緑ヶ岡式土器は、器形はヌサマイ式のそれを踏襲しているが、亀ヶ岡系の土器を伴わない。壷形土器や深鉢形土器の口縁部に工字文くずれの沈線文、縄線文などがあらわれ、舟形土器はヌサマイ式よりも薄手となり、胴部に無文帯をもつなどのちがいがある。また貝殻腹縁文や条痕文、撚糸文の施文をされるものもある。緑ヶ岡遺跡や幣舞遺跡の発掘で、ヌサマイ式の上層から緑ヶ岡式土器が出土しているので、ヌサマイ式に後続し、その新しい部分は続縄文時代に入るとみたほうが妥当である。(新札幌市史 第1巻 通史1)

緑ヶ岡遺跡は、釧路川河口から3km上流の左岸台地の段丘端、標高20mのところにあり、縄文時代晩期の墓地遺跡で、緑ヶ岡式土器の標式遺跡である。

1963年の調査では縄文時代晩期の墓が33基発掘された。うち1号基は直径2.25mもある大きな墓で、壁近くにしゃがんだ姿勢で8人の遺体が合葬されていた。

8体合葬の墓には、在地の幣舞式土器とともに、道南の日ノ浜式土器の壷などが出て注目された。他の墓からは、イノシシの下顎骨、コハク玉、貝玉などが出土した。別な墓では漆塗り櫛を頭部につけたままの状態のものもあった。道南部から移入された亀ヶ岡式土器も出土している。

亀ヶ岡式土器の終末は、青森県など東北地方で大洞A、A′式や砂沢式とよはれている形式である。北海道の南部や東北地方では、この土器形式が縄文土器の中で最も新しいものとなる。

この形式の前までは大洞C2式のように東北地方や北海道南部で同じ形式の土器が分布するが、この終末期になると工字文や山形の沈線文という共通する文様がありながら、地域的傾向を帯びるようになり、岩手県、青森県、函館周辺、尻岸内などではそれぞれの地域で特色を帯びるようになる。

昭和26年に市立函館博物館が七飯町の武佐川遺跡を調査したが、その上層から大洞A′式の浅鉢形土器が出土し、そのすぐ下から工字文と変形工字文のある土器群が出土した。これは大洞A式、砂沢式とは異なるもので、その後これと類似の土器群が尻岸内町(現函館市、旧恵山町)日ノ浜遺跡から出土して、日ノ浜式と呼ばれるようになった。(函館市史)

続縄文時代。

北海道の約2000年前から1300年前の時代を続縄文時代とよぶ。当時は自然の食糧に恵まれていたことや、寒冷な気候のために米作りが広まらなかったこともあり、縄文時代と同じ生活が続いた。

釧路地方ではサハリンやカムチャツカ半島、千島列島などから海の生きものを取る生活を中心とする文化の影響を受け、海岸大地に多くの集落が作られている。

この時代の後半になると河川に沿って、内陸へも生活の場を広げ、動物や魚、木の実などを取ってきて、食料にする暮らしが続いた。この時代の終わり頃には旧石器時代から使われてきた石器は姿を消し、次第に鉄製品に変わっていった。

この時代は土器形式から次の3種に代表される文化に編年される。すなわち恵山(えさん)式文化、江別式文化、後述する北大式文化である。それらは細分化される形式で、続縄文の前期を恵山式、中期を江別式、後期を北大式に時代区分すると、恵山式は弥生時代中期に、江別式は古墳時代中期に、北大式は古墳時代後期後半に比定される。

続縄文文化の初めのころは、北海道の南西部と北東部は異なる文化が広がっていた。

南西部には、道南の恵山(函館市)から名付けられた「恵山式土器」を用いた人々がいて、「恵山文化」と呼ばれている。恵山文化には多くの貝塚が残されており、釣り針やモリなどがたくさん見つかっている。このことから海の生業に依存していた文化だったと考えられる。また有珠モシリ遺跡から南海産のイモガイ製貝輪が発見されるなど、南の本州との交流があったことがわかっている。

また北東部では道南と異なる土器が使われ、副葬品として「コハク玉」が用いられた。芦別市の滝里安井遺跡からは約4000個の道内最大のコハクの首飾りが見つかっている。道北部のコハクにはサハリン産とされるものも見られ、北方との交流があったと考えられている。

続縄文文化後半には、北海道全域に「後北式土器」が広がり、この土器はさらに、東北地方や新潟県にまで広がった。このころは東北地方北部にも、続縄文文化が広がったと考えられる。

