お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

打下城

2014-11-15 05:58:16 | 滋賀県
 打下城

2014/10/1

滋賀県高島市のお城めぐり

 織田信長の甥織田信澄が拠点を大溝城に移す前の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 打下城
よみ: ウチオロシ
別称: 大溝古城・城山
所在地: 滋賀県高島市勝野
現状: 山
築城年代: 永正二年(1505)
築城者: 高島玄蕃允
形式: 山城
遺構: 中主郭・北主郭・小曲輪群・二重堀・畝堀・土塁・虎口・土橋・石垣跡
規模: 標高379m、比高255m
文化財:
訪城日: 2011/9/8・2014/10/1


≪ 訪城記 ≫

自宅から打下城へ向かう。

自宅を出て国道8号を北上、木之本三叉路信号を左折、北陸道木之本IC前を通り、賤ヶ岳トンネル、藤ヶ崎トンネルを通り、塩津三叉路信号を左折、国道303号を西進、岩熊トンネル、奥琵琶湖トンネルを通り、突き当りの野口三叉路信号を左折、マキノ追坂峠を下り、国道161号を西進、途中、大きく左に曲がり南下、道の駅藤樹の里あどがわを通り過ぎ、勝野で側道を降りて、国道勝野交差点信号を右折、高架下をくぐり県道296号を西進、勝野交差点信号を左折、県道300号を南下、近江高島駅口三叉路信号を右折、JR湖西線近江高島駅前を通り、湖西線高架下をくぐり、突き当りの城山台自治会館横交差点を右折、約130m北上したところを左折、約30m進んで左側に日吉神社があり、神社前に駐車スペースがある。ここに車を駐車させてもらう。

日吉神社南側の谷川を渡ってすぐを谷川に沿って進む。入口が笹の群生に隠れて判りにくいので注意。踏付け道があるので笹をかき分け進むと登城道に出る。
獣除け柵の扉を開けて、谷川沿いに登っていくと砂防ダムのある地点からつづら折りの急勾配道になり、途中ところどころに小さな案内板があり助かる。登り詰めたところに打下城と下の鼻打方向の分かれ道看板がある。
下の鼻打方向に行くと馬の足、下の鼻打へ行ける。
打下城方向へ進むと二重堀跡、畝堀跡のある中主郭下に出る。ロープを使って登る急な坂道を登り詰めると中主郭の土塁上に出る。ここが主郭で土塁に囲まれた円形の削平地で東側虎口前に説明板がある。虎口の出口左側に石垣跡が少し残っている。
登城口から中主郭まで約1時間30分もかかってしまった。
尾根伝いに東側へ降りていくと小曲輪群が見られ、約15分で北主郭に着く。
入口に土橋と虎口があり、ここも土塁に囲まれた円形の削平地で、馬蹄状になっている。東側虎口に石垣跡が残り、畝堀、小曲輪群がある。


≪ 歴 史 ≫

永正二年 (1505) 高島玄蕃允が長宝寺の廃寺後に打下城を築く。
元亀年間 (1570-73) 打下城城主は林与次左衛門員清であったが、織田信長の高島攻略により支配される。この林員清が打下城を築城したとも言われている。
天正元年 (1573) 磯野員昌が城主となる。員昌出奔後は、織田信長の弟信行の子信澄が城主となるが、天正六年(1578)、湖上交通の要港大溝港に大溝城を築き移る。


