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岩手県奥州市 国史跡・胆沢城跡・奥州市埋蔵文化財調査センター③アテルイ(阿弖流為)

2023年12月31日 09時42分36秒 | 岩手県

国史跡・胆沢城跡。奥州市埋蔵文化財調査センター。岩手県奥州市水沢区佐倉河九蔵田。

2023年6月14日(水)。

アテルイとは?

阿弖流為(あてるい)は今から約1,200年前、現在の奥州市水沢地域付近で生活していた蝦夷の一人です。当時『水陸万頃(すいりくばんけい)』と言われていたこの胆沢地方と蝦夷を統治したい朝廷軍との戦いがありました。その中で阿弖流為は蝦夷のリーダーとして勇敢に立ち向かった人物です。

阿弖流為という名は『続日本紀(しょくにほんぎ)』、『日本紀略(にほんきりゃく)』という古い文献2冊にそれぞれ1度登場します。『続日本紀』では、延暦8年(789)、巣伏(すぶせ)村での戦いで朝廷軍に大勝した時のリーダーとして書かれています。

しかし、この戦いを含めた幾度もの戦いで朝廷側でも多くの犠牲を強いられていました。

『日本紀略』には延暦21年(802)、阿弖流為は仲間の母礼(もれ)と共に征夷大将軍だった坂上田村麻呂の下に降伏し、都へと上ります。田村麻呂は朝廷に2人を故郷、胆沢へ返すよう進言しますが聞き入れてもらえず、旧暦8月13日阿弖流為と母礼は河内国椙山〔現在の大阪府枚方市〕で処刑された、と記されています。

このように阿弖流為については彼の最期こそわかるものの、いつ生まれたのか?どのように育ち、どんな人物だったのか?という詳しいことについては蝦夷たちが書いた文字資料がなく、また朝廷側が書いた資料で、現在残っている資料はとても少ないため、わからないことがまだまだ数多くあります。

アテルイの登場

アテルイの名は今から約1,200年前の延暦8年(789)、初めて史上に登場します。8世紀後半、朝廷はエミシ遠征計画を胆沢地方一点にしぼってきました。軍事遠征の準備も整った延暦7年(788)12月、征東大将軍紀古佐美(きのこさみ)に胆沢遠征の命令が下りました。遠征軍は坂東諸国の歩騎(ほき)52,800余人で、編成にはこれまでの戦闘経験者、戦功者、弓馬に長たけた者たちが選抜されました。

翌8年3月上旬、遠征軍は多賀城を出発し、胆沢へ進軍しました。同月末には胆沢の南端の衣川に到着し、軍を前・中・後の3軍に分けて布陣しました。同6月、遠征軍が動きます。3軍から精鋭を選んで合同で当たることになりました。前軍が北上川右岸を中・後軍は4,000の兵で同左岸をそれぞれ北上し、アテルイの拠点地域である巣伏村(奥州市水沢区東郊一帯)で合流するという作戦です。

これに対し、アテルイ軍はゲリラ戦で応戦し、両岸を北上する政府の精鋭部隊を撃破したのでした。史上にいう「胆沢の合戦」の緒戦です。

アテルイの名はこの戦闘過程の中に現れてきます。さきの中・後軍各2,000人が北上川左岸を北上し、まさに「賊帥夷阿弖流為の居に至るころ」(『続日本紀』)という記事です。

この段階のエミシ社会は、部族ごとに戦士集団が形成されており、アテルイらはエミシ戦士団を核に、胆沢のエミシ連合軍を編成し、陽動作戦とゲリラ戦で応戦したのでした。

この後、政府は2回胆沢遠征軍を派遣しますが、アテルイ軍は13年間にわたって、これを戦い抜いてきました。

坂上田村麻呂の登場

延暦8年(789)の「胆沢の合戦」に大敗した政府は翌9年、直ちに第2回胆沢遠征の準備をはじめました。第2回遠征軍の人事は、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)副将軍坂上田村麻呂らでした。田村麻呂がエミシ問題に関わって初めて登場してきます。このとき田村麻呂は天皇の側近として近衛少将(このえのしょうしょう)の位にありました。

