禪宗六祖惠能大師 / 禅宗六祖慧能(えのう)大師
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一四七集)2010/9/24 檔名:02-039-0147
中國人都知道,唐朝時候禪宗六祖惠能大師明心見性了。明心見性的人很多,能大師之前有,能大師之後也有,為什麼單單提他,不提別人?他很特別,因為他不認識字,沒念過書,佛門裡成了祖師,一天經也沒聽過。有沒有去念過一天佛?沒有。有沒有去禪堂裡坐坐香坐一天?也沒有。這憑空你看五祖把衣缽傳給他,他做了第六祖,這在中國找不到第二個人,只有這一個,六祖之前沒有,六祖之後也沒有,太特殊了。而且年紀很輕,五祖傳法給他的時候他二十四歲,那時候五祖是老人,二十四歲年輕的小朋友,傳給他。他真開悟了,不是假的,五祖在方丈室,半夜三更給他講《金剛經》大意,肯定沒有經本,他不認識字,不需要經本,講到「應無所住,而生其心」,他就豁然大悟,就通了,這一悟全明白了。我們剛才講體相用,那個悟是作用,這一悟,性體明白了,法相明白了,就是諸法之體相統統明白了。
中国人は皆知っています。唐朝の頃、禅宗六祖の慧能(えのう)大師は明心見性しました。明心見性した人はたくさんいます。慧能大師の前にもいました。慧能大師の後にもいます。なぜ慧能大師ばかりを取り上げて、他の人を取り上げないのでしょうか?彼は特別だからです。彼は文盲(もんもう:文字の読み書きができないこと)で書物を読んだことがありませんが、仏門で祖師になりました。一日も経を聞いたことがありません。一日でも念仏したことがあったでしょうか?ありません。禅堂に行って一日でも坐禅したことがあるでしょうか?それもありません。何のよりどころもなく五祖は衣鉢を彼に伝えました。彼は六祖になりました。これは中国で二人目はいません。この一人だけです。六祖の前にはおらず、六祖の後にもいません。大変に特殊なのです。しかも年齢も若く、五祖が彼に法を伝えた時、彼は二十四歳でした。その時五祖は老人で、二十四歳の若者に伝えたのです。彼は真に悟りを開きました。偽りではありません。五祖は方丈室で夜半の三更(さんこう:深夜0時から2時)に『金剛経』の大意を彼に説きました。経本はありません。彼は文盲ですから、経本は必要ありません。「応(まさ)に住する所無くして、しかも其の心を生ずべし」(応無所住,而生其心)まで説いた時、彼は忽然と大悟しました。通りました。この悟りですべてが明らかになりました。私たちは先ほど「體相用」を講じました。その悟りとは作用です。この悟りで、性體を理解しました。法相を理解しました。諸法の體相をすべて理解しました。
這種能力是自性裡頭本有的,我們為什麼開不了悟?釋迦牟尼佛在《華嚴經》上說得很清楚,他說「一切眾生皆有如來智慧德相,但以妄想執著而不能證得」,你看講得多清楚。也就是諸佛如來所悟的諸法實相,剛才講的體相用,體是自性,相是法相,用是覺悟,全都有,自性裡頭具足。所以惠能大師的報告,「何期自性,本自具足」,不是從外頭來的,無量的智慧、無量的德能、無量的相好,統統有。為什麼沒有了?是因為你有妄想分別執著,這都叫煩惱,妄想叫無始無明,也叫無明煩惱,分別叫塵沙煩惱,執著叫見思煩惱,這是大小乘經上常講的。只要你把這三種煩惱放下,你就成佛了,你就跟釋迦、跟惠能、祖師大德一模一樣,就契入境界了。難在哪裡?難在我們不肯放下,不是不能放下。釋迦牟尼佛能,菩提樹下入定放下了,為我們表演的大徹大悟;惠能大師放下了,明心見性,見性成佛。他們能,我們為什麼不能?原因就是佛說的,我們對事實真相沒搞清楚,這個所有現象假的,《金剛經》上說得好,中國人喜歡《金剛經》是因為五祖傳給六祖惠能是用《金剛經》,惠能大師在《金剛經》上開悟,所以這部經就被佛門弟子奉為第一寶典,是這麼個道理。《金剛經》在中國兩千多年就度了一個惠能大師,他成就了。是不是第一寶典?一切經統統是第一寶典,得要契機才行,惠能那是上上乘根機,不是普通的。
このような能力は自性(じしょう)の中にもともとあるものです。私たちはなぜ悟りを開けないのでしょうか?釈迦牟尼仏は『華厳経』の中で明確に説かれています。彼は「一切衆生は皆如来の智慧・徳相を具えている。ただ妄想・執著によって証得することができない」(一切衆生皆有如来智慧徳相,但以妄想執著而不能證得)と説かれています。どれほど明確に説かれていることでしょうか。諸仏如来の悟る所の諸法実相は、――先ほど話した「體相用」、體は自性、相は法相、用は覚悟(かくご:悟ること)――すべてあります。自性の中にすべて具足しています。ですから慧能大師の報告「何をか期せん、自性もと自ずから具足することを」(何期自性,本自具足)、これは外から来るのではありません。無量の智慧、無量の徳能、無量の相好、すべてあります。なぜ無くなったのでしょうか?あなたに妄想・分別・執著があるからです。これらはすべて煩悩と言います。妄想は無始無明、または無明煩悩と言います。分別は塵沙煩悩と言います。執著は見思煩悩と言います。これは小乗・大乗の経によく説かれているものです。あなたはこの三種類の煩悩を放下しさえすれば、仏に成ります。あなたは釈迦、慧能、祖師大徳とまったく同じになります。境界(きょうがい:境地)に入ります。難しいのはどこでしょうか?難しいのは私たちは放下しようとしないことです。放下できないのではありません。釈迦牟尼仏にはできました。菩提樹の下で入定し、放下しました。私たちのために大徹大悟を演じて下さいました。慧能大師は放下して、明心見性、見性成仏されました。彼らは出来ました。私たちはなぜ出来ないのでしょうか?原因は仏が説かれています。私たちは事実の真相が明瞭ではありません。このすべての現象は偽りです。『金剛経』に説かれています。中国人が『金剛経』を好むのは五祖が六祖慧能に伝えるのに用いたのが『金剛経』だからです。慧能大師は『金剛経』で開悟されました。ですからこの経は仏門の弟子に第一の宝典として尊ばれています。このような道理です。『金剛経』は中国で二千年余りのうちに慧能大師一人を済度しました。彼は成就しました。第一の宝典なのでしょうか?一切の経はすべて第一の宝典です。契機を得てこそできることです。慧能大師は上上乗の根機(こんき:資質)です。普通の根機ではありません。
放在心上叫攀緣,不放在心上是隨緣 / 心に留めていれば攀縁(はんえん)と言い、心に留めなければ隨縁(ずいえん)である
文摘恭錄—淨土大經科註(第一四九集)2012/1/20 檔名:02-037-0149
覺是本覺,覺不是求來的,智慧不是求來的,能不是求來的,相好不是求來的,是自性裡頭本來具足的。你沒一樣東西需要到外求,自己本性裡頭圓滿具足。惠能大師見性,告訴我們「何期自性,本自具足」,什麼也不缺,是迷失了。
覚とは本覚(ほんがく)です。覚は求めて得られるものではありません。智慧は求めて得られるものではありません。徳能は求めて得られるものではありません。相好(そうごう)は求めて得られるものではありません。それらは自性【注1】の中に本来具わっているものです。あなたは何一つとして外に求めずとも、自分の本性の中に円満に具足しているのです。慧能(えのう)大師は見性して、「何をか期せん、自性もと自ずから具足することを」(何期自性 本自具足)と説かれています。何も欠けてはいません。見失っているのです。
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【注1】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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不需要求,把那個對向外求的念頭給斷掉,在這個世間一切隨緣,事事物物都不要放在心上。放在心上就壞了,放在心上叫攀緣,不放在心上是隨緣。心裡頭沒有事,永遠保持清淨平等覺就對了。有一樣東西,我的心就不清淨、就不平等,就迷而不覺,這是真道理。
求める必要はありません。外に求める考えを捨てて、この世間一切を縁に従い、何事も心に留めてはなりません。心に留めれば壊れます。心に留めていれば攀縁(はんえん)【注2】と言い、心に留めなければ隨縁(ずいえん)【注3】です。心の中には何もありません。永遠に清浄・平等・覚を保てば良いのです。何か一つでもあれば、自分の心は不清浄、不平等となります。つまり迷いが生じて覚れません。これは真実の道理です。
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【注2】 攀縁(はんえん)・・・・俗事にひかれること。「攀」には「すがる」、「たよる」、「たのむ」などの意。
【注3】 隨縁(ずいえん)・・・・縁に従うこと。
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為什麼這個事情我不能放下?你不知道是假的,你要知道凡所有相,皆是虛妄,你才能放得下。所以你沒有看破,看破之後才能放下,放下能提升你看破。成佛沒有別的,這以前章嘉大師教給我的,就是看破幫助放下,放下幫助看破,這兩者相輔相成,從初發心到如來地。
