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読書メモ「古代氏族の研究⑨ 吉備氏 桃太郎伝承をもつ地方大族」宝賀寿男 2016年

2025年01月02日 09時52分09秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑨ 吉備氏 桃太郎伝承をもつ地方大族」宝賀寿男 2016年

 

吉備氏の祖系は、一族の神社・祭祀、吉備の地名や氏人の行動などからみて、大物主神の祭祀が強く、吉備氏(本宗の上道氏・下道氏)の実際の祖系は皇別ではなく、海神族系の磯城県主・三輪氏と同族である。

崇神期の王権拡張過程で、大和王権のもとに吉備地方ついで出雲に侵攻した吉備津彦兄弟吉備氏と吉備の歴史が始まる。

吉備氏の本宗は、当初は兄の吉備津彦(五十狭芹彦命)の流れである備前地域の上道氏系統であったが、応神即位ごろに本宗格は稚武吉備津彦(彦狭島命)の流れである備中地域の下道氏系統に替わった。

雄略期になって下道氏系統、ついで上道氏系統が大和王権に対して叛意を見せたということで、王権から討伐の対象になり、とくに上道氏系統への打撃が大きかった。

吉備氏一族の勢力は5世紀後半以後、大きく衰えていき、欽明期には白猪屯倉が児島を含む吉備全域の各地に設置されて、中央王権の直轄支配を受け、その重要な屯倉となった。こうした事情のもとで、吉備氏一族から男女が朝廷に出仕したが、天武朝になって八色の姓で朝臣賜姓をうけたのは、下道・笠の両氏にすぎない。

 

古代の吉備地方中央部にいた吉備の主要豪族については、一系ではなかったが、吉備を氏族連合国家と考えるべきではない。吉備本系では「上道・賀陽」および「下道」の2系統があり、これらと並んで異系の三野臣・笠臣の流れがあり、天孫族・少彦名神後裔・鴨族系の三野前国造の同族とみられる。これら諸系には相互に頻繁な通婚があって、吉備氏統合に向けた動きともなったが、異系のほうではその祖先神崇拝も残った。

吉備侵攻時に吉備津彦兄弟に随従した「犬・猿・雉」(これをトーテムとした部族諸氏)の後裔の諸氏も永く存続して、吉備津宮など関係諸社の祭祀に関与した。桃太郎伝承を無視しては吉備・出雲の上古史解明はできない。「猿・雉」は上古の美濃西部(三野前国造)、「犬」は伊予と関連する。

吉備原住の温羅に関連するとみられるマサキ神社・御崎神社や当初の備前一宮と伝える安仁神社については不明な点が多い。

 

吉備一族は大化前代にはかなり弱体化していたが、奈良朝後期には右大臣吉備真備・参議泉親子などの上級官人を出した。平安中期ごろまでは下級武官として播磨の宇自可臣一族も見える。笠臣のほか吉備同族で笠朝臣姓を賜った例(印南野臣、宇自可臣、三尾臣)がある。吉備の地元では、平安朝以降は、吉備津彦神社などの神官として賀陽氏などが細々と続いたにすぎない。

 

吉備一族で国造として残ったものには、上道国造(備前上道郡)下道国造(備中下道郡)、加夜国造(備中賀夜郡)、三野国造(備前御野郡)、笠国造(備中小田郡)のほか、蘆原国造(駿河蘆原郡)、角鹿国造(越前敦賀郡)、伊弥頭国造(越中射水郡)である。

吉備地方の国造は本来、吉備国造一つであったが、数次の反乱などの影響を受けて分割された。蘆原・角鹿・伊弥頭の国造などの一族は、日本武尊の東国遠征に随従した吉備武彦の子弟が遠征路上に置かれたのが起源である。

 

吉備氏の起源と動向。

大和王権の拡大、4世紀前半の崇神期、吉備津彦兄弟が大和から吉備へ侵攻

吉備には部族はあっても王国はなかった。造山・作山などの古墳は河内と共通の要素をもつ。勢力的に大和の十分の一程度。吉備津彦兄弟は、まず播磨西部まで押さえた。加古川下流左岸。日岡神社。祭神は兄弟の父か。稚武吉備津彦の娘は景行天皇の皇后で陵墓は日岡山古墳群の日岡陵古墳。

備中倉敷北部の楯築墳丘墓と周辺の弥生墳丘墓は在地勢力が数世代続いたことを示す。

足守川流域に温羅(うら)という渡来伝承をもつ鍛冶部族がおり、吉備津彦が吉備各地で戦い、桃太郎伝承として残る。

美作一宮の中山神社(津山市)。社家に美土路(みどろ)、中山、中島。裏山に猿神社。二宮の高野神社(津山市)。犬狼祭祀。鍛冶部族は伽耶・新羅あたりから渡来し先住者になったか。伽耶の安羅あたりから神武前代に渡来した鍛冶集団「天日矛集団」が吉備を通過したことはありうる。吉備の製鉄遺跡は全国的に最古である。総社市には姫社神社があり、天日矛の后神を祀る。南西に正木山(麻佐岐山)があり、山頂に霊石がある神体山である。式内社に麻佐岐神社がある。ハタの地名は日矛族がもたらしたものか。5世紀前半に渡来した山城の秦氏より渡来は古い。吉備の鉄生産は弥生時代後期まで遡るとみられている。岡山市北区・津寺遺跡。鉄滓が出土。

