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★旅シリーズ★熱海 起雲閣 其の9

2012年05月01日 | ★旅行★国内
実業家根津嘉一郎の別邸

根津 嘉一郎(ねづ かいちろう=初代、万延元年6月15日(1860年8月1日) - 1940年1月4日)は政治家、実業家。

東武鉄道や南海鉄道(現・南海電気鉄道)など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった。「鉄道王」と呼ばれることで有名。

甲斐国山梨郡正徳寺村(山梨県山梨市)に生まれる。根津家は雑穀商や質屋業も営む豪商で、「油屋」の屋号を有していた。



『根津翁伝』によれば、1877年(明治10年)に山梨郡役所の書記として働いていたが、民権運動にも携わる。長兄の死により家督を相続し、1889年(明治22年)には村会議員となった後、東京へ進出。若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成。第一徴兵保険会社や帝国火災保険、富国徴兵保険など保険会社の資金を運用し、東京電灯の買収などに関わる。1905年(明治38年)には東武鉄道の社長に就任し、経営再建に取り組んだ。



その他にも経営に行き詰まった企業を多く買収し、再建を図ったことから「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎」との異名や揶揄を与えられることもあった。資本関係を持った鉄道会社は24社に及び、多くの会社において名誉社長などに就任した。その中の数社には同じ甲州出身の早川徳次を送り込み、経営を任せて再建している。



「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ、1922年に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵中学校・高等学校)を創立する。



なお、1904年(明治37年)以降衆議院議員を連続4期務めた他(憲政会)、1920年(大正9年)より勅選貴族院議員となった。墓所は多磨霊園。



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