お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

岸和田古城

2013-08-02 05:09:25 | 大阪府
 岸和田古城

2013/7/13

大阪府岸和田市のお城めぐり

 楠木正成の一族、和田新兵衛高家が築いたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岸和田古城
よみ: キシワダ
別称: 照日山・岸の城
所在地: 大阪府岸和田市野田町1丁目
現状: 住宅街
築城年代: 建武元年(1334)
築城者: 和田新兵衛高家
形式: 平城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2012/9/23・2013/7/13


≪ 訪城記 ≫

岸和田城から徒歩で岸和田古城へ向かう。

岸和田城の東側内堀、岸和田高校前の道を北上し、岸城神社前を通り過ぎ、突き当りの三叉路を右折、約130m進んだ突き当りの市立図書館を右折、道なりに左折、約80mでそのまま直進、南海本線の高架下沿いに約70mで岸和田駅南信号を渡り、府道39号の左側歩道を南東へ約200m進んだ信号を左折して住宅街へ入り、次の辻の曲がり角北東側マンション前へ約15分で着く。
道路脇に「和田氏居城伝説地」と書かれた石碑と説明板が建てられている。
説明板によると、岸和田中学校付近まで城跡であったようです。


≪ 歴 史 ≫

建武元年 (1334) 楠木正成が一族の和田新兵衛高家を遣わし、城を築く。
その後、二代和田正武が継ぐ。
永和四年 (1378) 和泉守護となった山名氏清が和田氏の一族、信濃泰義を岸和田に入れ、古城の地から今の岸和田城の地へ移す。


≪ 写 真 ≫


和田氏居城伝説地の石碑


石碑と説明板


現地説明板岸和田古城図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
南海電気鉄道南海本線岸和田駅から徒歩約10分。
<車>
阪神高速4号湾岸線岸和田南ICで降りて地蔵浜北信号を右折、阪神高速の高架下をくぐり大きく右に曲がり大北町北三叉路信号を右折、南東へ進み堺町交差点信号を斜めに右折、道なりに左に曲がって岸和田本町信号を左折、岸和田市役所前を通って右折、道なりに南西に進みクランクの先に内堀と岸和田城がある。岸和田城の内堀南角を左折すると道の南側に市役所第4有料駐車場がある。ここから徒歩で岸和田城の東側内堀、岸和田高校前の道を北上し、岸城神社前を通り過ぎ、突き当りの三叉路を右折、約130m進んだ突き当りの市立図書館を右折、道なりに左折、約80mでそのまま直進、南海本線の高架下沿いに約70mで岸和田駅南信号を渡り、府道39号の左側歩道を南東へ約200m進んだ信号を左折して住宅街へ入り、次の辻の曲がり角北東側マンション前の道路脇に「和田氏居城伝説地」と書かれた石碑と説明板が建てられている。駐車場から徒歩約15分。


≪ 位置図 ≫

岸和田古城の石碑


紹介したお城の数 103城



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岸和田城

2013-08-01 05:11:41 | 大阪府
 岸和田城

2013/7/13

大阪府岸和田市のお城めぐり

 岸和田藩主、岡部氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岸和田城
よみ: キシワダ
別称: 岸ノ和田城・膝城・蟄亀利城・猪伏山城
所在地: 大阪府岸和田市岸城町9-1
現状: 千亀利公園
築城年代: 応永年間(1394-1428)頃
築城者: 信濃泰義
形式: 平城
遺構: 本丸・二の丸・復興天守・小天守・多聞櫓・隅櫓・櫓門・二の丸多聞櫓・伏見櫓跡・石垣・内堀・防潮石垣
規模: 約400m×約700m、面積約17ha
文化財: 府指定史跡
訪城日: 2012/9/23・2013/7/13


