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岐阜県 多治見市モザイクタイルミュージアム 藤森照信の建築作品

2024年04月07日 10時48分31秒 | 岐阜県

多治見市モザイクタイルミュージアム。岐阜県多治見市笠原町。

2024年3月29日(金)。

土岐市美濃陶磁歴史館、可児市荒川豊蔵資料館を見学後、名古屋方面へ戻り、多治見市モザイクタイルミュージアムへ向かい、本日最後の見学地とした。

3年ほど前に知人から同館の写真を見せられて面白いと思った。調べたら、藤森照信の建築作品だったのは迂闊だった。多治見は自宅から車で1時間ほどなので、近隣の施設と併せて、日帰りや東濃周遊を企画してみたが実行に至らなかった。

15時30分ごろに到着後、外側を一周して外観を眺め、1階からエレベーターに乗り4階、階段を下って3階、2階の順に見て回った。

入口から外側広場へ。

入口広場から。トイレ棟。

藤森照信といえば、1980年代から日本近代建築史の学者として有名で、『日本の近代建築』(岩波新書、1993年)などの著作も読んできた。赤瀬川源平などとトマソン建築・看板建築などを見て回る建築探偵団の活動も話題になった。1991年には、諏訪大社の社家トップである神長官(じんちょうかん)を世襲してきた守矢(もりや)氏の史料を展示する神長官守矢史料館(じんちょうかん・もりやしりょうかん)を長野県茅野市に設計建築して建築家としてデビューし、自邸(タンポポハウス)などの建築作品を以後設計している。

2007年ごろに初めて神長官守矢史料館を見学し、2018年に滋賀県を周遊したさいに、バウムクーヘンなど和洋菓子を扱うたねやグループの施設「ラ コリーナ近江八幡」を見学した。木や草などをモチーフにした外観は、縄文様式、ガウディ、アールヌーボーなどの曲線美的な要素、植物の持つ生命エネルギー感を含んでおり、2007年ニュージーランド旅行時に見たホビットハウスにも似ている。作品群は、安藤忠雄よりも面白く、将来は重要文化財に指定されるだろう。

実際にタイルミュージアムを見てみると、屋根全般に草がなくて想像以下だったが、フォルムとしては面白かった。タイルミュージアムとしては愛知県常滑市にINAXミュージアムなどがあるし、モザイクタイルというならば、ローマ文化の遺品から紹介してほしかったので物足りない面はある。

多治見市モザイクタイルミュージアムは、旧笠原町役場跡地に2016年6月に開館した。最盛期の旧土岐郡笠原町には100以上のタイル工場が存在し、2018年時点でも生産量・シェアともに日本一である。タイルコレクションを中心に、地域で培われてきたタイルの情報や技術を発信する。

鉄筋コンクリート造4階建のミュージアムの設計は自然素材を取り入れた建築が特徴の藤森照信で、タイルの原料を掘り出す採土場をモチーフにしている。藤森は「街の中には土を採る場所がポコポコあり、それをイメージして外壁に土を塗り、タイルをはめ込んだ」としている。

藤森照信 建通新聞. 2019年11月14日

美術館のテーマとなるモザイクタイルをどう建築として表現するかが難題だった。外壁にただ一面に貼ると普通の建物と化すし、かといってガウディのように造形的にやるわけにもいかない。そこで思いついたのは、タイルの原料である粘土と合わせて表現する方法だった。

現地を訪れるとそこここに、“土取り場”があり、粘土を含んだ土の崖がムキ出し、崖の上には赤松の木が顔を見せている。この光景を外観に使い、土を塗った壁の中に点々とタイルをはめ込んだ。

主要な展示品となるのは長年にわたって収集されてきた歴史的なモザイクタイルで、これらも土と組にして見せることにした。具体的には、土のトンネルを一階から四階まで通り抜けると、突如、大きな穴から外光の入る展示室が開け、そこには色とりどりのタイル絵やタイル製品が所狭ましと姿を現す。加えて、私が作り方を考案した“タイルのカーテン”もキラキラと輝いている。」

