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皇居 令和6年秋季皇居乾通り一般公開①坂下門外から局門まで

2024年12月22日 08時52分35秒 | 東京都

皇居。二重橋前。令和6年秋季皇居乾通り一般公開。

2024年12月4日(水)。

2024年年11月30日(土)から12月8日(日)までの9日間、秋季皇居乾通りが一般公開された。入場時間は午前9時から午後3時までで、皇居坂下門から参入、皇居乾門から退出する。

乾通りには8種類、およそ70本の色とりどりのモミジが植えられているという。

11月30日に八丈島でテレビニュースを見ていたら、乾通りの通り抜けの映像が流れてきた。全く予定外だったが、来年の桜の時季の通り抜けは予定していたので、12月3日に八丈島・青ヶ島の旅を終えて東京へ戻ったあと、翌朝見学することにした。

有楽町駅で下り、二重橋前に着いたのが7時30分過ぎだった。

多くの人が石造りの橋「皇居正門石橋」を二重橋と思っているが、実はその奥にある橋「皇居正門鉄橋」が二重橋である。

「皇居正門鉄橋」は、1614年(慶長19年)当初、二重構造(木造)であったことが、名前の由来となっている。現在の橋は、明治宮殿造営(完成明治21年)に当り、錬鉄製の橋に架け替えられ、更に昭和の新宮殿造営(竣工・昭和43年)に先立ち、架け替えられて現在に至る。

一方、「皇居正門石橋」は、1888年(明治20年)12月、明治宮殿が竣工する前年に完成した。

8時前に坂下門外にある障害者用の入口に並んだ。障害者用の入口にはその後も誰も並ばなかった。

一般者用には10人ほど並んでいた。

8時45分ごろから参加者が目立って増えてきた。8時50分ごろに、手荷物検査が始まり、8時55分ごろに坂下門手前に並んだ。皇宮護衛官3人がこちら側を向いて立っていた

宮内庁の事務官3人が現れ、大音声で、通り抜けの開始を宣言した。皇宮護衛官は180度ターンして坂下門へと歩み始めた。このあたりは、衛兵交代の儀式の雰囲気がある。先頭から2列目だったので、興味深く拝見した。朝早く来てみないと分からないものだ。

坂下門の右奥に見える宮内庁庁舎。

坂下門を出るまでは、ゆっくり歩くように言われる。

坂下門。

宮殿。

宮内庁庁舎。

昭和10年(1935年)に建築された建物で,庁舎3階は,昭和27年(1952年)に改装され,昭和43年(1968年)の宮殿落成までの間,仮宮殿として使用されていた。

あるとき宮内庁の担当者に挨拶してくれと頼まれて、乾門からタクシーで乾通を通り抜けて庁舎に入り、挨拶したことがある。

地下壕かと思ったら、宮殿との連絡用通路・車庫?だという。

東御苑南西端の富士見櫓。

富士見櫓は江戸城の中でも高い位置にあり名前の通り当時はここから富士山が見えたという。

蓮池参集所。

宮内庁本庁舎の向かって右側に有る平屋建ての建物で、ボランティアで全国各地から集まる勤労奉仕団の集合及び休憩場所になり、天皇皇后両陛下が 勤労奉仕団にご会釈をされるという。

トイレと生垣。

トイレ横から見る富士見多聞。

富士見多聞には今年3月に内部へ入り、乾通り方向を見下ろした。

山下通り。

右側奥が「紅葉山」で、皇居の中でも静かで緑多い通りという。奥に豊明殿がある。

局門(つぼねもん)。

宮内庁の倉庫らしい。

富士見多聞。

門長屋。

西桔橋(にしはねばし)門跡。

内濠(乾濠・蓮池濠)に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいる。江戸時代は、本丸大奥と吹上の通路になっていて、西桔橋門があったが、現在は石垣の一部が残っているだけである。

桔橋(はねばし)とは、有事の際、橋をはね上げて往来を不可能にする仕掛けを持った橋のことである。この橋と北桔橋の2橋が江戸城防備のために、桔橋となっていたが、現在は普通の橋となっている。


八丈島・青ヶ島への旅⑥三宅島港着発から竹芝桟橋まで

2024年12月21日 09時00分44秒 | 東京都

三宅島南岸。

2024年12月3日(火)。

船の行程は、八丈島発9:40、御蔵島着12:35、発12:40、三宅島着13:35、発13:45、東京着19:50である。伊豆大島には寄らない。

御蔵島港から北に約18km離れた三宅島へ向かう。噴火による避難は記憶に新しい。

三宅島は、伊豆大島の南57kmに位置する直径8kmのほぼ円形をした島で、伊豆-小笠原海嶺の上にあり、第四紀更新世の後期(約1万 - 15万年前)になってこの付近の海底で噴火が始まり、島が形成されたと考えられている。

