お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

駿府城

2014-05-31 06:10:25 | 静岡県
 駿府城

2014/5/4

静岡県静岡市のお城めぐり

 徳川家康晩年の隠居城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 駿府城
よみ: スンプ
別称: 静岡城・府内城・府内の館
所在地: 静岡県静岡市葵区駿府城公園1
現状: 駿府城公園
築城年代: 天正十七年(1589)
築城者: 徳川家康
形式: 平城
遺構: 本丸・二ノ丸・三ノ丸・復元東御門・巽櫓・坤櫓・天守台跡・内堀跡・二の丸水路・東御門橋・二ノ丸橋・北門橋・西門橋・大手御門跡・北御門跡・清水御門跡・四足御門跡・中堀・外堀・石垣・桝形虎口
規模: 800m×800m、標高35m
文化財:
訪城日: 2011/10/3・2014/5/4


≪ 訪城記 ≫

ホテルから徒歩で駿府城へ向かう。

静岡駅前の御幸通りを約600m北西に進むと外堀と石垣が見えてきて、静岡県庁への入り口が大手御門跡で石垣の桝形虎口が残る。県庁を通って北に出ると中堀が見え、駿府城公園入口の二ノ丸橋が架かっている。
まずは中堀沿いに東御門方向に一周する。復元された巽櫓の前付近には「東海道膝栗毛」の主人公弥次さん喜多さんの像があり、堀を曲がると東御門と東御門橋、東御門から二の丸水路までの間の石垣は水際までの高さで低い、北側へ周ると北御門跡と北門橋、北側も一部低い石垣がある。西側に周ると清水御門跡と西門橋、角には最近坤櫓が復元されている。
二ノ丸橋から入り、二ノ丸御門跡広場には二ノ丸御門跡と石垣サンプルがあり、坤櫓の見学もできる。入場料は100円です。東御門と巽櫓の入場料も100円です。
公園真ん中付近の本丸跡には徳川家康公鷹狩の像と家康公「手植えのみかん」、像の裏辺りが天守閣跡ですが、なにも残っていません。
東御門西側には、発掘調査で出土した内堀跡と石垣が見られ、内堀の北側にも二ノ丸水路跡が見られる。
地方検察庁西側道沿いには、石垣と四足門跡があり、静岡病院西側の外堀跡には、櫓台跡のような石垣を見られる。


駿府城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正十三年八月十四日 (1585) 徳川家康より、松平家忠に駿府築城の命が出される。
天正十四年十二月 (1586) 家康が浜松から駿府に移るも城は完成していない。
天正十五年四月二十五日 (1587) 本城が完成。
天正十六年五月十二日 (1588) 天守閣の工事が始まる。
天正十七年四月十日 (1589) 城の普請工事が完成する。
天正十八年 (1590) 小田原征伐後、家康は江戸に移り、駿府城には中村一氏が入る。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いで中村一氏は東軍に与し、戦後、子の忠一が伯耆米子に移封され、駿府城には家康の臣内藤信成が入る。
慶長十年四月 (1605) 家康が将軍職を子秀忠に譲り、駿府を隠居城に定め、翌十一年四月、内藤氏を近江長浜に移し、十二年から修築拡張工事が天下普請で始まり、同年十月二十八日には完成したが、十二月二十三日の失火によって本丸建物が全焼し、翌十三年八月十八日に再建工事が完了する。
元和二年四月十七日 (1616) 徳川家康が七十五歳で没し、駿府城には徳川頼宣が在城するが、元和五年(1619)七月、兄秀忠の命で紀州和歌山城に移封となり、松平大隅守重勝が城代に任ぜられる。
寛永二年 (1625) 将軍家光の弟忠長が駿府城主となる。
寛永九年 (1632) 忠長が上野に蟄居を命ぜられ、以後、城代が置かれる。
寛永十二年 (1635) 火災によって天守などほとんどの建物が焼失、櫓、門は再建されるが、天守は再建されなかった。
明治元年 (1868) 徳川家達が駿府城主となるが、明治五年頃までに払い下げられる。
明治二十九年 (1896) 歩兵第三十四連隊が設置され、本丸堀が埋められる。


