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新潟県佐渡市 トキ 本間家能舞台 大膳神社能舞台  下国府(しもこう)遺跡

2024年02月29日 14時56分56秒 | 新潟県

佐渡島。姫崎灯台付近。

2023年10月2日(月)。

道の駅「新潟ふるさと村」で5時ごろ起床。本日は、佐渡への日帰り旅行。レンタカーを1か月以上前にニコニコレンタカーの軽自動車12時間4725円で予約しておいた。島を半周以上してガソリン代は1338円だった。

新潟港からのフェリーは6時発・8時30分佐渡着、19時30分佐渡発・22時着を予定。料金は身障者半額で片道1820円。10時間余りが佐渡の見学時間となる。

ここで大失敗をした。なぜか7時発と思い込んでいた。予定表に6時と書いておいたのに、見直すことをしなかったのだ。その代償は2050円の損失と、トキを間近に見られなかったこと。予定していた一宮度津神社、小木民俗博物館、赤泊港をスキップしたが、もともと余裕があればとしていた予定地であった。

朝の支度は船内で済ませようと思い、1時間以上の余裕を持たせるつもりで、新潟港直結の朱鷺メッセ駐車場に5時50分頃着き、6時ごろに待合所に着いた。乗船券の購入を求めると、今出たばかりです、と言われて驚き、1時間間違えていたことに気付いた。

次の便はジェットフォイルが7時55分発で9時2分着。料金は2050円の追加で片道3870円。翌日に延期することもできるが、レンタカーを予約済みで、レンタカーの営業所も8時からなので相談もできない。仕方なく、ジェットフォイルで行くことにした。ジェットフォイルに乗船したが、フェリーと違って席を離れることはできず、室外に出ることもできなかった。

ニコニコレンタカーの営業所は港近くにあった。ニコニコは五島列島以来だ。那覇では地元のレンタカー屋で借りたが、パンクしたタイヤ交換を実費で払わされたので、地元業者は敬遠した。

道路地図はないようだったので、手持ちの「るるぶ」地図とナビで周遊した。まずは、両津から真野方面へ向かった。

本間家能舞台。新潟県指定有形民俗文化財。新潟県佐渡市吾潟。

ナビで確認できず、近くを5分ほど探索したが、幹線道路沿いにあった。自由に外観を見学できる。

佐渡に現存する能舞台では最も本格的な造りで、江戸初期より佐渡宝生流能の指導的役割を担ってきた本間家が所有するもので、佐渡にあって唯一個人所有の能舞台である。

現在の建物は明治18年(1885)に再建されたものといわれ、本舞台は間口5.6メートル、奥行5.7メートル、寄棟造桟瓦葺である。床板は本舞台と後座を縦と横に張り分け、天井は棹縁天井に鐘穴があり、後座部分は一段低く、鏡板に向けて下り勾配の棹縁天井である。水引(虹梁)には若葉が彫られ、木鼻のついた三ツ組斗、中央に「本間」の「本」の字が彫られた蟇股とその上の肘木などに細部に装飾的な意匠がみられる。

また、本舞台中央の床下には、音響効果をあげるための2つの甕が向かい合って斜めに埋められている。鏡板には松の絵が描かれ、常設の地謡座、鏡の間を備え、橋掛りには切戸口までつながる裏通路が同じ床高で付属している。橋掛りと裏通路は板壁で仕切られているが、地覆の勾欄が付いており、後設のものと分かる。地謡座には勾欄はなく、架木の高さまで板壁になっている。全体として調和のとれた格式ある能舞台であり、島内の他の舞台への影響も大きい。

最古の演能記録は寛延2年(1749)までさかのぼり、現在も毎年7月最終日曜日には定例能を開催している。

トキの森公園。佐渡市新穂長畝。

9時45分頃到着。入場券は券売機でしか買えない。園内配置が分かりづらい。トキ資料展示館を先に見てからトキを間近に見られる「トキふれあいプラザ」に向かったが、9時30分頃が餌の時間で、観察窓近くにトキが集まると、係員が言っていた。10時ごろだと、遠くの草地でエサを探すトキしか見られなかった。トキを間近に見たければ給餌時間に合わせる必要がある。

国史跡・下国府(しもこう)遺跡。佐渡市竹田。

県道65号線沿い竹田橋付近にある遺跡は、佐渡国府に関連する官衙とみられ、小佐渡山系から国仲平野に突出した舌状台地の先端部に位置して、ほぼ四角形の形状をしており、国仲平野に突き出た台地の先端部に広がっている。二重の濠で囲まれた内側には2棟の掘立柱建物が残されており、付近からは平安時代前期9世紀前後のものと思われる須恵器の杯などの遺物が多量に出土している。

外濠は、幅1.4ⅿを測る雄大なものであり、南北36m、東西32mの範囲を囲み、内濠はやや細い溝であり、外濠とほぼ各辺を平行させて、南北26m、東西23mの長方形の範囲を囲んでいる。この1条の濠の内部には東西に軸をもつ掘立柱建物が南北に2棟、5mの間隔をおいて東に少し寄せて建てられている。2棟の建物は近似した規模をもち桁行3間、梁間2間をはかるものであって、板葺きないしは草葺きの屋根をもつものであったと考えられている。

