お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

岩村城

2013-12-19 16:00:28 | 岐阜県
 岩村城

2013/11/24

岐阜県恵那市のお城めぐり

 武田信玄と織田信長の間で争奪戦が繰り広げられた遠山氏の居城

 日本三大山城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岩村城
よみ: イワムラ
別称: 霧ヶ城
所在地: 岐阜県恵那市岩村町
現状: 山
築城年代: 文治元年(1185)
築城者: 加藤景廉
形式: 山城
遺構: 本丸・二ノ丸・出丸・東曲輪・南曲輪・八幡曲輪・埋門・長局埋門・六段壁・二ノ丸菱櫓跡・八幡神社・霧ヶ井・追手門跡・三重櫓跡・畳橋跡・土岐門跡・一之門跡・初門跡・藤坂・藩主邸跡・石垣・空堀・土橋
規模: 260m×640m、標高721m、比高153m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2011/9/6・2013/11/24


≪ 訪城記 ≫

自宅を出て岩村城へ向かう。

中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館がある。資料館前の広場に車を駐車する。

岩村歴史資料館前の広い広場が藩主邸跡で、太鼓櫓のある岩村藩校知新館東側に山へ入る登城道があり、登城口の案内板がある。
石畳の道を登っていくと、まず藤坂、初門、一之門と続き、一之門付近から苔むした石垣が道の脇に見られるようになる。
土岐門を過ぎ、畳橋、追手門、三重櫓の見ごたえのある石垣群を見ながら進むと、竜神の井、左側の削平地が八幡曲輪で、八幡櫓跡、八幡神社があり、三重櫓からまっすぐ進んだ先に霧ヶ城の名の由来となった霧ヶ井がある。
霧ヶ井を過ぎると右側に二の丸菱櫓の石垣、左側に俄門があるが、俄門は現在通行止めとなっている。さらに進むと有名な六段壁が見られる。
六段壁手前の通路から右手に入ったところが本丸の埋門で、その北側の雑木林の中が二の丸で中央に弁天池の跡がある。
六段壁を過ぎたところに東曲輪への石段を登り、東曲輪から本丸長局埋門を通り、本丸へ着く。
本丸は南北に長い削平地で南側が一段高くなっていて櫓跡のような構造です。ここに木製の岩村城址碑があり、説明板もある。南東隅には昇龍の井戸、西側の石垣上には多聞櫓があった感じがします。北側のは桝形の埋門、埋門から西側の石垣下の通路を通って本丸南西下の出丸、ここにも説明板があり、氷餅蔵が復元されています。
本丸の南側下には南曲輪があり、ここは石垣ではなく土の曲輪で堀切や土橋を見られます。
壮観な石垣群には見とれてしまいます。


岩村城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

文治元年 (1185) 源頼朝の重臣、加藤景廉が築いたと言われている。以後、景廉の長子景朝が遠山姓を名乗り代々居城した。
永正年間 (1504-21) 遠山頼景が在城する。
大永四年 (1524) 城主遠山景友が没する。
弘治二年 (1556) 城主遠山景前が没する。
元亀元年 (1570) 武田信玄が高遠城主秋山信友に岩村城を攻撃させるが、岩村城主遠山景任は織田信長に救援を頼む。
元亀三年 (1572) 岩村城主遠山景任が病没し、信長の六男御坊丸(勝長)を養子として家督を相続させ、信長の叔母で景任の妻おつやの方が女城主となるが、再び秋山信友に攻められ、おつやの方と信友が婚約、幼主の養育を条件に和議が成立、武田方の秋山信友の居城となる。御坊丸は人質として甲府に送られた。
天正元年 (1573) 武田と織田が岩村城を巡って戦う。
天正三年 (1575) 長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ、秋山信友の岩村城も織田信忠軍に攻められ落城する。以後、織田方の武将川尻秀隆が城主となる。
天正十年三月 (1582) 武田勝頼滅亡によって川尻秀隆が甲斐一国を与えられ、代わって森蘭丸が岩村城主となるが、在城せず、留守代として森家の家老各務兵庫が在城する。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変で主君信長に森蘭丸が殉じ、蘭丸の兄長可が跡を継ぎ、長可の領地となる。
天正十二年 (1584) 小牧・長久手の戦いで森長可が討死し、長可の末弟忠政が遺領を継ぐ。
慶長四年 (1599) 森忠政が信濃川中島へ転封となる。森氏三代の間、各務兵庫が城代を務める。代わって田丸直昌が入城する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦で田丸直昌が西軍に与したため除封される。
慶長六年 (1601) 大給松平家乗が入り、近世岩村藩が成立する。
寛永十五年 (1638) 家乗の子乗寿が遠江浜松に転じ、代わって三河伊保から丹羽氏信が入り、氏定、氏純、氏明、氏音と続く。
元禄十五年 (1702) 家中騒動で氏音が左遷され、代わって信濃小諸から大給石川松平乗紀が入封、乗賢、乗薀、乗保、乗美、乗喬、乗命と続く。
明治二年 (1869) 版籍奉還により廃城となる。
明治六年 (1873) 建造物がすべて取り壊され、石垣を残すのみとなる。


