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浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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浄空老法師が仏法を学んだ因縁(上)

2014-10-13 | 【在家の善男善女に諭す】


淨空老法師的學佛因緣(上) 浄空老法師が仏法を学んだ因縁(上)
文摘恭錄—淨土大經解演義(第六十五集)2010/6/22 檔名:02-039-0065

我學佛的時候,那時候年輕,生活非常艱苦。抗戰結束國共發生戰爭,我好像是二十三歲到台灣去,生活非常艱難,僅僅勉強自己一個人的生活,苦不堪言。想讀書,讀書要繳學費,繳不起學費。聽到方東美先生的名字,發現他是桐城人,是老鄉,所以就寫了一封信毛遂自薦,寄了一篇文章給他看,要求他答應我能旁聽他的課程。他在台灣大學教書,沒有人介紹。好像是一個多星期他回信給我,約我到他家裡面去談話,我到他家裡,依照他給我的時間去看他。
私が仏法を学んだ頃、あの頃は若く、生活は非常に苦しいものでした。抗日戦争(1937-1945:日中戦争)が終わると国共(国民党と共産党)の戦争が始まり、私は二十三歳で台湾に行きました。生活は非常に苦しく、かろうじて自分一人で生活していました。苦しさは言うに堪えません。勉強したくても、勉強には学費がかかります。学費は払えません。方東美先生の名前を聞いて、彼が桐城の人だと知りました。私の故郷です。そこで手紙を書いて自薦しました。文章を郵送して方先生に見せ、授業を聴講させて欲しいとお願いしたのです。方先生は台湾大学で教えていました。紹介してくれる人はいません。一週間ほどすると返事が届きました。方先生の家で話し合うことになり、私は指定された時間通りに伺いました。

首先他問我家鄉的狀況,畢竟還有一點同鄉的鄉情,問我這麼多年讀書學習的狀況。我告訴他,抗戰期間流離失所,到處逃難,失學三年,初中畢業高中念了半年,以後就再沒有讀書的機會,非常想學沒有機緣,想旁聽老師的課程。老師告訴我,他說現在學校,諸位要記住六十年前,他說「現在的學校先生不像先生,學生不像學生,你要到學校來聽課,你會大失所望。」我當時聽了心裡很難過,老師拒絕,希望沒有了,所以那表情當然很沮喪。
まず方先生は私の故郷の状況を聞きました。やはり少しは同郷のよしみがありました。私に勉学の状況を聞きました。私は、「抗日戦争の期間は身を落ち着ける所もなく彷徨い、方々を避難して、学業は三年中断しています。中学を卒業して高校は半年通い、その後はもう勉強する機会はありませんでした。学びたくても機縁がないので、老師の授業を聴講させて頂きたいのです」と言いました。
老師は私に言いました。皆さん覚えておいて下さい。これは六十年前の事です。「今の学校は先生は先生らしくなく、学生は学生らしくありません。君が学校に来て聴講すれば、大いに失望するかもしれません」。私は当時それを聞いてつらく思いました。老師に拒絶されて、望みはないと思いました。ですからとてもがっかりしました。

他過了好幾分鐘問我,他說「你的信我看到,你寫的文章我也看過,你講的話是不是真的?」就是問我,我只有初中畢業是不是真的?真的。他說我們台灣大學的學生寫不出這樣的文章,他問我有沒有隱瞞他?「沒有,雖然我失學多年,喜歡讀書,書本沒有放下。」最後他告訴我,他說「這樣好了,你每個星期天到我家裡來,我給你上兩個鐘點課。」所以變成這樣子的教學,在他家裡小客廳、小圓桌咱們一個老師、一個學生,一個星期兩個小時,我的哲學是這樣學來的,這是我作夢都想不到的。
方先生は何分も経ってから私に聞きました。「君の手紙は見ました。君が書いた文章は読みました。君の話は本当ですか?」と言われました。私が中卒だと言うのは本当なのかと聞かれました。それは本当です。方先生は、「台湾大学の学生はこのような文章は書けません」と言いました。騙しているのではないかと言うのです。「いいえ、私は何年も学業を中断していますが、勉強が好きで書物は手放していません」。最後に方先生は、「こうしましょう。君は毎週日曜日に私の家に来なさい。私が二時間講義してあげましょう」と言って下さいました。それでこのような教学に変わり、先生の家の小さな客間で、小さな円卓に老師一人、学生一人、一週間に二時間学びました。私の哲学はこのように学んだものです。これは夢にも思わなかったことです。

<参考>
方東美老師(1899-1977)・・・・名は、字は東美。中国安徽省桐城の人。哲学者。清代の桐城派古文創始者である方苞先生の第十六世の孫。1921年にアメリカに留学経験があり、プラトンなどギリシャ哲学にも造詣が深い。(中国語版ウィキペディアより抜粋して翻訳)
浄空法師を私塾の形式で教育し、仏門に導いた人物。

>>>浄空老法師が仏法を学んだ因縁(下)
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c5088a7cc18844efa6976291cf901c9c

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浄空老法師が仏法を学んだ因縁(下)

2014-10-13 | 【在家の善男善女に諭す】


淨空老法師的學佛因緣(下) 浄空老法師が仏法を学んだ因縁(下)
文摘恭錄—淨土大經解演義(第六十五集)2010/6/22 檔名:02-039-0065

以後我才想通,他為什麼不讓我到學校去旁聽他的課程。我要到學校,一定會認識很多教授,一定會認識很多同學,那會把我染污了。我跟他是一張白紙,愛好哲學,沒有正式學過。所以才曉得一個真正好老師,要找個傳人,要找什麼人?一張白紙,他沒有受染污,而且真正好學,不容易,很不容易找到。自己讀了一些書,有點基礎,這個基礎被他肯定,他教我,給我講一個系列,就是一部哲學概論,最後一個單元講佛經哲學。那個時候我們對佛法一無所知,人云亦云,認為這是宗教,這是迷信,這是多神教,低級宗教。
方先生はなぜ私に学校の講義を聴講させなかったのか、後になって分かりました。私が学校に行けば、必ず多くの教授、多くの学生と知り合い、それが私を汚染するからです。私は老師に対して白紙の状態でした。哲学を好んで、正式に学んだ事はありません。ですから本当に良い老師は、受け継ぐ人を求めるものなのです。どのような人を求めるでしょうか?白紙の人です。汚染されておらず、本当に学問を好む人です。簡単ではありません。簡単には見つかりません。自分でいくつか本を読んで、少しばかり基礎がありました。その基礎を老師は認めて下さいました。老師は私を教えるのに、体系的に講じて下さいました。それは哲学概論です。最後の単元は仏経哲学でした。その頃私は仏法について何も知らず、人の話を鵜呑みにして、それは宗教であり、迷信であり、多神教の低級な宗教だと思っていました。

所以我們從來沒有意願去碰它,跟佛教就沒有接觸過。經過他介紹,我們才曉得佛教是哲學,他介紹給我的,他說「釋迦牟尼佛是世界上最偉大的哲學家」,我們學哲學,「佛經是全世界哲學的最高峰,學佛是人生最高的享受。」特別指出《華嚴》是佛經哲學概論,特別介紹,在全世界哲學書,沒有超過《華嚴經》,它編得太好,有圓滿的理論,有周詳的方法,後面還帶表演,五十三參是表演。他說這樣的教科書,在全世界找不到第二種。他對《華嚴》有特別愛好,也許他接觸佛法在峨嵋山,峨嵋山是華嚴道場,普賢菩薩道場,與這個可能有關係。
ですから私はそれまで仏法に触れたいと思ったことはありません。仏教に触れたことはありませんでした。老師の紹介を通して、私は仏教が哲学だということを知りました。老師が私に紹介して下さったのです。老師は、「釈迦牟尼仏は世界で最も偉大な哲学者である」と仰いました。私たちは哲学を学ぶのです。「仏経は全世界の哲学の最高峰であり、仏法を学ぶことは人生最高の享受である」と仰いました。特に『華厳経』は仏経哲学の概論であると指摘され、全世界の哲学書で『華厳経』を超えるものはないと紹介されました。その編纂は素晴らしいもので、円満な理論があり、周到詳細な方法があり、最後には実演もあります。(善財童子)五十三参は実演です。老師は、このような教科書は全世界に二つとないと仰いました。老師は『華厳経』を特に好まれました。もしかすると老師は峨眉山で仏法に触れたのかもしれません。峨眉山は華厳道場です。普賢菩薩の道場です。これと関係があるかもしれません。


はじめての方はこちらを参考にどうぞ
仏は心中にあり
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/5020d064a7b75d9f782be372fbda6dd9?fm=entry_spawp
仏家の説く造物主は誰か?
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/400b262dbcdcc2f5619b6d8f4e481cc6
修行は個人にあり
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/e3ba07087f64d37cf841dc19dae1fc45
仏法を学ぶには必ずこのような認識がなければならない
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/801218b007997eb86185a673d2800886
仏門の交際方法-四摂法(ししょうぼう)
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/991c3745b6a844a91852b36c0bd6a132

仏法を盛んにしようとするなら、僧が僧を称賛するほかない
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c17f337acdd5baa5bb8e085b4ab1ce39
世界を救うことは、一人一人に責任がある
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/963784747965b0fda4aa489dc92997a3

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宗教教育だけが社会を救うことが出来る

2014-09-16 | 【在家の善男善女に諭す】


唯有宗教教育可以救社會 宗教教育だけが社会を救うことが出来る
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二二七集)2010/12/20 檔名:02-039-0227

