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京都嵯峨野 祇王寺 二尊院・阪東妻三郎の墓 竹林の小径 野宮神社  

2024年08月28日 16時31分30秒 | 京都府

竹林遊歩道。京都市右京区嵯峨天龍寺立石町。

2024年8月24日(土)。

化野念仏寺の千灯供養を見学するための日帰り旅行をするにあたり、ついでに付近の寺社などを見学することにした。天龍寺・大覚寺・清涼寺・大河内山荘などのA級観光地は80年代にすでに観光しているし、現在は紅葉期のみ公開に変更された非公開寺院の厭離庵も80年代に「秋の特別公開」で拝観している。

ネットで検討した結果、ここ5年ほどテレビでよく見る嵐山の竹林と源氏物語ゆかりの野宮神社、障害者無料の二尊院と祇王寺を見学することにした。JR嵯峨嵐山駅から化野への往復はバスは使いづらく、徒歩のみにした。

京都駅11時57分発の電車に乗り、嵯峨嵐山駅に12時13分に着いた。駅前の観光案内図とグーグルマップをたよりにして、外人が行きかう狭い道を進むと、ごった返している竹林遊歩道の入口が見えた。

竹林遊歩道を曲がり角まで歩くと、今では珍しいゴミ箱があったので、車内で食べた弁当の容器を捨てた。

右に曲がってすぐの脇道は立ち入り禁止で、人力車専用通路になっていた。

野宮神社。京都市右京区嵯峨野々宮町。

野宮(ののみや)神社は、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられた。その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。祭神は、野宮大神(天照皇大神)で、現在は縁結びの神様として知られる。

野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。斎王の制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、度重なる戦乱の中で衰退した。後に後奈良天皇、中御門天皇らの綸旨により再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を受けている。

野宮神社は、源氏物語の第10帖「賢木」(さかき)の巻に描かれている。

光源氏の愛人である六条御息所は、正妻の「葵上」(あおいのうえ)を無意識のうちに憑り殺してしまい、結果として、光源氏の心は六条御息所から離れてしまう。六条御息所は光源氏への未練を断ち切り、光源氏と面会しないまま、斎王を務める幼い娘に同行して伊勢国へ下る決意をした。

一方光源氏は、心が離れたと言っても六条御息所を不憫に思い、野宮社へと向かい。六条御息所と、久方ぶりに対面をした。六条御息所は、伊勢国への下向を思いとどまるよう言い募る光源氏に決心が揺らぐが、すでに決定した下向は取り消せず、心を乱したまま都を離れた。

 

野宮神社の境内は混雑していたが、北側の庭園は静かだった。神社を出て北側へ歩き、JR嵯峨野線の線路を渡ると、「嵯峨野竹林の小径」を歩くことになる。

嵯峨野竹林の小径。京都市右京区嵯峨野々宮町。

調べたときに、竹林遊歩道とどう違うのか分からなかった。野宮神社から西へ向かう人の流れがあるので、やや人の流れは少なくなる。違いといえば、「竹林の散策路」という立ち入りできる竹林内の周回路があることだ。

北西の二尊院方向へ進むと、松尾芭蕉の門人であった俳人向井去来の草庵跡である落柿舎の茅葺屋根が見えたが、80年代に見学しているので、そのまま進む。

去来先生墳。

二尊院(にそんいん)。総門。京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町。

総門は、慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門角倉了以によって移築・寄進されたものである。室町時代の建築として京都市指定文化財となっている。唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦など多彩な文様がある。2014年には瓦葺き工事により江戸時代の柄のまま復元された。

二尊院は天台宗の寺院で、山号は小倉山本尊は釈迦如来と阿弥陀如来。二尊院の名は本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。寺名のもととなっている二尊は、極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遣の釈迦」と、彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遣迎二尊で、この思想は、中国の唐の時代に善導大師が広めた「二河白道喩」というたとえによるものである。

総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。また奥には小倉百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。