≪ 写 真 ≫


復元された旧藩主邸と太鼓櫓


登城口


藤坂


初門


一之門


一之門の石垣


土岐門


畳橋


三重櫓石垣


追手門


竜神の井


八幡曲輪入口


八幡神社


霧ヶ井


二ノ丸菱櫓石垣


二ノ丸弁天池


六段壁


東側からの六段壁


長局埋門


本丸南側


本丸


本丸昇龍の井戸


本丸北側埋門枡形


本丸桝形虎口


岩村城址碑


出丸


本丸西側石垣


南曲輪


南曲輪の堀切


現地岩村城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
明知鉄道岩村駅から岩村歴史資料館まで徒歩約20分。資料館から本丸まで徒歩約20分。
<車>
中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館の広場に駐車可能。


≪ 位置図 ≫

岩村城


岩村歴史資料館(藩主邸跡)


紹介したお城の数 158城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

革手城

2013-10-09 20:53:39 | 岐阜県
 革手城

2013/9/21

岐阜県岐阜市のお城めぐり

 美濃・尾張・伊勢三か国の守護職土岐頼康の本拠城

≪ お城の概要 ≫

城名: 革手城
よみ: カワテ
別称: 川手城・河手府城・岐之幕府
所在地: 岐阜県岐阜市正法寺町
現状: 済美高校
築城年代: 正平年間(1346-70)
築城者: 土岐頼康
形式: 平城
遺構:
規模: 標高8~9m
文化財:
訪城日: 2011/6/14・2013/9/21


≪ 訪城記 ≫

加納城から徒歩で革手城へ向かう。

革手城を南へ出て南側の大通り県道1号の歩道を東へ歩き、境川を越えたすぐの手押信号のある歩道を南に渡り、道を約200m程南下した交差点東側が済美高校の敷地で、真ん中に東西の道が通っていて、その中央付近の南側、グランド前に小さな区画された敷地があり、この中に説明板と川手城址碑が建てられているのみで遺構はない。
駐車する場所がないため加納城に駐車して徒歩で行くことをお勧めする。加納城から徒歩約15分。


≪ 歴 史 ≫

正平年間 (1346-70) 土岐頼康が美濃・尾張・伊勢三か国の守護となったとき、革手城を築いて長森城から移る。
明応四年 (1495) 土岐成頼の嫡子政房と後室の子元頼の相続争いと守護代斎藤氏と石丸氏の対立から起こった船田合戦で灰塵となった。
大永七年 (1527) 土岐政房の次子頼芸が西村勘九郎(のち斎藤道三)の助けを得て兄政頼の革手城をを襲い、政頼は越前朝倉氏のもとへ逃れた。頼芸が鷺山城から革手城に移る。その後、頼芸が枝広館に住しているので革手城は廃城となったようです。


≪ 写 真 ≫


済美高校中央の道


川手城趾碑と説明板のある場所


川手城趾碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR岐阜駅から徒歩約40分。バスで下川手口バス停から徒歩約5分。
<車>
名神高速道路岐阜羽島ICで降りて県道46号を北上、竹鼻町大西交差点信号を斜め右折、県道151号を北東に進み、足近小学校西三叉路信号を斜め左折、北上して薮田交差点信号を右折、国道21号を東進、宇佐三叉路信号を斜め右に曲がり岐大バイパスを東進、道なりに左に曲がり茜部中島信号で側道に入り、茜部本郷信号で左折、国道157号加納中通りを北上、加納城南通2東交差点信号を右折、県道1号を東へ加納城南通1信号を過ぎて100m程の北へ入る道を50m程進むと加納城南側入り口に着く。入口の東側、石垣前に車を駐車可能。加納城から徒歩約15分。


≪ 位置図 ≫

革手城(済美高校)


紹介したお城の数 136城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
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加納城

2013-10-06 06:25:28 | 岐阜県
 加納城

2013/9/21

岐阜県岐阜市のお城めぐり

 加納藩主代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 加納城
よみ: カノウ
別称:
所在地: 岐阜県岐阜市加納丸之内
現状: 加納公園
築城年代: 文安二年(1445)・慶長六年(1601)
築城者: 斎藤利永・奥平信昌
形式: 平城
遺構: 本丸跡・石垣・土塁・堀跡
規模: 標高10m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/6/14・2013/9/21


