前回は、アダムとハワ(イブ)が、「この木に近づいてはいけない」と
言われていた木の実を口にしてしまったお話をしました。
こんにちは、ファーティマ松本です。
アダムとイブが口にしてしまった木の実について
多くの人は、アダムとイブに禁じられたのは、リンゴの木であったと思っていると思います。
(アップル社の、あのロゴは有名ですよね。)
しかし、クルアーンの中では二人が”リンゴ”を食べたという記述はありません。
イスラム教の学者さんによれば、その木はもしかしたらブドウだったのかも、イヤイヤ
イチジクだったかもといった意見があります。
しかし、問題はなんの実を食べたかではないでしょう。
重要なのは、二人が禁じられた果実を食べてしまったことと、そしてその後に何が起きたかです。
ということで、続いて何が起きたのかを、またクルアーンの中から見てみましょう。
「その時主は、彼らに呼び掛けて仰せられた。「われはこの(あの)木をあなた方に禁じたではないか。
また、悪魔はあなた方の公然の敵であると告げたではないか。」(7-22)
神様は悪魔っていうのは、超ヤバイ奴だから注意しなければいけないと二人に言ってありましたよね。
『かれは(悪魔は)、あなた方にとって公然の敵である。』(6-142)
また私達にも同じように、警告をされています。
『アーダムの子孫よ、悪魔に仕えてはならないとわれはあなた方に命令しなかったか。
かれはあなた方の公然の敵である。』(36-61)
さて、神様に怒られてしまったアダムとイブはどうしたのでしょうか。
クルアーンの記述を見てみましょう。
「彼ら両人は言った。
「主よ、私達は過ちを犯してしまいました。
もし、あなたのお許しと慈悲をお受けできないのであれば、私達は必ず失敗者の仲間になってしまいます。」
(7-23)
アダムとイブは直ぐ様、神様に許しを請いました。
直ぐ様、ですね。
悪いことをしてしまったら、すぐに反省をし、方向転換をするのが大事です。
やってしまったことは、もう本当に”やってしまった”ことです。
隠して、なかったことにすることはできません。
例え、誰も気が付いていなくても、自分と神様はちゃんと知っています。
神様と自分を欺くことはできません。
反省をし、許しを乞う二人に神様は、
『主は彼らの悔悟を許された。
本当に、かれは寛大に許される慈悲深いお方であられる』(2-37)
と、あるように、神様は二人をすぐにお許しになりました。
神様は、人を許すのが大好きなお方なのです。
大好きだから、どんな罪でも許すとクルアーンの中で何度も強調されています。
アダムとイブは、罪を許されたわけですが、しかし、それで終わりというわけにはいきません。
禁じられた果実を食べた瞬間に、裸になってしまったのと同様、
行動したことに対する、結果というのを受けねばなりませんでした。
そうです。
アダムとイブは二人揃って、地上に降りる事になったのです。
『われは言った。
「あなた方はここから落ちていきなさい。やがてあなた方に必ずわれの導きが恵まれよう。
そしてわれの導きに従うものは、恐れもなく、憂いもないであろう。」(2-38)
地上に降りる事になった2人には、導きがあるようです。
それに従えば、恐れもなく、憂いもない、とのこと。
恐れというのは、将来に対する不安のようなもの。
反対に憂いというのは、過去に対するネガティブな感情ですね。
私達人間というのは、たいていこの将来に対する不安と、過去に犯してしまったいろいろな行いを後悔する感情。
この二つにさいなまれていると言っても過言ではないでしょう。
しかし、神様が定めた道を歩いている限り、将来に不安は覚えない。
そして、過去に犯した諸々の行いを恥じ、後悔することがない、そうです。
それでは、ここで聖書のお話を見てみましょう。
キリスト教におけるアダムとイブの話と、イスラム教のお話には似ている個所もあります。
また、かなり大きく違うところもあり、両者の違いを知ることは非常に重要な事であると思います。
聖書では、アダムとイブの前に、悪魔(イブリース)ではなく蛇が現れたとあります。
そして、蛇が彼ら二人に、この木の実を食べろと誘惑したようです。
「この木を食べると、一生死なないよ。永遠の命が手に入るんだよ。」と言って。
そして二人がリンゴの木を食べると、裸であることが分かり葉っぱで隠そうとします。
ここまでは、結構似ています。
問題は、この後です。
神様が、二人にどうして食べたのかと聞かれると、
アダムは「イブが食べろって言った」からと、食べた理由をイブのせいにしました。
