お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

小川城

2014-11-17 05:56:39 | 滋賀県
 小川城

2014/10/1

滋賀県高島市のお城めぐり

 佐々木氏(高島氏)の家臣小川主膳正秀の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 小川城
よみ: オガワ
別称:
所在地: 滋賀県高島市安曇川町上小川
現状: 畑・田
築城年代:
築城者:
形式: 平城
遺構: 土塁
規模:
文化財:
訪城日: 2014/10/1


≪ 訪城記 ≫

大溝城から小川城に向かう。

打下城登城口の日吉神社まで戻り、JR近江高島駅前を通り近江高島駅口三叉路信号を左折、県道300号を北上、勝野交差点信号を右折、東進して国道勝野交差点信号を左折、国道161号側道を通って国道161号高島バイパスを北上、道の駅藤樹の里あどがわのある藤樹神社口信号を右折Uターンして約300m南下したところで側道に入り、約150m南下した交差点東側に小川城跡の小さな案内板北側畑地にL字型の土塁跡が残る。


≪ 歴 史 ≫

元亀年間 (1570-73) 織田信長の高島征服時に落城する。

≪ 写 真 ≫


小川城跡


土塁跡


小川城跡案内板

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR湖西線安曇川駅から徒歩約25分。
<車>
名神高速大津ICを降りて大津IC口信号を左折、坂を北へ降りていき本宮二丁目南信号を左折、国道1号東海道とJR東海道本線高架下をくぐり、北上して琵琶湖に向かい、京阪電気鉄道石山坂本線踏切を渡ってすぐの打出浜交差点信号を左折、県道18号を西進、大津港口から国道161号を琵琶湖岸沿いに北上、琵琶湖大橋交差点信号を左折、JR湖西線高架下をくぐり西進、真野IC口信号を右折して国道161号湖西道路へ側道を入り北上、道の駅藤樹の里あどがわのある藤樹神社口信号を右折Uターンして約300m南下したところで側道に入り、約150m南下した交差点東側に小川城跡の小さな案内板がある。


≪ 位置図 ≫

小川城


紹介したお城の数 298城



シンポジウム織田信長と謎の清水山城―近江・高嶋郡をめぐる攻防
新旭町教育委員会
サンライズ出版




近江の城―城が語る湖国の戦国史 (淡海文庫 (9))
中井 均
サンライズ印刷出版部

大溝城

2014-11-16 06:50:59 | 滋賀県
 大溝城

2014/10/1

滋賀県高島市のお城めぐり

 織田信長の甥織田信澄が築いた水城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大溝城
よみ: オオミゾ
別称: 高島城
所在地: 滋賀県高島市勝野1667-14
現状: 大溝城跡
築城年代: 天正六年(1578)
築城者: 織田信澄
形式: 平城
遺構: 本丸天守台跡・石垣
規模: 600m×1,000m、標高86m
文化財: 市指定文化財
訪城日: 2009/12/25・2014/10/1


≪ 訪城記 ≫

打下城から大溝城へ向かう。

打下城登城口の日吉神社から徒歩で大溝城跡へ向かう。緩やかな坂道を降り、城山台自治会館横を左折、西進してJR湖西線高架下をくぐり、近江高島駅前を過ぎて近江高島駅口三叉路信号を斜め右折して約50m進んだ介護老人保健施設陽光の里東端に三の丸碑と大溝城案内板があるところを右に入り、施設沿いの道を南下すると左側の雑草池のような奥に石垣と竹林が見える。高島市民病院の駐車場柵沿いに進むと天守台跡正面に出る。徒歩約15分。
天守台跡石垣前に説明板と大溝城趾碑があり、天守台跡の石垣が残るのみです。
近江高島駅の駐車場前にも説明板がある。


大溝城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正六年 (1578) 織田信長の甥(信行の子)織田信澄が湖上交通の要港大溝港に大溝城を築く。縄張は明智光秀と伝わる。
天正十年六月二日 (1582) 明智光秀が謀反を起こし、本能寺の変で織田信長が討たれ、明智光秀の娘を妻としている織田信澄にも嫌疑がかかり、信澄は織田信長三男信孝と丹羽長秀に攻められ、大坂城二の丸千貫櫓で自害する。その後、大溝城主は丹羽長秀、長秀代官植田重安、加藤光泰、生駒親正、京極高次、織田三四郎、吉田修理と代わる。
元和五年 (1619) 伊勢上野から分部光信入部して旧大溝城に陣屋を構え大溝藩となり、以後、十三代続き明治維新を迎える。