また、小倉あん発祥の地として伝わる。

平安時代初期の承和年間(834年~ 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝わる。以後荒廃するが、鎌倉時代初期に法然の高弟だった第3世湛空らにより再興された。湛空は土御門天皇と後嵯峨天皇の戒師を務めている。

嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際には、法然の遺骸を天台宗の僧兵から守るために法然廟所から二尊院まで六波羅探題の武士団らに守られながら遺骸が移送された。

第4世叡空は後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇、伏見天皇の四帝の戒師を務めている。

南北朝時代から御黒戸四箇院(廬山寺・二尊院・般舟三昧院・遣迎院)の一つとして、御所内の仏事を明治維新まで司っている。そのため、鷹司家や二条家などの公家の墓が数多くある。

室町時代になると応仁の乱による延焼で堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)、後奈良天皇の戒師を務めた第16世恵教上人の代に三条西実隆が寄付金を集めて再建している。

勅使門(唐門) 。 永正18年(1521年)、三条西実隆によって再建。勅使門に掛かる勅額「小倉山」は後柏原天皇の宸筆である。

本堂(京都市指定有形文化財) 。 永正18年(1521年)、三条西実隆によって再建。本堂に掛かる勅額「二尊院」は後奈良天皇の宸筆である。

菖蒲谷隧道・木樋管。吉田光長・吉田光由功績解説板。

和算の書『塵効記』の著者である吉田光由(1598年~1672年)は,豪商角倉了以の一族で,京都嵯峨に生まれた。 江戸時代成立(1603年)後,戦乱はおさまり,商業,工業が急速に発達する中,その社会的なニーズに答えた『塵効記』は,1627年の刊行後,ソロバンを使った計算法を記載した算術の教科書として庶民に爆発的に受け入れられ,著者である光由の名は全国に知られるようになった。

光由は,和算家毛利重能に師事し,一族の角倉了以や角倉素庵から教えを受け,中国の算法統宗を手本に『塵効記』を著したことに加え,兄の光長とともに北嵯峨に農業用トンネル水路の菖蒲谷随道を工事したことでも有名である。ここ二尊院は吉田・角倉一族の菩提寺であり,調査の結果,この場所が光由の眠る場所であると推定されている。

阪東妻三郎・田村高廣親子・田村家の墓。

映画俳優の阪東妻三郎(1901年~1953年)の本名は田村傳吉(でんきち)。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、「剣戟王(けんげきおう)」の異名を持つ。日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、双方で高い実績を残し、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。

5人の子どものうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人は俳優となった。

祇王寺(ぎおうじ)。京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町。

真言宗大覚寺派の寺院(尼寺)。大覚寺の境外塔頭。山号は高松山。法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる浄土宗の往生院の旧跡である。

『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、白拍子の祇王(21歳)は平清盛の寵愛を受けていた。そこに、若い仏御前(17歳)が現れてその座を奪われてしまい清盛の邸を追われた祇王は、妹の祇女(19歳)、母の刀自(45歳)とともに尼となった。それが嵯峨の奥にあった往生院に建てられていた庵であるという。この後に“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前が旧怨を捨てた祇王母子に加わり、4人で念仏三昧の余生をこの地にて送ったという話が記載されている。

中世以降次第に衰退していった往生院は、明治初年には廃寺となり荒れ果てしまい、残された墓と木像等は旧地頭の大覚寺によって保管された。時の大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しんで往生院の再建を計画した。そこに、1895年(明治28年)に元京都府知事の北垣国道が嵯峨にある自らの別荘から茶室を寄進するとの話があったため、楠玉諦はこれを再建寺院の本堂とし、再興を遂げた。その際、寺名は新たにこの地にゆかりがあるとされた祇王からとって祇王寺とされた。

以後約7年間は京都の水薬師寺の六条智鏡尼(眞照師)が住職を兼務したが、智鏡尼の他界後は衰微し、無住となって再び荒廃した。1935年(昭和10年)からは東京新橋の元名物芸妓照葉こと高岡智照が庵主・智照尼として入庵し、復興発展に尽くした。

