会津若松城(鶴ヶ城)
2014/9/21
福島県会津若松市のお城めぐり
戊辰戦争で攻城戦の舞台となった会津松平氏の居城
日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 会津若松城(鶴ヶ城)
よみ: アイヅワカマツ
別称: 若松城・鶴ヶ城・黒川城・小高木(小田垣)城・東黒川館
所在地: 福島県会津若松市追手町1-1
現状: 鶴ヶ城公園
築城年代: 至徳元年(元中元、1384)
築城者: 蘆名若狭守直盛
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・北出丸・西出丸・帯郭・伏兵郭・復元天守閣・干飯櫓・南走長屋・走長屋・御三階櫓跡・月見櫓跡・茶壺櫓跡・西南隅櫓跡・表門(鉄門)・太鼓門跡・廊下橋門跡・廊下橋・弓門(西中門)跡・北出丸追手門跡・西門跡・西出丸追手門跡・南門跡・二の丸東門跡・南門跡・鐘撞堂・石垣・水堀・井戸
規模:
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2014/9/21
≪ 訪城記 ≫
ホテルから会津若松城(鶴ヶ城)へ向かう。
ホテルを出て国道118号を南下、山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場に車を駐車する。
西出丸を南門(内讃岐門)跡から出て西出丸の堀沿いに回る。早朝の静かな堀と石垣ががとても綺麗で西南角櫓跡、西北角櫓、西大手門跡の桝形虎口から西出丸に入り、梅坂を登って本丸西中門跡の桝形虎口、虎口の石垣上に鐘撞堂、太鼓門跡の桝形虎口から北出丸へ一旦出る。椿坂を通って北出丸へ、正面に武徳殿、西側に西門跡、東側に追手門跡の桝形虎口、追手門を出て東側に桜ヶ馬場跡、北出丸前の綺麗な堀と石垣、東北角櫓跡、西北角櫓跡、大手口正面に鶴ヶ城址碑がある。
もう一度、北出丸を通って本丸へ入り、天守閣を見ながら西側の帯郭から表門(鉄門)、その西側の上杉謙信公仮廟所跡、苔むした西南角櫓跡の石垣、表門を通って干飯櫓、土塁上の横矢掛、月見櫓跡、茶壺櫓跡、高石垣上から赤い廊下橋と廊下橋桝形虎口、土塁を降りて御三階櫓跡、珍しい赤い瓦を使った天守閣を見学する。入場料は410円。復興天守閣はとても立派で綺麗です。天守閣を堪能して走長屋石垣、廊下橋を渡ってテニスコートになっている二の丸、北側の伏兵郭、東門跡、南門跡を通って土塁と堀、三の丸南門から出て、広く綺麗な五軒丁濠を見ながら一周して西出丸に帰りました。
見るところが一杯でとても満足しました。
会津若松城(鶴ヶ城)の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
文治五年九月 (1189) 源頼朝の功臣佐原十郎左衛門尉が藤原泰衡討伐の功によって会津の地を恩賞として宛行われる。三代光盛の時、蘆名氏を名乗る。
康暦元年 (天授五、1379) 七代蘆名若狭守直盛が会津に下向する。
至徳元年 (元中元、1384) 会津郡門田荘の黒川の丘陵に築城して東黒川館と称する。
天文七年 (1538) 東黒川館が焼失する。
天文十二年 (1543) 修築によって規模を大きくして黒川城または小高木(小田垣)城と呼ばれるようになる。
天正十七年 (1589) 二十代蘆名義広は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ会津を追われる。
天正十八年 (1590) 豊臣秀吉は伊達政宗から巻き上げた会津四郡を蒲生氏郷に与え、奥州の押えとして在城させる。
文禄元年 (1592) 蒲生氏郷が家臣曾根内匠に命じて黒川城を大改修する。城名も鶴ヶ城と改める。
文禄四年 (1595) 蒲生氏郷が京都で死亡し、嗣子秀行が跡を継ぐ。しかし、幼少であったため要衝会津を守るには不適当とされ、慶長三年(1598)、宇都宮に移され、代わって越後の上杉景勝が入る。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で西軍に味方した上杉景勝は会津を追われ、米沢に移る。代わって蒲生秀行が再び入城する。
寛永四年一月八日 (1627) 秀行の跡を継いだ子忠郷が痘瘡で死去し、嗣子がなかったため蒲生家は断絶する。代わって加藤嘉明が伊予松山から入城する。