≪ 写 真 ≫


大溝城天守台跡


天守台階段付近


大溝城趾碑


天守台南面石垣


天守台跡


天守台北側


天守台北西石垣


三の丸碑と案内板入口


現地説明板図面(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR湖西線近江高島駅から徒歩約10分。
<車>
名神高速大津ICを降りて大津IC口信号を左折、坂を北へ降りていき本宮二丁目南信号を左折、国道1号東海道とJR東海道本線高架下をくぐり、北上して琵琶湖に向かい、京阪電気鉄道石山坂本線踏切を渡ってすぐの打出浜交差点信号を左折、県道18号を西進、大津港口から国道161号を琵琶湖岸沿いに北上、琵琶湖大橋交差点信号を左折、JR湖西線高架下をくぐり西進、真野IC口信号を右折して国道161号湖西道路へ側道を入り北上、白髭神社を通り過ぎて約1.5㎞で近江高島駅方面へ行く三叉路分れ道を斜め左に入り、乙女が池沿いに北上、道が左に曲がった先の近江高島駅口三叉路信号手前の介護老人保健施設陽光の里東端に三の丸碑と大溝城案内板があるところを右に入り、施設沿いの道を南下すると左側の雑草池のような奥に石垣と竹林が見えるところが大溝城天守台跡です。駐車場は近江高島駅の駐車場を利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

大溝城


紹介したお城の数 297城



近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版




近江城郭探訪―合戦の舞台を歩く
滋賀県教育委員会
滋賀県文化財保護協会

打下城

2014-11-15 05:58:16 | 滋賀県
 打下城

2014/10/1

滋賀県高島市のお城めぐり

 織田信長の甥織田信澄が拠点を大溝城に移す前の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 打下城
よみ: ウチオロシ
別称: 大溝古城・城山
所在地: 滋賀県高島市勝野
現状: 山
築城年代: 永正二年(1505)
築城者: 高島玄蕃允
形式: 山城
遺構: 中主郭・北主郭・小曲輪群・二重堀・畝堀・土塁・虎口・土橋・石垣跡
規模: 標高379m、比高255m
文化財:
訪城日: 2011/9/8・2014/10/1


≪ 訪城記 ≫

自宅から打下城へ向かう。

自宅を出て国道8号を北上、木之本三叉路信号を左折、北陸道木之本IC前を通り、賤ヶ岳トンネル、藤ヶ崎トンネルを通り、塩津三叉路信号を左折、国道303号を西進、岩熊トンネル、奥琵琶湖トンネルを通り、突き当りの野口三叉路信号を左折、マキノ追坂峠を下り、国道161号を西進、途中、大きく左に曲がり南下、道の駅藤樹の里あどがわを通り過ぎ、勝野で側道を降りて、国道勝野交差点信号を右折、高架下をくぐり県道296号を西進、勝野交差点信号を左折、県道300号を南下、近江高島駅口三叉路信号を右折、JR湖西線近江高島駅前を通り、湖西線高架下をくぐり、突き当りの城山台自治会館横交差点を右折、約130m北上したところを左折、約30m進んで左側に日吉神社があり、神社前に駐車スペースがある。ここに車を駐車させてもらう。

日吉神社南側の谷川を渡ってすぐを谷川に沿って進む。入口が笹の群生に隠れて判りにくいので注意。踏付け道があるので笹をかき分け進むと登城道に出る。
獣除け柵の扉を開けて、谷川沿いに登っていくと砂防ダムのある地点からつづら折りの急勾配道になり、途中ところどころに小さな案内板があり助かる。登り詰めたところに打下城と下の鼻打方向の分かれ道看板がある。
下の鼻打方向に行くと馬の足、下の鼻打へ行ける。
打下城方向へ進むと二重堀跡、畝堀跡のある中主郭下に出る。ロープを使って登る急な坂道を登り詰めると中主郭の土塁上に出る。ここが主郭で土塁に囲まれた円形の削平地で東側虎口前に説明板がある。虎口の出口左側に石垣跡が少し残っている。
登城口から中主郭まで約1時間30分もかかってしまった。
尾根伝いに東側へ降りていくと小曲輪群が見られ、約15分で北主郭に着く。
入口に土橋と虎口があり、ここも土塁に囲まれた円形の削平地で、馬蹄状になっている。東側虎口に石垣跡が残り、畝堀、小曲輪群がある。