 

吉備氏祖系三輪氏・彦坐命同族。海神族。宮山古墳。総社市三輪。式内社神(みわ)神社。笠臣・三野臣は鴨県主同族の美濃も三野前国造一族。吉備平定に随行。

吉備津彦命兄弟の母はハヘイロドで、その同母姉ハヘイロネが崇神天皇・百襲姫を生んだ

上道氏系統浦間茶臼山古墳(吉備津彦命)、湊茶臼山古墳(日子刺肩別命)、金蔵山古墳(吉備武彦)、神宮寺山古墳、玉井丸山古墳。下道氏系統中山茶臼山古墳(稚武吉備津彦命)、佐古田堂山古墳、造山古墳、作山古墳、小造山古墳、宿寺山古墳。

下道氏から応神天皇の妃として吉備の兄媛を出して、応神を支え、妃の兄・御友別の子孫が吉備氏族のなかで優位に立った。造山・作山古墳時代。

足守は賀陽臣氏の本拠。岡山各地に竜王山。大和の竜王山。大和(おおやまと)神社は倭国造家が奉斎。竜蛇信仰。海神族の阿曇連・尾張連と同族。

 

大和王権の出雲侵攻と吉備氏

崇神期後期。吉備津彦と阿倍氏の武淳河別。西の出雲郡に振根、東の意宇郡に飯入根の勢力が対立。330年ごろ、振根による飯入根殺害事件を契機に大和王権が出雲郡を討伐の対象にして出雲全域を平定し、意宇郡勢力を出雲国造に任じた。意宇川が平野部にかかる大庭の地に国造が居住し。上流山間地に熊野大社を奉斎した。

吉備勢力の浸透出雲西部の出雲・神門郡に吉備部姓(出雲国造一族)が多く分布する。吉備部君が管掌。崇神末期の纏向遺跡に鼓形器台など山陰系土器が急速に増加。

出雲制圧時の吉備氏配下部族。「犬」(山祇族)は久米部族。「雉」(天孫族)は天若日子(倭文連・鳥取連の祖)後裔の伯耆国造族。「猿」(天孫族、鉱山師・鍛冶氏族)は少彦名神後裔氏族・物部氏族・鏡作氏族。

久米部族は吉備と出雲の中間の美作(中央に久米郷)で繁衍した。伯耆西部・日野郡の楽々福(ささふく)社の伝承。祭神は孝霊天皇・吉備津彦命兄弟。製鉄遺跡。金持(かもち)の地名と中世豪族金持氏。伯耆守護。出雲の漆部(ぬりべ)氏族は久米氏族。石見国那賀郡の郡領家は久米氏。石見郷、石見国造の本拠。出雲の監視役。

出雲平定時に、在地の意宇郡勢力から鵜濡渟(うかづくぬ)命を出雲国造に登用。鵜という鳥トーテムは天孫族のもの。

崇神期に波久岐県造、成務期に伯岐国造、伯耆国造に。倭文連一族は三野前国造・山城鴨県主と同族で、三野前国造の始祖神骨(かむほね)命の近親から出た。長幡部も同族。

 

吉備津神社社家。犬、雉、猿後裔。犬飼建命。犬養木堂。美濃池田郡春日郷に犬甘部。美濃・伊勢から吉備へ。若犬養氏。伊勢の安濃県造一族の県犬養連。中田名命は鳥飼部。雉の子孫は鳥越氏、鳥飼氏。天孫族少彦名神後裔には賀陽郡の弓削連も。有力社家の藤井氏。猿の子孫。百田大兄命は久米氏族か。河本氏は吉備・弓削連の後裔か。

物部氏族。備前赤坂郡の式内社・石上布都之魂神社(赤磐市)。

前期古墳では、伯耆が出雲・美作をしのぐ湯梨浜町東郷池周辺が伯耆国造の中心域。橋津(馬ノ山)古墳群。美作では勝田郡勝央町の植月寺山古墳、苫田郡(津山市)の胴塚古墳。前者は吉備弓削連、後者は漆部(法然を出した漆間氏)の墳墓。

 

美濃。三野後国造は岐阜・稲葉山を本拠とし、因幡の伊福部臣氏と同系。彦坐王の子の八瓜(やつり)命が三野前国造に。彦坐王の後裔に東濃賀茂郡の鴨県主一族。神大根命は神別鴨族の出。伯耆国造、三野前国造、倭文連は山城の鴨県主氏と同族。先祖は神武期の功臣八咫烏(ヤタガラス)、天羽槌雄命。山城の鴨本系から神骨(神大根)命の世代で美濃に分かれ、その近親に吉備・出雲で活動した留玉臣命が桃太郎のにあたる。吉備の三野臣、笠臣の祖。

 

