いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

愛知県 豊田市博物館開館記念展④東海地方の縄文時代中期の土器

2024年11月21日 11時31分37秒 | 愛知県

豊田市博物館。愛知県豊田市小坂本町。

2024年11月15日(金)。

北裏C式土器伊勢湾周辺を中心に分布する。岐阜県可児市土田字北裏に所在する北裏遺跡を標式遺跡とする。

北屋敷Ⅱ式土器。縄文時代中期前半・中葉の東海系の土器愛知県田原市石神町の北屋敷貝塚出土土器を標式土器とし、静岡県・愛知県の沿岸部を中心に分布する。

この土器は、口縁部に三角形状の突起を10カ所につける。土器の器壁は薄く、底部は欠損している。口縁部に楕円区画を描き、その内側にくの字状の連続した刺突文を施す。

咲畑・中富式土器東海地方西部を中心に分布する。

咲畑式(さきばたしき)土器は、知多半島の先端に位置する咲畑貝塚(愛知県知多郡南知多町)が標式遺跡で、木曽川中流域を含む広範囲で作られた土器である。咲畑式土器は、底が小さく首も細く、口縁部が強く開く器形が特徴で、口縁部に付けられた渦巻文は、曲線によって繋がれ、首の下に波状の線が引かれている。

中富式土器は、岐阜県美濃加茂市中富町の中富遺跡を標式遺跡とする。

赤保木(あかほき)遺跡岐阜県高山市赤保木町宮ヶ平(みやがひら)に所在する。高山盆地北西部の見量(みはか)山山麓に位置する。縄文時代中期の竪穴住居跡の中央に石囲炉(いしがこいろ)が良好な状態で残っていた。この時期の住居跡から、信州、北陸、東海、関西などの影響を受けた飛騨独特の土器が多数出土した。

上山田・天神山式土器北陸地方の縄文時代中期中葉の土器。

天神山式土器は、富山県魚津市天神山遺跡から出土した縄文土器をもとに名付けられた。

東海地方を中心に関東・中部・近畿に広く分布する。富山県以外では上山田(かみやまだ)式と呼ばれる。

天神山式土器の文様は、斜行した渦巻基隆帯を配し、その周囲を半截竹管文による半隆起線文で埋めるもので、基隆帯上には爪形文や刻目文が刻まれている。

戸入村平(とにゅうむらだいら)遺跡岐阜県揖斐郡揖斐川町の旧徳山村戸入地区に所在した。

揖斐川支流西谷(にしだに)の河岸段丘に立地し、竪穴住居跡10軒を確認した。土器片11万点・石器7,000点が出土し、縄文時代の徳山における中心集落と考えられる。縄文時代中期の竪穴住居跡中央部付近には、石囲い炉があり、まわりには溝がめぐる。

神明式土器東海地方の縄文時代中期後半の土器。

神明遺跡は、岐阜県美濃加茂市牧野字小貝戸(通称 神明サマ)に所在し、現在は滅失した。木曽川に面した低位段丘の縁辺に立地する。木曽川を目の前に、かつ南に面しており、その崖下からは湧水もあった。竪穴住居が4棟、縄文土器、多種の石器、石製の垂飾品などがみつかっている。なかでも一部の土器群(3号住居出土)は、遺跡の名を冠して「神明式」と命名された。