≪ 写 真 ≫


打下城中主郭虎口


中主郭虎口石垣跡


中主郭前の二重堀


縦状畝堀と土塁


中主郭土塁


中主郭


小曲輪群


北主郭西虎口と土橋


北主郭西虎口と土塁


北主郭土塁


北主郭東側の馬蹄状土塁


北主郭東虎口の石垣跡


分れ道


登城道


登城口付近


現地説明板図面(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR湖西線近江高島駅から徒歩約10分で登城口の日吉神社に着く。ここから主郭まで約1時間。
<車>
名神高速大津ICを降りて大津IC口信号を左折、坂を北へ降りていき本宮二丁目南信号を左折、国道1号東海道とJR東海道本線高架下をくぐり、北上して琵琶湖に向かい、京阪電気鉄道石山坂本線踏切を渡ってすぐの打出浜交差点信号を左折、県道18号を西進、大津港口から国道161号を琵琶湖岸沿いに北上、琵琶湖大橋交差点信号を左折、JR湖西線高架下をくぐり西進、真野IC口信号を右折して国道161号湖西道路へ側道を入り北上、白髭神社を通り過ぎて約1.5㎞で近江高島駅方面へ行く三叉路分れ道を斜め左に入り、乙女が池沿いに北上、大溝城跡を過ぎ、道が左に曲がったところの近江高島駅口三叉路信号を左折、JR湖西線近江高島駅前を通り、湖西線高架下をくぐり、突き当りの城山台自治会館横交差点を右折、約130m北上したところを左折、約30m進んで左側に日吉神社があり、神社前に駐車スペースがある。ここから主郭まで徒歩約1時間。


≪ 位置図 ≫

打下城


登城口の日吉神社


紹介したお城の数 296城



近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版




近江城郭探訪―合戦の舞台を歩く
滋賀県教育委員会
滋賀県文化財保護協会

会津若松城(鶴ヶ城)

2014-11-08 08:21:19 | 宮城県・福島県
 会津若松城(鶴ヶ城)

2014/9/21

福島県会津若松市のお城めぐり

 戊辰戦争で攻城戦の舞台となった会津松平氏の居城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 会津若松城(鶴ヶ城)
よみ: アイヅワカマツ
別称: 若松城・鶴ヶ城・黒川城・小高木(小田垣)城・東黒川館
所在地: 福島県会津若松市追手町1-1
現状: 鶴ヶ城公園
築城年代: 至徳元年(元中元、1384)
築城者: 蘆名若狭守直盛
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・北出丸・西出丸・帯郭・伏兵郭・復元天守閣・干飯櫓・南走長屋・走長屋・御三階櫓跡・月見櫓跡・茶壺櫓跡・西南隅櫓跡・表門(鉄門)・太鼓門跡・廊下橋門跡・廊下橋・弓門(西中門)跡・北出丸追手門跡・西門跡・西出丸追手門跡・南門跡・二の丸東門跡・南門跡・鐘撞堂・石垣・水堀・井戸
規模:
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2014/9/21


≪ 訪城記 ≫

ホテルから会津若松城(鶴ヶ城)へ向かう。

ホテルを出て国道118号を南下、山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場に車を駐車する。

西出丸を南門(内讃岐門)跡から出て西出丸の堀沿いに回る。早朝の静かな堀と石垣ががとても綺麗で西南角櫓跡、西北角櫓、西大手門跡の桝形虎口から西出丸に入り、梅坂を登って本丸西中門跡の桝形虎口、虎口の石垣上に鐘撞堂、太鼓門跡の桝形虎口から北出丸へ一旦出る。椿坂を通って北出丸へ、正面に武徳殿、西側に西門跡、東側に追手門跡の桝形虎口、追手門を出て東側に桜ヶ馬場跡、北出丸前の綺麗な堀と石垣、東北角櫓跡、西北角櫓跡、大手口正面に鶴ヶ城址碑がある。
もう一度、北出丸を通って本丸へ入り、天守閣を見ながら西側の帯郭から表門(鉄門)、その西側の上杉謙信公仮廟所跡、苔むした西南角櫓跡の石垣、表門を通って干飯櫓、土塁上の横矢掛、月見櫓跡、茶壺櫓跡、高石垣上から赤い廊下橋と廊下橋桝形虎口、土塁を降りて御三階櫓跡、珍しい赤い瓦を使った天守閣を見学する。入場料は410円。復興天守閣はとても立派で綺麗です。天守閣を堪能して走長屋石垣、廊下橋を渡ってテニスコートになっている二の丸、北側の伏兵郭、東門跡、南門跡を通って土塁と堀、三の丸南門から出て、広く綺麗な五軒丁濠を見ながら一周して西出丸に帰りました。
見るところが一杯でとても満足しました。