吉備武彦の倭建東征随行と吉備氏一族の分布。

毛野地方。4世紀中頃までの東海・畿内勢力により開発された。崇神期、建沼河別命が会津(大塚山古墳)へ達す。4世紀後半には東北地方南部(仙台・遠見塚古墳)におよぶ。

吉備臣らの祖の御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ・吉備武彦)が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたと古事記に見える。倭建命の母・針間伊那毘(いなび)大郎女は稚吉備津彦の娘。吉備武彦は吉備津彦の孫。父は日子刺肩別命。吉備武彦の妹・吉備建比売(穴戸武媛)は倭建命妃。兄弟近親も従軍して、駿河蘆原国造の祖(意加部彦命)、越前角鹿国造の祖(建功狭日命)となる。

倭建東征に三角縁神獣鏡を持参し配布。先の景行征西にも。

尾張氏。三角縁神獣鏡出土の墳墓。建稲種命は東之宮古墳。邇波県君祖・大荒田の娘・玉姫の婿。奥津神社古墳。愛西市。宗像三女神を祀る。尾張国造一族の女性か。兜山古墳。東海市。宮簀媛。

吉備に尾張氏の痕跡が残る。備前邑久郡尾張郷。

角鹿国造同族。砺波臣志留志。779年伊賀守。越中石黒系図所載。飛騨、三尾臣氏。

越中の遊部君氏。後裔、赤祖父氏。鉱山。

 

吉備武彦の系譜。吉備津彦の孫。父は利波臣、角鹿海直の祖・日子刺肩別命。上道系統。

備前車塚古墳。三角縁神獣鏡。近隣に大神神社。吉備氏は磯城県主・大神氏の一族。金蔵山古墳が吉備武彦の墳墓。倭建命の津堂城山古墳と類似。

 

御友別と吉備氏一族の分封伝承。

大和王権は4世紀後半、播磨・摂津辺りにあった大王家姻戚のホムチワケ(応神天皇)により簒奪された。即位390年頃。上道氏から本宗の地位についた下道氏も支持基盤となる。下道系統から応神妃の兄媛が出る。兄が御友別。

吉備海部直の黒日売。仁徳天皇の妃。海神族・倭国造の一族。牛窓古墳群。

岡山市造山古墳は御友別、作山古墳は子の稲速別の墳墓。小盛山古墳は応神妃の兄媛の墳墓。両宮山古墳は上道田狭。

笠臣氏。先祖の鴨別が応神朝に波区芸県に任じられた。現在の笠岡市。三野臣氏。

備前の三野臣氏。本拠は岡山市北区三野本町。御野、天孫族の故地・高天原(筑後の山本郡・御井郡)を意味する。都月坂1号墳。三野臣氏初祖・楽々森彦命の墳墓か。大森氏、大守氏。吉備津彦神社神主・大藤内家。

播磨に残る吉備氏同族。飾磨郡の下道系・宇自可(牛鹿)臣氏。印南郡の上道系・印南野臣氏。

東国の毛野氏。三輪氏族に類似。毛野の祖が和泉のチヌ(珍努)に関係。磯城県主支流。彦坐王の同族出身。祖先に下道氏の祖彦狭島命。稚武吉備津彦命の別名。上野国東部の上毛野氏本宗と西部の物部君の2系統並立。従兄弟・再従兄弟関係であった毛野氏荒田別・鹿我別のうち鹿我別は物部君の祖・夏花命の子孫。その後裔は浮田国造(南相馬市)や東北の吉弥侯部氏。栃木市に大神神社。

太田天神山古墳は5世紀前半の造山古墳と同時期で相似形。

 

吉備氏一族の反乱。雄略天皇の時代。下道臣前津屋、上道臣田狭・弟君の反乱を鎮圧。星川皇子の乱を鎮圧。5世紀後半の両宮山古墳が大古墳の最後。

韓地での活動。白村江の戦では、一族の蘆原君氏が水軍として参加

一族の祭祀。吉備津彦神社、吉備津神社。摂社・岩山宮の祭神は三輪氏の祖・櫛御方命。

祖系。磯城県主家からの中継ぎの大王・孝安天皇(懿徳の皇后の弟)の後裔。血沼別(ちぬのわけ)は和泉の茅渟に起こって、吉備氏・毛野氏を分出した。彦坐王の後裔は但馬国造、丹波国造、日下部君、日下部連。ほかに、但馬の竹野君。これら一族から四道将軍や皇族将軍を出した。

 

敏達・推古あたりから朝廷へ出仕。舒明の采女の蚊屋采女は賀陽皇子を生む。笠一族。大化期。笠臣垂(したる)。笠朝臣御室。大伴旅人の副将。平安中期まで中下級官人。万葉歌人。笠麻呂。

笠金村。笠郎女。

吉備真備下道氏。母の楊貴氏(やぎし)墓誌の出土。奈良県五條市。天平11(739)年。

同時代に上道臣斐太都(ひたつ)、のち正道。宮内大輔。平安時代初期の貴族・文人に賀陽朝臣豊年。

中世の吉備氏系の武家。妹尾氏と陶山氏。備中小田郡の小田氏は笠臣と同族。陶山氏も同族。真鍋氏も同じ。臨済宗開祖栄西禅師は賀陽氏。雪舟は小田氏

 