続縄文時代。深鉢。

左、興津式(おこつしき)土器。釧路市三津浦遺跡。

右、興津式土器。興津遺跡。口縁部に縄の刻みを施した山形突起が一対配される。文様は隆線、縄線文、刺突文からなる。山形突起の下には円孔をもつボタン様の貼付けがある。隆線はその両側と山形突起の無い位置にも一対ある。

興津式土器続縄文時代前半の土器。胴部が張り出して湾曲し、口縁部がくびれて外反する器形が多い。沈線文の消失、横走する帯縄文、口縁部下のボタン状突起、垂下する貼付文などの特徴がある。

道東部太平洋岸、根釧原野、知床半島南岸の地域を中心に分布する。下田ノ沢1式土器に先行する。

中奥。深鉢。下田ノ沢1式土器。釧路市三津浦遺跡。

下田ノ沢式土器。厚岸町内の下田ノ沢遺跡で発掘された続縄文時代(紀元前3世紀~紀元7世紀)の土器。この土器は「下田ノ沢式土器」といい、縄を転がして付ける縄文のほか、縄を押し付けたり(側面圧痕)、粘土紐を貼り付けたり(貼付文)、棒状の工具で内側から突く(突瘤文)という手法で作られていた。下田ノ沢I式土器は興津式から変遷し、突瘤文が特徴である。下田ノ沢II式土器は2本1単位の縄線文が特徴である。

下田ノ沢I式土器は、続縄文時代前期、下田ノ沢II式土器は続縄文時代中期(紀元前1~紀元1世紀頃)に相当する。

擦文時代。

北海道では約1300年前から700年前を擦文時代と呼び、現在とほぼ同じ自然環境のもと、動物や魚、木の実などを取って暮らしていた。

釧路川の河口近くから川筋に沿って、集落ができ、今も竪穴住居のあとが残されている。この時代は土器や鉄製品、機織りの技術、かまどをもつ竪穴住居など、本州文化の強い影響を受けている。

擦文土器には深鉢と高坏(たかつき)がある。擦文の名称は土器表面を整えるために木片が用いられ、すった木目あとが残されたことによる。木片で文様が刻まれ、縄文時代から使われてきた、縄目の文様は姿を消す。

深鉢。擦文時代。釧路市内遺跡。

湖州鏡。

中国、南宋の時代に浙江(せっこう)省湖州地方で作られた鏡で市内材木町の擦文時代の竪穴住居跡から出土した。

湖州鏡には円形、四角形などの様々な形があり、この鏡は四角形である。鏡の背面にいくつかの文字が刻まれているが、「こしゅうしん」という文字が読み取れる。

同じような鏡は東北から近畿地方の日本海側にかけて分布しており、展示している鏡と同様の銘を持つ四角形の鏡は山形県羽黒山の出羽三山神社前にある鏡池からまとまって見つかっている

北海道ではこれまで発掘された例がなく、たいへん貴重な出土品である。この鏡は擦文時代終わりに近い12世紀から13世紀頃のものと思われる。

釧路市立博物館①埋蔵文化財調査センター 釧路炭田 縄文土器 東釧路式土器 


「劇場型政治家」小池百合子の限界...頼れる誰かに擦り寄る力と「丸のみ」にした3つの政策

2024年07月06日 09時15分04秒 | 社会

「劇場型政治家」小池百合子の限界...頼れる誰かに擦り寄る力と「丸のみ」にした3つの政策

yahoo news 2024/7/5(金)  ニューズウィーク日本版 【広野真嗣(ノンフィクション作家)】

7月7日に迫る都知事選、3選にひそむ落とし穴。大衆の敵を作り出し、ワンフレーズで局面を変える...小池劇場の終わりの始まり

「こんなひどいの、初めて」──。街宣車の屋根から降りてきた現職の東京都知事、小池百合子が車椅子の男の耳元に曇った顔を近づけてそう言った。それは今、与野党対決の構図で行われている知事選の2カ月前、4月の衆議院東京15区(江東区)補選でのことだ。

耳打ちされた男は、この補選に挑んだ作家で政治団体「ファーストの会」副代表の乙武洋匡である。

乙武と小池という組み合わせは、この補選で誕生した新しいコンビだ。片や乙武は、『五体不満足』が累計発行部数600万部という記録を打ち立てたベストセラー作家で、元都教育委員でもある。

小池は、乙武を擁立した地域政党「都民ファーストの会」(都民ファ)の特別顧問。昨年、豊島区長選や江東区長選で小池カラーの候補を当選させ、都知事選も優勢は揺るがない。