≪ 訪城記 ≫

自宅を出て大阪府岸和田城へ向かう。

阪神高速4号湾岸線岸和田南ICで降りて地蔵浜北信号を右折、阪神高速の高架下をくぐり大きく右に曲がり大北町北三叉路信号を右折、南東へ進み堺町交差点信号を斜めに右折、道なりに左に曲がって岸和田本町信号を左折、岸和田市役所前を通って右折、道なりに南西に進みクランクの先に内堀と岸和田城がある。岸和田城の内堀南角を左折すると道の南側に市役所第4有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場から内堀を眺め、内堀沿い多聞櫓と隅櫓を見ながら櫓門前の橋を渡り、櫓門をくぐって北側の通路を通って復興天守閣前へ、綺麗なお城がすばらしいです。前庭には「八陣の庭」、小天守入口から入り、城内を見学、入場料300円です。天守展望台から「八卦の庭」がよく見えます。
櫓門を出て内堀沿いに南側から一周して、東側の岸和田高校前から見る岸和田城天守閣は素晴らしいです。
石垣は一部補修されている場所が良く分かり、濃淡のコントラストが雰囲気を醸し出していて、広い内堀と相まって綺麗です。
西側が二の丸跡で北東隅に二の丸多聞櫓、北西隅が伏見櫓跡、南西隅に心技館、二の丸の内堀沿いに歩き、石垣を堪能しました。
北東側の石垣は何度か拡張された跡が残っています。
二の丸西側内堀沿いの道から一本西の紀州街道へ出て、圓成寺の北側の路地を西へ三つ目の辻を南へ約50m行った児童公園北側に防潮石垣が残っています。


≪ 歴 史 ≫

永和四年 (1378) 和泉守護山名氏清が和田氏の一族、信濃泰義を岸和田の地に置き、岸和田古城から岸和田城の地に移す。
応永十五年 (1408) 和泉半国守護細川頼長が岸和田城に入る。
永享元年 (1429) 泰義の嫡子泰連が和田氏を名乗り在城する。
嘉吉元年 (1441) 泰連の嫡子義明が岸和田氏を名乗り在城する。
宝徳二年 (1450) 義明の弟義基が泉州守護代として在城する。
長享二年 (1488) 岸和田根城が根来方の津田城左衛門の攻撃を受け落城。
明応九年 (1500) 和泉守護細川元有が畠山尚順らに攻められ岸和田城で敗死する。この頃、松浦肥前守が守護代として在城する。
永禄元年頃 (1558) 三好勢の三好義賢、十河一存、安宅冬康が岸和田城に籠城して根来、畠山勢と戦っている。
永禄五年 (1562) 久米田合戦で三好義賢が敗死して、畠山勢に城を開け渡し、畠山勢の細川刑部大輔は入ったが、すぐに三好勢が奪還して松浦肥前守を入れている。
永禄十一年 (1568) 織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛し、岸和田城の松浦氏も信長に帰順している。
天正三年 (1575) 松浦肥前守の家老寺田又右衛門、安太夫兄弟が岸和田城代となる。
天正四年 (1576) 石山本願寺へ兵糧入れをした毛利勢の水軍と木津川口で和泉衆水軍が戦い、大敗している。この戦いで岸和田城勢の水軍も戦っている。その後、天正十年までに堀久太郎、蜂屋兵庫助らが城番を務めている。
天正十年 (1582) 本能寺の変直前まで鈴木孫市が在城したらしい。
天正十一年 (1583) 羽柴秀吉は中村一氏を岸和田城に配する。
天正十二年 (1584) 小牧・長久手合戦の留守を狙って雑賀、根来衆が蜂起し岸和田合戦が行われる。
天正十三年 (1585) 秀吉が雑賀、根来攻撃に岸和田城へ入る。根来攻略の後、小出秀政を岸和田城主とする。
慶長二年 (1597) 天守閣が竣工する。
慶長九年 (1604) 小出吉政が襲封。
慶長十九年 (1614) 大坂冬の陣で小出吉英に添えて松平信吉を岸和田城に置いている。のち松平信吉に替えて北条氏重を置いている。
元和元年 (1615) 大坂夏の陣で小出吉英は小出吉親、伊藤治明と岸和田城を固める。
元和五年 (1619) 小出吉英が出石へ転封となり、代わって篠山から松平康重が入る。
元和九年 (1623) 伏見城が取り壊され、櫓、門などが岸和田城へ移される。
寛永十七年 (1640) 松平康映が播磨山崎へ転封となり、代わって高槻から岡部宣勝が入る。
文政十年十一月二十日 (1827) 落雷により天守閣を焼失する。
岡部氏十三代で明治維新を迎える。
昭和二十九年 (1954) 天守閣が復興される。


≪ 写 真 ≫


本丸多聞櫓・隅櫓


南側の内堀


岸和田城入口正面


復興大天守・小天守


天守閣展望台からの八陣の庭


東側からの岸和田城


北東側からの岸和田城


北東側からの天守閣


東側からの天守閣


北側の内堀


東側の内堀


二の丸跡


二の丸西側の内堀


二の丸石垣と心技館


二の丸伏見櫓跡石垣


防潮石垣


二の丸北側の石垣

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
南海電気鉄道南海本線蛸地蔵駅から徒歩約10分。
<車>
阪神高速4号湾岸線岸和田南ICで降りて地蔵浜北信号を右折、阪神高速の高架下をくぐり大きく右に曲がり大北町北三叉路信号を右折、南東へ進み堺町交差点信号を斜めに右折、道なりに左に曲がって岸和田本町信号を左折、岸和田市役所前を通って右折、道なりに南西に進みクランクの先に内堀と岸和田城がある。岸和田城の内堀南角を左折すると道の南側に市役所第4有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

