いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

東京都駒込 東洋文庫ミュージアム企画展「知の大冒険—東洋文庫 名品の煌めき—」 

2024年11月15日 09時40分07秒 | 東京都

巣鴨地蔵通り商店街。

2024年10月28日(月)。1泊2500円の赤羽駅前のカプセルホテルで起床。月曜日は博物館・美術館は休館が多い。ネットで検索すると駒込の「東洋文庫ミュージアム」が火曜日定休で月曜開館だった。東洋文庫については岩波書店の「図書」2024年4月号に経緯が記載されていたので興味があった。モリソンの蔵書に対し帝国大学などの学界の要望により横浜正金銀行頭取の井上準之助が岩崎久彌に依頼して購入し、東洋学者の石田幹之助が充実させたという。ちょうど創立100周年記念の企画展「知の大冒険—東洋文庫 名品の煌めき—」が12月26日まで開催されていた。10時開館なので、この時間に合わせるとして、それまで巣鴨のとげぬき地蔵商店街を歩くことにした。池袋、渋谷、御茶ノ水、大塚を回遊する予定だったのでJRの都区内パス760円を購入した。巣鴨の地蔵通り商店街入口に着いたのは10時前だった。

とげぬき地蔵。高岩寺。浅草寺とは比べ物にならない山門だった。

元祖塩大福「みずの」。塩大福1個130円を店内のイートインで食べた。

東洋文庫ミュージアムへは、ここから歩いても行けるが、せっかくなので巣鴨から駒込まで乗った。六義園は一度見学したことがあるが、その横を通って交差点を右折すると、東洋文庫ミュージアムがあった。入場者は多い。中国系の団体客がいた。

 

「東洋文庫ミュージアム」。東京都文京区本駒込

東洋学の研究図書館である公益財団法人東洋文庫が、2011年に開設した。約100万冊の蔵書や貴重な資料が公開されている。

ミュージアムのエントランス部分にあたる「オリエントホール」には『江戸大絵図』と『広開土王碑文拓本』の原寸大レプリカや貴重な古書が並ぶ国内最長の展示ケースを設置。階段を上がって2階にある「モリソン書庫」は、東アジア関連の書籍がぎっしりと入った天井まで届く書棚が圧巻。

展示室観覧の合間の休憩には、シーボルトが『日本植物誌』で紹介した木々や花々が植えられた中庭「シーボルト・ガルテン」が人気。小岩井農場と共同プロデュースし、ふわふわのオムライスや小岩井ビーフを使ったメニューを味わえるレストラン「オリエント・カフェ」もおすすめだ。

東洋文庫は、日本最古で最大の東洋学の研究図書館である。1924年(大正13年)に三菱3代目社長の岩崎久彌によって創設された。国際的にも、大英図書館、フランス国立図書館の各東洋部門、ロシア科学アカデミー東洋写本研究所、ハーバード・エンチン図書館と並んで、東洋学五大研究図書館の1つに数えられている。

東洋文庫の蔵書総数は約100万冊に上り、国宝5 点と重要文化財7 点が含まれる。言語別の内訳は、漢籍40 %、洋書30 %、和書20%、他アジア諸語10%(韓国語・ベトナム語・タイ語・チベット語・ペルシア語・トルコ語・アラビア語等)で、地域的にみると、日本を含めたアジア全域(東アジア・東南アジア・オセアニア・南アジア・中央アジア・西アジア)と北アフリカのイスラーム圏を広く包含している。

オリエントホールから眺めるオリエント・カフェ。

2023年春に岩手県の小岩井農場を見学したときに知った。三菱財閥岩崎家に関連する小岩井農場の厳選された食材を使用している。

モリソン書庫。

東洋文庫の数あるコレクションのなかで最も有名なのがモリソンコレクションである。G. E. モリソン(George Ernest Morrison 1862-1920)が北京駐在中のおよそ20年間に収集したもの。中国を中心として、パンフレット類約6,000種を含む欧文図書24,000冊、地図版画約1,000点、定期刊行物120種余り。特に重要なものとして、マルコ・ポーロ『東方見聞録』の各種刊本約50種、中国地方語辞書500冊、日露戦争資料約300冊、各国の中央アジア探検隊の調査報告等が含まれている。