≪ 写 真 ≫


駿府城東御門と巽櫓


東御門入口


東御門


巽櫓


坤櫓


二ノ丸橋


二ノ丸御門跡


坤櫓城内側


駿府城本丸跡の徳川家康公鷹狩の像


徳川家康公御手植えのミカン


天守閣跡


二ノ丸内堀跡


二ノ丸水路


本丸内堀跡と石垣跡


中堀と石垣


東御門前の中堀と石垣


東御門と東御門橋


中堀東側


中堀東側と石垣


二ノ丸水路付近の石垣


北御門橋


北御門橋付近の石垣


中堀西側


坤櫓と中堀


二ノ丸御門跡付近の石垣


四足御門跡付近の石垣


外堀の櫓台跡


大手御門跡桝形虎口


外堀と石垣


現地駿府城公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線・東海道新幹線静岡駅から徒歩約10分。
<車>
東名高速静岡ICを降りて静岡IC入口信号を右折、インター通りを北西に進み、東海道新幹線とJR東海道本線の高架下をくぐり、南安倍交差点信号を右折、線路沿いの国道1号東海道を進み、静岡駅前信号を左折、御幸通りを北西に進み静岡県庁前に出る。付近に有料駐車場があるので利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

駿府城(駿府城跡公園)


紹介したお城の数 223城



静岡の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版




日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

山中城

2014-05-25 06:09:24 | 静岡県
 山中城

2014/5/3

静岡県三島市のお城めぐり

 豊臣秀吉の小田原攻めの初戦で落城した後北条氏の箱根防衛の要となった山城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 山中城
よみ: ヤマナカ
別称:
所在地: 静岡県三島市山中新田・田方郡函南町桑原
現状: 山中城跡公園
築城年代: 永禄年間(1558-70)
築城者: 北条氏康
形式: 山城
遺構: 本丸・天守台・二ノ丸(北条丸)・三ノ丸・北の丸・西ノ丸・御馬場曲輪・岱崎出丸・すりばち曲輪・帯曲輪・元西櫓跡・西ノ丸物見台・西櫓跡・障子堀・畝堀・一ノ堀・三ノ丸堀・出丸御馬場堀・二ノ丸橋・本丸西橋・本丸北橋・堀・土塁・田尻の池・箱井戸・溜池・弾薬庫跡・兵糧庫・堀切
規模: 400m×800m、標高585m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2012/7/21・2014/5/3


≪ 訪城記 ≫

自宅を出て山中城へ向かう。

新東名高速長泉沼津ICで降りて東駿河湾環状道路を北東へ道なりに進み、三島塚原IC信号を左折、国道1号を北東に箱根方面に峠道を進み、峠の中腹で山中城跡案内所のあるところの道の両側に駐車場がある。道の左側に駐車場に車を駐車する。

駐車場に西側に説明板があり、ここから北に三ノ丸堀が綺麗な形でよく残っている。登っていくと田尻の池と箱井戸に着き、西ノ丸方向に登る。元西櫓下の堀を通り、二の丸と西ノ丸の間の堀切と土橋を見ながら、土塁で囲まれた広い西ノ丸へ入ると西の奥が高く斜面となっていて奥に物見台がある。さらに西には障子堀を間に角馬出の西櫓跡がある。
西ノ丸と西櫓の周りには緑の芝が植わった見事な障子堀と畝堀が印象的で、ちょうど咲いているツツジの赤と相まって、まるで庭園に来ているような雰囲気でとても美しい。
西櫓跡の西側畝堀外の帯曲輪に山中城趾碑が建っている。
溜池側から堀切を登って元西櫓跡、二ノ丸虎口を通って二ノ丸(北条丸)へ入る。二ノ丸は北から南へ傾斜していて西と東に物見台がある。本丸との間にも畝堀がみられる。
本丸は南に三段の曲輪で、一番下の曲輪に兵糧庫と弾薬庫跡があり、本丸の北東に天守台跡がある。北の丸との間には深い堀が横たわり、北の丸橋を渡って土塁に囲まれた北の丸へ入る。北の丸の周りはとても深い堀に囲まれている。
箱井戸に戻り、南へ抜けると宗閑寺があり、この寺に北条方と豊臣方の戦没武将の墓碑がひっそりと並んでいる。
国道1号の信号を渡り岱崎方面へ、案内所の裏側に御馬場曲輪、岱崎出丸、すりばち曲輪と連なり、北西側の斜面の一ノ堀も畝堀で緑の芝がとても美しい。見ると、とても感動します。