岸和田城(千亀利公園)


防潮石垣


紹介したお城の数 102城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

真田丸出城

2013-02-23 19:56:52 | 大阪府
 真田丸出城

2013/2/11

大阪府大阪市のお城めぐり

 大坂城の弱点である南面に真田幸村が築いた出城

≪ お城の概要 ≫

城名: 真田丸出城
よみ: サナダマルデジロ
別称: 偃月城・真田丸
所在地: 大阪府大阪市天王寺区餌差町・玉造本町・真田山町
現状: 宰相山公園・真田山公園・寺院・住宅地
築城年代: 慶長十九年(1614)
築城者: 真田幸村
形式: 平城
遺構:
規模: 142m×216m
文化財:
訪城日: 2013/2/11


≪ 訪城記 ≫

大坂城から真田丸出城へ向かう。

大阪城公園駐車場を出て本町通りを西に向かい、馬場町交差点を左折、法円坂で阪神高速の高架下を南進、上本町1を左折、長堀通りを東進、玉造交差点を右折、次の信号を右折、150m程西進すると西宰相山公園に着く、この公園斜め北に有料駐車場があるので駐車する。

徒歩で西宰相山公園東の道を南に進むとすぐに鳥居があり、その奥が三光神社で、神社にあがる階段の南前に真田幸村公の像と真田の抜穴跡がある。
その南が宰相山公園で西の奥の高所に旧陸軍の戦没者墓地があり、整然とお墓が並んでいる。
その南が真田山小学校、道を挟んで南に真田山公園、この公園の西に明星高校、円珠庵あたりまでが真田丸出城だったようです。


≪ 歴 史 ≫

慶長十九年十月 (1614) 真田幸村が九度山から手勢を率いて大坂城に入城し、総構の南面の防備が弱いことを見抜き、三日月型の出城を築く。
大坂冬の陣ではこの出丸で前田利常、松平忠直の軍勢に多大な犠牲者を出させ、撃退している。その後、和議の条件で破壊された。


≪ 写 真 ≫


三光神社前にある真田幸村公の像


真田の抜穴跡


三光神社

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR大阪環状線玉造駅から徒歩3分。
<車>
阪神高速13号東大阪線を法円坂で降りて、阪神高速の高架下を南進、上本町1を左折、長堀通りを東進、玉造交差点を右折、次の信号を右折、150m程西進すると西宰相山公園に着く、この公園斜め北に有料駐車場があるので駐車する。


≪ 位置図 ≫

三光神社


紹介したお城の数 32城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

石山本願寺

2013-02-22 21:51:39 | 大阪府
 石山本願寺

2013/2/11

大阪府大阪市のお城めぐり

 十一年に及ぶ織田信長との石山合戦に耐えた本願寺門徒の本拠地

≪ お城の概要 ≫

城名: 石山本願寺
よみ: イシヤマホンガンジ
別称: 石山本願寺城・大坂城
所在地: 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
現状: 大阪城公園
築城年代: 天文二年(1533)
築城者: 証如
形式: 平城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2011/8/30・2013/2/11


≪ 訪城記 ≫

大坂城と重複する場所に存在したため、大阪城の訪城記を参考にしてください。

玉造口の参道脇に蓮如上人袈裟懸けの松があり、説明板と碑が建てられた裏側の東屋の中に切株が残っている。

六番櫓の北、修道館の西側の一角に説明板と石山本願寺推定地の碑が建っている。

豊臣秀吉の大坂城築城によって、石山本願寺の上に豊臣大坂城が建ち、その後徳川氏による大坂城が豊臣大坂城の上に築城されているため、石山本願寺の正確な位置がわからないようです。