遺構は、一定の設計に基づいて営まれたものであり、内濠の東北の隅を欠き屈折するといった特異な配慮もあってきわめて注目される構造、形態をとっている。

本遺跡の所在地は、南に佐渡国分寺や総社、北に条理状地割、西に奈良朝屋瓦を伴う礎石建物遺構などで囲まれ、国府域の観の強い地域であり、加えて本遺跡の所在地は元禄検地帳に「下国府」の名でも呼ばれていることをも考え合わせるならば、佐渡国府に関連する官衙なり館舎などの一つかと思われる重要な遺跡である。

佐渡大膳神社能舞台。新潟県指定有形民俗文化財。佐渡市竹田。

妙宣寺方向へ向かい、案内標識に従い脇道へ入る。

松と杉の木を背にした境内地に建つ能舞台で、社殿に向かって左側に、正面を社殿に向けて配置されている。

現在の建物は、旧鏡板の背面にある墨書から弘化3年(1846)の再建とわかり、本舞台は間口5.5m、奥行4.4m、寄棟造茅葺である。床板は本舞台、後座を縦と横に張り分けているが、本舞台奥行が後座まで食い込み、天井は裏楽屋まで一体に小屋組を見せているが、松と日輪の絵が描かれた鏡板で仕切られている。

橋掛りは複式形式で、両側に地覆付の勾欄が付けられ、正面は平桁、裏通路との仕切りには通し貫の形式が用いられ、柱を設けず、3間の軒桁で橋掛り前面を開放し、背面は板壁である。地謡座は、以前は組立式の仮設であったが、今は常設されて竹の勾欄があり、舞台正面寄りの半分が客人桟敷となる。鏡の間の機能を橋掛り上に設け、裏楽屋とつなぐ複式橋掛り形式の代表であり、茅葺屋根ともあいまって佐渡らしい風格をもった能舞台である。

過去の演能記録としては、文政6年(1823)の「大膳御神事御能番組留」までさかのぼることができ、現在も毎年4月18日の祭礼に定例能、6月には臨時の演能が行われており、当地に伝わる鷺流狂言(県指定文化財)も上演される。

大膳神社能舞台は、現存する佐渡に35ある能舞台の中で最も古いものである。佐渡の能舞台のほとんどが雨風を避けるため戸が建てられているが、ここは年中、開けられていて舞台正面の老松に太陽が描かれた珍しい鏡板が目を引く。

佐渡には室町時代、1434年に能の大成者・世阿弥が流されているが、世阿弥が島民に能を教えたという記録はない。能が佐渡の人びとの間に普及したのは江戸時代以降のことで、佐渡金銀山の発見により、1603年佐渡代官となった大久保長安が能楽師を連れてきたことに始まる。

大正時代に佐渡を訪れた歌人、大町桂月が、「鶯や 十戸の村の 能舞台」と詠んだように、わずか十戸ばかりしかない農村集落にも能舞台があって、謡いや仕舞いをしたり、鼓を打ったりして楽しむ百姓が多くいるということへの驚きが記されている。

ここ大膳神社の例祭は毎年4月18日で、この日には神前に奉納する能が演じられる習わしになっている。このように祭りなど決められた日に能を披くことを定能という。

また佐渡に能の広がるきっかけとなった国仲の4つの能舞台を「国仲四ヶ所の御能場」とよび、大膳神社もその一つになっている。

能楽協会のシテ方には観世流、金剛流、金春流、喜多流、宝生流の五流派があるが、江戸時代、佐渡で主流となったのは観世流と宝生流である。現在、佐渡の人が務める演能のシテ方は全て宝生流となっている。

また、佐渡で能に携わる人たちの多くはプロではなく、それぞれ仕事をしながら能の研鑽に努めている。大膳神社の定能は、そんな能楽グループのひとつ真野能楽会により披かれていて、静寂の中に作り出される幽玄の世界は見る人の感動を誘う。

なお、大膳神社能舞台では6月上旬に観光用に薪能も行われている。

 

このあと、妙宣寺方向へ向かった。

新潟市文化財センター 裏中門造りの代表的民家・旧武田家住宅


新潟市文化財センター 裏中門造りの代表的民家・旧武田家住宅

2024年02月28日 14時19分20秒 | 新潟県

新潟市文化財センター。旧武田家住宅。新潟市西区木場。

2023年10月1日(日)。

新潟市文化財センターの展示を見終わり、敷地内にある新潟市指定民俗文化財の旧武田家住宅と畜動舎を見学した。

武田家の先祖は、越後に逃れた甲斐国武田一族の武将が、高橋姓を名乗って曽根(旧西川町)で百姓となり、その子初代源助の代に割元役となったと伝えられている。割元役とは、江戸時代の村役人の役職で、郡代・代官などの指揮下に名主(庄屋)を支配して十数か村から数十か村を統轄し、年貢の割り当てや命令の伝達などを行った。