吉備真備の子・吉備泉(743~814年)。正四位上・参議。桓武朝に入ると、天応2年(782年)に伊予守として地方官に転じる。しかし、下僚と協調できずにしばしば告訴されたため、延暦3年(784年)朝廷から詔使が派遣され訊問を受ける。泉は詔使に対して不敬な対応をした上で、承伏しなかったことから、官司が法に則って処罰を求める騒ぎとなった。遂には桓武天皇の詔により、功臣(吉備真備)の子であることをもって罪は許されたものの、伊予守の官職は解任される。その後さらに譴責を受けて、延暦4年(785年)には佐渡権守に左遷された。延暦14年(795年)には父祖の出身地である備中国に移されるが、桓武朝末の延暦24年(805年)に赦免されて帰京するまで、桓武朝では不遇を託った。延暦25年(806年)桓武天皇崩御の際に山作司を務める。

幼い頃より学才があると評判が高かったが、生来の偏屈で短気な性格で、非協調的なことが多かった。短所は老いても変わらず、六国史の卒伝でも述べられるから、それが後々まで子孫にたたったのかもしれない。


読書メモ「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

2024年11月30日 08時38分49秒 | 歴史

「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

2 佐伯氏 久米氏

佐伯連大伴金村の弟・御物が祖。平安時代、今毛人が三位参議。伴氏・佐伯氏は宮門の開門職を南北朝まで務めた。越中立山の佐伯氏の祖は越中守佐伯有若ではなく、佐伯広足の孫・赤麻呂、浄継、河雄の系統。なお、空海の佐伯直氏応神天皇の弟の後裔である播磨国造の一族。佐伯部は蝦夷の俘囚を管理する職で、佐伯直氏は佐伯連のもとで地方の佐伯部の管理にあずかった。

 

大伴氏族の神社。山城葛野郡の伴氏神社(現在は右京区の住吉大伴神社)。河内志紀郡の伴林神社。佐伯連支族林連。信濃佐久郡の大伴神社滋野氏・真田氏は大伴氏の可能性

信州安曇郡の仁科氏は大伴姓を称す。飯縄明神、戸隠権現は犬狼信仰

 

久米氏クメは熊・狗奴・クメール人に通じ、弓矢に長じた狩猟民族的な山人。大伴・久米両氏は、崇神前代の3世紀後半に分岐した。久米氏族は大和高市の久米からは早い時期に姿を消し、和邇氏や蘇我氏の支族がその地に入り、蘇我支族の久米氏(久米朝臣)を出した。旧来の久米氏は久米直・連を姓とした。久米奈保麻呂の娘・久米連若女(わかめ、780年没)は藤原宇合の子・百川を生む。

久米直の祖は倭建命の遠征に随行した七拳脛(ななつかはぎ)。尾張愛智郡氷上姉子神社祀官家は七拳脛の弟の八甕(やみか)の後裔、山田郡・愛智郡の郡領家

同族の6国造淡道(淡路)大伯(備前邑久郡)、吉備中県久味(伊予久米郡)、阿武(長門阿武郡)、天草(肥後天草郡)。

吉備中県家の後裔は美作の立石氏、漆間氏(浄土宗祖・法然)ら。漆部(ぬりべ)連伯耆(鳥取県)羽衣石(うえし)城主の南条氏も同族。物部連に混入された。曽祢連も同様で、本来は久米氏族。平安中期の歌人曽祢好忠

久味国造の後裔。伊予の守護河野氏の重臣大野氏。大伴家持の弟の後裔と称した。伊予の曽根氏、三好長慶一族も同族阿波の久米氏は伊予喜多郡久米庄からの来住。摂津島上郡の芥川氏も三好一族。淡路の安宅氏、讃岐の十河氏も同族。

 

山部連も伊予の久味国造の後裔で、朝廷の山部を管掌した。5世紀後半に仁賢・顕宗兄弟を播磨で発見した伊予来目部小楯の功績により山部連姓を賜る。藤原鎌足の父・御食子の母は山部連歌子の娘。延暦4(785)年、桓武の諱を避け山宿祢になった。山部氏は門号氏族で陽明門を守った。万葉歌人の山部赤人を出す。子孫は播磨に土着し、三木氏、淡河氏となる。

 

紀伊氏族は大伴・久米と同族。天御食持命の後裔で、紀国造家となる。神武以前に大伴氏族を分岐した。平安朝に武内宿祢後裔と称する紀朝臣家からの入嗣があった。同族とみられる吉野の国栖と通婚して丹生祝を出した。支流には滋野朝臣がある。地方の国造では葛津立国造(肥前藤津郡)、石見国造


読書メモ「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

2024年11月29日 08時23分08秒 | 歴史

「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

1 大伴氏

源流は今のクメール族や苗族で、アジア大陸北方から南方に移動し南蛮といわれた。日本列島での始祖はカグツチ。火神迦具土。縄文時代に日本列島で原始的な焼畑農業を営んだ山祇族隼人、蝦夷、土蜘蛛、国栖、佐伯、八束脛なども同族で、縄文人の主体。狩猟に長じ、弓矢を得意にした。中臣氏も山祇族で、蘇我入鹿殺害のとき中臣鎌足は後方で弓に矢をつがえていた。山祇族のトーテムは犬狼愛宕神社の火神カグツチ、月神奉斎、九頭竜神、大国栖御魂神、天手力男神を信仰。北九州若松の戸明神社、長野の戸隠神社手力雄神を祀る。

 