我們這一代社會亂,下一代會更亂,怎麼個挽救法?想不出方法。想來想去,唯有宗教教育可以救社會。這麼多年來我講得很多,到處都在宣揚,真正聽懂的人不多。有,不是沒有,真有聽懂的人很少數。所以,任何一個國家、一個地區,要想這個地區恢復正常的安定、和諧、繁榮、幸福,不依宗教是肯定做不到的。所以今天團結宗教重要,鼓勵宗教要回歸到教育,要知道宗教本來都是從事於社會教育工作的,它不是迷信;
私たちのこの世代の社会は乱れています。次世代は更に乱れます。どのようにこれを救えば良いのでしょうか?方法が思いつきません。あれこれ考えましたが、宗教教育だけが社会を救うことが出来るのです。長年私はたくさん話して来ました。至る所で宣揚して来ましたが、本当に理解できる人は多くありません。いるにはいます。いないのではありません。本当に聞いて理解できる人は少数です。ですから如何なる国、地域であろうと、その地区の正常な安定、調和、繁栄、幸福を取り戻そうとするなら、宗教に頼らなければできるものではありません。ですから今日宗教の団結は重要です。宗教が教育に回帰することを鼓舞して、宗教は本来すべて社会教育の仕事に従事するものだということを知らなければなりません。それは迷信ではありません。

宗教要是忽略了教育,完全做宗教儀式,那就被人認為是迷信。所以宗教要回歸教育。特別是佛教,釋迦牟尼佛當年在世,講經教學四十九年。那時候沒有宗教儀式,只是拜老師的時候行個三皈依的儀式,非常簡單,幾分鐘,簡單隆重。我們看所有宗教經典裡面,非常重視倫理、道、因果,再向上提升那就是哲學跟科學,這五個科目實在講都講到盡善盡美。如果每個宗教都能大力提倡,社會可以回歸安定和諧、繁榮興旺,這是我們所期望的。
宗教が教育を疎かにすれば、完全に宗教儀式になり、それでは人に迷信だと思われます。ですから宗教は教育に回帰しなければなりません。特に仏教です。釈迦牟尼仏が在世の頃、講経・教学を四十九年されました。その頃には宗教儀式はありません。ただ老師を拝する時に、三帰依の儀式をするだけです。非常に簡単です。数分です。簡単ですが厳粛です。すべての宗教経典の中では倫理道徳因果が非常に重視され、更に昇華されたものが哲学科学です。この五つの科目は本当に、説くところは善美を極めています。各宗教がこれらの提唱に尽力すれば、社会は安定と調和、繁栄と盛隆を取り戻すことができます。これは私たちが期待するところです。

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現前の社会の教育問題

2014-08-23 | 【在家の善男善女に諭す】


現前社會的教育問題 現前の社会の教育問題
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三OO集)2011/2/24 檔名:02-039-0300

你要曉得,早年,我們講一百年前這是真的,一百年前這個教育,你從小你家的老人已經教給你了,那還提它幹什麼?在從前人,讀書人個個人都有這個根,小時候父母教的,家裡面長輩教的,小孩不懂禮貌那怎麼行?在我們家鄉,我小時候六、七歲在外面玩,玩耍的時候,農村!小朋友吵架打起來了,走路的人,那個時候旅行是走路,沒有交通工具,路人看到,都把我們教訓一頓,我們做錯了,路人不認識的來教訓一頓,我們家裡人看到向那個路人感謝、道謝。
知っておかなければなりません。昔、百年前は本当にそうでした。百年前の教育は、子どもの頃から家のお年寄りが教えていました。それを提起して何が言いたいのかというと、昔の人、読書人には誰でもこの根(基礎)があったということです。子どもの頃に父母が教えたものです。家の年長者が教えたものです。子どもが礼儀知らずで良いことがあるでしょうか?私たちの故郷では、私が六、七歳の頃、外で遊んでいた時、――農村のことです!――子ども同士で口喧嘩を始めました。その頃は旅行に行くのも徒歩で、交通手段はありません。歩いている人がそれを見かけると、私たちにお説教をしました。私たちが間違ったことをすると、見ず知らずの人が来てお説教をしました。私たちの家族はそれを見ると、その人に感謝しました。お礼を言いました。

哪像現在?現在的小孩,父母不懂得,老師教訓他、呵斥他,他回家告訴父母,父母到學校去,找著警察去抓那個老師,那個老師虐待學生。老師怎麼樣?不教了,不敢教。這小孩還能學得好嗎?父母不敢教,老師不敢教,誰敢教他?電視教他,網路教他,教他暴力色情、殺盜淫妄,教他自私自利,教他損人利己,教這個他全接受了。這些東西教他,父母不管了,老師當然更管不上了。社會為什麼會變成這個樣子,原因你總該知道了吧。
今のようなことがどこにあるでしょうか?今の子ども、両親は理解していません。教師がお説教して、大声で叱ると、子どもは家に帰って両親に言いつけます。両親は学校に行き、警察を呼び出して、教師を捕まえます。教師が学生を虐待したと言います。教師はどうなるでしょうか?教えなくなります。教えられなくなります。その子はきちんと学ぶことが出来るのでしょうか?両親は教えられません。教師も教えられません。誰が子どもを教えるのでしょうか?テレビが教えます。インターネットが教えます。子どもに暴力、色情、殺生、窃盗、邪淫、妄語を教えます。子どもに私利私欲を教え、人を害して自分を利することを教えます。これらを教えると、子どもはすべて受け入れます。これらを子どもに教えることを、両親はお構いなしです。教師は当然更にどうにもなりません。社会はなぜこのように変わってしまったのか、あなたは原因をすべて知っているはずです。

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世界を救うことは、一人一人に責任がある

2014-08-21 | 【在家の善男善女に諭す】

拯救世界 人人有責 / 世界を救うことは、一人一人に責任がある
節錄自淨空老法師對淨宗同修講話 2008/11/17 台灣華藏淨宗學會 檔名:21-492-01

淨空這次回到台灣,這當中相隔應該是有十年了。十年變化很大,不僅在台灣,整個世界的變化都令人感到驚訝!這些年來,世界、社會衝突年年上升,災難也愈來愈多,一年比一年嚴重。科學家給我們提出的警告,說拯救地球只剩下七年,這段時間要是不努力,地球就沒救了,就是一般宗教講的世界末日。佛教沒有這種說法,但是章嘉大師曾經告訴我,佛法興衰、起落這個現象是正常的,沒落之後,又會興旺起來。現前時代是佛法走下坡,跌到低谷了,我們不必避諱,因為事實擺在面前。
浄空はこの度台湾に戻って来ました。この間おそらく十年は経っています。十年の変化は大きいもので、台湾だけでなく、全世界の変化には驚かされるばかりです!ここ数年来、世界、社会の衝突は年々増えて、災難もまた増々多くなっています。年々深刻になっています。科学者は私たちに警告しています。地球を救うにはあと七年しか残されておらず、この時間に努力しなければ、地球に救いはないと言っています。つまり一般の宗教で言われる世界の終末です。仏教にはそのような言い方はありません。しかし章嘉大師はかつて私に話されました。仏法の盛衰、浮き沈みの現象は正常なことで、没落した後には、また盛んになって来ます。今の時代では仏法は下り坂で、谷底まで落ちています。私たちは遠まわしに言う必要はありません。事実は目の前にあるのですから。

為什麼佛教會沒落?我們自己要反省,不要去問別人,也不要去怪別人,要怪自己。「行有不得,反求諸己」,佛教沒落是我的責任,因為我不持戒律。出家人做不到《沙彌律儀》,在家信徒做不到十善業,佛法焉能興盛?我們自己要承擔因果責任。只要回頭,現在重新做起,就有救!我們要覺悟,亡羊補牢為時不晚,要真正下定決心,受補習教育,改過自新。從哪裡補起?從《弟子規》、《感應篇》、《十善業道經》。拯救這個世界,除了普及儒釋道三個根本教育之外,沒有第二個方法。
なぜ仏教は没落したのでしょうか?私たち自身が反省しなければなりません。他人に聞いてはなりません。また他人を咎めてはなりません。自分を咎めなければなりません。「行有不得,反求諸己」(行って良い結果を得られなければ、その原因を自分自身に求めて反省する)。仏教の没落は自分の責任です。自分が戒律を守らない為です。出家僧が『沙彌律儀』を実行できず、在家の信徒が十善業(十善戒)を実行できないようなら、仏法はどうして盛んになるのでしょうか?私たち自身が因果の責任を負わなければなりません。善に立ち返り、今から改めて実行しさえすれば、救いがあります!羊を失ってから檻を修理しても、遅くはありません。本当に決意して、補習の教育を受け、心を入れかえることです。どこから補えば良いでしょうか?『弟子規』、『感応篇』、『十善業道経』からです。この世界を救うには、儒教、仏教、道教の三つの根本教育を普及させる他に、第二の方法はありません。

