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読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 

2024年07月02日 16時09分55秒 | 歴史

読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 

新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」161

石製模造品から読み解く東国首長たちの動向。福島県郡山盆地の南端、阿武隈川東岸の丘陵に築造された古墳群には、滑石などのやわらかい石で刀子や斧、剣、鏡などをかたどった祭祀遺物“石製模造品”が副葬されていた。東北地方の要衝の地に、数世代にわたって活躍した小首長たちの葬送と祭祀の世界にせまる。

正直(しょうじき)古墳群は、 正直 B 遺跡と複合する古墳群で、往時は 41 基以上の古墳が8つの支群に分かれて存在していたと考えられる。正直 B 遺跡からは竪穴式住居跡などが発見され、集落とこれに伴う古墳の対応関係が明らかな遺跡として珍しく、貴重な遺跡である。また、谷田川を挟んだ対岸に位置している大安場古墳群との関係性など、郡山市の古墳時代を解明する上でも重要な遺跡である。

 古墳群は、前方後方墳1基、方墳数基と円墳で構成され、築造時期は古墳時代前期~中期(約 1650 年前~約 1550 年前)とされる。古墳群の中でも大型の古墳からは、「石製模造品」が多数出土しているほか、27 号墳の石棺からは人骨3体分が出土しており、うち1体の人骨からの復顔が行われ、大安場史跡公園ガイダンス施設に展示されている。」

 

第1章 真っ赤に塗られた石棺。

1.正直27号墳。

2.開かれた南箱式石棺。

南箱式石棺出土の石製模造品、刀子形・斧形・剣形・有孔円板(鏡を原型)。

通常、古墳出土の石製模造品は、刀子形・斧形・鎌形を基本セットとする。祭祀遺構では剣形・有孔円板・勾玉が基本セット。

3. 未開封の北箱式石棺。 東1人+西2人の3人。

4.葬られたのは誰か?

石製模造品の組成からみると、南箱式石棺は「刀子形・斧形・剣形・有孔円板」だが、北箱式石棺の東西両埋葬施設はいずれも「剣形・有孔円板」で刀子形・斧形はない。正直古墳群では、首長墓の副葬品は刀子形を含むと考えられる。南箱式石棺の被葬者を首長的な階層と仮定した場合、北箱式石棺の被葬者は身分的に下位の人物である。

5.正直27号墳の年代を推理する。石製模造品は、祭祀遺物で、「ヤマト王権の東国支配強化の手段」「東日本への埋葬イデオロギーの移植」などといわれた。4世紀後半ごろ畿内中央部に出現し、5世紀に盛行する。南箱式石棺の石製模造品は、組成の面では新しいが、剣形は古い形態であった。刀子形・斧形の形態的特徴が類似するものは、5世紀前半の群馬県藤岡市白石稲荷山古墳や高崎市剣崎天神山古墳のものであることから、5世紀前半の年代が導かれる。

第2章 多彩な正直古墳群。

 

1.最大の円墳21号墳と前方後方墳35号墳。

21号墳は壺型埴輪の形態から4世紀末から5世紀初頭の築造とみられる。35号墳は底部穿孔壺により大安場1号墳と同時期の4世紀中~後葉の築造で、正直古墳群で最初に築造された古墳であることが分かった。

2.さまざまな中期古墳。

3.継続して副葬された石製模造品。

4.正直古墳群の推移。支群Hは、5世紀後半、大阪府藤井寺市の市野山古墳や岡ミサンザイ古墳、前橋市舞台1号墳や高崎市の保渡田八幡塚古墳が築造されたころで、新しい。

 

各支群の首長墓からみた推移では、古墳群の築造契機となったのは4世紀中~後葉の前方後方墳の支群Aの35号墳で、つづく支群Fの21号墳は円墳だが、規模が大きく、4世紀末から5世紀初頭と考えられる。支群Bの27号墳は5世紀前半、支群Cの23号墳と支群Dの30号墳は5世紀後半の築造であろう。

時期の異なる首長墓にも刀子形を代表とする農工具形石製模造品が伴い、石製模造品を用いた葬送儀礼が継続していたと分かる。27号墳の築造を発端とする石製模造品の導入期には定型的であった刀子形石製模造品が、地域独自の形態に変化していくことも明らかになった。