船元(ふなもと)式土器中部瀬戸内を中心に分布する縄文中期の土器型式。

船元式土器は岡山県倉敷市船元(ふなもと)貝塚を標式遺跡とする。器面には荒く固い繊維による「縄文」や「撚糸文」が施されるのが大きな特徴である。

新保(しんぽ)式土器北陸の縄文時代中期前半を代表する土器。石川県鳳珠郡能登町新保遺跡を標式遺跡とし、福井県北部から新潟県北部の広い範囲で出土する。

胴部に木目状の撚糸文を施すことが特徴。

愛知県 豊田市博物館開館記念展③東日本の縄文時代中期の土器


愛知県 豊田市博物館開館記念展③東日本の縄文時代中期の土器

2024年11月20日 15時57分47秒 | 愛知県

豊田市博物館。愛知県豊田市小坂本町。

2024年11月15日(金)。

加曾利E式土器。

関東地方の縄文時代中期後半の縄文土器。標式遺跡は千葉県千葉市若葉区に所在する加曾利貝塚である。特徴は、縄文を施文する原体が、前期の複々節以上の複雑な原体に対し、単節の原体がほとんどであることである。また勝坂式と比べて、口縁部文様帯と胴部文様帯が形成され、隆帯や沈線で縄文の充填される部分と無文の部分が区分されるなど、単純化されている。

加曾利EI式土器は、東北地方の大木8a式の影響を色濃く受けている。口縁部文様帯に横S字状や渦巻き状、逆J字の隆帯を張り付けて、隆帯に囲まれた部分に縄文を施し、口縁部文様帯と胴部の文様帯の間に無文帯が設ける例が多くみられる。胴部の文様帯は隆帯で区分され、縄文がぎっしり充填される。

大木式土器(だいぎしきどき)は、東北地方南部を中心に分布する縄文時代前期前葉から中期末葉までの土器型式。標式遺跡は宮城県宮城郡七ヶ浜町の大木囲貝塚。口縁部などの粘土紐貼りつけ文様に特徴がある。

後沖式土器。長野県北信地方の土器。斜行する沈線や隆帯による楕円区画が特徴である。

北裏C式土器。伊勢湾周辺を中心に分布する。

咲畑・中富式土器。東海地方西部を中心に分布する。

咲畑式(さきばたしき)土器は、知多半島の先端に位置する咲畑貝塚(愛知県知多郡南知多町)が標式遺跡で、木曽川中流域を含む広範囲で作られた土器である。咲畑式土器は、底が小さく首も細く、口縁部が強く開く器形が特徴で、口縁部に付けられた渦巻文は、曲線によって繋がれ、首の下に波状の線が引かれている。

中富式土器は、岐阜県美濃加茂市中富町の中富遺跡を標式遺跡とする。

阿玉台(おたまだい)式土器。

霞ヶ浦沿岸に分布の中心をもつ関東地方縄文時代中期前半を代表する土器。千葉県香取市阿玉台遺跡を標式遺跡とする。阿玉台式土器は、勝坂式土器の影響を受けて、似かよった姿に変貌していった。

文様は3帯構成をとり、口縁部は立体的な造形で、一対の山形突起を等間隔に4ヵ所作り、その下に眼鏡状の把手を付けている。把手は、もともと阿玉台式土器には無く、勝坂式土器に由来する。文様区画は三角形を基調として、隆帯脇と区画内には、刻み目や波状文を入念に施す。勝坂式土器が文様帯下端を区画するのに対し、開放しているところが阿玉台式土器の流儀である。粘土には金雲母とよばれる鉱物が混ぜられているため、光に照らすとキラキラ光るのが特徴である。

焼町(やけまち)式土器。

長野県東信北信地方に多く分布する縄文時代中期中葉の土器。千曲川流域を主に県内各地や、隣接する群馬県・新潟県などに広がる。長野県塩尻市焼町遺跡を標式遺跡とする。曲がりくねり・流れ・つながる粘土紐を軸線として、空白部を沈線などで埋める。同時期の勝坂式土器等で流行した区画文を基本的には使わない。

上山田・天神山式土器。

天神山式土器は、富山県魚津市天神山遺跡から出土した縄文時代中期中葉の土器をもとに名付けられた。

東海地方を中心に関東・中部・近畿に広く分布する。富山県以外では上山田(かみやまだ)式と呼ばれる。

天神山式土器の文様は、斜行した渦巻基隆帯を配し、その周囲を半截竹管文による半隆起線文で埋めるもので、基隆帯上には爪形文や刻目文が刻まれている。

浄法寺類型土器。

栃木県北部から福島県会津・中通り地方に縄文時代中期中葉に分布する。栃木県那須郡小川町(現那珂川町)の浄法寺遺跡を標式遺跡とする。

口頸部文様帯に、大小の突起を起点に、横 “S” 字状文、単方向の渦巻文、対向渦巻文の3種類の文様を基隆帯で描き、それと同方向の沈線で器面を充填する。対して胴部には縄文を施文する。浄法寺類型の土器は、同じ地域に分布する火炎系土器を母体として成立したとされる。