≪ 訪城記 ≫

岐阜城から長良公園に帰り、そこから加納城へ向かう。

長良公園を出て北側の道を西進、突き当りの三叉路を左折、国道256号を南下、長良川に架かる長良橋を渡り、岐阜城を左側に見ながら進み岐阜公園前三叉路信号を直進、一方通行道を南下、突き当りを右折して長良橋通りを西進、本町1信号を直進して再び国道256号に出る。本町3信号を左折し南下、新岐阜駅前を通り神田町10三叉路信号を左折、大きく右へ曲がり東海道本線高架下を通り国道157号を南下、加納城南通2東交差点信号を左折、県道1号を東へ加納城南通1信号を過ぎて100m程の北へ入る道を50m程進むと加納城南側入り口に着く。入口の東側、石垣前に車を駐車可能。ここに車を駐車する。

南側入口から入ったところに説明板があり、中は広い芝生広場で四囲を土塁で囲まれている。東南側に少し曲輪が出ていて、ここの土塁上が広く厚く櫓跡と思われる。
北西角が天守台跡で、現在は崩れかけているのか、土塁上に登れない。
北側にも入口があり、ここにも説明板がある。
周囲は石垣で囲まれているが、草が生い茂り保存状態が良くないのかもしれない。
石垣の周りに堀があったと思われるが、現在は埋めたてされている。駐車場もそうです。


≪ 歴 史 ≫

文安二年 (1445) 土岐氏の守護代斎藤利永が革手城防備の要害として加納城を築く。
天文七年 (1538) 守護代斎藤利良が没し、斎藤道三が斎藤家を継ぎ稲葉山城を修築して入り、加納城は廃城となる。
慶長六年 (1601) 徳川家康の命で本多忠勝が岐阜城を移し、三月奥平美作守信昌が加納の地に封ぜられ、加納城跡に築城する。その後、忠政、家昌、忠隆と続く。
寛永九年 (1632) 松平(奥平)忠隆が没し、継嗣なく加納松平氏は断絶する。代わって武蔵騎西から大久保忠興が入る。
寛永十六年 (1639) 大久保忠興が播磨明石城へ転封となり、代わって戸田光重が入封する。以後、光永、光熈と続く。
宝永八年 (1711) 戸田光熈が淀城に移り、代わって備中松山から安藤信友が入封する。信友は大坂城代を務め、八代将軍吉宗のとき老中となっているが、跡を継いだ孫信尹が不埒という理由で隠居を命ぜられ、子の信成が減封されて宝暦五年(1755)継ぐ。
宝暦六年 (1756) 安藤信成が奥州磐城平へ移り、代わって武蔵岩槻から永井伊賀守直陳が入封する。以後、尚備、直旧、直弼、尚典、尚服と続き明治維新を迎える。
明治二年 (1869) 版籍奉還後に塀、楼などが壊されたが、本丸跡の石垣は残されている。


≪ 写 真 ≫


加納城南入口


南入口西側の石垣


本丸跡


本丸西側の土塁


天守台付近の土塁


本丸東側の土塁


南東側の出曲輪


南東側出曲輪の土塁上


加納城北入口


北入口東側の石垣


北入口西側の石垣


西側の堀跡


西側の石垣


南側の堀跡


南東側の石垣


南東側出曲輪の石垣


現地17世紀後半ごろの加納城図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR岐阜駅から徒歩30分。バスで加納中学校前下車、徒歩5分。
<車>
名神高速道路岐阜羽島ICで降りて県道46号を北上、竹鼻町大西交差点信号を斜め右折、県道151号を北東に進み、足近小学校西三叉路信号を斜め左折、北上して薮田交差点信号を右折、国道21号を東進、宇佐三叉路信号を斜め右に曲がり岐大バイパスを東進、道なりに左に曲がり茜部中島信号で側道に入り、茜部本郷信号で左折、国道157号加納中通りを北上、加納城南通2東交差点信号を右折、県道1号を東へ加納城南通1信号を過ぎて100m程の北へ入る道を50m程進むと加納城南側入り口に着く。入口の東側、石垣前に車を駐車可能。


≪ 位置図 ≫

加納城(加納公園)