祖先は筑前夜須郡か肥前基肆郡あたりにいた。天岩戸を開けたとされる天手力男命(天石門別命、手力男、手力雄命)は大伴氏祖・道臣命の5代前にあたる。天孫族のニニギが筑前怡土に移ったとき、大伴氏の先祖も同行神武より先に、畿内・紀伊に移住した紀伊国造氏族の一支族が大伴氏

 

神武天皇の東征のさい久米部を率いて貢献した道臣命人代初祖とする。道臣命の原住地は紀伊名草郡(和歌山市一帯)。道臣命は古事記では大久米命の名で登場する。目の周りに入れ墨をしていた。名草郡の族長たちは紀伊国造氏族で、名草戸畔が神武に討たれると、残る紀国造の祖・天道根命ら一族族長たちは神武に降った。紀伊名草郡の大伴連同族では、宇治大伴連、大伴櫟津連、大伴若宮連、榎本連(のち熊野新宮三家の一)がある。

神武が初めて政務を行なったとき、道臣命は諷歌・倒語をもって妖気を払い大伴氏の宮門警衛の由来となった。大伴氏は各地から上番する人々の管理、軍事・警衛を主とする職掌をもち、靫負部や久米部、佐伯部を率いて天皇警固と宮門警備を担った。大伴とは朝廷に仕えた多くの伴を率いた統率者を意味する。物部氏は物(武器など)の管理を所管し、国軍・警察的な色彩がより強かった。

 

大伴氏の武日命は垂仁朝に武渟川別命らとともに大夫に任じられ、倭建命の東征に従軍した。武日命の弟に乎多弖(おたて)命がおり、陸奥小田郡に留まって蝦夷に対峙し、靫大伴部、丸子部ら後裔の一族を分布した。丸子部の裔が奈良時代に陸奥大国造となった道嶋宿祢嶋足の一族。

崇神朝の各地平定での指揮官は少彦名神系統の氏族(山城・鴨県主→三野前国造一族→三河加茂郡の松平氏)で、大伴・久米氏が指揮官になったのは景行朝の遠征が初めて。大伴武日命の一族はその子の健持の名が現れるだけで仲哀朝の大伴武以、允恭朝の室屋まで正史から姿を消す

 

道臣命は神武から大和高市郡の築坂邑(畝傍山周辺)に宅地を賜った。道臣命以降の居住地は橿原神宮の南方にあり、近隣や紀伊に支族を分出した。新沢千塚古墳群は大伴・久米両氏に関係する。新沢茶臼山古墳(500号墳)の被葬者は武日命、または健持か。三角縁神獣鏡は4世紀中頃に倭建命が征討に合わせて配布したもの。紀伊那珂郡の粉河寺は大伴連孔子古が開基。その後裔が和佐氏・和佐大八郎

 

大伴談(かたり)は紀小弓と新羅に派遣され、戦死した。両氏は起源が紀伊にあると雄略が語る

宮城12門を警衛する門号氏族大伴氏、佐伯氏、山部氏(久米氏族)、壬生氏(大伴氏族)、的臣氏(葛城臣氏族)、玉手臣氏、建部君氏(倭建命後裔)、若犬甘氏・伊福部氏・丹治比氏(尾張氏族)、猪使氏(安寧天皇後裔)、海犬甘氏(安曇氏族)。

大伴金村は欽明期に任那割譲の責任を物部尾輿に糺問されて失脚。その五人の子のうち阿被布子の流れが主流となる。奈良時代の政争で没落桓武時代の藤原種継暗殺事件関与で大伴継人は死刑、家持は死後除名。両者の子は流罪。伴善男の失脚後、家持の曾孫・伴保平が参議・大蔵卿。その弟の保在の後裔は下級官人。

 

大和の雄族・越智氏は大伴氏の可能性。伊豆の伴氏は善男の後裔と称す。その後裔に住友氏

ヤマトタケルの征路。相模、房総など東国の丸子氏は大伴一族。三河の幡豆・八名・設楽郡。書紀に「三河大伴(部)直」。郡司クラス。伴助兼設楽氏、富永氏、夏目氏夏目漱石も。土井利勝

甲賀の伴氏三河伴氏から平安末期に分かれ、大原・上野・伴・多喜氏、滝川一益、池田恒興、山岡道阿弥大隅の肝属氏肥後・葦北国造一族の大伴部の後裔。刑部靫部、百済生まれの日羅

相模の波多野氏は佐伯経範の子孫。松田氏も。


読書メモ「古代氏族の研究 中臣氏 ト占を担った古代ト部の後裔」宝賀寿男 2014年

2024年11月28日 07時44分41秒 | 歴史

古代氏族の研究 中臣氏 ト占を担った古代ト部の後裔 宝賀寿男 2014年

 

原日本人の主体を縄文人とか「山祇族」(やまつみぞく)とよぶ。この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。この後裔諸氏は、中臣連伴連・久米直・紀伊国造(紀直氏。紀臣氏は天孫族)などを代表とする。山祇族は火や月を神格化する。月神信仰。月読神社

 

中臣氏の遠祖は、火神カグツチ、タケミカヅチ建御雷神で、建御雷神と子の天児屋根命一族は筑後川中流域の現・久留米市域にあった「高天原」(邪馬台国の前身)に住み、「高天原」国の博多平野・葦原中国(海神族)攻略に携わった。

