浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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『神は世人を愛す』を学ぶ 12

2021-12-20 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 12

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十二集)

※翻訳文は後日掲載します。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 11

2021-07-15 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 11

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十一集)
2018/10/20  聯合國教科文組織淨空之友社  檔名:21-786-0011

  諸位法師、諸位同學,請坐。請看《神愛世人》這個小冊子第四十六頁,前面講到這個地方,四十六頁。前面說到一句很重要的經文,我們回顧一下,在四十六面:
法師各位、学生の皆さま、お座りください。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。前回ここまでを講じました。四十六頁です。前回とても重要な経文についてお話ししました。振り返ってみましょう。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。】

  佛給我們講的話都是事實真相,我們迷了,一無所知;佛菩薩覺悟了,什麼都知道,所以稱為一切智。自然智,不必學的,這就是自然的。為什麼?自性本來如是,我們講自覺。換句話說,真心就是這樣的,真心充滿了智慧,一切智、自然智、無礙智,沒有障礙的智慧,統統有。怎麼沒有了,完全失掉了,丟得乾乾淨淨,什麼原因?佛給我們說出來了,妄想、分別、執著障礙了。如果我們能把這些煩惱放下、障礙放下,我們自性裡面的般若智慧,跟諸佛如來沒有兩樣,跟觀音、勢至也沒有兩樣。
仏陀が説かれた話はすべて事実の真相です。私たちは迷い、何一つ知りません。仏菩薩は悟り、何でも知っています。ですから一切智と言います。自然智とは、学ぶ必要がないものです。これは正に自然なのです。なぜでしょうか?自性は本来そのようなものであり、私たちは自覚(自ずから覚る)と言います。言い換えれば、真心とは正にこのようなものです。真心は智慧に満ちています。一切智、自然智、無礙智、障礙のない智慧が、すべてあるのです。どうして無くなったのでしょうか?完全にきれいさっぱり失った原因は何でしょうか?仏陀は私たちに説いてくださいました。妄想、分別、執著が障礙になっているのです。もし私たちがそれらの煩悩を放下し、障礙を放下できれば、私たちの自性の中の般若の智慧は、諸仏如来と何も変わりません。観音菩薩や勢至菩薩と何も変わりません。

  學佛學了幾十年,還不止,還要接上前輩、再前輩,過去無始,生生世世學佛,往生極樂世界都沒有拿到,什麼原因?六根接觸六塵境界起心動念,錯了。眼見色、耳聞聲、鼻嗅香、舌嘗味、身體的覺觸,六根接觸到六塵境界就起心動念,這是用一句話總說;要分開來說,眼在見色的時候起心動念,耳在聞聲的時候起心動念……起心動念就迷了。
仏に学んで数十年、それだけにとどまりません。前世、そのまた前世と続いて、過去に始まりがなく、生まれ変わり死に変わり仏に学んで、極楽世界に往生することさえかないません。何が原因でしょうか?六根【注1】が六塵【注2】に触れて心を起こし念を動かす、これが間違いです。眼で色(しき:物質)を見、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身体で接触して、六根が六塵の境界(きょうがい)に触れると、すぐに心を起こし念を動かします。これがひと言で言う総括です。分けて言うなら、眼で色を見た時に心を起こし念を動かし、耳で声を聞いた時に心を起こし念を動かし・・・・心を起こし念を動かせば迷います。
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【注1】六根(ろっこん)・・・眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のこと。
【注2】六塵(ろくじん)・・・色・声・香・味・触・法の六つの境界のこと。
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  佛菩薩比我們高明在哪裡?就是高明在他眼見色,看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念;耳聞聲、鼻嗅香,無不如是,都能做到不起心不動念、不分別不執著,所以他的一切智現前。一切智從哪裡來的?自性本來具足的,一點都不稀奇。一切諸佛如來具足,一切菩薩摩訶薩具足,一切眾生具足,我們個個人都具足,你要相信;你不相信,你學佛是白學了。
仏菩薩が私たちより優れているのはどこでしょうか?それは正に、眼で色を見て、はっきりと明瞭に見えていて、起心動念がありません。耳で声を聴き、鼻で香りを嗅ぎ、――それに及ぶものはありません――すべて心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しません。ですから彼の一切智は現前します。一切智はどこから来るのでしょうか?自性に本来具足(ぐそく:十分に備わっていること)しているものです。少しも奇妙なことではありません。一切の諸仏如来は具足しています。一切の菩薩摩訶薩は具足しています。一切衆生は具足しています。私たちはどの人も具足しています。あなたは信じなければなりません。信じないなら、仏に学んでも無駄です。

  相信怎麼辦?我們還是會起心動念,起心動念在我們已經養成習慣了,不是這一世,過去世中就已經養成習慣,生生世世、無量劫來,這個妄想、雜念根深蒂固,把我們降到六道眾生。人天還稍微好一點,還有一點善業,其他的四惡道(一般講三惡道,修羅我也把它說成惡道),時間久了,回不了頭,沒有福報。什麼叫沒有福報?沒有機會接觸到佛法;有機會接觸到佛法是他的福報大。
信じてどうするのでしょうか?私たちはそれでも起心動念します。起心動念することがすでに習慣になっています。この一世だけでなく、過去世の中でも習慣になっていました。生まれ変わり死に変わり、無量劫(むりょうごう:限りなく長い時間)において、この妄想、雑念が深く根を張って、私たちを六道の衆生に落としているのです。人天はまだ良いほうです。まだ少しの善業があります。その他の四悪道(一般的には三悪道と言いますが、私は修羅道も悪道としています)、長い時間を経て、改心できなくなり、福報がありません。福報がないとはどういうことでしょうか?仏法に触れる機会がないということです。仏法に触れる機会があるのは、その人の福報が大きいからなのです。

  今天得人身,在這個世間,很難得。接觸到佛法,他就能相信,他不懷疑,他很尊重,他能理解,這個難得,接著再修。修的裡面最重要的是什麼?放下;解門裡頭最重要的是看破。淨宗歷代不少大德,出家在家,主修,淨土五經一論;助修,很多人都用《金剛經》、《心經》,它不太長,很適合初學,不但適合初學,老修也適合。這個經教我們什麼?教我們看破、放下。看破跟我們講「凡所有相,皆是虛妄」、「一切有為法,如夢幻泡影」,這是真的,不是假的,與科學家所說的完全相同。既然是假的、既然是虛妄的,就不應該起心動念。
今日人身を得て、この世間にいるのは得難いことです。仏法に触れ、その人は信じることができ、疑いません。その人は(仏法を)尊重し、理解することができます。これは得難いことです。(過去世から)引き続き修めるのです。修めることの中で最も重要なことは何でしょうか?放下することです。解門の中で最も重要なのは(この世の真相を)看破することです。浄土宗の歴代の多くの大徳は、出家も在家も、浄土五経一論を専攻していました。補助として多くの人は『金剛経』、『心経』を用いました。それはあまり長くないので初学者に適しています。初学者に適しているだけでなく、長年修めた人にも適しています。この経は私たちに何を教えてくれるのでしょうか?看破、放下です。看破は「凡(およ)そ相(そう)有る所,皆(みな)是(これ)虚妄(きょもう)なり」、「一切(いっさい)有為(うい)の法、夢・幻・泡・影の如し」と説かれています。これは本当です。偽りではありません。科学者が言うことと完全に同じです。(この世のすべてが)偽りであり虚妄であるからには、心を起こし念を動かすべきではありません。

  所以,你的過失錯在哪裡?錯在六根接觸六塵境界,一接觸就起心動念,麻煩在此地。你要問這是什麼原因?我可以老實告訴你,無始劫以來的習氣所造成的。現在怎麼辦?現在這一生遇到佛法,搞清楚、搞明白了,功夫,功夫深淺、功夫大小,完全在你能夠看破多少、放下多少,這是真功夫。徹底放下,就能往生,臨命終時,一句佛號,求阿彌陀佛來接引,承如來的威德,接引往生極樂世界。多!不少,我這一生見到的就十幾個。我很感恩,他來做榜樣給我看,在我面前表演,讓我深信不疑,我們感恩戴德。
ですからあなたの間違いはどこにあるのでしょうか?間違いは六根が六塵の境界にひとたび触れると、心を起こし念を動かすことです。面倒なのはここなのです。あなたはこれは何が原因なのかと質問するでしょうか?私は真面目に答えます。これは無始劫以来の習気(じっけ)によって作られたものです。今どうすれば良いのでしょうか?今この一生で仏法と出会い、はっきりと理解しました。技量の深浅、技量の大小は、完全にどれだけ看破できるか、どれだけ放下できるかにあります。これが本当の技量です。徹底して放下すれば往生することができます。臨終の時、一句の仏号で阿弥陀仏がお迎えに来て、如来の威徳を受けて、極楽世界に往生することを求めます。たくさんいます!少なくありません。私はこの一生で十数人見ています。私は感謝しています。その人たちはお手本を見せてくれたのです。私の目の前で演じて下さり、私に信じて疑わせません。有り難いことです。