紹介したお城の数 135城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

岐阜城

2013-10-05 10:47:38 | 岐阜県
 岐阜城

2013/9/21

岐阜県岐阜市のお城めぐり

 織田信長が天下布武を目指した居城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岐阜城
よみ: ギフ
別称: 稲葉山城・井ノ口城・金華山城
所在地: 岐阜県岐阜市槻谷
現状: 金華山・岐阜公園
築城年代: 建仁元年(1201)
築城者: 二階堂行政
形式: 山城
遺構: 復興天守・本丸跡・二の丸跡・七間櫓跡・焔硝蔵跡・馬場跡・上格子門跡・石垣・井戸・居館跡・堀切跡
規模: 130m×300m、標高336m、比高308m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2010/7/23・2011/11/17・2013/9/21


≪ 訪城記 ≫

枝広館(長良公園)から徒歩で岐阜城へ向かう。

長良公園を南に抜けて南側の道路を西へ歩き、長良高校の南西角の長良高校前信号を左折、道を南下、長良宮口町3信号を右折、県道94号の歩道を西進、長良丘1信号を左折、緩い坂を登って南下、長良川に架かる長良橋を渡ります。
長良橋から長良川越しに見上げる岐阜城は素晴らしいです。よくあんな高いところにお城を建てたなぁと感心します。
長良橋を渡ってすぐの長良橋南信号の南東角に織田信長騎馬像と門が迎えてくれ、門をくぐると岐阜公園です。
ここまで約2km、30分くらいで着けました。
岐阜公園の周りに有料駐車場がいくつかあります。

おみやげ処の前を過ぎて道を渡ったらすぐに発掘調査案内所があり、現在も織田信長居館跡の発掘調査が行われていて発掘品の展示がされています。
案内所北側の登り道を行くとめい想の小径と馬の背登山道の入口があり、さらに進むと金華山ロープウェー乗り場に着きます。気軽に早く登りたい方はロープウェーを利用すると良いでしょう。
ロープウェー乗り場の南側には現在発掘調査中の織田信長居館跡があり、石垣跡や水路跡が見られ、入口には冠木門が復元されています。
わたしは、さらに南へ行った博物館前から登る百曲登山道から登りました。この道は岩だらけの道をひたすら頂上を目指して登り続け約40分でロープウェーの降口にでます。
ロープウエー降口右側のリス村付近が煙硝蔵跡、最初の門(冠木門)をくぐり上格子門跡、その上にある展望レストラン付近が七間櫓跡で石垣跡が残っています。上格子門跡から先の細長い平地が馬場跡、橋の下が堀切跡です。
ここから階段を登り二の丸門跡をくぐり、また階段を登った先が二の丸跡で気象台の施設が建っています。西側を下に降りていくと軍用井戸(金銘水)があります。
ここから見上げると復興天守が近くで見られ、緩やかな坂を登ると天守に着きます。入場料は200円です。
東側のトイレ奥に資料館があり、資料館降口の南側に天守台石垣跡が見られます。
帰りはめい想の小径を降りました。


岐阜城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

建仁元年 (1201) 鎌倉幕府政所執事二階堂行政が築き、女婿藤原朝光、子伊賀次郎左衛門光宗、弟稲葉三郎左衛門光資、光資の孫三郎左衛門光房と続き、光資のころに稲葉山城と呼ばれるようになった。
正元元年 (1259) 二階堂行藤が在城する。
応永十九年 (1412) 土岐氏の守護代斎藤利永が修築して住むが、文安二年(1445)、加納城を築いて移る。以後、百年余り廃城となる。
天文八年 (1539) 斎藤利政(道三)が修築して居城とする。その後、道三は子義龍に家督を譲り鷺山城に隠居する。
弘治二年 (1556) 継嗣問題から道三と子義龍が争った長良川の戦いで道三が討死する。
永禄四年 (1561) 義龍が病死し、子竜興が継ぎ稲葉山城主となる。
永禄十年八月 (1567) 西美濃三人衆が織田信長に内応を発端に稲葉山城を攻められ、信長が城を占領して竜興を追放する。信長が稲葉山城に入り禅僧沢彦にはかり「周の文王が岐山より興って天下を平定した」故事をもとに井の口を岐阜と改める。
天正四年二月 (1576) 安土城を築き、子の信忠に岐阜城を譲り移る。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変で信長、信忠父子が自刃、その後の清洲会議で信長三男信孝が城主となが、柴田勝家と結び兄信雄、秀吉と争った末、同十一年(1583)四月、兄信雄の命で自刃する。岐阜城には池田信輝(信興)の長男元助が入る。
天正十二年四月 (1584) 長久手の戦いで信輝、元助が共に討死し、次男輝政が跡を継ぎ改築を行う。
天正十八年 (1590) 小田原の陣後、池田輝政が三河吉田へ移り、翌十九年(1591)、秀吉の養子小吉秀勝が城主となる。
文禄元年 (1592) 文禄の役で秀勝が朝鮮で病死し、織田信忠の子岐阜中納言秀信が城主となる。
慶長五年八月 (1600) 関ヶ原の役の前哨戦で池田輝政、福島正則、浅野幸長の猛攻に遭い信秀は開城し、降伏する。
慶長六年 (1601) 奥平信昌が加納に封ぜられ、本多忠勝によって天守閣などが加納城に移築され、岐阜城は廃城となる。
明治四十三年 (1910) 天守が再建されるも火災によって焼失する。
昭和三十一年 (1956) 天守が再び再建される。