寛永二十年 (1643) 二代明成の時、封土を返上して没落、代わって会津松平家の藩祖保科正之(二代将軍徳川秀忠の庶子)が出羽山形から若松城に入る。二代正経を経て三代正容の時に将軍の命で松平と改姓する。以後、容貞、容頌、容住、容衆、容敬と続き、幕末の九代容保で明治維新を迎える。
明治元年 (1868) 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の攻撃に一か月籠城の末に開城する。鶴ヶ城天守閣は大砲による攻撃でダメージが大きく、戦の後、明治七年(1874)、取り壊される。
昭和四十年 (1965) 天守閣が再建される。
≪ 写 真 ≫
会津若松城(鶴ヶ城)
鶴ヶ城天守閣と南走長屋、表門
鶴ヶ城天守閣
表門(鉄門)
横矢掛
月見櫓跡
茶壺櫓跡
廊下橋
廊下橋桝形虎口
御三階櫓跡
干飯櫓
走長屋
武者走り
天守閣からの太鼓櫓門跡
天守閣からの干飯櫓、表門
本丸東面高石垣
表門からの天守閣
上杉謙信公仮廟所跡
西南角櫓跡
北出丸の堀と石垣
鶴ヶ城址碑
桜ヶ馬場跡
北出丸東門桝形虎口
北出丸西門跡
鐘撞堂
西出丸西側の堀と石垣
西出丸南側の堀と石垣
高石垣と堀
現地鶴ヶ城案内図(リンク付サムネイル)
現地鶴ヶ城山本八重ゆかりの場所案内(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR磐越西線会津若松駅からバスで約15分、鶴ヶ城北口バス停下車すぐ。
<車>
磐越道会津若松ICを降りて国道121号を南下、観音前三叉路信号を左折、国道49号越後街道を東進、JR磐越西線を越えた北柳原交差点信号を右折、国道118号を南下、会津若松駅前を通り、約1.9㎞南下した山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場を利用すると良い。付近に有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
会津若松城(鶴ヶ城公園)
紹介したお城の数 295城
2014/9/21
福島県会津若松市のお城めぐり
戊辰戦争で攻城戦の舞台となった会津松平氏の居城
日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 会津若松城(鶴ヶ城)
よみ: アイヅワカマツ
別称: 若松城・鶴ヶ城・黒川城・小高木(小田垣)城・東黒川館
所在地: 福島県会津若松市追手町1-1
現状: 鶴ヶ城公園
築城年代: 至徳元年(元中元、1384)
築城者: 蘆名若狭守直盛
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・北出丸・西出丸・帯郭・伏兵郭・復元天守閣・干飯櫓・南走長屋・走長屋・御三階櫓跡・月見櫓跡・茶壺櫓跡・西南隅櫓跡・表門(鉄門)・太鼓門跡・廊下橋門跡・廊下橋・弓門(西中門)跡・北出丸追手門跡・西門跡・西出丸追手門跡・南門跡・二の丸東門跡・南門跡・鐘撞堂・石垣・水堀・井戸
規模:
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2014/9/21
≪ 訪城記 ≫
ホテルから会津若松城(鶴ヶ城)へ向かう。
ホテルを出て国道118号を南下、山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場に車を駐車する。
西出丸を南門(内讃岐門)跡から出て西出丸の堀沿いに回る。早朝の静かな堀と石垣ががとても綺麗で西南角櫓跡、西北角櫓、西大手門跡の桝形虎口から西出丸に入り、梅坂を登って本丸西中門跡の桝形虎口、虎口の石垣上に鐘撞堂、太鼓門跡の桝形虎口から北出丸へ一旦出る。椿坂を通って北出丸へ、正面に武徳殿、西側に西門跡、東側に追手門跡の桝形虎口、追手門を出て東側に桜ヶ馬場跡、北出丸前の綺麗な堀と石垣、東北角櫓跡、西北角櫓跡、大手口正面に鶴ヶ城址碑がある。
もう一度、北出丸を通って本丸へ入り、天守閣を見ながら西側の帯郭から表門(鉄門)、その西側の上杉謙信公仮廟所跡、苔むした西南角櫓跡の石垣、表門を通って干飯櫓、土塁上の横矢掛、月見櫓跡、茶壺櫓跡、高石垣上から赤い廊下橋と廊下橋桝形虎口、土塁を降りて御三階櫓跡、珍しい赤い瓦を使った天守閣を見学する。入場料は410円。復興天守閣はとても立派で綺麗です。天守閣を堪能して走長屋石垣、廊下橋を渡ってテニスコートになっている二の丸、北側の伏兵郭、東門跡、南門跡を通って土塁と堀、三の丸南門から出て、広く綺麗な五軒丁濠を見ながら一周して西出丸に帰りました。