なぜか、ふしぎな、うつくしさ。

施釉磁器モザイクタイル発祥の地にして、全国一の生産量を誇る多治見市笠原町に誕生したモザイクタイルミュージアムは、タイルについての情報が何でも揃い、新たな可能性を生み出すミュージアムです。

設計は、独創的な建築で世界的な評価の高い建築家、藤森照信氏。タイルの原料を掘り出す「粘土山」を思わせる外観は、地場産業のシンボルとして、なつかしいのに新鮮な、不思議な印象を与えます。

タイルは、単調な壁や床を彩り、楽しい景色を創り出すことで、ひとやまちを元気にします。その魅力を知っていただくために、膨大なタイルのコレクションを基盤に、この地域で培われてきたタイルの情報や知識、技術を発信。

さらに、訪れた方々がタイルの楽しさに触れ、タイルを介して交流して、モザイクタイルのように大きな新しい絵を描いていける、そんなミュージアムを目指します。」(多治見市モザイクタイルミュージアム)

1階は、ミュージアムショップや体験工房

4階は、半屋外構造の吹き抜け。壁面には「富士山」、「マリリン・モンロー」、「笠原の風景」などのモザイクタイル画が展示されている。

3階は、タイルの製造工程や歴史がわかる資料コーナー。

 

2階は、最新のタイル情報を紹介する産業振興コーナー。

岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館③旧荒川豊蔵邸・陶房


岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館③旧荒川豊蔵邸・陶房

2024年04月06日 10時53分37秒 | 岐阜県

荒川豊蔵資料館。旧荒川豊蔵邸・陶房。岐阜県可児市久々利柿下 久々利。

2024年3月29日(金)。

牟田洞古窯跡下の谷間にあった荒川豊蔵邸の旧居宅、陶房などは、改修整備されたのち2017年4月から公開されている。

谷の上にある荒川豊蔵資料館から坂道を下ると陶房があり、谷間の奥の細道を進んで谷川に架けられた橋を渡ると、牟田洞古窯跡を物語る「物原(ものはら)」と「随縁碑」があり、その先の左上高台に旧風呂場跡の東屋、右上の石垣が積まれた高台には旧居宅が残されている。

「牟田洞古窯址」石碑と陶房。資料館は左斜面上の高台にある。

陶房。

荒川豊蔵は、牟田洞古窯跡において志野筍絵の陶片を発見したことが契機となって志野の再現を志し、この地に移住して作陶生活を送った。旧荒川豊蔵邸は、もともと別の場所にあった古民家を荒川豊蔵が入手し、住居兼陶房として1932年暮れに移築したものである。

戦後、住居から陶房機能を切り離した後に、新たに構えた別棟がこの陶房である。当初はロクロ場と室(モロ)のみであったが、昭和40年代には西側に高床式の書斎部分を増築し、現在の姿となった。

陶房内は昭和30年代以降のロクロ場に近い状態に復元されている。機械類は存在せず、昔ながらの手作業での制作工程であった様子が垣間見られ、豊蔵が使用していた道具や土、釉薬なども置かれている。

牟田洞古窯跡下の谷間。左斜面は「物原(ものはら)」。右高台上に居宅。正面奥に東屋(旧外風呂)。

牟田洞古窯跡を物語る「物原(ものはら)」。

牟田洞古窯の失敗作・廃棄物などが捨てられた跡である。

随縁碑。

この碑は、昭和5年(1930年)、荒川豊蔵が桃山期の志野筍絵陶片を発見した場所に、記念碑として建てられたものである。江戸期以降、志野などの桃山陶は、瀬戸焼と言われてきましたが、可児市久々利大萱での志野発見により美濃焼であったことが判明し、豊蔵が志野再現を志すきっかけともなった出来事である。

