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伏見城

2013-07-08 05:08:42 | 京都府
 伏見城

2013/6/16

京都府京都市のお城めぐり

 豊臣秀吉が隠居城として築いたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 伏見城
よみ: フシミ
別称: 伏見桃山城・桃山城・指月城・木幡山城
所在地: 京都府京都市伏見区桃山町大蔵45
現状: 伏見桃山城運動公園・伏見北堀公園・明治天皇陵・昭憲皇太后陵
築城年代: 文禄元年(1592)
築城者: 豊臣秀吉
形式: 山城
遺構: 復興天守・外堀跡・移築大手門
規模: 1,000m×1,100m、標高100m、比高80m
文化財:
訪城日: 2010/11/2・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を左折、大手筋通を東進、阪神高速8号京都線の高架下を通り、京阪本線、近鉄京都線の高架下を通って御香宮神社のある御香宮前交差点信号を直進、JR奈良線桃山駅前の踏切を渡って次の信号を左折、住宅街を山手へ登っていく。約800mぐねぐね道を登った突き当りに伏見桃山城運動公園有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

2010年に来たときは公園が閉鎖されていて自由に出入りができたのですが、今回は運動公園として運営されているようで、野球場などの利用客で駐車場もほぼ一杯になっていました。
駐車場北側の立派な大手門をくぐったすぐに伏見城大天守、小天守が並んで復興されていて壮観です。しかし、中の見学は出来ないようで閉鎖されています。中も見てみたかった。
野球場を通り越して北へ向かうと伏見北堀公園があり、体育館の東側が堀底のように人工的に低くなっている場所が外堀跡で池があります。
現在、復興天守の建っている場所は本丸跡ではなく、本丸は明治天皇陵となっています。
駐車場を出て住宅街を抜け、桃山駅東側の信号を左折してすぐの分かれ道を右に、直進は宮内庁管轄なので柵がしてあり入れません。さらに進み次の分かれ道の直進側柵に手前の空き地に車を駐車して、そこから徒歩で東へ進むと明治天皇陵へ登る急な階段のある道を北へ、階段を途中休憩しながら登った先が明治天皇陵で本丸跡です。右が昭憲皇太后陵で名護屋丸だそうです。左の宮内庁施設側が二の丸跡だそうです。
御香宮前まで戻り、御香宮の表門が伏見城の大手門が移築されているので見に行きました。


≪ 歴 史 ≫

文禄元年八月 (1592) 豊臣秀吉の新たな隠居所として造営を指月の地に開始する。
文禄三年 (1594) 明の講和使節を引見するため本格的な築城工事が始まり、淀古城の天守と櫓が移築される。
文禄四年七月 (1595) 聚楽第を解体して伏見城に移築する。
慶長元年七月 (1596) 大地震によって指月新城が倒壊、新たに木幡山に伏見城を再建する。同十月には本丸が、翌二年五月には天守が完成している。
慶長三年八月 (1598) 豊臣秀吉が死去する。
慶長四年三月十三日 (1599) 徳川家康が伏見城に入城する。
慶長五年七月十九日 (1600) 関ヶ原合戦の前哨戦で鳥居元忠が留守を守る伏見城は西軍に攻撃され、八月一日に陥落し、すべて焼失した。
慶長六年 (1601) 徳川家康が伏見城の再建に取り掛かり、小堀政次を作事奉行、藤堂高虎を普請奉行に任命し、天下普請を行い、十二月に家康は伏見城に入っている。
慶長七年二月 (1602) 徳川家康が伏見城で将軍宣下を受ける。
慶長十年 (1605) 徳川秀忠が伏見城で将軍宣下を受ける。
元和九年七月 (1623) 徳川家光の将軍宣下を最後に廃城となり淀城に建造物を移す。


≪ 写 真 ≫


大手門


大手門脇の伏見城址碑


復興天守


大天守


小天守


大天守・小天守


外堀跡


大手門付近からの復興天守


本丸跡の明治天皇陵


御香宮神社の移築大手門


現地伏見桃山城運動公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR奈良線桃山駅から徒歩約20分。
<車>
名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を左折、大手筋通を東進、阪神高速8号京都線の高架下を通り、京阪本線、近鉄京都線の高架下を通って御香宮神社のある御香宮前交差点信号を直進、JR奈良線桃山駅前の踏切を渡って次の信号を左折、住宅街を山手へ登っていく。約800mぐねぐね道を登った突き当りに伏見桃山城運動公園有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

伏見城復興天守(伏見桃山城運動公園)


本丸跡(明治天皇陵)


紹介したお城の数 93城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社