鬼に金棒の乙武だったが、ふたを開けてみれば、1万9655票の5位に沈んだ。冒頭の街頭演説で2人を苦しめていたのは、醜悪な選挙妨害パフォーマンスをネット発信する「つばさの党」(代表・黒川敦彦)だ。

小池が都知事3選への出馬表明をした6月12日、私は乙武自身にインタビューの機会を得て、何が起きていたかを聞いた。

「過去2人の逮捕者を出し注目の選挙区となったせいか、1人の枠に対して立候補者が異例の9人にも上った。このことに有権者には〈選挙区をおもちゃにするな〉という憤りがあったと思います」

つばさの大音量の罵声によって演説が聴衆の耳に届かないばかりか、その場にいる者に激しい嫌悪感をもたらした、と乙武が続ける。

「つばさの敵対対象の一番手が私で、政治的に大きな看板を背負う小池さんも加わって騒ぎは大きくなった。そのことで、(こちらは)被害者なのに〈荒らしに来た側〉というカテゴリーに見なされた面はあるかと思います」。それでも、小池の力強さを改めて痛感したというのである。

「妨害を避けて連日、選挙カーに乗って1日3時間も区内を回るんですが、歩道からこちらに目を向けた人が小池さんに気付いたとき、とりわけ中高年女性からは『会えてうれしい』という反応が返ってきた」

【「ハイ、水分補給」】

乙武と小池の最初の接点は、昨年8月にスタートした都民ファの政治塾「ファースト政経塾」だった。ゲスト講師として乙武を2度招き、今年2月に出馬を打診している。

「かつては豊洲市場移転の見直しのやり方など、有権者としてはあまり小池さんを評価できませんでした。しかし、この2年ほどの都の政策を見ているうち、アレ?と思うことが増えた」と乙武は語る。

世論が求めているものに敏感な政治家

例えば2022年、都は性的少数者のカップルを対象とするパートナーシップ宣誓制度を開始。23年には、妊娠・出産を望みつつ仕事など環境が整わない女性のための卵子凍結の助成制度も導入した。

「さらに小池さんに近い(衆院議員の)野田聖子さんや都民ファの都議たちからも話を聞いていて、小池さんは女性やマイノリティーへの思いがある人なんだ、本人はあまり語らないけれど、その思いは本当だなと感じるようになったんです」(乙武)

今年3月、乙武擁立を発表した際、小池は、「インクルーシブな社会を体現する人物」と起用理由を述べて乙武を感動させている。その上、距離の縮め方にも小池流があった。

「連日長時間、一緒に選挙カーに乗っていると、車椅子に備えた水筒を取って『ハイ、水分補給』と口元で持ってくれたり、チョコやのどアメを口に放り込んでくれたり。そんな一面があって、意外だったんです」

世話焼きは選挙後も続き、つばさへのストレスから不眠症に悩まされていた乙武に、5日間にわたって毎日、体を気遣う電話をよこしたというのだ。

正直、私は驚いた。と同時に、小池はそこまで乙武という新しい力に執着していたのかとも感じた。

小池は世論が求めているものに敏感な政治家だ。小泉純一郎内閣の環境相在任中の05年、クールビズの旗振り役を務めたが、小泉が郵政解散を打つやいなや反対派への刺客に名乗り出て脚光を浴び、同時に小泉に自分を売り込んでみせた。

環境意識や改革への期待の高まりといった新しい潮流を取り込みながら権力の階段を上り、その都度、「頼りになる誰か」を見つける嗅覚は天才的といえる。

その誰かとは、1990年代は細川護熙や小沢一郎であり、2000年代は小泉だ。

2007年の第1次安倍内閣では女性初の防衛大臣に抜擢された KOICHI KAMOSHIDA/GETTY IMAGES

最長政権を築いた安倍晋三は小池を苦手としたが、その小池についてはこう言い表した。

〈小池さんはいい人ですよ。いい人だし、人たらしでもある。相手に勢いがある時は、近づいてくるのです。2016年に知事に就任した当初は、私の背中をさすりながら話しかけてきて、次の衆院選では自民党の応援に行きますからね、とまで言っていたのです。

しかし、相手を倒せると思った時は、パッとやってきて、横っ腹を刺すんです〉(『安倍晋三 回顧録』)

安倍をさすった1年後の都議選で都民ファを率いた小池は圧勝し、自民党は歴史的大敗を喫した。その余勢を駆った小池は国政政党・希望の党を立ち上げ、あわや政権交代か、という局面を創出してみせた。