なぜ自分はこの事を放下できないのでしょうか?あなたはそれが偽りであることを知りません。あなたは「およそ姿・形あるものは、すべて実体がない」(凡所有相,皆是虚妄)を知れば、放下できます。ですからあなたは看破していません。看破した後で、ようやく放下できます。放下はあなたの看破を高めます。仏に成るとは他でもありません。これは以前、章嘉大師が私に教えて下さった事ですが、看破は放下を助け、放下は看破を助けるのです。この二つは補い合い助け合って生成発展します。初発心から如来地までそうです。
如果你一時統統放下,你馬上成佛了。成佛沒時間的,一念覺,成佛來講,他就成佛了,惠能大師給我們做了樣子。釋迦牟尼佛也表演這個榜樣,菩提樹下夜睹明星,大徹大悟,就是一時頓捨,把起心動念、分別執著一下就捨掉,他就成佛了。我們沒有這個能力,不是沒有這個能力,是我們沒有看破;我們真的看破了,就真放下,看破一分放下一分,看破兩分放下兩分。
もしあなたがすべて放下すれば、あなたはすぐに仏に成ります。仏に成るのに時間がかからない人は、一念の覚りで仏に成ります。慧能大師はその様子を示して下さいました。釈迦牟尼仏もお手本を演じて下さいました。菩提樹の下で明けの明星を見て、大徹大悟しました。つまり一時に頓捨(とんしゃ:一度に放下すること)しました。心の起こり、念の動き、分別、執著を一度に捨て去り、彼は仏に成ったのです。私たちにはこの能力はありません。この能力がないのではなく、私たちが看破していないのです。本当に看破すれば、本当に放下します。一つ看破すれば一つ放下します。二つ看破すれば二つ放下します。
凡夫業障習氣重,就用這個辦法,慢慢放,一天放一點,一天放一點,這叫真精進。現在淨宗方法太妙了,妙極了,叫你一切都放下,你就一心念佛,念佛裡頭,看破、放下統統具足。一心只嚮往極樂世界,只嚮往阿彌陀佛,我願意到極樂世界去,我依阿彌陀佛做老師,做彌陀弟子。
凡夫は業障の習気(じっけ)が重いので、この方法を用います。少しずつ手放します。一日少しずつ手放します。これを真精進と言います。浄宗の方法は妙です。この上なく妙です。あなたは一切を放下させ、一心に念仏します。念仏の中に、看破、放下がすべて具足しています。一心に極楽世界だけに向かいます。阿弥陀仏だけに向かいます。自分は極楽世界に行き、阿弥陀仏を老師として、弥陀の弟子になることを願います。
自性是一個,阿耶也是一個 / 自性は一つ、阿頼耶もまた一つ
文摘恭錄—淨土大經科註 (第一三六集) 2012/1/13 檔名:02-037-0136
自性是一個,阿耶?阿耶也是一個。你要以為我的阿耶不是你的阿耶,錯了,阿耶是一個。末那不是一個,末那跟意識、前五識,那就是分開了,它的體是阿耶,所以阿耶是一個。阿耶是一個,你心裡面想的那個東西我能知道,為什麼?資料庫是一個,你可以取得,我也可以取得。你多生多劫念了很多書,我沒有念書,我把你這個取得,等於我念了那麼多書,你替我念的。真有這樁事情,這不是假的,確確實實是不可思議的境界。
自性【注】は一つです。阿頼耶(あらや)はどうでしょう?阿頼耶もまた一つです。あなたは自分の阿頼耶は人の阿頼耶ではないと思うなら、それは間違いです。阿頼耶は一つです。末那(まな)は一つではありません。末那と意識、前五識、それは分けられます。その本体は阿頼耶です。ですから阿頼耶は一つです。阿頼耶は一つですから、あなたが心の中で思うことを知ることができます。なぜでしょうか?資料倉庫は一つですから、あなたは取り出すことができます。自分でも取り出すことができます。あなたは何度も生まれ変わり、計り知れないほどの長い間に多くの書物を読んでいれば、自分は書物を読んでいなくても、それを取り出せれば、自分が多くの書物を読んだのと同じです。人が自分の代わりに読んだのです。本当にこのような事があります。これは偽りではありません。確かに不可思議な境界(きょうがい:境地)です。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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我現在年歲大了,記憶力不如以前,事有印象,人名、地名都忘掉了,都搞不清楚了。記得有這麼一樁事情,也許你們看書,記得比我清楚。古時候參加考試的這個秀才沒考中,發牢騷,我的文章這麼好,為什麼沒有錄取?他遇到一個道人,道人說你的文章未必好。他不服氣,你沒有看到,你怎麼知道我不好?道人在袖子裡頭拿出一篇文章來,你看看這是不是你的考卷?他一看呆了,我的考卷怎麼會在他口袋裡?那就是什麼?從他意識裡頭調出來的,是真的不是假的。我們看到這個好像傳奇小說。可不可能?在佛法講有可能,不是假的。
私は今では年を取り、記憶力は昔には及びません。事柄に印象はあっても、人の名前、場所はすべて忘れてしまい、はっきりしません。このような事がありました。もしかすると皆さんはその書物を読んでいて、私よりしっかり覚えているかもしれません。昔、試験を受けたある秀才は合格できず、不平を言いました。「私の文章はこれほど良いのに、なぜ採用されないのだろうか?」 彼はある道士と出会いました。道士は、「君の文章はそれほど良くはない」と言いました。彼は納得できません。「見てもいないのに、あなたはどうして良くないと知っているのですか?」 道士は袖の中から一篇の文章を取り出しました。「これは君の答案ではないかね?」 彼はあっけにとられました。自分の答案がどうして道士のポケットの中にあるのでしょうか? それはどういうことでしょうか?彼の意識の中から移したのです。これは本当であり、偽りではありません。私たちはこれを伝奇小説のように見ています。可能なのでしょうか?仏法では可能であると説かれています。偽りではないのです。
<参考>
阿頼耶識・・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98
末那識・・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
佛菩薩常生歡喜心 / 仏菩薩(ほとけぼさつ)は常に歓喜心が生じる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四三三集)2011/6/3 檔名:02-039-0433
慈悲就是我們一般人講的愛,為什麼佛用慈悲不用愛?因為愛裡頭有情執,那是毛病。愛裡面只有智慧沒有情執,就叫慈悲。也就是我們前面所說的,妄想分別執著統統都沒有,這個愛心叫慈悲。慈悲是自性裡頭本有的,是性,人人都有;現在慈悲心發不出來,是因為妄想分別執著障礙它。如果妄想分別執著斷了,這個心自然生起來,沒有條件的。覺悟的人跟沒覺悟的人不一樣,覺悟的人他能做到,現在在現前這個社會做到不容易。為什麼?他對你懷疑,你對他好,他就想:你為什麼對我好?你有什麼企圖?你有什麼目的?想方設法來防備你。沒有信心,首先對自己不相信,對任何人都不相信。
慈悲とは一般の人が言うところの愛です。なぜ仏は慈悲(という言葉)を用いて愛(という言葉)を用いないのでしょうか?愛の中には情執があるからです。それは誤りです。愛の中に智慧だけがあり、情執がないこと、それを慈悲と言います。また先にお話ししたように、妄想・分別・執著がすべてないこと、この愛を慈悲と言います。慈悲は自性【注1】の中にもともとあるものであり、性徳です。誰にでもあります。今慈悲心が起こらないのは、妄想・分別・執著がその障碍になっているからです。もし妄想・分別・執著を断ったなら、その心は自然に起こります。無条件にです。目覚めた人と目覚めていない人とは違います。目覚めた人は実行できます。今の現前の社会で実行するのは容易ではありません。なぜでしょうか?人はあなたを疑います。あなたが人に対して良くしても、人は「あなたはなぜ私に良くするのだろう?何かをたくらんでいるのではないか?何か目的があるのではないか?」と、あれこれ考えてあなたを警戒します。信じられません。まず先に自分を信じません。如何なる人も信じません。
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【注1】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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可是覺悟了,我們有一點小小覺悟,也就有一點小小的明白,要不要防人?不需要。他毀謗我,我感恩他;他陷害我,我感謝他,為什麼?他替我消業障。他來考試我,看看我功夫到不到家?無故加給我,我能不能忍受?我能忍受,勉強及格,為什麼?你還有個忍。忍都沒有了,非常歡喜接受,而且是感恩,大概可以能達到八、九十分。我們每天修積功都給他迴向,念念存報恩想,你這個心多歡喜、多快樂。情執斷掉,恩怨沒有了,心恢復到清淨,恢復到正常,這個快樂無比!