≪ 写 真 ≫


長良橋から岐阜城を望む


北からの岐阜城


岐阜公園入口の門と織田信長騎馬像


岐阜公園入口から岐阜城を望む


織田信長居館跡発掘調査案内所


金華山ロープウェー乗り場


山内一豊と妻千代を讃える碑


織田信長居館跡入口の冠木門


巨石列


古い石垣跡


居館の石垣跡


居館の水路跡


百曲登山道入口


岩だらけの登山道


ロープウェー山頂駅


天下第一の門(冠木門)


上格子門跡


馬場跡


七間櫓跡下の石垣


二の丸門跡


二の丸からの登り階段


二の丸西側の軍用井戸(金銘水)


二の丸から見る復興天守


岐阜城資料館


天守台石垣跡

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR岐阜駅からバスで岐阜公園歴史博物館前下車、ロープウェー約3分。山頂駅から天守まで徒歩8分。登山道徒歩約1時間。
<車>
名神高速道路岐阜羽島ICで降りて県道46号を北上、竹鼻町大西交差点信号を斜め右折、県道151号を北東に進み、足近小学校西三叉路信号を斜め左折、北上して薮田交差点信号を直進、県道77号岐阜環状線を北上、鏡島精華1交差点信号を右折して東進、神田町5交差点信号を左折、国道256号を北上、本町3信号を右折、本町1信号を左折、しばらく進み道なりに大きく右折、岐阜公園前信号を左折、長良橋南交差点信号を右折すると岐阜公園で左側に立体の有料駐車場がある。他にも近くに有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

岐阜城


織田信長居館跡(岐阜公園)


紹介したお城の数 134城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

枝広館

2013-10-02 21:34:05 | 岐阜県
 枝広館

2013/9/21

岐阜県岐阜市のお城めぐり

 美濃国守護土岐氏の居館

≪ お城の概要 ≫

城名: 枝広館
よみ: エダヒロ
別称:
所在地: 岐阜県岐阜市長良
現状: 長良公園・長良高校・東長良中学校
築城年代: 十六世紀前葉
築城者: 土岐氏
形式: 居館
遺構:
規模: 標高14~19m
文化財:
訪城日: 2013/9/21


≪ 訪城記 ≫

黒野城から枝広館へ向かう。

黒野城跡公園を出て「KVK」の角を左折、県道91号を東進、折立稲場三叉路信号をほぼ直進、県道78号を東進し正木土居交差点信号を左折、県道77号岐阜環状線を東進、長良3信号を過ぎて道が右に大きく曲り、曲がり終えた長良東1交差点信号を右折してすぐ、道の南側に長良公園があり、公園の駐車場に車を駐車する。

長良公園と西側の長良高校、東長良中学校の敷地が美濃守護土岐氏の居館の推定地です。
以前に発掘調査が行われたようですが、遺構だけでなく説明板も建てられていません。


≪ 歴 史 ≫

美濃国守護土岐氏が福光館から枝広館へ移転し、大桑に守護所を移すまで居館とした。

≪ 写 真 ≫


長良公園入口


長良公園内の芝生広場


岐阜城天守閣から眺める枝広館(長良公園)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR岐阜駅からバスで長良公園前下車、徒歩すぐ。
<車>
名神高速道路岐阜羽島ICで降りて県道46号を北上、竹鼻町大西交差点信号を斜め右折、県道151号を北東に進み、足近小学校西三叉路信号を斜め左折、北上して薮田交差点信号を直進、県道77号岐阜環状線を北上、長良川に架かる鏡島大橋を渡りさらに北上、正木土居交差点信号を過ぎて道が右に大きく曲り、県道77号岐阜環状線を東進、長良3信号を過ぎて道が右に大きく曲り、曲がり終えた長良東1交差点信号を右折してすぐ、道の南側に長良公園があり、公園に無料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

枝広館(長良公園)


紹介したお城の数 133城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版