小池の力の源泉は何なのか

その後は鳴りを潜めたが、コロナ禍を経て、仇敵・自民党都連会長の萩生田光一に頼られるほどの存在感を放ちつつ、知事3選をうかがう位置にいる。この小池の力の源泉は何なのか。今、どんな新しい価値を取り込もうとしているのか。そして、足場とする都庁で何が起きているのだろうか。

【トランプそっくり】

小池の発信には独特のスタイルがある。「ブラックボックス」や「チルドレンファースト」など、横文字交じりのもっともらしい言葉選びで人々の意表を突き、時に「人民の敵はあいつだ」とばかりに敵を名指しして喝采を浴びようとする。

2期目の任期中、都民の健康や生命を脅かす新型コロナの現場指揮官としてすら、そうだった。

例えば初期最大の危機だった21年正月早々、小池が、埼玉、神奈川、千葉の3県知事と連れ立って内閣府にコロナ対策担当相の西村康稔を訪ねた「事件」をご記憶だろうか。やおら緊急事態宣言の発出を求め、拒む政府を押し切って新年のお茶の間をアッと言わせた。

ただ本来、追及を受ける立場にあったのは小池だ。大みそかには都内で約1300人という過去最大の感染者数を記録し、重症者も急増して全国に不安が広がっていた。小池はその一瞬を捉えたのだが、直前まで対応を迫られていたのは小池その人だった。

さかのぼれば20年秋から感染が拡大するなか、慌てた国の専門家が11月20日、GoToトラベルの停止などを求める提言を発表大阪府や北海道の知事は一部停止に応じたのに対し、観光客の最大の供給地である東京都の小池は無反応だった。

国民に嫌がられる対応には手を出さないのが小池流都合が悪いと記者に質問をさせないのも常套手段だった。たまたま同じ日に行われた定例会見は実に異様で、40分ほどの枠の半分以上を、小池自身が都の事業発表を読み上げることでつぶすのだ。いずれも目の前の危機とは関係ない、資料を配れば済む話なのに。

クラブ所属の記者でもさすがにたまらずGoToをやめないのかと聞くと、小池は「国が責任を持ってやっておられると考えております。それを徹底していただきたい」。こうして対応はずるずると遅れていった。

先送りの責任が問われる窮地にあったはずが、正月に一転、動きの遅い政府を動かす救世主であるかのように登場して、攻守を切り替えることに成功。悪者は緊急事態宣言に消極的な首相の菅義偉だ、という構図に塗り替えてしまった。

発信の材料に変える瞬発力

人々の不安や不満のくすぶりを感じ取るや、たちまち発信の材料に変える瞬発力。これこそが小池の真骨頂である。

ちなみに、この21年正月の世界的な大ニュースといえば、1000人以上のドナルド・トランプ米大統領(当時)の支持者が米連邦議会議事堂を襲撃した事件だ。暴力的な混乱で選挙結果を覆そうとするなど正気の沙汰ではないが、これまでもトランプは自国凋落への不安をあおり、支持を調達してきた。

人々の不安を糾合して政治の中枢に要求を突き付ける構図に着目すると、日米の2人のポピュリストが実によく似ていることに気付かされる。

注目される小池の発信は、「行き当たりばったり」であることも少なくない。それが逆風を食らうこともあるが、むしろその逆風に向き合ってから見せた「もう1つの力」に触れておきたい。

音楽ならば音符でなく休符のように、沈黙が効果を持つことがある。発信する力を持つ小池が、沈黙する力についてである。

「排除します」──。

17年9月、近づく解散総選挙に向けて、希望の党への合流を希望する民進党系の立候補予定者について、小池が安全保障観を軸に選別する、という趣旨で発言したこの一言が、世論の反感を呼んだ

小池への期待は、一転、急激に収縮。そして希望の党は選挙で惨敗を喫することになる。

「沈黙する力」でカムバック

小池はこの自爆で、国政で再び勇躍する最大のチャンスを逸した。当時、小池に接した都庁幹部は、「失意で倒れるんじゃないかと思った」と語った。落胆のせいか、その後、小池は静かになった。強烈な発信も控えた。

そして驚くべきことに、その沈黙はその後の丸2年余り、コロナの流行前まで続いたのである。

朝日新聞の1面記事を16年7月からめくってみると、最初の1年は、小池の報酬半減の方針、豊洲移転や東京五輪の会場の見直しに関する発信や報告が毎月、時には毎週のように1面を飾っている。

