佐和山城
2013/4/13
滋賀県彦根市のお城めぐり
「三成に過ぎたるものと謳われた」石田三成の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 佐和山城
よみ: サワヤマ
別称: 佐保城
所在地: 滋賀県彦根市佐和山町・古沢町
現状: 山
築城年代: 建久年間(1190-99)
築城者: 佐保時綱
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・西の丸・太鼓丸・法華丸・石垣・土塁・堀切・井戸跡
規模: 1,100m×600m、標高232.9m、比高145m
文化財:
訪城日: 2010/5/1・2013/4/13
≪ 訪城記 ≫
彦根城から佐和山城へ向かう。
県立彦根総合運動場の駐車場を出て前の道を南東に走る。船町交差点信号を直進し、次の船町東交差点信号を左折、住宅街の細い道を約500m北上すると清凉寺または龍潭寺の案内がある角を右折、東海道本線の踏切を渡ったすぐを左折、清凉寺を過ぎ、次の龍潭寺前に無料駐車場がある。ここに車を駐車する。
駐車場には説明板がある。
龍潭寺南側に東山ハイキングコース入口があり、ここが佐和山城への登城口です。入るとすぐに道の左側に石田三成の像があります。
まっすぐ東へ歩いて行くと山門があり、山門をくぐり、さらに進むと大洞観音堂に突き当たる。この観音堂の右脇の墓地の中の道を進む。墓地を過ぎたあたりから山の中へ入り、かなり急な坂道を登ること20分程で龍潭寺越えの切通しの分かれ道に出る。案内板に従い右の尾根を登って行くと塩硝櫓跡に着く。櫓跡の入り口にはおおきな穴が開いている。さらに進むと三段の曲輪になった西の丸に着く。一番上の曲輪には説明板と土塁と堀切がある。ここから東へ降りていくと二の丸、三の丸へ行けるはずですが、途中でがけ崩れがあり道が寸断されていて先に進めないので探訪を断念しました。
さらに10分程登ると本丸跡に着きます。本丸跡には佐和山城址碑と説明板があり、かなり広い削平地となっていて、ここから彦根城が良く見えます。
本丸から東へ降りていくと、本丸北面に隅石垣が2段残っています。反対側の南面には千貫井戸があります。
さらに降りていくと太鼓丸があり、先端に土塁と削平地が見られます。太鼓丸入口には堀切があり、分かれ道をさらに降りると法華丸でここの先端にも土塁と削平地を見られます。
龍潭寺の駐車場へ帰り、ここから船町東交差点信号を左折して、古沢町三叉路信号を左折、国道8号北へ、佐和山トンネルを抜けて「つるやゴルフ」前の交差点を左に入ったすぐの川沿いに大手口跡の説明板があり、川を越えたところに大手土居の跡が残っています。ここが大手の登城道だったようですが、現在は道は残ってません。さらに東海道本線を越えたあたりに内堀跡があり、井戸跡の前に説明板があります。
≪ 歴 史 ≫
建久年間 (1190-99) 佐々木氏の佐保六郎時綱が佐和山の麓に屋敷を構える。
大永年間 (1521-28) 六角佐々木氏の領有となり、小川左右大輔が城主となる。
その後、京極氏の領有となり、台頭した浅井氏が取って代り、浅井氏の部将磯野員昌が城主となる。
元亀二年 (1571) 織田信長と戦い、籠城したが開城している。
本能寺の変で信長が斃れると豊臣秀吉の領有となり、堀秀政、堀尾吉晴を経て、天正十八年(1590)、石田三成が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いに敗れた石田方は、佐和山城に三成の父正継、兄正澄が籠城するが、落城する。
その後、徳川四天王の一人、井伊直政が入城したが慶長七年(1602)に死去し、慶長八年(1603)、子の直勝が彦根城を築城した際、佐和山城は破城を受け、石垣や建物が彦根城へ運ばれました。
≪ 写 真 ≫
佐和山城全景
龍潭寺
佐和山城登城口(東山ハイキングコース入口)
登城口にある石田三成像
山門
大洞観音堂
龍潭寺越えの切通しの分かれ道
塩硝櫓跡
西の丸
西の丸の堀切
本丸跡
本丸にある佐和山城址碑
佐和山城本丸から見た彦根城
千貫井戸
隅石垣跡
太鼓丸入口の堀切
太鼓丸
法華丸
法華丸の土塁跡
大手口の大手土居
現地佐和山城遺構概要図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR東海道本線彦根駅より徒歩約15分。山頂まで30分。
<車>
名神高速道路彦根ICを降りて国道306号を北西に進み、外町交差点信号を右折、国道8号を北上、古沢町三叉路信号を左折、東海道本線、近江鉄道の上を通って船町東交差点信号を右折、住宅街の細い道を約500m北上すると清凉寺または龍潭寺の案内がある角を右折、東海道本線の踏切を渡ったすぐを左折、清凉寺を過ぎ、次の龍潭寺前に無料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
佐和山城
登城口(東山ハイキングコース入口)
大手口の大手土居
紹介したお城の数 56城
2013/4/13
滋賀県彦根市のお城めぐり