島は雄山(おやま)を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体であり、玄武岩質の成層火山である。

雄山を中心としてしばしば激しく噴火をすることで知られ、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山(常時観測火山)に選定され、気象庁によって火山活動度ランクAの活火山に指定されている。

最近500年間では平均50年の間隔で13回の噴火が起き、明治時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。

2000年6月26日から三宅島南西部を震源とする小さな火山性地震が観測され始めた。一連の現象は、三宅島の南西部に貫入したマグマが西方海域へ移動したことによると推定された。

その後、地震の震源はさらに西方沖へ移動し、新島、神津島近海で活発な群発地震活動(最大マグニチュード6.5、震度6弱)となった。

7月4日頃から再び雄山山頂直下を震源とする地震が観測され始め、次第に活発化していった。7月8日、山頂で小規模な噴火が発生し、山頂付近に直径700〜800mの円形の陥没地形が形成された。この陥没は次第に拡大し、8月中旬までに直径1.5km、深さ450mのカルデラが形成された。

8月10日には噴煙の高さが8000mに達する規模の大きな噴火が発生した。その後は断続的に噴火が観測され、18日の噴火では噴煙の高さが14000mにも達した。この噴火の際には西側山麓で降灰があり、中腹では50cmの噴石、山麓でも5cm程度の火山礫が落下した。

8月29日の噴火の際には低温で低速の火砕流が発生し、山頂から北東側に5km、南西側に3km流れ、北東側は海にまで達した。また、雨による泥流も頻発した。8月31日、火山噴火予知連絡会は「今後、高温の火砕流の可能性もある」とする見解を発表。これを受け、9月1日全島避難が決定、4000人余の島民は島外での避難生活を余儀なくされることになった。

噴火は9月まで続き、その後は山頂火口からの大量の火山ガス放出活動に移行した。その後火山活動は低下し、2005年2月1日、全島避難指示から4年5ヶ月に及ぶ避難指示が一部を除き解除された。

桟橋へ近づく。南には御蔵島が見える。

三宅島・三池港桟橋。

三宅島・御蔵島。

伊豆諸島北部。14時15分ごろ。

伊豆大島。伊豆半島。16時20分ごろ。

レインボーブリッジ。

東京タワー。

当日は東京に泊まり、翌朝は皇居乾通り通り抜けで紅葉を楽しんだ。

八丈島・青ヶ島への旅⑤八丈島底土港から御蔵島港着発まで


八丈島・青ヶ島への旅⑤八丈島底土港から御蔵島港着発まで

2024年12月20日 09時32分34秒 | 東京都

八丈島。底土園地。

2024年12月3日(火)。

本日は八丈島朝発の東海汽船の大型客船で竹芝桟橋へ帰ることにした。11月29日の往路便が欠航したのでANAの午後便を予約していたが、2日夜の東海汽船のHPで運航が確認されたので、その時点でANAをキャンセルした。船のほうが運賃は安いし、八丈島の観光も30日の午後と2日に回った程度でいいだろうと判断した。また、御蔵島と三宅島を見たことにできるからだ。

船の行程は、八丈島発9:40、御蔵島着12:35、発12:40、三宅島着13:35、発13:45、東京着19:50。八丈島の乗船地が底土港になるか八重根港になるかは営業所に確認しなければならないので電話すると、底土港だった。