世尊在《佛藏經》中說:「不先學小乘,後學大乘,非佛弟子」,所以我們要循序漸進。佛經裡面講的「善男子、善女人」,標準就是「十善業道」,「十善業道」做不到,善男子、善女人我們沒有分,只有善男子、善女人念佛才能往生。極樂世界「皆是諸上善人俱會一處」,也就是上品善人,所以凡聖同居土下下品往生的人,都是上品十善。
世尊は『佛蔵経』で説かれています。「不先学小乗,後学大乗,非仏弟子」(先に小乗を学び、後に大乗を学ぶのでなければ、仏弟子ではない)。ですから私たちは順を追って進まなければなりません。仏経の中に説かれている「善男子、善女人」の基準は「十善業道」です。「十善業道」が出来なければ、善男子、善女人ではありません。善男子、善女人が念仏してこそ往生することができるのです。極楽世界は「皆是諸上善人俱会一処」(皆諸々の上善の人たちが一つ処に集まる)であり、言い換えれば上品(じょうぼん)の善人です。ですから凡聖同居土【注】の下下品(げげぼん)の往生をした人も、皆上品の十善なのです。
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 【注】 凡聖同居土(ぼんしょうどうこど)・・・・凡夫と聖者が共に住む浄土。
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上品十善要如何修法?印光老法師開示,「不見別人過,只見自己過」,要照做才行,天天認真反省懺悔,發願求生,二六時中,心裡只有一句佛號,除佛號外,什麼念頭都沒有。那個人好,阿彌陀佛;那個人壞,阿彌陀佛;與我不相干,絕不批評。諺語說「來說是非者,便是是」,自己心中無惡念,怎麼會惡語批評他人?由此可知,批評人就是過失。佛不批評人,菩薩不批評人。他人有沒有過失?沒有,所有過失都發生在我自己,與別人毫不相干。
上品の十善はどのように修めるのでしょうか?印光大師は「他人の過失を見ず、自分の過失だけを見る」と開示されています。その通りに行えば良いのです。毎日真剣に反省して懺悔し、求生を発願し、四六時中心の中は一句の仏号だけにします。仏号の他には、何の考えもありません。あの人は良い人だと言われたら、「阿弥陀仏」、あの人は悪い人だと言われたら、「阿弥陀仏」。自分とは関係ないのです。絶対に批評してはなりません。諺には、「他人の是非を言いに来る人は、その人自身が問題のある人だ」と言います。自分の心の中に悪念が無いなら、なぜ他人の悪口を言って批評するのでしょうか?この事から分かるのは、人を批評することは過失なのです。仏は人を批評しません。菩薩は人を批評しません。他人に過失はあるのでしょうか?ありません。あらゆる過失は自分自身にあるのです。他人とはまったく関係ありません。

聽經是修定的方法。如果你每天能聽八個小時,聽時心不起妄念是定,聽得很清楚是修慧,定慧等學,戒自然在其中。為什麼?你不起惡念,不會有惡行對待別人,所以聽經是戒定慧三學一次完成。你每天能修八個小時,早晨念佛兩小時,晚上念佛兩小時,一天十二小時,一年不間斷,我想你只要二、三年就得念佛三昧。念佛三昧是功夫成片,往生的條件就具足了。如果不是這樣修法,往生沒把握。世界亂隨它亂去,佛都無可奈何,我們有什麼能力幫助!所以在這個年頭,救自己要緊!
経(説法)を聴くのは(じょう:禅定)を修める方法です。もしあなたが毎日八時間聴くことが出来るなら、聴く時に妄念を起こさないことが定です。はっきりと聴くことは(え:智慧)を修めることです。定(じょう)と慧(え)とは等しく学び、(かい:戒律)は自然にその中にあります。なぜでしょう?あなたが悪念を起こさなければ、他人に悪行で接することはありません。ですから経(説法)を聴くことは(かい)・(じょう)・(え)の三学を一度に完成させます。あなたが毎日八時間修めることが出来るなら、早朝に二時間念仏して、夜に二時間念仏して、一日十二時間、一年中断しなければ、私が思うにあなたは二、三年で念仏三昧を得るでしょう。念仏三昧は念仏の技量が定着することであり、往生の条件が具わることです。もしこのように修めるのではなければ、往生は把握できません。世界が乱れれば、それに流されて乱れます。仏にもどうにもなりません。私たちに助ける力があるのでしょうか!ですからこの考えを持って、自分を救うことが大切です!

我們活一天算一天,不要想還有明年,我連明天都不想,今天有一天光陰,好好念一天佛,誦一天經,多自在!這就是大福,大自在人。不要管事,凡是管事是自找麻煩。要萬緣放下,別人爭名聞利養,我們要放下,放不下就是六道三途;放下了,就到西方極樂世界去作菩薩、作佛,要有這樣的認知。千萬不要錯過了大好機緣,有這個災難是大好機緣,為什麼?逼著我們非用功不可,不用功就去三途了。你從這個角度去看,這是好事一樁,不是壞事。沒有災難,人就懈怠了,想著還有明年、後年,永遠懈怠懶散,功夫就不能得力。現在有災難,逼著你非幹不可,要拼命幹,這才有成就!
私たちは一日一日と生きて、来年があるとは思わない事です。私は明日の事さえ考えません。今日一日の時間があれば、しっかりと一日念仏し、一日読経します。どれほど自在なことでしょうか!これこそが大福徳、大自在の人です。つまらない事に関わってはなりません。つまらない事に関わるのは自分で面倒を引き寄せることです。万縁を放下して、他人が名聞利養(みょうもんりよう)を争っても、私たちは放下することです。放下できなければ六道、三途です。放下すれば、西方極楽世界に行って菩薩に成り、仏に成ります。このような認識がなければなりません。決して絶好の機縁を逃してはなりません。この災難があるのは絶好の機縁です。なぜでしょう?否が応でも精進しなければならないからです。精進しなければ三途に行くのです。このように見れば、これは良い事であり、悪い事ではありません。災難がなければ、人は怠けます。来年、再来年があると思って、怠けていい加減にします。技量を得ることはできません。今災難があれば、あなたは否が応でも精進します。必死に努力します。それでこそ成就するのです!

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不可思議な感応の事例

2014-08-19 | 【在家の善男善女に諭す】


不可思議感應的事例 / 不可思議な感応の事例
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三一九集)2011//3/7 檔名:02-039-0319

中國歷史關於不可思議感應的這些事情,而為大眾都看到了、都聽到了,確實是事實,歷史上都有記載,提供後人做參考。民國初年,我們佛門有些大,把歷史裡面感應的事情抽出來編成一本書,叫《歷史感應統記》,集中在一塊,幾千年來,這個裡頭記載著有輪迴的故事。最近這半個世紀,西方的催眠術非常發達,通過催眠你能夠回到過去世,過去一世、過去兩世、過去三世,過去三、五世的事情,你就講得清清楚楚、明明白白。真的還是假的?調查,結果調查真有其事,不是假的。他說過去一生,他是什麼身分,叫什麼名字,住在哪裡,到那個地方去調查,找地方政府的檔案確實有這個人。什麼時候生的,什麼時候死的,什麼病死的,他都全能說出來,而這個人從來沒有到那邊去過。
中国の歴史で、不可思議な感応に関する事について、大衆の為に見せたり、聞かせたものというのは、間違いなく事実です。歴史的にも記載があり、後世の人に参考として提供しています。民国の初年、仏門の大徳たちは、歴史の中の感応に関する事を抜粋して、一冊の本を編纂しました。それを『歴史感応統記』と言います。一つにまとめました。この中には数千年来の、輪廻の物語が記載されています。最近ここ半世紀、西洋の催眠術は非常に発達しています。催眠を通して過去生に戻ることが出来ます。過去の一世、二世、三世、五世の事を、はっきりと明瞭に話すことが出来ます。本当なのか、嘘なのか?調査をした結果、本当にそのような事があるのです。嘘ではありません。その人が過去の一世について、どのような身分で、何と言う名前で、どこに住んでいたのかを語り、その地方に行って調査すると、地方政府の書類には確かにその人の記録があります。いつ生まれたのか、いつ死んだのか、何の病気で死んだのか、その人はすべて話すことが出来ます。しかも、その人は一度もそこに行ったことはないのです。

我早年在美國,達拉斯有個同修蔡文雄居士,他告訴我,他第一次到美國來,在舊金山,他的朋友開個車,到外面去旅遊、去玩,迷路了。走到一個小鎮,他就跟這些朋友們說,他說這個地方我記得很清楚,有幾條街道,有什麼標誌。結果一走進去,果然不錯。大家都莫名其妙,從來沒有來過,怎麼知道這邊街道裡面一些建築標誌東西?過去生中肯定他在那裡住了很久,這一生中從來沒有來過,突然看到的時候,他就曉得了。這些事情也很多,不獨他一個,我們自己也有經驗。旅遊到個地方,確實頭一次,從來沒看過,也沒有看過什麼畫面、什麼東西,沒有,沒有這些資料,一進入這個狀況,好像這個地方很熟悉。這說明什麼?輪迴。
私は昔アメリカで、ダラスに蔡文雄居士という知人がいました。彼は私に言いました。彼は初めてアメリカに来た頃、ロサンゼルスで、彼の友人が車を運転して旅行に出かけました。遊びに行って、道に迷いました。ある小さな村まで行くと、彼は友人たちに、「私はこの場所をはっきりと覚えている。道路が何本あって、何の標識があるのか覚えている」と言いました。まっすぐ進んで行くと、案の定間違いありませんでした。皆は何が何だかさっぱり分かりません。一度も来たことがないのに、どうしてそこの通りの建築や標識を知っているのでしょうか?過去生の中でその人は間違いなくそこに長く住んでいたのです。この一生で一度も来たことがなくても、突然見た時に、その人は分かるのです。このような事はたくさんあります。彼一人ではありません。私たち自身にも経験があります。ある場所を旅行して、確かに初めてで、これまで見たことがなく、何かの映像を見た訳でも何でもなく、資料もないのに、その状況に入ると、まるでその場所をよく知っているかのようになります。これは何の証明でしょうか?輪廻です。