浄法寺類型の標準的な土器は、平縁で、トンボ眼鏡状の中空の大突起から基隆帯による主文様を派生させる土器である。火炎系土器の平縁の土器では、火焔型土器に類似する鶏頭冠風の突起が主体を占める。トンボ眼鏡状突起は低調で、会津地方に比較的多く、栃木県那須地方には少ない。那須地方に多い浄法寺類型の成立は、会津地方の火炎系土器が鍵を握っているようである。

 

愛知県 豊田市博物館開館記念展②西日本の縄文時代中期の土器


愛知県 豊田市博物館開館記念展②西日本の縄文時代中期の土器

2024年11月19日 13時07分28秒 | 愛知県

豊田市博物館。愛知県豊田市小坂本町。

2024年11月15日(金)。

 

西日本の縄文時代中期の土器

深浦式土器。

深浦式土器は,南九州の縄文時代前期末から中期前葉に位置づけられる土器様式で,鹿児島県枕崎市の深浦遺跡出土土器を標式とする。

曽畑式土器様式の系統を引くもので,併行関係にある鷹島式土器や船元式土器の影響を受けるが,地域性の強い土器様式である。文様は,貝殻連点文や突帯文・沈線文・相交弧文などを用いて,直線的あるいは曲線的な幾何学的モチーフを描くことに大きな特徴がある。

船元(ふなもと)式土器。

船元式土器は中部瀬戸内を中心に分布する縄文中期の土器型式で,岡山県倉敷市船元(ふなもと)貝塚を標式遺跡とする。器面には荒く固い繊維による「縄文」や「撚糸文」が施されるのが大きな特徴である。

鷹島式土器。

和歌山県有田郡広川町の鷹島遺跡出土土器を標式とする縄文時代中期の土器で、西日本に広く分布する。爪形の文様や粗い縄文を特徴とする。

春日(かすが)式土器。

春日式土器は九州南部を中心に分布する土器型式で,鹿児島市春日町遺跡を標式遺跡とする。器形は胴部ですぼまり,口縁部に向けて広がりながら口縁端部でまたすぼまるキャリパー形の深鉢が主体で,器面には「貝殻条痕文」が施され,文様は無文または沈線や隆帯の渦文や曲線文が描かれている。

瀬戸内地方に分布の中心を持つ船元(ふなもと)式土器と同じような形であり,春日式土器の中には船元式土器の中の一部とほぼ同時期のものがあり,その次に並木式や阿高式がくる。

これにより,中期の初めから中頃に位置付けられていた並木式土器と阿高式土器は後半以降の時期になる可能性も考えられている。

春日式土器の「貝殻条痕文」に対する船元式土器の「縄文」「撚糸文」施文の両者の相違などから,春日式土器は縄文時代中期より以前に南九州地方に分布していた深浦(ふかうら)式土器等の流れを汲みながら,瀬戸内地方から移入してきた船元式土器の影響を受けて登場した土器ではないかと考えられる。

並木式土器。

鹿児島県大口市の並木(なみき)遺跡から出土した土器を標式とする。太形凹線文の間に押引文(おしびきもん)や,ヘラ状のものによる細い沈線文(ちんせんもん)を施す。

阿高式土器。

阿高式土器は、九州の縄文時代中期を代表する土器とされ,熊本県城南町の阿高(あだか)貝塚出土の土器を標式とする。

阿高式土器は,太い沈線で文様が描かれ、縄目文様を全く欠く。太形凹線文(ふとがたおうせんもん)とよばれる曲線や直線を組み合わせた文様を,指先状のもので土器の上半部を中心に描いているものが多く,中には器全体に文様を描くものもある。器形は深鉢が多く,まれに浅鉢がみられる。