  所以《大方廣佛華嚴經》這一段,我們要常常記在心裡,句句是真話,沒有一個眾生不具有如來智慧。記住,他沒有說「沒有一個人」不具足如來智慧,他說眾生,眾生包括了所有的生物。畜生是不是眾生?是的;野外樹上、草上那些小爬蟲是不是眾生?是眾生。牠也具足如來智慧嗎?是,你可別輕視牠。所以,要愛護眾生,說不定牠成佛在我之前,很難說。畜生道裡頭有沒有佛菩薩?有,應以什麼身得度,佛菩薩就現什麼身。所以佛菩薩現餓鬼身、現畜生,大的現牛馬這些大畜生,小的,蚊蟲螞蟻,今天我們講的生物。眾生就是現在名字叫生物,統統具有如來智慧,我們要把牠看作什麼?看作如來、看作佛、看作菩薩,不能輕慢,培養我們謙卑的、禮讓的心態。對蚊蟲螞蟻都恭敬,何況對一切眾生,何況對於人類,何況對一切宗教的神聖,真誠恭敬心就生得起來。否則的話,對一切眾生來講,生起恭敬很難,對人都不容易生起,何況對一切生物,都沒有看在眼裡,這是我們的過失。
ですから『大方廣佛華厳経』のこの一段は、私たちは常に心に留めておかなければなりません。どの言葉も真実であり、いかなる衆生も如来の智慧を具えていないことはありません。覚えておいてください。彼は「いかなる人も」如来の智慧を具足していないことはないとは言っていません。彼は衆生と言っています。衆生とはあらゆる生物を含みます。畜生も衆生でしょうか?そうです。野外の樹木や草の上にいる爬虫類も衆生でしょうか?衆生です。彼らも如来の智慧を具足しているのでしょうか?そうです。あなたは彼らを軽視してはなりません。ですから衆生を愛護しなければなりません。彼らは自分より先に仏に成るかもしれません、何とも言えません。畜生道には仏菩薩がいるでしょうか?います。どの衆生を救うかによって、仏菩薩はその衆生にふさわしい姿で現れます。仏菩薩は餓鬼身、畜生として現れます。大きいものは牛馬などの大きな畜生、小さいものは蚊・虫・蟻などです。今日私たちは生物と言います。衆生とは今でいう生物です。すべて如来の智慧を具えています。私たちは彼らをどう見たらよいでしょうか?如来として、仏として、菩薩として見ます。侮ってはなりません。謙遜し、礼儀を厚くして譲る心を養うことです。蚊・虫・蟻に対して敬うのですから、ましてや一切衆生、ましてや人類に対して、一切の宗教の神聖なものに対して、真誠(しんせい)恭敬(きょうけい)の心を起こすのは尚更のことです。そうでなければ一切衆生を敬う気持ちを持つことは難しく、人を敬うことさえ容易ではありません。ましてや一切の生物など眼中にもありません。これが私たちの誤りです。

  怎麼會變成這個樣子?記住,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、執著而不能證得。這一句經文把它念熟,早晨起來念幾遍,晚上睡覺之前念幾遍,提醒自己:我今天有沒有妄想?有沒有分別執著?有,趕快丟掉;沒有,很好、很難得,繼續精進。自作還要自度,靠別人是不行的,要靠自己,一切時一切處,要把自己的虛妄顛倒妄想分別執著統統放下。
なぜこのように変わってしまったのでしょうか?覚えておいて下さい。自分の虚妄(きょもう:事実でないこと)であり顛倒(てんどう:道理にそむく考え)した妄想・分別・執著によって証得(しょうとく:真理を悟ること)できないのです。この一句の経文をよく読んで、朝起きたら数回読み、夜寝る前に数回読んで、自分に注意喚起します。自分は今日妄想したでしょうか?分別や執著はあったでしょうか?あるなら、すぐに捨て去ります。ないなら、それで良いでしょう。得難いことです。引き続き精進します。自分で取り組み、自分を救わなければなりません。人に頼っては駄目です。自分に頼ります。いつでも、どこでも、自分の虚妄・顛倒した妄想・分別・執著をすべて放下しなければなりません。

  我們把下面這個文念一遍就懂了。「當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時,他們便會完整地獲得那圓滿智慧的真實受用;而這種眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,無礙智現前,「這也是一切眾生真心本具、不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一切智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染」,這種智慧乃是本自清淨無染的,就是前面所說的一切智。這三種智慧成就了。
私たちは以下の文を一度読めば理解できます。「衆生が自分の妄念・煩悩を徹底して放下した時、彼らは完全な形で円満なる智慧の真実のご利益を獲得する。しかもこの種の衆生が本来具えている円満なる智慧は、正に宇宙万法に徹底して通達した無礙(むげ:妨げのないこと)の智慧である」。無礙智が現前します。「これも一切衆生の真心に内在し、外から得られない真実の智慧である」。これを自然智と言います。「この種の智慧は、正に如来大覚者の智慧である。ここにおける一切の智慧の中で、覚者たちが究極的に認識するに至った自己の真心は、正に本来自ずから清浄で穢れがありません」。この種の智慧は本来自ずから清浄で穢れがないもので、正に先に話した一切智です。この三種類の智慧が成就します。

  一切智、無礙智、自然智是自己本有的,並沒有丟掉,是我們被起心動念、妄想執著障礙住。怎麼辦?修行。行是行為,起心動念、言語造作叫做行,錯了、出了問題了,把它修正過來,叫修行。用什麼修?放下、看破。看破是理明白了,智慧現前;智慧現前還不夠,必須要徹底放下,放下是事上的修行,真修行;就那麼簡單的兩句話,看得破、放得下。
一切智、無礙智、自然智は自分がもともと具えているもので、失った訳ではありません。私たちの起心動念、妄想・執著に障碍を受けているのです。どうすれば良いのでしょうか?修行です。行(ぎょう)とは行為です。起心動念、言葉や行為を行というなら間違いです。問題が出てきます。それを修正するのが修行なのです。何を用いて修めるのでしょうか?放下、看破です。看破は道理が明らかになることで、智慧が現前します。智慧が現前するだけでは足りません。必ず徹底して放下しなければなりません。放下とは実際の修行、真の修行です。正にとても簡単な二句の言葉、「看破することができれば、放下することができる」です。

  我是這兩句話,二十六歲的時候,章嘉大師教給我的。我的看破是從方東美先生那裡得來的,放下是從章嘉大師這得來的。起了一點作用,這六十年來講經教學,接觸不少的朋友,各個階層,社會各階層的人都有,跟他們往來的時候,我所談的,他們所提問的都能解答。我沒讀那麼多書,能夠解答,還沒解錯,這是什麼?一切智、自然智、無礙智自然現前。
私のこの二句の言葉は、二十六歳の時に、章嘉大師が教えてくださったものです。私の看破は方東美先生から得たものです。放下は章嘉大師から得たものです。少しばかり役に立ち、この六十年来講経・教学をして、多くの友人と接しました。様々な階層、社会の様々な階層の人がいました。彼らと交流する時、私が話したことに対する彼らの質問にはすべて答えることができました。私はそれほど多くの書物を読んでいませんが、答えることができて、解釈を間違えていません。これは何でしょうか?一切智、自然智、無礙智が自然に現前したのです。

  好,今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 10

2021-06-20 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 10
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十集)
2018/10/19 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0010

  諸位法師、諸位同修,大家好。請看《神愛世人》第四十六頁,我們把文念一遍:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。文を一度読みます。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。若離妄想,一切智、自然智、無礙智,則得現前。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智は、則ち現前するを得る。】

  這段經文把佛教圓圓滿滿的為我們講出來。佛教是宗教,為什麼是宗教?中國「宗教」兩個字,它給我們所表的這種教育,是人類。範圍再擴大一點,它包括了六道、十法界,在六道十法界裡面,它是主要的教育、重要的教育、尊崇的教育。宗教兩個字可以包括佛教,佛教確確實實符合。這段經文,《華嚴經》上的,跟給我們把這樁事情講明白了、講清楚了。
この経文は仏教を円満に語っています。仏教は宗教です。なぜ宗教なのでしょうか?中国の「宗教」の二字が表すのはそのような教育です。人類の教育です。範囲を更に拡大すれば、それは六道、十法界を含みます。六道、十法界の中で、それは主要な教育、重要な教育、尊崇な教育です。宗教の二字は仏教を包括します。仏教は間違いなく適合します。この経文は『華厳経』のものです。この事を明白に、はっきりと説いています。