蔡居士以前不學佛,母親過世的時候,他在母親靈柩,停靈柩的窗口,看到一尊阿彌陀佛,坐在窗口上。親眼看到的,看到的時間很長,不是一剎那,他從這兒相信了。以後他做生意,喜歡古董,突然在古董店看到了一尊佛像,就是他在他母親過世時候窗口看到的一模一樣。他就把這尊佛像請回家去,以後這尊佛像供在達拉斯佛教會,他說看的一點都不錯。這是佛像顯靈,接引他學佛,不是他親身經歷的,你給他講他不相信。這些人都是跟佛有大因緣的人,所以才有這種種示現,他才真的回頭,真的幹了。
蔡居士は以前は仏法を学んでいませんでした。母親が亡くなった時、母親のお棺を安置する部屋の窓枠に、阿弥陀仏を見たのです。窓枠の上に座っていたのです。自分の目で見たのです。見ていた時間は長く、刹那(せつな:一瞬)ではありません。彼はこのことから信じるようになりました。それ以後、彼は商売をしました。骨董が好きで、突然骨董店で仏像を見ました。それは彼の母親が亡くなる時に、窓枠に見たのとまったく同じものでした。彼はその仏像に家に戻っていただき、その後、この仏像はダラス仏教会に寄贈されました。彼は、まったく同じに見えたと言います。この仏像には霊験があり、彼を仏法に導きました。彼は自分で経験しなければ、話して聞かせても信じません。これらの人は皆、仏と大因縁がある人です。だからこのような示現があるのです。彼はようやく本当に改心し、本当に実行するようになりました。

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教育は身をもって手本を示すことを重んじる

2014-08-18 | 【在家の善男善女に諭す】

教育重在以身作則 教育は身をもって手本を示すことを重んじる
文摘--學佛答問(答香港參學同修之二十一) 2005/12/2 香港佛陀教育協會 檔名:21-292-01

有些家長怕孩子受到污染,希望把年歲很小的孩子送到寺院或一些機構學習,脫離社會正常教育體系。這太不容易!你就是把小孩送到寺院、道場,等到他長到十七、八歲的時候,有可能他也不聽你的話,或者他跟外面社會一接觸,馬上就被染污了,很快,所以還是保不住。即使在寺廟也保不住,這個道理一定要懂。真正要把小孩教好,自己要以身作則,而且一定要像古聖先賢那個辦法,小孩生下來就開始教。做父母的、做長輩的大人,在小孩面前,一舉一動都要守規矩,讓他落下都是好印象,沒有負面的。父母怎麼做?父母的所作所為就是《弟子規》,所以《弟子規》不是給小孩念的,《弟子規》是父母做出來給小孩看的。他能從張開眼睛就看到,一直看三年,那個根就很深,他才有能力在社會上有免疫力,他有能力辨別是非,可以不受染污。你要是不如此紮根,就沒辦法。小孩從三歲、五歲才開始教,都太慢了,他腦子裡頭的壞東西、髒東西已經太多了。中國古聖先賢最懂得教育,所以中國歷史上代代都有聖賢人,這是什麼?家庭教育好,父母懂得。
ある保護者の方は、子どもが悪い影響を受けるのを心配して、小さな子を寺院や組織に預けて学ばせ、社会の正常な教育体系から離脱することを望みます。これは簡単ではありません!あなたが子どもを寺院や道場に入れて、その子が十七、八歳になる頃には、その子はあなたの言うことを聞かなくなっているかもしれません。或いは、その子は外の社会に接触すると、すぐに悪い影響を受けてしまうかもしれません。やはり保つことはできません。たとえ寺院にいても保つことはできません。この道理を理解しなければなりません。本当に子どもをしっかり教えるには、自分が身をもって手本を示さなければなりません。それも必ず古の聖賢のような方法で、子どもが生まれてから教え始めます。父母や年長の大人は、子どもの前では一挙一動すべて規則を守らなければなりません。その子に良い印象を残さなければなりません。負の側面ではありません。父母はどのようにすれば良いでしょうか?父母の行為は『弟子規』【注1】によります。ですから『弟子規』は子どもに読ませるものではありません。『弟子規』は父母が子どもにやって見せるものです。子どもは目を開けば見ています。三年間ずっと見ています。その根はとても深いもので、その子はそれによって社会における免疫力をつけるのです。その子は是非を判断する力があり、悪い影響を受けません。このように根を張るのでなければ、どうにもなりません。子どもは三歳、五歳から教えるのでは、もう遅すぎます。子どもの頭の中には、すでに悪いもの、汚いものがたくさんあります。中国の古の聖賢は最も教育を理解していました。ですから中国の歴史には代々聖人が出ています。これは何でしょうか?家庭教育が良いのです。父母が理解していたのです。
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 【注1】 弟子規(でしき)・・・・『弟子規』は儒教精神のプロトタイプ(原型)のようなものです。
 『弟子規』日本語訳:http://blog.goo.ne.jp/fayuan/c/a722958c71e3a93383e029ee8a788c84
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  最徹底的是從胎教,母親懷孕的時候,這在中國史書裡有記載。周文王的母親太任懷他的時候,「目不視惡色」,就是不善的絕不看,「耳不聽淫聲,口不出傲言」,因為起心動念,一舉一動,影響胎兒,這就是胎教!所以周文王是大聖人,周家在中國歷史上八百年,這是歷史上最長的,都得力於三個婦女:周文王的祖母太姜,他的母親太任,他自己的太太太姒。現在婦女稱太太,為什麼稱太太?就是周家這三太教出聖人,太太是聖人的母親,無比的尊貴。
最も徹底しているのは胎教です。母親が妊娠した時からです。これは中国の史書に記載があります。周の文王の母親・太任は妊娠した時、「目に悪色を視ず」、つまり不善のものは絶対に見ませんでした。「耳に淫声を聴かず、口に傲言を出さず」。心の使い方や一挙一動が、胎児に影響するからです。これが胎教です!ですから周の文王は大聖人でした。周家は中国の歴史では八百年です。これは歴史上最も長いものです。すべて三人の女性のお陰です。周の文王の祖母「太姜」、彼の母親「太任」、彼自身の妃「太姒」です。今母親のことを「太太」(Tai-tai、中国語で妻の意)と言いますが、なぜ「太太」と言うのでしょうか?それは周家の三太(三人の女性)が聖人を育成したことによります。「太太」は聖人の母親です。この上なく貴い身分です。

  五倫,這是倫常道。五倫裡第一個是「父子有親」,父子的親愛是天性,不是教出來的。教育就是怎樣把這個親愛保持永恆不變。你看三歲的小孩對父母講我要孝順你,到八、九歲就不孝順,就變了,說話都靠不住了,這是什麼原因?教育。教育的功能就是把他的那種善心、善意、愛心永恆保持,永遠不變;第二就是把這個愛心發揚光大,讓他知道愛父母,愛兄弟,愛家族,愛社會,愛國家,愛人類,擴大父子有親,這是教育。所以中國的教育就是親愛,就教這個東西。君臣有義、夫婦有別,非常重要。夫婦兩個組成一個家庭,別是什麼?各別有不同的任務,先生負擔家庭經濟生活,所以他在外;太太教兒女成聖賢,各人有各人的任務。太太的任務比先生超出太多,先生只知道賺錢養家,家裡的後代出不出人才?出不出聖人?是太太的責任。太太的責任多重!
五倫、これは倫理道徳です。五倫の一つ目は「父子に親あり【注2】です。親子の親愛は天性です。教えられたものではありません。教育とは如何にしてこの親愛を保持し、永遠に変えさせないかということです。三歳の子どもが父母に「孝行して言うことを聞く」と言っても、八歳、九歳になると言うことを聞かなくなります。変わってしまいます。言葉は当てにはなりません。これは何が原因なのでしょうか?教育です。教育の働きは正にその子の善心、善意、愛する心を永遠に保持して、永遠に変えさせないことにあります。二つ目はその愛する心を発揚して輝かせ、父母を愛し、兄弟を愛し、家族を愛し、社会を愛し、国家を愛し、人類を愛することを教えます。「父子に親あり」を拡大させます。これが教育です。ですから中国の教育は親愛です。正にこれを教えているのです。君臣に義あり。夫婦に別あり。これは非常に重要です。夫婦二人が家庭を作ります。別とは何でしょうか?それぞれ異なる任務があるということです。夫は家庭の経済生活を支えます。ですから夫は外にいます。妻は子どもを聖賢に育て上げます。各人にそれぞれ任務があります。妻の任務は夫の任務を遥かに超えています。夫はお金を稼いで家族を養うだけです。家の跡継ぎに人材が出るかどうか、聖人が出るかどうか、それは妻の責任です。妻の責任はどれほど重いことでしょうか!
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 【注2】 「父子に親あり」・・・・親は子を慈しみ、子は親を愛して孝を尽くすという、自然の情愛があること。(『孟子』滕文公上) (新漢語林より)
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  如果太太出去工作,先生就要教育下一代的聖人。兩個人都出去了,你家後代就沒有了。後代不是說你沒有兒女,而是兒女不成材,兒女沒有受到好的教育。經書裡面所說的「不孝有三,無後為大」。那個後,古人講是你有兒孫就有後了,我的解釋不一樣,你兒孫裡有沒有賢人?有沒有繼承道業的人、道統的人。如果沒有繼承家業的人,你家沒有後代,你沒有傳人,這比什麼都重要。
もし妻が仕事に出るなら、夫が次世代の聖人を教育しなければなりません。二人とも外に出るなら、あなたの家の跡継ぎはいなくなります。跡継ぎと言うのは子どもがいないという事ではなく、子どもが有用な人物にならないということです。子どもは良い教育を受けていません。経書に言うところの、「不孝有三、無後為大」(不孝には三つあり、跡継ぎがいないことが最も大きい)です。「」という字について、古人の説くところでは、子や孫がいれば跡継ぎがいるとされていますが、私の解釈は違います。あなたの子孫に賢人がいるかどうか。事業を継承する人、儒学の系統を受け継ぐ人がいるかどうかです。もし家業を継ぐ人がいなければ、あなたの家に跡継ぎはいません。継承する人はいません。これは何よりも重要です。