≪ 歴 史 ≫

明応五年 (1496) 蓮如上人が大坂の地を得て、坊舎を建立したことに始まる。
永正三年 (1506) 河内で細川政元と畠山義豊が争った際に、政元からの支援要請で実如が参戦に踏み切らざるを得なくなり、この時から本願寺の武装化と武士勢力への加担が始まった。
天文元年六月、畠山義宣と筒井順慶の連合軍が飯盛山城の木沢長政を攻撃した際に、細川晴元の要請で証如が門徒二万人をい率いて義宣・順慶連合軍を打ち破り、その余勢をかって、堺の三好元長(三好長慶の父)を死に追いやり、その後勢力が急激に拡大した。
この勢いに細川晴元も敵対することなり、同年八月から本願寺への細川勢の攻撃が始まる。同年八月二十三日、山科本願寺は焼き討ちにあい焼失してしまう。
天文二年七月二十五日 (1533) 山科から運び出された祖像が石山御坊に遷座される。これより石山本願寺が城郭としての防備を固め、「摂州第一の名城」と謳われ、要害堅固を誇るようになる。
元亀元年九月十二日 (1570) 織田信長と対立し、石山合戦が勃発、十一年に及ぶ長い戦争が始まる。
天正八年閏三月五日 (1580) 天皇の調停により、和議が成立し、顕如は四月九日、祖像を奉じて大坂を退去して紀州鷺の森へ移る。
その後、信長から秀吉の時代に移り、石山本願寺の跡に大阪城が築城され、さらにその上に徳川氏の大阪城が築かれる。


≪ 写 真 ≫


石山本願寺推定地


蓮如上人袈裟懸けの松の碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR大阪環状線森ノ宮駅、大阪城公園駅から徒歩すぐ。
地下鉄谷町線、中央線谷町四丁目駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速道路豊中ICで阪神高速11号池田線に乗り南下、新淀川を渡り、しばらく走って道なりに大きく右に曲がる。中之島の上で大きく左に曲がり、阪神高速1号環状線に乗る。中之島の終わりで大きく右に曲がる。そのまま南下して、中央区役前で大きく左に曲がり、阪神高速13号東大阪線に乗り、法円坂で阪神高速を降りて、阪神高速の側道を東へ進む。森ノ宮入路の信号で左折、すぐをまた左折して、本町通りに出て、Uターンしてすぐに大阪城の有料駐車場の入り口があり、乗用車専用駐車場に入る。


≪ 位置図 ≫

石山本願寺推定地


紹介したお城の数 31城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

大坂城

2013-02-21 22:18:58 | 大阪府
 大坂城

2013/2/11

大阪府大阪市のお城めぐり

 豊臣秀吉が天下統一の拠点として築いた惣構の巨城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大坂城
よみ: オオサカ
別称: 錦城・金城・浪華城
所在地: 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
現状: 大阪城公園
築城年代: 天正十一年(1583)
築城者: 豊臣秀吉
形式: 平城
遺構: 復興天守閣・本丸・二の丸・西の丸庭園・桜門・大手門・多聞櫓・青屋門・一番櫓・六番櫓・千貫櫓・乾櫓・焔硝蔵・金蔵・石垣・内堀・空堀・外堀
規模: 約1,000m×1,000m
文化財: 国指定特別史跡・重要文化財
訪城日: 2011/8/30・2013/2/11


≪ 訪城記 ≫

名神高速道路豊中ICで阪神高速11号池田線に乗り南下、新淀川を渡り、しばらく走って道なりに大きく右に曲がる。中之島の上で大きく左に曲がり、阪神高速1号環状線に乗る。中之島の終わりで大きく右に曲がる。そのまま南下して、中央区役前で大きく左に曲がり、阪神高速13号東大阪線に乗り、法円坂で阪神高速を降りて、阪神高速の側道を東へ進む。森ノ宮入路の信号で左折、すぐをまた左折して、本町通りに出て、Uターンしてすぐに大阪城の有料駐車場の入り口があり、乗用車専用駐車場に入る。

駐車場に車を置き、駐車場北側の広い南外堀を見て、六番櫓、堀の入り組んだ石垣は見事で美しい、大手門、多聞櫓、千貫櫓を見て、多聞櫓前には大手桝形の巨石「大手見付石」がある。西外堀沿いを歩き、次に北西角の乾櫓、京橋口、京橋口桝形の巨石「肥後石」、北外堀沿いに歩き、伏見櫓跡、北東の青屋門、東外堀沿いに石垣を見て、玉造口から一番櫓を見て、玉造口から二の丸に入る。内堀、空堀見ながら左手に豊国神社、正面入り口桜門、空堀に架かる土橋を渡り、桜門から本丸に入る。残念ながら、桜門は修復作業中で見ることができなかった。門をくぐって左に銀明水、桝形正面に一番大きい桜門枡形巨石「蛸石」を見られる。桝形を抜けると、緑瓦と金箔がまぶしい復興天守閣が美しい。天守閣の内部を見て回り、最上階から本丸跡を見下ろす景色がすばらしい。ちなみに入場料は600円です。天守閣入口には金明水、号砲という大砲が置いてあります。
天守閣裏側になる山里口へ行き、桝形や刻印石広場、秀頼・淀殿自刃の地の碑を見て、ここで秀頼が最後を迎えたのかと感慨ひとしきりでした。
桜門へ戻り、西の丸庭園へ行き、内側から千貫櫓、乾櫓を見て、焔硝蔵を見て、また引き返し、梅林側から内堀、極楽橋を見て駐車場に帰りました。
見学に約6時間もかけてしまい、一日中堀や石垣を見ていても飽きないと思います。