  第一句說明『無一眾生不具有如來智慧』。一切眾生跟如來關係是什麼?是一體。所以如來對於虛空法界、過去未來無所不知、無所不曉,他都曉得,這是如來的智慧,圓滿的智慧。過去現在未來,此界、他方,此界他方講空間,過去未來講時間。無量無邊際的空間,這裡面無論是什麼事、是什麼理,道理,佛都知道。
第一句は「一衆生として如来の智慧を具有せざるは無し」を説明しています。一切衆生と如来とはどのような関係でしょうか?一体です。ですから如来は虚空法界、過去未来において知らないことは無く、暁(さと)らないことはありません。彼はすべて理解しています。これは如来の智慧、円満の智慧です。過去現在未来。この世界、あの世界。この世界あの世界とは空間のことです。過去未来とは時間のことです。無量無辺の空間、この中にどのような事、どのような理があろうと仏はすべて知っています。

  佛家稱「如來」,本來的意思,今佛如古佛之再來,所以稱作如來,今佛跟古佛是一不是二。這些有一些經教裡頭沒有,經教裡頭共同有的就是「神愛世人」。我們今天需要這一句,希望每位宗教的傳人、宗教的信徒、宗教的傳教師,都有正確的認識,今佛如古佛之再來。今佛的智慧跟古佛的智慧是一不是二,究竟圓滿的大智慧,佛法講開悟,明心見性、大徹大悟就成佛了。這是真的,不是假的。
仏家では「如来」と言いますが、本来の意味は「今仏は古仏の再来の如し」です。それで如来と言うのです。今仏と古仏とは一であり二ではありません。これらはある経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)にはありません。経教の中に共通してあるものは「神は世人を愛す」です。私たちは今日この言葉が必要です。どの宗教の伝承者、宗教の信徒、宗教の布教者も正しく理解することを願います。今仏は古仏の再来の如し。今仏の智慧と古仏の智慧は一であり二ではありません。究極円満の大いなる智慧です。仏法は悟りを説きます。明心見性、大徹大悟すれば仏に成ります。これは本当です。偽りではありません。

  我們現在跟佛比,佛有圓滿智慧,我們有圓滿的顛倒。這什麼原因?是因為我們有妄想,妄想讓我們顛倒了,執著讓我們不能證得。現在學了佛,佛教我們什麼?佛教給我們的,把妄想、顛倒放下,就行了。
私たちは今、仏と比べると、仏には円満な智慧がありますが、私たちは円満に顛倒(てんとう:逆行すること)しています。これは何が原因なのでしょうか?私たちには妄想があります。妄想は私たちを顛倒させます。執著は私たちを証得させません。今は仏に学んでいます。仏は私たちに何を教えるのでしょうか?仏が私たちに教えるものは、妄想・顛倒を放下することです。それで良いのです。

  所以早年間我向大師,章嘉大師請教,佛法裡面有沒有最簡單、最容易,讓我們也能夠很快契入境界,像佛陀一樣?老師告訴我兩句話:「看得破,放得下。」看得破不容易,放得下也不容易,這是關鍵。
ですから昔私は大師に質問しました。章嘉大師に教えを請いました。仏法の中には最も簡単に、最も容易に私たちを早く境界(きょうがい:境地)に入らせ、仏陀と同じようになることはできますか?大師は私に「看破することができれば、放下することができる(看得破,放得下)」と仰いました。看破するのは容易ではなく、放下するのも容易ではありません。これが鍵です。

  放下看破難!為什麼放不下?我們對於一切事物都起心動念、都想佔有,包括壽命,希望長壽,希望有大福報、有大財富,過著人間天上的生活。哪一個眾生不想這個?所以迷了。每一個眾生都有如來德相,現在我們跟如來走的是兩條路,他是圓滿大覺,生活在圓滿智慧當中;我們是妄想、分別、執著,對於境界,無論是現前、過去、未來,全迷失了!無論對人、對事、對萬物,完全迷失了,還以為自己是對的,以為自己的妄想分別執著是對的。將來壽命到了,墮落到三途,才知道錯了,後悔來不及了。
放下、看破は難しいものです!なぜ放下できないのでしょうか?私たちは一切の事物に心を起こし念を動かし、占有したいと思います。寿命も含めてです。長寿を願い、大きな福報があり多くの財産があることを願い、人間界天上界の生活を送ることを願います。どの衆生がこれらを望まないでしょうか?だから迷うのです。どの衆生も如来の徳相を具えています、今の私たちと如来が進むのとは別々の道です。如来は円満に覚っています。生活は円満な智慧の中にあります。私たちは妄想、分別、執著です。境界に対して現前、過去、未来のどれに関わらず、すべて見失っています!人に対しても、物事に対しても、万物に対しても、完全に見失っています。まだ自分が正しいと思い込んでいます。自分の妄想・分別・執著は正しいと思っています。将来寿命が来て、三途に堕落してみて、はじめて間違いを知ります。後悔しても遅いのです。

  我們的如來智慧迷了多久?過去,過去還有過去,生生世世都是迷惑顛倒,不是今天才迷。愈迷愈深,愈迷愈嚴重,這一生不開悟,來生迷得比這一生要加倍,前途一片黑暗,怎麼辦?佛給我們講真話,真話很難相信、很難接受;如果騙我們,我們反而容易接受,還認為是對的。
私たちの如来の智慧はどのくらいの期間迷っているのでしょうか?過去には更に過去があり、生まれ変わり死に変わり迷惑顛倒しています。今日になって迷い始めたのではありません。迷えば迷うほど深くなり、迷えば迷うほど深刻になっていき、この一生では悟りを開けません。来世の迷いはこの一生より倍増します。前途は一片の暗黒です。どうすれば良いのでしょうか?仏は私たちに真実の話をされました。真実の話は信じ難く、受け入れ難いものです。もし私たちを騙しているなら、私たちはかえって受け入れやすく、また正しいと思うものです。

  這一段,佛教給我們怎麼樣回歸自性,怎麼樣把跟如來一樣的智慧找回來;找回來就是要學佛,這是大事!本來有,不是本來沒有,這個要相信。你要能真相信,得到很大的鼓勵,我有機會成佛,跟釋迦如來一樣。釋迦講經四十九年,今天我們看到的佛教學的教材經典《大藏經》,分量那麼大,古時候用紙印出來字都很大,一套《大藏經》要一棟樓房去裝它才能容納得下。人一生能不能讀得完?能讀得完,學不到,它內容太豐富了,像一個完整的大學,什麼科系都有。於是我們知道,我們遇到難關,在大乘經典裡面,就像《群書治要》一樣,找到答案,知道怎麼樣應付。
この一段は、仏が私たちにどのように自性に回帰するのか、どのように如来と同じ智慧を取り戻すのかを教えています。取り戻すには仏に学ばなければなりません。これは大きな事です!もともとあるのです。もともとないのではありません。これを信じなければなりません。あなたがもし本当に信じるなら、大きな励ましを得ます。仏に成る機会があります。釈迦如来と同じようにです。釈迦牟尼仏は四十九年講経しました。今日私たちは仏教学の教材経典『大蔵経』を見ることができます。分量はあれほど多いのです。昔は紙を使って印刷したので字が大きく、『大蔵経』ひとセットは一棟の建物であればやっと収めることができるほどです。人は一生で読み終わることができるでしょうか?読み終わるとしても、学べません。その内容があまりにも豊富だからです。ちょうど総合大学がどの学科もすべてあるようなものです。そこで私たちは理解します。私たちは困難に直面した時、大乗経典の中に、ちょうど『群書治要』と同じように、答えを探し当てます。どのように対処すれば良いかが分かります。

  我們有『一切智』,無所不知,『無礙智』,沒有障礙。你講經教學,聽眾很多,有許許多多問題提出來問你,你有無礙智,你都能夠講明白、講清楚,讓這些人覺悟。『自然智』,自然智是不需要學習的,一問,本來也沒有想到,這一問問出來了,自自然然就解答了。阿羅漢、菩薩、佛陀他們都有,都有這種智慧。
私たちには『一切智』があります。知らないことはありません。『無礙智』があり、障礙(しょうがい)はありません。あなたが講経・教学して、聴衆が多くいれば様々な質問をされます。あなたには無礙智があり、明瞭にはっきりと語り、それらの人を悟らせます。『自然智』。自然智は学ぶ必要がありません。問われると、もともと思いもよらないのに、問われることによって、極々自然に答えることができます。阿羅漢、菩薩、仏陀にはすべてこのような智慧があります。