モリソンが北京を去るに当たって、1917年に岩崎久彌が上記の資料群を買い取り、日本に移入した。

企画展示室。

創立100周年記念「知の大冒険—東洋文庫 名品の煌めき—」2024年8月31日(土)〜2024年12月26日(木)。

準回両部平定得勝図(じゅんかいりょうぶへいていとくしょうず)

郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)ほか  清・18世紀 紙本印刷

描かれたアジア(9)ジャン=フィリップ・ル・バ(カスティリオーネ原作)「準回両部平定得勝図」より

2020年9月10日  日本経済新聞 美術史家 幸福輝

清王朝の全盛期を築いた乾隆帝は、西洋の文化や学識に深く傾倒した皇帝としても知られている。自軍の準回両部(ジュンガルとウィグル両地域)の戦勝記念として、同皇帝は本作品を含む16枚の銅版画を制作させた。

日本や中国の伝統的な版画は木版画である。緻密な描写を可能にする銅版画に魅せられた乾隆帝は、この戦闘場面を宮廷画家だったイエズス会士の画家カスティリオーネ(郎世寧)らに描かせ、下絵をパリに送った。当時、ルイ15世に仕えていたニコラ・コシャンの監修のもとに制作されたのが、この銅版画連作である。銅版画として例外的な大きさ(約57×93センチ)をもつ本連作は、東西交流史における未曽有の大企画だった。

遠くの煙るような山岳風景は伝統的な中国の山水を連想させるが、中景に展開する無数の兵士の戦闘場面は銅版画ならではの細密な描写である。臨場感溢(あふ)れる写実的描写は未知の視覚体験であり、新しい世界像の提示者として、乾隆帝の権威は大いに高まったに違いない。

司馬江漢が日本で初めて銅版画を制作するのは、この連作の約10年後のことである。

 

このあと、池袋の立教大学キャンパスへ向かった。

伊豆諸島日帰り旅行③神津島


伊豆諸島日帰り旅行③神津島

2024年11月14日 09時00分36秒 | 東京都

遠ざかる式根島。

2024年10月27日(日)。

神津島経由下田港行きの旅客船は、12時50分に式根島野伏港を出港。乗船客は3人しかいなかったが、神津島で5人ほど乗船した。

上甲板の双眼鏡。珍しい。

神津島。左奥に薄く三宅島の島影も見える。

神津島。天上山。

神津島は、活火山を有する火山島であり、周辺の島も含め数十個の流紋岩質単成火山が存在し、「神津島火山群」を成している。島の形はひょうたん型をしており、天上山を中心とした北部と、秩父山のある南部とに大きく分けられる。

本島のシンボル的存在である天上山(標高572m)は、9世紀の噴火で形成された溶岩ドームである。『続日本後紀』では、838年(承和5年)に大規模な噴火をしたことが記録されている。山頂部は比較的に平坦で、ここに「表砂漠」「裏砂漠」と呼ばれる砂地がある。

南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落が存在する。

神津島では、砂糠崎(さぬかさき)や沢尻湾、ほか恩馳島で黒曜石が産出し、後期旧石器時代から石器の材料として採取され、大量に本州に送られた。その流布範囲は広く、東は東京都、西は静岡県西部、さらに内陸部の山梨県北杜市の横針前久保遺跡にまで達し、半径約180kmまで拡がっていた。これは同時に旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠でもある。採掘は縄文時代まで続いた。

天上山はハート型の爆裂火口である。

神津島港。

13時50分ごろ着岸。14時10分ごろ出港。

遠ざかる神津島。

遠ざかる式根島。

伊豆半島東海岸下田付近。

下田港へ近づく。

利島、新島、神津島か。

伊豆諸島のシルエット図。伊豆急下田駅。

16時30分に下田港へ着き、徒歩で伊豆急下田駅に着いた。伊豆急は1時間に2本しかない。

17時19分発伊東行きに乗車して、本日の宿泊地・赤羽へ向かった。

伊豆諸島・式根島・地鉈温泉 波打ち際の硫黄泉


伊豆諸島・式根島・地鉈温泉 波打ち際の硫黄泉

2024年11月13日 09時50分19秒 | 東京都

伊豆諸島・新島へ近づく。

2024年10月27日(日)。

右奥に回り込んで新島港へ近づく。

中央奥が式根島。

新島港。

式根島へ向かう。

新島の後景。

式根島の北海岸。

式根島・野伏港。9時15分頃に下船した。奥に2階建てのフェリーターミナルがある。

式根島の目的は地鉈(じなた)温泉だけである。野伏港から徒歩25分と書いてあるがルートが分かっている健常者の所要時間であろう。マップを見るとほぼ真っ直ぐ南に行けると思っていたが、実際には違っていた。レンタサイクルを借りるつもりで、ネットで見ていたら池村商店が港から近く、残りは島の中ほどに集中していた。

