稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。
2022年6月18日(土)。
真岡郵便電信局事件とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。
自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。
1945年8月9日にソ連が対日参戦し、8月11日から樺太へもソ連軍の侵攻が始まった。8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決め、8月15日に玉音放送で国民にも公示されたが、樺太ではソ連軍が侵攻を止めず戦闘が続いた。
1945年8月10日、樺太庁(豊岡市)・鉄道局・船舶運営会・陸海軍等関係連絡会議で、樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の優先的輸送計画が決定された。8月13日、大泊港から第1船(宗谷丸606名)が出帆した。一方、真岡町を含む西海岸方面の疎開者は15日、真岡港から海防艦、貨物船「能登呂丸」、漁船等で出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始された。
8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせることにした。電話交換業務は女子職員の手により成り立っており、引き揚げ後の通信確保のため真岡中学の1~2年生50人を急ぎ養成することで手筈が決められた。
一方、同日真岡郵便局の朝礼で主事補の鈴木かずえにより残留交換手に関する説明がなされた。主事補は緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮にソ連軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた。
鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。後日希望を聞くと告げた。
8月17日、電話担当主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長はソ連軍進駐後生ずるであろう事態を説くとともに説得にかかったが、応じてもらえなかった。最終的には、局長が豊原逓信局業務課長との相談で、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を真岡に回航させ西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。しかしこの計画は予想以上に早いソ連軍の上陸で日の目を見なかった。
先に引き揚げた交換手は、疎開命令が出た後もみな「(通信という)大事な仕事なのでもう少しがんばる」と言い張ったが、局長からは「命令だから」といましめられた。そして公衆電話から電話交換室に別れの電話をかけると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へつとめるのよ」と残留する交換手たちからかわるがわる励ましの言葉をかけられた。
最終的に決定した残留交換手20名は比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていた。20名中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日当時の高石班11人中6名が10代であり、上野班にも少なくとも1名10代の女子交換手(藤本照子・当時17歳)がいた。
8月19日朝、非常体制が敷かれる。電話・電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられた。同日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。この夜、当直の電話交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。
8月20日早朝。ソ連軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡したのを始め、局幹部に緊急連絡を行った。緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となった。
緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、2艘の舟艇が上陸を試みる。ソ連艦隊から艦砲射撃も始まった。
この当時、真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。電話交換業務は別館2階で行われていた。8月20日にソ連軍艦からの艦砲射撃が開始されると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。
高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決。ただし、自決の経緯については激しい銃砲火の中だったことや生存者が少ないことなどから、証言が錯綜しており、高石班長はむしろ若い交換手をなだめたとするものや、青酸カリを分け合って年齢の高い順に飲んだとするものもある。
この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ、あるいはモルヒネで自決した。この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。
この後、伊藤は、既に7名が自決し、自分も続くことを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、内線電話で電信課へ自決を連絡し、服毒。この時点で、松橋も自決をしていたので、殉職者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し、本館へ移動させた。
一方、本館では、戦闘が始まって郵便局舎も被弾するようになり、被弾を恐れた女性達は、奥の押入れに隠れた。境、川島救出後暫くしてソ連兵が現われると、最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。その後、局員は港の倉庫へ移動した。電話交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。
事件から10日以上経ってから遺体は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。
『樺太1945年夏 氷雪の門』。1974年公開の日本映画。株式会社JMPが製作。
1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も継続された、ソ連軍の樺太侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の最期(真岡郵便電信局事件)を描いているが、生存者への配慮から意図的に事実と変えている部分もある。
当初の構想では、真岡郵便電信局事件での生存者たち、すなわち「服毒後、意識を取り戻され現在(1973年)も生存される方」「たまたま引き揚げる家族を見送るために、砲撃直前、局を出られたと思われる方」「緊急連絡のために局を出られた方」たちを主人公とすることを念願していたが、取材に応じてくれた非番の交換手から、「生きのびた服毒者」の深い悔恨を知らされて断念するに至り、「12人編成が正しいと思われる」交換手の編成をあえて9人として生存者については触れないことにした。そのため「この脚本の中に、事実関係の設定上で、全く事実と違うところがある」と断り書きをしている。すなわち、完成した映画『氷雪の門』でも、9人編成の全員が一斉に服毒死を遂げたとしている部分は史実とは違うフィクションである。
「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」は真実か。
元新東宝のプロデューサーだった望月利雄が、真岡郵便電信局事件の映画化を立案し、1972年(昭和47年)5月に三池信(元郵政大臣)代表取締役会長、望月専務取締役などの顔ぶれで、株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュアー (JMP) が設立され、1973年5月末に『氷雪の門』は撮影を開始した。
映画公開は「東宝配給の予定だった」とされているが、東京新聞の記事では、「『氷雪の門』は東宝が配給するわけではない」「公開は配給形式ではなく、JMPが東宝系の映画館を借りて行う興行形式だ」と関係者が繰り返し述べている。製作会社JMPと東宝興行部の間で上映に関する内諾があった、と解すべきであろうが、正式の上映契約には至らなかった。
当初は1974年1月中旬、全国主要都市でのロードショー、2月下旬一般封切が予定されていると報じられていた。その後、3月30日から東京5館、札幌、大阪、福岡などの東宝系9館で全国ロードショー公開することを決定していた。
1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長ニコライ・シゾフが東宝系劇場での『氷雪の門』の上映にクレームをつけ、なりゆき次第では『モスクワわが愛』の「公開にも支障が出そうな気配になっている」と、3月12日の東京新聞夕刊が報じた。東宝の松岡功営業本部長、越塚正太郎興行部長らが12日に協議の結果、「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と判断、「JMPへの劇場賃貸を断ることにした」と報じられた。
この後、松岡らは、東映の岡田茂社長を訪ね、「東宝は社内事情で公開できないので宜しく」と依頼した。東映側は決定に先がけて、事前に在日ソ連大使館の参事官に話を通したところ、「たいへん結構です」と言われたという。岡田は「営業面でもひとつのメドがついたので東映洋画部配給ということでJMPとの間で話がまとまった」と説明している。6月25日に東映とJMPの間で正式調印が行われ、7月27日から札幌東映パラスで、8月17日から新宿東映パラス、名古屋東映パラス、福岡東映グランドなどでも公開が決定したと発表された。ところが、公開直前になって、興行規模が大幅に縮小された。札幌東映パラスこそ7月27日から8月30日までの5週興行であったが、本州の上映館は全て削減され、北海道・九州では8月17日からの2週間ほどの劇場公開になった。だが、その理由は今だに明らかになっていない。
東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由については報じていない。その後の報道でも、東宝と東映を混同して「配給会社がソ連の圧力に屈して全国公開が阻まれた」とする不正確な論調が多く、「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」という不正確な情報はさらに広まった。
その後、『氷雪の門』は名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などが行なわれていたが、製作から約36年後の2010年(平成22年)7月17日より全国で順次劇場公開されることになった。