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京都 北野天満宮 史跡御土居のもみじ苑公開 

2024年12月10日 09時47分12秒 | 京都府

北野天満宮。史跡御土居のもみじ苑公開

2024年12月7日(土)京都へ行き、千本釈迦堂の大根炊き北野天満宮の紅葉を見学した。13時10分ごろに千本釈迦堂を出て、西に10分ほど歩き北野天満宮の境内に入った。史跡「御土居(おどい)」は、数年前にブラタモリで紹介されてから、実際に見学しようとしていたが、観光名所ではないので訪問しずらい。

もみじ苑公開は、2024年10月25日(金)~12月8日(日)。12月15日(日)まで延長。

「御土居(おどい)」は豊臣秀吉公が築造した京廻りの土塁で、史跡に指定されている。北野天満宮の「御土居」は原型に最も近く、そこに並ぶカエデの紅葉は、脇に流れる紙屋川の水面に映え、野趣に富んだ風景が楽しめる。中学生以上:1200円(お茶菓子付)

豊臣秀吉公の築いた史跡御土居に自生する約350本のモミジが、紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋と共演し、赤や黄に見事に染まった木々が紙屋川の水面に映え渡り人々を錦秋の世界へ誘う。

桃山時代、豊臣秀吉公は洛中洛外の境界、水防のための土塁「御土居」を築いた。その一部が現在も残る境内の西側一帯は、長らく自然林で自生のものと後に植林されたものを含め、現在、約350本の紅葉を有する名所「史跡御土居のもみじ苑」となっている。

紙屋川にかかる朱塗りの太鼓橋「鶯橋」や、茶室の梅交軒に設けた舞台、国宝御本殿をはじめ境内を一望できる展望所からの眺めは絶景である。

紅葉の間から国宝の御本殿を望む。国宝御本殿と約350本の紅葉が織りなす絶景。

御祭神 菅原道真公を祭る北野天満宮は天神信仰発祥の地であり、日本中に12000社もあるといわれる全国天満宮・天神社の総本社。桃山時代に豊臣秀吉公は洛中洛外の境界、水防のための土塁「御土居」を築いた。その一部が残る境内の西側一帯は史跡として指定され、現在、約350本の紅葉を有する名所「もみじ苑」となっている。また展望所から眺める国宝御本殿と紅葉の風景は正に絶景

御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。

台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。

 江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。

 昭和5年(1930),市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。

 また,これら指定地以外では,北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内でも,部分的に御土居が残っています。

茶室の梅交軒に設けた舞台

紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋

中央に暗渠排水口が残る。

紙屋川に架かる朱塗りの鶯橋

下から上を見上げる。

 

もみじ苑出口にある茶店でほうじ茶を飲んで見学を終えた。14時ごろだったが、入場する人もまだ多い。外人客もいるが少なかった。

バス停には長い行列ができていたが、203系統のバスが来ても乗り込む乗客は少なく、それほど混まずに地下鉄今出川まで乗車できた。

京都 千本釈迦堂の大根炊き 


京都 千本釈迦堂の大根炊き 

2024年12月09日 11時28分31秒 | 京都府

京都・千本釈迦堂の「大根炊き」。京都市上京区溝前町。

2024年12月7日(土)京都へ行き、千本釈迦堂の大根炊き北野天満宮の紅葉を見学した。千本釈迦堂は初めてだったかもしれない。

千本釈迦堂の大根炊きは、師走の風物詩として全国ニュースでよく見てきた。これだけでは、勿体ないので近くで何かないかとネットで探すと、北野天満宮の御土居にある「もみじ苑」で特別公開が行われているという。「御土居」はブラタモリで豊臣秀吉が洛中と洛外の境に築いた土塁として紹介され、北東部に数か所残存しているので、見学しようと数年来機会を狙っていたところだったので好都合だ。

京都の紅葉は1980年代初めに高雄(神護寺・高山寺)を皮切りに、修学院離宮、大原、東福寺の通天橋など1980年代にほぼ見てしまい、90年代以降は日本100名山完登の途次や、各県への旅のさいに全国各地で紅葉を見ているので、わざわざ紅葉見学に出かける気持ちはない。