「三成に過ぎたるものと謳われた」石田三成の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 佐和山城
よみ: サワヤマ
別称: 佐保城
所在地: 滋賀県彦根市佐和山町・古沢町
現状: 山
築城年代: 建久年間(1190-99)
築城者: 佐保時綱
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・西の丸・太鼓丸・法華丸・石垣・土塁・堀切・井戸跡
規模: 1,100m×600m、標高232.9m、比高145m
文化財:
訪城日: 2010/5/1・2013/4/13
≪ 訪城記 ≫
彦根城から佐和山城へ向かう。
県立彦根総合運動場の駐車場を出て前の道を南東に走る。船町交差点信号を直進し、次の船町東交差点信号を左折、住宅街の細い道を約500m北上すると清凉寺または龍潭寺の案内がある角を右折、東海道本線の踏切を渡ったすぐを左折、清凉寺を過ぎ、次の龍潭寺前に無料駐車場がある。ここに車を駐車する。
駐車場には説明板がある。
龍潭寺南側に東山ハイキングコース入口があり、ここが佐和山城への登城口です。入るとすぐに道の左側に石田三成の像があります。
まっすぐ東へ歩いて行くと山門があり、山門をくぐり、さらに進むと大洞観音堂に突き当たる。この観音堂の右脇の墓地の中の道を進む。墓地を過ぎたあたりから山の中へ入り、かなり急な坂道を登ること20分程で龍潭寺越えの切通しの分かれ道に出る。案内板に従い右の尾根を登って行くと塩硝櫓跡に着く。櫓跡の入り口にはおおきな穴が開いている。さらに進むと三段の曲輪になった西の丸に着く。一番上の曲輪には説明板と土塁と堀切がある。ここから東へ降りていくと二の丸、三の丸へ行けるはずですが、途中でがけ崩れがあり道が寸断されていて先に進めないので探訪を断念しました。
さらに10分程登ると本丸跡に着きます。本丸跡には佐和山城址碑と説明板があり、かなり広い削平地となっていて、ここから彦根城が良く見えます。
本丸から東へ降りていくと、本丸北面に隅石垣が2段残っています。反対側の南面には千貫井戸があります。
さらに降りていくと太鼓丸があり、先端に土塁と削平地が見られます。太鼓丸入口には堀切があり、分かれ道をさらに降りると法華丸でここの先端にも土塁と削平地を見られます。
龍潭寺の駐車場へ帰り、ここから船町東交差点信号を左折して、古沢町三叉路信号を左折、国道8号北へ、佐和山トンネルを抜けて「つるやゴルフ」前の交差点を左に入ったすぐの川沿いに大手口跡の説明板があり、川を越えたところに大手土居の跡が残っています。ここが大手の登城道だったようですが、現在は道は残ってません。さらに東海道本線を越えたあたりに内堀跡があり、井戸跡の前に説明板があります。
≪ 歴 史 ≫
建久年間 (1190-99) 佐々木氏の佐保六郎時綱が佐和山の麓に屋敷を構える。
大永年間 (1521-28) 六角佐々木氏の領有となり、小川左右大輔が城主となる。
その後、京極氏の領有となり、台頭した浅井氏が取って代り、浅井氏の部将磯野員昌が城主となる。
元亀二年 (1571) 織田信長と戦い、籠城したが開城している。
本能寺の変で信長が斃れると豊臣秀吉の領有となり、堀秀政、堀尾吉晴を経て、天正十八年(1590)、石田三成が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いに敗れた石田方は、佐和山城に三成の父正継、兄正澄が籠城するが、落城する。
その後、徳川四天王の一人、井伊直政が入城したが慶長七年(1602)に死去し、慶長八年(1603)、子の直勝が彦根城を築城した際、佐和山城は破城を受け、石垣や建物が彦根城へ運ばれました。
≪ 写 真 ≫
佐和山城全景
龍潭寺
佐和山城登城口(東山ハイキングコース入口)
登城口にある石田三成像
山門
大洞観音堂
龍潭寺越えの切通しの分かれ道
塩硝櫓跡
西の丸
西の丸の堀切
本丸跡
本丸にある佐和山城址碑
佐和山城本丸から見た彦根城
千貫井戸
隅石垣跡
太鼓丸入口の堀切
太鼓丸
法華丸
法華丸の土塁跡
大手口の大手土居
現地佐和山城遺構概要図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR東海道本線彦根駅より徒歩約15分。山頂まで30分。
<車>
名神高速道路彦根ICを降りて国道306号を北西に進み、外町交差点信号を右折、国道8号を北上、古沢町三叉路信号を左折、東海道本線、近江鉄道の上を通って船町東交差点信号を右折、住宅街の細い道を約500m北上すると清凉寺または龍潭寺の案内がある角を右折、東海道本線の踏切を渡ったすぐを左折、清凉寺を過ぎ、次の龍潭寺前に無料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
佐和山城
登城口(東山ハイキングコース入口)
大手口の大手土居
紹介したお城の数 56城
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中井 均 | |
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