イブはイブで、蛇が悪いんだと、こちらも蛇のせいにしました。
怒った神様は二人を楽園から追放し、イブ(女性へ)の懲罰として、出産を大変なものとし、
蛇への懲罰として、手足をなくし、腹で這うようにさせたとあります。
なるほどですね。
神様は、二人を許されなかったようです。
そして罰として、全女性に出産を。
蛇からは両手足を取り上げた、らしいです。
アダムとイブは禁じられた果実を食べました。
二人は、その罪を人のせいにしました。
自分の行いを悔いることなく、自分の行いを正当化したのです。
これが原罪の起源のようです。
つまり、アダムとイブのおかげで、私達は産まれながらにして罪人。
その上、イブがそそのかしたので、女というものは男を惑わす、堕落させるものと考えられているわけです。
ここら辺から随分と違う感じのお話になってきました。
キリスト教の経典(聖書)は、人間の手が加わり、何度も書き直されています。
その度に、少しづつ少しづつ、変わっていってアダムの話もこういう形になったのでしょう。
イスラム教的には、原罪という概念がありません。
なぜなら、私達は自分の行動にだけ責任を負うのであって、
決して人の行いについてまで、問われることはないからです。
アダムとイブの行動に対する結果は、彼らだけが負うものです。
ついつい自分の行動の理由を、
「だって、あの人があんなことを言うから」とか
「あの人があんなことをしなかったなら、私だってこんなことをしないで済んだのに。」と
言いたくなることがあるかもしれません。
でも、いくらあの人があんなことを言ったとしても、その行動をとったのは、自分自身です。
自分の行動は、自分の責任なのです。
また、イスラム教において、出産が懲罰だなんて言葉は一度だってクルアーンの中に出てきません。
確かに出産というのは、大変です。
今と違って、昔であったら命を落としてしまうことだってあったでしょう。
でも、出産の為に命をなくした女性は、殉教者とみなされます。
殉教者、それはつまり、天国一直線という意味です。
出産が如何に、スゴイことであるかが分かると思います。
そんな大変な出産だけでなく、妊娠期間もとても辛くて大変であるとクルアーンには書かれてあります。
だから、そんな大変な思いをして産んでくれたお母さん(それからお父さんもついでに)を大切にしなさいと
神様は何度もおっしゃっています。
預言者さん(平安あれ)も、天国は母親の足元にある、と仰ったくらいです。
アダムとイブのお話というのは、非常に奥が深いので、クルアーンの中で、何か所に渡って教えてくれています。
同じ話をキリスト教のものと比べると、より一層、有難みが増します。
最後に、なぜ神様はアダムとイブは許されたのに、イブリースの事は許さなかったのかについて考えてみたいと思います。
アダムとイブは神様の言うことを聞きませんでした。
それはイブリースも同じです。
アダムにサジダをしろと言われた時、イブリースは額を地につけませんでした。
アダムもイブリースも、神様の言い付けを聞かなかった点では全く同じです。
なのに、アダムは許され、イブリースは許されなかったのはなぜでしょう。
アダムとイブは自分の行いを反省し、許しを乞うたのに対し、イブリースはそうしていないのは明瞭な違いです。
しかし、もう一つ決定的な違いがあったのです。
アダムとイブが神様の言うことを聞かなかった理由は、欲から出ています。
それに反し、イブリースはうぬぼれ、そして高慢さからきているのです。
同じ罪を犯すとしても、高慢さ、または自惚れから出た物というのは懺悔をしにくいようです。
自分の罪を認め、それを悔い改めるということがなかなかできないのです。
しかし、欲望や欲求から出た罪というのは、
「あー、やっちゃった!」と思うことが出来ます。
そのように思うことが出来れば、あとはお許しを願いながら軌道返還をすればいいだけです。
「あー、やっちゃった。」と思い
許しを願い、軌道返還をするという一連の行いは、神様視点では非常に高尚な行いです。
ですから、罪を犯す前のきれいな状態よりも、この行動を起こした後の人の方がとっても”エライ”そうです。
アダムとイブがまさにそうでした。
そして、イブリースはそれをしなかった。
それが許されなかった大きな理由のようです。
私達も、高慢になったり、自惚れ過ぎないように注意をしたいものです。
今日もお付き合いいただきましてありがとうございました。
みなさまに神様からの祝福がたくさんありますように!
