2024年がスタート、今年も仙台を街歩きし城下町の名残と歴史、また仙台周辺の自然散策、グルメ、ドライブ、温泉,etcを”街探”し、ピックアップしていきます。
昨年暮れに「せんだいひとむかし」展が開催されましたが、仙台市内拡大地図を見ながら来場者それぞれ、懐かしい場所に思いをはせていました。
その地図の仙台駅前名掛丁周辺を拡大すると、道路に対して区割りが斜めになっているのがわかります。実は、藩政時代、伊達政宗の城下町づくりの痕跡といえます。
(復刻版 昭和27年「仙台市街明細地図」)の拡大です。名掛丁のアーケード街を歩くと、建物を四角形に建築するため、”挟間”が出来ています。
地面が直角に区割されていません。城下町の防衛の観点から町屋に”挟間”を作り、そのスペースに足軽を配置できるようにしたといわれています。
仙台市内中心部は、仙台空襲により、青葉城大手門など歴史的建造物はじめ、町屋の多くが焼失していますが、地面には、藩政時代からの土地の区割りがそのまま残されています。
戦後の都市計画道路や再開発などで無くなった道路や新設された道路もありますが、仙台駅前の商店街には区割りがそのまま残されたようです。
仙台城大手門から大町、中央通り、名掛丁とまっすぐ続く道ですので、城下町の防衛上から
こういう町割りがされたのでしょうか。
そして、城下町の名残として、穀町のカギ型道路が有名ですが、奥州街道沿い、河原町周辺から穀町、南鍛冶町、荒町にもその痕跡が見られます。
道路に対して斜めの区割りです。
穀町付近。
南鍛冶町付近。
先日、穀町のそば処「武田屋」さん店内の飾られていた図面からも道路に対し、角度をつけて斜めに店舗が建設されているのがわかります。
たまたま郷土史家の菅野正道氏にお話しを聞く機会があり、それによると、こうした”挟間”を設けた町割りは、全国の古い城下町に数多く残っているそうですが、守る側、攻める側の観点から、必ずしもその役割が明確ではないそうです。是非、建築現場のみなさんの経験談をお聞きしたいところです。