会津若松城(鶴ヶ城)の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

文治五年九月 (1189) 源頼朝の功臣佐原十郎左衛門尉が藤原泰衡討伐の功によって会津の地を恩賞として宛行われる。三代光盛の時、蘆名氏を名乗る。
康暦元年 (天授五、1379) 七代蘆名若狭守直盛が会津に下向する。
至徳元年 (元中元、1384) 会津郡門田荘の黒川の丘陵に築城して東黒川館と称する。
天文七年 (1538) 東黒川館が焼失する。
天文十二年 (1543) 修築によって規模を大きくして黒川城または小高木(小田垣)城と呼ばれるようになる。
天正十七年 (1589) 二十代蘆名義広は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ会津を追われる。
天正十八年 (1590) 豊臣秀吉は伊達政宗から巻き上げた会津四郡を蒲生氏郷に与え、奥州の押えとして在城させる。
文禄元年 (1592) 蒲生氏郷が家臣曾根内匠に命じて黒川城を大改修する。城名も鶴ヶ城と改める。
文禄四年 (1595) 蒲生氏郷が京都で死亡し、嗣子秀行が跡を継ぐ。しかし、幼少であったため要衝会津を守るには不適当とされ、慶長三年(1598)、宇都宮に移され、代わって越後の上杉景勝が入る。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で西軍に味方した上杉景勝は会津を追われ、米沢に移る。代わって蒲生秀行が再び入城する。
寛永四年一月八日 (1627) 秀行の跡を継いだ子忠郷が痘瘡で死去し、嗣子がなかったため蒲生家は断絶する。代わって加藤嘉明が伊予松山から入城する。
寛永二十年 (1643) 二代明成の時、封土を返上して没落、代わって会津松平家の藩祖保科正之(二代将軍徳川秀忠の庶子)が出羽山形から若松城に入る。二代正経を経て三代正容の時に将軍の命で松平と改姓する。以後、容貞、容頌、容住、容衆、容敬と続き、幕末の九代容保で明治維新を迎える。
明治元年 (1868) 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の攻撃に一か月籠城の末に開城する。鶴ヶ城天守閣は大砲による攻撃でダメージが大きく、戦の後、明治七年(1874)、取り壊される。
昭和四十年 (1965) 天守閣が再建される。


≪ 写 真 ≫


会津若松城(鶴ヶ城)


鶴ヶ城天守閣と南走長屋、表門


鶴ヶ城天守閣


表門(鉄門)


横矢掛


月見櫓跡


茶壺櫓跡


廊下橋


廊下橋桝形虎口


御三階櫓跡


干飯櫓


走長屋


武者走り


天守閣からの太鼓櫓門跡


天守閣からの干飯櫓、表門


本丸東面高石垣


表門からの天守閣


上杉謙信公仮廟所跡


西南角櫓跡


北出丸の堀と石垣


鶴ヶ城址碑


桜ヶ馬場跡


北出丸東門桝形虎口


北出丸西門跡


鐘撞堂


西出丸西側の堀と石垣


西出丸南側の堀と石垣


高石垣と堀


現地鶴ヶ城案内図(リンク付サムネイル)


現地鶴ヶ城山本八重ゆかりの場所案内(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR磐越西線会津若松駅からバスで約15分、鶴ヶ城北口バス停下車すぐ。
<車>
磐越道会津若松ICを降りて国道121号を南下、観音前三叉路信号を左折、国道49号越後街道を東進、JR磐越西線を越えた北柳原交差点信号を右折、国道118号を南下、会津若松駅前を通り、約1.9㎞南下した山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場を利用すると良い。付近に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

会津若松城(鶴ヶ城公園)


紹介したお城の数 295城



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もっと知りたい 日本100名城 古代・中世の城編 (歴史群像シリーズ)
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図説 日本100名城の歩き方 (ふくろうの本/日本の文化)
千田 嘉博,小和田 哲男
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岩崎城