その子の源助(2代目高橋源助 代々襲名)も割元役を務め、地域の開発に尽力したが、天和元(1681)年に処刑されてしまった。その妻と長子は、小中川(現在の燕市)に逃れて、およそ30年後、木場村(現在の西区木場、旧黒埼町木場)に移住した。その後建てられたものが現在の旧武田家住宅であると伝えられている。

なお、「座敷」と「裏中門」は明治時代に入ってから建て増されたと考えられている。

 

旧武田家住宅は、裏中門造りの代表的な民家として、昭和45(1970)年4月、旧黒埼町(当時黒埼村)の有形民俗文化財に指定された。翌年、旧所有者である武田源助氏から旧黒埼村への寄贈を受け、現在の西区緒立流通2丁目にある緒立八幡宮脇に解体移築・整備し、「黒埼常民文化史料館」として公開してきたが、2011年に再び文化財センター敷地内に解体・移築した。

 西蒲原の低湿地では信濃川・中ノ口川の破堤により、たびたび水害に見舞われた。「ダイドコロ」と「小間」の奥に、水害への備えとして床高を上げて中2階とした「寝間」が2室ある。「裏中門」には、洪水に備えた防災の知恵がよく表れている。

中門(ちゅうもん)造りは、北陸〜東北地方日本海沿岸に見られる民家の形式の一つで、母屋の土間に棟を違えたおもに馬屋となる突出部(中門)が付くL字型の平面を基本とする。馬屋沿いに母屋への通路を設け,妻の方に出入口をもつことが曲り屋と異なる特徴で、豪雪時の出入りを容易にするためという。

このほか座敷、寝部屋、台所、勝手などを突出させている場合も中門造りと称する。

中門造 の特色は間取にある。最も多い形態は母屋の前方にのみ中門を突出しているもので,これを前(表)中門という 。これと反対に中門が母屋の後方に伸びているものを後(裏)中門という。前中門は一般に ニワで,農作業場・厩等にあてられ,ニワ中門・厩中門とも呼ばれている。後中門はほとんど畳敷の寝間になっているので寝間中門ともいう。

このほか、平面がU字形になるものを両中門、T字形になるものを木槌中門(きづちちゅうもん)、背面に中門を持つものを裏中門、中門が主として入り口になっているもの を玄関中門、主として厩(うまや、まや)になっているものを厩中門と分類することもある。

手前から奥に、仏間、母屋、裏中門。

ニワ(土間)の独立柱。

裏中門。

 

16時ごろに見学を終え、翌日の佐渡日帰り旅行に備えるため、イオンで食料の買い出しをして、道の駅「新潟ふるさと村」へ向かった。


新潟市文化財センター 木簡から分かる蝦夷と渟足柵  山谷古墳出土品 木簡「狄食」「資人」

2024年02月27日 15時57分33秒 | 新潟県

新潟市文化財センター。新潟市西区木場。

2023年10月1日(日)。

角田(かくだ)山(標高481m)東麓・旧巻町の新潟市西蒲区の山谷(やまや)古墳、菖蒲塚(あやめづか)古墳、新潟市巻郷土資料館を見学して、新潟市文化財センターへ向かった。進入交差点が狭すぎて裏から駐車場に入った。

新潟市文化財センターは、埋蔵文化財センターとして、新潟市内の旧石器時代から江戸時代までの700か所以上の遺跡から出土した遺物を時代ごとに展示・解説し、遺跡からみた新潟市の歴史を紹介している。

敷地内には新潟市指定民俗文化財の旧武田家住宅と畜動舎がある。

日本遺産の火焔型土器を展示する博物館の一つでもある。

2023年9月12日から2024年3月24日まで企画展「育てる・紡ぐ・織る 麻の歴史」を開催している。

山谷古墳の出土品。

 

 

 

 

 

新潟市遺跡発掘調査速報会2023~最新調査成果が語る新潟市の歴史~

2024年2月25日(日)

講演「出土文字資料から探る古代の新潟」相澤央氏(帝京大学教授)から抜粋

 

1.渟足柵(ぬたりのき)では何をしていたのか―「狄食(てきしょく)」木簡―

古代の新潟に関する最大の謎は、やはり渟足柵(沼垂城)でしょう。渟足柵は、古代国家が東北地方に居住する蝦夷(古代国家の支配下に入っていない人々)を統治するために設置した城柵の一つです。

さて、そのような渟足柵では何が行われていたのでしょうか。それを教えてくれる出土文字資料が西区の的場(まとば)遺跡で出土した「狄食」と書かれた木簡です。

的場遺跡は、後述するように、公的な漁業基地とみられる奈良・平安時代の遺跡ですが、近年は漁業以外の機能も果たしていたことが指摘されています。役所が関係する遺跡ですので、当然役人がいたわけですが、木簡には「狄食」という文字が繰り返し書かれていて、役人が「狄食」という文字を練習していたことがうかがえます(文字や文章の練習をした木簡を習書木簡と言います)。