  是不是老師教的?不是;老師教你個原則,就像此地一樣,告訴你,你的智慧現在不能現前,是什麼原因,是你有妄想分別執著。所以像佛那樣圓滿的智慧,你本有的,失掉了。你現在必須重學,學的怎麼樣?學的是錯誤的,不是智慧,知識;知識解決問題有限,智慧解決問題是無限的。所以我們要牢記住,我們丟掉的,是妄想顛倒執著而不能證得;如果我們能夠離開妄想,一切智、自然智、無礙智則得現前,智慧就現前了。
老師が教えたのでしょうか?違います。老師はあなたに原則を教えます。ちょうどここでしているように。あなたに言います。あなたの智慧が現前しない原因は何でしょうか。それはあなたに妄想・分別・執著があるからです。ですから仏のような円満な智慧をあなたは本来具えていて、失ったのです。あなたは今再び学ばなければなりません。学んでどうでしょうか?学んだものは間違っています。智慧ではなく知識だったのです。知識では問題を解決するのに限界があります。智慧で問題を解決するのに限界はありません。ですから私たちはしっかりと覚えておかねばなりません。私たちが失ったのもの、妄想・分別・執著のために証得できないのです。もし私たちが妄想を離れることができれば、一切智、自然智、無礙智がすぐに現前し、智慧が現前します。

  下面有白話解釋,我們把它念一遍,「究竟圓滿的智慧是每一個眾生本來就具有的」,一定要承認,我跟佛沒有兩樣;「但是,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、以及執著等煩惱所障礙與纏縛,所以,一切眾生雖然本自具足究竟圓滿的如來智慧,但卻對其不覺不知,不能得其受用。」佛陀、菩薩、阿羅漢應用得很自在,我們望塵莫及。
次に口語の解釈があります。それを読んでみましょう。「究極円満の智慧はどの衆生も本来具えているものです」。必ず認めなければなりません。自分は仏と何も変わりません。「しかし自分の虚妄顛倒たる妄想、分別、そして執著等の煩悩により障礙となり縛られています。ですから一切衆生は本来究極円満の如来の智慧を具えていますが、それを覚らず知らず、それを活用することができません」。仏陀、菩薩、阿羅漢は自在に応用できます。私たちは足元にも及びません。

  所以下面我們就要記住,修行修這個,「然而,當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時」,這話是真話,一點都不錯,徹底放下時,「他們」,他們就是講的這些智慧,一切智、自然智、無礙智,無量無邊的智慧,你就完整的獲得,那是圓滿智慧的真實受用。佛法是完全講平等,佛所有的我們都有。
ですから次のことを覚えておかなければなりません。修行はこれを修めるのです。「しかし衆生が自分の妄念・煩悩を徹底的に放下した時」。この話は本当です。少しの誤りもありません。徹底的に放下する時、「彼ら」、彼らとはこれらの智慧のことです。一切智、自然智、無碍智、無量無辺の智慧をあなたは完全な形で獲得します。それが円満なる智慧の真実のご利益です。仏法は完全に平等を講じています。仏にあるものは私たちにすべてあるのです。

  智慧怎麼能得到?我在這裡再補充一點,告訴大家。睜開眼睛我們要不要看?看到些什麼?看了以後起了什麼作用?起了妄想;起了妄想,佛法裡面叫做起心,這是妄心,不是真心。起心動念就把我們的真心變成了妄心,本來知道的、完全了解的真實智慧,這一起心動念,智慧就變成了煩惱習氣。煩惱是什麼?分別、執著,麻煩就是此地。你有沒有聽懂?你要真聽懂了,我問你,什麼叫修行?你答不出來,或者你答錯了,這是自然的現象,不足以奇怪。起心動念、分別執著起來了,全迷了。應該要跟佛學習,學習什麼?不起心、不動念。眼睛睜著,看到一切山河大地、樹木花草,沒有起心動念,對了,你這個就是如來知見。要一直保下去,念念都保下去,不能是一閃讓它過去了,不能起心動念,又起心動念了。
智慧はどのように得られるのでしょうか?私はここでもう一度補足して皆さんにお話しします。目を見開いて私たちは見たいのでしょうか?何が見えるのでしょうか?見た後でどのような作用が起こるのでしょうか?妄想が起こります。妄想が起こることを仏法では「起心」(心を起こすこと)と言います。これは妄心であり、真心ではありません。起心動念(心を起こし念を動かすこと)で私たちの真心は妄心に変わります。本来知っている、完全に理解している真実の智慧は、一たび起心動念すれば智慧が煩悩の習気(じっけ)に変わります。煩悩とは何でしょうか?分別、執著、面倒なのはここです。あなたは聞いて理解できるでしょうか?あなたが本当に聞いて理解できるなら、私があなたに「修行とは何か」と問えば、あなたは答えられないか或いは答えを誤るでしょう。これは自然な現象です。怪しむほどのことではありません。起心動念、分別、執著が起これば、すべて迷いなのです。仏に学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか?心を起こさず、念を動かさないことです。目を見開いて、一切の山河大地、樹木や草花を見て、起心動念を起こさない。それで良いのです。それこそが如来の知見です。ずっと維持し続けなければなりません。絶えず保ち続けます。それをさっとやり過ごすことができず、起心動念してはいけないのに、また起心動念してしまいます。

  修行,在見色,一切眼所見到的,你要問問,釋迦如來他是怎麼對應的?他是看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念。菩薩呢?菩薩比佛差一等,有起心動念,沒有分別執著。所以他起心動念是有限制的,一剎那之間,馬上掉過頭來不分別不執著,他守住這一點。我們凡夫,起心動念之後,馬上分別執著就現前,愈陷愈深;菩薩陷進去一點點,他就明白了,他就跳出來。我們不但起心動念、分別執著,執著來了,跟著的貪瞋痴慢疑全出來了,愈迷愈深。這是凡夫,你怎麼迷的。
修行は(例えば)色(しき:物質)を見ます。一切の目で見えるところのものを見ます。あなたは釈迦如来はどのように対処していたのかと質問するでしょうか。彼ははっきりと見えていて、心を起こさず念を動かしません。菩薩はどうでしょうか?菩薩は仏より少し劣ります。心を起こし念を動かしますが、分別と執著はありません。ですから菩薩の起心動念には制限があります。刹那の間に転じて分別せず執著しません。菩薩はこの一点を守ります。私たち凡夫は、起心動念した後、すぐに分別と執著が現前します。ますます深く陥ります。菩薩は少しばかり陥ると、彼はすぐに理解してすぐに飛び出します。私たちは起心動念するばかりか、分別・執著します。執著すれば貪瞋痴慢疑(貪り・怒り・無知・傲慢・真理に対する疑い)がすべて出てきます。ますます深く迷います。これが凡夫です。あなたはなぜ迷っているのでしょうか。

  佛是怎麼成的?他就是覺。為什麼?自性清淨心裡面,講照見,沒有說起心動念見;他沒起心動念,像鏡子照外面,他就是能照,照得很清楚,他就不起心不動念。我們要學這個本事,學這個本事的人沒煩惱。煩惱從哪裡來的?從妄想分別執著來。他沒有妄想、他沒有分別、他沒有執著,用真心不用妄心,這就對了。
仏はなぜ成就したのでしょうか?仏は覚りました。自性・清浄心の中に、照見を重んじました。心を起こし念を動かして見るとは言っていません。仏に起心動念はありません。鏡が外界を映すように、仏は映すことができます。はっきりと映して、心を起こさず念を動かしません。私たちはこの技量を学ばなければなりません。この技量を学んだ者に煩悩はありません。煩悩はどこから来るのでしょうか?妄想・分別・執著から来るのです。仏には妄想が無く、分別が無く、執著がありません。真心を用いて妄心を用いません。これで良いのです。

  這段文,第四十七面還有一大片,講到究竟圓滿的智慧,是每一個眾生本來就具有的。「眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,叫無礙智。下面跟著起來的,一切智、自然智統統能現前。「這也是一切眾生真心本具,不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染的」,返妄歸真。
この文章は四十九頁にまだたくさん続きます。究極円満の智慧を講じています。どの衆生にももともと具わっているものです。「衆生がもともと具えている円満なる智慧、つまり宇宙万法に徹底して通達する無礙の智慧」のことを、無礙智と言います。その次に続いて起こる一切智・自然智はすべて現前します。「これは一切衆生の真心が本来具えているものでもあり、外から得られない真実の智慧」、これを自然智と言います。「この種の智慧は、如来大覚者の智慧である。ここでの一つの智慧の中で、覚者たちは自己の真心はもともと清浄にして穢れのないことを究極的に認識します」。妄を転じて真に帰ります。