並木式土器と阿高式土器の前後関係は,その文様の構成や,いくつかの遺跡での層位的な上下関係から,並木式が古く,その次に阿高式土器が位置付けられ,凹線文あるいは沈線文を施す阿高式系土器として後期初めまで続く。

愛知県 豊田市博物館開館記念展「旅するジョウモンさん」①


愛知県 豊田市博物館開館記念展「旅するジョウモンさん」①

2024年11月18日 12時41分52秒 | 愛知県

豊田市博物館。愛知県豊田市小坂本町。

2024年11月15日(金)。

西尾市岩瀬文庫を見学後、豊田市博物館へ向かった。

豊田市博物館は、豊田市の歴史、文化、自然、産業などをテーマとする総合博物館で、豊田市郷土資料館(2022年閉館)と豊田市近代の産業とくらし発見館(2023年閉館)の機能を受け継ぐ施設として2024年4月に旧愛知県立豊田東高等学校跡地に開館した。

豊田市郷土資料館ならいつでも行けると思いつつ、2022年に豊田市郷土資料館へ行こうと検索したら、閉館していたので、リニューアルオープンを待っていた。

2024年10月12日(土)から12月8日(日)まで 開館記念展「旅するジョウモンさんー5千年前の落とし物ー」が開催されている。

国宝1点、重要文化財22点を含む約420点の資料を全国から集めて紹介する大規模な展覧会であるが、入館料1200円は高い。障害者無料でなければ観覧する気にはなれない。

展示は土器が展示されているだけで、分布観・変遷観などの統一的概観的な視点形成には乏しい印象を受けた。そのあたりを補完するために11月30日・12月1日にセミナーが開催されるようだ。

愛知県立の歴史系博物館はなく、名古屋市博物館も長期休館中で、県民への歴史教育は不十分のままになっている。

神明式土器。豊田市 水汲遺跡。

神明遺跡は、岐阜県美濃加茂市牧野字小貝戸(通称 神明サマ)に所在した遺跡。現在は、滅失。木曽川に面した低位段丘の縁辺に立地する。木曽川を目の前に、かつ南に面しており、その崖下からは湧水もあった。大正時代から出土品が知られ、地域住民によって採集されていた。1970年、周辺を含めた砂利採取事業に伴い発掘調査が実施された。調査では、竪穴住居が4棟、縄文土器、多種の石器、石製の垂飾品などがみつかっている。なかでも一部の土器群(3号住居出土)は、遺跡の名を冠して「神明式」と命名され、「中富式」と併せ、この地域の縄文時代中期後半における土器の様相を示す標識と位置づけられた。

榎林式土器。

榎林(えのきばやし)式・最花(さいばな)式は、東北地方北部を中心に分布する大木(だいぎ)系土器である。

大木式土器とは、宮城県七ヶ浜(しちがはま)町大木囲(だいぎがこい)貝塚出土資料を基準として設定された土器型式であり、縄文時代前期から中期の東北地方南部を中心に分布する。13型式に細分されており、中期中葉から中期末葉までは、大木8a・8b式、大木9式、大木10式が分布する。大木式は、縄文時代中期中葉の大木8b式の頃に分布を拡大し、大木式土器文化圏と接する周辺地域ではその影響を受けた。東北地方北部では、円筒土器文化が終焉し、大木式土器の影響を受けた大木系土器が作られるようになる。

榎林式は、七戸(しちのへ)町榎林貝塚(現・二ツ森貝塚)出土資料を、最花式は、むつ市最花貝塚出土資料を基準に設定されており、前者は大木8b式に、後者は大木9式に併行する。

榎林式土器には、大木 8b 式土器の樽のような丸い形と渦巻文様が見られ、円筒上層e式の上部の開きや、線描も見られ、大木式土器の要素を取り入れながらも、円筒文化圏の先人の土器作りを引き継いでいる。