JR東海道線の名古屋から京都まで、障害者割引で往復2640円。8時3分に名古屋駅を出て、京都駅に10時13分ごろ着いた。地下鉄で今出川駅に行き、市バス203に乗車して11時10分ごろ上七軒のバス停に着いた。運賃は京都駅から130円+120円。

11月下旬に計画したが、11月29日から12月5日まで、八丈島・青ヶ島と東京都を見学して歩き回り、足を痛めたので、前日は迷ったが決行した。日曜日のほうが土曜日より混雑することは予想できた。ただし、計画では今出川に戻ったあと、相国寺も見学しようと思っていたが北野天満宮を出たときに中止した。

14時過ぎに北野天満宮からバスに乗って往路を戻り、14時40分ごろ京都駅に到着。15時発の東海道線新快速に乗り、米原・大垣経由で17時13分に名古屋駅に到着。18時には自宅へ帰った。

 

千本釈迦堂の大根炊き。

2024年12月7日(土)・8日(日)10:00~16:00。

厄除けの大根炊き供養は、 お釈迦様が修行中に悪魔の誘惑に負けず、12月8 日の夜明け前にさとりを 開かれた事にあやかって、 4本の大根を縦半分に切って8本にして、切り口に梵字を書いて供え、参詣者への「悪魔除け」とした。これが 大根炊きのはじまりとされている。

今は 法要が行われ、味付けして煮込んだ大根が油揚げとともに大釜で焚かれ、参拝者に振舞われる。

料金は1000円。

千本釈迦堂と通称される大報恩寺は、真言宗智山派の寺院で、本尊は釈迦如来。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。

鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で、比叡山で修行の後、当寺を建立した。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商から寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264年 - 1275年)。

本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなかった創建当時のもので、洛中最古の現存建造物で国宝となっている(「京都市内」最古の建造物は醍醐寺五重塔)。

上七軒交差点北側の案内看板。

千本釈迦堂の行列。

11時ごろ、門前に着くと、境内外の道路に200人ほどが並んでいた。その後ろに並んだが、この行列は授与券を買った人が並んでいると前の人たちが教えてくれた。案内人はいるが大声では教えてくれない。

あわてて、境内を進んで本堂前で「大根だき券」を1000円で購入した。ここには列はなかったので若干のタイムロスで済んだ。

境内に入っても200人ほどが前に並んでいた。ただし、流れは意外と早い。大根3個と油揚げだけなので食事は簡単に終わり、回転は速い。

食事用テントの奥に大根炊きの授与所がある。

12時10分ごろに食べ始めた。大根は3個だが、1個は崩れていた。おでんの大根は美味い。熱い。けっこう腹が膨れる。並んでいるときに菓子パン2個を食べたせいもあるだろうが。

本堂から。

大根を食べてから、本堂・霊宝殿を拝観した。拝観料700円(600円)。

当日、本堂は一般開放されていたが、本堂内の一室にある「おかめ像」展示室は上記拝観料が必要。

本堂裏庭の千体地蔵塔。

「おかめ像」展示室。

霊宝殿では、2024年8月27日に国宝に新指定された旧重要文化財の木造六観音菩薩像6躯を拝観した。鎌倉時代前期、肥後別当定慶(康運)作。六観音とは六道輪廻の思想と観音信仰が日本で結びついたもので、六種の観音が六道に迷う衆生を救うとされている。真言宗系の六観音は聖観音(地獄道)、千手観音(餓鬼道)、馬頭観音(畜生道)、十一面観音(阿修羅道)、准胝観音(人道)、如意輪観音(天道)で、大報恩寺には6躯一具が完存している。准胝観音像内の墨書銘は、貞応3年(1224年)とある。

おかめ塚。

本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている。

本堂を造営する際、大工の棟梁であった長井飛騨守高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。

 

13時10分ごろに千本釈迦堂を出て、西に5分余り歩いて北野天満宮の境内に入った。