宿の最寄りバス停である「大脇前」を8時5分のバスに乗り底土に8時18分に着いた。目の前にフェリーターミナルがあるが、その前に海岸を眺めてみた。

フェリーターミナルの2階に登り周囲を眺めてみた。

沖合に停泊していた青ヶ島行きの客船「くろしお丸」が8時30分ごろに埠頭に接岸してきた。「くろしお丸」は9:30出航で青ヶ島12:30着である。

この時期の「くろしお丸」の運航は1週間のうち月火のみというパターンが多い。

8時45分ごろから乗船券の販売が始まった。案内所で11月29日の便が欠航してえらい目にあったというと、八丈島に接岸できず沖から東京へ引き返すこともあるという。

9時20分すぎに竹芝桟橋行き客船「橘丸」への乗船が開始され、埠頭のほうへ歩いていくと、「くろしお丸」が間近に見えた。乗客は10人ほどが確認できた。

底土港フェリーターミナルと八丈富士。

乗船後9時35分ごろに展望デッキに出ると「くろしお丸」は遠くに行ってしまっていた。

9時40分ごろに出航した。底土港はどんどん遠ざかっていく。

八丈小島と八丈島。

御蔵島。油断していたら12時ごろに御蔵島の西岸を進んでいた。

御蔵島の北には三宅島が見える。

岸辺の崖から滝が流れ落ちている。

御蔵島北岸へターンすると三宅島が見えた。

御蔵島の北岸に向かう。

御蔵島港。

タラップ風景。

タラップを運搬する車両。

御蔵島港から三宅島へ向け出航。

八丈島・青ヶ島への旅④ヘリから眺める青ヶ島・八丈島 島寿司・大里の玉石垣・樫立温泉・中之郷温泉


八丈島・青ヶ島への旅④ヘリから眺める青ヶ島・八丈島 島寿司・大里の玉石垣・樫立温泉・中之郷温泉

2024年12月19日 08時52分07秒 | 東京都

八丈島(八丈富士・三原山)と八丈小島。青ヶ島ヘリポートから。東京都青ヶ島村。

2024年12月1日(日)。

7時30分から「あおがしま屋」別棟で和朝食。半分ビュッフェスタイルだ。朝食後に宿代などを精算した。女将の夫は愛知県の三河地方の出身で、私と同年らしい。くろしお丸は先週は月・火のみ運航で、夫は八丈島からくろしお丸で今日帰るという。女性の一人客は、その往路便で帰るという。この時期は、だいたい月・火のみの運航になってしまうようだ。キャンプをするつもりもあったと言うと、以前キャンプ場で泊まり、「あおがしま屋」でも泊まった女性がいたという。船ならともかくヘリだとテントなどは運べないよね、と言うと、郵便局に送る人もいるという。

9時30分過ぎに青ヶ島ヘリポートに着くと、昨日と同様好天に恵まれて、八丈島と八丈小島がくっきりと見えていた。

青ヶ島ヘリポートに着陸する東邦航空「愛ランドシャトル」。

東邦航空「愛ランドシャトル」の八丈島空港9時55分発青ヶ島10時15分着のヘリは待合室から見ると点のような形で近付いてきた。ヘリポートに近づくと右側に回り込んでしばらく見えなくなったが、あっという間にヘリポートに着陸してきた。

着陸前に待合室のガラスドアで着陸を待っている乗客が2人いたので、私は中に入るように声をかけた。制限エリア外に決まっているからだ。ガラスドアに一番近い位置にいたので、数人が撮影するのかと思い、ドアを開けたままにしていたら、「寒い風が入ってくるからガラスドアを閉めろ」と私に注意する人物がいて、係員にアピールした。係員がガラスドアを閉めて待つように規定されていると言ったので、ドアは閉められた。事故でヘリのローターが飛んでくることもないわけではないので当然だろう。ガラスドアから着陸風景を撮影すること自体は規制されていないようで、撮影したのは私一人だけだった。

青ヶ島発は10時20分、八丈島空港着は10時40分で、ほぼ定刻どおり出発した。往路便も復路便も操縦士後方窓側であった。

青ヶ島を出たあとに、そういえばと思ってカメラを青ヶ島方向に向けて撮影した。後方に手を向けただけなので、どう映っているかは分からなかったが、うまく撮影されていた。

中央奥は尾山展望公園や大凸部などの外輪山北部で、丸山などのカルデラは見えない。中央上部の反射している人工物は取水場などの水道施設である。その下が東西に分かれた岡部地区で、建物が点在している。その下はジョウマン共同牧場の牧草地帯だろう。

青ヶ島を出て一直線に八丈島へ向かっているので、八丈小島・八丈富士・三原山は常時見えていた。八丈小島と八丈島の間は想像以上に広い。

八丈島の樫立・中之郷エリアか。

明日葉そば。八丈島空港レストラン。

1000円。それなりに美味い。羽田空港から八丈島空港に着いた11月30日にレストランのメニューサンプルを見たら島寿司と明日葉そばのセットが一番人気で2000円と書いてあったので、空港に着いて注文しようとしたら、なかった。予約で売り切れたという。島寿司が食べたかった、というと「八丈ストア」にはあるはずだという。