境内庭園 の 苔の庭。苔の庭で知られ、秋の散り紅葉が見事である。

本堂控えの間にある大きな丸窓は吉野窓と呼ばれる。

祇王・祇女・刀自の墓(宝篋印塔)。平清盛供養塔。

 

このあと、化野念仏寺に向かった。

京都嵯峨野 化野(あだしの)念仏寺の千灯供養 愛宕念仏寺 嵯峨鳥居本・町並み保存館


京都嵯峨野 化野(あだしの)念仏寺の千灯供養 愛宕念仏寺 嵯峨鳥居本・町並み保存館

2024年08月26日 16時42分19秒 | 京都府

化野(あだしの)念仏寺の千灯供養。京都市右京区嵯峨鳥居本化野町。

2024年8月24日(土)。

化野念仏寺は、化野地区に葬られた人々の霊を祀る供養の地で、千灯供養は、境内8000体の石仏・石塔群にローソクの灯がともる夏の嵯峨野の風物詩である。

 

名古屋から京都は近いので日帰り観光が基本になる。1960年代の小学校の修学旅行はさておき、1979年に交通公社(JTB)のポケットガイド「京都」を購入してからは、1980年代には年に10回近く寺社や博物館・美術館に通ったので、ほとんどの観光地には行っている。90年代以降は、ほとんど行かなくなったが、常照皇寺、城南宮、化野念仏寺に行っていないことが気がかりだった。化野念仏寺は千灯供養を見ないと意味がないが、当時は8月23日24日の固定で、ハガキによる予約が必要なのでなかなか実現できなかった。

2021年4月に常照皇寺の桜、2022年10月に城南宮を見学して、残るのは化野念仏寺だけになった。2021年ごろから、化野念仏寺の千灯供養をチェックしたが、コロナで中止になっていた。2023年に復活したが、安い行き方の検討をするだけで結論ができなかった。19時まで滞在するとして、交通はバスはあるが本数は少ない、ユースホステルに泊まるか、マイカーで行って市内の障害者用無料駐車場に駐車して、イベント後は道の駅で泊まるか、とか考えあぐねてきた。費用に糸目をつけなければどういう贅沢な手段でも可能であるが、安く仕上げるのが知的エンタメの醍醐味であるのだ。

結局は、いつものようにJR東海道線の快速を使うことにした。JR大曽根駅9時9分発、名古屋駅9時31分発、米原10時50分発、京都11時57分発で嵯峨嵐山駅12時13分着である。帰りは嵯峨嵐山駅19時37分発で乗り継げば大曾根駅に22時39分着である。

嵯峨嵐山駅から化野の往復は徒歩のみ。バスは使いづらい。数か月前に村上隆展も面白いとは思っていたが、余分な歩きは身体に負担が多い。昼着で充分。その代わり、テレビでよく見る、嵐山の竹林、野宮神社、障害者無料の二尊院と祇王寺、嵯峨鳥居本町並み保存館を見学することにしたのが、水曜日ごろ。

化野念仏寺の千灯供養は8月下旬の最終土日曜日、17時30分から受付、18時開場。千灯供養の予約制は廃止されている。

水曜日ごろから京都周辺もゲリラ豪雨の可能性が出てきた。木曜日に天気予報を見ていると、土曜日も日曜日も危なそうだったので、今年は諦める気分になって携帯食の購入もしなかったが、金曜日の夜に天気予報を見ると、土曜日は大丈夫そうだったので、今年諦めたら翌年行けるかどうか怪しいと思い、急遽行くことにした。

8月24日(土)朝は7時前に起きられたので、いよいよ気持ちにゴーサインが出た。駅前のコンビニで弁当は半額、おにぎりは2割引きがあったのも幸運の印であった。大曽根駅の「みどりの窓口」で障害手帳を見せ、運賃半額の往復3080円で購入。片道だと1540円と安い。今知ったが、名古屋駅発だと1320円。青春18キップという手もあるなと、あとで気づいたが、金券ショップでも1回分だと3000円ほどだろうし、行くかどうか決めていなかったので仕方がない。「みどりの窓口」は激込み問題が発生しているので、急いでかけつけたが、先客が一人いて終わるところだった。購入後に見ると6人ほど並んでいた。