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こんにちは、ファーティマ松本です。
アダムとイブが口にしてしまった木の実について
多くの人は、アダムとイブに禁じられたのは、リンゴの木であったと思っていると思います。
(アップル社の、あのロゴは有名ですよね。)
しかし、クルアーンの中では二人が”リンゴ”を食べたという記述はありません。
イスラム教の学者さんによれば、その木はもしかしたらブドウだったのかも、イヤイヤ
イチジクだったかもといった意見があります。
しかし、問題はなんの実を食べたかではないでしょう。
重要なのは、二人が禁じられた果実を食べてしまったことと、そしてその後に何が起きたかです。
ということで、続いて何が起きたのかを、またクルアーンの中から見てみましょう。
「その時主は、彼らに呼び掛けて仰せられた。「われはこの(あの)木をあなた方に禁じたではないか。
また、悪魔はあなた方の公然の敵であると告げたではないか。」(7-22)
神様は悪魔っていうのは、超ヤバイ奴だから注意しなければいけないと二人に言ってありましたよね。
『かれは(悪魔は)、あなた方にとって公然の敵である。』(6-142)
また私達にも同じように、警告をされています。
『アーダムの子孫よ、悪魔に仕えてはならないとわれはあなた方に命令しなかったか。
かれはあなた方の公然の敵である。』(36-61)
さて、神様に怒られてしまったアダムとイブはどうしたのでしょうか。
クルアーンの記述を見てみましょう。
「彼ら両人は言った。
「主よ、私達は過ちを犯してしまいました。
もし、あなたのお許しと慈悲をお受けできないのであれば、私達は必ず失敗者の仲間になってしまいます。」
(7-23)
アダムとイブは直ぐ様、神様に許しを請いました。
直ぐ様、ですね。
悪いことをしてしまったら、すぐに反省をし、方向転換をするのが大事です。
やってしまったことは、もう本当に”やってしまった”ことです。
隠して、なかったことにすることはできません。
例え、誰も気が付いていなくても、自分と神様はちゃんと知っています。
神様と自分を欺くことはできません。
反省をし、許しを乞う二人に神様は、
『主は彼らの悔悟を許された。
本当に、かれは寛大に許される慈悲深いお方であられる』(2-37)
と、あるように、神様は二人をすぐにお許しになりました。
神様は、人を許すのが大好きなお方なのです。
大好きだから、どんな罪でも許すとクルアーンの中で何度も強調されています。
アダムとイブは、罪を許されたわけですが、しかし、それで終わりというわけにはいきません。
禁じられた果実を食べた瞬間に、裸になってしまったのと同様、
行動したことに対する、結果というのを受けねばなりませんでした。
そうです。
アダムとイブは二人揃って、地上に降りる事になったのです。
『われは言った。
「あなた方はここから落ちていきなさい。やがてあなた方に必ずわれの導きが恵まれよう。
そしてわれの導きに従うものは、恐れもなく、憂いもないであろう。」(2-38)
地上に降りる事になった2人には、導きがあるようです。
それに従えば、恐れもなく、憂いもない、とのこと。
恐れというのは、将来に対する不安のようなもの。
反対に憂いというのは、過去に対するネガティブな感情ですね。
私達人間というのは、たいていこの将来に対する不安と、過去に犯してしまったいろいろな行いを後悔する感情。
この二つにさいなまれていると言っても過言ではないでしょう。
しかし、神様が定めた道を歩いている限り、将来に不安は覚えない。
そして、過去に犯した諸々の行いを恥じ、後悔することがない、そうです。
それでは、ここで聖書のお話を見てみましょう。
キリスト教におけるアダムとイブの話と、イスラム教のお話には似ている個所もあります。
また、かなり大きく違うところもあり、両者の違いを知ることは非常に重要な事であると思います。
聖書では、アダムとイブの前に、悪魔(イブリース)ではなく蛇が現れたとあります。
そして、蛇が彼ら二人に、この木の実を食べろと誘惑したようです。
「この木を食べると、一生死なないよ。永遠の命が手に入るんだよ。」と言って。
そして二人がリンゴの木を食べると、裸であることが分かり葉っぱで隠そうとします。
ここまでは、結構似ています。
問題は、この後です。
神様が、二人にどうして食べたのかと聞かれると、
アダムは「イブが食べろって言った」からと、食べた理由をイブのせいにしました。
イブはイブで、蛇が悪いんだと、こちらも蛇のせいにしました。
怒った神様は二人を楽園から追放し、イブ(女性へ)の懲罰として、出産を大変なものとし、
蛇への懲罰として、手足をなくし、腹で這うようにさせたとあります。
なるほどですね。
神様は、二人を許されなかったようです。
そして罰として、全女性に出産を。
蛇からは両手足を取り上げた、らしいです。