  所以修行人搞錯了,什麼叫真修行?看破、放下叫真修行。看破就是統統明白了、明瞭了,眼見色不迷,不起心不動念,耳聞聲不迷、鼻嗅香不迷、舌嘗味不迷,六根對六塵境界完全沒有迷失;就是說你用六根對六塵境界,沒有起心動念、沒有分別執著,樣樣清楚、樣樣明瞭,這就對了,這真會修。
ですから修行者は思い違いをしています。何を修行と言うのでしょうか?看破、放下を真の修行と言います。看破とはすべて明らかに、明瞭になることです。目で色を見て迷わず、心を起こさず念を動かさず、耳で音を聞いて迷わず、鼻で香りを嗅いで迷わず、舌で味わって迷わず、六根は六塵の境界(きょうがい)に対して完全に迷うことがありません。つまりあなたは六根を用いて六塵の境界に接しても、起心動念は無く、分別・執著は無く、すべてが明瞭です。これで良いのです。これなら真に修めることができています。

  總的來說,宗門常說的,總的來講,修行是六根對六塵境界不起心不動念而已。起心動念有幅度的,佛是圓滿證得,菩薩是多分證得,阿羅漢是少分證得。證得叫真心,沒有證得不能說真心。
総じて言えば、宗門がよく説いているように、修行は六根が六塵の境界に触れて心を起こさず念を動かさないことに尽きます。起心動念には幅があります。仏は円満に証得しています。菩薩は多く証得しています。阿羅漢は少しだけ証得しています。証得は真心と言います。証得していなければ真心と言うことはできません。

  好,今天我們就學習到此地。學會了真管用,進步很快。好,謝謝大家。
今日の学習はここまでにします。学んで身につければ本当に役に立ちます。進歩も早いでしょう。皆さまありがとうございました。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 09

2020-08-16 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 09

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第九集)
2018/10/18 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0009

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》四十四頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは!『神は世人を愛す』の四十四頁をご覧ください。

  【一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。】
【一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身にして、一の心、一の智慧なり。力・無畏(むい)も亦(ま)た然(しか)なり。】

  這四句話很重要!是真話,不是隨便說出來的,我們要牢牢的記住,希望這一生有緣能夠契入這個境界,這個境界就成佛了。
この四句は重要です!真実の話です。勝手に話したのではありません。私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。この一生でこの境界(きょうがい:境地)に入るご縁がある事を願います。この境界とは仏に成ることです。

  這是《華嚴經》上的經文,『一切諸佛身,唯是一法身』,說明一切諸佛是一法身變現出來的。什麼是法身?什麼是佛身?佛身是示現在人間,經過修學,達到大徹大悟。悟什麼?就是悟這句話,原來一切諸佛身就是一法身,「唯是」就是「就是」,法身是一。法身之外,有應身、化身,應化身無量無邊。
これは『華厳経』の経文です。「一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身なり」(一切諸仏身,唯是一法身)とは、一切諸仏は一つの法身が変化して現れたことを意味します。法身とは何でしょうか?仏身とは何でしょうか?仏身とは人間界に示現して、修学を経て大徹大悟に達します。何を悟るのでしょうか?正にこの言葉を悟るのです。もともと一切諸仏の身は一つの法身なのです。「唯是」とは「ただ、正に」のことです。法身は一つです。法身の他に、応身、化身があります。応化身は無量無辺です。

  我們常說的六道輪迴、常說的十法界依正莊嚴,從哪裡來的?法身變現的。法身沒有形相,真的是「言語道斷,心行處滅」,你沒法子說,說不出來;說什麼都不像,無法形容,是一切法,一切法包括六道輪迴、包括十法界。十法界、六道輪迴無量無邊,太大了、太多了,都是這一個法身變現的。好比我們作夢,醒來的時候還記得很清楚夢中的境界,這夢從哪裡來的?心現的,識變的。真心,真心裡面什麼都沒有,真心就是法身,能現十法界、能現六道輪迴。所以,六道、十法界只是一法身,是一不是二。
私たちがよく言う六道輪廻、十法界依正荘厳とはどこから来るのでしょうか?法身が変化して現れたものです。法身に形相はありません。本当に「言語道断(ごんごどうだん)心行処滅(しんぎょうしょめつ)」です。あなたは話しようがなく、話せません。何を話してもそれらしくありません。形容しようがありません。一切法です。一切法とは六道輪廻や十法界も含みます。十法界、六道輪廻は無量無辺であり、果てしなく大きく、果てしなく多いものですが、すべて一つの法身が変化して現れたものです。ちょうど私たちが見る夢のように、醒めた時はまだ夢の中の境界をはっきりと覚えています。この夢はどこから来るのでしょうか?心が現したもの、識が変化したものです。真心の中には何もありません。真心とは法身であり、十法界を現すことができ、六道輪廻を現すことができます。ですから六道、十法界はただ一つの法身なのです。一であり二ではありません。

  下面說得很好,『一心一智慧,力無畏亦然』。「力」是教化眾生的能力。「無畏」,在十法界、在六道,甚至於在十方世界一切諸佛剎土當中,現身說法,幫助眾生回頭,一樣也能證得佛身、法身。佛身是相,法身就像我們今天所講的時間、空間。時間、空間從哪裡來的?法身變現的。
次の言葉は良いものです。「一の心、一の智慧なり。力・無畏(むい)も亦(ま)た然(しか)なり」(一心一智慧,力無畏亦然)。「力」は衆生を教化する能力です。「無畏(むい:衆生の恐怖心を取り除くこと)」は十法界、六道において、更には十方世界一切諸仏刹土の中において、身を現身して説法し、衆生が改心するのを助け、同じように仏身、法身を証得させることです。仏身は相、法身とは私たちが今日言うところの時間と空間です。時間と空間はどこから来るのでしょうか?法身が変化して現れたものです。

  下面的註解我們念一遍:「所有證得究竟大覺的聖者們」。包括我、包括你、包括一切眾生,都在這一句經文裡面,全都說到了—「乃至於必定會於未來徹底覺悟宇宙人生之真相的所有一切眾生們,他們的本體與真身,都是周遍宇宙、相互含容、乃至於是究竟一體的。那些大覺者們的真心,以及所有眾生們的真心,都是同一個真心」。
次の註解を一度読みましょう。「あらゆる究極の大覚を証得された聖者たち」。自分も、あなたも、一切衆生も含めて、すべてこの経文の中に全部言及されています、「ひいては未来に宇宙・人生の真相を徹底して悟る一切衆生たち。彼らの本体は真身であり、すべて宇宙を行き渡り、互いに寛容で、ひいては究極の一体なのである。それらの大覚者たちの真心、及びあらゆる衆生たちの真心はすべて同じ一つの真心なのである。

  在這段經文裡頭我們看到,同一個,都是同一個真心,不能分別、不能執著,那就是大圓滿。你分別、你執著,你就偏了,你沒有見到全部,只見到侷限的一部分。所以一定要知道,遍法界虛空界,上到諸佛如來,下到一切眾生,最下面是無間地獄眾生,都是同一個真心變現出來的。
この段の経文の中に見ることができます。すべて同じ一つの真心であり、分けることも執著することもできません。それこそが大円満です。あなたが分別し、執着すれば、あなたは偏ります。あなたは全部を見ていません。ただ限りのある一部分を見たに過ぎません。ですから必ず知っておかなければなりません。遍法界虚空界、上は諸仏如来、下は一切衆生、一番下は無間地獄の衆生たち、すべて一つの真心が変化して現れたものなのです。

  怎麼變現的?大乘經上說得好,唯心所現,唯識所變。能現的就是此地講的真心,大乘經上說的真如、說的真性,自性的性,名詞很多,都是說的這一樁事情,是一不是二。所以我們跟諸佛如來、我們跟一切眾生同一體,體就是真心。真心在哪裡?真心能現十法界,妄心是所現的,真心能現,是一不是二。
どのように変化して現れるのでしょうか?大乗経には良い言葉があります。「唯だ心の現るる所、唯だ識の変ずる所」(唯心所現,唯識所変)。現すことができるのは正にここで説かれている真心です。大乗経で説かれる真如、真性、これは自性の性です。名詞はたくさんありますが、すべて同じことです。一であり二ではありません。ですから私たちは諸仏如来と一切衆生と同じく一体なのです。体とは真心です。真心はどこにあるのでしょうか?真心は十法界を現すことができ、妄心は現れたものです。真心は現すことができます。一であり二ではありません。

  宗教教育裡頭,應該是以這句話做為核心,我們稱之為宗教。宗教是神聖的教育,是一個人一生當中不能不學的功課。這門課,它告訴我們,整個宇宙萬事萬物是一體,一個真心所現。識是什麼?識是妄心。
宗教教育の中に、この言葉を核心に据えなければなりません。私たちは宗教と称しています。宗教は神聖な教育です。人の一生の中で学ばなくてはならない科目です。この科目は私たちに説きます。全宇宙の万事万物は一体であり、一つの真心が現したものです。識とは何でしょうか?識とは妄心です。