JR乗車後は空いていたせいか座りっぱなし。京都駅乗車後に車内で弁当を食べた。周囲の半分は欧米人客だった。定刻通りに嵯峨嵐山駅へ到着。以降は真夏の太陽に汗だくになった。17時頃から雷の音がしだしたが、雨雲レーダーを見ていると、数キロの違いで化野念仏寺周辺は降雨なしが続いた。

帰りはJR東海道線がゲリラ豪雨に見舞われて、運転見合わせが続き、名古屋駅到着が翌日の4時50分になった。18時30分に化野念仏寺を出て、グーグルマップの経路を見続けて嵯峨嵐山駅に19時5分頃に到着した。19時19分京都行に乗車。20時1分発長浜行き快速に乗車。雨が降ってきた彦根手前で、琵琶湖線が車両故障により運転見合わせの放送。米原駅で運転打ち切りになった。長浜方面の利用客はどうなるのか気になったが、すぐに自分もその境遇になるとは思わなかった。

米原21時7分浜松行き快速は定刻通り出発。柏原の手前で停車。柏原・大垣間が雷と豪雨で運転見合わせと放送。10分ほどで柏原駅に21時30分ごろ到着。待っている間に、雨雲レーダーを見て小降りになったから運転すればいいのにと思った。名古屋駅に23時30分ごろに着けば自宅まで乗り継げるのだが、と思っていると、1時間ほど経って大垣・名古屋間も運転見合わせになった。伊吹山方向を見ると、雷が横方向に走っていた。昔、松本深志高校の山岳部が北アルプスで多数落雷死したのも、横に雷が走ってきたためらしい。23時30分から大垣駅まで運転再開と放送。前に列車が詰まっていたらと思ったら、やはり実際には20分ほど待たされた。24時過ぎに大垣駅到着。車掌は柏原駅から何度も巡回していたので、名古屋駅で列車ホテルでも用意してくれるのか聴こうとしたが、その必要もなくなった。この列車自体が列車ホテルになったのだ。幸い、乗客は少なく、4人席を一人で使えた。ただし冷房は寒い。こういうこともあろうかと、登山用の耐寒保温できるTシャツに着替えてきたので何とか耐えられた。

運転計画の案内があり、浜松行き快速が豊橋行き各駅停車に変更された。2時30分ごろに運転再開という。なるべく遅く名古屋に着いてもらったほうが、列車ホテルとしてはありがたい。実際には出発は3時30分ごろになり、4時50分に名古屋駅に着いた。ベンチを見つけて、5時40分の中央線多治見行を待ち、6時15分ごろに帰宅した。

化野念仏寺。参道入口。

参道入口は目立つ。15時ごろに通りかかったが、この先にある16時閉館の嵯峨鳥居本町並み保存館と鮎茶屋の平野屋を見学しようといったん通過した。

嵯峨鳥居本町並み保存館。京都市右京区嵯峨鳥居本仙翁町。

入場は無料。重伝建・嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区の北端にあり、鳥居本に到着する直前にある。保存館は、明治時代初期にこの地に建てられた民家を見学できるように修理や整備をしたもので、虫籠窓や大屋根の煙り出しなどに奥嵯峨の伝統を残している。

鮎茶屋の平野屋。模型。

昭和初期の愛宕街道の町並みを精密に復元した模型も展示されている。戦前期に愛宕山鉄道という複線の電車が走っていたが、金属供出により廃線となり、廃線路はバス路線になっている。

おくどさん。宝珠の飾りが珍しい。

外人客がいなかったので、少ないのかと尋ねると、通常は9割が外人客だという。平野屋の先の愛宕念仏寺(千手せんじゅ)が外人客に人気があると教えられたので、鮎茶屋の平野屋を経て見学することにした。