延暦13年(794)正月、征夷大将軍大伴弟麻呂は桓武天皇から節刀(せっとう)たまわり、胆沢遠征に出発しました。今回の遠征軍の実戦部隊の総指揮官は坂上田村麻呂でした。彼は6月、10万の遠征軍がエミシ軍に勝ったと京に報告しました。しかし、胆沢はまだ落ちません。

延暦15年(796)、前回の余韻も冷めやまぬうちに、第3回胆沢遠征計画が始まりました。数年かけて、遠征の手はずを整えた坂上田村麻呂延暦20年(801)、征夷大将軍として胆沢の遠征に出発しました。陣容は軍士4万人、軍監5人、軍曹32人と前回の半分以下に縮小されています。

胆沢のアテルイらは、これまでの戦いで大半の戦士を失い、加えて西岸一帯の荒廃は食糧難という事態を生み、エミシ戦士らは疲弊の度を増していました。

田村麻呂が編成した陣容は、すでにこのような情況を察知した上でなされたものでしょう。

アテルイ降伏

延暦20年(801)2月、征夷大将軍坂上田村麻呂は第3回胆沢遠征に出発しました。しかしこの間の詳しい戦闘経過は『正史』を欠き、ただ『日本紀略』9月27日条に、田村麻呂が「東賊を討伏」したとあるだけで、前回のときのような戦果も不明です。ただし今回は、胆沢遠征に止まらず、遠く閉伊地方(今の久慈・閉伊地方)にまで軍を派遣し、一定の戦果をあげたようです。(『日本後紀』弘仁2年12月13日条)

田村麻呂は翌10月、節刀を桓武天皇に返し、遠征結果を報告しますが、これで蝦夷の反乱をほぼ完全に制したという評価が与えられました。

翌年正月、田村麻呂は再度胆沢に下ってきました。胆沢城を造るためで、あわせて諸国から浪人4,000人を胆沢城に移しました。

4月15日、胆沢城造営中の田村麻呂のところに、阿弖流為、母礼らがエミシ戦士500余人を率いて投降してきました。巨大な胆沢城を目の前に、万策尽きたというのが実情でしょう。

7月、軍事首長2人を従えて田村麻呂は上京し、裁決は公卿(くぎょう)たちに委ねられました。田村麻呂は2人の助命を願い出、在地の蝦夷を馴化(じゅんか)するには彼らの協力が必要なことを説きました。しかし、公卿たちは国家に抵抗した「反乱の首謀者」という認識でしたので、願いどおり胆沢へ赦免すれば、再び反乱は必定とみて捕捉の上、河内国椙山で斬刑に処しました。時に延暦21年(802)8月13日(旧暦)のことです。

蝦夷(エミシ)の紹介コーナー。古代東北の弥生・古墳時代。

胆沢城跡を見学後、北へ進み、安倍宗任の拠点とされる金ヶ崎町の国史跡・鳥海柵跡へ向かった。

岩手県奥州市 国史跡・胆沢城跡・奥州市埋蔵文化財調査センター②出土品 エミシと公民のムラ


岩手県奥州市 国史跡・胆沢城跡・奥州市埋蔵文化財調査センター②出土品 エミシと公民のムラ

2023年12月30日 10時31分12秒 | 岩手県

国史跡・胆沢城跡。奥州市埋蔵文化財調査センター。岩手県奥州市水沢区佐倉河九蔵田。

2023年6月14日(水)。

 

発掘調査による出土品。

鬼瓦 胆沢城外郭南門出土(9世紀)

地鎮祭

漆紙文書

漆の乾燥を防ぐため、使用済みの紙を漆桶にかぶせて蓋にしていた。漆がしみ込んだところだけが腐らず残ったものが漆紙で、漆紙には当時の役人が書いた文字が残っており、このようなものを漆紙文書とよぶ。