その一連の出来事が、奇縁の重なりによる発見だと感じた豊蔵は、「随縁」を座右の銘とし、碑にも刻んでいる。碑の脇には椿を、川岸には、窯下古窯跡から竹を2本移植した。脇石に腰掛け、物思いにふける豊蔵の絵姿が残され、大切な空間であったことを今に伝えている。

東屋(旧外風呂)下から随縁碑と谷間入口の陶房方向。

東屋はもとは外風呂で、川水を汲み、薪で湯を沸かす五右衛門風呂であった。瓦屋根の建物に、常滑の土管で煙突を作り、庭側に白壁の土塀があった。昭和17年には、豊蔵の陶房に川喜田半泥子が逗留し、その時の湯浴みの様子を画にしている。冬の寒さは厳しく、風呂上りでも住居に戻るまでには体が冷えてしまうのが難点であったという。

現在の建物は、改修前とほぼ同じ外観と規模にし、内部は休憩所になっている。

居宅(旧荒川豊蔵邸)。

居宅には多くの著名人が訪れている。

「斗出庵」石碑。「斗出庵」は豊蔵が多治見の虎渓山永保寺老師から戴いた号。

 

このあと名古屋方面へ戻り、多治見市モザイクタイルミュージアムへ向かった。

岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館②荒川豊蔵の作品と蒐集品


岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館②荒川豊蔵の作品と蒐集品

2024年04月05日 11時22分50秒 | 岐阜県

荒川豊蔵資料館。岐阜県可児市久々利柿下 久々利。

2024年3月29日(金)。

志野筍絵茶碗 銘 随縁 昭和36年 豊蔵作

豊蔵の代名詞ともいえる志野作品。豊蔵作品の中でも、格別に緋色の美しい作品。志野釉の白さと緋色のコントラストが絶妙である。志野の筍絵陶片を発見したことから、豊蔵の大切なモチーフとなった筍が描かれ、妻への贈物とした逸品

瀬戸黒金彩木葉文茶碗 昭和40年 豊蔵作

志野と並ぶ豊蔵の代名詞のひとつである瀬戸黒作品。漆黒色を呈す、桃山期の瀬戸黒の技術を現代に甦らせ、なおかつ金泥で加飾して華やかさを醸した、豊蔵オリジナルの作品。妻への贈物とした小振りな茶碗。

デミタスカップ 大正7年 荒川豊蔵プロデュース

1917年(大正6年) 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、彼の研究による特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースする。生地は瀬戸の菱松から購入し、絵付けは名古屋出身の日本画家近藤紫雲に依頼した。

このコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛に持ち込んだところ高価で買い取ってくれ、更に「この品をもっと作ってみなさい。引き受けます。」と言われたため、独立して上絵磁器製作の事業を起こすことを決意。この時錦光山の顧問をしていた宮永東山に引き合わされる。

双狗図 俵屋宗達絵。桃山時代。

蒐集資料。桃山時代の画家・俵屋宗達画で、二匹の子犬がお互いにもたれ合いながら、くつろぐ様子を描いている。豊蔵は桃山文化に憧れ、宗達や本阿弥光悦を敬愛していたという。この一幅の入手は豊蔵の念願だったのかもしれない。

紀貫之 しら露も 時雨もいたく もる山は した葉のこらず 色づきにけり

(白露ばかりか時雨もたいへん繁く漏るという守山では、そのためか、下葉まですっかり色づいてしまった。)古今集 巻五 秋歌下 260

*もる山(現在の滋賀県守山)に露や雨の「漏る山」の意を掛けた。

伊勢 三輪の山 いかにまち見む 年ふとも たづぬる人も あらじと思へば

(三輪の山は、どれほどあなたのおいでをお待ちしていることでしょう。何年たっても、大和まで訪ねてくれる人はあるまいと思いますが、あなただけはどうか訪ねて下さい。)古今集 巻十五 恋歌五 780