しかし目覚めれば、―――私たちにも少しばかりの悟りがあり、少々理解しています―――人を警戒する必要があるでしょうか?必要ありません。人が自分を誹謗したら、自分はその人に感謝します。人が自分を陥れたら、自分はその人に感謝します。なぜでしょう?その人は自分の代わりに業障【注2】を消してくれたのです。その人は自分の技量が本物かどうか、自分をテストしに来たのです。理由もなくやられたら、自分は耐え忍べるでしょうか?耐え忍べるなら何とか合格です。なぜでしょう?あなたには忍耐があります。耐えるまでもなくなり、本当に喜んで受け入れ、しかも感謝していれば、おおよそ八十、九十点に達するでしょう。私たちは毎日功徳を積んでその人に廻向して、恩に報いる思いを留めていれば、あなたの心は歓喜します。楽しみます。情執を断てば、恩や恨みが無くなり、心は回復して清浄になります。正常に回復します。正常にまで回復します。この喜びは比べようがありません。
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【注2】 業障(ごっょう)・・・・過去の悪業によって生じた障害のこと。
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孔子所說的「學而時習之,不亦說乎」,那個你得到沒有?你要得到了,你就曉得孔子一天到晚快樂,他快樂什麼,你就明白了。佛菩薩常生歡喜心,那個常生歡喜心從哪來,你也明白了。沒有不歡喜的事情,沒有不快樂的事情,人家來殺我,我都快樂,我都感恩他,為什麼?他把我殺掉,我到極樂世界去了,他送我到極樂世界,我怎麼不感恩!我回頭給他頂禮。都是真的,沒有一句是假的,這是事實真相,不能不知道。
孔子が説かれているところの、「学びて時に之を習ふ。亦(また)説(よろこ)ばしからずや」(学而時習之。不亦説乎)、この説(よろこ)びをあなたは得たのでしょうか?もし得たのであれば、あなたは孔子は一日朝から晩まで喜ばしかったことが分かります。彼は何が喜ばしかったのか、あなたは理解することができます。仏菩薩は常に歓喜心が生じます。その「常に歓喜心が生じる」のは、どこから来るのか。あなたも理解できます。喜ばしくないことはありません。不快なことはありません。人が自分を殺しに来ても、喜びます。自分はその人に感謝します。なぜでしょうか?その人が自分を殺せば、その人は自分を極楽世界に運んでくれるのです。どうして感謝せずにいられるでしょうか!自分はその後でその人に頂礼(ちょうらい:最敬礼)します。すべて本当です。ひと言たりとも偽りではありません。これは事実の真相です。知っておかなければなりません。
六道是假的,十法界也是假的,連一真法界都不是真正的真的。常寂光是真的,常寂光裡面我常講三種現象都沒有,它沒有物質現象、沒有精神現象、沒有自然現象,所以科學跟哲學達不到。所以方東美先生才說,佛經是全世界哲學的最高峰,要怎樣才能達到?那還是佛經上的話,「唯證方得」。怎麼證法?你把妄想分別執著放下,你就證得。科學家研究,妄想分別執著沒放下,所以他研究的是知識,他不是智慧;放下,他所得到的是智慧,不是知識,那很管用。這些大道理,我們要搞清楚,信才能生起來;否則的話,信心生不起來。
六道は偽りです。十法界も偽りです。一真法界さえも本当に本当ではないのです。常寂光は本当です。常寂光の中には、私はいつも話していますが、三つの現象さえありません。それには物質現象はなく、精神現象はなく、自然現象はありません。ですから科学と哲学は到達することができません。ですから方東美先生は、「仏経は全世界の哲学の最高峰である」と仰いました。どうすれば到達できるのでしょうか?それは仏経の中の言葉、「証得した者だけが得ることができる」(唯証方得)ということです。どのように証得するのでしょうか?妄想・分別・執著を放下すれば、あなたは証得できます。科学者は研究しますが、妄想・分別・執著を放下しません。ですから科学者が研究するのは知識であって、智慧ではありません。放下すればその人が得るものは智慧であり、知識ではありません。それは役に立ちます。これらの大道理を、私たちは明確にしなければなりません。そうしてはじめて信じる心が起こります。そうでなければ信心は起こりません。
放下是修行人第一功夫 / 放下は修行者にとって第一の技量
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一O二集)2010/8/8 檔名:02-039-0102
「以見佛故,聞法修行,入佛法藏,圓滿覺心,究竟彼岸」,這是一生究竟圓滿成佛。入佛法藏,性相、理事、因果,圓滿覺心,無不通達明瞭。究竟彼岸是念念與自性相應,佛在《華嚴經》上所說的,「一切眾生皆有如來智慧相」,我們念念當中與自性的智慧相相應,這就是究竟彼岸。所以經要熟讀,意思要明瞭,把它用在日常生活當中。「若無方便,無量行門終不成就」。真實智慧,離一切相,即一切法,所以放下是修行人第一功夫。放下執著、放下分別,放下起心動念這一條不容易做到,從分別執著上我們能做到,雖然不能像菩薩那樣的圓滿,我們開始幹!
「仏を見たてまつるを以ての故に、聞法し修行して、仏法蔵に入り、円満に覚心し、彼岸を究竟す」(以見仏故,聞法修行,入仏法蔵,円満覚心,究竟彼岸)。これは一生で究極円満に成仏することです。仏の法蔵に入り、性相、理事、因果を円満に覚って、明瞭に通達しないものはありません。究極の彼岸とは、どの一念も自性【注】と相応することです。仏が『華厳経』において、「一切衆生に皆如来の智慧・徳相有り」(一切衆生皆有如来智慧徳相)と説かれているように、私たちのどの一念も自性の智慧・徳相と相応することです。これこそが究極の彼岸です。ですからお経は熟読し、意味を明瞭にして、それを日常生活に用いなければなりません。「若し方便無くば、無量の行門終に成就せず」(若無方便,無量行門終不成就)。真実の智慧は、一切の相を離れた、正に一切の法なのです。ですから放下は修行者にとって第一の技量です。執著を放下し、分別を放下し、起心動念(きしんどうねん:心の働き)を放下することは、容易にできることではありません。分別と執著においては私たちにもできます。菩薩のように円満でなくとも、私たちは実行し始めることです!
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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時時刻刻都能夠警覺到,這一點很重要。特別在現前這個環境當中,我們每天從電視、網路、媒體上所看到的,全世界許許多多無法想像的這些災難,這些災難對修行人來說有好處,讓我們警覺到這個世界真苦,這個世界不能住。每天在經上看到世尊給我們介紹的極樂世界,這世界多好!兩個世界一對比,我們求生極樂世界的願望油然而生,這是好處。這個世界上沒有災難,咱們就不想去了,念阿彌陀佛還捨不得離開這個世界。
時々刻々注意喚起すること、この点はとても重要です。特に今のこの環境では、私たちは毎日テレビ、インターネット、メディアから見ることができます。全世界で想像を絶するような災難が起きています。これらの災難は修行者にとっては良い点があります。私たちに、この世界は本当に苦しく、留まることはできないと注意喚起するものです。毎日お経の中で世尊が極楽世界を紹介されているのを見ます。この世界はどれほど良いでしょうか!二つの世界を対比すれば、極楽世界に求生する願いは自然にわき起こります。これは良い点です。この世界に災難がなければ、私たちは行こうとは思いません。阿弥陀仏を念じてもこの世界を離れることに未練をもちます。
所以這一次大災難,這種現象也度了很多很多人,許多人有善根,善根不成熟,看到這個災難,善根成熟了,他真想去,他真放下了。所以蕅益大師有兩句話講得很好,境緣無好醜,好醜在人心。你怎麼個看法,就是環境沒有好壞,人事也沒有好壞,你怎麼看法。你要是用正常的心態去看,沒有一樣不好;不正常的心態,什麼環境都不好,確實境隨心轉。希望我們學佛的同學都能夠心轉境界,這就好。
ですから今回の大きな災難、これらの現象は多くの人を救ってもいます。多くの人には善根がありますが、善根が熟していないなら、この災難を見て善根が熟します。本当に(浄土に)行こうと思い、本当に放下します。蕅益大師が素晴らしい二句を説かれています。「境縁に好醜無し。好醜は人心に在り」(境縁無好醜,好醜在人心)。あなたはどう思うでしょうか。つまり環境に良し悪しはなく、人間関係にも良し悪しはありません。あなたがどう思うかです。あなたが正常な心で見れば、悪いことは一つもありません。不正常な心であれば、どのような環境であってもすべて良くないのです。確かに「環境は心に随って転じる」(境随心転)のです。仏法を学ぶ学生たちが、心で境界(きょうがい:境地)を転じることができることを願っています。これで良いのです。
邪不勝正 / 邪は正に勝たず
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五十五集)2010/6/12 檔名:02-039-0055
科學家告訴我們,地球上現在居住的人口有六十多億,能有千分之一的人真正發菩提心,斷惡修善,就能夠幫助地球化解災難,恢復正常。他舉的例子很好,一百萬居民的城市,能有一百個人用真誠心、清淨平等慈悲心,一百個人在這裡做祈禱,這一百萬人的都市真的消災免難。那我們要問,能相信嗎?那麼多人造罪業,一百萬人造罪業,一百人能救嗎?答案是肯定的,為什麼?中國古人有句話解釋了,「邪不勝正」。他人多,他是邪,你人少,你是正,真的是邪不勝正,所以它能產生效果。
