いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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60年代の洋楽 グレン・キャンベル ウィチタ・ラインマン

2024年06月22日 21時51分50秒 | 音楽

グレン・キャンベルGlen Campbell ウィチタ・ラインマンWichita Lineman 1968年

ローリング・ストーン誌の選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500(2010年版)では195位にランクされている。

作詞作曲はジミー・ウェッブ。オクラホマ州のウォシタ郡をドライブ中にウェッブは歌詞のインスピレーションを受けた。ただし「ウォシタ」は歌にそぐわないと判断され、カンザス州の都市のウィチタに地名が変えられた。

演奏メンバーはレッキング・クルー(スタジオミュージシャン)のメンバーが多く、ギターは、アル・ケイシー、ジェームズ・バートン、キャロル・ケイ、ベースはドン・ベイグリーで、ジム・ゴードン(ドラムズ)、アル・デ・ローリー(ピアノ)。ジミー・ウェッブがオーケストラ・アレンジを担当。中間部のベースはグレン・キャンベル。

ウェッブは夕日のなか、車を運転中に道路横の電話線の支柱の列が続くなか、柱の上に人影を見つけた。それは、孤独を示す絵画のようであった。彼は電話を持って誰かと話しているように思えた。それは、どこにでも見かけるブルーカラーの姿であった。ウェッブは孤独のなかで働く労働者の気持ちを想像していた。

グレン・キャンベルはデモを聴いた時、ホームシックにかかっていたので泣いてしまったと語っている。

始めのヴァースはF長調で、次のヴァースはD短調であるところが実際にはD長調に転調し、独特の効果をあげてている。強く緊張させた弦を使ったバイオリンが電話線を通り過ぎる風の音を作り出している。モールス信号のような音はキーボードで出している。

 

この曲のカヴァーは多い。「ジェントル・オン・マイ・マインドのカヴァーは女性が多いのに比べて、この曲は男性アーティストに人気があるようだ。

REM - Wichita Lineman - 1994

最近のロックバンドでは、R.E.M、. ストーン・テンプル・パイロッツ、ガンズ&ローゼズがカヴァーしている。

Stone Temple Pilots-Witchitalineman

Glen Campbell featuring Stone Temple Pilots at recording studio

ストーン・テンプル・パイロッツは、サンディエゴ出身のロックバンド。略称はSTP。1992年のデビューからアルバムが4作連続でミリオンセールスを達成し、オルタナティヴ・ロックバンドとして1990年代に大きな成功を収めた。

 

1960年代後半から1970年代にかけ、カントリー・ポップというジャンルで、グレン・キャンベル、ジョン・デンバー、オリビア・ニュートン・ジョンらが活躍した。

1968年か69年、日本でも比較的同時期に「ウィチタ・ラインマン」はヒットし、ラジオでよく流れた。グレン・キャンベルの深みのある低音が変わった曲調を歌いこなしている。やはり、キャンベルのバージョンが一番いい。人生の哀愁を感じさせる出来栄えだ。

 

グレン・キャンベル ジェントル・オン・マイ・マインド Gentle on My Mind」1967年

ジョン・ハートフォードが作詞作曲し1967年に発表した楽曲。グレン・キャンベルのカバー・バージョンで知られる。ハートフォードが語るところによれば、映画『ドクトル・ジバゴ』を見たあとでインスピレーションがわき30分で書き上げられたという。キャンベルのバージョンはビルボードのカントリー・チャートで30位を記録し、彼にとって最初のヒット作品となった。翌1968年7月に再発売されるとより大きな成功を収め、ビルボード・Hot 100で39位を記録した。