これに対して総選挙の17年10月以降コロナまでは、選挙総括や党首交代のニュースを除けば、小池による「攻めの発信」が1面を飾ったことは一度もない。

見逃せないのは、それで政治力がついえるかと思いきや、事実は逆だったことだ。

確かに17年4月に74%あった支持率は、騒動後の18年7月は49%にまで落ち込んだ(いずれも朝日新聞)。しかし、20年初めからのコロナ禍で人々の不安が膨らむのを感じ取り、持ち前の発信力に再び火を入れた。

迎えた7月の都知事選では、歴代2位の366万票という圧倒的な得票を得て再選。21年6月の支持率は57%にまで回復している。

金の問題が出ないのが一番の強み

復活の下地には「何もしないと支持率が上がる」という都政らしい現象も重なっている。

都庁は道路や公園の整備・管理から福祉に至るまで26もの局を持ち、16兆円もの予算を動かす巨大官庁だ。しかもインフラや五輪のようなイベントを除けば、多くは地味な実務の塊で、人々と直接対面する市区町村を財源や事務でサポートする仕事も少なくない。

新聞には都政などを報じる「都民版」のページがあるが、16兆円に対して各紙とも1ページのみ。一般的な感覚として都民が見ているのは国政であって都政ではないからだ。

国政ならば新聞の1面や政治面は当然のこと、国際面や経済面でも政策が扱われる。また、他の道府県の地方紙なら県政が日常的に1面、2面に上る。そのいずれと比べても、都政の報道量は規模のわりに少ない(ウェブの記事量もおおむねこれに比例する)。

「大過なければまあいいや」という都民の感覚を反映しているのだ。その証拠に、多額の血税で新銀行東京の累積赤字を補塡した石原都政でさえ、決定当時の08年3月に47%に下がった支持率が、翌年には52%に回復したのである。

以下は私の仮説だが、17年の騒動以降、知事の座からの転落の危機を感じた小池は必死にサバイバルの道を考え、「危ない橋は渡らない、黙っていよう」と肚(はら)を決めたのではないか。強みを捨てる、難しい判断だ。

仮説を補うように、ある元都庁幹部からは「われわれ職員との会食でも小池知事は全部割り勘ですよ。金の問題が出ないのが小池さんの一番の強み」という証言を聞いた。

高額な交際費支出で批判を浴びた石原慎太郎の反省に立ったのだろうが、何かが変だ。政治家の強みがダメージコントロール? 政策への情熱ではないのか? そう、小池は守り。もはや攻めていなかった。

考えてみると、コロナで実務を主導しないのも、質問つぶしの記者会見も、発信でなく沈黙、積極的な選択というよりは消極的な選択だ。

いずれも、「そうすることでひんしゅくを買うことがあるかもしれないが、致命傷にはならない」という計算が働いている。あえて隠蔽しなくても不都合な真実が隠れやすい都政の「地の利」を最大限に生かす。それが小池の得意技になっている。

【「擦り寄る力」と3つの政策】

こうした振る舞い一つを見ても、小池の2期8年は盤石でも安泰でもなかった。もちろん知事は4年の任期中は辞めさせられないが、議会に与党を形成できなければ予算も通せない。与党から首相が出る議院内閣制とは、そこが異なる。

丸のみしてきた3つの政策

自ら特別顧問として率いた都民ファでは過半数に届かず、復権していく自民党都連との関係修復もままならない。だからその都度、権力固めに協力してくれる「誰か」を求め、その誰かを取り込むため、彼らが望む政策を丸のみしてきた。

ここで3つの政策を示したい。

第1の政策は、初期の小池都政が力を入れ、18年に成立させた都受動喫煙防止条例だ。条例が施行されたのは20年4月。飲食店でも従業員を雇っていれば原則禁煙という、国の法律に上乗せした規制だ。小池とタッグを組んでこれを強力に推進したのは、2万人の医師が加盟する都医師会(尾崎治夫会長)だった。

開業医の利益団体である医師会は伝統的に自民党に近い。だが、小池の都民ファが議会で多数を握れるか否か最初の分水嶺だった17年の都議選に際し、いまだ自民党につくか小池につくかと各種の業界団体が戸惑うなか、いち早く小池支持に回った。

「借り」ができた相手には無理を言えないのだ、と感じたのは後のコロナ禍だ。小池は、都医師会と対峙することには消極的だった。

21年7月の第5波では再び医療崩壊が起き、病床確保に協力しない民間病院に対して都民から怨嗟の声が上がった。改正感染症法では、知事は病院に病床確保の協力要請ができた。正当な理由なく拒めば、勧告し、従わなければ医療機関名を公表する制裁措置もできた。

