土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「環状線の虹」(一)

2011-12-13 23:33:09 | 短編小説(創作)
   環状線の虹
                            右手 寝子 
 三月二十日、旧暦二月十六日、日曜。満月。日が変わり午前四時を過ぎた頃、月と地球の距離が最短になる。通常よりも大きく明るく見える、十九年ぶりの……
 ノートに繋いだLEDライトを外して、リビングの明りを点ける。パソコンを閉じて所定の位置に戻し、充電を始める。今はまだ十九日。ネットで見つけた記事に、窓を開けてみる。南の空のやや南東寄りに、ぼんやりと十五夜の月が見える。メッシュシート越しの空は霞を刷いたように白く、晴れの夜空を曇りと錯覚させる。
 消灯している。今までならこの時間、土曜でもまだいくつか明りの点いたオフィスの窓が見られた。千代田区は輪番停電の対象地区に入らなかったが、営業時間を短縮したり照明を間引いたりと、商店も住人もみな自発的に節電をしている。あれから、一週間が過ぎた。
「自分達は、すぐ降りたので平気でした」。マンションの外壁に足場が組まれ防護ネットが掛けられたのは今月の頭であって、それは前々から予定されていたことだったのだが。知らない人が今見たら、きっとそうは思わないだろう。もう半月ほど着工が後だったなら危険な目に遭わずに済んだろうに。と言っても、大家からしてみれば、それはむしろ逆であって、改修工事を始めてたので「助かった」らしいが。つまり塗装のやり直し自体が、建物の老朽化による事故の防止という側面を持っている訳だから。通行人に怪我でもと考えると、もしもの前で「助かった」に、なるのだろう。三日後の朝、現場の人を見かけて声をかけたら、そう言われたと教えてくれた。
「無事でなにより」とは大家の言葉だが、作業さなかの人間に怪我人が出なかったのは、なにより幸いなことだった。
 それにしても。よく、すぐに降りられたものだ。実際この細い足場に居たらと思うと、あの揺れで平気だなんて、とても信じられない。もっとも、何階からとは聞いてないし、もしかすると下までではなく、ベランダに降りたのかもしれないが。大丈夫だったか? 事故は? 三田線の運転本数が気になっていた月曜の出勤前に、それ以上のことを聞く余裕は無く、改めてまた同じことを聞くのもおかしいから、それはそれきりになって……
 もっと、ちゃんと聞いておけば良かった、気がする。
 取り留めの無いことを考えてしまうのは、これの、所為かもしれない。最も大きく、最も明るい筈の満月が、ここからは見えない。二ヶ月で終わる筈だった改修も、点検作業のため工期が延びると言っていた。来月、もしかすると再来月も、まだ、ぼんやりとした満月しか見られないのかもしれない。
 天気は、これから明日にかけて崩れるとの予報だ。四時の満月でなくとも構わない、見えるところに出てみよう。女坂か男坂、とちのき通りの坂上からなら広い空が見渡せる。私は部屋を出て、階段を降りた。
 男坂の脇の木陰に入り、月を見る。ここは街灯の明りを遮ることが出来る。女坂には、遮るものが無かった。足元を照らす明りが点いていることを有難く思うと同時に、月明かりを確かめるには不都合だと避けている。けれども。やはりここから見る月は、いっそう白く美しい。明りの落ちた夜を照らす、さやかな光。
 どうか……
 祈るしかない時間は、どれだけあと、続くのだろうか。



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