見るところが一杯でとても満足しました。
会津若松城(鶴ヶ城)の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
文治五年九月 (1189) 源頼朝の功臣佐原十郎左衛門尉が藤原泰衡討伐の功によって会津の地を恩賞として宛行われる。三代光盛の時、蘆名氏を名乗る。
康暦元年 (天授五、1379) 七代蘆名若狭守直盛が会津に下向する。
至徳元年 (元中元、1384) 会津郡門田荘の黒川の丘陵に築城して東黒川館と称する。
天文七年 (1538) 東黒川館が焼失する。
天文十二年 (1543) 修築によって規模を大きくして黒川城または小高木(小田垣)城と呼ばれるようになる。
天正十七年 (1589) 二十代蘆名義広は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ会津を追われる。
天正十八年 (1590) 豊臣秀吉は伊達政宗から巻き上げた会津四郡を蒲生氏郷に与え、奥州の押えとして在城させる。
文禄元年 (1592) 蒲生氏郷が家臣曾根内匠に命じて黒川城を大改修する。城名も鶴ヶ城と改める。
文禄四年 (1595) 蒲生氏郷が京都で死亡し、嗣子秀行が跡を継ぐ。しかし、幼少であったため要衝会津を守るには不適当とされ、慶長三年(1598)、宇都宮に移され、代わって越後の上杉景勝が入る。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で西軍に味方した上杉景勝は会津を追われ、米沢に移る。代わって蒲生秀行が再び入城する。
寛永四年一月八日 (1627) 秀行の跡を継いだ子忠郷が痘瘡で死去し、嗣子がなかったため蒲生家は断絶する。代わって加藤嘉明が伊予松山から入城する。
寛永二十年 (1643) 二代明成の時、封土を返上して没落、代わって会津松平家の藩祖保科正之(二代将軍徳川秀忠の庶子)が出羽山形から若松城に入る。二代正経を経て三代正容の時に将軍の命で松平と改姓する。以後、容貞、容頌、容住、容衆、容敬と続き、幕末の九代容保で明治維新を迎える。
明治元年 (1868) 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の攻撃に一か月籠城の末に開城する。鶴ヶ城天守閣は大砲による攻撃でダメージが大きく、戦の後、明治七年(1874)、取り壊される。
昭和四十年 (1965) 天守閣が再建される。
≪ 写 真 ≫
会津若松城(鶴ヶ城)
鶴ヶ城天守閣と南走長屋、表門
鶴ヶ城天守閣
表門(鉄門)
横矢掛
月見櫓跡
茶壺櫓跡
廊下橋
廊下橋桝形虎口
御三階櫓跡
干飯櫓
走長屋
武者走り
天守閣からの太鼓櫓門跡
天守閣からの干飯櫓、表門
本丸東面高石垣
表門からの天守閣
上杉謙信公仮廟所跡
西南角櫓跡
北出丸の堀と石垣
鶴ヶ城址碑
桜ヶ馬場跡
北出丸東門桝形虎口
北出丸西門跡
鐘撞堂
西出丸西側の堀と石垣
西出丸南側の堀と石垣
高石垣と堀
現地鶴ヶ城案内図(リンク付サムネイル)
現地鶴ヶ城山本八重ゆかりの場所案内(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR磐越西線会津若松駅からバスで約15分、鶴ヶ城北口バス停下車すぐ。
<車>
磐越道会津若松ICを降りて国道121号を南下、観音前三叉路信号を左折、国道49号越後街道を東進、JR磐越西線を越えた北柳原交差点信号を右折、国道118号を南下、会津若松駅前を通り、約1.9㎞南下した山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場を利用すると良い。付近に有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
会津若松城(鶴ヶ城公園)
紹介したお城の数 295城
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