山部赤人 あすからは 若菜つまんと しめし野に 昨日も今日も 雪はふりつゝ 

(明日から若菜を摘もうと標(しるし)をつけた野に、昨日も今日も雪は降り続いている。)新古今集 巻一 春歌上 11 

僧正遍昭 すゑの露 もとのしづくや 世の中の おくれ先だつ ためしなるらむ

(葉末に宿る露、根本にしたる雫は、遅速こそあれ、ともに地に落ちるもの。それは遅い速いの違いはあれ、いずれは誰もが死んでゆくこの世の中の例なのであろう。)

 新古今集 巻八 哀傷歌 757

 

資料館の展示を見学後、階段を下って荒川豊蔵が山居して陶芸生活を営んだ敷地と建物群を見て回った。

岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館①通説を覆した古志野の発見


岐阜県可児市 荒川豊蔵資料館①通説を覆した古志野の発見

2024年04月04日 15時31分16秒 | 岐阜県

荒川豊蔵資料館。岐阜県可児市久々利柿下 久々利。

2024年3月29日(金)。

土岐市美濃陶磁歴史館とその周辺の国史跡・元屋敷窯跡国史跡・乙塚古墳・段尻塚古墳の見学を終えたのち、北方向にある可児市の荒川豊蔵資料館へ向かった。

2020年6月に森蘭丸ゆかりの美濃金山城や明智光秀ゆかりの明智城跡などの可児市の史跡めぐりをしたときに、荒川豊蔵資料館の駐車場まで来たら、入館時間が15時30分までと書いてあったので断念し、時間切れで入館できなかったことがあり、ついでがあれば行くつもりにしていた。人間国宝だった荒川豊蔵の作品は数十年来何度も見ている。

中日新聞より

荒川豊藏(1894年- 1985年)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家で、人間国宝、文化勲章受章者。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。

豊蔵の母方の祖は陶祖・加藤景一で、多治見市で製陶業を営んでおり、豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれた。

青年時代は、陶磁器貿易商のもと多治見や名古屋で働いた。1922年京都東山窯の工場長を任される。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得る。

1925年東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と出会い、親交を深める。1927年北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。(東山窯、星岡窯時代の豊蔵は陶工というよりはプロデューサーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことである)

1930年、北大路魯山人が名古屋の松坂屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう

茶碗の高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持つ。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った可児市久々利の大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。

1933年星岡窯をやめて可児市久々利の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる。古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作し、39歳から半世紀にわたる陶芸活動を展開することになる。

1935年満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する。

1955年61歳のとき、 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。1960年宗達画・光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手する。1971年文化勲章受章。1984年可児市にある大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)開館。1985年91歳で死去。

2014年豊蔵資料館が財団法人豊蔵資料館から可児市に寄贈され、名称を「荒川豊蔵資料館」に変更し、現在に至る。

2017年から、敷地内にある居宅(旧荒川豊蔵邸)、陶房などを改修し、公開。

 

再オープン10周年記念企画展「豊蔵の逸話いろいろ」開催。

 当館は今年、可児市の施設として10周年を迎えています。その記念として、豊蔵が遺したこれらの収蔵品の中から、豊蔵との逸話が残る品々を紹介します。箱書や絵画の添え書、著作物、口伝といった様々な形で残された逸話からは、豊蔵の矜持や思い、人柄などが伝わってきます。逸話を通して、人間・荒川豊蔵を知るきっかけにしていただけたら幸いです。

開催期間 2024年1月5日(金曜日)から5月12日(日曜日)。

古窯発見端緒図。昭和41年 豊蔵筆。

昭和5年4月11日、可児市久々利大萱の牟田洞古窯跡で、豊蔵によって志野の筍絵陶片が発見された志野などの桃山陶は、瀬戸で生産されたと言われてきたが、この発見で美濃での生産と判明した。この発見直後から豊蔵による陶片採取が行われた。本作はその端緒を後年述懐して自ら描いたものである。