 

胆沢城司としての将軍の職掌は、蝦夷支配では、朝廷に降伏したエミシをもてなす儀式である饗給(きょうごう)、征討、斥候」、律令制による公民支配では、柵戸移配、郡郷制施行であった。

岩手県奥州市 国史跡・胆沢城跡・奥州市埋蔵文化財調査センター①


岩手県奥州市 国史跡・胆沢城跡・奥州市埋蔵文化財調査センター①

2023年12月29日 14時46分30秒 | 岩手県

国史跡・胆沢城跡。奥州市埋蔵文化財調査センター。岩手県奥州市水沢区佐倉河九蔵田。

2023年6月14日(水)。

黒石寺を見学したあと、国史跡・胆沢(いさわ)城跡とガイダンス施設の奥州市埋蔵文化財調査センターへ向かった。国道4号線から分かれて北東に進み、胆沢城跡政庁跡付近を通過したが、復元遺構は目視できなかった。9時15分ごろに胆沢城跡に南隣する奥州市埋蔵文化財調査センターへ着いた。埋文センターを見学後、徒歩で外郭南門跡を見学した。

胆沢城は、平安時代初期の延暦21年(802)坂上田村麻呂が北上川と胆沢川の合流の右岸上の平坦地に造営し、大同(たいどう)3年(808)までには多賀城(宮城県)から「鎮守府」が移された古代城柵で、古代陸奥国の北半部を統治する機関であり施設であった。

北上川中流域の「胆沢」の地が史上に現われてくるのは、朝廷の東北経営の北進に伴い、8世紀後半の宝亀7年(776)のことである。この時期は、律令政府の攻撃目標が陸奥国最大の蝦夷(エミシ)勢力の拠点「胆沢の地」にしぼられてきた段階である。胆沢は「山海(さんかい)二道」の奥地(栗原方面の山道(さんどう)と北上川流域の海道(かいどう)が北方で合流するという意)と認識されていた。

これ以後、延暦20年(801)まで、古代国家と阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)を中心としたエミシ軍との戦いが展開する。

胆沢城の文献上の初見は『日本紀略』にあり、802年(延暦21年)1月9日に征夷大将軍の坂上田村麻呂が、造胆沢城使を兼任し、陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。

4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者阿弖流為(アテルイ)の降伏を報じた。当地方の軍事首長層であった阿弖流為、母礼は同族500余人を率いて投降し、その後2人は京に押送され、同年8月河内国椙山(すぎやま)(大阪)で処刑されたことで、胆沢エミシの抵抗が終了した。

朝廷は、胆沢城造営の翌年、再度田村麻呂を遣し、志波城(しわじょう・現在の盛岡市)を造営した。840m四方の志波城の方が規模は大きく、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のため812年(弘仁3年)頃に350m四方の小さな徳丹城(とくたんじょう・現在の矢巾町)を新たに造営して移転した。これによって後方にある胆沢城が重要視されるようになった。

815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健士300人、計700人が交代で駐屯することになった。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持した。

胆沢城は10世紀後半ごろまで約150年にわたり鎮守府として機能したが、その権威は形骸化していき、俘囚長・在庁官人の安倍氏ら在地豪族の勢力が伸長していった。

胆沢城の規模と構造。

胆沢城の全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドームが9つ入る大きさ)。高さ約4.2m、一辺675mの築地(ついじ)とその内・外に掘られた幅3~5m、深さ1~1.5mの溝で方形に囲まれていた。築地は、土を突き固めて造る土塀のことで、幅2.4m、高さ4.2m、総延長2.7kmの築地が、胆沢城の周りを囲んでいた。

中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域、その脇に官衙や厨などが配置されていた。

胆沢城には、鎮守府の最高責任者である将軍(1名)、庶務や施設の管理を行う府掌(2名)、将軍を助ける軍監(1名)と軍曹(2名)、戦いや日常の吉凶を占う陰陽師(1名)、大弓を指導する弩師(1名)、病気の治療や医術の指導にあたる医師(1名)らの役人や、多くの兵士が配置されていた。