大阪城の詳細  ………  ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正十一年 (1583) 秀吉大坂へ赴き、築城計画をたて、大坂城普請を命じる。
天正十二年 (1584) 秀吉大坂城に移る。
文禄三年 (1594) 大坂城惣構の普請を始める。
慶長三年八月十八日(1598) 秀吉死す。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦の敗北で豊臣秀頼が一大名に落される。
慶長十九年 (1614) 大坂冬の陣、和睦の条件で徳川方が城塁を破却し堀を埋める。
元和元年 (1615) 大坂夏の陣で秀頼、淀殿自害し徳川方が勝ち、大坂城は焼失する。戦後処理で松平忠明が大坂城主となる。
元和二年 (1616) 大坂城を修築。
元和五年 (1619) 大坂城を江戸幕府直轄とし、城代を置く。
元和六年 (1620) 天下普請で大阪城を修築。
寛永三年 (1626) 天守、本丸が竣工する。
寛永六年 (1628) 徳川氏による大坂城築城が完成する。
寛文五年 (1665) 落雷により天守閣全焼する。以後、再建されなかった。
安政五年 (1585) 大坂城の大修理完成する。
明治元年 (1868) 鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍が大阪城に入る。長州藩兵の来攻により幕府軍は大阪城から敗走、その後に城中から出火、ほとんどが灰燼に帰す。
明治四年 (1871) 明治政府が大阪城に鎮台を設置。
明治十九年 (1886) 大阪鎮台を第四師団とし、和歌山城二の丸御殿を本丸に移築。
明治二十年 (1887) 本丸桜門を再建する。
昭和六年 (1931) 大阪市の御大典記念として、市民の寄付により復興天守閣が完成する。
昭和二十年 (1945) 太平洋戦争の空襲で二番・三番・伏見・坤の四櫓が焼失する。終戦後、大阪城は米軍に接収される。
昭和二十二年 (1947) 本丸紀州御殿が全焼する。
昭和二十三年 (1948) 米軍が撤収し、大阪城が大阪市に返還される。
昭和二十八年 (1953) 大阪城が国の特別史跡に指定され、城内13棟の古建造物が国の重要文化財に指定される。


≪ 写 真 ≫


現存 六番櫓


現存 大手門


現存 多聞櫓


大手桝形の巨石「大手見付石」


現存 千貫櫓


現存 乾櫓


京橋口桝形の巨石「肥後石」


伏見櫓跡


青屋門


内堀の石垣


東外堀からの天守


現存 一番櫓


南外堀の石垣


本丸南東の石垣


桜門枡形の巨石「蛸石」


天守閣


山里丸にある豊臣秀頼・淀殿自刃の地の石碑


山里丸の石垣


山里口出枡形石垣


刻印石広場


煌びやかな天守閣


天守閣入口前にある大砲「号砲」


天守閣8階展望台から見る本丸


金の鯱


天守閣8階展望台から見る山里口と極楽橋


大阪城御殿跡にある大坂城址碑


空堀の石垣


西の丸から見る天守閣


焔硝蔵

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR大阪環状線森ノ宮駅、大阪城公園駅から徒歩すぐ。
地下鉄谷町線、中央線谷町四丁目駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速道路豊中ICで阪神高速11号池田線に乗り南下、新淀川を渡り、しばらく走って道なりに大きく右に曲がる。中之島の上で大きく左に曲がり、阪神高速1号環状線に乗る。中之島の終わりで大きく右に曲がる。そのまま南下して、中央区役前で大きく左に曲がり、阪神高速13号東大阪線に乗り、法円坂で阪神高速を降りて、阪神高速の側道を東へ進む。森ノ宮入路の信号で左折、すぐをまた左折して、本町通りに出て、Uターンしてすぐに大阪城の有料駐車場の入り口があり、乗用車専用駐車場に入る。


≪ 位置図 ≫

大阪城


大阪城公園有料駐車場


紹介したお城の数 30城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社