第3章 正直古墳群と同時代の遺跡。

1.清水内遺跡。郡山市の西方、南川北岸の古墳時代中期の集落。川の中の祭壇。5世紀第2四半期の方形区画と河川屈曲部における祭祀空間。水辺の祭祀。

2.清水内遺跡に住んだ人びと。5世紀前半の鉄鍛冶遺構。同時期に、白河市の三森遺跡、多賀城市の山王遺跡。渡来系遺物の算盤玉形紡錘車

3.清水内遺跡の展開と正直古墳群。5世紀第1四半期に低地開発のため鉄鍛冶集団が集落を形成し、水辺の祭祀が行われた。5世紀第2四半期に新たな祭祀用具として石製模造品が導入された。

第4章 大安場一号墳と建鉾山(たてほこやま)祭祀遺跡。

1.大安場一号墳。前方後方墳の大安場1号墳は、正直古墳群から北東約1,5kmにある。全長は約83mで東北地方全体で最大規模である。埋葬施設から腕輪形石製品1点、大刀、剣、槍などの武器類、直刃鎌、短冊形鉄斧などの農工具類が出土した。

底部が穿孔された二重口縁と口縁部に棒状浮文のついた2種類の壺形土器が出土。築造年代は正直35号墳とほぼ同じ古墳時代前期後半(4世紀後半頃)と推定される。

2.建鉾山祭祀遺跡。栃木・茨城両県境に近い白河市表郷にあり、ヤマトタケルが山頂に鉾を建てて祀ったという伝説が残る。円錘形の山容で、奈良県の三輪山とともに山の祭祀を代表する。頂上の建鉾石といわれる岩や山腹に点在する巨岩群が磐座(いわくら)とされた。

1938年ごろから調査が行われ、刀子形・斧形・鎌形・剣形・有孔円板・鏡形・勾玉・臼玉などの石製模造品や土器が多数出土し、鉄鉾、青銅鏡も出土した。

石製模造品が隆盛する5世紀において、建鉾山祭祀遺跡の出土量は多く、全国屈指の祭祀遺跡である。建鉾山の東約500mにある5世紀の三森(みもり)遺跡からは、祭祀執行者である首長の居館である大型周溝と祭祀の空間である石製模造品が出土した長方形周溝および柵囲遺構が発見された。鍛冶遺構や韓式土器も多数出土した。

建鉾山祭祀遺跡の出現は、5世紀前葉と考えられる。特徴的な刀子形石製模造品は群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳や前橋市の上細井稲荷山古墳に類例があり、群馬県西部に系譜がある。建鉾山で石製模造品を使用する祭祀を導入したのは群馬県の首長層と想定され、三輪山に似た神奈備形の山容が選ばれたのだろう。

祭祀遺跡および集落出土石製模造品の分布は、関東地方および近畿地方中央部に集中する。建鉾山は那珂川・久慈川上流域と阿武隈川上流域を結ぶ地点にあり、栃木県・茨城県から東北地方へ向かう最初の地点にあたる。同じような遺跡に長野・岐阜県境の神坂峠祭祀遺跡、長野・群馬県経の入山峠祭祀遺跡、宮城・山形県境の八幡山祭祀遺跡があり、これらの遺跡からは共通して刀子形石製模造品が出土する。建鉾山祭祀遺跡は、5世紀に近畿地方中央部から群馬県・東北地方へと至るルートが重要視される歴史的背景のなかで成立したと捉えられる。

第5章 正直古墳群の意義。

1.下位首長層の墳墓。東北地方南部では5世紀前葉に中規模以上の前方後円(方)墳の空白期があり、5世紀中葉になって再び前方後円墳が築造された。古墳時代の地域社会の基本的な単位は農業生産で共同作業をおこなうさいの単位で、その代表者を下位首長層とよび、小規模墳に埋葬されたとする。正直古墳群に埋葬されたのは、その首長層である。それらのいくつかをまとめる代表者である上位首長層の墳墓が大安場1号墳であった。しかし、正直古墳群の主体となる古墳時代中期には、付近に大型古墳の存在は確認されず、上位首長層の姿はみられない

最初の大型円墳である21号墳や27号墳などの比較的大型の円墳について、都出比呂志は、400年前後に大型円墳と帆立貝形古墳が急増することから、この時期に政治的変動があったとする。和田晴吾は、豊富な副葬品をもつこともある中期の小型円墳や埴輪をもつ小型低方墳の築造は、古墳時代中期の政権や上位首長層が一部の有力な家長層を重要視したことが要因とする。