それでは、この「狄食」とはどういう意味でしょうか。職員令(しきいんりょう)という古代の法律(役所の名称や役人の職務内容などの規定)によると、陸奥・出羽・越後の国司には、饗給(きょうきゅう)・征討・斥候という蝦夷対策に関する特殊任務が課せられていました。このうちの饗給は、古代国家に服属して朝貢してきた蝦夷に対して食料や物を与えることです。

的場遺跡の木簡に書かれた「狄食」とは、この蝦夷に与える食料のことです。それでは、このような蝦夷の朝貢や饗給はどこで行われていたのでしょうか。的場遺跡の周辺で考えると、やはり一番ふさわしい施設は渟足柵です。渟足柵では、朝貢や饗給といった蝦夷の服属儀礼が行われていたのです。的場遺跡の地で「狄食」という文字を練習していた役人は、「狄食」という文字を書く必要があったわけですから、渟足柵で行われる蝦夷の服属儀礼にかかわっていたのかもしれません。

 ところで、渟足柵で服属儀礼をおこなった蝦夷はどこに住んでいた人々でしょうか。渟足柵は蝦夷の統治をおこなう施設ですので、その周辺に住んでいた人々も古代国家からは蝦夷と認識されていたとみられます。この人たちが渟足柵で服属儀礼をしていたと考えられますが、それだけではなかったかもしれません。

近年、東北北部の特徴をもつ7世紀中頃から8世紀初頭にかけての土師器が阿賀野川以北の遺跡から出土することが指摘されています。7世紀中頃と言えば、『日本書紀』に阿倍比羅夫による東北北部(秋田や能代など)を対象とした遠征が行われたことが記されている時期です。遠征には渟足柵造大伴君稲積も動員されていました。この遠征の時に古代国家に服属し、東北北部から渟足柵が置かれた阿賀北へやってきた蝦夷がいたのかもしれません。このような人たちが渟足柵で服属儀礼をしていたということも考えられるでしょう。

2.古代の新潟の人々が負担した税 ―「杉人鮭(すぎひとのさけ)」木簡―

古代の民衆は、律令の規定によって6年ごとに作成された戸籍に基づいて口分田を支給され、また、毎年作成される計帳(徴税台帳)に基づいて租・調・庸などの諸税を負担しました。租は口分田からの収穫稲の一部で郡家(ぐうけ、郡の役所)の正倉(倉庫)に収納されました。一方、調や庸はさまざまな物品を納める税で、調や庸として納められた物品は都へ運ばれて中央政府の財源となりました。

それでは、古代の新潟に暮らした人々は、調や庸として何を納めていたのでしょうか。『延喜式』という平安時代前期に作成された法令集には、各国がどのような物品を調や庸として納めるべきかということが記されています。それによると、越後国は、調として白絹・絹・布・鮭を、庸として白木韓櫃(しらきのからびつ)・狭布(せばぬの)・鮭を納めることとされています。このうち、白絹・絹・布・白木韓櫃・狭布は他の国にもみられる物品です。

それに対して鮭は、調や庸としては、越後にだけ課せられた物品です。しかも『延喜式』によると、調や庸として鮭を納める場合、他の税目として納める場合よりも、その分量が圧倒的に多いのです。調として鮭を納める場合、正丁(せいてい、21~60歳の男性)一人当たり20匹、庸として鮭を納める場合、正丁一人当たり10匹と定められています。これらの規定からすると、越後からは、毎年、大量の鮭が都へ納入されていたことになります。しかし、『延喜式』は国が作成した法令集です。実際にはどうだったのでしょうか。毎年たくさんの鮭が越後から都へ運ばれていたのでしょうか。それを教えてくれるのが、先にも登場した西区の的場遺跡です。

 的場遺跡は水辺に営まれた奈良・平安時代を中心とする遺跡です。そして、この遺跡を特徴づける遺物は大量に出土した漁具です。漁網に付ける土錘(素焼きのおもり)が約8600点、木製の浮きが約100点見つかりました。このように大量の漁具が出土したわけですから、ここで行われていた漁業は家族や村落レベルで行われたものではないでしょう。この遺跡からは帯金具や木沓といった古代の役人が身につけるものが出土していますので、ここで行われた漁業には役人が関係しています。

おそらく、国や郡の役人が主導して、遺跡周辺の人々を動員し、大規模に漁業を行っていたのではないでしょうか。的場遺跡からは「杉人鮭」と書かれた木簡や、鮭の歯が出土していますので、秋には大量の鮭が獲られていたと考えられます。そして、このようにして捕獲された大量の鮭が、調や庸として、毎年都へ納入されていたのでしょう。『延喜式』という法令集で定められていただけでなく、実態としても、越後では毎年たくさんの鮭が獲られ、調や庸として都へ納められていたのです(ちなみに、八幡林遺跡からは鮭の輸送に関する木簡が出土しています)。このことは、的場遺跡から出土した「杉人鮭」の木簡や大量の漁具などによって明らかになったことです。