13時発の下田港行きの乗船券を買おうと、フェリーターミナルの中に入ったが、港で作業中のため無人だった。外に出ると、男女3人連れがいて、レンタサイクルはどこで借りられるのか尋ねられた。池村商店で借りる予定だと話して、歩いていくとすぐに式根島観光協会があった。レンタサイクルを尋ねると、坂を登った信号のある交差点横にレンタルサイクル屋がある、と教えてくれた。池村商店は、臨時休業という。3人連れは荷物を300円で預けたが、私はレンタルサイクル屋なら無料で預かってくれるだろうと思い預けなかった。

坂を登り切ると信号交差点の右横に飲食店と民宿があり、レンタサイクルを貸していた。2時間1000円。9時30分なので、11時30分までである。1時間500円ともいえる。手続きをして無料で荷物を預けた。持ち物はタオルと着替えと貴重品程度である。電動機付きはないようで手動3段式式根島の道路は高低差が激しくないので充分である。といっても登り坂は緩くても自転車から降りて手押しで登ることになった。

地図を貰ったが、道標の地鉈温泉方向という標示に従って進んだ式根本道を通るルートになり、郵便局から東進すると、駐在所のある交差点に着き、たまたまいた警官に尋ねると、道路脇に設置された地図で教えてくれた。南西に進んで、右折し、「みやとら」商店で左折し、式根島温泉「憩いの家」方向へ向かえば分かるという。「憩いの家」前を通ると、情報通り休業中だった。さらに進むと、「温泉の郷」があり、奥に続いていたが、若い団体客20人ほどが出てくるところだったので、中に入らなかった。ここが正解の道で、小さい「地鉈温泉」の標示ものちに見つけたが、見逃した。そのまま進むと下り坂になり、展望台方向という道標があったので、地図を確認すると間違いのようだったので、「温泉の郷」へ戻り、広い道を中へ進入して進むと「地鉈温泉」のトイレのある駐車場に着いた。10時10分頃だったが、自転車でも港付近から30分ほどは要するだろう。

駐車場から見下ろす地鉈温泉。

地鉈(じなた)温泉。

鉈で割ったような地形の絶景温泉。神経痛や冷え症に効果があるため、別名「内科の湯」と呼ばれている。野口冬人氏が選定した露天風呂番付では東の張出横綱に番付けされている。

硫化鉄泉で、源泉温度80度。温泉成分に含まれる鉄のため湯色は赤色である。

源泉は高温だが段差のついた複数の湯船があり、潮の満ち引きに応じて海水と混じり合った適温の湯船を選んで入る。背後にある岩場が大きな鉈で裂いたようなVの字谷を作っているためこの名が付いた。水着着用推奨の混浴であり、無料で入浴できる。

ここの源泉は、足付港横にある「松が下雅湯」にも引湯されている。

木段道から見下ろす地鉈温泉。

木段道は整備されていて下りやすい。5分もあれば下に着く。そこから100m余りで湯壺に着いた。

湯壺には港周辺で会った3人連れが入っていた。「先に出たのに、遅いね」と言われたので、道に迷ったと話した。中央で湯壺に入ろうとしたら「そこは熱い」と言われた。戻って捜したが適当な湯壺がなく、3人連れが脱衣した岩に移ろうとしたら体勢が危なくなったので諦めた。足湯程度の入り方をして、もう充分だと思い、帰ることにした。

駐車場に帰ると、3人連れは展望台に行くということだった。彼らは伊豆大島までジェット船で渡り1泊する予定なので時間的な余裕があった。

レンタルサイクル屋に帰ったのは11時10分頃で、そのままフェリーターミナルへ向かった。

港へ向かう途中の坂には、本日が投票日の衆議院選挙の掲示板があった

坂を下り、港が見える地点に来ると、今朝まで乗船したアゼリア丸が伊豆大島・竹芝桟橋へ向かうため、神津島から引き返して入港してくるところだった。

11時30分ごろフェリーターミナルに着き、下田港行き13時発の乗船券を購入すると、条件付き運航と言われた。接岸困難だと立ち寄らないという意味だそうだ。12時40分までには桟橋に来るように言われた。