5世紀後半の支群Hは、古墳間の階層差が少なく、新来の文物や技術が導入される状況のなか、階層差が少ない有力家長層が多数出現し埋葬されたと考えられる。

2. 石製模造品と葬送儀礼。

正直古墳群の出土遺物の特徴は、石製模造品を使用した葬送儀礼が継続しておこなわれた点である。石製模造品の出土した古墳の分布は、東日本では群馬県西部・千葉県の東京湾沿岸と霞ヶ浦南岸に集中する。近畿地方中央部の集中も明確である。葬送儀礼における石製模造品は、刀子形・斧形・鎌形といった農工具のセットが基本となる。西日本では、刀子形などの農工具を含まず、剣形や有孔円板のみが出土するという特色がある。

古墳群内で継続して農工具形の石製模造品が出土する事例は、奈良県の佐紀盾列古墳群・馬見古墳群・大阪府の古市古墳群が知られる。関東地方では千葉県の多古台古墳群・群馬県の剣崎天神山・剣崎長瀞西古墳・東京都の野毛古墳群が知られる。

上位首長層との関係。福島県内では5世紀前半に、群馬県西部の影響を受けた石製模造品が多数存在し、5世紀中葉から後半には、阿武隈川流域と栃木県で形態的に共通する農工具形石製模造品がみられる

5世紀前半に、群馬県太田市に東日本最大の前方後円墳太田天神山古墳(全長210m)が築造される。若狭徹は、背景に上毛野地域の東部と西部の両勢力による王の共立と、北関東・南東北のネットワークの成立があったとする。この時期に南東北の首長層への影響力を北関東(とくに群馬県西部)の首長が有し、南東北に大型古墳がみられないことへの示唆となる。

5世紀中葉以降になると、関係に変化がみられ、藤澤が「天王壇古墳系列」とする円筒埴輪が、福島県国見町の塚野目1号墳、本宮市の天王壇古墳など阿武隈川流域から栃木県南部の古墳で確認され、これらの地域では共通する形態の石製模造品が出現し、5世紀後半には群馬県の首長層の影響が弱まったとみられる。

3.正直古墳群の重要性。亀田修一は東日本における渡来系文物の分布から「伊那谷・群馬西部・阿武隈川流域・仙台湾」というルートを示している。右島和夫も渡来系集団が主導する馬匹生産の開始はヤマト王権が政治的意図をもって進めたもので、近畿地方中央部から伊那谷・上毛野という古東山道ルートが成立したとする。

正直古墳群は東北地方における大型古墳の空白期とされる5世紀前葉も含め、4世紀中~後葉から5世紀末まで継続して古墳が築かれた当該地方では稀有な事例である。郡山南東部の遺跡群の出現は、さらに北への影響力拡大をはかるヤマト政権、より直接的には上毛野の首長層の政策的な意図を反映したものであり、その拠点としての役割を担っていたこの地域の重要性が理解される。

福島県郡山市 大安場1号墳 復元された東北最大の前方後方墳


福島県郡山市 大安場1号墳 復元された東北最大の前方後方墳

2024年07月02日 11時41分26秒 | 福島県

国史跡・大安場(おおやすば)1号墳。福島県郡山市田村町大善寺大安場。

2024年5月28日(火)。

三春城跡を見学後、復元された前方後方墳・大安場1号墳のある郡山市の大安場史跡公園へ向かい、1号墳下のガイダンス施設横の駐車場に12時過ぎに着いた。ガイダンス施設から見上げる大安場1号墳は圧倒的な威容を誇っていた。朝から強い雨が降り続けていたが、舗装路のため古墳見学には問題はなかった。

大安場古墳群は、古墳時代前期後半頃の築造と推定される前方後方墳1基、円墳4基からなる古墳群で、4世紀後半の築造とされる大安場1号墳は全長約83mの東北地方最大の前方後方墳で、2~5号墳は、5世紀後半に造られた円墳である。周辺は大安場史跡公園として整備され、ガイダンス施設が併設されている。

大安場1号墳は,福島県内阿武隈川沿いの通称中通り地方にあり,阿武隈川東岸の平野に面した標高約250m,平野からの比高差約15mの低丘陵上に立地する。前方部を北に向ける前方後方墳で,全長は約83mと推定できる。

大安場1号墳は,阿武隈川流域の最大級の古墳であり,また前方後方墳としては東北地方全体で最大となる。同じ福島県内でも会津地方では前方後円墳が卓越しているのに対して,中通り地方の大安場古墳は前方後方墳であり,前方後方墳を盛んに築造した下野・那須地方との関係がうかがえる

主体部・副葬品の内容から見ても,東北地方を代表する前期古墳のひとつと言うことができ、東北地方への古墳文化波及に関して重要な意味をもち,東北南部の古墳時代の政治・社会を考える上で欠くことのできない古墳である。