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良心に気づかなければ、正法を受け入れることは出来ない(上)

2014-08-17 | 【在家の善男善女に諭す】


良心沒有發現,你不能接受正法(上) / 良心に気づかなければ、正法を受け入れることは出来ない(上)
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經 (第二0七九卷) 2009/12/2 檔名:12-17-2079

修行一定要從紮根教育修起,諸佛菩薩示現在世間,頭一個,釋迦牟尼佛三千年前出現在我­們這個世間,為我們做為一個修學的好榜樣,諸佛菩薩應化在我們這個世間,就像「普門品­」裡面所說的,應以什麼身得度他就現什麼身,實在說男女老少各行各業有沒有菩薩?有,­真有,你有緣那就遇到,你沒有緣你遇不到。如果世間沒有這些佛菩薩現身,這個世界早就­毀滅了。有這麼多佛菩薩示現在其中,這個就是中國人所說的龍蛇混雜,凡夫是蛇,佛菩薩­是龍,凡夫造作一切罪業,佛菩薩的心行純淨純善,把這個惡業沖淡,這個世間還能夠安穩­的存在。
修行は必ず「根を張る教育」を修めることから始めなければなりません。諸仏菩薩はこの世間に示現します。まず最初に、釈迦牟尼仏が三千年前にこの世間に現れ、私たちの為に修学の模範を示されました。諸仏菩薩はこの世間に応化(おうげ)します。ちょうど「普門品」の中に説かれているように、どのような身分で済度するかによって、その身分で現れます。実際に、老若男女、各種業界に菩薩はいるでしょうか?います。本当にいます。あなたに縁があれば会うことが出来ます。あなたに縁がなければ会えません。もし世間にこれらの仏菩薩(ほとけぼさつ)の現身がなければ、この世界はとうの昔に滅んでいます。これほどたくさんの仏菩薩がその中に示現しています。これは中国人の言うところの「龍蛇混雑」(玉石混交の意)です。凡夫は蛇、仏菩薩は龍です。凡夫が一切の罪業を作っても、仏菩薩の心行(しんぎょう:心の働き)は純浄純善なので、その悪業は薄まり、この世間は平穏無事でいられるのです。

這是諸佛菩薩無盡的慈悲,他在等,等什麼?等機緣成熟,我們一般中國人講等你­良心發現,什麼時候你良心發現了,他就把正法傳授給你;良心沒有發現,傳正法你不能接­受。你看現在一般年輕人心浮氣躁,這心定不下來。佛法的承傳要具足三個條件,戒定慧,­這才能接受正法;沒有戒定慧,佛菩薩再慈悲,雙手把正法捧著送給你,你沒有辦法接受。­我們前面講過加持,加分,佛菩薩加持一個人是相對的,這個人有一分功,佛菩薩能加持­他一分,就變成兩分;這個人有十分功,佛菩薩加持他十分,就變成二十分。
これは諸仏菩薩の無尽の慈悲です。彼は待っています。何を待っているのでしょう?機縁が熟すのを待っています。私たち一般の中国人の言うように、良心に気がづくのを待っています。いつかあなたが良心に気づいた時、彼は正法をあなたに伝授します。良心に気づかなければ、正法を伝えても、あなたは受け入れることは出来ません。今の一般の若者は落ち着きがありません。心を落ち着かせることが出来ません。仏法の継承は三つの条件を備えていなければなりません。戒・定・慧(戒律、禅定、智慧)、これがあってこそ正法を受け入れることが出来ます。戒・定・慧がなければ、仏菩薩に慈悲があり、両手で正法を捧げてくれても、あなたは受け入れようがありません。私たちは先に加持、加分について講じました。仏菩薩が一人の人を加持するのは相対的なものです。この人に一分(いちぶ)の功徳があれば、仏菩薩は一分の加持をすることができます。そうすると二分に変わります。この人に十分(じゅうぶ)の功徳があれば、仏菩薩は十分の加持をして、二十分に変わります。

如果我們自­己沒有,一分功都沒有,佛菩薩想加加不上,不是他不慈悲,他很慈悲,念念不捨眾生,­好像念念他追逐著眾生,這是真正的恩,這不是假的。我們求,跟佛菩薩求感應,一定要­真修真幹你才能得到感應,真幹就是緣。佛菩薩的教誨,你能知道多少你就做多少,知道不­做,跟不知道沒有兩樣。所以要真幹,才能與佛菩薩感應道交。
もし私たち自身に一分の功徳もなければ、仏菩薩は加持をしようとしてもできません。無慈悲なのではありません。とても慈悲深いのです。衆生を見捨てることはしません。ちょうど衆生の後に付き従っているようなものです。これは本当の恩徳です。これは嘘ではありません。私たちは仏菩薩との感応を求めるなら、必ず本当に修め、実行してこそ得ることが出来ます。本当に実行するのは縁です。仏菩薩の教誨を、知っている分だけ実行します。知っていて実行しないのであれば、知らないのと同じです。ですから本当に行ってこそ、仏菩薩と感応道交することができるのです。


>>良心に気づかなければ、正法を受け入れることは出来ない(下) につづく。
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/427d0630a0d3852986c7ec88aea194bc

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良心に気づかなければ、正法を受け入れることは出来ない(下)

2014-08-17 | 【在家の善男善女に諭す】


良心沒有發現,你不能接受正法(下) / 良心に気づかなければ、正法を受け入れることは出来ない(下)
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經 (第二0七九卷) 2009/12/2 檔名:12-17-2079

從哪裡做起?從十善業做起。那我們現在依照《十善業道經》來做行不行?行是行,怕你做­不到,這是什麼原因?這個原因你必須要懂得,十善業道下面還有基礎,你要沒有這個基礎­,十善業道你修不成功。為什麼古人都能做到,現在人做不到?古人有根,從小就受過倫理­道的教育,那是根。佛在《觀無量壽經》裡面教導我們,佛法修學的總綱領總原則,「淨­業三福」,三條,依照這三條指導去做,沒有不成功的。這個三條第一條四句話,我們想想­我們做到沒有?
どこから始めれば良いのでしょうか?十善業から始めます。それなら私たちは今『十善業道経』に照らして実行できるのでしょうか?行うことは行っても、できないことが心配になります。これは何が原因なのでしょうか?この原因を必ず理解しなければなりません。十善業道の下には更に基礎があるのです。あなたにその基礎がなければ、十善業道を修めても成功しません。なぜ古人にはできて、現代人にはできないのでしょうか?古人には根がありました。子どもの頃から倫理道徳の教育を受けていました。それが根です。仏は『観無量寿経』の中で私たちを教え導いています。仏法修学の綱領となる原則は、「浄業三福」の三ヶ条です。この三ヶ条に照らして指導するなら、成功しない者はありません。この三ヶ条の第一条は四句あります。私たちはできているのかどうか、考えてみて下さい。

第一個「孝養父母」,第二個「奉事師長」,「慈心不殺」,「修十善業」­。前面兩句孝親尊師,這兩千年來在中國佛教裡面,落實在《弟子規》,儒家教育代替了;­慈心不殺,道家的《感應篇》代替了。所以中國人不學小乘,有這樣的基礎,再修十善業道­就沒有問題。有這三個根,《弟子規》、《感應篇》、十善業,對於戒律就很容易了。戒律­的基礎是《沙彌律儀》,十條戒、二十四門威儀,你很容易做到,這是真正的基礎。沒有這­個基礎,學什麼,學得再好,你變成佛門的一位學者,那就是什麼?能說不能行,你知道得­很多,你做不到。所以真正做到,從孝親尊師,從因果,從十善業,然後三皈五戒,具足眾­戒,輕而易舉你就做得好。所以我們學佛如果沒有這三個根,你怎麼會有成就?
最初は「孝養父母」(父母に孝養す:親孝行すること)、二つ目は「奉事師長」(師長に奉事す:年長者に従うこと)。「慈心不殺」(慈心にして殺さず:慈悲心を持ち、殺生しないこと)、「修十善業」(十善業を修す:十善戒を修めること)。先の二句は親に孝行して、師を尊ぶことです。この二千年来、中国の仏教の中では、『弟子規』を実行すること、儒家の教育を代替にしました。「慈心不殺」(慈心にして殺さず)は、道教の『感応篇』を代替にしました。ですから中国人は小乗を学びません、このような基礎があるので、更に十善業道を修めても問題はありません。この三つの根、『弟子規』、『感応篇』、十善業があれば、戒律はとても容易です。戒律の基礎は『沙弥律儀』です。十ヶ条の戒、二十四門の威儀、あなたは容易に行うことが出来ます。これが本当の基礎です。この基礎がなければ、何を学んでも、どれほど良く学んでも、あなたは仏門の学者に変わってしまいます。それは何でしょう?言うことは出来て、行うことは出来ません。あなたは多くのことを知っていて、実行できません。本当に実行できるなら、親孝行して師を尊ぶことから、因果、十善業、そして三帰五戒、具足衆戒などは、簡単に行うことが出来ます。私たち仏法を学ぶ者は、この三つの根が無ければ、どうして成就することが出来るのでしょうか?