「バスパ」という八丈町営バスの路線バス・3温泉フリー利用できる1000円のフリー乗車券を活用するつもりで旅行前からバスの時刻表を見てシュミレーションを繰り返してきたせいで、11時22分八丈島空港バス停乗車、11時29分八丈ストアーバス停下車で、島寿司購入後、徒歩で11時51分護神バス停発に乗車し樫立温泉(ふれあいの湯)下車の行程を実行することにした。

バスに乗った途端、八丈島歴史民俗資料館が12月1日から長期休館になったという掲示に驚いた。知っていれば11月30日に見学していた。約2年後に大賀郷の「歴史民俗資料館」バス停近くに新設されるという。末吉温泉休業と同じくショックを受けた。

「八丈ストア」。三根(みつね)地区西端、八丈島空港東端近くにある。「スーパーあさぬま」より車の数が多い。内部の品ぞろえも多かった。島寿司コーナーを教えてもらって、覗いてみると松・竹・梅のように魚の種類が分かれて並んでいたので一番安い「かっぽれ」1080円を購入した。

島寿司「かっぽれ」1080円。

大里のバス停で中之郷方面行きバスを待つ間に食べた。大東島で島寿司は食べたことがあるので味は分かっていた。

天照皇大神宮護神バス停がある交差点から見えた。

大坂トンネル手前から眺める八丈小島。

樫立温泉(ふれあいの湯)。建物前にバス停がある。

温泉の浴槽は広い。湯質も良かった。ツアー団体の客もいた。このあと、バスで大里へ。

大里の玉石垣。六方積みという手法で横長の玉石が規則正しく積み上げられている。かつて、流人が積み上げたという言い伝えが残っている。

きりがないので、適当に切り上げて、青ヶ島が見えるという中之郷温泉「やすらぎの湯」に行くことにした。13時50分過ぎに大里で乗車して14時3分ごろ「中田商店前」で下車し、海岸へ下っていった。前日の青ヶ島徒歩旅行で3万歩以上歩いていたので、荷物全部を入れたデイパックを背負って坂道を下るのはつらかった。

海岸近くから眺める青ヶ島。

「やすらぎの湯」への案内標識は一つもないが、ひたすら坂道を下ると建物があった。左に行きかけたが間違いと分かったので建物を右から左へ巻いてさらに下った。この近辺に「名号墓」というものがあった。

名号墓。

本日初めて史跡らしきものに出会った。

14時40分頃に中之郷温泉「やすらぎの湯」に着いた。

湯質は平凡だが、窓の外には海の中に青ヶ島が浮かんでいた。入ったときは2人程度だったが、すぐに10人近くになった。外に出ると車が10台ほど駐車していた。

バス通りまで坂を登っていくと40代ぐらいの入浴帰りの女性が抜いていった。途中で魚をさばいている料理人らしき老人と親しく話をして横道に入っていったので地元の人だろう。

学校帰りの中高生にも挨拶されながら、1時間ほどかけてバス通りにたどり着いた。バス停近くの「八丈ストア・ミニミニ店」でCGCの安いペットボトル茶を購入した。16時38分のバスに乗車して、大賀郷の「大脇前」で下車し、八丈島の観光を終えた。

翌朝は底土港から竹芝桟橋への旅客船で帰ることにした。

八丈島・青ヶ島への旅③青ヶ島の絶景 二重カルデラ 尾山展望公園


八丈島・青ヶ島への旅③青ヶ島の絶景 二重カルデラ 尾山展望公園

2024年12月18日 09時21分00秒 | 東京都

尾山展望公園と大凸部への分岐。東京都青ヶ島村。

2024年12月1日(日)。

10時15分頃に青ヶ島ヘリポートに着き、復路便が八丈島へ向けて飛び立つのを見てから宿の「あおがしま屋」へ向かう送迎の車に乗り込んだ。3分余りで宿に着き、部屋に案内された。翌朝ヘリに乗るので観光時間は当日の日中しかない。事前にネットを見ていたので行先はまず、尾山展望公園と決めていた。二重カルデラ斜面の池之沢地区にはサウナや噴気孔があるが、レンタカーがないと厳しそうだったが、5000円も出すのもどうかと思ったので借りなかった。結局、池之沢地区まで降りてみたが、私のような徒歩の人には出会わなかった。坂を駆け下ってきた青年一人を別にして。観光としては、レンタカー5台ほどを見た。サウナ・噴気孔・丸山に行きたければレンタカーが必要だろう。もっとも、登山をしていたころの私であれば余裕で日帰りができたと思うが、身体障害者の高齢者には困難だった。重要なことは、二重カルデラを見下ろすことだけと思っていたので、それで良かった。