科学者は私たちに言っています。地球上に今住んでいる人口は六十数億です。千分の一の人が真に菩提心を発して、悪を断ち善を修めることができれば、地球の災難を解消することができます。正常に戻ります。その人は良い例を挙げています。百万の住民がいる都市に、百人が真誠心(しんせいしん:至誠の心)、清浄、平等、慈悲の心を用いることができれば、その百人が祈祷すれば百万人の都市は災難を免れると言います。私たちは「それを信じて良いのか」と聞きたくなります。これほど多くの人が罪業を作っています。百万人が罪業を作っていて、百人で救えるのでしょうか?間違いないというのがその解答です。なぜでしょうか?中国の古人はある言葉で解釈しています。「邪は正に勝たず」(邪不勝正)。大勢の人が邪で、少数の人が正であっても、本当に邪は正に勝てません。ですから効果を生むことができます。
但是要知道這是治標,不是治本,能救一時,不能長治久安,長治久安一定靠教育。世尊為我們展示的是教育,急難的時候也教我們祈禱,你看看,就在這個經上,《無量壽經》,經上佛就告訴我們,如果真的遇到急難的時候怎麼辦?求觀音菩薩,念觀音菩薩就能化解眼前的災難。有道理!但是真正要是治本的方法,從我們內心裡面改變,真正發菩提心,真正依教修行,這個問題徹底解決了,確實能夠幫助地球化解災難,幫助地球恢復正常。
しかしこれは応急処置であり、根本の治療ではないことを知っておかなければなりません。一時救うことができても、長期的な安寧はできません。長期的な安寧は必ず教育に頼ります。世尊が私たちに示されのは教育です。危難の時には祈祷も教えています。この『無量寿経』において、仏は私たちに説かれています。もし本当に危難に遭遇した時はどうすれば良いでしょうか?観音菩薩に求めます。観音菩薩を念じれば目の前の災難は解消されます。道理があります!しかし本当に根本を治療する方法は、私たちの内心から改めなければなりません。真に菩提心を発し、真に教えに従って修行すれば、この問題は徹底して解決します。間違いなく地球の災難を解消し、地球を正常に戻すことができます。
世界上六十億的人口,要多少人發心?好像是八千人,有八千人真正發心,能拯救地球。現在協會裡面發起修六和敬,如果全世界能夠有八千人,我相信這個不難,在電視機面前、在網路面前的,真正發心,有八千人回頭、真幹,真正落實六和敬。落實六和敬,也就是一定要落實《弟子規》、《感應篇》、《十善業》,這三樣能夠落實,六和敬就真的落實了,不但救自己,救了地球。所以我希望在網路上、在衛星上的同修,我們真發心,我們要把這樁事情當作我們這一生第一個使命。我們來是幫助地球的,是來拯救地球的,這個非常有意義,是一樁很偉大的事業。
世界の六十億の人口では、何人が発心しなければならないでしょうか?八千人のようです。八千人が本当に発心すれば、地球を救うことができるそうです。今、協会の中では六和敬を修めることを発起しています。もし全世界に八千人いれば、私はこれは難しくないと思います。テレビの前、インターネットの前にいる人が、本当に発心して、八千人が改心して実践します。本当に六和敬を実行します。六和敬の実行とは、要するに必ず『弟子規』、『太上感応篇』、『十善業道経』を実行しなければなりません。この三つを実行できれば、六和敬は本当に実行できます。自分を救うだけでなく、地球を救います。ですから私はインターネット、衛星放送を見ている学生が本当に発心して、この事を一生の使命とすることを願っています。私たちは地球を助けに来たのです。地球を救いに来たのです。これは非常に意義のあることであり、偉大な事業なのです。
邪不勝正-2 / 邪は正に勝たず 2
文摘恭錄—淨土大經科註(第一六九集)2012/1/31 檔名:02-037-0169
剛才我接到一個電話耽誤了半個小時,這個電話也很重要,值得提醒我們同學的注意。現在是亂世,妖魔鬼怪在這個世間很多,人要正信,正信是信佛。這些所謂靈界,我們常常遇到,靈界提到的信息,我講過很多,可以聽,要用智慧去判斷,不能完全相信。
先ほど私は電話を受けていて三十分遅くなりました。この電話もとても重要なことで、私たちの学生に注意喚起するに値することです。今は乱世です。妖怪や悪魔がこの世間にたくさんいます。人は正信(しょうしん:正しい信仰)しなければなりません。正信とは仏を信じることです。これらのいわゆる霊界には、私たちはよく遭遇しています。霊界が提起する情報について、――私は何度も話していますが――それを聞いても良いですが、智慧を用いて判断しなければなりません。完全に信じることはできません。
尤其他要對你什麼要求,叫我們要做些什麼事情,我們要認真考慮如不如法。法是以佛的經法為標準,來判斷可不可以做,不能做的決定不可以做。一般的來說,對社會、對眾生有利益的,我們一定要做;對眾生沒有利益的,說對我個人有利益的,不能做,那很容易上當。對正法有利益的要做,對邪法有利益的不能做,一定要守住。
特に何かを要求して、私たちに何かをさせようとすることについては、私たちは真剣に法(道理)に適っているかを考えなければなりません。法は仏の経法を基準にします。それで行うべきかを判断します。できないことは絶対にしてはなりません。一般的に言えば、社会に対して、衆生に対してご利益があることであれば、私たちは必ず行います。衆生に対してご利益がなく、私個人にご利益があると言うなら、行うことはできません。それでは簡単に騙されます。正法にご利益があれば行い、邪法にご利益があるなら行いません。必ず守らなければなりません。
一切魔難現前,這些境界現前,念佛都能化解,佛號功不可思議,這個我們一定要相信。一個真正念佛人、真正修行人有諸佛菩薩護持,龍天善神保佑。妖魔鬼怪雖多不得其便,他想來干擾的時候他干擾不到,這是所謂是邪不勝正。心要正、行要正,要堅定,不能動搖。
一切の苦難、それらの状況に遭遇したら、念仏してすべて解消することができます。仏号の功徳は不可思議なものです。私たちは信じなければなりません。一人の真の念仏人、真の修行者には、諸仏菩薩の護持、龍天善神のご加護があります。妖怪や悪魔に都合良くはいきません。彼らが邪魔しに来ても、邪魔することは出来ません。これがいわゆる「邪は正に勝たず」(邪不勝正)と言うものです。心を正し、行いを正さなければなりません。しっかりと落ち着いて、動揺してはなりません。
邪不勝正-3 / 邪は正に勝たず 3
文摘恭錄—淨土大經科註(第二一六集)2012/2/28 檔名:02-037-0216
佛門講修行,行是什麼、修是什麼意思,一定要搞清楚。行是行為,就是身口意三業的造作行為,修是修正;換句話說,行為有了錯誤,必須把它修正過來,這叫修行。六道眾生所造的一切罪業都是根源於妄心。老祖宗講的話一點都不錯,本性本善,習性不善,造的一切不善業是習性。習性所謂是後天的,本性是先天的。
仏門は修行を重んじます。行(ぎょう)とは何か、修とはどういう意味なのか、必ずはっきりさせなければなりません。行(ぎょう)とは行為です。身口意(しんく い)の三業の行為です。修とは修正することです。言い換えれば、行為に誤りがあるなら、必ずそれを修正しなければなりません。これを修行と言います。六道の衆生が作る一切の罪業、その根源は妄心にあります。ご先祖様が説かれた話は少しも間違ってはいません。本性は本来善であり、習性が不善なのです。一切の不善の業は習性なのです。習性はいわゆる後天的なもので、本性は先天的なものです。
本性是自性,習性是阿耶。阿耶裡面的三細相,演變成八識五十一心所,這是天親菩薩歸納的,展開無量無邊的妄念,一切不善的念頭要知道它從哪來的。不善的念頭再多,都抵不過一個善念,抵不過本善,本善是真心。所以古人講的一句名言,「邪不勝正」,邪再多、再大敵不過一念真心。
本性は自性【注】です。習性は阿頼耶識です。阿頼耶識の中の三細相は、八識五十一心所に変化します。これは天親菩薩が帰納されたことで、無量無辺の妄念に展開します。一切の不善の思いはどこから来るのかを知らねばなりません。不善の思いがどれほど多くても、一つの善念には及びません。本善には及びません。本善は真心です。ですから古人は一句の名言を説かれています。「邪は正に勝たず」(邪不勝正)。邪がどれほど多くても、どれほど大きくても、一念の真心にはかないません。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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經上給我們講,無量劫來所造的罪孽,應當墮地獄,臨終的時候,十念一念都能往生極樂世界,這什麼原因?臨終這一念十念是真心,無始劫來造作的罪業是妄心,這就是邪不勝正,那一念是正,無量劫造的是邪,這個道理。這個道理太深,很少人懂。所以我們對佛經上講這個話懷疑,造一輩子惡業,過去生生世世都造惡業,怎麼臨終的時候一念阿彌陀都能往生?叫難信之法,真難信。你要不把這個道理搞清楚、搞明白,信心真的生不起來。