山中城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

永禄年間 (1558-70) 築城の時期につては分かっていないが、北条氏康の時に小田原城を守る箱根口の関門として築かれ、玉繩城主北条氏勝を城主とし、松田右兵衛大夫康長が城番となった。
天正十五年(1587)頃から豊臣秀吉軍の来攻を予想して増強を行っている。
天正十七年十二月 (1589) 岱崎を取り入れ郭を増強する。大改修は落城まで続けられ未完のところもあったようです。
天正十八年三月 (1590) 豊臣秀吉軍が伊豆に侵攻を開始し、韮山城と山中城を包囲した。三月二十九日、豊臣秀次を総大将に七万の大軍で山中城を一気に攻めたて守将松田康長ほか諸将が討死して、わずか半日で落城した。


≪ 写 真 ≫


山中城西ノ丸北西の障子堀


本丸


天守台


本丸下の段曲輪


本丸と北の丸の間の堀


北の丸


北の丸の深い堀


本丸と二ノ丸の間の畝堀


二ノ丸


二ノ丸櫓台


元西櫓と奥に西ノ丸


山中城趾碑


西櫓西側の畝堀


西櫓角馬出


西ノ丸と西櫓の間の障子堀


西ノ丸南側の畝堀


障子堀


西ノ丸


三ノ丸堀


出丸御馬場曲輪


出丸御馬場堀


一ノ堀


ツツジで書かれた山中城跡


岱崎出丸


すりばち曲輪見張台


すりばち曲輪


すりばち曲輪虎口


箱井戸跡


宗閑寺の北条方武将と豊臣方武将の墓


現地山中城跡案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線・東海道新幹線三島駅南口から沼津登山東海バス「元箱根港行き」で約30分「山名城跡」下車すぐ。
<車>
新東名高速長泉沼津ICで降りて東駿河湾環状道路を北東へ道なりに進み、三島塚原IC信号を左折、国道1号を北東に箱根方面に峠道を進み、峠の中腹で山中城跡案内所のあるところの道の両側に駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

山中城(山中城跡公園)


岱崎出丸


紹介したお城の数 222城



静岡の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版




日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

持舟城

2013-09-24 21:51:39 | 静岡県
 持舟城

2013/9/14

静岡県静岡市のお城めぐり

 今川氏の臣一宮氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 持舟城
よみ: モチフネ
別称: 用宗城
所在地: 静岡県静岡市駿河区用宗城山町
現状: 山
築城年代: 天文年間(1532-55)
築城者: 一宮元実
形式: 山城
遺構: 本丸・堀切
規模: 250m×100m、標高75m、比高70m
文化財:
訪城日: 2013/9/14


≪ 訪城記 ≫

蒲原城から持舟城へ向かう。

蒲原城駐車場を出て道を南下、東名高速道路の高架下をくぐり、突き当りの三叉路信号を左折、二つ目の信号を右折して東海道本線ガード下をくぐり、突き当りの三叉路を左折、次のイオン前の交差点信号を右折南下して国道1号富士由比バイパスのガード下をくぐり右折、国道1号の側道を通って合流して駿河湾沿いを西進、興津中町で側道を通りガード下をくぐって信号を左折、国道1号東海道へ出る。そのまま西進して清水駅前交差点信号を右折、江尻大和交差点信号を斜め左折、国道1号のまま西進、静岡駅前を通り、安倍川に架かる駿河大橋を渡って、手越原交差点信号を左折、長田街道を南下、東名高速道路、東海道新幹線高架下をくぐり、川を渡ったところで右折、すぐに左折、JR東海道本線沿いに150m程進むと浅間神社があり、神社西側に山へ登る登城口がある。道をそのまま西へ進み用宗駅の北側にある大雲寺の駐車場に車を駐車させてもらう。