  真心現相,相現了,什麼樣子?於一切相當中,沒有一樣不明瞭,樣樣都明瞭,沒起心、沒動念、沒有分別執著,這是真心見,見到宇宙的真相。妄相也是真相,真妄是一不是二。所以同一個真心、同一個自性,自性就是真心,是一不是二。如果你能夠相信,你能再不懷疑,入這個境界了,也沒有起心動念,也沒有妄想分別執著,這叫證得,這叫見性,見性就稱他作佛陀。佛陀這個名詞是從印度梵文翻譯過來的,意思是明白了、覺悟了,徹底覺悟了,一絲毫懷疑都沒有,這叫佛。
真心は相を現します。相が現れると、どんな様子でしょうか?一切の相において、一つとして不明瞭なものはなく、すべて明瞭で、心が起こらず、念は動かず、分別・執著がありません。これが真心で宇宙の真相を見る様子です。妄相もまた真相であり、真と妄は一つであり二つではありません。ですから同じ一つの真心であり、同じ一つの自性であり、自性こそが真心であり、一であり二ではありません。もしあなたが信じることができれば、二度と疑うことはなくなり、この境界(きょうがい:境地)に入ります。やはり心を起こさず念を動かさず、妄想・分別・執著はありません。これを証得と言います。これを見性(けんしょう)と言います。見性すればその人を仏陀と言います。仏陀と言う名詞はインドのサンスクリット語を翻訳したもので、意味は理解した、悟ったということです。徹底して悟り、ほんの僅かな疑いさえありません。これを仏と言います。

  比佛次一等的稱菩薩,菩薩覺了,沒有圓滿,還要親近佛陀,向佛陀請教。像《華嚴經》上所說的,菩薩有五十一個等級,真的有大菩薩、小菩薩。這五十一個就是十信、十住、十行、十迴向、十地、等覺,《華嚴經》上所說的。什麼時候你用真心不用妄心?會用真心的人是初地以上,我們稱為大菩薩。他還住在人間,幫助佛教化眾生、接引眾生,為初學人做一個最好的榜樣。《華嚴經》講得非常詳細,大乘不能不讀。
仏の次の等級は菩薩です。菩薩は悟っていますが円満ではありません。まだ仏陀について教えを請います。『華厳経』で説かれているように、菩薩には五十一の等級があり、本当に大菩薩、小菩薩がいます。この五十一とは十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚です。『華厳経』に説かれているものです。いつになったらあなたは真心を用いて妄心を用いなくなるのでしょうか?真心を用いる人は初地以上の人です。私たちは大菩薩と言います。その人はまだ人間界にいて、仏が衆生を教化するのを助け、衆生を導き、初学者に最も良い手本を示します。『華厳経』には非常に詳細に説かれています。大乗は読まなくてはなりません。

  「大覺者們的智慧,以及一切眾生自性本具的真實智慧,都是同一種究竟圓滿的智慧。那些大覺者們對於宇宙萬法徹底無礙的認識與理解,他們那種究竟解脫的境界,以及他們化導眾生、演說正法時所具備的那種決定無礙、決定無畏的境界與能力,也都是彼此相同不二。」這段話很重要。下面說:「乃至於,在一切眾生的真心自性之中,也都擁有著同樣不二的境界與能力」,也都是彼此相同不二的境界、能力。
大覚者たちの智慧、及び一切衆生の自性がもともと具えている真実の智慧は、すべて同じ究極円満の智慧である。それらの大覚者たちは宇宙万法に対して徹底無碍の認識と理解があり、彼らのその究極の解脱の境界、そして彼らが導く衆生に正法を説く時に具える絶対的な無碍、絶対的に無畏の境界と能力、それらもまたそれぞれ同じであり一つのものである」。この言葉は重要です。次に説かれています。「ひいては一切衆生の真心・自性の中に、同じ境界と能力を具えているのである」。それぞれ同じ不二の境地であり、能力です。

  這些話是大乘教的大乘經中之王《大方廣佛華嚴經》,我們學的這個經文是《華嚴經》上的,經只有四句:「一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。」說明我們每個人跟諸佛如來有沒有兩樣?沒有,是一樣。佛有法身,我們有法身;佛有應化身,我們也有應化身;佛現十法界,我們的心也現十法界,我們跟佛沒兩樣。所以佛教裡面跟一般宗教不相同,一般宗教有真神、上帝,人能不能跟真神一樣?不能。能不能跟上帝一樣?不能。上帝至高無上,我們是他的子民,要依靠他。佛不然,佛,人人都能成佛,人人學佛最後必定成佛。
これらの言葉は大乗教の大乗経の中の王『大方廣佛華厳経』の中のものです。私たちが学んでいるこの経文は『華厳経』のものです。経は四句だけです。「一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身にして、一の心、一の智慧なり。力・無畏も亦(ま)た然(しか)なり。」(一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。)。私たちはどの人も諸仏如来と異なる所があるのでしょうか?ありません。同じです。仏には法身があり、私たちには法身があります。仏には応化身があり、私たちにも応化身があります。仏は十法界を現し、私たちの心もまた十法界を現します。私たちと仏は何も違いません。ですから仏経の中では一般の宗教とは異なります。一般の宗教は真実の神がいます。人は真実の神と同じになれるでしょうか?なれません。神は至高・無上であり、私たちは神の子であり、神に頼らなければなりません。仏はそうではありません。人は誰でも仏に成ることができます。誰でも仏に学んで最後は必ず仏に成るのです。

  所以佛,我們不稱他真主、不稱他作上帝,我們稱他作老師。他是佛陀教學裡面根本的老師,就是這個學校他創辦的,這個學校主要是他來上課的。也有諸佛如來跟他的弟子到這個地方來代上他的課程,這種情形很多。所以學佛終極的目標是成佛,跟諸佛如來無二無別,這是一般宗教裡面沒有的,只有大乘佛法講得究竟徹底明白。
ですから仏のことを私たちは神とは言いません。私たちは仏のことを老師(先生)と言います。仏は仏陀の教学の中の根本の老師です。この学校は彼が創立したものです。この学校は主として彼が授業をするものです。また諸仏如来とその弟子がそこに来て彼の代わりに授業をします。このような状況が多いのです。仏法を学ぶ最終目標は仏に成ることであり、諸仏如来と区別はありません。これは一般の宗教の中にはありません。大乗仏法だけが究極的に説かれ、徹底的に明白なのです。

  我們再看下面一段經文,在四十六頁:
さらに次の経文を見ていきます。四十六頁です。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得;若離妄想,一切智、自然智、無礙智,則得現前。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智は、則ち現前するを得る。】

  我們就說這一句。學佛有什麼好處?如來的智慧是圓滿的、是無礙的、是無邊際的,過去、現在、未來,無所不知、無所不能。佛在此地告訴我們,他所有的智慧德能,我們每個眾生都有,跟他沒有兩樣。但是現在,本來沒有兩樣,現在不止兩樣,太多了。什麼原因?這一句說出來了,『但以妄想、顛倒、執著而不能證得』,變成六道凡夫,變成這個樣子。我們要覺悟,我們本來跟佛一樣,為什麼淪落到這裡?怎麼辦?
私たちはこの一句を言います。仏法を学ぶことは何か利点があるでしょうか?如来の智慧は円満であり、無碍(むげ:妨げのないこと)であり、果てがありません。過去、現在と、「知らざる所無く、能はざる所無し」です。仏はここで私たちに説かれています。仏が具えている智慧と徳能は、私たちどの衆生にもあるのです。仏と何も異なりません。しかし今、本来は同じなのに、今は違うどころではありません。違いすぎます。原因は何でしょうか?この一句で説かれています。「但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ」。六道の凡夫に変わり、このように変わったのです。私たちは悟らなければなりません。私たちは本来仏と同じなのに、なぜここで零落しているのでしょうか?どうすれば良いのでしょうか?