2014-11-05 06:01:31 | 北海道・青森県・岩手県
 岩崎城

2014/9/20

岩手県北上市のお城めぐり

 和賀一揆で和賀氏の旧臣が最後に立て籠もったお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岩崎城
よみ: イワサキ
別称: 岩崎楯
所在地: 岩手県北上市和賀町岩崎18地割
現状: 岩崎城運動公園
築城年代: 南北朝時代
築城者:
形式: 平山城
遺構: 本丸・三の丸・土塁・空堀・桝形虎口
規模: 600m×300m、比高30m
文化財:
訪城日: 2014/9/20


≪ 訪城記 ≫

二子城から岩崎城へ向かう。

二子城を出て北上工業団地を通り抜け、北上工業団地口交差点信号を左折、国道4号奥州街道を南下、和賀川に架かるわが大橋を渡り、都鳥交差点信号を右折、県道225号を西進、東北道高架下をくぐり、夏油川を渡り、約500m西進した道の左手に岩崎城の説明板のある三叉路を左折、約100m南下した道が大きく右に曲がる地点を左側に入った先が岩崎城運動公園で、そのまま登って行った先が岩崎城跡です。空堀に架かる橋で通行止めになっていて、ここで道に車を駐車する。

空堀に架かる橋の前に説明板があり、空堀はとても深いです。
橋を渡った先が本丸跡で、公民館となっている模擬天守閣があると聞いてきたのですが、現在は岩崎城址舞楽殿という黒い平屋の建物が建っています。本丸の周りには土塁跡が残るのみです。
橋の西側が三の丸で、ここも周りに土塁跡、西側の入口が大手門跡で桝形虎口になっています。


岩崎城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

暦応四年(1341)に「岩崎楯」で合戦があり、鬼柳清義が討死しているが、岩崎城の沿革は不明です。享禄四年(1531)の和賀氏と小田嶋氏の戦いに岩崎氏が出陣している。
天正十八年 (1590) 豊臣秀吉の奥州仕置によって平定され、二十年には岩崎城が破却されている。
慶長五年 (1600) 和賀一揆を起こした和賀忠親が二子城で敗れ、最後の砦として旧家臣とともに岩崎城に立て籠もったが落城、忠親らは自刃して果てた。
慶長七年 (1602) 南部氏の家臣柏山伊勢守明助が入城する。
寛永元年十二月 (1624) 花巻城主南部政直が岩崎城代柏山伊勢とともに変死を遂げる。
寛永二年 (1625) 二代柏山明定が死去。
万治二年 (1659) 三代柏山明信が死去。


≪ 写 真 ≫


岩崎城本丸


岩崎城址舞楽殿


本丸土塁


空堀


空堀に架かる橋


三の丸


三の丸土塁


大手桝形虎口


岩崎城大手門趾碑


岩崎城運動公園入口


現地岩崎城・運動公園案内マップ(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東北本線・東北新幹線北上駅からバスで城内バス停下車、徒歩約10分。
<車>
東北道北上江釣子ICを降りて国道107号を西進、東北道高架下をくぐってすぐの三叉路信号を斜め左折、突き当りの三叉路を右折、県道122号を西進、江釣子神社を通り過ぎた次の交差点信号を左折、南下して和賀川に架かる広表橋を渡り、里小屋交差点信号を右折、夏油川を渡り、約500m西進した道の左手に岩崎城の説明板のある三叉路を左折、約100m南下した道が大きく右に曲がる地点を左側に入った先が岩崎城運動公園で、そのまま登って行った先が岩崎城跡です。岩崎城運動公園の駐車場を利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

岩崎城


紹介したお城の数 294城



日本の城 戦国~幕末の歴史が刻まれた全国の名城を徹底解剖 (わかる本)
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二子城

2014-11-04 06:05:50 | 北海道・青森県・岩手県
 二子城

2014/9/20

岩手県北上市のお城めぐり

 和賀郡を治めた和賀氏代々の本城

≪ お城の概要 ≫

城名: 二子城
よみ: フタゴ
別称: 飛勢城
所在地: 岩手県北上市二子町渋谷
現状: 市立公園飛勢城跡・八幡宮・山
築城年代: 室町時代初期
築城者: 和賀氏
形式: 平山城
遺構: 曲輪・空堀
規模: 100m×500m、比高約70m
文化財:
訪城日: 2014/9/20