フェリーターミナルで時間を潰して、12時30分ごろ桟橋へ行き、タラップの横に立っていると、警官が来て数メートル離れた場所で待つように言われた。しばらくすると、下田港行き旅客船が近付いてきた。波が上下しているので、タラップが固定できないこともあると感じた。

12時50分には野伏港を出港した。13時発だと信じていたら乗り遅れただろう。

横浜大桟橋から伊豆諸島への日帰り旅行


横浜大桟橋から伊豆諸島への日帰り旅行

2024年11月12日 09時00分24秒 | 東京都

横浜大桟橋に入港する伊豆諸島行きフェリー。横浜市中区海岸通。

2024年10月26日(土)。

2024年10月26日(土)から29日(火)まで伊豆諸島北部と東京を旅行した。伊豆大島は1990年代に行きはYS11、帰りは熱海行きフェリーを利用して一泊観光した。小笠原諸島父島・母島には2000年代末に旅行したが、伊豆諸島は忘れたままになっていた。最近、NHKで青ヶ島が取り上げられたので今年の2月に計画してみた。

旅行費用を抑えるのは宿泊費だ。八丈島・青ヶ島・新島・神津島などには無料のキャンプ場がある。テントなどはザックで担ぐ体力はもうないが、キャリーケースで運べそうな気がした。適当な気温になればシュラフでなくてもシュラフカバーで大丈夫だ。それまで待つかと待っているうちに暑い季節が続いて現在に至った。そのうちに体力も落ちて、キャリーケースも運べなくなったので、キャンプは諦めることにした。

宿泊はしなくても、島の港を見ることで、行ったということにして1泊だけ島に泊まった鹿児島県のトカラ列島などの例から、10年ほど前にチェックした式根島の地鉈温泉の入浴だけ狙うことにして、東京方面から伊豆大島・神津島までのフェリーに乗ることにした。9時5分に式根島で降りるとして、神津島から竹芝までの折り返し便11時25分に乗船するのでは滞在時間は少なすぎるし、神津島を見学したことにはならない。そこで13時発の神津島経由下田港行きに乗ることにした。

行きのフェリーは横浜港発が金曜・土曜のみある。運賃も竹芝港発より安くなる。10月25日(金)発でも良かったが、別の要素により選択しなかった。

10月26日(土)横浜港23時30分発のフェリーに乗るため、名古屋から東海道線を乗り継いでみなとみらい線日本大通り駅で下車し、横浜大桟橋の国際客船ターミナルに着いたのは19時過ぎごろだった。乗船受付は21時から始まるので、受付近くのイスで長時間待った。港を観光するファミリーや外人客用の大駐車場の上階にあるので、人通りはあった。21時になり、一番で乗船手続きをした。ネットで決済済みだったが、2等でも横になるスペースは指定されるので、意味があったかもしれない。2等和室は障害者割引で3570円。ちなみに、式根島から下田港までは2660円。式根島のレンタルサイクル1000円が基本的な旅行費用になった。

23時になると、係員の先導で誘導通路を下って西下側の桟橋へ移動した。23時20分ごろ、フェリーが前照灯を照らしながらまぶしく近付いてきた。

船は半回転して舳先を東京湾側へ向ける。タラップが正常な位置につくまで10分近く苦闘していた。通路を空けるように言われると、クルーズ船代わりの利用であろうか、欧米人が5人ほど下船していった。

乗船して2等和室に行くと、指定スペースがあり、部屋の四隅に客がいた。電気コンセントが気になって先客の女性を起こしてしまったが、よく見ると四隅にあるのだが、カーテンで隠れていただけだった。