我們在以往­、在近代,看到許多人發憤用功、勇猛精進,真的把成績做出來給我們看了,你想一想這些­人,他有沒有具備孝親、尊師重道、深信因果、十善業,他們有沒有具足?他雖然沒有學,­他真具足。他要沒有這個條件,他怎麼能修得成功?這一點我們要知道,這個行的教育,­與認識字不認識字沒有關係。
これまで、近代において、多くの人が発憤して努力し、勇猛に精進して、本当に成果を見せてくれています。考えてみて下さい。それらの人は親孝行で、師を尊び道を重んじ、因果を深く信じ、十善業を備えていたでしょうか?それらの人はたとえ学んでいなくても、本当に備えていました。この条件がなくて、どうして修行を成就させることが出来るでしょうか?私たちはこの点を知っておかなければなりません。この徳行の教育は、字が読めるかどうかは関係ありません。

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家庭教育の欠陥は社会動乱の根源である

2014-08-16 | 【在家の善男善女に諭す】

家庭教育的缺失是社會動亂的根源 / 家庭教育の欠陥は社会動乱の根源である
文摘--大乘無量壽經(第八七卷) 2000/5/20 新加坡佛教居士林 檔名:2-34-087

今天世界動亂,整個世界動亂,動亂的根在哪裡?沒有人知道。許多人在研究動亂的根源,有人說是經濟,有人說是貧富不均,許許多多的說法,但都沒有找到根本。根本是什麼?根本是家庭教育。家庭教育沒有了。家庭像什麼?像一棵大樹上的樹葉,這一棵樹的樹葉都沒有、都爛掉了,這個樹得不到養分就會枯死;樹的生命,要靠樹葉吸收陽光、水分,要吸收養分。今天我們這個社會、世間,家庭沒有了。換句話說,你的子女沒有受過教育,他不懂得孝順父母,不懂得尊敬長輩,於是必定隨順煩惱習氣,胡作妄為,危害社會,這個社會哪裡還會有安寧?
今日世界は乱れています。全世界が乱れています。動乱の根はどこにあるのでしょうか?誰も知りません。多くの人が動乱の根源を研究しています。ある人は経済だと言い、ある人は貧富の格差だと言い、たくさんの意見があります。しかし根本を見つけていません。根本は何でしょうか?根本は家庭教育です。家庭教育が無くなったことです。家庭は何に似ているでしょうか?ちょうど樹木の葉のようなものです。樹木の葉がすべて無くなり、散ってしまったようなものです。樹木は養分が得られなければ枯れてしまいます。樹木の命は、葉が吸収する日光、水分に頼っています。養分を吸収しなければなりません。今日私たちの社会では、家庭が無くなっています。言い換えるなら、あなたの子どもは教育を受けなければ、父母に孝行することも知らず、年長者を敬うことも知りません。そうなると必ず煩悩の習気(じっけ)に流されるようになり、でたらめな行いをして、社会に危害をもたらします。この社会のどこに安寧があるのでしょうか?

中國自古以來最重視的是家庭教育,所以看你這個家庭有沒有前途、會不會興旺,就看你的家教。現在作父母本身就沒有受過好的家庭教育,他生了小孩,不知道怎樣教他。小孩長大悖逆、不聽話、反叛,這個過失不能怪小孩,怪你自己沒有把他教好。教育裡頭,最重要的三樁大事情,現在完全疏忽了。第一樁大事,是要教他明瞭人與人的關係,倫理教育:父子關係、兄弟關係、夫婦關係、朋友關係、君臣關係,人與人的關係,中國人把它分成這五大類,就是五倫。五倫維繫著虛空法界的秩序,比國家社會範圍大得多。虛空法界的秩序,誰懂這個道理?佛懂,菩薩懂,孔老夫子懂。所以他們的生活是「替天行道」,這個意思很深。諺語常說「大道肇端乎夫婦」,這個話的意思很深很深。
中国では古来より最も重視されたのは家庭教育です。ですからあなたの家庭に前途があるかどうか、盛んになるかどうかは、家庭の教育を見るのです。今の父母たちは自分も家庭教育を受けていないのですから、子どもが生まれても、どう教えたら良いのか分かりません。子どもが大きくなると正しい道に背き、言うことを聞かなくなり、逆らいます。この過失は子どもを咎める訳にはいきません。あなた自身が子どもを教えなかったことを咎めるべきです。教育の中で最も重要な三つの事を、今は完全に疎かにしています。一つ目の大事は、人と人との関係をはっきり教えること、倫理の教育です。親子の関係、兄弟の関係、夫婦関係、友人関係、君主と臣下の関係、人と人との関係、中国人はそれを大きく五つに分けました。それが五倫です。五倫は虚空界の秩序に繋がっています。国家社会よりも遥かに範囲が大きいものです。虚空法界の秩序は、誰がその道理を理解しているのでしょうか?仏は理解しています。菩薩は理解しています。孔夫子は理解しています。ですから彼らの生活は「天に代わって正道を行う」ものです。この意味は深いです。諺ではよく、「大道の発端は夫婦にあり」と言います。この言葉の意味はとても深いものです。

古時候,男女結婚,婚禮非常隆重,也非常繁瑣。為什麼要這樣隆重?因為這兩個人的結合,對於整個社會國家,佛法講虛空法界,都有密切的關係,草率不得,要慎重其事。這不是你們兩個人的事情,你們兩個人結婚,在你們自己一家,對你們祖宗、後裔要負責任;在社會,要對社會、對國家負責任。社會的安定,國家的興衰,與你結婚有關係。剛才比喻你們這一對夫妻就像大樹上的一片葉,葉長得好,這棵樹才能壯大;這個葉壞掉了,對於整棵樹的生存就是一分傷害。所以婚姻是道義,要懂得大道,義是義務,應該要這樣作法,現代人哪懂得這個道理?
昔、男女が結婚する際、婚礼は非常に厳粛で、また非常に煩雑でした。なぜそのように厳粛にしたのでしょうか?その二人の結びつきは、社会や国家全体に対して――仏法では虚空法界と言いますが――、すべて密接な関係があるからです。いい加減にすることはできません。慎重にしなければなりません。これは二人だけの事ではありません。二人が結婚すれば、あなた方の家族は、先祖、子孫に対する責任を負わなければなりません。社会においては、社会に対して、国家に対して責任を負わなければなりません。社会の安定、国家の盛衰は、あなたの結婚と関係があるのです。先ほど夫婦を樹木の葉に例えました。葉がよく茂ってこそ、この樹木は大きく丈夫になるのです。この葉が枯れ落ちることは、樹木全体の生存を少しばかり傷つけます。ですから婚姻は道義(どうぎ:人の踏み行うべき正しい道)であり、大道を理解しなければなりません。義とは義務です。このようにしなければならないことです。現代人はこの道理を理解しているでしょうか?

從前的婚姻是道義,現在的婚姻是亂愛,把倫理道全都破壞了,基礎動搖了,社會哪有不動亂的道理?尤其是現在,男女婚姻非常淡薄,離婚率高。離婚之後,你怎麼能對得起你的兒女?你要知道,你的兒女所受的傷害多大?他受傷害,身心發育不正常,將來危害社會、危害國家;換句話說,你就害了國家、害了社會。你要背什麼樣的因果責任?在佛法裡面講,你要是懂得因果責任,這個罪過極重。不要以為沒有關係,現在是沒有關係,死了以後到陰曹地府,就有關係了。你才知道這個事情的嚴重性,怎麼可以這樣草率?所以我說現在人不懂得自愛,真的不懂。自己愛自己都不懂,哪裡能夠愛別人?
昔の婚姻は道義です。今の婚姻は乱れた愛です。倫理道徳をすべて破壊しています。基礎が揺れ動けば、社会が乱れない道理がどこにあるのでしょうか?特に今では、男女の婚姻は非常に情が薄くなり、離婚率が高くなっています。離婚した後、あなたは子どもに申し訳が立つでしょうか?あなたの子どもはどれほど傷つくことでしょうか?その子は傷つくと、身心の発育が不正常になり、将来社会に危害を加え、国家に危害を加えます。言い換えれば、あなたは国を害し、社会を害したのです。あなたはどのような因果の責任を負うのでしょうか?仏法の中で言えば、因果の責任を理解しているなら、この罪は非常に重いものです。関係ないと思ってはなりません。今は関係なくても、死んだ後で「閻魔の庁」に行くと、関係があります。あなたはようやくこの事の重大性を知るのです。どうしていい加減にすることが出来るでしょうか?ですから私は、今の人は自重することを知らないと言っています。本当に知りません。自分を愛することさえ知らないのですから、どうして他人を愛せるのでしょうか?

 今天社會人與人的往來是利害,利害維持不長,很短的時間。專門看別人的過失,看別人的缺點,天下沒有一個是好人。佛說善人,什麼是善人?善人是專看別人的好處,專看別人的善處,不記別人的缺點,不看別人的缺點,天下人都是好人。所以夫妻要懂得這個道理,彼此多看對方的善處、好處,這個婚姻不會破碎。為什麼會離婚?天天看對方的缺點,你說這個糟糕不糟糕!就是念頭轉一轉,就行了。這要靠什麼?靠教育,現在沒有人教!所以千萬不要以為這是小事,這是大事,根本的大事,整個社會動亂的根源就在這裡。
今日の社会では、人と人との往来は利害です。利害は長続きしません。短い時間です。他人の過失ばかりを見ます。他人の欠点ばかりを見ます。天下には一人も良い人はいなくなります。仏は善人を説きます。善人とは何でしょうか?善人は他人の長所ばかりを見ます。他人の長所ばかりを見て、他人の欠点は気にしません。他人の欠点は見ません。天下の人は皆良い人になります。ですから夫婦はこの道理を理解しなければなりません。お互いに相手の良い所、長所を見るようにすれば、婚姻が破綻することはありません。なぜ離婚するのでしょうか?毎日相手の欠点を見ているからです。これはどれほどまずいことでしょうか!考えを転じれば良いのです。これは何に頼るべきでしょうか?教育に頼ります。今は教える人がいません!決してこれを小事と思ってはなりません。これは大事です。根本の大事です。全社会の動乱の根源は正にここにあるのです。