3.時代を動かす富豪層の出現 ―「資人(しじん)」木簡―

 9世紀になると、律令の規定に従って実施されてきた古代国家の様々な仕組みがうまく機能しなくなってきました。煩雑な戸籍の作成は滞りがちになり、調や庸として都へ納入された物品は、品質が悪くなったり(粗悪)、期限通りに納入されなくなったり(違期、いご)、あるいは納入すらされなくなったり(未進)しました。また、9世紀は地震や干ばつなどの自然災害が頻発した時代で、疫病もたびたび発生しました。

このような状況の中で、地域では民衆の階層分化がすすみ、貧しい人々はさらに困窮し、豊かな人々はさらに富を貯えていったと考えられます。この時期に新たに勢力を増大させて、台頭してきた人々のことを、研究者は富豪層と呼んでいます。

このような富豪層が、古代の新潟の地にもいたことが、江南区の駒首潟(こまくびがた)遺跡から出土した木簡によって明らかになりました。

 駒首潟遺跡は、標高0m地帯の自然堤防上に立地する9世紀後半の集落遺跡で、発掘調査では、当時の河川の跡とその西側沿いに複数の掘立柱建物や溝、土坑などの遺構が見つかりました。

木簡は河川の跡から3点出土しました。その内の2点(第1号木簡と第3号木簡)は、同じ文字や文章を何度も繰り返し書いて文字や文章の練習をした習書木簡です。第1号木簡は、「我」「衆」「佛」「見」「道」「是」などの文字を何度も繰り返し書いています。練習している文字の内容からすると、経典を手本として文字の練習をしていたのかもしれません(発掘調査では仏堂とみられる建物跡が見つかっています)。

また、第1号木簡には「足羽臣(あすわのおみ)」というウジ名(氏族名)が書かれていて、越前国足羽郡(現在の福井市周辺)から移住してきた人々が駒首潟遺跡の周辺にいたことがうかがえます。第3号木簡は、「諸王臣資人(しょおうしん しじん

)」という語句や「資」「領」などの文字が繰り返し書かれています。「大納言阿倍大夫(たいふ」殿」や「次田連(すきたのむらじ)」のような人名も書かれていますので、単なる文字の練習ではなく、文書の下書きのようです。

 この木簡の解読をしていて、私がまず驚いたのは、「大納言」という語句です。まずは「大納言阿倍大夫殿」とは誰なのかということを明らかにしていきましょう。駒首潟遺跡は9世紀後半の遺跡ですので、木簡に記された「大納言阿倍大夫殿」とは安倍安仁(やすひと、857年に大納言に就任、859年に没)のことと断定できました。また、木簡の年代についても、安倍安仁が大納言に就任していた期間の857年~859年と限定できました。ちなみに安倍安仁は、政務に練達した有能な官僚で、嵯峨上皇に重用された人物です。

 さて、なぜ「大納言」などという語句が、都(平安京)から遠く離れた越後の地で書かれたのでしょうか。この問題を解くキーワードは、木簡に記された「資人」という語句です。資人とは、皇族や貴族に与えられた従者のことで、皇族や貴族が有する位階や官職によって与えられる資人の人数に差がありました。資人は、従者として、皇族や貴族の警護や雑務などに従事しました。木簡には「諸王臣資人」という語句(王臣は皇族や貴族のこと)とともに、「大納言阿倍大夫殿資人」とも書かれています。つまり、時の大納言安倍安仁の従者になった人が駒首潟遺跡の周辺にいたのです。

ところで、9世紀以降になると資人の性格が変化してきます。皇族や貴族の従者ですから、本来であれば都へ行って、皇族や貴族の警固や雑務などに従事するのですが、9世紀以降、都へ行かずに、地元にとどまって、「自分は王臣家の関係者だ」と言って大きい顔をして、国司や郡司などの地方役人と対立して税の納入を拒否したり、騒動を起こしたりする者が出てきます。彼らこそ、さきほど述べた、「富豪層」と呼ばれる新たに台頭してきた人々です。つまり、富豪層が、都の王臣家(皇族や貴族)と結託して、王臣家の資人(従者)となり、「自分のバックには都の王臣家がついているんだ」と言って地方役人と対立して税を納めなかったり、騒動を起こしたりするようになるのです。

駒首潟遺跡の木簡よりも少しあとの時期のことになりますが、文献史料では、延喜2(902)年に越後守の紀有世(ありよ)が、藤原有度(ありのり)という人物によって髪を剃られ、首枷をはめられたという事件が記されています(『日本紀略』延喜2年9月20日条)。この事件のことを記した別の文献史料によると、越後守の紀有世は、「州民(しゅうみん)」(地元の住民)によって捕らえられ、打ちたたかれ、髪を剃られ、首枷をはめられたと書かれています(『小右記』長久元(1040)年5月1日条)。この「州民」の中には富豪層も含まれていたとみられます。