大萱牟田洞古窯跡出土の陶片 桃山時代

志野などの桃山陶は、豊蔵が可児市久々利大萱の牟田洞古窯跡から志野の陶片を見つけたことで、制作地が美濃であることが判明したやきものである。

これらは、豊蔵が牟田洞古窯跡から採取した陶片で、約400年前から伝世した名碗と同様の絵文様が描かれており、伝世した品の製作場所が特定できる資料として重要である。それと同時に、陶土や釉薬という素材の情報を今に伝えてくれる貴重なものであり、豊蔵自身もこれらの陶片を再現の手掛かりとし、大切にしていた。

岐阜県土岐市 国史跡・乙塚古墳・段尻塚古墳


岐阜県土岐市 国史跡・乙塚古墳・段尻塚古墳

2024年04月03日 13時00分04秒 | 岐阜県
国史跡・乙塚古墳。岐阜県土岐市泉町久尻字勝負。
2024年3月29日(金)。
 
国史跡・元屋敷窯跡の見学を終えた。案内図には、国史跡・乙塚古墳・段尻塚古墳土岐市美濃陶磁歴史館北東近くにあると掲載されていたので見学に向かった。道標に従うと、徒歩5分ほどで二つの古墳が並ぶ古墳前広場に着いた。
 
乙塚古墳と段尻巻古墳は、どちらも飛鳥時代(7 世紀前半)に作られた古墳で、土岐川右岸の河岸段丘縁辺部、南の土岐川方向へ下降する舌状台地の先端にあり、標高約150m に立地している。
2018年から発掘調査し、2023年4月から整備公開された。石室は原則毎月第2日曜日(午前10時~午後3時)に公開している。
 
乙塚古墳と美濃焼の始まり。
飛鳥時代(7 世紀前半)の築造と推定される乙塚古墳は土岐市の地場産業である美濃焼の始まりと関係している。
美濃焼最古の窯は、乙塚古墳の被葬者が導入に関わったと考えられる近くの隠居山須恵器窯(泉西小学校東)と清安寺須恵器窯(清安寺北)とされている。ロクロを使って器を作り、その器を窯で焼く技術は須恵器に始まり、その技術が少しずつ形を変えながら現在の陶磁器生産まで連綿と受け継がれてきたことから、これらの須恵器窯が美濃焼の始まりと考えられる。
乙塚古墳は、後に石室内が陶工たちの工房になり、さらに後には陶祖神への祈りの場となるなど、長い歴史の中で美濃焼と関わってきた。乙塚古墳は、東美濃地域史のみならず、美濃焼の歴史においても重要な史跡である。
 
乙塚古墳は、7世紀前半の築造と推定される美濃地方最大級の横穴式石室を持つ大型方墳である。当時の大型方墳は、ヤマト王権と親しい関係性にあり、広域を治めていた豪族に採用された特別な墓であった。
そのため乙塚古墳の存在は、当時の東美濃地域に乙塚古墳の被葬者が治めた1つの行政区域(後の刀支評(ときのこおり)・土岐郡)があったということを示している。その推定される範囲は、現在の多治見市(土岐川以南)、土岐市、瑞浪市に加え、恵那市と中津川市の大部分を包括する広大なものであった。
 
乙塚古墳の現況は、南北27.4m、東西26.1m、残存高5.8m、段築なし、葺石なし、周溝なしである。
特徴としては、墳丘の段築や葺石を省略する一方で、美濃国内の他の大型方墳と比べても同等以上の巨大な石室が造られている。周溝も備えていないが、墳丘周りの地山を削平して均しており、それに伴って墳丘端部も地山から削り出されている。
 