  印光大師對這個事情講了很多,他老人家責備得也很重。說現代婦女離開家庭,所謂是職業婦女,在社會上跟男人去爭,要作女強人。沒錯,妳這一代可以作女強人,妳底下一代完了。為什麼?妳的兒女沒有時間去教,妳就完了。這像什麼?像唐朝武則天過年的時候要看牡丹。牡丹大概在三、四月開花,正月怎麼可能開花?她的命令人家也不敢違背,於是有人去研究,把牡丹放在溫室裡面培養;換句話說,三、四月那種氣候,以那一種溫度,可以把牡丹的花,逼它、強迫它開出來。正月初一宮廷裡面放了很多牡丹花,但是這個花只開一次,以後永遠不再開花。今天婦女在社會上去爭權、爭地位的,就跟那個牡丹一樣,妳這一代可以很榮耀,妳的後代沒有了。不就是這個意思嗎?所以社會的安危,印光大師講得好,女人負一大半的責任。
印光大師はこの事についてたくさん説かれています。大師は厳しい非難もされています。現代の女性は家庭を離れています。いわゆるキャリア・ウーマンです。社会で男性と競って、強い女性になろうとします。その通り、彼女の一世代は強い女性になりますが、次の世代は終わりです。なぜでしょうか?彼女の子どもを教える時間がありません。これは何に似ているでしょうか?唐朝の武則天(ぶそくてん=則天武后)は年を越す時に牡丹を見ようとしました。牡丹はだいたい三月、四月に花を咲かせるものです。正月にどうして花が咲くのでしょうか?彼女の命令に逆らうことはできません。そこである人は研究して、牡丹を温室の中に入れて育てました。言い換えれば、三月、四月のような気候、あのような温度で牡丹の花を無理に咲かせたのです。正月の初日に宮廷には牡丹の花がたくさん咲きました。しかしこの花は一度だけ咲いて、その後は二度と花を咲かせることはありませんでした。今日女性が社会で利権や地位を争うのは、その牡丹と同じです。彼女の一世代は栄誉を得ても、次の世代はいないのです。このような意味ではありませんか?ですから社会の安危は、印光大師が仰るように、女性も半分の責任を負っているのです。

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環境は心の念によって変化する

2014-08-15 | 【在家の善男善女に諭す】


環境為心念所變 環境は心の念によって変化する
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三六七集)2011/4/8 檔名:02-039-0367

春夏秋冬是地球在太空當中運行的秩序,現在這個秩序明顯的顛倒了,不正常。春秋愈來愈短,科學家告訴我們,可能春天、秋天只有一個月,夏天變長了,夏天五個月,冬天五個月,夏天更熱,冬天更冷。異常,不正常。這些現象是所變,能變的是我們的心念,我們的念頭不正常,感得外面山河大地的依報全不正常。這問題怎麼辦?恢復正常要靠秩序。什麼秩序?倫理是秩序,道是秩序,因果是秩序,聖賢人的教誨是秩序。我們把這些東西統統喪失掉了,社會大亂,地球也大變,居住在地球上的眾生苦了!
春夏秋冬は地球が宇宙の中を運行する秩序です。今はこの秩序が明らかに狂っています。不正常です。春と秋はだんだん短くなっています。科学者が言うには、おそらく春と秋は一ヶ月しかなくなり、夏は長くなります。夏は五ヶ月、冬は五ヶ月です。夏は更に熱くなり、冬は更に寒くなります。異常です。不正常です。これらの現象は変化したものです。変化させるのは私たちの心の念です。私たちの意念が不正常であれば、外界の山河や大地の依報【注】に感応して、すべて不正常になります。この問題はどうすれば良いのでしょうか?正常を取り戻すには秩序に頼らなければなりません。何の秩序でしょうか?倫理は秩序です。道徳は秩序です。因果は秩序です。聖人賢人の教誨は秩序です。私たちはこれらのものをすべて喪失しています。社会は大きく乱れ、地球も大きく変わり、地球上に住んでいる衆生は苦しんでいます!
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 【注】 依報(えほう)・・・・過去の業の報いとして受ける、身心のよりどころとしての国土などの環境。
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這個道理只有大乘經裡面講得清楚、講得明白,可是現在沒有人相信大乘,說這是迷信,說這個不合科學。那只有等待嚴重災難發生,到人類走投無路的時候也許會回頭。中國古諺語所謂「不聽老人言,吃虧在眼前」,眼前一定要吃大虧,要遭受大苦難,大概才會回頭。也就是所謂我們必須付出慘痛的代價,才去找老人、找祖宗;不肯找祖宗,不肯找老人,你就沒有解決的方法,這是真的。
この道理は大乗経の中においてのみ、はっきりと、明確に説かれています。しかし今、大乗を信じる人はいません。これは迷信だと言います。これは科学に合致しないと言います。それなら深刻な災難が発生するのを待つしかありません。人類が万策尽きた時に、目が覚めるかもしれません。中国の古い諺では、「年長者の言葉に耳を貸さなければ、必ずひどい目に遭う」と言われます。一寸先は必ずひどい目に遭います。大きな苦難に見舞われます。それでようやく目が覚めるのでしょう。それはつまり、痛ましい代償を支払ってから、ようやく年長者に尋ね、ご先祖様に尋ねるということです。ご先祖様に尋ねようとせず、年長者に尋ねようとしないなら、あなたに解決の方法はありません。これは本当です。

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為政の道は、倫理、道徳、因果、聖人の教誨に頼らなければならない

2014-08-14 | 【在家の善男善女に諭す】


為政之道要靠倫理、道、因果、聖人教誨 / 為政の道は、倫理、道徳、因果、聖人の教誨に頼らなければならない
文摘恭錄—淨土大經科註(第二九二集)2012/4/14 檔名:02-037-0292

我在國際上遇到幾個國家領導人,問我怎麼樣把政治搞好,我就講這個東西給他聽。社會之亂,不能責備,要宏大量,要能饒恕,要把教育辦好。沒人教之前犯的過可以原諒,你把教育辦好。教育講什麼?講倫理、講道、講因果、講聖人教誨。
私は国際的な舞台で、何人か国の指導者とお会いしました。どうすれば政治が良くなるのかと質問されると、私はこの話をしています。社会の乱れは、誰も咎めることはできません。度量を大きく持ち、大目に見て、教育をしっかりと行わなければなりません。誰も教えていなかった以前の過ちは許して、教育をしっかりすることです。教育は何を重んじるのでしょうか?倫理、道徳、因果を重んじ、聖人の教誨を重んじます。

現在學校沒有這個課程,中國、外國全沒有,都是科學技術,科學技術是教你做事,所以不懂得做人。沒有做人的教育,所以人心壞了,才搞成這個樣子。挽救的方法,只有把這四種教育再興起來,社會有救,國家有救,世界有救。
今の学校にはこの課程がありません。中国、外国、すべてありません。すべて科学技術です。科学技術はあなたに事を処理することを教えます。ですから人としての身の処し方を知りません。人としてどうあるべきかの教育がありません。ですから人心は悪くなり、このようになってしまったのです。救済する方法は、この四つの教育を再興する他はありません。社会に救いがあり、国家に救いがあり、世界に救いがあります。

頭一個倫理教育。倫理是講人跟人的關係,關係搞清楚了,就知道我們應該盡什麼樣的義務,應該怎麼樣做人。制度好壞不要緊,人心不善,再好的制度他照樣幹壞事;人心要善,再壞的制度他會做好事。中國古人有所謂「人存政舉,人亡政息」,為政之道,得人是第一大事。那要得人,你就得教人,你不教,人從哪來?
最初は倫理の教育です。倫理は人と人との関係を重んじます。関係が明らかになれば、私たちはどのような義務を果たすべきか、どのように身を処するのかが分かります。制度の良し悪しは構いません。人心が不善であれば、どれほど良い制度でも人は相変わらず悪い事をします。人心が善であれば、どれほど悪い制度でも、人は良い事をするものです。中国の古人が言うところの、「人存すれば政挙がり、人亡(な)ければ政息(や)む【注】です。為政の道は、人材を得ることが第一の大事です。人材を得たければ、あなたは人に教えなければなりません。あなたが教えなければ、人はどこからやって来るのでしょうか?

<注>
「人存政舉,人亡政息」・・・・人存すれば政挙がり、人亡(な)ければ政息(や)む。
『中庸』第七章より
其人存、則其政挙、其人亡、則其政息。
其の人存すれば、則ち政挙がり、其の人亡(な)ければ、則ち其の政息(や)む。
しかるべき人がいれば政治は立派に行われ、しかるべき人がいなければ政治は廃れてしまう。

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ご先祖様のものは迷信ではない

2014-08-13 | 【在家の善男善女に諭す】


老祖宗的東西不迷信 / ご先祖様のものは迷信ではない
文摘恭錄—淨土大經科註(第六十集)2011/11/25 檔名:02-037-0060

今天的問題,多少人都在盼望著,用什麼方法能恢復社會的安定和平,化解地球上這麼多災難。經典、宗教現在世間人說是迷信,不要了,不能接受,都相信科學,科學家不能解決當前問題。好在出現了一批年輕的、新興的科學家,他們也真用心,從物理的兩個極端去研究。研究宏觀宇宙的叫太空物理,跟它相反的是研究量子力學,一個是無限大,一個是無限小。量子力學研究的報告,居然跟佛經上所說的相同,講的宇宙源起。
今日の問題について、どれほど多くの人が気にかけていることでしょうか。どのような方法を用いれば社会の安定と平和を取り戻し、これほど多い地球上の災難を解消できるのでしょうか。今の世間の人は、経典、宗教は迷信だと言います。要りません。受け入れられません。皆科学を信じています。科学者には目の前の問題を解決することはできません。幸いにも、若い新興の科学者たちが現れて、物理の両極端を真剣に研究しています。マクロの宇宙を研究する宇宙物理と、それとは反対の量子力学です。一つは無限に大きく、一つは無限に小さいものです。量子力学研究の報告は、意外にも仏経に説かれているものと同じで、宇宙の起源を説いています。

宇宙從哪來的,萬物從哪來的,生命從哪來的,最後一個核心的問題,我從哪裡來的。他們的成就相當可觀,幾乎要達到透明的程度了。但是這種新興課題,什麼時候社會大眾才能相信,才能接受?真正相信、真正接受,我們的生活必然改觀,肯定把以前老祖宗東西慢慢都找回來。找回來再加新的研究,看看老祖宗留下的東西有沒有價值,慢慢都會發現了。老祖宗的東西不迷信,裡頭有大學問!
宇宙はどこから来たのか。万物はどこから来たのか。生命はどこから来たのか。最後の核心的な問題は、自分はどこから来たのかです。彼らの成就は相当に大したもので、ほとんど透明な程度に達しています。しかしこの種の新興の課題は、いつ社会の大衆が信じ、受け入れられるようになるのでしょうか?本当に信じ、本当に受け入れれば、私たちの生活は必然的に大きく変わります。間違いなく昔のご先祖様のものを、少しずつ取り戻すようになります。取り戻して更に新たな研究を加え、ご先祖様が残されたものに価値があるのかどうか、少しずつ発見されることでしょう。ご先祖様のものは迷信ではありません。その中には大学問があります!