アダムとイブは禁じられた果実を食べました。
二人は、その罪を人のせいにしました。
自分の行いを悔いることなく、自分の行いを正当化したのです。
これが原罪の起源のようです。
つまり、アダムとイブのおかげで、私達は産まれながらにして罪人。
その上、イブがそそのかしたので、女というものは男を惑わす、堕落させるものと考えられているわけです。
ここら辺から随分と違う感じのお話になってきました。
キリスト教の経典(聖書)は、人間の手が加わり、何度も書き直されています。
その度に、少しづつ少しづつ、変わっていってアダムの話もこういう形になったのでしょう。
イスラム教的には、原罪という概念がありません。
なぜなら、私達は自分の行動にだけ責任を負うのであって、
決して人の行いについてまで、問われることはないからです。
アダムとイブの行動に対する結果は、彼らだけが負うものです。
ついつい自分の行動の理由を、
「だって、あの人があんなことを言うから」とか
「あの人があんなことをしなかったなら、私だってこんなことをしないで済んだのに。」と
言いたくなることがあるかもしれません。
でも、いくらあの人があんなことを言ったとしても、その行動をとったのは、自分自身です。
自分の行動は、自分の責任なのです。
また、イスラム教において、出産が懲罰だなんて言葉は一度だってクルアーンの中に出てきません。
確かに出産というのは、大変です。
今と違って、昔であったら命を落としてしまうことだってあったでしょう。
でも、出産の為に命をなくした女性は、殉教者とみなされます。
殉教者、それはつまり、天国一直線という意味です。
出産が如何に、スゴイことであるかが分かると思います。
そんな大変な出産だけでなく、妊娠期間もとても辛くて大変であるとクルアーンには書かれてあります。
だから、そんな大変な思いをして産んでくれたお母さん(それからお父さんもついでに)を大切にしなさいと
神様は何度もおっしゃっています。
預言者さん(平安あれ)も、天国は母親の足元にある、と仰ったくらいです。
アダムとイブのお話というのは、非常に奥が深いので、クルアーンの中で、何か所に渡って教えてくれています。
同じ話をキリスト教のものと比べると、より一層、有難みが増します。
最後に、なぜ神様はアダムとイブは許されたのに、イブリースの事は許さなかったのかについて考えてみたいと思います。
アダムとイブは神様の言うことを聞きませんでした。
それはイブリースも同じです。
アダムにサジダをしろと言われた時、イブリースは額を地につけませんでした。
アダムもイブリースも、神様の言い付けを聞かなかった点では全く同じです。
なのに、アダムは許され、イブリースは許されなかったのはなぜでしょう。
アダムとイブは自分の行いを反省し、許しを乞うたのに対し、イブリースはそうしていないのは明瞭な違いです。
しかし、もう一つ決定的な違いがあったのです。
アダムとイブが神様の言うことを聞かなかった理由は、欲から出ています。
それに反し、イブリースはうぬぼれ、そして高慢さからきているのです。
同じ罪を犯すとしても、高慢さ、または自惚れから出た物というのは懺悔をしにくいようです。
自分の罪を認め、それを悔い改めるということがなかなかできないのです。
しかし、欲望や欲求から出た罪というのは、
「あー、やっちゃった!」と思うことが出来ます。
そのように思うことが出来れば、あとはお許しを願いながら軌道返還をすればいいだけです。
「あー、やっちゃった。」と思い
許しを願い、軌道返還をするという一連の行いは、神様視点では非常に高尚な行いです。
ですから、罪を犯す前のきれいな状態よりも、この行動を起こした後の人の方がとっても”エライ”そうです。
アダムとイブがまさにそうでした。
そして、イブリースはそれをしなかった。
それが許されなかった大きな理由のようです。
私達も、高慢になったり、自惚れ過ぎないように注意をしたいものです。
今日もお付き合いいただきましてありがとうございました。
みなさまに神様からの祝福がたくさんありますように!
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全く違う考え方というのがあることを知る。
幸せとは、
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そして、イスラム教とは?
人生というものを、今までと違った見方で見られるようになった樹里は、
一歩を踏み出せるようになるのでしょうか。
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イスラム的な人生の処世術!
あなたは何のために生まれ、何をして生きていけばいいのでしょう。
人生の目的は?
せっかく生まれてきたのです。
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