  我初學佛的時候,二十六歲,跟章嘉大師第一次見面,我就向他請教:我跟方先生學哲學,方老師把大乘佛法介紹給我,告訴我「佛經哲學是世界哲學的最高峰」。我能相信、我能接受,但是我有疑惑,佛菩薩覺,我迷了,這就不一樣。章嘉大師告訴我,看破、放下是真修行。我們過去行的是什麼?起心動念、妄想分別執著。錯了!我們要把這個放下,徹底放下,為什麼?它是假的,它不是真的。我們受這個假的這個害太大了!我們本來自性裡頭,真心、自性裡頭有跟如來同樣的智慧德能,為什麼現在變成這個樣子?平常人講的神通,六種神通,佛具足、菩薩具足、阿羅漢也具足,人天沒有。二十八層天有神通,小通,不是大通,他有礙,不是無礙。
私は仏法を学び始めた頃、二十六歳で章嘉大師と初めてお会いしました。私は大師に教えを請いました。私は方先生に哲学を学んで、方先生が大乗仏法を紹介して下さいました。私に「仏経哲学は世界の哲学の最高峰です」と言いました。私は信じ、受け入れることができました。しかし私には疑問がありました。仏菩薩は悟り、私は迷っています。これでは同じではありません。章嘉大師は私に言いました。看破(かんぱ:物事の真相を見極めること)、放下(ほうげ:一切の執著を捨てること)が本当の修行であると。私たちが過去に行ったのは何でしょうか?心を起こし念を動かし、妄想し、分別し、執著していました。これは間違いです!私たちはこれを放下しなければなりません。徹底して放下します。なぜでしょうか?それは偽りだからです。それは本当ではありません。私たちはこの偽りに大きな害を受けています!私たちは本来、真心・自性の中に如来と同じ智慧と徳能を具えています。なぜ今このように変わってしまったのでしょうか?一般の人が言う六種類の神通は、仏は具えています。菩薩も具えています。阿羅漢も具えています。人天(人界・天界)にはありません。二十八層天には神通がありますが、小さなものです。大きなものではありません。彼らには障碍があり、無碍ではありません。

  老師教給我,看破、放下,把修行的方法告訴我了。什麼叫修行?行就是我們日常起心動念、言語造作,行為,迷而不覺,佛菩薩是覺而不迷。我們要看破、放下,為什麼?全是假的。《金剛經》上說了多次,不是一次,「凡所有相,皆是虛妄」,告訴我們所有的現相都是假的,都不是真的,不要上當,沒有一樣是真的。那怎麼辦?放下起心動念,在一切境界當中學習不起心不動念,修心。我們眼見色,會起心動念,接著又分別執著,這錯了;如果眼睛接觸這個色相,不起心不動念、不分別不執著,對了。真正懂得修行的人知道在這用功,真功夫。耳聽聲音,聽得清清楚楚,了了分明,聽了怎麼樣?不起心不動念、不分別不執著。
先生は私に看破、放下を教えました。修行の方法を私に教えました。何を修行と言うのでしょうか?「」とは私たちの日常の心の起こりと念の動き、挙措動作、行為です。「迷って覚らず」。仏菩薩は「覚って迷わず」です。私たちは看破、放下しなければなりません。なぜでしょうか?すべて偽りだからです。『金剛経』には何度も説かれています。一度ではありません。「およそ姿形のあるものは、すべて偽りであり実体がない」(凡所有相、皆是虚妄)。あらゆる現相(現れている相)はすべて偽りであり、すべて本物ではありません。騙されてはなりません。一つも本物はありません。それではどうすれば良いのでしょうか?心の起こりと念の動き(起心動念)を放下します。一切の境界において心を起こさず念を動かさないことを学び、心を修めるのです。私たちは目で色(しき:物体)を見ると、心を起こし念を動かします。続いてまた分別し、執著します。これは間違いです。もし目で色相を見たら、心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しない。それで良いのです。本当に修行を理解している人はここに努めることを知っています。真の技量です。耳で音を聞き、はっきりと聞こえていて、すべて明らかです。聞いてどうなのでしょうか?心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しません。

  你用耳根的根性,你用眼根的根性,諸佛、大菩薩他們就是這樣成就的。我們見色聞聲起心動念,引起來的自私自利,妄念、雜念太多了,錯了,愈陷愈深、愈墮愈重。不像羅漢,羅漢頂多起心動念、分別,下面就壓下去了,不執著,對了。我們這一起心動念,妄想分別執著,再下去就不必說了,什麼樣的煩惱都起來,貪瞋痴慢疑統統起來,造業。
あなたは耳根の資質を用い、眼根の資質を用います。諸仏、大菩薩たちは正にこのように成就したのです。私たちは色・聞・聲に心を起こし念を動かして、私利私欲を引き起こし、妄念、雑念が多すぎるのです。間違いです。ますます深みにはまり、ますます堕落していきます。羅漢とは違います。羅漢はせいぜい起心動念と分別だけで、その他は抑えています。執著しません。これで良いのです。私たちは一たび心を起こし念を動かすと、妄想、分別、執著が起こり、その続きは言うまでもありません。どのような煩悩もすべて起こします。貪瞋痴慢疑(貪り、怒り、無知、傲慢、懐疑)がすべて起こり、業を作ります。

  佛教跟其他宗教不一樣,我們稱佛為老師、稱菩薩為老師,對了。我們在向他們學習,希望學習跟他一樣,也成菩薩、也成佛陀,這就對了。
仏教はその他の宗教とは異なります。私たちは仏を老師(先生)と呼び、菩薩を老師と呼びます。そうです。私たちは彼らに学び、彼らと同じように菩薩に成り、仏陀に成ることを願います。これで良いのです。

  今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 08

2020-08-14 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 08

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ (第八集)
2018/10/17 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0008

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》第三十八頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』三十八頁をご覧ください。

  【讓我們共同團結在上帝、先知的忠告與勸言之中;我們應當要有共同的意念……我們當要不懈地去實踐那些對於人類有利益的事,無論受益者是老是少,也無論他們的地位是高是低。】
【我々を神、先覚者の忠告と勧めの中において共に団結させる。我々は共通の認識を持つべきである。・・・・・・我々はそれらの人類の利益に適うことにおいて怠らず実践すべきである。利益を受ける人が年寄りであろうと若者であろうと、また彼らの地位が高かろうと低かろうと関係はない。】

  今天我們從這一段經文學起。感謝同學們抽出時間,把這些經典裡面重要的經句提出來給我們學習,這一段我們看了,確實每一段都重要。都是上帝的兒女、上帝的使者,派遣下來幫助上帝教化眾生。今天的社會,頭一句說得很好,『讓我們共同團結在上帝、先知的忠告與勸言之中』。這句經文很重要。上帝的經典、先知的忠告,日常生活當中我們遇到了,都是互相勸告,要跟上帝學習。學習什麼?學習上帝的「愛」。上帝愛世人,是上帝可以說天天講的,經典裡面我們天天讀到,句句話都是好話、都是經典、都是忠告,也都是勸告。
今日はこの経文から学習します。学生の皆さんが時間を割いて、これらの経典の中の重要な経文を取り上げ、学ばせて下さることに感謝します。この一段を見ると、確かにどの一段も重要です。すべて神の子、神の使者であり、派遣されて来ると神を助けて衆生を教化しています。今日の社会において、最初の一句は良い言葉です。「我々を神、先覚者の忠告と勧めの中において共に団結させる」。この経文は重要です。神の経典、先覚者の助言、日常生活の中で私たちはそれと向き合い、お互いに助言し合い、神に学びます。何を学ぶのでしょうか?神の「愛」を学びます。「神は世人を愛す」とは、神が毎日説くものと言って良いでしょう。経典の中で私たちが毎日読むものです。どの一句もすべて良い言葉であり、すべて経典であり、すべて助言であり、すべて勧告でもあります。

  勸告,讓我們聯想到,上帝很著急,不願意看到人與人之間的對立、鬥爭;不願意見到,在我們現前社會裡面,天天見到、時時見到。每一次我們見到了,同樣的,上帝也見到了。我們能不能在這個短暫剎那之間想起這段經文,認真的反省、認真的學習,把彼此對立、彼此不和改正過來,要做上帝聽話的兒女、實踐的信徒。把他的話記住,要在我們身體日常生活當中,處事待人接物,真正的做到了。
勧告(という言葉から)は、神が焦り、人と人との対立と闘争を見たくないということを私たちに連想させます。私たちの現前の社会では、毎日目にします。いつも目にします。毎回私たちは目にします。同じように神もまた目にしています。私たちはこの刹那の間にこの経文を思い出して、真剣に反省し、真剣に学んで、互いの対立、互いの不和を改善できないものでしょうか。神の聞き分けの良い子、(神の教えを)実践する信徒にならなければなりません。神の話を覚えて、私たちの身体・日常生活において、人間関係において、本当に実践しなければなりません。

  這個話說得好!我們是不是時時刻刻想著,去做一些對人類有利益的事?今天擺在面前的,沒有利益的,是對立、是批評,不是讚歎。特別告訴我們,無論受益者是老是少,無論他們地位是高是低。有時候要用言語,有時候要用行為,中國古人所說的,言教是用言語,做出一個好榜樣給他看。看到這個人毀謗,我們給他講的是讚歎,做出榜樣給他看,看久了,一定會有一天他回頭了。這經文我們就學到了。
これは良い言葉です!私たちは常に考えて、人類の利益になることをしているでしょうか?今日では目の前に並べて利益にならないものであれば、対立し、批判します。称賛ではありません。わざわざ「利益を受ける人が年寄りであろうと若者であろうと、また彼らの地位が高かろうと低かろうと関係はない」と言っています。ある時は言葉を使い、ある時は行動します。中国の古人が説く所の「言教」とは言葉を使い、人に手本を見せることです。人を誹謗するのを見たら、私たちは称賛することを説いてその人に手本を見せます。久しくそれを見れば、必ずいつの日かその人は改心します。この経文の学習はここまでです。