タミー・ワイネット(1968年)、R.E.M.(2007年)、ザ・バンド・ペリー(2014年)など多くのカバーがある。

The Band Perry - Gentle On My Mind

グレン・キャンベルGlen Campbell (1936年~2017年)は、アーカンソー州出身で、歌手、ギター奏者、テレビ司会者、俳優として活躍した。

ヒット曲には「ジェントル・オン・マイ・マインド(Gentle on My Mind)」(1967年、68年)、「恋はフェニックス(By the Time I Get to Phoenix)」(1967年)、「ウィチタ・ラインマン(Wichita Lineman)」(1968年)、「ガルベストン(Galveston)」(1969年)、「ラインストーン・カウボーイ(Rhinestone Cowboy)」(1975年)、「サザン・ナイツ(Southern Nights)」(1975年)などがある。

グレン・キャンベルは子供のころからギターを学び、1960年にロサンゼルスに移り、レッキング・クルーとよばれたスタジオ・ミュージシャンの一員として高い評価を受けた。ディーン・マーティン、ナット・キング・コール、モンキーズ、ナンシー・シナトラ、マール・ハガード、エルヴィス・プレスリー、フランク・シナトラ、フィル・スペクターらとレコーディングを行なった。 1964年から1965年にかけ、キャンベルはブライアン・ウィルソンの代役としてビーチ・ボーイズのツアー公演に参加し、彼らのアルバム『ペット・サウンズ』などのレコーディングにギター奏者として参加した。

その間、1961年からソロ活動を始め、レコードを出したがヒットには至らなかった。

1967年、プロデューサーのアル・ド・ロリーとチームを組むと、「ジェントル・オン・マイ・マインド」がヒットし、1967年の「恋はフェニックス」、1968年の「ウィチタ・ラインマン」が大ヒットした。

1968年から80年代始めまで多くのテレビ番組の司会をつとめ、人気を得た。

1975年の「ラインストーン・カウボーイ」はキャンベルにとって最大のヒットとなった。


60年代の名曲 シーカーズ  ジョージーガール/Georgy Girl

2024年06月16日 19時19分04秒 | 音楽

シーカーズ  The Seekers  「ジョージーガール Georgy Girl」。1966年。

作曲はトム・スプリングフィールドで、同名映画のテーマ曲として作られた。少女を励ます歌。

1966年10月に発売され、1967年初めにかけてヒットした。アメリカでもキャッシュボックスでは1位となったが、ビルボードではモンキーズの「I'm a Believer」に阻まれて2位にとどまったというので、1967年1月のことらしい。

シーカーズ (The Seekers) は、1962年にオーストラリア・メルボルンで結成されたフォーク調ポップ・コーラス・グループ。

英米で初めて人気を得たオーストラリア出身のグループ。男性3人組であったが、1963年に紅一点の女性ボーカル Judith Durham ジュディス・ダラム(1943年~)が加入後、イギリスに渡って活躍し、1967年に「ジョージー・ガール」をヒットさせた。1968年7月にジュディス・ダラムがソロ活動のため脱退して解散。その後、同じメンバーで再結成を繰り返し、現在に至る。

シーカーズの魅力はジュディス・ダラムの声質で、馥郁として爽やか、癒し力が素晴らしい。

3人の男性はメルボルンの同じ高校出身で、1950年代末に前身となるドゥワップ・グループを結成した。その後はフォークを指向して1962年にシーカーズと改名し、ジャズシンガーであったジュディス・ダラムが加入した。

ジュディス・ダラムはメルボルン近郊に生まれた。音楽の資格を得るためにメルボルン大学付属音楽学校でクラシックのピアノと声楽を学ぶつもりであったが、同時にブルース・ゴスペル・ジャズにも関心をもち、1963年、メルボルン大学のジャズバンドでボーカルを担当することになり、レコードを録音した。

ほぼ同じ時期、広告会社の秘書として勤務した初日に、会社幹部だったシーカーズのメンバーと出会い、ボーカルを担当することになり、1963年11月にレコードデビューした。