≪ 歴 史 ≫

永正二年 (1505) 高島玄蕃允が長宝寺の廃寺後に打下城を築く。
元亀年間 (1570-73) 打下城城主は林与次左衛門員清であったが、織田信長の高島攻略により支配される。この林員清が打下城を築城したとも言われている。
天正元年 (1573) 磯野員昌が城主となる。員昌出奔後は、織田信長の弟信行の子信澄が城主となるが、天正六年(1578)、湖上交通の要港大溝港に大溝城を築き移る。


≪ 写 真 ≫


打下城中主郭虎口


中主郭虎口石垣跡


中主郭前の二重堀


縦状畝堀と土塁


中主郭土塁


中主郭


小曲輪群


北主郭西虎口と土橋


北主郭西虎口と土塁


北主郭土塁


北主郭東側の馬蹄状土塁


北主郭東虎口の石垣跡


分れ道


登城道


登城口付近


現地説明板図面(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR湖西線近江高島駅から徒歩約10分で登城口の日吉神社に着く。ここから主郭まで約1時間。
<車>
名神高速大津ICを降りて大津IC口信号を左折、坂を北へ降りていき本宮二丁目南信号を左折、国道1号東海道とJR東海道本線高架下をくぐり、北上して琵琶湖に向かい、京阪電気鉄道石山坂本線踏切を渡ってすぐの打出浜交差点信号を左折、県道18号を西進、大津港口から国道161号を琵琶湖岸沿いに北上、琵琶湖大橋交差点信号を左折、JR湖西線高架下をくぐり西進、真野IC口信号を右折して国道161号湖西道路へ側道を入り北上、白髭神社を通り過ぎて約1.5㎞で近江高島駅方面へ行く三叉路分れ道を斜め左に入り、乙女が池沿いに北上、大溝城跡を過ぎ、道が左に曲がったところの近江高島駅口三叉路信号を左折、JR湖西線近江高島駅前を通り、湖西線高架下をくぐり、突き当りの城山台自治会館横交差点を右折、約130m北上したところを左折、約30m進んで左側に日吉神社があり、神社前に駐車スペースがある。ここから主郭まで徒歩約1時間。


≪ 位置図 ≫

打下城


登城口の日吉神社


紹介したお城の数 296城



近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版




近江城郭探訪―合戦の舞台を歩く
滋賀県教育委員会
滋賀県文化財保護協会

会津若松城(鶴ヶ城)

2014-11-08 08:21:19 | 宮城県・福島県
 会津若松城(鶴ヶ城)

2014/9/21

福島県会津若松市のお城めぐり

 戊辰戦争で攻城戦の舞台となった会津松平氏の居城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 会津若松城(鶴ヶ城)
よみ: アイヅワカマツ
別称: 若松城・鶴ヶ城・黒川城・小高木(小田垣)城・東黒川館
所在地: 福島県会津若松市追手町1-1
現状: 鶴ヶ城公園
築城年代: 至徳元年(元中元、1384)
築城者: 蘆名若狭守直盛
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・北出丸・西出丸・帯郭・伏兵郭・復元天守閣・干飯櫓・南走長屋・走長屋・御三階櫓跡・月見櫓跡・茶壺櫓跡・西南隅櫓跡・表門(鉄門)・太鼓門跡・廊下橋門跡・廊下橋・弓門(西中門)跡・北出丸追手門跡・西門跡・西出丸追手門跡・南門跡・二の丸東門跡・南門跡・鐘撞堂・石垣・水堀・井戸
規模:
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2014/9/21


≪ 訪城記 ≫

ホテルから会津若松城(鶴ヶ城)へ向かう。

ホテルを出て国道118号を南下、山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場に車を駐車する。

西出丸を南門(内讃岐門)跡から出て西出丸の堀沿いに回る。早朝の静かな堀と石垣ががとても綺麗で西南角櫓跡、西北角櫓、西大手門跡の桝形虎口から西出丸に入り、梅坂を登って本丸西中門跡の桝形虎口、虎口の石垣上に鐘撞堂、太鼓門跡の桝形虎口から北出丸へ一旦出る。椿坂を通って北出丸へ、正面に武徳殿、西側に西門跡、東側に追手門跡の桝形虎口、追手門を出て東側に桜ヶ馬場跡、北出丸前の綺麗な堀と石垣、東北角櫓跡、西北角櫓跡、大手口正面に鶴ヶ城址碑がある。
もう一度、北出丸を通って本丸へ入り、天守閣を見ながら西側の帯郭から表門(鉄門)、その西側の上杉謙信公仮廟所跡、苔むした西南角櫓跡の石垣、表門を通って干飯櫓、土塁上の横矢掛、月見櫓跡、茶壺櫓跡、高石垣上から赤い廊下橋と廊下橋桝形虎口、土塁を降りて御三階櫓跡、珍しい赤い瓦を使った天守閣を見学する。入場料は410円。復興天守閣はとても立派で綺麗です。天守閣を堪能して走長屋石垣、廊下橋を渡ってテニスコートになっている二の丸、北側の伏兵郭、東門跡、南門跡を通って土塁と堀、三の丸南門から出て、広く綺麗な五軒丁濠を見ながら一周して西出丸に帰りました。
見るところが一杯でとても満足しました。


