「やり残したものたち」
本居 寝子
音は、そこに介在したか。余りにも昔のことで……今となっては、もう思い出せない。
数十年も前のことだ。私は一人列車に乗っていた。
山肌の斜面を走るレールの上で、何を思うわけでもなく最初から……私はここに居た。
何の気なしに辺りを見回してみても、私以外の者の姿は見えない。ボックス席の向かいには客は居らず、南に面した窓からは、少しばかりの後ろと前(まえ)が見て取れるだけで、この車両の外(ほか)は解らない。
見えるのは、この中と、左に見えてくる前(さき)ばかりで。代わり映えのない景色を、いつからか、私はずっと眺めている気がした。
列車は緑の中を抜けていた。山肌と木々の間に挟まれて、いったい今は……どこだろう。いつになったら、着くのだろう。ぼんやりと、そんなことを考えていた。
そうして、どれくらいそこに居たのだろう。緑の稜線が切れる時が遂に来た。
溢れん力が突如として現れた。それは永く「穏やか」に慣らされた目には、余りに濃密な色だった。水平線も地平線も空の境さえも、色が全てを圧倒した。
黄色。底が覗けないほどの、どこまでも不透明な黄色が遥か広がる。前(さき)の前まで埋め尽くす、鮮やかな色を湛えたそれは、河だった。
光は黄金(こがね)だけを跳ね返し、外(そと)の景色を消し去った。全てが黄色に覆われて、私は窓に全てを奪われた。時間も距離も消え去った世界の中で、私は二つの目になっていた。
果てのない色の……その中で。やがて、一つの色が浮かび上がった。白い、それは真っ白な水瓶だった。
彼方に在った白は次第にそれと、水瓶には不釣り合いな大きさと、知らしめす。
瓶の三分の一のほどの身丈か、汀には女達が、浸かった瓶の傍らでは、女達が洗濯をしていた。袖を、長い裾を膝の上までたくし上げ、笑い合い、互いに自らの持ち物を黄色の中に濯いでいた。
黄色は、洗う足も着物も、濃いその中に見え隠れさせるだけで何も、白さえ染めていなかった。
何故だろう、何もかも圧倒するほどなのに。染めようとしない色。
何故だろう、何もかも圧倒するほどなのに。何にも染まらない色。
私は、そんな思いに捕われた。
いつしか、女達は消えていた。
そして。溢れんばかりの光の中で、全ては輪郭を失い、融ける境界線の中に再び奪われていく。黄色の、白と黄色の境界線に。
白と黄色の、境界……
「これは!」
いつの間にか向かいの席にいた私は思わず列車を止めていた。
あれは?
胸が騒ぐ。手を当てる。鼓動が伝わる。
あれは? あの色は、温かいのだろうか、冷たいのだろうか。
あの色はオレンジの鮮やかな香りが、味がするのだろうか。
あれは……
開けた扉から斜面を見下ろして。深く息を吸い込んで。
列車を止めた私は、湛える色の中へ降りて行った。
列車も線路も消えていた。
……私は。
そして今、私は泳いでいる。東の空を泳いでる。
2009.8.31「Open Sesame」初出。
http://pub.ne.jp/nekome9_1/?entry_id=2389434
2014.3.18 修正・改稿。
《Plala Broach「土手猫の手」2014.3.18》
本居 寝子
音は、そこに介在したか。余りにも昔のことで……今となっては、もう思い出せない。
数十年も前のことだ。私は一人列車に乗っていた。
山肌の斜面を走るレールの上で、何を思うわけでもなく最初から……私はここに居た。
何の気なしに辺りを見回してみても、私以外の者の姿は見えない。ボックス席の向かいには客は居らず、南に面した窓からは、少しばかりの後ろと前(まえ)が見て取れるだけで、この車両の外(ほか)は解らない。
見えるのは、この中と、左に見えてくる前(さき)ばかりで。代わり映えのない景色を、いつからか、私はずっと眺めている気がした。
列車は緑の中を抜けていた。山肌と木々の間に挟まれて、いったい今は……どこだろう。いつになったら、着くのだろう。ぼんやりと、そんなことを考えていた。
そうして、どれくらいそこに居たのだろう。緑の稜線が切れる時が遂に来た。
溢れん力が突如として現れた。それは永く「穏やか」に慣らされた目には、余りに濃密な色だった。水平線も地平線も空の境さえも、色が全てを圧倒した。
黄色。底が覗けないほどの、どこまでも不透明な黄色が遥か広がる。前(さき)の前まで埋め尽くす、鮮やかな色を湛えたそれは、河だった。
光は黄金(こがね)だけを跳ね返し、外(そと)の景色を消し去った。全てが黄色に覆われて、私は窓に全てを奪われた。時間も距離も消え去った世界の中で、私は二つの目になっていた。
果てのない色の……その中で。やがて、一つの色が浮かび上がった。白い、それは真っ白な水瓶だった。
彼方に在った白は次第にそれと、水瓶には不釣り合いな大きさと、知らしめす。
瓶の三分の一のほどの身丈か、汀には女達が、浸かった瓶の傍らでは、女達が洗濯をしていた。袖を、長い裾を膝の上までたくし上げ、笑い合い、互いに自らの持ち物を黄色の中に濯いでいた。
黄色は、洗う足も着物も、濃いその中に見え隠れさせるだけで何も、白さえ染めていなかった。
何故だろう、何もかも圧倒するほどなのに。染めようとしない色。
何故だろう、何もかも圧倒するほどなのに。何にも染まらない色。
私は、そんな思いに捕われた。
いつしか、女達は消えていた。
そして。溢れんばかりの光の中で、全ては輪郭を失い、融ける境界線の中に再び奪われていく。黄色の、白と黄色の境界線に。
白と黄色の、境界……
「これは!」
いつの間にか向かいの席にいた私は思わず列車を止めていた。
あれは?
胸が騒ぐ。手を当てる。鼓動が伝わる。
あれは? あの色は、温かいのだろうか、冷たいのだろうか。
あの色はオレンジの鮮やかな香りが、味がするのだろうか。
あれは……
開けた扉から斜面を見下ろして。深く息を吸い込んで。
列車を止めた私は、湛える色の中へ降りて行った。
列車も線路も消えていた。
……私は。
そして今、私は泳いでいる。東の空を泳いでる。
2009.8.31「Open Sesame」初出。
http://pub.ne.jp/nekome9_1/?entry_id=2389434
2014.3.18 修正・改稿。
《Plala Broach「土手猫の手」2014.3.18》