胆沢城司としての将軍の職掌は、蝦夷支配では、朝廷に降伏したエミシをもてなす儀式である饗給(きょうごう)、征討、斥候」、律令制による公民支配では、柵戸移配、郡郷制施行であった。

政庁は、大事な儀式を行う胆沢城の中心施設で、饗給(きょうごう)や災いをはらう仏教の儀式などが行われた。

胆沢城には、日常の事務や行事を担当する官衙(かんが、役所)が政庁域の周辺にいくつか配置されており、各官衙は溝や柱列によって仕切られていた。

北方官衙は、九蔵川を利用した物資の搬入を管理。東方官衙は、儀式に関係のある役所。厨は、食料の管理や調理を担当し、宴会の料理を用意した。

奥州市埋蔵文化財調査センター2階から胆沢城跡・南大路。

南大路と外郭南門。

胆沢城の正門である外郭南門(東西14.8m×南北7.2m)から政庁に向かう北への大路上には政庁前門(東西12m×南北5m)と政庁南門(東西3.4m×南北2.4m)の2つの門があり、これらの門を通らなければ政庁正殿へは行くことができなかった。特に政庁前門は東北古代城柵では見られない、胆沢城特有の施設であった。

2019年、外郭南門両脇の築地塀と南大路の一部が復元され、胆沢城跡歴史公園として開園された。

伯済寺遺跡

伯済寺遺跡は、胆沢城跡から南約400m付近に位置する胆沢城と同時代の遺跡で、大型掘立柱建物群東・南側の区画施設を検出した。2005年、伯済寺遺跡から墨書土器に「政所」の文字が書いたものが見つかり、有力官人が城外の自分の邸内で執政していた可能性が強くなった。

土器のほかに紡錘車や鉄製の馬具などが出土した。国指定史跡「胆沢城跡」に関連する遺跡であるとして、平成23(2011)年に追加指定された。

伯済寺は、慈覚大師が嘉祥年間に開山したという。中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山の高僧慈覚大師円仁によって開山されたといわれている。

岩手県奥州市 黒石寺 蘇民将来祭り


岩手県奥州市 黒石寺 蘇民将来祭り

2023年12月28日 11時47分45秒 | 岩手県

黒石寺(こくせきじ、くろいしでら)。岩手県奥州市水沢黒石町山内。

2023年6月14日(水)。

奥州市の道の駅「水沢」で起床。まず、蘇民将来祭りで名高い黒石寺へ向かい、8時過ぎに着いた。1980年代初めに、「まつり」や「民俗芸能」に関心を持った時期があり、東海地方や京都奈良各地を見学していた。その頃に、黒石寺の蘇民将来祭りを知った。

禊場のある瑠璃壺川(るりつぼがわ、山内川)。

黒石寺は、天台宗の寺院で、山号は妙見山(みょうけんざん)。本尊は、重要文化財で平安時代初期の在銘像である木造薬師如来坐像。

天平元年(729)行基菩薩の開山で、東光山薬師寺と称したが、延暦年間の蝦夷征伐の戦火にあい寺は焼失した。大同2年(807)坂上田村麻呂により飛騨(今の岐阜県)の工匠が方七間の薬師堂を再建し、嘉祥2年(849)第3代天台座主慈覚大師円仁が復興し妙見山黒石寺と改名した。

もとは修験(山伏)の寺であり、胆沢(いさわ)城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。

弘長元年(1261)の野火、天正18年(1590)の兵火、そして天保11年(1840)の祭火、更には明治14年(1881)と火災にあい、伽藍の一切を焼失し、現在の本堂と庫裏は、明治17年(1884)に再建されたものである。本尊は、薬師如来坐像で、胎内に貞観四年(862)の造像銘があり、古代東北の仏教信仰を伝える貴重な作例である。