経(無量寿経)には、無量劫(むりょうごう:果てしなく長い時間)来の罪業により、当然地獄に堕ちるところを、臨終の時、十念・一念(の念仏)で極楽世界に往生できると説かれています。この原因は何でしょうか?臨終の時の一念・十念は真心であり、無量劫来の罪業は妄心です。これこそが「邪は正に勝たず」です。その一念は正であり、無量劫来のものは邪です。この道理です。この道理は奥深いもので、あまり理解できる人はいません。ですから私たちは仏経に説かれているこの話を疑います。一生涯悪業を作り、過去生で繰り返し悪業を作って来たのに、どうして臨終の時の阿弥陀仏の一念で往生できるのでしょうか?「信じ難い法」と言われ、本当に信じ難いのです。あなたはこの道理をはっきりと、明らかにしなければ、信心を本当に起こすことはできません。
可是一念真心,為什麼到臨終時候才發現?臨終時地獄現前了,馬上就墮地獄了,這個時候不得不真回頭,這個時候那一念心,急著一念心,怕墮地獄,真心現前。那真心是什麼?逼出來的,極大的苦難把真心逼出來了,所以那一念心是真心。那一念心裡頭摻一絲毫夾雜都不能成就。這一種道理得講清楚、講明白。
しかしどうして臨終の時に、一念の真心にようやく気がつくのでしょうか?臨終の時に地獄を目の当たりにします。すぐにも地獄に堕ちようとする時には真に改心しない訳にはいきません。この時のその一念の心、切迫した一念の心、それは地獄に堕ちることを恐れて、真心が現れたのです。その真心は何でしょうか?追いつめられて出たものです。極限の苦難が真心を引き出したのです。ですからその一念の心は真心です。その一念の心に少しでも夾雑(きょうざつ:雑念を混ぜること)があれば成就することはできません。この道理ははっきりと、明瞭に講じなければなりません。
明瞭之後,我們對這個法門真信、真願,哪有不往生的道理!凡是不能往生的,都是臨終的時候還是在分別、在執著、在怕,恐怕我罪業太深,阿彌陀佛不答應,不准許我去。你看這一念生的,這都叫妄念,妄想、分別、執著,這一念妄心就毀掉了。一念無雜念那就是真心,一念有雜念就是妄心,一念真妄差別就在此地。沒有懷疑、沒有夾雜,這一念是阿彌陀佛,這就決定得生。
明瞭になれば、私たちはこの法門を本当に信じ、本当に願います。往生しない道理がどこにあるでしょうか!およそ往生できない人は、臨終の時にまだ分別し、執着しています。私の罪業はとても深いので、阿弥陀仏は応じないのではないか、私を認めないのではないかと心配します。この一念が生じることを妄念と言うのです。妄想、分別、執着、この一念の妄心で駄目になります。一念に雑念が無ければ真心です。一念に雑念があれば妄心です。一念の真、妄の差はここにあります。疑いがなく、夾雑がなければ、一念の阿弥陀仏で必ず往生します。
正法、像法、末法 / 正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五六八集)2011/8/31 檔名:02-039-0568
我們看念老註解,『正法滅時』。「一代佛化」,釋迦牟尼佛四十九年講經教學,教化眾生,他的法運有「正法、像法、末法」三個時期,經歷這三個時期。下面引用嘉祥師《法華經義疏》,這是《法華經》註解,裡面說這些事情。「佛雖去世」,釋迦牟尼佛滅度,佛的法運從釋迦牟尼佛滅度說起。一代佛化,歴正法、像法、末法三時。
黄念祖居士の註解【下記参照】を見てみましょう。「正法滅時」(正法滅する時)。「一代仏化」(一代の仏化)。釈迦牟尼仏は四十九年講経・教学して、衆生を教化されました。彼の法運には「正法、像法、末法」の三つの時期があり、この三つの時期を経過します。次には嘉祥師の『法華経義疏』が引用されています。これは『法華経』の註解で、中にはこれらの事が説かれています。「仏雖去世」(仏世を去ると雖も)。仏の法運は釈迦牟尼仏の滅度から始まります。「一代の仏化」は、正法、像法、末法の三時を経過します。
「佛雖去世,法儀未改,謂正法時」。佛去世的時間還不遠,教學那些規矩都在,都沒有改動,跟佛在世的時候差不多,所以那些佛弟子都能夠保持,都能夠遵守,依教奉行,這叫正法時期。
「仏雖去世,法儀未改,謂正法時」(仏世を去ると雖も、法儀未だ改めざるを、正法時と謂ふ)。仏が世を去ってから時間が遠くなく、教学の規範がすべてあり、すべて改めていません。仏がご在世の時と同じです。ですからそれらの仏弟子は保持し続け、遵守することができ、教えに従って実行できます。これを正法の時期と言います。
「佛去世久」,時間愈來愈久,「道化訛替」,講這些道,教化眾生的這些方法有了改變,跟正法時候不像,這就叫「像法」。雖有改變,還可以,還有一點像,這叫像法。
「仏去世久」(仏世を去りて久しく)、時間は増々久しくなり、「道化訛替」(道は訛替(かたい:誤り)と化す)、これらの道を説き、衆生を教化する方法に変化が起こり、正法の時と同じではありません。これを像法と言います。変化があっても、まだ良い、まだ少し似ている、これを像法と言います。
「轉復微末,謂末法時」,像法之後,跟佛的教法實在講愈去愈遠,完全不像,這就叫末法。「所云正者證也」,這就很具體給我們說出來,「像者似也。末者微也」。
「転復微末,謂末法時」(微・末に転覆するを、末法時と謂ふ)。像法の後、仏の教法とは増々かけ離れて、完全に似ていないこと。これを末法と言います。「所云正者證也」(云う所の正は証なり)。これは具体的に説いています。「像者似也。末者微也」(像は似なり。末は微なり)【補注】。
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【補注】
「像は似なり」・・・像法の「像」は「似」(似ている)の意。正法に似ているが変質している時期。
「末は微なり」・・・末法の「末」は「微」(微(かす)か)の意。正法が微(かす)かにしか残っていない時期。
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下面《仁王經疏》裡面講得很清楚,比前面講得清楚,「有教有行,有得果證,名為正法」。依照佛法修行,雖然佛不在世,真正持戒修定,確確實實能證阿羅漢果。證阿羅漢的不多,但是證初果、二果多,三果也不少,這是正法,有修有證。
次の『仁王経疏』の中には明確に説かれています。前述のよりはっきりと説かれています。「有教有行,有得果證,名為正法」(教えあり行ありて、果証を得るあり。名づけて正法と為す)。仏法の修行に照らして、仏がご在世ではなくても、本当に持戒して定を修めれば、確かに阿羅漢果を証得することができます。阿羅漢果を証得する人は多くありません。しかし初果、二果は多く、三果も少なくありません。これが正法です。修める人、証得する人がいます。
像法,「有教有行,而無果證,名為像法」,還相似,有講經、有學教的,有真正依教奉行的,但是沒有證果的,這叫相似,相似就不是純真。再往後去,「唯有其教,無行無證,名為末法」。現在是什麼?末法是還有教,講經教學有,但是沒有行、沒有證。如果講經教學都沒有,末法後頭就會滅法,法就滅了,就沒有了,這個很恐怖。
像法では、「有教有行,而無果證,名為像法」(教えあり行ありて、果証無し。名づけて像法と為す)。まだ似ています。講経があり、教学があり、本当に教えに従って実行する人がいます。しかし証果する人はいません。これを相似(そうじ)と言います。相似は純真ではありません。更に後になると、「唯有其教,無行無證,名為末法」(唯(ただ)其の教えありて、行無く証無し。名づけて末法と為す)。今はどうでしょうか?末法にはまだ教えがあり、講経、教学があります。しかし行(ぎょう)はなく、証得する人はいません。もし講経、教学もすべて無くなれば、末法の後には滅法が来ます。法は滅びます。なくなります。これは恐ろしいことです。
我們讀這一段文,我們自己自動發心要做佛的弟子,做佛的弟子把佛的法滅掉,佛希不希望有這樣的弟子?真有很多,這是怎麼回事情?釋迦牟尼佛在世的時候,魔王波旬就告訴釋迦牟尼佛,他發了個心要把佛法滅掉。
私たちはこの一文を読むと、仏の弟子にならなければならないと自ら発心します。仏の弟子が仏の法を滅するなど、仏はそのような弟子を望むでしょうか?本当にたくさんいます。これはどういうことなのでしょうか?釈迦牟尼仏ご在世の頃、魔王波旬(はじゅん)は釈迦牟尼仏に、「仏法を滅ぼすことを発心した」と言いました。
佛告訴他:佛的法是正法,沒有人能夠把正滅掉,只聽說邪不勝正,沒有聽說邪能把正滅掉。波旬就說:「等到你末法的時候,我讓我的魔子魔孫統統出家來滅你的法」。佛聽了,一句話不說,流眼淚,現在我們遭遇的,就是在這個臨界點,我們親眼看到。
仏は、「仏の法は正法である。正しきを滅することなど誰にも出来ない」と言いました。「邪は正に勝たず」とは聞いたことがありますが、邪が正を滅ぼすなど聞いたことがありません。波旬は、「末法の時を待って、私は魔王の子々孫々をすべて出家させて、お前の法を滅ぼそう」と言いました。仏はそれを聞くと、ひと言も話さず涙を流されました。今私たちが遭遇しているものは、正にこの臨界点であり、私たちは自分の目で見ています。
<参考>
一代佛化,歴正法、像法、末法之三時。
一代の仏化(仏の教化)は、正法、像法、末法の三時を歴(へ)る。
嘉祥《法華義疏五》曰:
嘉祥の『法華義疏』五に曰く、
「佛雖去世,法儀未改,謂正法時。
仏世を去ると雖も、法儀未だ改めざるを、正法時と謂(い)ふ。
佛去世久,道化訛替,謂像法時。
仏世を去りて久しく、道は訛替(かたい:誤り)と化すを、像法時と謂ふ。
轉復微末,謂末法時。」
微・末に転覆するを、末法時と謂ふ。
所云正者證也。像者似也。末者微也。