中臣氏族の祖たち。天児屋根命天孫降臨(高天原へ本拠地移遷)のときニニギノミコトに随伴した五伴緒(とものお)の一人。その後裔、AD2世紀第4四半期頃、神武東征に随行した天種子命崇神天皇期に卜占をした探湯主垂仁天皇期の重臣で祭祀を担当した大鹿島命

中臣一族は広く神祇及びト占関係の職務について朝廷に仕えた。

 

神武東征と天種子命、他氏族。

天種子命は高天原の支国・筑前「日向」(福岡市西部・糸島市域)あたりから神武東征に付き従ったもので、大和王権成立以前からの数少ない臣下であった。鹿占により、宮都を畝傍山北麓の橿原に選定した。

天孫族・物部氏の先祖は先に大和に在って、神武が大和入りしたときに長髄彦を討って降伏した。海神族・三輪氏の先祖も大和先住で神武方に転じた。海神族・倭国造の先祖珍彦は播磨灘あたりで神武に従って海上の道案内をした。山祇族の大伴氏・紀伊国造の先祖は先に紀伊に入っていて、紀ノ川河口部の名草郡で神武に従った。

 

天日別命は天種子命の兄弟で、伊勢国造の祖。神武の大和入りのとき、伊勢に行って伊勢津彦を鎮定した。伊勢津彦は天孫族で出雲国造や物部氏と同族、後裔は相模・武蔵の国造

伊勢国造伊勢北部を領域とし、中臣伊勢朝臣、伊勢朝臣となる。平安前期の伊勢朝臣老人(おとな)の娘・継子平城天皇の妃となり、高岳親王を生む。室町幕府執事の伊勢氏は実際には後裔。

 

中臣氏の初期の分出支族(崇神前代の頃まで)。

天種子命の子で春日県主の祖・大日諸命。春日一族からの天皇妃が数人おり、春日県主のほうが中臣氏の本宗だったか。天種子命の3代後の伊賀津臣命のとき、兄弟に恩智神主、添県主、長柄首。次代に伊香連など、次代に飛鳥連、狭山連伊豆・武蔵・常陸の卜部の祖。

 

近江の伊香連。天孫族の三上祝は、鍛冶部族・額田部連、凡河内国造、山背国造と同族で祖神は天目一箇命で物部氏とも同族。三上祝と初期中臣氏が通婚し、伊香連が生まれる。伊香具神社を祀る。神奈備山は賤ヶ岳で香具山とよんだ。築造した古墳群が古保利古墳群前方後方墳の小松古墳は4世紀前半の築造。

 

初期中臣氏の本拠。崇神前代までは大和の香具山周辺。4世紀半ばから、大和北部の添郡を経て、生駒西方の河内・枚岡あたりに展開。平岡連となる。地域豪族の平岡連と伴造の中臣連の2系統に分かれ、本来は河内の平岡連の系統のほうが本宗家的な存在であったことも考えられる。

 

「イカツ」は三人いた伊香津臣命。雷大臣命(跨耳命)。烏賊津使主。雷(いかづち)の神を山祇族は崇敬した。タケミカヅチも同じ。鳴神、霹靂(へきれき)も同じ。

スサノヲ神の乱暴行為に関して、天児屋根命・布刀玉(ふとだま)命(忌部の祖神)を召し、天香具山の朱桜(波々迦ははか)の木で牡鹿の肩の骨を灼いて占いをした。卜骨では鹿が多く使用され鹿占(しかうら)とよばれた。亀占は後世に伝来し、大宝令で卜部が置かれ、そのなかに中臣一族で伊豆出身の卜部平麻呂がおり(のちに吉田氏となる)がいた。

 

中臣氏族の本宗家中臣連姓を負う以前はト部(占部)姓を負った。

応神・仁徳朝。允恭期の舎人・中臣イカツオミ。異系(天孫族・宇佐国造・息長氏族)の応神による皇位簒奪。欽明期中臣連鎌子。物部尾輿とともに排仏派敏達・用明朝に崇仏・排仏論争がらみで、物部本宗家とともに衰滅した中臣勝海連の家が中臣氏族の本宗家とみられる。

大化前代にはこれに替わって常盤(勝海と近い同族)の流れが本宗家となり、なかでも大化改新時の功績により藤原姓を賜った鎌足の家が本宗家となった。鎌足の祖系の通婚先は久米氏系の山部連や物部連支族などで、鎌足の父まで二流豪族に位置づけられる。鎌足の最初の妻は上毛野君一族の車持君の娘で中下流の豪族に過ぎない。

藤原の姓は、鎌足の生地大和国高市郡藤原郷(橿原市)に因む。藤原京に近い地。中臣氏祖神を山頂に祀る天香具山の西。曽祖父の常磐以降の本拠地。

 

中臣家。近江朝廷の右大臣・中臣金連は三門・糠手子の子で、鎌足没後の族長的存在。左大臣の蘇我赤兄に次ぐ高位であったが、近江朝の敗戦時に斬首され、三門系は衰退した。

嫡流は二門系となる。意美麻呂は鎌足の女婿。子の清麻呂は右大臣となり、大中臣姓を許される。清麻呂六男の今麿の流れが嫡流となる。子孫は神祇伯・大副をつとめる。神祇伯輔親の娘に彰子(道長の娘)に仕えた歌人の伊勢大輔がいる。

