巣鴨地蔵通り商店街。
2024年10月28日(月)。1泊2500円の赤羽駅前のカプセルホテルで起床。月曜日は博物館・美術館は休館が多い。ネットで検索すると駒込の「東洋文庫ミュージアム」が火曜日定休で月曜開館だった。東洋文庫については岩波書店の「図書」2024年4月号に経緯が記載されていたので興味があった。モリソンの蔵書に対し帝国大学などの学界の要望により横浜正金銀行頭取の井上準之助が岩崎久彌に依頼して購入し、東洋学者の石田幹之助が充実させたという。ちょうど創立100周年記念の企画展「知の大冒険—東洋文庫 名品の煌めき—」が12月26日まで開催されていた。10時開館なので、この時間に合わせるとして、それまで巣鴨のとげぬき地蔵商店街を歩くことにした。池袋、渋谷、御茶ノ水、大塚を回遊する予定だったのでJRの都区内パス760円を購入した。巣鴨の地蔵通り商店街入口に着いたのは10時前だった。
とげぬき地蔵。高岩寺。浅草寺とは比べ物にならない山門だった。
元祖塩大福「みずの」。塩大福1個130円を店内のイートインで食べた。
東洋文庫ミュージアムへは、ここから歩いても行けるが、せっかくなので巣鴨から駒込まで乗った。六義園は一度見学したことがあるが、その横を通って交差点を右折すると、東洋文庫ミュージアムがあった。入場者は多い。中国系の団体客がいた。
「東洋文庫ミュージアム」。東京都文京区本駒込
東洋学の研究図書館である公益財団法人東洋文庫が、2011年に開設した。約100万冊の蔵書や貴重な資料が公開されている。
ミュージアムのエントランス部分にあたる「オリエントホール」には『江戸大絵図』と『広開土王碑文拓本』の原寸大レプリカや貴重な古書が並ぶ国内最長の展示ケースを設置。階段を上がって2階にある「モリソン書庫」は、東アジア関連の書籍がぎっしりと入った天井まで届く書棚が圧巻。
展示室観覧の合間の休憩には、シーボルトが『日本植物誌』で紹介した木々や花々が植えられた中庭「シーボルト・ガルテン」が人気。小岩井農場と共同プロデュースし、ふわふわのオムライスや小岩井ビーフを使ったメニューを味わえるレストラン「オリエント・カフェ」もおすすめだ。
東洋文庫は、日本最古で最大の東洋学の研究図書館である。1924年(大正13年)に三菱3代目社長の岩崎久彌によって創設された。国際的にも、大英図書館、フランス国立図書館の各東洋部門、ロシア科学アカデミー東洋写本研究所、ハーバード・エンチン図書館と並んで、東洋学五大研究図書館の1つに数えられている。
東洋文庫の蔵書総数は約100万冊に上り、国宝5 点と重要文化財7 点が含まれる。言語別の内訳は、漢籍40 %、洋書30 %、和書20%、他アジア諸語10%(韓国語・ベトナム語・タイ語・チベット語・ペルシア語・トルコ語・アラビア語等)で、地域的にみると、日本を含めたアジア全域(東アジア・東南アジア・オセアニア・南アジア・中央アジア・西アジア)と北アフリカのイスラーム圏を広く包含している。
オリエントホールから眺めるオリエント・カフェ。
2023年春に岩手県の小岩井農場を見学したときに知った。三菱財閥岩崎家に関連する小岩井農場の厳選された食材を使用している。
モリソン書庫。
東洋文庫の数あるコレクションのなかで最も有名なのがモリソンコレクションである。G. E. モリソン(George Ernest Morrison 1862-1920)が北京駐在中のおよそ20年間に収集したもの。中国を中心として、パンフレット類約6,000種を含む欧文図書24,000冊、地図版画約1,000点、定期刊行物120種余り。特に重要なものとして、マルコ・ポーロ『東方見聞録』の各種刊本約50種、中国地方語辞書500冊、日露戦争資料約300冊、各国の中央アジア探検隊の調査報告等が含まれている。
モリソンが北京を去るに当たって、1917年に岩崎久彌が上記の資料群を買い取り、日本に移入した。
企画展示室。
創立100周年記念「知の大冒険—東洋文庫 名品の煌めき—」2024年8月31日(土)〜2024年12月26日(木)。
準回両部平定得勝図(じゅんかいりょうぶへいていとくしょうず)
郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)ほか 清・18世紀 紙本印刷
描かれたアジア(9)ジャン=フィリップ・ル・バ(カスティリオーネ原作)「準回両部平定得勝図」より
2020年9月10日 日本経済新聞 美術史家 幸福輝
清王朝の全盛期を築いた乾隆帝は、西洋の文化や学識に深く傾倒した皇帝としても知られている。自軍の準回両部(ジュンガルとウィグル両地域)の戦勝記念として、同皇帝は本作品を含む16枚の銅版画を制作させた。
日本や中国の伝統的な版画は木版画である。緻密な描写を可能にする銅版画に魅せられた乾隆帝は、この戦闘場面を宮廷画家だったイエズス会士の画家カスティリオーネ(郎世寧)らに描かせ、下絵をパリに送った。当時、ルイ15世に仕えていたニコラ・コシャンの監修のもとに制作されたのが、この銅版画連作である。銅版画として例外的な大きさ(約57×93センチ)をもつ本連作は、東西交流史における未曽有の大企画だった。
遠くの煙るような山岳風景は伝統的な中国の山水を連想させるが、中景に展開する無数の兵士の戦闘場面は銅版画ならではの細密な描写である。臨場感溢(あふ)れる写実的描写は未知の視覚体験であり、新しい世界像の提示者として、乾隆帝の権威は大いに高まったに違いない。
司馬江漢が日本で初めて銅版画を制作するのは、この連作の約10年後のことである。
このあと、池袋の立教大学キャンパスへ向かった。