鮎茶屋の鳥居本・平野屋。

愛宕(おたぎ)念仏寺。京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町。

平野屋から坂道を5分ほど登り、バス道路と出会う位置に来ると、外人数十人が密集していた。拝観料400円だったが、受付で障害者割引を尋ねると、無料だった。合掌。

天台宗の寺院で、本尊は厄除千手観音。別名千二百羅漢の寺。愛宕山愛宕神社参道の山麓の入り口に位置する「嵯峨野めぐりの始発点」として知られる。

天平神護2年(766年)、称徳天皇により今の京都・東山松原通の地、六波羅蜜寺の近くに愛宕寺として創建された。寺名の由来は山城国愛宕郡に初めて建てられた寺院だからだという。

平安時代初め、醍醐天皇の時代、すでに荒れ寺となっていたところ、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失、廃寺となってしまった。その後、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。念仏上人と呼ばれていた千観が当寺で念仏を唱えていたことから、当寺はその名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

1922年(大正11年)、本堂の保存のために現在地に移築・移転し、復興を図る。しかし、太平洋戦争中に無住となり、1950年(昭和25年)のジェーン台風で当寺は大きな被害を受けて荒れ果ててしまい、ついに廃寺となった。

1955年、仏師で僧侶の西村公朝が天台宗本山延暦寺から当寺の再興を命じられ、住職に任じられた。清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。わしも手伝ってやるから」との激励を受け、復興に取りかかった。

1980年(昭和55年)、10年がかりの仁王門の解体修理が始められた他、本格的に境内の復興に着手している。1981年からは一般の素人の参拝者が自ら羅漢像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」が始められた。当初は500体が目標だったが、10年後には1,200体に達した。

石像千二百羅漢像。

化野念仏寺の千仏にあやかったものだろう。

三宝の鐘。

 

 

本堂(重要文化財) 。 鎌倉時代中期再建。本尊の千手観音が祀られている。

石像千二百羅漢像の裏側には制作者の名前が書かれている。

仁王門を見下ろす。外人がひっきりなしにやってくる。

化野念仏寺に戻る。

化野念仏寺。

参道入口に戻ると16時だった。千灯供養のときだけ入るつもりだったが、受付の様子を確認しようと受付に行くと、千灯供養は1000円だが、拝観は障害者無料と教えられたので、内部の様子を見ることにした。

化野(あだしの)は古くから鳥辺野などと並ぶ葬送の地や追悼の地としての役割を果たしており、この地区の名前は、はかなさを意味している。

化野念仏寺浄土宗の寺院である。風葬されていた野ざらしの遺骸を弘法大師空海が埋葬し人々の霊を祀るため、五智山如来寺を建立したのがはじまりとされる。

その後、浄土宗の開祖である法然は、この寺院を、念仏と呼ばれる祈願の形式を修行する念仏道場へと転換させた。念仏とは、極楽浄土へ生まれ変われるよう阿弥陀如来の名前を唱えるものである。

右側が西院の河原。

西院の河原。内部では撮影禁止となっている。

あだし野念仏寺の最も注目すべき特徴の1つは、何世紀にもわたってこのエリアに葬られた人々の約8000の石仏・石塔を保存するための専用の空間である西院の河原で、境内から出土した多くの石仏・石塔を明治時代中頃に一カ所に集め、それらを供養するための浄土が形づくられた。

16時30分ごろ外に出て、どこかで座って待とうと道を下ったが、痙攣しそうになったので、人形の館前の石に座った。17時ごろになると化野念仏寺方向へ向かう人が多くなったので、あわてて化野念仏寺に戻ると10人ほどが石段脇の石に座って順番を作っていた。半分近くが外人である。

17時30分になると門があき、受付で1000円払うとローソクと説明をもらった。さきほど寺自体は拝観しているので本堂へ行かず、西院の河原方向へ進むと、地蔵堂北側のロープ横に係員がいて、ここに並んでくださいと言われ、今度は私が列の先頭になった。

18時からは、導師一群の入場があり、地蔵堂で仏事ののち、西院の河原を回った。18時15分ごろから一般参拝が始まった。

幽玄な千灯供養。

約8000体の石塔・石仏に灯明を捧げるこの行事は、参拝者によって点火され、幻想的な世界が演出される。

18時30分ごろに寺を出た。