上山田・天神山式土器。縄文時代中期中葉。

天神山式土器は、富山県魚津市天神山遺跡から出土した縄文土器をもとに名付けられた。

東海地方を中心に関東・中部・近畿に広く分布する。富山県以外では上山田(かみやまだ)式と呼ばれる。

天神山式土器の文様は、斜行した渦巻基隆帯を配し、その周囲を半截竹管文による半隆起線文で埋めるもので、基隆帯上には爪形文や刻目文が刻まれている。

曽利式土器。縄文時代中期後半。

長野県富士見町井戸尻の曽利遺跡にちなんで命名された曽利式土器は、長野県や山梨県といった中部高地に分布する。竹の管などで引いた線や粘土紐を密に重ねながら、幾何学的な文様を土器全面に描くことが特徴である。

唐草文系土器。縄文中期後半に長野県松本平を中心に植物文様をモチーフにした土器。

勝坂式土器。

関東地方及び中部地方の縄文時代中期前半の土器。

勝坂式は、隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的である。また、水煙式と呼ばれる中部山岳地方の土器は、勝坂式の終末に出現する。

勝坂式の特徴として大きな把手ないし突起状の装飾をつけることがあり、粘土を積み上げたり乾燥させたりの繰り返しで製作したのではと推定されている。隆帯は、貼り付けるものと浮きだたせる技法の両方が用いられている。隆帯に囲まれた楕円形が並んだ文様帯を、楕円の部分が交互になるように施文して隆帯の周囲を半裁した竹と思われる植物でキャタビラ状に施文したり、尖った施文具で連続的に刺突したり、沈線を引くなどさまざまな技法が用いられている。施文法は、時期によって変化がある。縄文は後半の藤内式期から縦方向になるように意識した斜行縄文を施すものがみられるようになり、井戸尻式期になると胴部中央部に縦方向に施すようになる。

愛知県 西尾市岩瀬文庫 企画展「をかしくあはれな平安文学~『源氏物語』とその周辺~」


愛知県 西尾市岩瀬文庫 企画展「をかしくあはれな平安文学~『源氏物語』とその周辺~」

2024年11月17日 11時58分11秒 | 愛知県

西尾市岩瀬文庫。愛知県西尾市亀沢町。

2024年11月15日(金)。

岩瀬文庫旧書庫1919年頃建設。地上三階、地下一階建。設計は名古屋の西原建築工務所(所長はもと愛知県営繕課技師の西原吉治郎)。外壁は煉瓦造り、床と小屋組みは木造の混構造で、外壁の表面には煉瓦の小口積みに似せた素焼きタイルを貼っています。タイルは常滑の陶栄株式会社製造のものです。日本の瓦屋根と洋風の入口上部の装飾や石造りの窓台などが独特な雰囲気を持ち、この時期の特徴的な洋風木造建築として、現在は国の登録有形文化財となっています。

 内部の書架はさまざまな蔵書の大きさや形態にあわせ、幅や奥行き、棚の高さを変えたオーダーメイド品で、湿気がこもらないように書架は板を貼らず、床もすのこ状になっています。地上3階部分には蔵書、地下1階には新聞・雑誌・岩瀬文庫や岩瀬弥助ゆかりの品々が収められていました。

 

岩瀬文庫の存在は1980年代から知っていたが、国文学研究者用施設に近かったので訪れたことはなかった。2003年に古書ミュージアムとしてリニューアルオープンしたという。企画展「をかしくあはれな平安文学~『源氏物語』とその周辺~」が11月17日(日)まで開催されていたので、訪れた。隣接する西尾市立図書館では除籍図書のリサイクル市が開かれていたので、30分ほど渉猟して19冊を入手した。「おもちゃ館」が秀逸な建築だったので気になったが、岩瀬文庫の旧児童館だったという。2階の展示室は、前室が常設展示室で岩瀬文庫および古書の基礎知識が紹介されていた。後室が企画展示室で、5人ほどの女性が女性職員の解説を聴きながら展示を見ていた。