二重カルデラを見下ろす展望所には尾山展望公園と島の最高地点である大凸部(おおとんぶ)の2か所がある。レンタカーがあれば2か所可能だが、どちらか1か所を選ぶとしたら島の中心に近い尾山展望公園だとグーグルマップのクチコミに書いてあったので、尾山展望公園を選択した。

地図はないのかと宿の男性に尋ねたら、ない、と言われたが、部屋にマップ兼ガイドのパンフレットがあったので、持っていっていいのかと尋ねたらOKしてくれた。

宿を出てすぐ南に大凸部へ登る道と左に尾山展望公園へ向かう道の分岐があった。変電所を越すと海側へ下った児童公園入口に「還住(かんじゅう)の碑」がある。その先には青ヶ島小中学校があり子供の声が聞こえてきた。

2023年後半から24年前半にかけ、NHKの「英雄たちの選択」などで還住(かんじゅう)の歴史が紹介されたので、2月ごろに来島の計画を立て始めたのだ。

「青ヶ島村 還住(かんじゅう)の碑」。

1785(天明5)年頃、大規模な噴火による全島民避難で、青ヶ島は無人島になった。多くの苦難を乗り越え、約50年後、当時の名主であった「青ヶ島のモーゼ」と呼ばれる英雄・佐々木次郎太夫によって、生き残ったすべての島民が島へ帰還することができた。その歴史を「還住(かんじゅう)」と呼び、この還住の碑は、島民を導いた名主の想いを表した像である。

青ヶ島小中学校の先に見える八丈島と八丈小島。

 

天明の別れと青ヶ島のモーゼ 都立広尾病院消化器内科(島しょ医療研究会世話人)小山茂

島しょ医療研究会誌 第 4 巻 第 1 号(2012)より抜粋

青ヶ島は島全体が黒潮の流れに包まれ、現在も海上の交通が困難な島である。この島が、有史以来伊豆諸島で最も深刻かつ教訓的な自然災害を経験した島であることを知る人は少ないだろう。1785 年(天明 5 年)に発生した大噴火で島民 200 人余りが八丈島に逃れ、100 人以上が犠牲となり以降無人島となった。

佐々木次郎太夫が先頭に立ち、故郷に還住を果たしたのはそれから半世紀後の 1835 年(天保 6年)だった。当時の記録は、幸い八丈島の博学流人近藤富蔵による『八丈実記』をはじめ詳細に残されており、日本を代表する民族学者柳田國男もそれらを検討し整理している。彼の全集に青ヶ島還住記』という一章が収載されており、本稿はそれを中心に概説する。

 

青ヶ島は東京の南 358km、八丈島の南方 65kmにあり、伊豆諸島の有人島として最も南に位置する。世界的にも珍しい二重カルデラ複成火山の島であり、外側カルデラ中央には丸山という内輪山がある。最高点は外輪山北西部にあたる大凸部(おおとんぶ)で標高 423m である。

はじめて史料に登場するのは 15 世紀に入ってからである。内容は船の遭難など海難事故の記録ばかりで、当時の海上交通がいかに困難だったかが偲ばれる。

青ヶ島は他に隣島がないので早くから八丈島の属島であり、たった一つの取引先であった。村に名主は置かれていたが、八丈の地役人が伊豆御代官の下に支配した。貢物として絹を納めていたが、糸を染め機織る者が島内にいないので、白糸を持参し八丈の女性たちに織ってもらって納めた。

青ヶ島の名主の家は、噴火当時までに 8 代続いている。佐々木家が代々の名主で、後に島の復興を完成し永く功業をたたえられている“青ヶ島のモーゼ”、次郎太夫伊信(これのぶ)もまたこの家の出であった。

旧火口の盆地は当時から池之沢と呼ばれていた。中央に大小 2 つのかなり深い池があり、その周囲が島民の主たる農耕地であった。外輪山の上にある住まいから作場に降りて行くという生活で、島民の衣食には十分な肥沃な耕地だった。

[第 1 回噴出:1780 年(安永 9 年)]薩摩の桜島が爆発した次の年の 6 月だった。池ノ丸橋という所に火穴があき、おびただしい湯が湧き始め、1 日で池の水位が 6 寸余り高くなった。28 日以後は火穴が数を増し、みるみる池の周囲を浸水し、大池小池が 7 月 15 日には一続きになってしまった。池の水は熱くなり手を入れることもできなくなった。大木は根を熱湯に浸されてたちまち落葉し、樹はことごとく立ち枯れとなった。空地は盛んに煙を吐き、これに当たった作物は皆枯れた。