1964年3月、英国航路旅客船でのエンタテイナーとして契約したシーカーズは乗船し、10週間後に帰国する予定だったが、ロンドンにとどまってテレビに出演していたとき、トム・スプリングフィールド(60年代の人気女性歌手ダスティ・スプリングフィールドの兄)と知り合い、彼のプロデュースで彼が作詞作曲した「I'll Never Find Another You 恋はたったひとつ」を11月にEMIのアビーロード・スタジオで録音した。12月に発売したところヒットし、1965年にはイギリスとオーストラリアで1位、アメリカで4位と成功を収めた。

1965年には「The Carnival  Is Over」もヒットして、ラジオやテレビで人気を得た。

1966年には、サイモン・アンド・ガーガンクル結成以前にイギリスでソロキャリアを積んでいたポール・サイモンの楽曲「Someday One Day」をヒットさせている。

1966年初めに、オーストラリアへ一時帰国したが、その後もイギリスで活動を重ねた。

Morningtown Ride」(1964年に録音)を再録音して発売。英2位。

1966年12月「Georgy Girl」発売。

1967年3月帰国。メルボルンでの帰国公演20万人の観客数は南半球最大のギネス記録という。

1968年2月ジュディスは脱退をメンバーに告げ、7月にグループは解散コンサートを開催した。

1968年11月発売のベスト盤「The Best of The Seekers」はイギリスでビートルズのホワイトアルバムを押しのけて1位となり、ローリングストーンズの「ベガーズ・バンケット」が1位となることを阻んだ。

 

ジュディス・ダラムは1970年代はジャズを中心にソロ活動やテレビに出演した。

メンバーのキース・ポトガーは1969年にニュー・シーカーズを結成し、1970年代に「I'd Like to Teach the World to Sing」などをヒットさせた。

1975年から再結成を繰り返し。1992年からオリジナルメンバーで再結成。

ジュディス・ダラムは同時にソロでの音楽活動を続けている。ジュディスは1969年に結婚した夫とともに1990年に交通事故で重傷を負った。ファンからの励ましが1992年の復帰につながったが、夫は事故がもとで1994年に亡くなった。2013年に脳内出血し、読み書き能力にダメージを負ったが歌唱力は回復した。

「Morningtown Ride  朝の街に陽が昇る」

アメリカの女性フォーク・シンガーソングライターのマルビナ・レイノルズMalvina Reynolds(1900~1978年)が1957年に作った子守唄。

「The Carnival Is Over」。

ロシア民謡のメロディーにトム・スプリングフィールドが詞をつけた。

 

「ジョージーガール」GEORGY GIRLと「MORNING TOWN RIDE]の2曲は、カセットテープで永いこと聴いていた。1967年春ごろから洋楽を熱心に聴きだしたが、「ジョージーガール」は「I'm a Believer」と同じく、ラジオでよく流れていた。中学校のクラスでも評判になるぐらいに好まれた曲だった。

ビージーズより前の私が知っている最初のオーストラリア出身のグループである。「恋はたったひとつ」は知らない。

1970年代なかば、ラジオでシーカーズ特集があり10曲弱録音したうち4曲カセットテープに採用した。

アメリカでは1950年代末からフォークが流行した。女性ボーカルを含んだグループであるピーター・ポール&マリーは1961年に結成され、1962年に「レモン・トゥリー」でデビューした。ジョーン・バエズと比較するとポップであり、さらにポップであったのがシーカーズであった。


60年代の名曲 ジュディ・コリンズ 青春の光と影/both sides now

2024年06月16日 18時29分09秒 | 音楽

ジュディ・コリンズ Judy Collins 青春の光と影 both sides now 

「青春の光と影」(Both Sides, Now)は、シンガーソングライターのジョニ・ミッチェルが作詞作曲した楽曲。ジュディ・コリンズによって最初にレコーディングされ、以後多くのミュージシャンにカバーされた。

1967年3月、ミッチェルは飛行機の中で「青春の光と影」を書き上げた。「I've looked at clouds from both sides now」という歌詞はソール・ベローの小説「雨の王ヘンダソン(Henderson the Rain King)』(1959年)からインスパイアされた。彼女は次のように述べている。