蘇民祭(そみんさい)は、岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りである。1000年以上の歴史を持つと言われる。岩手県内では毎年1月から3月にかけて複数の蘇民祭が行われ、岩手の蘇民祭の名称で国の選択無形民俗文化財として選択されている。

その中で最も著名なものは、日本三大奇祭ないし日本三大裸祭りの一つに数えられることもある奥州市の黒石寺蘇民祭で、東北地方への蘇民信仰の伝播を伺わせ、古代の姿を今に伝える貴重な民族的遺産である。

令和6年黒石寺蘇民祭は、2024(令和6)年2月17日(土)(旧正月8日)に実施されるが、担い手の高齢化と今後の担い手不足により、令和7年以降の黒石寺蘇民祭については実施しないこととなった。

蘇民信仰。

『備後風土記』の中に蘇民信仰の逸文が残されている。北海の武塔神(たけあきのかみ)が南海の神の娘をめとろうと旅に出、途中で日が暮れた。

そこに蘇民将来と巨旦将来という兄弟が住んでいた。兄の蘇民(そみん)将来は大変貧しく、弟の巨旦(こたん)将来は裕福で家や倉を百余りも持っていた。武塔神は弟に一夜の宿を借りようとしたが断られ、やむなく兄の家に泊めてもらった。兄は粟の飯でもてなした。

後に武塔神は八人の王子と帰る途中、兄の蘇民将来の所に寄り「かっての報いをしよう。おまえの子孫がその家にいるか」と問うと、「妻と娘がいる」と答えた。すると「茅の輪(ちのわ)」を腰に着けるよう命じた。その夜、神は蘇民と妻、娘を除いてすべてを滅ぼしてしまった。そして「私は須佐之男命(すさのおのみこと)なり、後の世に疫病あらば蘇民将来の子孫といい、腰に茅の輪をつける者は疫を逃れるであろう」と言った。武塔神・須佐之男命・牛頭天王・薬師如来は同一神仏であるという。

蘇民祭。裸の男と炎のまつり。

旧正月七日夜半から八日早暁にかけて行われる。厳寒積雪中の裸祭りで、災厄消除・五穀豊穣を祈願する。祭りは次の五つの行事からなる。

夏参り(裸参り、祈願祭ともいう・午後10時~)

厄年連中や一般祈願の善男善女がそれぞれロウソクをともした角燈を持って、瑠璃壺川(るりつぼがわ、山内川)で身を清め、「ジャッソー、ジョヤサ」の掛声で、妙見堂から薬師堂を三巡して、厄災消除、五穀豊穣を祈願する。

柴燈木登り(午後11時半~)

本堂前に、長さ五尺の松の木を井桁に積み上げて火を点じ、この上に登って火の粉をあびて身を清め、厄を払い一同で山内節をうたって気勢をあげる。柴燈(ひたき)護摩である。

別当登り(午前2時~)住職が、蘇民袋を従えて本堂に登り、厄災消除・五穀豊穣の護摩を焚く。

鬼子登り(午前4時~)数え年7歳の男児二人が麻衣をつけ、鬼面を逆さに背負い大人に背負われ本堂に登る。鬼子が本堂に入った後、住職が外陣に出て曼荼羅米(まんだらまい)をまく。次いで、外陣中央にある護摩台に燃えさかる松明が置かれ、鬼子がこのまわりを三度めぐる。

蘇民袋争奪戦(鬼子登り終了後~)将軍木(かつのき、ヌルデ)で作った長さ3センチ位の六角柱の小間木(こまぎ、蘇民将来護符)五升がぎっしりつまった蘇民袋を裸の若者たちが奪い合う。開始後まもなく袋に刀が入れられ中の小間木がとび散るが、この小間木を持っている者は、厄災をまぬがれるといわれ、競って手に入れようとする。更にカラになった袋の争奪戦が1時間あまり続き、審判役の親方が取主(最後に袋の首の部分を握っていた者)の判定を下して祭りは終わる。