また、藤原有度という人物は、ウジ名(氏族名)からすると、都から地方に来てそのままとどまった土着貴族と考えられます。つまり、この事件は、土着貴族である藤原有度に率いられた地元の富豪層によって越後守紀有世が襲撃されたという事件です。

このような、「土着貴族・富豪層VS.国司」という対立・抗争は、同じ頃の武蔵国や常陸国でもありました。武蔵国では、足立郡司判官代の武蔵武芝と武蔵権守興世(おきよ)王・介源経基との間の対立・抗争に、土着貴族である平将門が武芝の側に立って介入するということになります。

この武蔵国における対立・抗争で、国司の不正を国中に知らしめるために、国司の罪状を記した文書を作成して国庁(国の役所)の前に落とすという方法が取られたのですが、その際、越後国のやり方にならって(「越後国の風を尋ねて」)やったといいます(『将門記』)。902年に起こった越後守紀有世襲撃事件でそのようなことがおこなわれたのでしょう。武蔵国や常陸国における対立・抗争は、のちに平将門の乱へと発展していき、さらには中世の武士の時代へと続いていきます。

富豪層は、古代から中世へ、時代を動かす原動力となったと言えるでしょう。駒首潟遺跡出土の第3号木簡は、このような富豪層が古代の新潟の地にもいたことを明らかにしたのです。

新潟市西蒲区 岩室温泉 山谷古墳 菖蒲塚古墳


新潟市西蒲区 岩室温泉 山谷古墳 菖蒲塚古墳

2024年02月26日 15時00分11秒 | 新潟県

岩室温泉・新潟市岩室健康増進センター「よりなれ」。新潟市西蒲区石瀬。

2023年10月1日(日)。

良寛が住んだ国上山の見学を終えて新潟市方向へ北上し、弥彦神社近くを通って、12時30分ごろ丘の上にある岩室温泉の公共浴場「よりなれ」へ着いた。入浴料は500円だが、身障者は無料。旅行前に「障害者手帳で行こう」のサイトをチェックして気付いた。

受付では驚いたことに、タオル2枚(フェイスタオル、バスタオル)が貸与された。

 

このあと、山谷(やまや)古墳、菖蒲塚(あやめづか)古墳、新潟市巻郷土資料館、新潟市文化財センターを見学した。

山谷古墳。中央の丘。東麓から。新潟市史跡。新潟市西蒲区福井。

角田(かくだ)山(標高481m)南西麓を走る街道の四つ角にある飴屋付近で停車し、場所を尋ねようとしたら、壁に案内図があったので、西方向へ進むと、神社跡地があり、古墳方向への道標と林道があった。付近の路肩に駐車して林道を5分ほど歩くと、丘上の古墳への階段があり、折れ曲がった登り坂を5分ほど登ると、山谷古墳が出現した。

山谷古墳の形状は前方後方墳で、全長37m。矢垂川に近い角田山南麓から東へ張り出した馬背状の尾根の先端部、標高約55mの位置に築造されている。

古墳時代前期中頃4世紀中頃の造営と推定され、新潟県内では、弥彦村の「稲場塚」に次いで古い古墳と考えられ、東方約3kmの地点にある前方後円墳・菖蒲塚(あやめづか)古墳に先行する。墳土下からは軍事的な性格の強い弥生時代後期の高地性集落も確認され、眼下に弥生~古墳時代の拠点集落であった御井戸(おいど)遺跡を見下ろす。

本古墳は、後方部を西に向け、前方部が三味線の撥形に開いた前方後方墳で、後方部は約13mのやや長方形で、墳頂部の高さは約4m。

同形の古墳としては北陸地方2番目の規模をもつ能登半島の「雨の宮1号墳」と墳形が酷似する。

墳丘北側斜面には、前期古墳では異例の周堤をもつ濠や方形壇の造出しを設け、後方部の墳麓に並ぶ2つの小マウンドも特徴的である。

尾根を削って造成した後に土を盛り上げて墳丘を完成させ、そのあとに古墳の後方部の頂上を掘り込み、その底に棺を置いてから土で覆い密閉してある。

後方部中央の埋葬施設には、半裁した丸太の内側をくり抜いて製作した長さ4.8m、幅1.4mの長大な割竹形木棺を用い、遺体は東枕で葬られていた。中には鉄製品3点、管玉7点、ガラス小玉34点が副葬してあった。

古墳南面のくびれ部から、古墳の上から転落したと見られる4世紀頃の土師器の壺と甕が見つかった。

前方部から後方部。

後方部。

後方部から前方部。

後方部くびれ部。

国史跡・菖蒲塚古墳。新潟市西蒲区竹野町。

狭い道や農道の坂を登った坂上の台地にある。

菖蒲塚古墳は、角田山から東にのびる標高26mの台地先端部に位置し、周辺は「越王」(こしわ)と通称されている所である。古墳が築かれた時期は古墳時代前期の4世紀後半と考えられる。

全長53m、後円部径33m、高さ3m、前方部高さ2mと柄鏡形の古式前方後円墳であり、新潟県最大クラスの古墳であるとともに、日本海側北限の前方後円墳として著名で、隣接して直径21mの円墳である隼人塚古墳がある。