「私は飛行機でソール・ベローの『雨の王ヘンダソン』を読んでいた。本の初めで雨の王ヘンダソンもちょうど飛行機に乗っていた。彼はアフリカに向かう途中で、下に広がる雲を眺めていた。私は本を置き、同じように窓の外の雲を見た。それからすぐさま曲を書き始めた。」

ただし、1966年11月17日のジョニ・ミッチェルのライブでこの曲がラジオ放送されているので、実際にはこれ以前に完成していたとみられる。

 

1967年10月発売のジュディ・コリンズのアルバム「Wildflowers」に初めて収録された。その1年後の1968年10月にシングルカットされ、コリンズのバージョンは12月21日付のビルボードで8位を記録した。彼女のバージョンは1969年2月公開のアメリカ映画『Changes』(邦題:青春の光と影)に使用された。

ジョニ・ミッチェルは、ジュディ・コリンズのバージョンを嫌っていた。

 

ジュディ・コリンズは1939年ワシントン州シアトル生まれ。

ロサンゼルスとデンヴァーで幼少期を過ごす。ポピュラー音楽に接しながらもクラシック・ピアノやミュージカルの教育を受けるなど、多彩な音楽を体験する。学生時代に教会での演奏活動を通じ、トラディショナル・ミュージックに触れ、フォークに目覚め、フォーク・ソングに没頭するようになる。

20歳で、コロラドのパブで演奏活動を始め、ニューヨークのクラブに辿りつき、グリニッジ・ヴィレッジで活動する。22歳で自らエレクトラ・レコードに売り込み、新しいフォークの流れも取り入れたトラディショナル・ソングをメインにしたファースト・アルバムをリリースした。

ジュディはレナード・コーエンの歌を最初にカヴァーしたシンガーであり、レナードの現代的な歌詞とジュディの美しい声のコントラストは最高のマッチングといわれた。

また、ジョニ・ミッチェルがまだどのレコード会社とも契約がない時に彼女の才能を見抜き、1967年発表の「ワイルドフラワー」で彼女の作品を2曲収録。うちの1曲が「青春の光と影」であり、ジュディにとってもジョニにとっても初めてのトップ10ヒットとなった。

以降、スティーヴン・スティルス、ライ・クーダーを始め、様々なアーティストと交流を持ち自らの世界を完成させて行く。

クリントン元大統領の娘の名前「チェルシー」は、ジョニ・ミッチェルの楽曲「チェルシーの朝」をカバーしたジュディ・コリンズが1969年4月にリリースしたシングルバージョンをクリントン夫婦がロンドンのチェルシー地区を散策しているときに聴いて命名したという。

クロスビー・スティルス・&ナッシュの「青い瞳のジュディ」は、当時スティブン・スティルスの恋人だった彼女をモデルにした曲というのは有名な話らしい。

 

日本でヒットしたのは、1968年12月ないし1969年春ごろであろう。ラジオを聞いていた音楽好きの青少年から好まれた曲で、1970年代に発行されたポップスの歌集にはたいてい収録されていた。

ジョニ・ミッチェルを知るきっかけとなった。


80年代の名曲 リビングカラー LIVING COLOUR CULT OF PERSONALITY

2024年06月16日 17時53分16秒 | 音楽

LIVING COLOUR CULT OF PERSONALITY 1988年

リビングカラー LIVING COLOUR は88年の1st「VIVID]で人気を得た。ヴァーノン・リードの超バカテクのギターにより、黒いレッドツェッぺリンとよばれた。次第にパンク色を強め全3作発表後解散、01年に再結成。

私はMTVでPV「CULT OF PERSONALITY」を見てすごい迫力に圧倒された。新しいハードロックの始まりを感じた。一時期は日本でも人気があり、来日公演で名古屋に来て、クラブクアトロでライブがあり、当時のチケットがでてきたので、見にいったようだが、印象に薄い。