古くは黒石寺に限らずどの蘇民祭も下帯を含め一切の衣服を着用しない全裸で行われていたが、問題となったため黒石寺においても2007年以降は下帯の着用が義務付けられ、全裸で行われて来た伝統が途絶えることになった。親方については同年以後も全裸を続けている。

2008年の蘇民祭に先駆けて、奥州市が作成したポスターについてJR東日本が上半身裸で胸毛の濃い男性が大きく写っているデザインを「女性客が不快感を覚え、セクシャルハラスメントに該当するおそれがある」として問題視し、駅構内での掲示を拒否した。

 

このあと、国史跡・胆沢城跡および奥州市埋蔵文化財調査センターへ向かった。


岩手県北上市 蝦夷の墓・江釣子古墳群 下門岡ひじり塚(河野通信墳墓)

2023年12月27日 17時23分32秒 | 岩手県

県史跡・下門岡(しもかどおか)ひじり塚(河野通信墳墓)。岩手県北上市稲瀬町水越。

2023年6月13日(火)。

樺山遺跡を見学後、北東近くにある河野通信の墓へ向かった。道が分からず、近くの自然葬施設で大体の位置を尋ねた。本道の脇道から脇道に道標があったが、道の様子が不安なので交差点付近の路肩に車を置いて歩いて近づいた。

聖塚(ひじりづか)は、時宗の開祖である一遍上人(1239-1289年)の祖父、河野通信(こうのみちのぶ)(1156-1223年)の墓所だと伝えられている。この墓所が地元の郷土史家司道真雄によって通信のものと同定されたのは昭和40(1965)年のことで、その4年後に岩手県がこれを指定史跡とした。

この墓は、土地の人々に昔から聖塚とよばれ、四角な檀の上に丸く土を盛り上げた上円下方の二段造りで表面を平らな石で覆い、堀をめぐらした、堂々とした造りになっている。

河野通信伊予国(愛媛県)の名族の出で、鎌倉時代初期の武将である。壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦では、水軍を率いて源義経に加わり活躍した。源頼朝の妻、政子の妹を妻とし、頼朝の側で仕えた。文治五年(1189)源頼朝による奥州藤原氏(平泉)討伐時、河野通信は長子通俊とともに従軍する。戦功により伊予国久米郡と陸奥国栗原郡三迫(サンノハザマ、のち葛岡村)を与えられた

のちに伊予国の守護に任じられたが、後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取り戻そうとして戦いを起こした承久の乱(1221年)で、通信は上皇側につき、破れた通信は江刺郡(現在の北上市南半部から奥州市北東部にかけての地区)に流された

河野通信はこの地の北方に残る国見山廃寺の後身である極楽寺上台坊の庵を隠岐院と名付け、後鳥羽上皇御持仏(観音像)を礼拝。貞応2年(1223年)流謫後2年で死去し、この地に葬られた。河野本家はひとり幕府方に付いた子の河野通久によって辛うじて存続することとなったが、以後伊予国内での影響力は低下した。

時宗(じしゅう)を開いた孫の一遍(親は河野通信の子通広)は、祖霊巡礼の思いが強く、一族で奥州稗貫郡の領主であった河野通次(~1309年、通信長男通俊の二男通重の嫡子)の先導で奥州へ出立した。途中、一遍の叔父に当る通信二男の通政(信濃国広葉)、四男通末(信濃国小田切)の墓地に詣で「踊念仏」で鎮魂。陸奥国江刺では弘安3年(1280)秋、祖父通信の墓地にて転経念仏の勤行をする。

国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)第五巻第三段には、河野通信の墳墓を囲んで僧尼が座して念仏している姿があり、塚の上部には薄と思われる草が2、3株ほど描かれている。このとき踊り念仏が行われていたと思われ、時宗教団では「薄(すすき)念仏」と称し、後年時宗最高の念仏行事となった。

「奥州江刺の郡にいたりて、祖父通信が墳墓をたづね給に、人つねの生なく、家つねの居なければ、只白楊の秋風に東岱の煙あとをのこし、青塚の墓の雨に北芒の露涙をあらそふ。よて荊棘をはらひて追孝報恩のつとめをいたし、墳墓をめぐりて転経念仏の功をつみたまふ」