ところが、あれだけ世論に敏感な小池なのに、協力要請を出したのは感染の勢いが鈍化し始めた8月23日になってから。悪目立ちしないよう、わざわざ厚労省に赴き、「都は国と一緒に要請した」という形を取った。

その日のぶら下がり会見はわずか12分間で、医師の「コロナ診療をやらない自由」と戦うポーズは取らなかった。かつて小池は都議と都庁の「なれ合い」を批判したが、小池は自らの権力を支える勢力とはなれ合っていた。

【「わが世の春」の公明党】

第2の政策は、小池が2期目の「レガシー」に掲げる、「高校授業料完全無償化」だ。

小池都政2年目の17年、国の制度に先行する形で世帯年収760万円未満を対象に私立高の無償化をスタートさせ、20年に910万円未満まで枠を拡大。今年4月に全ての所得制限を撤廃している。

この政策は、もとは都議会公明党の主張だ。これを丸のみすることに都庁内では反対論が強かったが、小池が押し切った。

16年の知事選は自民党と共に敵対候補を支援した公明党だが、その年の12月に自民党と「連立解消」を宣言し、「小池都政とは是々非々」という立場を鮮明にする。

公明党の存在感とバラマキ

公明党は従来から、支持母体である宗教法人・創価学会(本部・新宿区)のお膝元である東京都では、与党であることにこだわってきた。さらに新人が多い都民ファに代わって、議会運営の経験を持つ公明党の存在感は年を追うごとに大きくなった。

そして際限のないバラマキを主導するようになったのだ。

自民党と小池の関係が修復する少し前、ある都議会公明党幹部は小池批判に血道を上げる自民党都議のことを「軍鶏(しゃも)のけんかみたい」と嘲笑する一方、政策を丸のみしていく小池のことは「やりたいことなんてないんじゃない? 知事になりたかっただけの人だから」と語っていた。

腰を低くするほかない小池を前に、公明党はわが世の春を謳歌していた

ちなみに、所得制限の完全撤廃の発表は昨年12月に唐突に今春開始が発表された。その唐突さから、国政転出と知事3選両にらみのアピールのにおいが漂った。実際、小池に長期的な時間軸を持った深い考えがあったとは思えない。

開始直後から、近隣の神奈川、埼玉、千葉の3県知事それぞれから「都が打ち出す施策に追い付くことができない」(神奈川県知事・黒岩祐治)などと苦言や不均衡への懸念の声が相次いだのは当然のことだ。

子育て世帯は東京に移住したほうが有利になり、一極集中に拍車をかける懸念がある。小池は「本来は国が責任を持って行うべき」と、またしても国のせいにしてかわしたが、ならば国に働きかけるのが先だろう。

さらに無償化で受験生の私学志向が強まることは間違いない。人口減少と相まって、都立では上位の進学校でさえ5、6年後の定員割れが予測されている。

明治から戦後の復興期にかけて、日本は私立と公立を車の両輪にすることで、急増する進学需要と高い教育レベルを両立させてきた。だが定員割れで都立の統廃合が加速すれば、僻地から順に都立校が消え、選択肢の幅は大きく減ることになる。

小池と公明の蜜月のレガシーが、東京都の教育レガシーを崩壊させるなど笑えない冗談ではないか。

20年知事選で、自民党は独自候補の擁立を断念。小池が圧勝したのは前述のとおりだが、同時に行われた4つの都議補選で自民党が全勝し、小池と自民党の双方ウィンウィンの結果となった。

都民ファの候補の応援をせず、いわば部下を見捨てて得たこの結果に、小池は深い満足の表情を浮かべていたそうだ。

大型地下鉄建設

知事選後、都議会自民党の都議は「是々非々の姿勢は変わらない」と発言していたが、小池に「軍鶏のけんか」を仕掛けなくなった。小池は議会に安定を想定し得る、「普通の都知事の権力」を獲得したのだ。

それによって何が起きたか。第3の政策として東京メトロ有楽町線・南北線の延伸プロジェクトの例に触れておこう。

マンション開発が進む臨海部の豊洲と、東京スカイツリーにも近い住吉を結ぶこの延伸計画を今年5月、都の都市計画審議会が承認した。建設費は1420億円。開業すれば副都心線の08年以来という久しぶりの大型地下鉄建設だ。

この延伸は元江東区長、山﨑孝明(23年4月に急死)の悲願だった。山﨑は、自民党の区議や都議を経て区長を4期務め、23区長会長に上り詰めた実力者。元首相の森喜朗に近く、息子も自民党都連幹部だった。