甘藷(サツマイモ)はその頃すでに冬春の捕食料として栽培していたが、池の周囲の作付け分は全滅し高所の畑だけにわずか残った。桑の木も一度に枯失し御年貢の養蚕も困難になった。木綿も全滅し衣服の材料にも困窮した。それよりさらに困ったのは飲み水で、池が溢れるとともに井戸が使えなくなった。

[第 2 回噴出:1781 年(天明元年)]4 月の 10 日 11 日にまた地震が発生し、11 日の昼前には池之沢のミソネという所から灰の噴出があった。島中が真っ暗になり、夜に入ってからは湯水が湧き上がった。前回の引水の跡、格別被害のなかった作場の土も今後は水とともに流れてしまい、大小の岩塊だけが残って耕地に戻すのが困難になったのみならず、地面一帯が熱くなり最も丈夫な作物さえ失せた

第 3 回噴出:1782 年(天明 2 年)]5 月3 回目の噴出が起こった。鰹節と塩辛、少々の麦の貯えに海藻を加えて人々は命をつないだ。

第 4 回噴出:1783 年(天明 3 年)]3 月 9 日の夜になって丑の刻に大きな地震が8 回揺れた。しばらくして池之沢に大穴が空き、今度は火石を吹き上げ始めた。空へ噴き出した小石は外壁の上にある村中に降りかかって火災を起こし、名主七太夫は家、蚕屋、家財とも焼け蔵だけが残った。その他百姓の家 29 軒と堂小屋 26、合わせて 61 棟が全焼した。島の農作物や草木は火穴から最も遠い西北の一部にわずかにのこるばかりで、その他は一切跡形もなく樹木はすべて立ち枯れになった。桑の葉も尽き養蚕は壊滅状態となった。

1784 年(天明 4 年)の 1 年だけ災害が休みだった。

【天明の別れ】

1785 年(天明 5 年)3 月 10 日午前、新たな噴火に見舞われた。今まで経験したどれより更に激烈で、昼でも真っ暗な日が 8 日間続いた。島民はいよいよ踏みとどまっていることが出来なくなった。

八丈では青ヶ島の方向に火炎立ち上るのを見て早速通用船を出帆させた。幸い波風よく夜に近づけたが、真っ暗で船を寄せることができず夜明けを待って周囲から様子を見た。頂上中央から北寄りに白煙が渦巻き、島の周囲は一円に黒煙で絶えず火炎が立ち、山の形は一様に低くなったように思われた。その内に時々震動があり、山焼けも進み船を付ける見込みがなく引き返して状況を報告した。それから 20 日近く手立てがなく、眺め暮すしかなかった。

そこへ青ヶ島の方から名主七太夫ほか 8 名が船を出して注進に来たので被害状況が明らかになった。一昨年まで噴火はほどなく鎮静したのだが、今度は 20 日近くも荒れ続いた。かつて底知れぬ池だった池之沢が火石と砂土によって埋まっていき、日増しに火口が高くなり火石が里中まで吹きかけてくるのは必発でそうなれば逃れる道がない]「どうか山焼けの鎮まるまでの間、在島者を八丈に引き取って一命を助けてくだされ」というのが七太夫らの願書の趣意であった。

八丈の方はこの災害の報せを受け、即刻救援に行こうとしたのだろうが、波風の妨げがあり 10 日余り出発できなかった。

4 月 10 日には樫立村名主の市郎右衛門ら一行が青ヶ島からやってきた舟に救援物資(御救い穀)を積んで乗り、八重根港を出帆した。夜に入って島に近付くと、山焼けの火で空も島山も真昼のごとく炎が波を照らした。翌 11 日朝にかろうじて西浦に船を着け、物資を神主ならびに役人へ引き渡した。島中を検分しようにも風が悪く、早速帰帆となった。青ヶ島の男女 45 人が避難のため便乗し漕ぎ出したが、沖合に出るまで灰砂が降りかかりやっとの思いで八丈に戻った。

このときの島はすでに一面の火になり、人家もすでに消失していたらしい。老少男女の者が浜に下りて潮に浸り岩に取りすがって嘆き悲しむ声は、たとえようもなく哀れであったと言っている。

さらに半月余経て 4 月 27 日に三艘の助け舟が八丈から漕ぎ寄せられた。108 人の男女が救助され、大急ぎで八丈に戻ってきた。島にはまだ幾人か残っていて、助けてくれと泣き叫んだが、船は小さし人は多し、これ以上はどうしても救えなかった。