えづりこ古墳公園。岩手県北上市北鬼柳。

河野通信の墳墓から江釣子古墳群(八幡支群)へ移動。江釣子古墳群の概要については、北上市立博物館で6月11日(日)に見学した。一帯は、えづりこ古墳公園になっており、西側に広い駐車場があるが、東側の小さい駐車場に駐車して、八幡支群を見学し、西方へ移動して、猫谷地支群を見学した。

八幡支群を見学しようと、公園に入るとカムイヘチリコホとよばれるドーム型の建造物と石碑があった。アイヌ語学者の知里真志保によると、江釣子の語源はカムイヘチリコホで、アイヌ語で「神々の遊び場」という。蝦夷(えみし)は一般的にアイヌのルーツの一つであろう。アイヌの前段階は縄文人・続縄文人・擦文人だが、古墳時代には擦文人は東北北部に多くいたとされる。奈良時代・平安時代前期にも一大勢力であったと思われる。終末期古墳の被葬者は「俘囚の長」とよばれ、朝廷に従った蝦夷とされるが、アイヌの祖先なのか、武士になる大和人なのか、混血なのか、定説はないようだ。

蝦夷(えみし)たちが眠る国史跡・江釣子(えづりこ)古墳群。

江釣子古墳群は北上川に注ぐ和賀川北岸の河岸段丘上に築造された古墳群である。東方の八幡地区に23基、中央の猫谷地地区に29基、西方の五条丸地区に81基、和賀町長沼地区13基の古墳の存在が確認されている。

これらの古墳は7世紀後半から8世紀前半にかけて造られたもので、直径6~15mの円墳が約 120基以上あり、勾玉(まがたま)、切子玉(きりこだま)、蕨手刀(わらびてとう)、直刀、馬具などが数多く出土している。

猫谷地地区の調査された5基は、横穴式石室を内部主体とする。奥壁に巨石をたて、側壁は河原石を小口積みし、羨道端を河原石で閉塞する。石室上に天井石を遺存していたのは1基のみである。最大の石室は全長3.55m、最小の石室は全長1.2mをはかる。いずれも小規模な石室であるが控積みが顕著であり、床面に河原石を据えて側壁の立石を安定させ併せて棺台とするなど特色ある技法が見られ、羨道の前面に石敷の前庭を設けるなど、横穴式石室に伴う構造の一端をよく示している。

五条丸地区では、石室で調査されたのは31基、墳丘の形状が把握されたのは26基である。石室は、すべて横穴式石室であり、1基が4石室をもつ以外は、1墳1石室である。奥壁に巨石をたて、河原石を小口積みして側壁をつくり、羨門閉塞するのが一般であり、猫谷地地区でみられた側壁の立石例や床の棺台をもつ例は極めて少ない。石室は墳丘の中央に設けられ、全長5mに近いものから、1.5mという小さいものまであり、規模にかなりの大・小を見、また前庭を敷石する構造は稀であった。墳丘は円墳で、径4.5mから14m、周囲に幅1〜2mの湟をめぐらすが、羨道部の前には周湟をつくらず、墓道の存在を暗示している。

 副葬品には切先太刀、蕨手刀、鉄鏃などの武具をはじめ、馬具・工具・装身具類、土器などが豊富に発見されている。

 石室や墳丘の規模、構造に特色があり、遺物の多様さも顕著であり、東北地方屈指の横穴式石室を伴う古墳群として重要なものである。

八幡1号墳。

猫谷地14号墳。

猫谷8号墳。

猫谷地1号墳。石室。

 

江釣子古墳群を見学後、奥州市の道の駅「水沢」へ向かった。

岩手県 北上市立博物館④蝦夷の末期古墳・江釣子古墳群と赤彩球胴甕

岩手県北上市 縄文の配石遺構 国史跡・樺山遺跡