20年知事選を控えた19年10月、山﨑と面会した小池は「全力で取り組んでいきたい」と熱弁。小池再選後の21年の協議で、都が年来の主張であったメトロと都営の一体化を求めないと明言したことがきっかけで、メトロも都などの補助を前提に消極姿勢から建設容認に転じた。

小池にとっては山﨑の要望に応えたことになるが、大きな方針転換ではあった。

これまで東京都はメトロ株の47%を保有することによって、潤沢なキャッシュフローを誇るメトロに影響力を及ぼし、路線の整備や地上出口エレベータなど環境整備を促すことができた。

そこに公益性を見いだしていたからこそ株保有や一元化にこだわったはずだが、結局、53%の株を保有する筆頭株主の国の求めに応じて、都の保有株も放出することを決めた

儲かり体質のメトロ株を手放し、将来的な都市基盤のための投資余力を失うデメリットが生じるが、前出の政策同様、小池が将来のことまで考えていたかどうか。

さらに問題がある。前出の都の審議会では、有楽町線だけでなく南北線延伸(白金高輪~品川)も承認している。これも整備主体はメトロだが、やはり都の財政出動が条件になる。

メトロだけではない。都直営の都営大江戸線の延伸計画(光が丘~大泉学園町)について小池は昨年の都議会で、庁内に検討組織を立ち上げると答弁した。

都が出資する第3セクターが運営主体となる臨海地下鉄(東京駅~臨海部)も事業計画を作成中のほか、やはり都出資の多摩都市モノレールの延伸(上北台~箱根ヶ崎など)も、都知事選の公約にも盛り込んだ。多摩は、最近、接点が際立つ自民党都連会長の萩生田のお膝元だ。

人口は30年以降は減少に

かつて大型のプロジェクトを止めて喝采を浴びた小池はどこへやら、再選以降、巨額の鉄道整備を矢継ぎ早に動かしている。

地元にとってインフラは、あれば便利に決まっている。だが、いくら企業と人が集中する東京都とはいえ、人口は30年以降は減少に転じるのだ。費用対効果はどうなのか、剛腕政治家の「政治路線」が紛れていないか。小池都政にこうしたチェックの声はほぼ聞かれなくなった。

改革どころか、東京の豊かな税源を私物化してばらまく、金満知事になってはいまいか。

【小池人事の恐ろしさ】

都政の8年を通じて小池は、権力維持のためなら臨機応変に姿を変える、機会主義者(オポチュニスト)の色彩を濃くしてきた。保守色の濃い強烈なポピュリストの人物像に引きずられ、その本質は見逃されがちだ。

小池にいかなる変質があっても、支えてきたのは3万人余りの都庁官僚組織である。都庁官僚も霞が関官僚と同じく、論理とデータによる客観性を重んじ、知事が間違えば正しいと信じることを進言する気風があった。だが、それは過去の話だ。

コロナ第1波の20年7月、その担当幹部である内藤淳福祉保健局長を交代させる人事が「更迭か」と都庁内で波紋を呼んだ。真相は分からないが、ある局長経験者はこう語る。

「内藤さんは以前から自分の思うところを率直に述べる人で、だからこそ都庁では上にも下にも信頼されてきた。でも小池さんは率直に諫言する役人を嫌うんです。それを知ってか知らずか、知事お気に入りの副知事が、彼を外して彼の部下と一緒に知事に決裁を取るので、内藤さんは仕事がしづらくなって身を退(ひ)いた」

別のOBはこう補った。

小池さんは人事に好みを積極的に言う人です。しかも副知事や局長ならまだしも、課長級までも

任期中の首長は行政を任されている以上、人事を通じて施策を実現することは当然でもある。石原都政でも、知事の意に沿わない幹部を異動させることはしばしばあった。だが、小池人事の苛烈さは石原のそれをしのぐ、と前出のOBが続ける。

「石原さんの場合、気に食わない幹部が目の前から消えればそれで終わり。知事とソリが合わなくても一生懸命にやっている職員というのはいますから、組織内で知恵を働かせて〈知事から遠いが良いポスト〉に就けた。そうでもしないと、物言わぬ職員ばかりになりますから。ところが小池さんの場合は、〈ちゃんと降格になってるの?〉とばかりに異動先がどこかまで追いかけて確認してくるんで、そういうことができなくなったのです」