輔親の5世孫の親隆(鎌倉初期)以降は、その後裔のみが祭主を独占し、大中臣家の宗家となり、のちに伊勢祭主家で堂上公家の藤波氏となる。

御食子連後裔の一門も、鎌足の弟、垂目の流れから春日神主家及び伊勢大宮司家河辺氏を出した。

 

氏神は大和国添上郡の春日大社祠官は大中臣朝臣、中臣殖栗連)、河内国河内郡の枚岡神社(祠官は平岡連)を中心として、一族の神社祠官家として、恩地神主(河内国高安郡恩地神社)、卜部宿祢(京の平野、吉田、梅宮社)、中臣鹿島連(常陸国鹿島神社)、神奴連(摂津国住吉郡中臣須牟地神社、武庫郡西宮神社)、中臣宮処連(摂津国八部郡長田神社)、大中臣朝臣(伊勢神主、遠江国浜名郡英多神社)等を輩出している。

 

大鹿島命(垂仁期)・巨狭山命(景行期)の後裔。中臣鹿島連(鹿島大宮司)。

和泉。大鳥連。和太連。和田氏

 

下総の香取神は少彦名神で天孫族。忌部首・鴨県主や伊豆国造・知々夫国造・香取連・服部連・弓削連・矢作連の祖で、中臣氏本宗家や常陸卜部には伊豆国造の血も女系を通じ入っている

度会神主は丹波国造・海部直の支族。荒木田神主家は少彦名神系統・服部連の同族。


読書メモ「古代氏族の研究12 尾張氏 后妃輩出の伝承をもつ東海の雄族」(宝賀寿男、2018年)

2024年11月01日 09時00分39秒 | 歴史

「古代氏族の研究12 尾張氏 后妃輩出の伝承をもつ東海の雄族」(宝賀寿男、2018年)

 

まず、宝賀寿男氏の古代氏族系譜観の骨幹をなすと思われる「古代氏族の研究13 天皇氏族 天孫族の来た道」(宝賀寿男、2018年)を足立倫行氏の書評から引用する。

 

天皇家の父系源流殷王朝の流れを汲むツングース系で、鳥トーテミズム・太陽神信仰・鍛冶技術などを持ち、平壌あたりの箕子(きし)朝鮮、半島南部の洛東江流域を経て、紀元1世紀前半頃に九州北部に渡来した。

始祖・五十猛(いたける)神(スサノヲに相当)以降の動向。

松浦半島から筑後川中流域の御井(みい)郡(福岡県久留米市)に移り、そこが高天原(邪馬台国の前身)。4代目のニニギは筑前怡土(いと)郡(福岡県糸島市)に移り支分国を作った(天孫降臨)。

伊都国(糸島市)には、日の出の方角には日向(ひなた)峠や日向山があり、記紀でいう天孫降臨(北東アジアでは始祖の地域移遷を指す)の地「日向」の地である。

その孫・神武は庶子だったので、2世紀後半に新天地を求めて小部隊と大和へ向かった(神武東征)

 

ヤマト民族の基盤は3層の集団である。倭地に最初に定着した犬狼トーテム種族(山祇=やまづみ族)。次に稲作・青銅器を伴った竜蛇トーテム種族(海神族)。最後に鉄器を持ち太陽神祭祀の鳥トーテム種族(天孫族=天皇家一族、出雲氏・穂積氏・物部氏・息長氏)

伊都国が天孫族なら、「国譲り」した葦原中(あしはらなかつ)国(筑前那珂郡)は隣接の奴国になるが、海神族の奴国王は後漢から金印を授与され、印鈕は蛇(竜蛇トーテム)だった。

 

奈良盆地には、神武の前に同じ天孫族のニギハヤヒがすでにいた。しかも神武は緒戦で破れ、兄(五瀬命)を亡くし、ニギハヤヒが敵将長髄(ながすね)彦を裏切った末の薄氷の勝利(八咫烏・金鵄は天孫族の鳥トーテム)だった。(引用以上)

神武の行軍は紀ノ川を遡上し、大和宇陀郡に至るルートで現在の紀伊半島南端・熊野は通らなかった。

 

総論。

奈良盆地には、北九州の筑前海岸部から出雲を経て、2世紀前半頃に三輪山西麓に移遷してきた海神族の三輪族がおり、それにやや遅れて故地・筑前から瀬戸内経由で摂津・紀伊の大阪湾沿岸部あたりに到来したのが同種族系の阿曇族の一派で、尾張氏はこれに属した。

 

阿曇・尾張氏系の居住地は、当初は畿内の大阪湾沿岸部にあり、もとは三輪族と同源で大己貴神を共通の祖とし、故地が博多湾沿岸にあった。この種族は韓地南部から日本列島に渡来して稲作・青銅器などの弥生文明を持ち込んだ。

その遠い源流は中国大陸の山東から江南にあった越族である。渡来時期は古く、BC4~3世紀以降とみられる。

 