≪ 訪城記 ≫

花巻城から二子城に向かう。

花巻城薬研堀跡駐車場を出て花巻市役所前交差点信号を左折、南下して次の交差点信号を左折、東進して里川口交差点信号を右折、豊沢川を渡り、国道4号を南下、花巻東BP南口三叉路信号を斜め右折、国道4号奥州街道を南下、北上市に入り、北上工業団地口交差点信号を左折、JR東北本線を越え、北上工業団地を抜けた渋谷交差点信号を右折、約300m山中を進んだところに道の左側に木製の飛勢城趾標柱のある分かれ道を入った奥が二子城跡で前に駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場から登ってすぐに説明板があり、その上に八幡宮がある。八幡宮の裏手に出ると広がった曲輪があり、北端に展望台があり、北上川の景色が絶景です。この展望台横を降りていくと空堀跡と出曲輪がある。
八幡宮のある曲輪の西側も空堀跡です。


二子城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

和賀氏の本城で、和賀郡最大の城郭。
天正十八年 (1590) 和賀氏が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため領地を没収され、二子城は秀吉の家臣浅野長政の管理下に置かれ、長政の家臣後藤半七が入れ置かれたが、仕置の軍勢が帰還した後、和賀氏の残党が蜂起して二子城を奪還する。
天正十九年 (1591) 再び奥州仕置軍の蒲生氏郷に攻められ、二子城は落城して当主和賀薩摩守義忠は逃亡途中で殺される。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いの上杉景勝の兵乱に南部信直が最上に出陣した機に乗じて、和賀氏に遺児和賀忠親が蜂起した和賀一揆が起こり、いっとき二子城を奪うが、敗退して鎮圧される。


≪ 写 真 ≫


二子城跡の八幡宮


八幡宮裏側の曲輪


展望台


展望台から見る北上川


出曲輪


空堀


入口の飛勢城趾標柱


現地二子城見取図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東北本線村崎野駅からバスで北上工業団地バス停下車、徒歩で約1.7㎞、約30分。
<車>
東北道北上江釣子ICを降りて国道107号を東進、有田町交差点信号を左折、国道4号を北上、北上工業団地口交差点信号を右折、JR東北本線を越え、北上工業団地を抜けた渋谷交差点信号を右折、約300m山中を進んだところに道の左側に木製の飛勢城趾標柱のある分かれ道を入った奥が二子城跡で前に駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

二子城(市立公園飛勢城趾)


紹介したお城の数 293城



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花巻城

2014-11-03 07:15:53 | 北海道・青森県・岩手県
 花巻城

2014/9/20

岩手県花巻市のお城めぐり

 奥州稗貫氏の本拠を花巻城と改称して南部氏の家臣北秀愛が城代を務めた南部藩の支城

≪ お城の概要 ≫

城名: 花巻城
よみ: ハナマキ
別称: 鳥谷ヶ崎城
所在地: 岩手県花巻市城内11-45
現状: 鳥谷ヶ崎公園・鳥谷崎神社・早坂稲荷神社・花巻市役所
築城年代: 天正十九年(1591)
築城者: 北秀愛
形式: 平山城
遺構: 本丸跡・復元西御門・菱櫓跡・御台所前御門跡・早坂御門跡・中御門跡・東御門跡・現存圓城寺門・大手門跡・時鐘・長屋跡・井戸跡・土塁・空堀・御堀跡
規模: 400m×480m、比高約20m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2014/9/20


≪ 訪城記 ≫

ホテルから花巻城へ向かう。

ホテルを出て国道4号を南下、いわて花巻空港横を通り過ぎ、花巻東BP北口交差点信号を斜め右折、国道4号奥州街道を南下、釜石道高架下をくぐり、瀬川を渡り、四日町三叉路信号を右折、県道123号を西進、四日町三丁目三叉路信号を左折、県道116号を南下、吹張町交差点信号を左折、東進して花巻市役所前を過ぎた新館前の駐車場に車を駐車する。