都議選の公約と黒塗りの文書

【「のり弁」やめますの嘘】

私たちは、人事を通じた過度な官庁支配が、信じ難いスキャンダルを生んだ前例を知っている。財務省近畿財務局が国有地を相場の10分の1で払い下げた森友学園問題だ。

この問題で財務省の佐川宣寿理財局長(当時)は「記録は残っていない」と嘘をつき、その答弁に合わせて学園側との交渉記録の存在を否定したり、記録の改ざんを行った。

内閣人事局を通じた人事権行使をやりまくったために、官僚が萎縮したばかりか、平気で国益に反する行動を取るようになったのだ。小池都政も、もはやその領域に突入している可能性がある、と私は危惧する。

都民ファ最初の都議選の公約は、情報公開の「のり弁(黒塗り)をやめます」だった。

だがその投開票日の3日後、豊洲市場への移転延期で支払われた移転補償金にまつわる公開請求で、私はほぼ全て黒塗りの文書を受け取った。豊洲移転を延期しただけ無駄だったと受け取られる、と職員が忖度したのだろうか。

6年後の23年3月には、そんな疑念がより深刻になった。

知事と自民党の間で重要な役割を果たしてきた前出の元江東区長、山﨑孝明親子による、都立ゴルフ場の利用回数を記録した文書を公開請求したが、「存在しない」と明記した非開示決定が2カ月後に届いた。

私は既に、庁内で回覧され小池も見た資料の一部を入手しており、この決定通知は嘘である。

【小池劇場の終わりの始まり】

冒頭のインタビューで乙武は、小池と都民ファ都議の関係について、「これも良い意味で意外なんですが、小池さんって人望があるんです。〈頼られている〉じゃなくて、好かれているんです」と語っていた。

ごますりで言っているのではない。私は現職の都庁幹部からも、「小池知事って魅力的な人」というセリフを聞いた。小池は、距離を縮めた者には惜しむことなくその愛嬌を振りまき、その相手をとりこにする魅力があるようだ。

想像をたくましくすれば、とりこになった者は「小池を独占したい」という欲に駆られるだろう。都知事という絶対的な権力者が相手なら余計に狂おしい。だが当の小池は次々と「頼れる誰か」を取り換える。取り換えた誰かと取り換えられた誰かが敵同士なら、後者は苦しむはずだ。

そこまで考えてハッとしたのは、小池の学歴詐称疑惑の真相を暴露した「元側近の爆弾告発」と題した手記を4月に文藝春秋5月号に発表した弁護士の小島敏郎のことだ。小島は6月18日、小池を公職選挙法違反の疑いで刑事告発した。

ポスト岸田に名乗りを上げる?

かつて小池の最側近として豊洲移転の見直し・築地再整備プランを打ち立て、小池に代わって市場の現場や都職員と対峙した小島に対しても、小池は当初は愛嬌を振りまいたはずだ。だが小池は次第に距離を取り、豊洲移転の本格実施に舵を切る。

17年9月には小島は特別顧問を退き、都民ファの政務調査会事務総長に就いたが、翌月には希望の党が総選挙で大敗。小池がかつて小島と一緒ににらみつけていた都庁幹部たちを頼り始めるのは、その頃からだった。

小島の目に「かつての小池の魅力」は今、どう映っているのか(取材依頼に対し、返答はなかった)。

「古い都議会にいじめられている」という演出から始まった小池都政は、公明党に頼り、次に自民党におもねって、ついに安定した権力を獲得したかに見える。

だが、そのために決めてきた椀飯(おうばん)振る舞いの帳尻は本当に合っているのか。思い付きで繰り出した政策は、持続可能なのか──。

都庁組織は疲弊し、もはや正しいことを具申し、いさめる官僚の存在感は失われつつある健全な緊張関係を失った行政が腐るのに時間はかからない。機会主義者であることによって獲得してきた権力の拡大は、早晩限界を迎える可能性がある。

仮に3度目の当選がかなったら、権力の階段を上ってきた小池百合子の物語は最終章に入る

今回の3選出馬は、国政に転じてポスト岸田に名乗りを上げるという、別の筋書きを放棄する選択だった。実際、15区補選に小池出馬の可能性も取り沙汰されていた。

はっきりしたのは今年2月半ば、小池は乙武に「チャレンジする意思はありますか」と聞いた瞬間ということになるが、その少し前の2月2日、小池は官邸に岸田を訪ね、30分間も話している。

官邸スタッフは「都の予算のアピールをしていましたよ。わざわざ何をしに来たのかなと思った」と語る。岸田の目をのぞき込んだ小池は、そこで何かを見極めたのだろうか。

遠からず総選挙は行われるが、今後、小池がそこに出るには知事辞職が前提になり、「投げ出し」批判は免れない。守りの政治の蜜の味を知った彼女にそんな選択ができるとは、私には思えない。