云う所の正は証なり。像は似なり。末は微なり。
又青龍《仁王經疏三》曰:
また青龍の『仁王経疏』三に曰く、
「有教有行,有得果證,名為正法。
教えあり行(ぎょう)ありて、果証(かしょう)得るあるを、名づけて正法と為す。
有教有行,而無果證,名為像法。
教えあり行ありて、果証無きを、名づけて像法と為す。
唯有其教,無行無證,名為末法。」
唯(ただ)其の教えありて、行無く証無きを、名づけて末法と為す。
『仏説大乗無量寿荘厳清浄平等覚経科註』、黄念祖氏の註解より
正法、像法、末法-2 / 正法、像法、末法 2
文摘恭錄—淨土大經科註(第十集)2011/10/8 檔名:02-037-0010
佛在《仁王般若經疏》上曾經說過,為我們解釋正法、像法、末法。什麼是正法?有說法的人,佛說法,釋迦牟尼佛當年在世,佛說法,有聽經的人,有依照經教修行的人,有證果的人,這叫正法。有講的、有學的、有證果的,開示是佛的事情,有悟的、有入的,正法。
仏は『仁王般若経疏』において説かれています。私たちの為に正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)を解釈されています。正法とは何でしょうか?説法する人がいます。仏が説法します。釈迦牟尼仏がご在世の当時、仏が説法し、経を聴く人がいて、経教(きょうぎょう)に照らして修行する人がいて、証果(しょうか:悟りを得ること)する人がいます。これを正法と言います。講じる人がいて、学ぶ人がいて、証果する人がいます。開示は仏のする事です。悟る人がいて、(仏の境地に)入る人がいるのが正法です。
如果說有開示的,有佛說法,有悟的,沒有入的,這叫像法,沒有證果的;換句話說,他悟性很高,他沒有放下,還是搞六道輪迴。他也能夠修善積,在六道輪迴裡面生天道,欲界天、色界天、無色界天,出不了六道輪迴,這像法。如果有人講經,也有人聽經,但是沒有開悟的,當然更沒有契入的,這叫末法。講經的人沒有,那就叫滅法,佛法就滅了。
もし開示する人がいて、仏の説法があり、悟る人がいて、(仏の境地に)入る人がいなければ、これを像法と言います。証果する人がいません。言い換えれば、その人の悟る資質が高くても、放下できず、六道輪廻に留まります。その人にも善を修め徳を積むことができますが、六道輪廻の中の天道、欲界天・色界天・無色界天に生まれて、六道輪廻を出られません。これが像法です。もし講経する人がいて、経を聴く人もいて、開悟する人がおらず、当然ながら(仏の境地に)入る人がいなければ、それを末法と言います。講経する人もいなくなれば、それを滅法と言い、仏法は滅びます。
這個說得好!釋迦牟尼佛的法運一萬二千年,是正法一千年,像法一千年,末法一萬年。我們今天在這三個時期裡面我們是末法,如果我們這裡有說、有聽、有真正修、有真正念佛往生的,正法,末法裡面的正法;如果是講經的人都沒有了,那就是滅法了,不是末法,滅法。這個說得好,我們要記住。由此可知,所謂正法、像法、末法在人,不在時間。這正是一切法不離自性,「法外無心,心外無法」,這佛常講的。
これはよく言ったものです!釈迦牟尼仏の法運は一万二千年、正法一千年、像法一千年、末法一万年です。私たちは今日この三つの時期の中の末法にいます。もし私たちの中に、説く人がいて、聞く人がいて、真に修める人がいて、真に念仏往生する人がいれば正法です。末法の中の正法です。もし講経する人もいなくなれば、それは滅法です。末法ではなく、滅法です。これはよく言ったものです。私たちは覚えておかなければなりません。この事から分かるのは、いわゆる正法、像法、末法は人にあるのであり、時間にあるのではありません。これは正に一切法は自性【注】から離れないということです。「法の外に心無く、心の外に法無し」(法外無心,心外無法)。これは仏がよく説かれていることです。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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正法、像法、末法每個人不一樣 / 正法、像法、末法は人によって異なる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五八一集)2011/9/6 檔名:02-039-0581
有講的、有修的、有證果的,這是正法。有講經的,有聽經修行的,沒有證果,沒有證果的人;換句話說,對往生沒有真正的把握,自己是在幹,還沒有把握,這叫像法。如果這個地方有講經的,沒有聽經的,沒有人是真修行,這叫末法。
講じる人がいて、修める人がいて、証果する人がいる。これは正法(しょうぼう)です。講経(こうきょう:経を講じること、説法)する人がいて、経を聞いて修行する人がいて、証果する人がいない。言い換えれば、往生に対して本当に把握しておらず、自分では行っていても、まだ把握できていない、これを像法(ぞうほう)と言います。もしこの地域に講経する人がいて、経を聞く人がいて、真に修行する人がいない。これを末法(まっぽう)と言います。
所以正法、像法、末法每個人不一樣,這個人生在正法,那個人生在像法,還有人在末法,不相同,都在一起,這個說法好。有講經的,大家在一起聽經,有人聽經心不在焉,人坐在那裡聽經,心裡想別的事情,不專心,不專注。甚至於他還有不正的知見,什麼?法師講經不是為我講的,是為別人講的。有這種知見的話,他在哪裡?他在末法,他住在末法。為什麼?有講經的,沒有修行的。
ですから正法、像法、末法は人によって異なります。この人は正法に生まれ、あの人は像法に生まれ、またある人は末法に生まれています。同じではありませんが、皆一緒にいるのです。この言い方は良いものです。講経する人がいて、皆で一緒に経を聞いています。ある人は経を聞いてもうわの空です。座って経を聞いていても、心の中では別の事を考えていて、専念できません。集中できません。甚だしきに至っては、正しくない知見を持ちます。それは何でしょう?法師の講経は自分の為に講じているのではなく、他人の為に講じていると思うことです。このような知見があるなら、その人はどこにいるのでしょうか?その人は末法にいます。その人は末法に住んでいます。なぜでしょうか?講経する人がいても、修行する人はいません。
講經,專注去聽,聽懂了依教修行,他在像法。什麼時候他預知時至往生的時候,他在正法。所以,真正往生到極樂世界,那一剎那那是正法。這個說法好!不要以為佛說了正法一千年、像法一千年,現在是末法,我們感到很失望,《仁王經》這個講法把我們的失望就彌補起來,我們在末法裡頭的正法。
講経を集中して聞き、理解した上で教えに従って修行するなら、その人は像法にいます。いつか予め往生の時を知るなら、その人は正法にいます。ですから本当に極楽世界に往生すれば、その刹那(せつな:一瞬)は正法です。この言い方はよく言ったものです!正法一千年、像法一千年、今は末法だと仏が言ったと思ってはなりません。(それでは)私たちは失望します。『仁王般若経疏』のこの説き方は私たちの失望を埋めてくれます。私たちは末法の中の正法にいるのです。
你看,釋迦牟尼佛當年在世,正法裡頭有末法。聽佛講經,不認真修行,那不就是正法的末法嗎?甚至於,這經典上有,世尊在舍衛大城講經,舍衛大城那時候的人口十萬人,真是大城,古時候十萬人城市真是大城。
どうでしょうか、釈迦牟尼仏がご在世の当時、正法の中に末法がありました。仏の講経を聞いて、真面目に修行しないなら、それは正法の末法ではありませんか?甚だしきに至っては、これは経典にあるのですが、世尊が舍衛(しゃえい)大城で講経した際、舍衛大城のその時の人口は十万人でした。本当に大きな町です。昔は十万人の都市なら本当に大都市です。
三分之一的人跟釋迦牟尼佛見過面,認識;三分之一的人聞名,知道有這個人,沒有見過面;還有三分之一的,連釋迦牟尼佛的名字都不知道,根本就不知道這個城裡有釋迦牟尼佛在弘法,不知道。這也是三個時期在同時出現,跟釋迦牟尼佛見過面的,叫正法;聞名不見面的,像法;根本不知道有釋迦牟尼佛這個人的話,這不就滅法了嗎?四種同時出現。
三分の一の人は釈迦牟尼仏に会ったことがありました。三分の一の人は名前を知っていました。このような人がいると知っていて、会ったことはありません。あとの三分の一は、釈迦牟尼仏の名前さえ知りません。この町で釈迦牟尼仏が弘法されていることを、まったく知りません。これも三つの時期が同時に現れています。釈迦牟尼仏と会ったことがある人は正法。名前だけを聞いて会ったことがない人は像法。釈迦牟尼仏をまったく知らないなら、これは滅法ではないでしょうか?四つが同時に現れています。
因定開慧 / 定(じょう:禅定)に因(よ)りて慧(え:智慧)を開く
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二O九集)2010/11/29 檔名:02-039-0209
佛法裡常講,一經通一切經通。不要學多,一生學一部就夠了。學太多了,你的心力分散,你的心是散亂的,不集中。一部,這心是集中的,集中這個力量太大了,能夠明心見性,集中就是定,就是禪定,在佛法裡叫念佛三昧,這個力量太大太大。我們現在六道裡面眾生不知道這個道理,這個心是散亂的,所以學什麼都學不成功,一般人講心浮氣躁。現在心浮氣躁的現象普遍到整個社會,特別是在學校。你看從幼兒園小小班到大學博士班,你看看是不是心浮氣躁?這學問從哪裡來?