大雲寺駐車場から来た道を徒歩で戻り、200m程東進したところに浅間神社があり、神社手前も山へ入る登城道を北へ登る。
最初の分かれ道を右へ行くと浅間山砦で、そのまま左へ登り、次の分かれ道を左折したすぐのところに北面のコンクリート壁に階段が設置されていて、案内板も設置されている。この道を登りきったところの削平地が本丸跡です。
本丸へ入った左側に説明板、南面中央部に持舟城址碑がある。
本丸西面の下に堀切があり、堀切の北に井戸跡らしき小さな社が見えるが、柵と雑木で入って行けない。案内板によると堀切の西側に二の丸があるようですが、ここも雑木が生い茂っていて入れませんでした。


≪ 歴 史 ≫

天文年間 (1532-55) 一宮元実によって築かれる。
永禄十一年 (1568) 武田氏の駿河侵攻の際に落城、三浦兵部義鏡、向井伊賀守正重が在城する。
天正七年九月十八日 (1579) 徳川家康が持舟城を攻撃、三浦義鏡、向井正重らが戦死、翌八年、武田勝頼が修築し、朝比奈駿河守氏秀を城番に置く。
天正十年二月二十三日 (1582) 再び徳川軍の攻撃を受け、二十七日開城して朝比奈氏秀は久能城へ退去して廃城となる。


≪ 写 真 ≫


浅間神社西側の登城口


持舟城本丸への階段


持舟城本丸


持舟城址碑


本丸西側の堀切


浅間山砦


現地案内板地図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線用宗駅から徒歩約10分で浅間神社前、ここから登城して約10分。
<車>
東名高速道路静岡ICを降りてインター通りを南下、中島交差点信号を右折、国道150号を西進、安倍川に架かる南安倍川橋を渡り、広野交差点信号を左折、県道416号用宗街道を約1km西進した三叉路を右折、長田街道を北上、東海道本線踏切を渡り、次の橋を渡らず直進、すぐの三叉路を左折、JR東海道本線沿いに150m程進むと浅間神社があり、神社西側に山へ登る登城口がある。道をそのまま西へ進み用宗駅の北側にある大雲寺の駐車場を利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

持舟城


浅間神社西側の登城口


紹介したお城の数 131城



静岡の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

蒲原城

2013-09-23 15:09:32 | 静岡県
 蒲原城

2013/9/14

静岡県静岡市のお城めぐり

 今川氏の境目最前線の山城

≪ お城の概要 ≫

城名: 蒲原城
よみ: カンバラ
別称:
所在地: 静岡県静岡市清水区蒲原
現状: 山
築城年代: 南北朝期
築城者:
形式: 山城
遺構: 一の曲輪・善福寺曲輪・腰曲輪・土塁・石塁・堀切
規模: 500m×400m、標高138m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2013/9/14


≪ 訪城記 ≫

興国寺城から蒲原城へ向かう。

興国寺城を出て根小屋信号を左折、南下して原東町交差点信号を右折、国道1号沼津バイパスを西進、富士川を渡り、道が大きく左へ曲がり、続いて右側に大きく曲がったら駿河湾に沿って西進、すぐに側道を降りて国道1号のガード下を右折してくぐり、北上してイオンタウン蒲原前の信号を過ぎた新蒲原駅前を左折、突き当りを右折してJR東海道本線ガード下をくぐったらすぐに左折、県道396号を西進、二つ目の信号を右折、北上して東名高速道路の高架下をくぐったら城山配水場で大きく道が曲り500m程進むと解りにくいですが、道の右手に駿河国蒲原城の看板が建っています。看板の南側に駐車スペースがあります。ここに車を駐車する。