南面する両袖式の石室は、胴張形の玄室奥壁に鏡石を設置し、玄門部はまぐさ石と立柱石によって構成されている。側壁は3段積みで、玄室天井には3石、羨道(せんどう)天井には4石架けられている。石材は主に近辺で産出される花崗岩を用いており、間詰石や礫床にはチャートも用いられている。
横穴式石室の全長は19.2mで、美濃地方最大級である。玄室全長5.1m、最大幅2.7m、最小幅1.9m、最大高3.0m、最小高2.7m。玄門高2.1m、幅1.9m、奥行(最大)0.9m、奥行(最小)0.6m。まぐさ石の天井からの突出幅0.6m。立柱石の西側壁からの突出幅0.5m、東側壁からの突出幅 0.25m。羨道全長5.4m、最大幅2.6m、最小幅2.3m、最大高2.7m、最小高2.4m。羨門高2.4m、幅2.6m。前庭部全長8.1m、最小幅(羨門)2.6m、最大幅(墳端)4.2m。
 
石室内は、江戸時代の再利用による影響が大きく、礫床は玄室内にわずかに残るのみであったが、それを手がかりに復元的整備が行われた。実際の礫床の上に保護盛土を行って礫床を復元しているため、復元後の床面は本来の床面よりも20cm程度高くなっている。
また、羨道から前庭部にかけて、小礫を詰めた排水溝が設けられていた。
副葬品はほぼ失われており、土師器片と須恵器片の他、鉄製品片がわずかに見つかっているのみである。
鳥鈕蓋は、鳥形のつまみが付いた蓋である。東海地方でしか見られない特殊な装飾付き須恵器で、出土例も大変少なくとても珍しい。鳥の種類は不明だが、死者の旅立ちを鳥に託したものと考えられている。
 
段尻巻古墳。
段尻巻古墳は直径23.9m、残存高4.1mの円墳で、土岐市内では最大級の円墳である。乙塚古墳の被葬者が治めたと考えられる領域内の他の古墳と比べても大きく、乙塚古墳に近接するその立地からも乙塚古墳の被葬者と密接な関わりを持つ有力者一族の墓と考えられる。特徴として、乙塚古墳同様に墳丘には段築や葺石、周溝はない。
 
横穴式石室は、擬似両袖式で、玄室奥壁に鏡石を設置し、玄門部はまぐさ石と2段に分かれる立柱石によって構成されている。側壁は3段積みにしようと考えたようだが、実際には3から5段積みとなっており、玄室天井には3石、羨道天井には2石架けられている。
石室の全長9.5m。玄室全長3.6m、最大幅1.75m、最小幅1.6m、最大高2.3m、最小高2.1m。玄門高1.7m、幅1.3m、奥行(最大)0.60m、奥行(最大)0.30m。まぐさ石の天井からの突出幅0.3m。立柱石の西側壁からの突出幅0.25m、東側壁からの突出幅0.15m。羨道全長3.2m、最大幅1.4m、最小幅1.3m、高2.1m。羨門高2.1m、幅1.3m(羨道最小幅)、西拡幅0.15m、東拡幅0.15m。前庭部全長2.4m、最大幅(前庭部入口)1.85m、最小幅(羨門)1.5m。墓道全長3.0m、最小幅(石積み側壁・礫床との境)1.85m、最大幅6.0m。
 
石室の礫床は良好な状態で残っており、前庭部や羨門(せんもん)では礫の平な面を揃えて並べ明瞭な境目が作られていた。石材は主に近辺で産出される花崗岩を用いており、間詰石や礫床にはチャートも用いられている。
礫床は保護のために埋め戻し、復元的整備が行われた。羨道から玄室へかけて堆積していた厚さ40cm程の土砂を残したままその上に礫床を復元しているため、復元後の床面は本来の床面よりも50cm程度高くなっている。
 
石室内は部分的な発掘しか行われていないため、見つかっている副葬品は、わずかな須恵器片と土師器片のみである。
土師器長頸壺は、丁寧に精製された粘土で作られている。近畿地方の古墳などで出土が知られているが、岐阜県内では類例がなく珍しい発見といえる。被葬者と近畿地方との強い関係性がうかがえる遺物である。
 
土岐市美濃陶磁歴史館の駐車場に戻り、北西方向にある可児市の荒川豊蔵資料館へ向かった。