古墳復元平面図(右が菖蒲塚)。

両古墳とも緩やかな傾斜を持つ台地の上に古墳の形や規模を決めたあと、それにあわせて外周の地面を掘り込み(周溝)、その際に出た土を盛り上げて墳丘を築いている。その際、土質の異なる土を交互に盛るなどして強化する工夫がなされている。

菖蒲塚古墳の副葬品としては、江戸時代の盗掘で出土した鼉竜鏡(だりゅうきょう)1面が新潟県の有形文化財に指定されている。径22.7cmの仿製鏡(ぼうせいきょう)である。ほかに、勾玉1点、管玉7点がある。また、管玉の中には鉄分が付着したものがあり、鉄製品も一緒に副葬されていたことが分かっている。

他に、周溝内からは壷も出土している。古墳の上から転落したと考えられ、特徴からは古墳時代前期の後半に作られたとされる。

墳丘上から西に弥彦山を眺める。

西へ500mほどの同じ続きの台地にある南赤坂遺跡では、北海道の続縄文土器や折衷土器、石器類などがまとまって出土しており、この種の遺跡の南限となっている。北方から来た人々が一定期間滞在した居留地であった可能性が高く、集落の盛衰は菖蒲塚古墳の築かれた時期と一致する。菖蒲塚古墳に葬られた首長が力をつけていった背景には、そのような北方の人々との交流も大きかっと考えられる。

また、菖蒲塚古墳の墳丘は、平安時代の終わりから室町時代にかけて経典を埋納した経塚としても利用されており、当時この地が神聖な場所として広く人々に認識されていたことが分かる。

 

このあと、新潟市巻郷土資料館を見学した。撮影禁止であったが、職員が案内してくれて「越後毒消し」や「のぞきからくり」を興味深く拝見した。

その後、西区の新潟市文化財センターへ向かい、古墳時代の展示などを見学した。

新潟県 弥彦神社 国上寺 良寛が住んだ五合庵・乙子神社


新潟県 弥彦神社 国上寺 良寛が住んだ五合庵・乙子神社

2024年02月25日 15時05分51秒 | 新潟県

弥彦神社。随神門。新潟県弥彦村弥彦。

昭和15年(1940)建立。門内の左右には紀伊国熊野から伊夜日子大神に随行し、大神の宮居を警護する長気(おさげ・向かって右側)・長邊(おさべ・向かって左側)の兄弟神を奉祀している。

2023年10月1日(日)。

道の駅「新潟ふるさと村」で起床。翌2日は佐渡へ日帰り旅行。1か月以上前にレンタカーを予約しておいた。本日は、新潟市西郊方面の見学である。まず、越後国一宮の弥彦神社へ向かった。80年代後半に訪れているので2度目の参拝である。前回は、弥彦山上から海のように浸水している越後平野の国見をしている。午前中、弥彦山周辺は雨が降っていた。上の駐車場に駐車して、参道へ向かった。参拝後は、弥彦山から西南に続く良寛ゆかりの国上山(くがみやま)へ向かった。

弥彦神社。随神門から参道。

弥彦神社。入母屋造向拝付の拝殿。

現在の本殿以下の諸殿舎は明治末の焼失後、近代神社建築の泰斗・伊東忠太の設計により、大正5年(1915)に再建された。

祭神の天香山命(あめのかごやまのみこと)は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。別称伊夜日子大神。

尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。

国上寺(こくじょうじ)。本堂。新潟県燕市国上。

国上寺は、国上山(くがみやま)の中腹にある真言宗豊山派の寺院である。国上山は、角田山や弥彦山から連なる弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置し、標高は312.8m。江戸時代後期に良寛が住んだことで知られる。山頂から約1キロ弱南の中腹に国上寺があり、その手前に良寛が居住地とした五合庵、乙子神社もある。県道405号国上公園線が中腹まで通じており、車で国上寺、五合庵、乙子神社を見ることができる。

駐車場のあるビジターサービスセンターから、国上寺までは、少し登るだけである。良寛ゆかりの五合庵は境内から下った離れた場所にあり、さらに山中の遊歩道を歩いて、千眼堂吊り橋、朝日山展望台を巡って一周し、駐車場へ帰った。車で下る途中に、乙子神社がある。

国上寺本堂の壁面には、上杉謙信、源義経、武蔵坊弁慶、良寛禅師、酒呑童子の5人の現代アート風イケメン仏画が描かれている。

国上寺は、和銅2年(709年)創建の県内最古の名刹で、境内には本堂のほか、客殿、六角堂、大師堂、一切経堂、鐘楼堂、宝物殿などの重厚な建物が建ち並ぶ。

弥彦神社から神託があり、修験道の僧侶泰澄が創建したものという。修験道の寺院であったが、その後、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派へと変わり、最終的には真言宗豊山派となっている。