看板の所から南に山へ入る道があり、この道が搦手の登城路です。登ってすぐに説明板と鳥瞰図があり、さらに進むと大空堀の案内板がありますが、谷底は竹藪で何もわかりません。
さらに登っていくと善福寺曲輪下の腰曲輪に出ます。ここには土塁跡と石塁があります。
奥へ進むと階段が設置してあり、登ると一の曲輪と善福寺曲輪の間の大堀切に出ます。大堀切を進んだ先の左側に善福寺曲輪があり、入口に逆茂木のレプリカが設置されている。善福寺曲輪には北側に土塁跡、物見台が2か所復元されている。
大堀切を右へ進むと一の曲輪へ行けます。入口の鳥居の右側に蒲原城址碑、中央に城将北条新三郎の供養碑、奥に八幡神社があります。
一の曲輪から西へ降りていくと二の曲輪、三の曲輪へと続くはずですが、草木が生い茂っていて入って行けませんでした。


≪ 歴 史 ≫

今川氏の境目最前線の城として城番が置かれ、天文十三年(1544)ころには飯尾豊前守が城番であったことが知られている。
永禄四年 (1561) 佐竹雅楽助高貞が城番となる。
永禄十一年 (1568) 北条氏家臣布施佐渡守康則が蒲原城在番を命じられる。
永禄十二年十二月六日 (1569) 武田軍が北条勢の守る蒲原城に攻めかかり、北条新三郎以下城兵が全滅して落城する。
永禄十三年五月 (1570) 武田氏の山県三郎兵衛昌景が庵原郡一帯を領し、蒲原衆を編成して城の守備にあてている。
天正十年 (1582) 徳川軍の攻撃で落城したといわれている。


≪ 写 真 ≫


道路脇の蒲原城案内板


搦手側登城口


登城道途中の説明板


腰曲輪と土塁跡


善福寺曲輪下の腰曲輪石塁


善福寺曲輪と土塁跡


善福寺曲輪と物見台


善福寺曲輪入口の逆茂木


一の曲輪と善福寺曲輪の間の大堀切


蒲原城址碑


一の曲輪


北条新三郎供養碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線新蒲原駅から徒歩約25分。
<車>
東名高速道路富士ICで降りて西富士道路を南下、そのまま南下して東海道新幹線新富士駅横の高架下をくぐり、宮島東交差点信号を右折、国道1号を西進、富士川を渡り、道が大きく左へ曲がり、続いて右側に大きく曲がったら駿河湾に沿って西進、すぐに側道を降りて国道1号のガード下を右折してくぐり、北上してイオンタウン蒲原前の信号を過ぎた新蒲原駅前を左折、突き当りを右折してJR東海道本線ガード下をくぐったらすぐに左折、県道396号を西進、二つ目の信号を右折、北上して東名高速道路の高架下をくぐったら城山配水場で大きく道が曲り500m程進むと解りにくいですが、道の右手に駿河国蒲原城の看板が建っています。看板の南側に駐車スペースがあります。


≪ 位置図 ≫

蒲原城


登城口駐車場


紹介したお城の数 130城



静岡の山城ベスト50を歩く
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興国寺城

2013-09-22 16:32:09 | 静岡県
 興国寺城

2013/9/14

静岡県沼津市のお城めぐり

 北条早雲旗揚げのお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 興国寺城
よみ: コウコクジ
別称: 杜若城・久窪城・深田山城・高国寺城
所在地: 静岡県沼津市根小屋
現状: 穂見神社
築城年代: 室町末期
築城者:
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・天守台・北曲輪・清水曲輪・土塁・石垣・空堀
規模: 130m×330m、標高20m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2013/9/14


≪ 訪城記 ≫

自宅から静岡県沼津市の興国寺城へ向かう。

新東名高速道路新富士ICで降りて西富士道路を南下、東名高速道路富士ICを通り越したところで側道へ降りて富士I.C信号を左折、国道139号を通って道が大きく右に曲がりそのまま南下、青島交差点信号を左折、国道139号のまま東進、東海道新幹線下をくぐった依田橋西交差点信号を斜め右折、国道1号富士由比バイパス・沼津バイパスを東進、原東町交差点信号を左折、北上した突き当りの根小屋三叉路信号を右折、次の北へ向かう左折路を山へ登っていくと興国寺城の本丸へ着く。本丸前の東側石火矢台の曲輪に駐車可能。ここに車を駐車する。