仏法の中ではよく「一つの経に通じれば一切の経に通じる」(一経通一切経通)と言います。多く学んではなりません。一生で一部学べば十分です。多く学び過ぎれば、あなたの心の力は分散します。心が散漫になり、集中しません。一部(の経)であれば心は集中します。集中の力はとても大きなもので、明心見性することができます。集中は定(じょう)、つまり禅定です。仏法では念仏三昧と言い、この力はとてつもなく大きなものです。私たち六道の中の衆生はこの道理を知らず、心が散漫です。ですから何を学んでも成就しません。一般の人は「落ち着きがない」と言います。今では落ち着きがないという現象は社会全体に蔓延しています。特に学校です。幼稚園の子どものクラスから大学の博士課程まで、落ち着きがないのではありませんか?これでどのように学問をするのでしょうか?
大乘教裡面告訴我們,「淨極光通達」,《楞嚴經》上說的。這是講你心真放下了,淨到極處放光了,因戒得定,因定開慧,那放光就是智慧現前,大徹大悟,明心見性。這是事實,這是真理。我們學佛把這些重要的綱領掌握住,菩提道上什麼障礙都不會存在,一帆風順。所以現在就是整個社會心浮氣躁,我們念佛人也會受它感染。因此每天要聽聽經,聽多久?最少兩個小時。標準的四個小時,每天聆聽四個小時經,很大的好處,幫助他斷疑生信,幫助他生起真正的信願,他就能往生了。
大乗教の中では「浄(じょう)極まり光(ひかり)通達す」(浄極光通達)と説かれています。『楞厳経』に説かれているものです。これはあなたが心で本当に放下すれば、浄(きよ)らかさが極まり放光(ほうこう:光を放つ)するということです。戒に因りて定を得、定に因りて慧を開く(因戒得定,因定開慧)。その放光とは正に智慧が現れることであり、大徹大悟、明心見性することです。これは事実です。これは真理です。私たちは仏法を学んでこれらの重要な綱領を把握すれば、菩提道において何の障碍も存在しなくなり、順風満帆になります。今は社会全体に落ち着きがないので、私たち念仏する人も影響を受けています。このことからも毎日経を聞かなければなりません。どのくらいでしょうか?最低二時間です。基準は四時間です。毎日四時間聴けば、大いに得るところがあります。その人が疑いを断ち、信心を生む助けになります。その人が本当の信願を起こして、往生するのを助けます。
開悟因人而異,沒有一定的方法 / 開悟は人によって異なり、決まった方法はない
文摘恭錄—淨土大經科註(第四十八集)2011/11/16 檔名:02-037-0048
禪宗祖師大測驗學生,學生開悟了、見性了,老師問,性像什麼樣子?說給我聽聽,指給我看看。學生真的隨便拈一法。老師心裡明白了,點點頭,這就通過了,真見性了。沒有見性的人也學著比劃比劃,那是假的,不是真的。
禅宗の祖師大徳は学生を試します。学生が開悟し、見性すると、老師は質問します。「性(しょう:本性・自性【注】)とはどのようなものですか?私に話して聞かせなさい。指し示して見せなさい」
学生は本当に自由に法を表現します。老師は心の中で理解すると、頷きます。これで合格です。本当に見性しています。見性していない人も真似をしますが、それは偽物です。本物ではありません。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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古來祖師這些方法都被後人利用,變成什麼?變成舞台表演,都不是真的。惠能大師他是做了報告,二十個字說出來了。我們看禪宗的語錄,老師問學生,「道一句來」,他剛剛想開口說,老師下去之後,用巴掌把他嘴捂住。
古来より祖師のこれらの方法は後の人に利用されました。何に変わったでしょうか?舞台の演技に変わりました。すべて本物ではありません。慧能大師は報告しています。二十字で語っています。私たちは禅宗の語録を見ると、老師は学生に「ひと言で言ってみなさい」(道一句来)と言います。その人が話そうと思っていたところ、老師は降りて行ってその人の口を手で押さえます。
他會真的開悟,他就差那一點,真開悟了,磕頭感恩。為什麼?「言語道斷,心行處滅」,你怎麼能說得出來!「開口便錯,動念皆乖」,你還動念頭,你還開口,把口給你堵死了,這明白了。手段,各個手段不一樣,沒有一定的方法,全是活活潑潑的,因人而異。
その人は本当に開悟します。その人はその少しの差によって、本当に開悟し、叩頭して感謝します。なぜでしょうか?「言語道断,心行処滅」(ごんごどうだん、しんぎょうしょめつ)。どうして話すことなどできるでしょうか!「開口便錯,動念皆乖」【注】。あなたが念を動かして話そうとすると、口を塞いでしまいます。これで理解します。手段はそれぞれ異なり、決まった方法はありません。すべて生きたものであり、人によって異なります。
丹霞大師參學在個道場,看到這個道場老和尚功夫不錯,就差那麼一點,他要幫助他。怎麼幫助?拿著佛經來燒,在燒佛經。這還得了,馬上有人報告老和尚。老和尚奇怪,你燒這個幹什麼?我燒舍利。這經本是死東西,哪裡會有舍利?沒有舍利,再拿幾本來燒。老和尚在這一句話上開悟了。
丹霞大師はある道場に参学して、その道場の老和尚はかなりの技量と見ました。もうほんの少しのところです。彼は老和尚を助けました。どのように助けたでしょうか?仏経を持って来て焼きました。仏経を焼いています。これは大変です。すぐに誰かが老和尚に報告しました。老和尚は不思議に思って、「どうしてこれを焼くのですか?」と聞きます。「私は舎利を焼いています。この経は死んでいます。舎利はどこにあるのでしょう?舎利はありません。あと数冊持って来て焼きましょう」。老和尚はこのひと言によって開悟しました。
他燒經書有沒有罪過?他沒有罪過,是幫助那個人開悟的,他用這個方法就能度他,一句話驚醒了。這個都是禪宗裡頭許許多多非常手段,你自己不是高人你做不出來。我們去燒經,墮阿鼻地獄,他燒經成佛了。所以,宗門裡頭這些掌故很多,那個東西學不得。
丹霞大師が経書を焼いたのは罪過でしょうか?彼に罪過はありません。人の開悟を助けたのです。彼はこの方法を用いて老和尚を済度しました。ひと言に驚いて目を覚ましました。これらは禅宗の中に数多くある非常手段です。あなた自身が優れた人でなければ出来ません。私たちが経を焼けば阿鼻地獄(あびじごく:最も苦しい地獄)に堕ちますが、彼は経を焼いて仏に成りました。ですから、宗門(禅宗)の中にはこのような事例がたくさんあります。これらは学んで得られるものではありません。
<注> 以下の訳はご参考まで
開口便錯(開口すれば便(すなわ)ち錯(あやま)る。)
口を開いて言葉にすれば間違える。
動念皆乖(念動かさば皆乖(そむ)く。)
念を動かせばすべて真理から離れてしまう。
佛法不主張用思考 / 仏法は思考を用いることを主張しない
文摘恭錄—淨土大經科註(第一00集)2011/12/25 檔名:02-037-0100
佛法教學,不主張用心意識,也就是佛法不主張用思考,凡是用思考的全落在八識五十一心所。佛法,它的方法,有一點像現在人所說的直覺,一見就明瞭,一聽就明瞭,一接觸就明瞭,根本沒有通過第六識的思考、第七識的執著,沒有通過,這叫參,不是研究,叫參究。究這個意思就是明瞭,真正明瞭、徹底明瞭。研而明瞭的是用心意識,不用心意識叫參,參究跟研究意思不一樣,這是我們要辨別清楚的。
仏法教学は、心意識を用いることを主張しません。つまり仏法は思考を用いることを主張しません。およそ思考を用いるものはすべて八識・五十一心所【注1】に落ちます。仏法の方法は、現代人が言うところの直感に少し似ています。見ればすぐに分かり、聞けばすぐに分かり、接触すればすぐに分かります。第六識の思考、第七識の執着をまったく通しません。これを「参」と言います。研究ではなく、参究と言います。「究」の意味は明瞭ということです。本当に、徹底して明瞭になることです。研究して明瞭になるのは心意識を用いています。心意識を用いなければ「参」と言い、参究と研究の意味は異なります。私たちはこれをはっきり区別しなければなりません。