新館への西側からの入口が大手門跡で、南側角に花巻城時鐘がある。

新館北側の道を東へ約400mで鳥谷崎神社があり、神社南西入口の道沿いに現存圓城寺門があり、道を挟んで南西側に公園に説明板がいくつかある。

圓城寺門の西側の道を北進した突き当りを左折したところに薬研堀跡の駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場東側の道を北進すると東御門跡で、突き当りを左折、西進した花巻幼稚園内に土塁跡が残る。さらに西進した交差点付近が中御門跡で、交差点を右折て北進した花巻小学校の東側が鳥谷ヶ崎公園で花巻城本丸跡です。
北側は瀬川の断崖絶壁で、手前入口から入ると説明板があり、南側が長屋跡、東側に西御門が復元されていて、入ると本丸跡で南西側に土塁跡、御武具蔵跡、本丸井戸跡、御台所前御門跡、御堀跡、東側には菱櫓跡が残る。


花巻城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

鳥谷ヶ崎城は戦国時代に稗貫氏の本城であった。
天正十八年 (1590) 豊臣秀吉の小田原攻めに稗貫氏が参陣しなかったため領地を没収され、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政家臣浅野重吉が置かれたが、稗貫氏の当主稗貫孫次郎広忠と弟和賀薩摩守義忠が一揆を起こし、二子城、鳥谷ヶ崎城を奪還される。
天正十九年 (1591) 奥州仕置軍の攻撃により二子城、鳥谷ヶ崎城共に落城する。鳥谷ヶ崎城は南部信直の臣北松斎信愛の子秀愛が入り、花巻城と改める。
慶長三年 (1598) 花巻城代北秀愛が死去し、代わって父の北松斎信愛が入る。
慶長五年 (1600) 和賀義忠の遺児忠親が和賀一揆を起こし、花巻城が攻撃され、三の丸、二の丸を突破され御台所前御門付近で激戦となったが、味方軍の帰還によって一揆軍を撃退する。
慶長十八年八月 (1613) 北松斎信愛が九十一歳で死去し、南部利直は次男彦九郎政直を花巻城主とする。政直が入ると大改修され花巻城は近世城郭に変わった。
寛永元年十二月 (1624) 花巻城主南部政直が岩崎城代柏山伊勢とともに変死を遂げる。
明治六年 (1873) 本丸御殿などが取り壊される。
平成四年 (1992) 本丸西御門が復元される。


≪ 写 真 ≫


花巻城復元西御門


現存圓城寺門


花巻城時鐘


長屋跡


本丸土塁跡


瀬川沿いの断崖絶壁


本丸


御武具蔵跡


井戸跡


御台所前御門跡


御堀跡


菱櫓跡


東側の御堀跡


中御門跡


時鐘前の大手門跡碑


花巻幼稚園内の土塁跡


東御門跡


薬研堀跡


鳥谷崎神社


圓城寺門南西前の公園


現地西御門前説明板図(リンク付サムネイル)


現地花巻城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東北本線花巻駅から徒歩約15分。
<車>
東北道花巻南ICで降りて県道12号を南下、突き当りの三叉路信号を左折、東進してすぐの交差点信号を直進、東北道高架下をくぐり、滝の沢交差点信号を直進してすぐに斜め右折、東進して藤沢町三叉路信号を斜め左折、県道103号を東進、JR東北本線高架下をくぐり、鍛治町付近の三叉路を左折、北上して吹張町交差点信号を右折、東進して花巻市役所前を過ぎた突き当りを左折してすぐに右折、新館北側の道を東へ約400m圓城寺門の西側の道を北進した突き当りを左折したところに薬研堀跡の駐車場がある。ここから徒歩で北進した花巻小学校の東側が鳥谷ヶ崎公園で花巻城本丸跡です。


≪ 位置図 ≫

花巻城(鳥谷ヶ崎公園)


圓城寺門


花巻城時鐘


紹介したお城の数 292城



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ビジュアル・ワイド 日本の城
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