1stの時期しか知らないのだが忘れがたいバンドだった。検索すると2作目以降も聞いてる人も出てはくるが、日本では無名に近い。

 you tubeを見るとさすがにアメリカでは人気が高い。89年、93年の映像は自然賛美的な内容。04のライブは確かにレゲエ、パンク風でブッシュの批判がテーマで、ジミヘン風のギターソロあり。06年12月イタリア・ボローニャのライブでは超絶テクギターは健在だった。しかし、政治的なメッセージ性のある曲が多い。さすがに、アメリカは懐が深い。

「CULT OF PERSONALITY」自体、ケネディ、ムッソリーニ、スターリンなど政治指導者をテーマにしている。06ライブ、90年代はエコロジーロックとでもいおうか、社会的関心が高い。なお、初期のライブ目撃者はジャズバンドみたいだったとのコメントもある。単純にパンクではない。

ヴァーノン・リードのテクはジャズから来ていると思われる。影響を受けたミュージシャンにマイルス・デイヴィス、ジョン・マクローリンがいる。彼は工科高校を経てニューヨーク大学で学んだ。

 

「CULT OF PERSONALITY」1989年ビルボード13位。1990年グラミー賞(ベストハードロック・パフォーマンス部門)。

a speech by Malcolm X.

"... And during the few moments that we have left, ... We want to talk right down to earth in a language that everybody here can easily understand."

John F. Kennedy's inaugural address is heard ("Ask not what your country can do for you ...").

The song ends with Franklin D. Roosevelt saying "The only thing we have to fear is fear itself",

 

2007/2/7の記事を一部改変。


80年代の名曲 グロリア・エステファン 1-2-3 Get on your feet Rhythm Is Gonna Get You

2024年06月16日 17時34分43秒 | 音楽

Gloria Estefan  1-2-3            1988年7月ビルボード3位

Gloria Estefan  Get on your feet          1989年9月発売、全米11位

Gloria Estefan  Rhythm Is Gonna Get You  1987年全米5位

Gloria Estefan  Conga                 1985年全米10位

グロリア・エステファン Gloria Estefanのコンサートを1989年か1990年ごろ横浜球場で見た。私が関東方面のコンサートへ行った数少ない例である。今度木村カエラの武道館ライブ(2007年)にいくことと、本の整理をしていて1979年のドゥービーズとか1986年のスターシップの会場販売ブックが出てきたことで思い出した。

私がライブをわざわざ見ようと思ったのは、名曲「1-2-3」(1988年)のPVが素晴らしかったからだ。曲・音がいいのはもちろんだが、それ以上にエステファンが動き回る姿のキレの良さに感動したからだ。単にラテン系というものではない。実際のステージでそれを期待したのだが、それほどではなかったように思う。

 片言のように聞こえる英語も魅力的だ。キューバ移民なので、発音はうまくない。これがいい。

グロリア・エステファンの経歴については、ベスト盤のCDをレンタルした1988年頃から知っている。2005~2006年ごろ、CATVの「ヒストリーチャンネル」でバイオグラフィーという番組があり、ロック・ポップスターの経歴が紹介されていた。当然「グロリア・エステファン」も紹介されていた。

 交通事故からの復帰、アトランタ五輪での歌唱など人生自体がドラマチックだ。スペイン系の母性優位的な印象もある。

ヒット曲もスペイン語だけのも入れて数多く、現在も新曲を出しているから聞かなければとは思うが、私には80年代後半の数曲で充分なのだ。当時、ベスト盤をレンタルして、カセットに落してドライブ中によく聴いた。

グロリアは美人というだけでなく、知性があり、リーダーシップもあると当時から感じていた。

夫婦共に親日で新婚旅行は熱海温泉とは知らなかった。

半生記のミュージカルが2018年12月から東京で公演されるようだ。古くはマイアミ・サウンドマシーンというグループ名だった。

 

2007/6/7掲載分を一部改変。