横浜ベイブリッジが気になったので、デッキに出てみるとベイブリッジの真下を通過するところだった。

遠ざかるベイブリッジと横浜港の夜景。

伊豆大島の岡田港。

2024年10月27日(日)。

6時入港。5時に船内の灯がついたので、デッキから入港風景を眺めた。

6時5分頃に日の出が見えた。

伊豆大島の後景。

利島。

利島港。

遠ざかる利島。

鵜渡根島。


明治大学博物館②古墳時代 装飾付大刀 五領式土器 佐自塚古墳透かし埴輪

2024年03月24日 13時17分45秒 | 東京都

明治大学博物館。東京都千代田区神田駿河台。

2024年3月14日(木)。

沖洲古墳群は、茨城県行方市の北西部にあり、沖洲集落を中心とする鎌田川流域の台地や沖積地に勅使塚古墳、大日塚古墳、延戸(のぶと)古墳、権現山古墳、八重塚古墳などで構成されている。中でも、勅使塚古墳は 4 世紀末のものと推定され、県内で最も古い前方後方墳といわれている。

佐自塚古墳。茨城県石岡市佐久にある前方後円墳。細長い丘陵の末端近くに位置する古墳である。築造時期は、古墳時代前期の4世紀後半頃と推定される。一帯では前方後方墳の丸山古墳・長堀2号墳に後続する首長墓に位置づけられるほか、付近の佐久上ノ内遺跡で検出された方形区画溝を佐自塚古墳被葬者の豪族居館に比定する説が挙げられる。

墳丘からは不規則な透かしを持つ器台系円筒埴輪が検出されているほか、前方部正面墳裾では底部穿孔の朱塗二重口縁壺が検出されており、特に円筒埴輪に施された三日月形・水滴形の透かしは類例のないもので、関東地方における埴輪出現期の様相を知るうえで重要視される古墳である。

古墳時代土器の研究。古墳時代の土器には土師器と須恵器の2種類がありますが、ここに示すのは弥生土器の系譜にある土師器の方です。関東地方における古墳時代土器の研究は、戦前に杉原荘介氏によって基礎がきづかれました。戦後、五領遺跡の調査によって古墳時代の土師器の全貌がほぼ明らかになり、五領遺跡出土土器を標式として五領式土器が設定されたことで、現在の五領式-和泉式-鬼高式という編年序列ができあがりました。

五領式土器。五領式土器とは埼玉県東松山市の五領遺跡から出土した土器群に対して、金井塚良一氏らが設定したものです。基本的な特徴は、弥生土器的な文様装飾を省略して無文化していることと、新たに小型精製の器台と坩(小型の壷)が土器のセットに加わっていることにあります。

五領遺跡出土土器には近畿の土器を模倣したものが比較的多く見られ、それらが在地の土器群に対して影響をあたえたことで五領式土器が成立したのです。

五領式土器

古墳時代最初の土器は五領式とよばれる土師器である。埼玉県東松山市の五領遺跡ではじめて発見されたためこのような名称がついた。土師器と弥生式土器とは作り方・焼き方どちらをとっても明瞭な区別がつかないが、関東でもその例外ではない。すなわち、土師器はわが国の伝統的土器作り法によったもので、今日の「かわらけ」づくりの方法である。古墳時代に入ってからの土器を土師器とよび、器種やわずかな形の違いによって弥生式土器と区別している。

五領式の土師器は壺形土器に最もよくその特徴があらわれている。大きな球形の胴部に朝顔の花のように開く口がついた形をし、表面をハケ目工具やヘラで丁寧に整形され、しばしば赤色顔料が塗られている。この種の土器は古墳・方形周溝墓・住居址のいずれでも発見される。とくに墳墓から出土する壺には赤色顔料を塗っていることが多く、底に穴をあけてしまったものもみられる。したがって、実生活の容器としては使用不可能で、祭祀用土器と考えられている。

また、この五領式土師器には台付甕形土器が盛行した。この土器は煮たき用の甕形土器に高坏の脚部様の台がついたもので、弥生時代末期の前野町式から盛んに使用された。台付甕形土器は東海・関東地方に特徴的に現われた土器で、五領式では口縁部の断面がS字状を呈するものがあり、この口縁は東海地方で創出され、関東一円に波及した。S字状口縁の甕形土器は奈良盆地や飛鳥地方でもかなり発見されており、東海地方の土器が畿内にもたらされたことが知られている。