岩瀬弥助と岩瀬文庫の歴史。

創設者の岩瀬弥助 (1867-1930)は、慶応3(1867)年10月6日、須田町の肥料商、岩瀬弥蔵の長男として誕生。幼名は吉太郎です。吉太郎が20歳の時、突然、本家の猪代治が亡くなったので、本家の山本屋へ養子に入りました。さらに猪代治の長女れいと結婚、四代目弥助を名乗りました。

 明治30年代には西三河でも屈指の資産家になっていきました。明治31年、西尾町長に就任しましたが、わずか1年4か月余りで辞任し、その後は政治への関心をなくしました。一代で莫大な財を築く一方で、西尾鉄道を開通させたり、病院や学校の建設資金を寄附したりと、町づくりや地域の教育にも強い関心を寄せました。

 文庫設立の構想を持ち始めたのは、明治36年の頃と推定されています。一説では、数え年42歳の男の厄落としのため、私立図書館を設立することで社会に利益を還元し、地域文化の向上に役立ちたい、と思い立ったことが動機だといわれています。

 明治40年(1907年)の弥助の誕生日10月6日を文庫の完成予定としましたが工事が遅れ、明治41年5月6日、ついに私立図書館・岩瀬文庫が開館しました。講堂や音楽堂、婦人のための閲覧室や児童館等を備えた西尾の文化の拠点的存在となったのです。

 全国の書店や古書店から蒐集した蔵書は8万冊余り、国の重要文化財「後奈良天皇宸翰般若心経」をはじめ、その多くが江戸時代以前の古典籍です。

 当初から図書館を目的として選書したため、文学・歴史・宗教・自然科学・朝鮮本・唐本など、あらゆる分野の良書が全国の書店・古書店から集められました。これらの図書は、一点一点、弥助自らと司書・高木習吉によって目を通され、整理カードや幾種類もの台帳、目録が作成され、的確に管理されました 。このため、岩瀬文庫の蔵書には重複するものが殆どなく、またどの分野でも満遍なく良書を収集することができたのです。そして、蔵書は、全国から訪れる研究者から地元の女学生まで、あらゆる人に無償で公開されました。

 また、大正6(1917)年から文庫の一層の充実をはかるための増設工事がおこなわれました。現在も残る煉瓦造りの書庫と児童館(現おもちゃ館)はこの当時のものです。

昭和5年(1930)に岩瀬弥助が亡くなると、彼の遺言によって文庫は財団法人化されます。この財団法人時代に、現在も使用している『岩瀬文庫図書目録』が刊行されたり新しい図書原簿が作成されたりと、今に続く文庫のシステムが確立されました。

 しかし、昭和12年(1937)の法人基金の国家への献金、昭和20年の三河地震による建物の被害によって図書館及び財団法人としての運営が困難になりました。

 農地解放、税制改革により岩瀬家と岩瀬文庫は経済的苦境に陥り、建物の修復もままならず、ついには蔵書の売却が検討されましたが、岩瀬文庫の窮状や蔵書の散逸を憂慮した市民によって様々な運動が展開されました。その努力が実り、文庫の土地と建物は財団から市へ寄贈、文庫の蔵書は市が一括購入することとなりました。こうして昭和30年、岩瀬文庫は西尾市立図書館岩瀬文庫として新たにスタートしました。

 さらに平成15年4月には蔵書の文化財的価値をより活かすため、「古書の博物館」としてリニューアルオープン、平成20年には創立100周年を迎えました。

岩瀬弥助という本を愛する一市民によって作られた文庫は、市民の支えによってさまざまな困難を乗り越え、百有余年後の現在も設立当初と同じ場所に存続しています。

各種書籍の実例見本

幸田露伴筆写本。淡島寒月朱筆識語。

以上、常設展示室。以下、企画展示室。

このあと、豊田市博物館へ向かった。

95歳おばあちゃんの「みたらし団子」に世界が注目 愛知県西尾市 盛華堂