竹林遊歩道。京都市右京区嵯峨天龍寺立石町。
2024年8月24日(土)。
化野念仏寺の千灯供養を見学するための日帰り旅行をするにあたり、ついでに付近の寺社などを見学することにした。天龍寺・大覚寺・清涼寺・大河内山荘などのA級観光地は80年代にすでに観光しているし、現在は紅葉期のみ公開に変更された非公開寺院の厭離庵も80年代に「秋の特別公開」で拝観している。
ネットで検討した結果、ここ5年ほどテレビでよく見る嵐山の竹林と源氏物語ゆかりの野宮神社、障害者無料の二尊院と祇王寺を見学することにした。JR嵯峨嵐山駅から化野への往復はバスは使いづらく、徒歩のみにした。
京都駅11時57分発の電車に乗り、嵯峨嵐山駅に12時13分に着いた。駅前の観光案内図とグーグルマップをたよりにして、外人が行きかう狭い道を進むと、ごった返している竹林遊歩道の入口が見えた。
竹林遊歩道を曲がり角まで歩くと、今では珍しいゴミ箱があったので、車内で食べた弁当の容器を捨てた。
右に曲がってすぐの脇道は立ち入り禁止で、人力車専用通路になっていた。
野宮神社。京都市右京区嵯峨野々宮町。
野宮(ののみや)神社は、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられた。その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。祭神は、野宮大神(天照皇大神)で、現在は縁結びの神様として知られる。
野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。斎王の制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、度重なる戦乱の中で衰退した。後に後奈良天皇、中御門天皇らの綸旨により再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を受けている。
野宮神社は、源氏物語の第10帖「賢木」(さかき)の巻に描かれている。
光源氏の愛人である六条御息所は、正妻の「葵上」(あおいのうえ)を無意識のうちに憑り殺してしまい、結果として、光源氏の心は六条御息所から離れてしまう。六条御息所は光源氏への未練を断ち切り、光源氏と面会しないまま、斎王を務める幼い娘に同行して伊勢国へ下る決意をした。
一方光源氏は、心が離れたと言っても六条御息所を不憫に思い、野宮社へと向かい。六条御息所と、久方ぶりに対面をした。六条御息所は、伊勢国への下向を思いとどまるよう言い募る光源氏に決心が揺らぐが、すでに決定した下向は取り消せず、心を乱したまま都を離れた。
野宮神社の境内は混雑していたが、北側の庭園は静かだった。神社を出て北側へ歩き、JR嵯峨野線の線路を渡ると、「嵯峨野竹林の小径」を歩くことになる。
嵯峨野竹林の小径。京都市右京区嵯峨野々宮町。
調べたときに、竹林遊歩道とどう違うのか分からなかった。野宮神社から西へ向かう人の流れがあるので、やや人の流れは少なくなる。違いといえば、「竹林の散策路」という立ち入りできる竹林内の周回路があることだ。
北西の二尊院方向へ進むと、松尾芭蕉の門人であった俳人向井去来の草庵跡である落柿舎の茅葺屋根が見えたが、80年代に見学しているので、そのまま進む。
去来先生墳。
二尊院(にそんいん)。総門。京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町。
総門は、慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものである。室町時代の建築として京都市指定文化財となっている。唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦など多彩な文様がある。2014年には瓦葺き工事により江戸時代の柄のまま復元された。
二尊院は天台宗の寺院で、山号は小倉山。本尊は釈迦如来と阿弥陀如来。二尊院の名は本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。寺名のもととなっている二尊は、極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遣の釈迦」と、彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遣迎二尊で、この思想は、中国の唐の時代に善導大師が広めた「二河白道喩」というたとえによるものである。
総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。また奥には小倉百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。
また、小倉あん発祥の地として伝わる。
平安時代初期の承和年間(834年~ 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝わる。以後荒廃するが、鎌倉時代初期に法然の高弟だった第3世湛空らにより再興された。湛空は土御門天皇と後嵯峨天皇の戒師を務めている。
嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際には、法然の遺骸を天台宗の僧兵から守るために法然廟所から二尊院まで六波羅探題の武士団らに守られながら遺骸が移送された。
第4世叡空は後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇、伏見天皇の四帝の戒師を務めている。
南北朝時代から御黒戸四箇院(廬山寺・二尊院・般舟三昧院・遣迎院)の一つとして、御所内の仏事を明治維新まで司っている。そのため、鷹司家や二条家などの公家の墓が数多くある。
室町時代になると応仁の乱による延焼で堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)、後奈良天皇の戒師を務めた第16世恵教上人の代に三条西実隆が寄付金を集めて再建している。
勅使門(唐門) 。 永正18年(1521年)、三条西実隆によって再建。勅使門に掛かる勅額「小倉山」は後柏原天皇の宸筆である。
本堂(京都市指定有形文化財) 。 永正18年(1521年)、三条西実隆によって再建。本堂に掛かる勅額「二尊院」は後奈良天皇の宸筆である。
菖蒲谷隧道・木樋管。吉田光長・吉田光由功績解説板。
和算の書『塵効記』の著者である吉田光由(1598年~1672年)は,豪商角倉了以の一族で,京都嵯峨に生まれた。 江戸時代成立(1603年)後,戦乱はおさまり,商業,工業が急速に発達する中,その社会的なニーズに答えた『塵効記』は,1627年の刊行後,ソロバンを使った計算法を記載した算術の教科書として庶民に爆発的に受け入れられ,著者である光由の名は全国に知られるようになった。
光由は,和算家毛利重能に師事し,一族の角倉了以や角倉素庵から教えを受け,中国の算法統宗を手本に『塵効記』を著したことに加え,兄の光長とともに北嵯峨に農業用トンネル水路の菖蒲谷随道を工事したことでも有名である。ここ二尊院は吉田・角倉一族の菩提寺であり,調査の結果,この場所が光由の眠る場所であると推定されている。
阪東妻三郎・田村高廣親子・田村家の墓。
映画俳優の阪東妻三郎(1901年~1953年)の本名は田村傳吉(でんきち)。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、「剣戟王(けんげきおう)」の異名を持つ。日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、双方で高い実績を残し、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。
5人の子どものうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人は俳優となった。
祇王寺(ぎおうじ)。京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町。
真言宗大覚寺派の寺院(尼寺)。大覚寺の境外塔頭。山号は高松山。法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる浄土宗の往生院の旧跡である。
『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、白拍子の祇王(21歳)は平清盛の寵愛を受けていた。そこに、若い仏御前(17歳)が現れてその座を奪われてしまい清盛の邸を追われた祇王は、妹の祇女(19歳)、母の刀自(45歳)とともに尼となった。それが嵯峨の奥にあった往生院に建てられていた庵であるという。この後に“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前が旧怨を捨てた祇王母子に加わり、4人で念仏三昧の余生をこの地にて送ったという話が記載されている。
中世以降次第に衰退していった往生院は、明治初年には廃寺となり荒れ果てしまい、残された墓と木像等は旧地頭の大覚寺によって保管された。時の大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しんで往生院の再建を計画した。そこに、1895年(明治28年)に元京都府知事の北垣国道が嵯峨にある自らの別荘から茶室を寄進するとの話があったため、楠玉諦はこれを再建寺院の本堂とし、再興を遂げた。その際、寺名は新たにこの地にゆかりがあるとされた祇王からとって祇王寺とされた。
以後約7年間は京都の水薬師寺の六条智鏡尼(眞照師)が住職を兼務したが、智鏡尼の他界後は衰微し、無住となって再び荒廃した。1935年(昭和10年)からは東京新橋の元名物芸妓照葉こと高岡智照が庵主・智照尼として入庵し、復興発展に尽くした。
境内庭園 の 苔の庭。苔の庭で知られ、秋の散り紅葉が見事である。
本堂控えの間にある大きな丸窓は吉野窓と呼ばれる。
祇王・祇女・刀自の墓(宝篋印塔)。平清盛供養塔。
このあと、化野念仏寺に向かった。