筒井城
2013/3/23
奈良県大和郡山市のお城めぐり
織田信長に大和一国の支配を任された筒井氏の本城
≪ お城の概要 ≫
城名: 筒井城
よみ: ツツイ
別称:
所在地: 奈良県大和郡山市筒井町
現状: 畑・住宅街・菅田比売神社・八幡宮
築城年代: 永享元年(1429)
築城者: 筒井順覚
形式: 平城
遺構: 堀跡・井戸跡
規模: 570m×380m
文化財:
訪城日: 2013/3/23
≪ 訪城記 ≫
滋賀県の北から奈良県へ行くには、高速道路を通って行くルートと、一般道を通って行くルートを比較すると、所要時間がほぼ同じで高速道路の通行料金が余分に必要になり、無駄な出費だと思うので一般道を選択しました。
大津市まで湖岸道路を通り、瀬田唐橋を渡り、唐橋西詰信号を左折して、瀬田川沿いの国道422号を南下、鹿跳橋西詰を直進し県道3号を瀬田川沿いに進み、瀬田川に架かる曽束大橋を渡って右折して県道3号を進み、宇治川と合流する地点の宵待橋を渡ったところを左折、県道62号を南下し、郷之口下町三叉路信号を直進して国道307号を南下、木津川に架かる山城大橋の山城大橋東詰交差点信号を左折して国道24号を木津川沿いに南下する。道なりに国道24号を進み奈良県に入り、奈良バイパスを大きく右に曲がり、今度は平安京を右手に見ながら大きく左に曲がり、そのまま道なりに南下、横田町交差点信号を右折して約1.4km西進した筒井町交差点信号を右折、約150m北進した道路西側にある八幡宮の駐車場に駐車させてもらおうと思っていたが、駐車場がいっぱいだったので、もう少し北に行ったキリン堂の駐車場に車を止めさせてもらいました。
キリン堂から道路沿いに南へ少し行ったところで、路地を西へ入り、突き当りを右折、北上すると三叉路の真ん中に小さな社のがあり、そこを左折すると菅田比売神社がある。さらにこのまま西へ進むと変速三叉路を左折した住宅街と畑の間でたくさんの人が寄っているところがあり、なんだろうと近寄ると、なんと筒井城の発掘調査の見学会をしているではないか。
偶然にも見学会の日に筒井城を訪問、ちゃっかり資料をもらって井戸跡と2条の堀跡を見学させてもらった。堀跡には「かわらけ」がたくさん出土した状況も見させてもらった。
この場所が筒井城の本丸跡だそうです。
さらに少し南に行くと溜池と畑の境に西へ行く畑道があり、この道が住宅地に入る住宅角に筒井城址碑が建っています。
あと八幡宮の東奥に「筒井順慶公碑」が建てられていて、その横に由来の石碑もあります。
≪ 歴 史 ≫
永享元年 (1429) 大和国の豪族筒井氏の筒井順覚の代で筒井城が初めて文献に登場する。
永享六年 (1434) 越智氏に筒井城を攻められる。
文安元年 (1444) 越智氏に筒井城を攻められる。
文安四年 (1447) 古市氏に筒井城を攻められる。
文明九年 (1477) 応仁の乱が終り、筒井氏が没落し筒井城を自ら焼き払う。
文明十五年 (1483) 越智氏の家臣堤氏が筒井城に入る。
明応六年 (1497) 越智氏を破り、筒井氏が所領を回復する。
その後、赤沢朝経、柳本賢治、木沢長政らが大和へ侵入する。
筒井順昭の代に大和をほぼ平定するが天文十九年(1550)に亡くなり、跡を継いだ順慶は幼いため叔父の順政が後見人となる。
永禄二年 (1559) 松永久秀が大和へ侵入し、筒井城を奪われる。
永禄九年 (1566) 松永久秀から筒井城を奪い返すも永禄十一年(1568)の織田信長上洛時に松永久秀が信長の配下となり、ふたたび城を奪われる。
元亀二年 (1571) 辰市の戦いで松永勢に勝利し、ふたたび城を奪い返す。
天正四年 (1576) 順慶が織田信長より大和の支配を任される。
天正五年 (1577) 松永久秀が織田勢に攻められ、信貴山城で自害する。
天正八年 (1580) 信長の大和一国破城令により郡山城を残して全ての城を破却し、筒井城も破却される。
≪ 写 真 ≫
筒井城址碑
筒井城本丸発掘現場
発掘現場の堀跡
発掘現場の井戸跡
八幡宮
八幡宮にある筒井順慶公の碑
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
近鉄橿原線筒井駅より徒歩約5分。
<車>
西名阪道郡山ICを降りて国道24号奈良バイパスを北へ約600mの横田町交差点信号を左折、約1.4km西進した筒井町交差点信号を右折、約150m北進した道路西側にある八幡宮の駐車場が近い。
≪ 位置図 ≫
筒井城址碑
本丸跡発掘場所
八幡宮
紹介したお城の数 47城
2013/3/23
奈良県大和郡山市のお城めぐり