当時の青ヶ島の人口は、安永 3 年の記録によれば家数 53 軒、男 161 女 166、合わせて 327 人ほか流人 1 人とのことである。これから 6 年目が最初の噴火だから、ほぼこの数のままとみてよいだろう。4 月 11 日に 45 人、27 日に 108 人、3 月終りに名主らと共に来た者を合わせると脱出者は 202 人である。残された島民の大部分は2 度の助け舟を待てなかったと思われる。

【避難生活と起返(おこしかえし)】

青ヶ島の避難民は八丈でそれぞれ知り合いの家を頼って住んだが、いずれも衣食に窮乏していた。労力は八丈でも余っており、対等の経済生活を送ることは困難だった。

名主七太夫は 3-4 年の間にこの世を去り、継いで名主になったのは三九郎であった。名主三九郎が青ヶ島に渡ったという初めての記録は、噴火から 4 年後の 1789 年(寛政元年)である。12 人の一行は 6 月 16 日に出て 21 日に無事帰還している。八丈の役所はその時の実地検分の意見書に基づき、新たに青ヶ島還住の方策を立て、穀物の購入や開発準備のための資金援助もした。「起返」(おこしかえし:復興開発)へのはじまりである。

1793 年(寛政 5 年)7 月 12 日、三九郎は 19 人とともに穀物農具を舟に積んで渡り、小屋をかけ 12 人を残し置いた。ところが種穀の不足からそのうちの 5 人が翌 8 月に八丈へ渡ろうとして海上で行方不明になった。翌 1794 年(寛政 6 年)4 月には二艘仕立てで食料を運んだところ、島に着いてから時化に遭い船が流失した。埋まっていた資材を掘り起こし農具を釘として小舟をつくり、6 月に一行 13人はかろうじて八丈に還った。

1799 年(寛政 11 年)9 月 4 日、男女 33人の数家族が共同で穀類を船に積んで出帆した。これも海路を見失い紀州まで漂流した。還住の計画はここでいったん頓挫した。島に渡っていた 7 人は 8 年間耐え忍んでいたが命をつなぐ方途がなく、1801 年(享和元年)6月 8 日焼け残りの資材で小舟を作り全員それで八丈へ引き揚げた。島は再び無人無毛の地になり、それが 16 年間続いた。

【佐々木次郎太夫のリーダーシップ】

 新しい名主次郎太夫の名は、最後の噴火から32 年目の 1817 年(文化 14 年)に還住願い書を出し、再度の「起返」開始で登場する。1770 年(明和 4 年)の生まれでこの時 47 歳、天明の別れの時はわずか 15 歳で八丈へ逃げている。

避難民は死んで代が変わり、生き残りも次第に衰弱していった。1817 年(文化 14 年)には寄留者数が 177 人に減少した。八丈全体の人口は増加しており、仮住まいの身では渡世にも難渋するようになった。何より不利な状況は、政府の援助金は期待できず、基金ももう底を尽いていたらしい。このままではいられなかった。

文化 14 年に還住願い書が取り上げられて後、仲間に言い渡した計画は驚くべき行き届いた誠意のこもった内容だった。そしてその通りに実施された。

彼の計画では、船を大小 2 艘新造し、まず 177人の中から 27 人を選抜して 7 人を交通方、他 20人を先発隊として島に渡らせ、建設の仕事に就かせるというものだった。個々の職制には主任が指名され、浜と道路の復旧を島開発の第一の要件として各々の棟梁を浜方普請棟梁・道普請棟梁として任命した。ほか伐開棟梁、漁棟梁の職を設け、耕地作物が充足するまで魚類で食料を補うだけでなく魚油を燈火として用いらせた。

さらに用意周到に鰹節の貯蔵も始めこれを厳密に管理し、隠し積みなどは厳罰に処した。本来青ヶ島の貨幣でもあった鰹節の統制管理は、島民の公共心も復興させたに違いない。

復興計画は着々と進行したが、経過に関する正式な中間報告は伝わっていない。その中で話として伝わっているのは島を荒らした野鼠の退治についてである。島では移住以来駆除策を施しても効果が上がらず、麦粟は栽培できなかった。これは焼け死んだ人々の怨恨によるのであろうとのことから、施餓鬼供養を営んでねんごろに弔ったところ、それから次第に野鼠の数は減り、自由に何でも耕作できるようになった。