墳丘は一部改変を受けているが,もともと存在した自然丘を削り出した工法によって、後方部3段,前方部前面2段になる。

2号墳付近から大安場1号墳。

大安場1号墳の前方部から登る。

大安場1号墳の前方部から後方部。

大安場1号墳後方部から前方部と2号墳。

後方部墳頂はかなり削平されていたが,表土直下で南北方向の主体部が確認された

長さ10m,幅2mの粘土棺床をもうけ,長さ9mの長大な木棺(割竹形木棺)を安置したものである。

棺内北寄りに朱粒が撒かれ,その南から緑色凝灰岩製腕輪形石製品1点が出土した。

腕輪形石製品は,東北地方における初めての確かな出土例で,宝器として被葬者に添えられていたと考えられる。

腕輪形石製品以外の副葬品は棺内南半部に置かれており,大刀1点,剣1点,槍1点,鎌1点,板状鉄斧1点などがある。大刀は鞘・把の木部が良好に残り,2cm程度の幅の布を巻いて樹脂で固めている様子が観察できる。

後方部の墳丘斜面から,二重口縁壺と棒状浮文壺の2種類の赤彩された底部穿孔壺形土器が50個ほど出土しており,本来墳頂に据え置かれていたと推定される。

ガイダンス施設の屋根の形は腕輪形石製品をモチーフにしている。

2号墳~ 5号墳。

5世紀後半に造られた円墳。近くの南山田遺跡・永作遺跡の集落指導層の豪族の墓と推定される。国史跡・2号墳の埋葬部は、割石を組み合わせた箱型石棺である。

 

福島県三春町 続日本100名城・三春城跡


釧路市 国史跡・北斗遺跡「擦文の村」(現・釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場)

2024年07月02日 09時36分30秒 | 北海道

国史跡・北斗遺跡。釧路市北斗。

2022年6月12日(日)。

釧路市湿原展望台および湿原展望遊歩道の見学を終え、10時ごろに駐車場に着き、南隣する国史跡・北斗遺跡および史跡北斗遺跡展示館(釧路市立北斗遺跡博物館)へ向かった。釧路市湿原展望台から釧路市方向へ戻り、道標にしたがい湿原側に入ると、展示館が見えてくる。史跡北斗遺跡展示館は、国指定史跡北斗遺跡のガイダンス施設である。史跡北斗遺跡展示館を15分ほど見学した。

北斗遺跡は、釧路市街地の北西約7㎞の釧路湿原を望む標高20m前後の段丘上に所在する。約1万年前の旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て約900年前の擦文時代に至る重複遺跡で、東西2,00m・南北500mの範囲に、縄文・続縄文時代の浅い円形・楕円形竪穴102軒、擦文時代の四角形竪穴232軒がくぼんだ状態で残されている。釧路湿原をとりまく丘陵上の遺跡群のなかで中核的な性格をもつものとして重要である。

現在遺跡の一部には竪穴住居5棟が復元され、「擦文の村」(現・釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場)として公開されている。

「擦文の村」の時代と鎌倉時代は、ほぼ同じ時代であり、奥州平泉氏時代からラッコの皮や鷹の羽など蝦夷地の特産物は京都の貴族社会に送られ、源頼朝はその特産物交易を奪取して独占した。

史跡北斗遺跡展示館から北斗遺跡の野外展示施設である「擦文の村」へ向かった。北斗遺跡へは車道兼遊歩道を10分余り歩く必要があり、展示館では熊鈴も貸与してくれる。

マップでの園路は高台経由になっているが、実際には展示館前に続く車道兼遊歩道を利用する。立入禁止用のロープをくぐって水平な未舗装路を展示館で貸してくれた熊鈴を鳴らしながら10分ほど歩くと、遺跡手前の丘にある史跡展望台が見えてきた。

遺跡手前の丘にある史跡展望台の解説板。

史跡展望台に登ると、西側の竪穴住居跡の窪みが並んでいた。

さらに歩くと車道から釧路湿原方向への歩道が分岐している。

木道が濠の下へ潜って、対岸の「擦文の村」がある丘の平地に向かっている。

右に復元住居が見えるが、そのまま通り越し、振り返って一望できる展望地を探したが、なかった。

多く残っている窪地は竪穴住居の跡である。

住居群へ入っていくと、復元住居の前で管理人の高年男性と千葉県から来たという見学客の中年男性が話していた。

住居の中に入ると、炉の火が見え煙がくすぶっていた

15分ほど滞在し往路を戻った。

釧路市湿原展望台 釧路湿原展望遊歩道 毛綱毅曠 釧路湿原の成り立ち