織田信長に大和一国の支配を任された筒井氏の本城
≪ お城の概要 ≫
城名: 筒井城
よみ: ツツイ
別称:
所在地: 奈良県大和郡山市筒井町
現状: 畑・住宅街・菅田比売神社・八幡宮
築城年代: 永享元年(1429)
築城者: 筒井順覚
形式: 平城
遺構: 堀跡・井戸跡
規模: 570m×380m
文化財:
訪城日: 2013/3/23
≪ 訪城記 ≫
滋賀県の北から奈良県へ行くには、高速道路を通って行くルートと、一般道を通って行くルートを比較すると、所要時間がほぼ同じで高速道路の通行料金が余分に必要になり、無駄な出費だと思うので一般道を選択しました。
大津市まで湖岸道路を通り、瀬田唐橋を渡り、唐橋西詰信号を左折して、瀬田川沿いの国道422号を南下、鹿跳橋西詰を直進し県道3号を瀬田川沿いに進み、瀬田川に架かる曽束大橋を渡って右折して県道3号を進み、宇治川と合流する地点の宵待橋を渡ったところを左折、県道62号を南下し、郷之口下町三叉路信号を直進して国道307号を南下、木津川に架かる山城大橋の山城大橋東詰交差点信号を左折して国道24号を木津川沿いに南下する。道なりに国道24号を進み奈良県に入り、奈良バイパスを大きく右に曲がり、今度は平安京を右手に見ながら大きく左に曲がり、そのまま道なりに南下、横田町交差点信号を右折して約1.4km西進した筒井町交差点信号を右折、約150m北進した道路西側にある八幡宮の駐車場に駐車させてもらおうと思っていたが、駐車場がいっぱいだったので、もう少し北に行ったキリン堂の駐車場に車を止めさせてもらいました。
キリン堂から道路沿いに南へ少し行ったところで、路地を西へ入り、突き当りを右折、北上すると三叉路の真ん中に小さな社のがあり、そこを左折すると菅田比売神社がある。さらにこのまま西へ進むと変速三叉路を左折した住宅街と畑の間でたくさんの人が寄っているところがあり、なんだろうと近寄ると、なんと筒井城の発掘調査の見学会をしているではないか。
偶然にも見学会の日に筒井城を訪問、ちゃっかり資料をもらって井戸跡と2条の堀跡を見学させてもらった。堀跡には「かわらけ」がたくさん出土した状況も見させてもらった。
この場所が筒井城の本丸跡だそうです。
さらに少し南に行くと溜池と畑の境に西へ行く畑道があり、この道が住宅地に入る住宅角に筒井城址碑が建っています。
あと八幡宮の東奥に「筒井順慶公碑」が建てられていて、その横に由来の石碑もあります。
≪ 歴 史 ≫
永享元年 (1429) 大和国の豪族筒井氏の筒井順覚の代で筒井城が初めて文献に登場する。
永享六年 (1434) 越智氏に筒井城を攻められる。
文安元年 (1444) 越智氏に筒井城を攻められる。
文安四年 (1447) 古市氏に筒井城を攻められる。
文明九年 (1477) 応仁の乱が終り、筒井氏が没落し筒井城を自ら焼き払う。
文明十五年 (1483) 越智氏の家臣堤氏が筒井城に入る。
明応六年 (1497) 越智氏を破り、筒井氏が所領を回復する。
その後、赤沢朝経、柳本賢治、木沢長政らが大和へ侵入する。
筒井順昭の代に大和をほぼ平定するが天文十九年(1550)に亡くなり、跡を継いだ順慶は幼いため叔父の順政が後見人となる。
永禄二年 (1559) 松永久秀が大和へ侵入し、筒井城を奪われる。
永禄九年 (1566) 松永久秀から筒井城を奪い返すも永禄十一年(1568)の織田信長上洛時に松永久秀が信長の配下となり、ふたたび城を奪われる。
元亀二年 (1571) 辰市の戦いで松永勢に勝利し、ふたたび城を奪い返す。
天正四年 (1576) 順慶が織田信長より大和の支配を任される。
天正五年 (1577) 松永久秀が織田勢に攻められ、信貴山城で自害する。
天正八年 (1580) 信長の大和一国破城令により郡山城を残して全ての城を破却し、筒井城も破却される。
≪ 写 真 ≫
筒井城址碑
筒井城本丸発掘現場
発掘現場の堀跡
発掘現場の井戸跡
八幡宮
八幡宮にある筒井順慶公の碑
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
近鉄橿原線筒井駅より徒歩約5分。
<車>
西名阪道郡山ICを降りて国道24号奈良バイパスを北へ約600mの横田町交差点信号を左折、約1.4km西進した筒井町交差点信号を右折、約150m北進した道路西側にある八幡宮の駐車場が近い。
≪ 位置図 ≫
筒井城址碑
本丸跡発掘場所
八幡宮
紹介したお城の数 47城
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