大和の三輪族中心の原始的国家では、銅鐸文化という特異な祭祀を有したが、2世紀後半の神武侵攻により崩壊した。原三輪国家構成員の支族余流が畿内から各地に転退したあとでも、銅鐸祭祀は残り、分布の主要な流れは三河・遠江を経て諏訪に至り、もう一つの流れは阿波から土佐に至った。

 

紀ノ川上流熊野に住む、尾張氏の祖である高倉下(たかくらじ)は神武創業に重要な役割を果たしたが、神武系統の初期王権が三輪山麓の磯城県主族(三輪族)としきりに通婚したなか、尾張氏や倭国造族でも同じ海神族の主要同族として初期王統との通婚があった。

高倉下とその子孫は大和葛城の高尾張邑に定住した。

 

初期大王家は、崇神天皇のころから奈良盆地東南部に王宮をおいて各地に勢力を伸ばし始め、尾張氏の一族もこれに呼応した活動をとり、次第に東国の美濃・尾張へ移遷をはじめたが、そのうち尾張の一派がこの支族の本宗的な存在になった。

尾張氏族は、景行・成務朝ごろから大王・王族に近侍して王権に奉仕し、ヤマトタケル遠征にも一族が随行して、一部は吉備までついていった。

尾張氏は仁徳天皇の外戚関係者となり、地方豪族ながら朝廷にも出仕し、継体天皇の登場にあたって支持勢力の一つとして活動した。

 

三種の神器の一つである草薙の剣を神体とする熱田神宮の祭祀を長く続けて、奈良時代以降は宮司職を世襲し、平安後期以降は有力祀官家として続き近代にいたった。

また、畿内以東の中世水軍勢力のほとんどを主導したのが、尾張氏の後裔諸氏かその関係氏族であった。

天孫本紀による尾張氏系図。

尾張氏の祖神については、天孫系で火明命とするが、系譜仮冒であり、実態は海神族系で、物部氏とも男系ではつながらない。尾張氏の別姓は海部氏で、後裔まで海神性が強い

「姓氏録」掲載の多数の同族諸氏について、「擬制的同族関係」と簡単に断定するのは問題が大きく、丹波国造・度会神主などをのぞき実際に同族としてよい。

「天孫本紀」の系譜はいくつもの断片をつないだもので、尾張の現地で活動した一族としては、景行朝頃に登場するオトヨ(乎止与命)以降になろう。

オトヨの父祖は、葛城にあって笛吹連と近い同族とみられ、建手折命の流れで小縫命の後とするのが妥当とみられる。

藤原京や平城宮跡から出土する木簡には、同族は尾治、五百木部、多治比部という古い表記で記されている。

 

各論。

犬山の東之宮古墳(実は4世紀中葉か)の被葬者は尾張氏の建稲種(オトヨの子で宮簀媛の兄)の可能性がある。垂仁・景行朝に盛行した前方後方墳という形式から地元の古族丹羽氏は天皇家と関係が薄い。

志段味白鳥塚古墳の被葬者は垂仁・成務期に活動した初代尾張国造のオトヨ(乎止与)であろう。

5世紀の味鋺古墳群(名古屋市北区・庄内川北岸)や味美古墳群(春日井市)は、物部氏との関係が考えられる。

6世紀前半、東海地方最大規模の断夫山古墳(名古屋市熱田区)は、被葬者を尾張連草香とする説が有力だが、娘で継体天皇妃の目子媛と考える。草香は尾張氏支族の出であり、同型墓である今城塚古墳の築造より遡る世代である。

県下第2位の規模である青塚古墳(犬山市)は、丹羽県主一族の墓。車塚古墳(一宮市)は鴨氏同族の中島県主一族の墓であろう。

 

尾張での変遷について。

新井喜久夫氏の尾張氏尾張南部故地説がある。尾張氏の起源地を瑞穂台地とみて、本拠を名古屋の南部地域、熱田・瑞穂・笠寺台地から大高(氷上邑)にかけての地域とする説だが、志段味古墳群の築造勢力を無視する点に大きな問題がある。

赤塚次郎氏は味美古墳群の築造に関わった集団が、熱田に進出して断夫山古墳の築造に関わったとする。

志段味古墳群・味美古墳群のある庄内川流域が初期の尾張氏の居住地で、5世紀末に熱田を本拠としたと推定する。

 

オトヨを娘婿とした尾張大印岐一族は尾張地方最初の開発者で、大和葛城山東麓から山城を経て東国方面に展開した前期天孫族・鴨県主の同族と推測する。美濃西部に入った三野前国造一族や尾張中島郡の古族中島県主も同族である。

 

尾張氏族・鴨氏族以外の上古尾張の主要氏族多氏族は皇別で成務期に派遣された仲臣子上を祖とする。この一族は丹羽県主、島田臣、船木臣など。和珥氏族は海神族で、葉栗臣、知多臣、春日部、和邇部民など。

鴨氏族、多氏族、和珥氏族の3氏族に遅れて、息長氏族の稲木乃別の一族、尾張氏族、物部氏族(三野後国造一族)が尾張に来住した。

 

🍓宝賀寿男氏の古代氏族系譜の考察は、2000年ごろからネット「古樹紀之房間」でたびたび読んでいた。「古代氏族の研究」シリーズの初見は、2019年4月「しだみ古墳群ミュージアム」開館時の講演会会場の書棚で「尾張氏」を見つけたときだった。