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父母が子どもを友達と見なすのは、実は大きな間違い

2014-08-12 | 【在家の善男善女に諭す】


父母把兒女看作朋友,殊不知是大錯特錯 / 父母が子どもを友達と見なすのは、実は大きな間違い
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三八二集)2011/4/22 檔名:02-039-0382

為什麼不把心量拓開?像諸佛如來、法身大士他們的心量,都是包虛空容納法界的,容法界的。日常生活當中去學,工作裡面去學,處事待人接物裡面去學,這叫真修行,這叫真學佛,這樣的人當然是住正定聚。所以發菩提心是真誠,也就是印光大師常講的誠敬,這是菩提心的體,比什麼都重要。現在難難在什麼?難在沒有榜樣,沒有一個模式,這個最困難。古時候有,古時候沒有人不孝順父母,對別人不誠不敬,對父母沒有不誠敬的。父母就是個好樣子,用對父母的那種真誠對一切眾生,菩提心他很容易就發起來。現在兒女對父母不孝了,父母也不把兒女看作兒女,看作什麼?朋友,這挺時髦的,殊不知大錯特錯,把倫常根拔掉了。倫常的根拔掉,就是社會和諧的根拔掉了,宇宙和諧的根拔掉了,你說這個罪多重。
なぜ心を開かないのでしょうか?諸仏如来、法身大士たちの心は、虚空も法界も包み込みます。法界を包容します。日常生活の中で学び、仕事の中で学び、事を処理したり人間関係の中で学ぶこと。これを真の修行と言うのです。これが本当に仏に学ぶということです。このような人は当然、正定聚(しょうじょうしゅ)【注1】に安住します。ですから発菩提心は真誠(しんせい=誠の心)です。または印光大師の説かれる誠敬(せいけい)、これが菩提心の本質であり、何よりも重要です。
今の難しさはどこにあるのでしょうか?難しいのはお手本がない事です。一つもモデルがありません。これが最も困難です。昔はありました。昔は父母に孝順でない人、他人を敬わない人、父母を敬わない人はいませんでした。父母は良いお手本でした。父母に対する真誠(しんせい)をもって衆生と接していました。菩提心は容易に発することができます。今の子どもは父母に対して不孝です。父母も子どもを子どもと見ていません。どう見ているのでしょう?友達です。これが今の風潮ですが、実は大きな間違いです。倫常(りんじょう:人の守るべき道)の根を抜き取っています。倫常の根を抜き取るとは、つまり社会の調和の根を抜き取っているのです。宇宙の調和の根を抜き取っています。この罪はどれほど重いことでしょうか。
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 【注1】 正定聚(しょうじょうしゅ)・・・・仏に成ることの定まった聖者。不退転の菩薩たち。
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誰知道?誰能說得出?沒人!古時候人人都知道,對自己恩最大的是父母,跟父母同等的是老師。學佛,你看淨業三福第一條「孝養父母」,第二句「奉事師長」。所以我常講佛法流通在全世界,唯獨在中國生根、壯、開花、結果,其他任何一個地區都比不上中國,什麼原因?中國人有孝的基礎。佛法是師道,師道建立在孝道的基礎上,沒有孝道,哪來的師道?所以佛法,尤其是大乘,在中國這兩千年,成就遠遠超過印度。這是說從前,不是說現在,現在印度沒佛法了。佛法跟中國傳統文化已經融合成一體,佛有這個度量,我們中國古大也有這個度量,這個度量從哪來?從孝道來。中國人孝道的根紮得厚,佛法把孝道擴展到遍法界虛空界,孝道才講到究竟圓滿。
誰が知っているでしょうか?誰が言い出せるのでしょうか?誰もいません!昔は誰でも知っていました。自分に対する恩徳の最も大きいのは父母です。父母と同等なのは教師です。仏法を学ぶなら、浄業三福の第一条は「孝養父母」(父母に孝養す=両親に親孝行すること)、第二句は「奉事師長」(師長に奉事す=年長者に仕えること)です。ですから仏法は全世界に流通して、ただ中国で根を生やし、育ち、花を咲かせ、実を結びました。他の如何なる地域も中国には及びません。原因は何でしょうか?中国人には「孝」の基礎があります。仏法は師道【注2】です。師道は孝道【注3】の基礎の上に建てるものです。孝道がなくて、どうして師道など出来るでしょうか?ですから仏法は、特に大乗では、中国におけるこの二千年、その成就はインドを遥かに超えています。これは昔のことで、今のことを言っているのではありません。今インドには仏法はなくなっています。仏法は中国の伝統文化と融合して一体になっています。仏法にはこの度量があります。私たち中国の古の大徳にもこの度量があります。この度量はどこから来るのでしょうか?孝道から来るのです。中国人の孝道の根は深く根付いています。仏法は孝道を遍法界虚空界【注4】にまで大きく広げます。孝道はそれでこそ究極円満になるのです。
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 【注2】 師道(しどう)・・・・師に仕える道。
 【注3】 孝道(こうどう)・・・・父母に仕える道のこと。親孝行の道。
 【注4】 遍法界虚空界(へんほっかい、こくうかい)・・・・因果に支配される全宇宙(法界)と、それを超越した根源的な真如の世界(虚空界)のこと。
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先人不善にして、道徳を識らず

2014-08-11 | 【在家の善男善女に諭す】


先人不善,不識道 / 先人不善にして、道徳を識(し)らず
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四五O集)2011/6/12 檔名:02-039-0450

特別是在現在這個時代,這個時代真正要記住世尊在經上講的話,「先人不善,不識道」。先人是誰?他的父母、他的祖父母、他的曾祖父母,甚至於他的高祖父母。傳統倫理道教育丟掉一百多年了,一百多年,五代。世世代代都不知道,都沒有教導,他今天做錯事情你就決定不能怪他。我們還是得到佛法的陶,才有這個緣分親近聖賢教育,才醒悟過來了,我們如果沒有聖賢教育的陶,跟他沒有兩樣,甚至於比他更壞,我們都要想到,然後憐憫心、同情心,你才能生得起來,你自自然然就原諒他們。而且你要是看到因果的話,憐憫心生起來了,他將來到哪去?三途去了。本來都是佛,為什麼轉到那裡去了?一個錯誤的念頭。我們如果還有錯誤念頭,別人對我們不利,我們還有瞋恚,還有一點報復的念頭,我們就大錯特錯,我們跟他一般見識,跟他一般見識你就不能往生,你就還得繼續搞六道輪迴。輪迴裡面搞什麼?冤冤相報,沒完沒了,搞這個事情去了。
特に今のこの時代、この時代では世尊が経の中に説かれた言葉、「先人不善,不識道徳」(先人不善にして、道徳を識らず)【注】を覚えておかなければなりません。先人とは誰でしょうか?その人の父母、祖父母、曽祖父母、甚だしきに至っては高祖父母です。伝統の倫理道徳の教育が失われて百年余りです。百年余りなら、五世代です。どの世代も知りません。誰も教えませんでした。人が今日間違った事をしたとしても、あなたは絶対にその人を咎めることはできません。私たちは仏法の薫陶を得て、このご縁に聖賢の教育に親しんでこそ、目が覚めて来るものです。私たちはもし聖賢教育の薫陶が無ければ、その人と何も変わりはしません。甚だしきに至っては、その人よりも悪かったかもしれません。よく考えてみれば憐みの心、同情心が出て来て、自然に彼らを許すようになります。因果の話を見れば、憐みの心が起こります。その人は将来どこに行くのでしょうか?三途(さんず=三悪道)に行くのです。本来皆仏であるのに、どうして翻ってそこに行くのでしょうか?間違った考えによるものです。もし間違った考えをもって、他人が私たちに不利益をもたらしたら癇癪を起こし、少しでも報復する考えを持つようなら、それは大きな間違いです。その人と同じ程度の考えです。同じ程度の考えなら、あなたは往生することはできません。あなたは六道輪廻を続けなければなりません。輪廻の中では何をするのでしょうか?お互いに恨みを報い合います。きりがありません。これをしに行くのです。

<注>
先人不善(無知),不識道徳,無有語者,殊無怪也」 (『無量寿経』の一節)
 先人不善(無知)にして、道徳を識(し)らず、語る者あること無くば、殊に怪しむこと無し。

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