次郎太夫の計画が始まってからというもの、ただの一度も船は風波の妨げなく往来していた。これには八丈の人も驚いたらしく、目に見えぬ神秘の導きを感じていた。

【還住成就】

彼の計画通りだったかどうかは不明だが、ゆっくりと還住は実現した。文化 14 年に願書を提出して 20 人の先発隊が島を渡り、17 年目の 1834年(天保 5 年)に至ってやっと青ヶ島人の全部が故土に還り、翌 1835 年(天保 6 年)に検地竿入れを受けた。

還住後の生活状態は噴火前より様々な点で良くなっていたようである。神社も寺も再建され、水は涌き水に頼らず雨水を受けて使用する設備にした。ほか新しい事業として、塩を焼く釜を二か所に設けた。集落は始め 3 つに分ける企画だったが実際は終始一村として取り扱われた。

島の復興はその後着々と進み、1839 年(天保10 年)には 60 年以上絶えていた貢物の絹が再び納められ、翌年には次郎太夫に亡地新開の勲功をもって公船の免許がおり、金子や手形が給付された。復興の完了した 1844 年(天保 15 年)の 6 月、次郎太夫の表彰が行われた。すでに 74 歳だった彼は更に 10 年復興を見届けてから世を去り、神に祀られた。祠は島のテラノトンブという頂に、吏長の両人を島の守護として祀ったとあるが、もう一人は三九郎であろう。

佐々木次郎太夫の墓。

「還住の碑」から尾山展望公園へ向かう道の分岐のすぐ先にある。車1台通れる狭い道に面している。

尾山展望公園から。青ヶ島の二重カルデラ。丸山と噴気孔(ひんじゃ)地帯。

丸山は、1785年の天明の大噴火で形成された標高223メートルの内輪山(火口丘)である。

分岐から山側へ登る。ここから健常者なら15分ぐらいだろう。20分以上かけて登った。水道施設横の車道終点から右折して舗装された水平道を行くと、最後に急坂があった。気温15度ぐらいだったので汗だくになり、2枚ほど服を脱いだ。最高点の標高は400mほどといい、東台所神社への道が続いていた。

砲台の跡のような窪みがあり、星空の観察所らしい。大凸部は西に寄った場所にあるので、ここのほうがカルデラ全体が見えるという。

尾山展望公園から下ったヘリポートが見える地点で12時ごろになった。日没の16時30分まで時間があるので、カルデラまで行けるだけ行こうと歩き出した。

外輪山を経由してカルデラまで下ることは大変だと分かっていた。尾山展望公園から内側までかなりの高度差もあり、距離もある。名主屋敷跡への標識があったが、下り階段に雑草が繫茂しているうえに屋敷跡の影も見えないので通過した。清受寺と大里神社入口を過ぎ、しばらく行くと外輪山・カルデラと丸山が見えてきた。

前方に「平成流し坂トンネル」があり、右下へ下る流し坂は閉鎖されていた。

トンネルを出てからは下り坂が延々と続く。

下り坂の終点には自動車整備工場があるが、日曜日なので誰もいない。グーグルマップでは、ここから100m先に池之沢噴気孔があることになっていたが全くの誤りだった。

キャンプ場・サウナへ向かう道を過ぎると、運送会社の駐車場に10台ほどトラックなどが駐車していた。事務所に行きかけたが人影はなかった。グーグルマップでキャンプ場・サウナへの道を案内され200mほど歩いたが登り坂になり、身体が電池切れになった。時間はあるが、体力が持たない、外輪山まで登り返すのがやっとだと思い、往路を引き返した。

佐々木卯之助の碑。岡部地区。

江戸時代、飢饉のさい幕府射撃場での耕作を黙認したことで流刑になったという。

岡部地区に戻り、駐在所を経て、島で唯一の商店で食品や土産などを売っている「十一屋酒店」に着いたが、非情にも日曜日休みだった。青ヶ島では日曜日のみの観光は避けた方がいい。

飲む物がない、と思ったら民宿「杉の沢」の前に自販機があり、2つだけ売り切れボタンが点灯していなかったので助かった。15時30分ごろ宿に帰った。

歩数アプリを見ると3万歩を超していた。2万歩はたまにあるが3万歩は初めてだ。

19時から別棟で夕食が出された。刺身は美味い。10種類ほどのビュッフェスタイルで、調理などに時間がかかりそうだ。女将が携帯電話ではなく客とSMSでやりとりする理由は食事の準備のためなのだろう。

20時ごろ部屋を出ると星が見えた。

八丈島・青ヶ島への旅②宇喜多秀家の墓と居宅跡 青ヶ島へのヘリ飛行