会津若松城(鶴ヶ城)の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

文治五年九月 (1189) 源頼朝の功臣佐原十郎左衛門尉が藤原泰衡討伐の功によって会津の地を恩賞として宛行われる。三代光盛の時、蘆名氏を名乗る。
康暦元年 (天授五、1379) 七代蘆名若狭守直盛が会津に下向する。
至徳元年 (元中元、1384) 会津郡門田荘の黒川の丘陵に築城して東黒川館と称する。
天文七年 (1538) 東黒川館が焼失する。
天文十二年 (1543) 修築によって規模を大きくして黒川城または小高木(小田垣)城と呼ばれるようになる。
天正十七年 (1589) 二十代蘆名義広は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ会津を追われる。
天正十八年 (1590) 豊臣秀吉は伊達政宗から巻き上げた会津四郡を蒲生氏郷に与え、奥州の押えとして在城させる。
文禄元年 (1592) 蒲生氏郷が家臣曾根内匠に命じて黒川城を大改修する。城名も鶴ヶ城と改める。
文禄四年 (1595) 蒲生氏郷が京都で死亡し、嗣子秀行が跡を継ぐ。しかし、幼少であったため要衝会津を守るには不適当とされ、慶長三年(1598)、宇都宮に移され、代わって越後の上杉景勝が入る。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で西軍に味方した上杉景勝は会津を追われ、米沢に移る。代わって蒲生秀行が再び入城する。
寛永四年一月八日 (1627) 秀行の跡を継いだ子忠郷が痘瘡で死去し、嗣子がなかったため蒲生家は断絶する。代わって加藤嘉明が伊予松山から入城する。
寛永二十年 (1643) 二代明成の時、封土を返上して没落、代わって会津松平家の藩祖保科正之(二代将軍徳川秀忠の庶子)が出羽山形から若松城に入る。二代正経を経て三代正容の時に将軍の命で松平と改姓する。以後、容貞、容頌、容住、容衆、容敬と続き、幕末の九代容保で明治維新を迎える。
明治元年 (1868) 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の攻撃に一か月籠城の末に開城する。鶴ヶ城天守閣は大砲による攻撃でダメージが大きく、戦の後、明治七年(1874)、取り壊される。
昭和四十年 (1965) 天守閣が再建される。


≪ 写 真 ≫


会津若松城(鶴ヶ城)


鶴ヶ城天守閣と南走長屋、表門


鶴ヶ城天守閣


表門(鉄門)


横矢掛


月見櫓跡


茶壺櫓跡


廊下橋


廊下橋桝形虎口


御三階櫓跡


干飯櫓


走長屋


武者走り


天守閣からの太鼓櫓門跡


天守閣からの干飯櫓、表門


本丸東面高石垣


表門からの天守閣


上杉謙信公仮廟所跡


西南角櫓跡


北出丸の堀と石垣


鶴ヶ城址碑


桜ヶ馬場跡


北出丸東門桝形虎口


北出丸西門跡


鐘撞堂


西出丸西側の堀と石垣


西出丸南側の堀と石垣


高石垣と堀


現地鶴ヶ城案内図(リンク付サムネイル)


現地鶴ヶ城山本八重ゆかりの場所案内(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR磐越西線会津若松駅からバスで約15分、鶴ヶ城北口バス停下車すぐ。
<車>
磐越道会津若松ICを降りて国道121号を南下、観音前三叉路信号を左折、国道49号越後街道を東進、JR磐越西線を越えた北柳原交差点信号を右折、国道118号を南下、会津若松駅前を通り、約1.9㎞南下した山鹿町交差点信号を左折、福島地方裁判所前を過ぎた北出丸交差点信号を右折、すぐに突き当りの北出丸堀に沿って左折、堀沿いに右廻りして北出丸を通って西出丸へ入る三叉路を左折、西大手門跡から入り西出丸有料駐車場を利用すると良い。付近に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