台付甕形土器の使用法は、炉に定置してその周囲に焼料をつんで火をもやし、炎を甕に効果的にあてることができる。台はかなえの役割をはたした。米などの穀類は甕の中に入れて煮た。おそらく、今日のような「炊いた御飯」というわけにはゆかなかったであろう。水をたっぷり入れてもこげつき、穀類はかなりやわらかく、高坏に盛ることはできなかったであろう。米をふかすことが一般的となるのは、カマドが普及する六世紀代になってからではないだろうか。(昭島市史1978年)

装飾付大刀(そうしょくつきたち)は、日本の古墳時代に製作された直刀(大刀)のうち、古墳時代後半(6世紀から7世紀)に隆盛した金・銀または金銅製の外装(刀剣装具・拵)を備えたものの総称。「飾大刀」(かざりだち)とも呼ばれ、儀仗用の大刀と考えられている。

装飾付大刀の種類

環頭大刀。柄の先端である柄頭に、円環(環頭)が取り付けられたもの。中国大陸にその系譜を持つ。

素環頭大刀(そかんとうのたち):環頭の内側に装飾がないもの。日本列島内で最も早い段階に出現した直刀で、弥生時代後期から存在する。

三葉環頭大刀(さんよう):環頭の内側に三葉文が配されるもの。

三累環頭大刀(さんるい):環が3つのC字形の輪の組み合わせで構成されるもの。

単龍・単鳳環頭大刀(たんりゅう・たんほう):環頭の内側に1体の龍、または1体の鳳凰が配されるもの。

双龍・双鳳環頭大刀(そうりゅう・そうほう):環頭の内側に2体の龍、または2体の鳳凰が配され、互いの口で1つの玉を奪い合うように咥えるもの。

獅嚙環頭大刀(しがみ):環頭の内側に、正面向きの1体の獅子のような獣面が、環頭に噛みつくように配されたもの。

倭風大刀。古墳時代中期からの系統を引き継ぐもの。

楔形柄頭大刀(くさびがたつかがしら):柄頭が逆三角形(楔形)の板状を呈し、刀身の刃部側に強く突出する形態のもの。古墳時代中期前半には、木製装具としてすでに出現しており、最も伝統的な刀装具形態と考えられている。

捩環頭大刀(ねじりかんとう):楔形柄頭大刀の柄頭上部に、捩りを加えた半円形の鉄製環(捩環)が取り付けられたもの。伝統的な楔形柄頭大刀が、装飾付大刀へと発展した形態。

袋状柄頭の大刀(袋頭大刀)。把頭が金属製でやや大型の「袋状」構造を持つもの。「頭椎」や「円頭」の柄頭は、古墳時代中期の木製装具にすでにその初現的な形態が現れているため、倭風大刀に位置づけることも可能だが、製作技術や様式に大陸系大刀の技術が多く加わり、デザインにもそれらの折衷型のものが見られる。

頭椎大刀(かぶつち):柄頭が拳のような形状を持つもの。「頭槌」とも。把頭表面に「畔目」と呼ばれる筋状の凹凸を持ち、「無畔目式」、「横畔目式」、「竪畔目式」に分類される。

円頭大刀(えんとう):柄頭が丸いもの。

圭頭大刀(けいとう):柄頭が将棋駒、または中国の玉の一種である「圭」のように山形を呈するもの。

鶏冠頭大刀(けいかんとう):柄頭が鶏冠のような形状を呈するもの。椰子の葉を図案化した「パルメット文様」がモデルと考えられている。

方頭大刀(ほうとう):柄頭が丸みを持たず角張り、直方体に近くなるもの。

弥生時代日本における直刀の出現は、弥生時代の後期中葉に遡り、墳丘墓などの遺跡から西日本を中心に出土している。茎の尻に鉄製の環が付く「素環頭大刀」のほか、環の付かないものも出土しているが、多くは中国大陸(漢)からの舶載品と考えられている。

古墳時代前期・中期。古墳時代に入ると、直刀は国内での生産が可能となり全国的に普及し、各地の古墳やその他の遺跡から出土するようになるが、同時代前期から中期(3世紀後半から5世紀末)の刀剣装具は、木製装具か、木製部材と鹿角製部材を組み合わせた「鹿角製刀剣装具」など、有機質素材のものが多く、金属の部品を用いる例はほとんど存在しなかった。