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【注1】 八識(はっしき)・・・・眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那(まな)識、阿頼耶(あらや)識。
五十一心所・・・・大乗における心の構成要素。
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E6%89%80
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所以佛教我們放下,放下心意識你就開悟了,為什麼?心意識是妄心,妄心怎麼能知道真的實相?妄心只能照妄境,虛妄的境界不真實。諸法實相要用真心,不能用妄心,真心是心地,就是我們經題上「清淨平等覺」,這是真心。清淨心是轉末那識,平等心是轉第六意識,覺心是阿耶轉成的大圓鏡智,你才能見到諸法實相。
ですから仏は私たちに放下(ほうげ:手放すこと)を教えています。心意識を放下すれば、あなたは悟りを開きます。なぜでしょうか?心意識は妄心だからです。妄心でどうして真の実相が分かるのでしょうか?妄心はただ妄境を照らすだけです。虚妄の境界は真実ではありません。諸法実相は真心を用いなければなりません。妄心を用いてはなりません。真心は本性です。つまり私たちの経題にある「清浄、平等、覚」、これが真心です。清浄心は末那識を転じ、平等心は第六意識を転じ、覚心は阿頼耶識を大円鏡智に転じます。それでようやく諸法実相を見ることが出来ます。
諸法實相就是真實之際,就是自己的真心理體,才能證得。這個道理不能不懂。真搞清楚、搞明白才曉得,諸佛如來、法身大士為什麼一定叫我們離心意識,就明白了。離心意識是離開虛妄,你用真心就照見一切萬法,一絲毫錯誤沒有,直捷讓你見到一切法的體相作用。
諸法実相とは「真実の際」、つまり自己の真心、理体(りたい:万物の本体)です。それでようやく証得することができます。この道理を理解しなければなりません。本当にはっきりと、明らかになれば、諸仏如来、法身大士はなぜ私たちを心意識から離れさせるのかが分かります。心意識を離れることは虚妄を離れることであり、あなたが真心を用いれば一切万法を照見(しょうけん:本質を見極めること)することができます。ほんの僅かな誤りもありません。直接一切法の体相(たいそう:本体とそこから生じる現象)の作用を見極めることが出来ます。
像觀自在菩薩照見五蘊皆空,這稱為聖。「菩薩權實靈照」,這四個字說得好,權智照事,事千變萬化;實智照理,理是性體,知道相有體空、事有性空。所以他照見事實真相,他一點都不迷惑。事可以受用,決定不能執著,決定不能佔有。你有執著、佔有的念頭錯了,不執著、不佔有,為什麼?當體即空了不可得。
観自在菩薩は五蘊(ごうん)【注2】は皆空であると照見されました。これを聖と言います。「菩薩権実霊照」【注3】。この四字はよく言ったものです。権智(ごんち:方便の智慧)は事(個々の事象・現象)を照らします。事は千変万化します。実智(じっち:真実の智慧)は理(不変の真理)を照らします。理(不変の真理)は性体(心の本体)であり、「相有体空」「事有性空」【注4】を知ることができます。ですから事実の真相を照見して、まったく迷いはありません。事(個々の事象・現象)は享受しても良いですが、決して執着することはできません。決して占有することはできません。あなたに執着や占有の考えがあるなら間違いです。執着せず、占有しないことです。なぜでしょうか?「当体即空,了不可得」(本体は空であり、捉えることはできない)。
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【注2】 五蘊(ごうん)=存在を構成する五つの要素のこと。色蘊(物質的、身体的な要素)、受蘊(感覚作用)、想蘊(表象作用)、行蘊(意志・欲求などの心作用)、識蘊(対象を識別する作用)。
【注3】 菩薩権実霊照・・・・菩薩の権智(ごんち:方便の智慧)と実智(じっち:真実の智慧)は霊妙に照らす、という意味であろう。
【注4】 「相有体空」「事有性空」・・・・共に「本体から派生した諸々の事象は空である」という意味だと思われるが、今の時点では筆者の心に疑問が残るため解釈は保留としたい。
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外面是六塵,裡面是六根,六根六塵全是假的,沒有一法是真的,為什麼?緣生之法。《中觀論》上講得好,「緣起性空」。懂得一切法都是緣起,因緣生法,因緣是無常的,因緣是不住的,所以一切法當體即空了不可得。他可以自在受用,一塵不染;換句話說,他不放在心上。心上沒有,清淨心沒有,平等心裡頭也沒有,覺心裡頭更沒有。
外は六塵、内は六根です。六根、六塵はすべて偽りであり、何一つ真実ではありません。なぜでしょうか?縁によって生じる法だからです。『中観論』には「縁起性空」と説かれています。一切法は縁起であることを理解することです。因縁は法を生み出します。因縁は無常です。因縁は止まりません。ですから一切法は「当体即空,了不可得」(本体は空であり、捉えることはできない)なのです。その(境地に達した)人は自在にご利益を受けて、塵一つにも染まりません。言い換えれば、その人は心に留めません。心の中にありません。清浄心には何もありません。平等心の中にもありません。覚心の中には尚更ありません。
<参考>
事・・・・個別的具体的な事象・現象を意味する。
理・・・・不変的な絶対・平等の真理・理法を指す。
(『岩波 仏教辞典 第二版』を参照した)
為什麼要「少說一句話,多念一聲佛」? / なぜ「ひと言少なく話し、ひと声多く念仏す」べきなのか
文摘恭錄—淨土大經科註(第四00集)2012/6/28 檔名:02-037-0400
所以古人勸我們,「少說一句話,多念一聲佛」,為什麼?那一聲佛,你說福慧多少;說話的時候,不但沒有福慧,還造業。然後我們就看到,一些阿公阿婆一天到晚在念阿彌陀佛,古大說,那一種人暗合道妙。他什麼都不懂,但是他所做的、所表現的、真幹的,跟那些完全通達的菩薩沒有兩樣。
古人は私たちに勧めています。「ひと言少なく話し、ひと声多く念仏す」。なぜでしょうか?そのひと声の念仏は、どれほど福徳と智慧を増すことでしょうか。話をする時には、福徳も智慧も無いばかりか、業を作ります。私たちは見ることがあります。あるお爺さんやお婆さんたちは、一日中朝から晩まで阿弥陀仏を念じています。古の大徳が説かれるには、そのような人は期せずして道妙に適っているのです。その人は何も知りません。しかしその人のすること、行為、本当に実践することは、完全に通達した菩薩と異なるところはありません。
菩薩做到,他也做到,菩薩是一切明瞭,他一切不明瞭,但是明瞭、不明瞭是另外一樁事情,他兩個都做到了。兩個都做到了,往生的時候,品位兩個就會一樣高;到極樂世界,他智慧就開了,這個我們能相信。人的大徹大悟、明心見性也是遇緣不同。古有一句話說得好,「但得見彌陀,何愁不開悟」。
菩薩は成し遂げます。その人も成し遂げます。菩薩は一切が明瞭です。その人は一切が不明瞭です。しかし明瞭、不明瞭は別の事なのです。彼らは二人とも成し遂げます。二人とも成し遂げれば、往生する時、二人とも同じ高さの位に達します。極楽世界に到れば、その人の智慧は開かれます。私たちはこれを信じることができます。人の大徹大悟、明心見性もまた遇縁(ぐうえん)が異なります。古徳(ことく:昔の徳を積んだ人)は良い言葉を残されています。「但得見弥陀,何愁不開悟」(但(た)だ弥陀に見(まみ)ふるを得れば、何ぞ開悟せざるを愁へん)。
那不能開悟的人,見到阿彌陀佛就開悟了,緣不一樣。所以我們往生淨土見阿彌陀佛,這第一樁大事,其他的都是雞毛蒜皮,不足以為道。天上人間再不想了,那是什麼?那是搞生死、搞輪迴,不能幹!這是叫甘露法。
その開悟できない人は、阿弥陀仏にお目見えすれば開悟します。ご縁は異なります。ですから私たちは浄土に往生して阿弥陀仏にお目見えすること、これが一番の大事です。その他の事は取るに足らないことであり、「以て道と為すに足らず」なのです。天界、人間界を二度と思いません。それは何でしょう?それは生死を行うこと、輪廻を繰り返すことです。それをしてはなりません!これは甘露の法と言います。