会津若松城(鶴ヶ城公園)


紹介したお城の数 295城



もっと知りたい 日本100名城 近世の城編 (歴史群像シリーズ)
クリエーター情報なし
学研パブリッシング




もっと知りたい 日本100名城 古代・中世の城編 (歴史群像シリーズ)
クリエーター情報なし
学研パブリッシング




図説 日本100名城の歩き方 (ふくろうの本/日本の文化)
千田 嘉博,小和田 哲男
河出書房新社

岩崎城

2014-11-05 06:01:31 | 北海道・青森県・岩手県
 岩崎城

2014/9/20

岩手県北上市のお城めぐり

 和賀一揆で和賀氏の旧臣が最後に立て籠もったお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岩崎城
よみ: イワサキ
別称: 岩崎楯
所在地: 岩手県北上市和賀町岩崎18地割
現状: 岩崎城運動公園
築城年代: 南北朝時代
築城者:
形式: 平山城
遺構: 本丸・三の丸・土塁・空堀・桝形虎口
規模: 600m×300m、比高30m
文化財:
訪城日: 2014/9/20


≪ 訪城記 ≫

二子城から岩崎城へ向かう。

二子城を出て北上工業団地を通り抜け、北上工業団地口交差点信号を左折、国道4号奥州街道を南下、和賀川に架かるわが大橋を渡り、都鳥交差点信号を右折、県道225号を西進、東北道高架下をくぐり、夏油川を渡り、約500m西進した道の左手に岩崎城の説明板のある三叉路を左折、約100m南下した道が大きく右に曲がる地点を左側に入った先が岩崎城運動公園で、そのまま登って行った先が岩崎城跡です。空堀に架かる橋で通行止めになっていて、ここで道に車を駐車する。

空堀に架かる橋の前に説明板があり、空堀はとても深いです。
橋を渡った先が本丸跡で、公民館となっている模擬天守閣があると聞いてきたのですが、現在は岩崎城址舞楽殿という黒い平屋の建物が建っています。本丸の周りには土塁跡が残るのみです。
橋の西側が三の丸で、ここも周りに土塁跡、西側の入口が大手門跡で桝形虎口になっています。


岩崎城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

暦応四年(1341)に「岩崎楯」で合戦があり、鬼柳清義が討死しているが、岩崎城の沿革は不明です。享禄四年(1531)の和賀氏と小田嶋氏の戦いに岩崎氏が出陣している。
天正十八年 (1590) 豊臣秀吉の奥州仕置によって平定され、二十年には岩崎城が破却されている。
慶長五年 (1600) 和賀一揆を起こした和賀忠親が二子城で敗れ、最後の砦として旧家臣とともに岩崎城に立て籠もったが落城、忠親らは自刃して果てた。
慶長七年 (1602) 南部氏の家臣柏山伊勢守明助が入城する。
寛永元年十二月 (1624) 花巻城主南部政直が岩崎城代柏山伊勢とともに変死を遂げる。
寛永二年 (1625) 二代柏山明定が死去。
万治二年 (1659) 三代柏山明信が死去。


≪ 写 真 ≫


岩崎城本丸


岩崎城址舞楽殿


本丸土塁


空堀


空堀に架かる橋


三の丸


三の丸土塁


大手桝形虎口


岩崎城大手門趾碑


岩崎城運動公園入口


現地岩崎城・運動公園案内マップ(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東北本線・東北新幹線北上駅からバスで城内バス停下車、徒歩約10分。
<車>
東北道北上江釣子ICを降りて国道107号を西進、東北道高架下をくぐってすぐの三叉路信号を斜め左折、突き当りの三叉路を右折、県道122号を西進、江釣子神社を通り過ぎた次の交差点信号を左折、南下して和賀川に架かる広表橋を渡り、里小屋交差点信号を右折、夏油川を渡り、約500m西進した道の左手に岩崎城の説明板のある三叉路を左折、約100m南下した道が大きく右に曲がる地点を左側に入った先が岩崎城運動公園で、そのまま登って行った先が岩崎城跡です。岩崎城運動公園の駐車場を利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

岩崎城


紹介したお城の数 294城



日本の城 戦国~幕末の歴史が刻まれた全国の名城を徹底解剖 (わかる本)
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知れば知るほど面白い 戦国の城 攻めと守り (じっぴコンパクト新書)
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