なお、同時代中期の刀装具形態は、日本列島で独自に発生した、柄頭(把頭)が逆三角形(楔形)を呈する「楔形柄頭大刀」や、本来剣の装具である鹿角製刀剣装具を備えたものを主流とするが、「頭椎」や、「円頭」など、のちの装飾付大刀に引き継がれる形態の木製装具もすでに出現し始めていたことが、奈良県天理市布留遺跡の調査などにより確認されている。そのほかに、大陸からもたらされた素環頭大刀などの環頭大刀の一群も継続して存在した。

古墳時代後期・装飾付大刀の出現。古墳時代後期(6世紀)に入り、帯金具や馬具の装飾技術である金アマルガム法が大刀の装具にも取り入れられた。これに伴い、柄や鞘などの木製部材の上に、金を鍍金した銅板を巻きつける金銅装や、金装・銀装などの金属装飾を施した光り輝く大刀が数多く出現した。

環頭大刀においても、環の内側に龍や鳳凰をデザインした、「単鳳・単龍環頭大刀」・「双鳳・双龍環頭大刀」などのバリエーションが加わった。またこれに伴い、同時代中期まで隆盛していた鹿角製の装具は急速に消滅していった。これらの装飾付大刀は、地域の有力な支配者(首長)層の身分や地位を表す威信財として所有され、各地の古墳に副葬された。

装飾付大刀の終焉。これら各種の装飾付大刀は、古墳時代後期から終末期(飛鳥時代)にあたる6世紀から7世紀代に隆盛するが、律令制の導入など、国家の体制が大きく変容する7世紀後半には急激にそのバリエーションを失い、光り輝く金・銀・金銅装部位も減少し、方頭大刀のみにその形態が絞られていく

方頭大刀の形態は、奈良時代以降の大刀外装としても存続し、正倉院所蔵の「黒作大刀」や「金銀鈿装唐大刀」へとその系統が受け継がれて行くこととなる

 

「金工品から読む古代朝鮮と倭  新しい地域関係史へ」 金宇大、京都大学学術出版会、2017年刊

外来系装飾付大刀の系譜的検討を通じた古代東アジアにおける地域間関係の研究

稲田 宇大 (金宇大)  滋賀県立大学, 人間文化学部, 准教授

6世紀後半以降、日本全国の古墳には極めて多様な「装飾付大刀」が副葬されるが、そうした大刀の中でも、把頭に環状の飾りを付した「環頭大刀」は、その意匠や製作技術が中国や朝鮮半島から導入された「外来系」大刀として注目されてきた。本研究では、資料の実見調査を可能な限り悉皆的に実施し、日本や韓国で出土する装飾付大刀の製作技術を相互に比較することで、装飾付大刀を製作する技術がどのように日本列島へと伝わり、発展を遂げていったのかを明らかにする。

本研究では、古墳時代に流通した各種刀剣類のうち、中国大陸や朝鮮半島に源流をもつとみられる、いわゆる「外来系大刀」を対象に、朝鮮半島出土例との比較分析を通じた詳細な系譜検討に取り組んだ。具体的には、柄頭に龍の文様をあしらった単龍・単鳳環頭大刀を中心に、三葉環頭大刀、三累環頭大刀など、主に古墳時代後期に製作された「外来系大刀」に対し、個々の資料の実見観察調査を悉皆的に実施することで、詳細な技術系譜を明らかにしていった。その上で、これらの大刀を所有・副葬した古墳被葬者らが当時の社会においてどのような立場にあったのかを推論した。

本研究で対象とした「外来系大刀」のような、朝鮮半島に系譜をもつとされる資料は、従来、いわゆる「外来」の資料としてそれ自体の系譜を深く追究しないまま、対外的な交渉に関わった人物であることを示すもの、あるいは渡来人ないし渡来系の人々がいた証左とされ、日本国内で完結した評価に留まっていた。本研究では、具体的に朝鮮半島のどの地域と技術的関係性を指摘できるのか、さらには、先入観的に「舶載品」とされてきた資料群は本当に列島内で製作された可能性はないのか、といった点を朝鮮半島での出土例を踏まえて改めて洗い直したことで、より客観性の高い交流史像を描出した点に大きな意義がある。

 

明治大学博物館を見学後、東京駅八重洲南口13時30分発のJRバスで名古屋に帰宅した。

明治大学博物館① 縄文・弥生 岩名天神前遺跡の再葬墓 顔面付壺形土器