わたしは間違って根小屋信号を左折してしまいましたが、道路脇の案内板のお蔭で到着することが出来ました。

車を駐車した南側に土塁が見え、西側の広い本丸の西側にも高い土塁が見え感動です。本丸の北側には穂見神社があり、社殿右側に初代城主北条早雲の碑と並んで天野康景の碑、説明板が建てられています。
神社裏側の高い土塁上には天守台があり、礎石と南面に石垣が見られますが草だらけでよく見えませんでした。天守台西側の物見台のような削平地から南面の本丸、二の丸。西側の土塁跡が見降ろせ爽快です。
天守台北側には大空堀が東西に深く掘られていて、降りて底から見るとすごいです。大空堀の西側ではなぜか横穴が三つ空いています。
大空堀の北側台地が北曲輪で、ここも広い削平地です。
本丸へ戻り、登城道沿いの二の丸、三の丸を見て県道22号を東へ行った、次の左折路を北へ向かうと清水曲輪です。


≪ 歴 史 ≫

伊勢新九郎長氏(北条早雲)が妹婿(姉婿とも)の今川義忠戦死後の今川家家督争いを鎮定した功により興国寺城を与えられ、伊豆攻略の本拠地とした。
延徳三年 (1491) 伊勢長氏が伊豆を攻略し、韮山城を築いて移る。
天文十八年 (1549) 今川義元が興国寺城を修築して城域の拡大をする。
天文二十年 (1551) 北条軍に一時的に占拠されるが、すぐに奪回する。
永禄十一年十二月 (1568) 武田信玄が駿河へ侵入し駿府を攻略させると北条軍も駿河に侵入、北条氏邦が興国寺城、葛山城を手中にし、北条方の駿河の最前線基地となる。
永禄十二年五月 (1569) 垪和伊予守氏続に興国寺城の守備を命じる。
元亀元年八月 (1570) 武田信玄が興国寺城、韮山城に迫る。
元亀二年一月 (1571) 武田勢が興国寺城に来襲したが垪和氏続父子が善戦して撃退している。
元亀三年ころより武田氏の支城となり、元亀年間は穴山梅雪の家臣保坂掃部が守り、天正三年ころは向井伊賀守正重、以後は曾根下野守正清(昌世)が城番となる。
天正十年 (1582) 武田家滅亡により曾根正清は徳川家康に降伏して開城する。
天正十年三月 (1582) 牧野右馬允康成を入れ、九月には松平清宗を城主とする。
天正十八年 (1590) 小田原の陣以降は豊臣秀吉の家臣中村式部少輔一氏が駿河に入り、興国寺城には一氏の臣河毛惣左衛門尉重次が入った。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の合戦後には、ふたたび徳川家康の属城となる。
慶長六年二月 (1601) 天野三郎兵衛康景が城主となる。
慶長十二年 (1607) 康景の家臣が天領の百姓を殺害したことから改易となり、興国寺城は廃城となる。


≪ 写 真 ≫


石火矢台の土塁


穂見神社


天野康景碑


北条早雲碑


天守台石垣


天守台礎石


天守台から見た本丸・二の丸・土塁


天守台から見た石火矢台土塁


大空堀西側


大空堀


北曲輪


大空堀東側


本丸


本丸西側の土塁


二の丸


登城口


バス停と三の丸


西側の登城口と案内板


清水曲輪


興国寺城跡整備計画図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道線原駅・沼津駅からバスで東根小屋バス停下車すぐ。
<車>
新東名高速道路新富士ICで降りて西富士道路を南下、東名高速道路富士ICを通り越したところで側道へ降りて富士I.C信号を左折、国道139号を通って道が大きく右に曲がりそのまま南下、青島交差点信号を左折、国道139号のまま東進、東海道新幹線下をくぐった依田橋西交差点信号を斜め右折、国道1号富士由比バイパス・沼津バイパスを東進、原東町交差点信号を左折、北上した突き当りの根小屋三叉路信号を右折、次の北へ向かう左折路を山へ登っていくと興国寺城の本丸へ着く。本丸前の東側石火矢台の曲輪に駐車可能。


≪ 位置図 ≫

興国寺城


紹介したお城の数 129城



静岡の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版