平安時代末期、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州に逃れる途中、当寺に一時身を隠していたという伝説がある。戦国時代、上杉謙信が七堂伽藍として整備したが、後に兵火で焼失している。江戸時代中期になり萬元によって中興された。

「国上やま苔の岩みちふみならし幾度われはまいりけらしも」と良寛上人が詠んでいる。

雷井戸。

鏡井戸。酒呑童子(しゅてんどうじ)はこの寺のイケメン稚児であったという伝説。

五合庵。白木造藁葺、間口2間、奥行9尺、面積4.5坪。

五合庵の名は国上寺の客僧萬元が貫主良長の扶養を受け、1日5合の米を寺より支給されていたことによって名づけられた。

良寛が、文化元年47歳頃から文化13年までの最盛期を過ごしたことで有名になった。「焚くほどは 風がもてくる落葉かな」。良寛直筆の落葉の句碑が五合庵のそばに建てられている。

現在の堂宇は良寛在庵時のままではなく、大正3年の再建である。

良寛(1758―1831年)。禅僧、歌人、漢詩人。越後出雲崎町の名主兼神職の橘屋山本泰雄の長子として生まれた。母は佐渡相川山本庄兵衛の女。幼名栄蔵、のち文孝、剃髪して良寛、大愚(たいぐ)と号した。18歳のとき一時家を継いだが、同年、隣町尼瀬町曹洞宗光照寺に出家して良寛と称した。1775年(安永4)備中国玉島(岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚が光照寺滞在中感銘し、随行して玉島に赴き十数年間師事する。中国、四国、九州を行脚し、京都から高野山に上り40歳を過ぎてから越後に帰った。

越後へ帰国後は寺泊などを転々し、さらに国上山山腹の草庵五合庵にひとりで住み、ここで15、6年を過ごした。のち、69歳のとき国上山麓の乙子(おとご)神社境内に庵をつくって移ったが、老衰のため、三島(さんとう)郡島崎村(現長岡市島崎)の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受けた。そのころ若い尼貞心尼の来訪を受け、没するまで密接な交遊があった。5年目の天保2年正月6日没した。

良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子供を好み、手毬とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。

彼は、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。どれも一流であるが、どれにも師がなかったらしい。歌人としての良寛がもっとも広く知られているが、和歌の師は『万葉集』で、人に借りてこれを愛読し、進んでその影響を受けた。

彼の歌は正直で純真である。人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させる。

良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。

良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵、乙子神社の庵跡に良寛の詩と歌を刻んだ碑、島崎の木村家邸内に遷化跡の標示と良寛遺宝堂、出雲崎町に良寛記念館がある。

「千眼堂吊り橋」は、越後平野を一望できる朝日山展望台と五合庵を結ぶ長さ124mの赤い吊り橋で1991年に完成した。

越後平野を一望できる朝日山展望台からの風景。

国上山の南側には1922年(大正11年)に竣工した大河津(おおこうづ)分水路が日本海に注いでいる。

大河津分水路は、河口から約55km、新潟県のほぼ中央部で信濃川が日本海に最も近づく地点の大河津から寺泊海岸までの全長約10kmを繋いだ人工水路である。信濃川の洪水を日本海へ流し、日本有数の穀倉地帯である越後平野を水害から守っている。

越後平野はかつて、信濃川の度重なる洪水によって壊滅的な被害を受けてきた。往時の信濃川は一旦増水すると堤防が切れ多くの地域が水に浸かり、一度溜まった水は容易にはけなかった。そこで増水した信濃川の水の一部を越後平野に入る前に、日本海へ流す分水施設が大河津村(現在の燕市五千石)に造られた。そこでは、洪水を日本海へ流し、越後平野に安定した水を供給するために、洗堰・固定堰・可動堰の3つの堰が設けられている。

乙子(おとご)神社。

乙子神社は弥彦神社の末社にあたる。乙子神社の乙子とは「末子」という意味で、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と彌彦神社の祭神・天香山命(あめのかごやまのみこと)の第6子(末子)である建諸隅命(たけもろずみのみこと)を祀っている

文化13年(1816)良寛59歳の時、五合庵の老朽化と朝夕の山坂の登り降りが老身にこたえ、五合庵の下にある乙子神社社務所の草庵に移り住み、文政9年(1826)に木村家の庵室に移るまで、10年間居住した。この草庵における10年間がもっとも良寛の芸術が円熟した時期にあたり、多くの遺墨を残している。

この草庵は昭和62年に再建され今に至っている。

境内にある現存最古の良寛の詩歌碑。

境内には、安政5年(1858)良寛が亡くなって27年後、阿部定緝、小川霞山が中心となって建立された石碑があり、「生涯懶立身 謄々任天真」※ と、その境地に触れられる碑文が刻まれている。現存する良寛の詩歌碑としては最も古いものであるとされている。

「生涯身を立つるに懶(ものう)く、謄々(とうとう)として天真に任す」と読まれる。

 

このあと、北方向へ進み、岩室温泉へ向かった。

新潟市 旧新潟税関庁舎 旧第四銀行住吉町支店 万代そば「バスセンターのカレー」