  看第四十面,四十面文比較長一點:
第四十頁を見てください。四十頁の文は比較的長いです。

  【那位一體不二、具有崇高榮耀的真神,祂把自己展現給了人類,為的是要讓人類去反觀到自己最內在的真實自我——其心地中的寶藏。所有不同的宗教教派,以及各種不同的信仰體系,它們彼此之間絕不可以去引發人與人之間的對立,這就是在此一時代之中,對於上帝,及其宗教之信仰的根本理念。】
【その一体不二、崇高と栄誉を具えた真実の神はご自身の姿を人類に示された。それは人類に自身の最も内側の真実の自己――心の中の宝物――を異なる角度から見せるためである。あらゆる異なる宗教の教派、及び様々な異なる信仰の体系、それらが相互に人々の対立を起こしてはならない。これがこの時代における、神とその宗教に対する基本理念である。】

  特別記住,信仰根本的理念,是對上帝那種尊敬、仰慕,落實上帝經典裡面的教誨。中國古人所說的信、解、行、證,真信,你就決定不會毀謗,你決定不會跟其他宗教對立;這都屬於根本理念,屬於信。信了之後,有時候做不到,毛病還是照犯,這什麼原因?解得不夠透徹;深信要深解,解要講深度,深解,真信;之後變成我們日常生活當中的行為,這才叫修行。修行怎麼講法?修正錯誤的行為。得利益了,佛法裡面講的,福德、功德同修。
特に覚えておいてください。信仰の根本的な理念は、神に対する尊敬と敬慕であり、実際には神の経典の中の教えです。中国の古人が説く所の信、解、行、証(信じる→理解する→修行する→証得する)、本当に信じていれば絶対に誹謗することはありません。また絶対に他の宗教と対立することはありません。これはすべて根本理念であり、信に属します。信じた後でも時には実行できません。過失を犯します。これは何が原因でしょうか?透徹して理解していないからです。深く信じるには深い理解が必要です。理解は深さが大切です。深く理解すれば本当に信じます。その後私たちの日常生活の行為に変えていきます。これを修行と言うのです。修行とはどう説明したら良いでしょうか?誤った行為を修正することです。ご利益が得られるなら、仏法で言う福徳、功徳を同時に修めています。

  累積福德跟功德,自自然然就改造命運。得到了什麼?方東美先生早年把大乘佛法介紹給我,非常愛護的口吻,老師的年齡跟我父親差不多,我們都看作父輩一樣的看待,恭敬。老師告訴我:「學佛是人生最高的享受。」這句話很中聽!哪一個人活在世間,不希望得到最高的利益、享受?最高的享受從哪裡來的?從學佛來的。
福徳と功徳を積むと、自然に運命が変わっていきます。何を得るのでしょうか?方東美先生はかつて私に大乗仏法を紹介されました。非常に思いやりのある話し方でした。先生の年齢は私の父親とほとんど同じです。私たちは父の世代と同じように接し、敬いました。先生は私に「仏法を学ぶことは人生最高の享受である」と言いました。この言葉は聞き心地が良いものです!世間を生きて、最高のご利益と享受を望まない人がいるでしょうか?最高の享受とはどこから来るのでしょうか?仏法を学ぶことから来るのです。

  我接受了,用了半年的時間,我聽一些高僧大德講經,能聽得懂,聽了生歡喜心。要想得到享受,靠全聽懂了還不行、還不夠。聽懂了,解門,有信、有解,最高的享受還達不到,最高享受還要向上再踏一步。踏一步是什麼?行,要把我所知道的,變成我自己的起心動念、生活行為,這人生最高的享受你就嘗到了。嘗到最後證,證什麼?證明老師告訴我這句話是真話,證明經典裡面的教訓是真言,確確實實上帝說的。為什麼?不是上帝說不出來,只有上帝才能說出來。為什麼?上帝是大聖大賢,大聖大賢哪有不愛眾生的道理!他用什麼來愛眾生?經教,我們不能不知道。
私は受け入れました。半年の時間を使って、私は高僧大徳の講経を聞きました。聞いて理解できました。聞くと歓喜心が生まれました。享受したいと思えば、聞いたことを全部理解できるだけでは駄目です。それでは足りません。聞いて理解するのは「解門」です。(信心)があり、(理解)がありますが、最高の享受には達しません。最高の享受は更に上に一歩踏み出さなければなりません。一歩踏み出すとは何でしょうか?(ぎょう:修行)です。自分が知ったことを、自分自身の心の起こり念の動き(起心動念)、生活の行為に変えなければなりません。これで人生最高の享受を味わえます。味わったら最後は(証得、証明)です。何を証明するのでしょうか?先生が話された言葉は真実の言葉だということ、経典の教訓は真実の言葉だということを証明します。間違いなく神が語ったものです。なぜでしょうか?神でなければ話せません。神だけが話せることです。なぜでしょうか?神は大聖大賢であり、大聖大賢が衆生を愛さないという道理があるでしょうか!何を用いて衆生を愛するのでしょうか?経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)です。私たちは知っておかなければなりません。

  這個後面,有幾句話幫助我們解決問題,什麼問題?疑慮。學習宗教是真有好處嗎?懷疑、顧慮,這東西有用嗎?有,我給你做證明,真有。一直好好的學下去,依教奉行,慢慢怎麼樣?智慧開了。你到智慧開了,你自己就得到證,證明了真的,不是假的,是正確的,不是錯誤的,你明白了。
この後の幾つかの言葉は私たちが問題を解決するのを助けてくれます。何の問題でしょうか?疑いです。宗教を学ぶことは本当に利点があるのでしょうか?ここに疑いと心配があります。これは役に立つのでしょうか?役に立ちます。私があなたに証明します。本当に役に立ちます。しっかりと学び続け、教えの通りに実行します。少しずつどうなるでしょうか?智慧が開きます。あなたは智慧が開けば、あなた自身が証得します。真実であり偽りではないこと、正しい事であり間違っていないことを証明します。あなたは理解します。

  為什麼世界上宗教這麼多?傳教師給我們講經,彼此講的不一樣,甚至於產生對立,自讚毀他:我學的這個法門,我拜的這個上帝是真神,你那個靠不住。這種現象不少,我們遇到怎麼辦?這裡就告訴我們,時代之中,對於上帝及其宗教之信仰根本理念:
なぜこの世界には宗教がこれほど多いのでしょうか?布教する先生が私たちに講経(こうきょう:経を講じること)すると、それぞれ話が違います。甚だしきに至っては対立を生みます。自分を称賛して他人を誹謗します。私が学ぶ法門、私が拝むこの神が本当の神で、あなたのは当てにならない。このような現象は少なくありません。私たちはこのような状況に遭遇したらどうすれば良いでしょうか?この中で説かれています。この時代における、神とその宗教の信仰に対する根本理念です。

  【那些各宗教的教理原則以及戒律,那些被堅固樹立、具有強大力量的各種信仰體系,它們都擁有著同樣的源頭,都是來自於同一道的真光;而它們彼此會有差異,那是為了順應不同時代之人們的不同需求之緣故。】
【各宗教の教理原則及び戒律、それらの強固に確立された強い力を具えた様々な信仰の体系、それらは同じ根源を有しているのであり、すべて同じ真実の光から来ているのである。それらは相互に違いがあるが、それは異なる時代の人々の異なる需要に応じるためである。】

  給我們解釋了。不同的說法,遇到的人不一樣,根性不相同,你教他,你一看就明白了從哪裡教起。所以學習的人,一個老師,兩個人去學習,學習的時候不一樣,兩個學生程度不相同,應機說法。
私たちに解釈してくれています。異なる説法、出会う人は異なり、資質も同じではありません。その人を教えるのに、一目見ればどこから教えるべきかが分かります。ですから一人の先生に二人が学ぶなら、学習する時間も違います。二人の学生の程度も同じではありません。資質に応じて説法するのです。

  一部經書有沒有這個現象?也有。那我們就明白了,我跟另外一個同學,同學一部經,有些經文上我有我的看法,他有他的看法,甚至於看法完全相反,這時候怎麼辦?各人說的都有道理,如果老師在,請教老師;老師不在,讀誦,我把這個經文念上一百遍、念上二百遍,就融化了。
一部の経書にこの現象があるでしょうか?やはりあります。それで分かります。自分ともう一人の学生がいます。同じ経書を学んで、ある経文は自分には自分の考えがあり、別の人にはその人の考えがあります。甚だしきに至っては考え方が完全に異なります。この時にはどうすべきでしょうか?各人の言うことには道理があります。もし先生がいれば先生に教えを請います。先生がいないなら声に出して読みます。その経文を百回読み二百回読めば、(問題は)溶けていきます。

  如果你要懂得,聖賢的教誨沒有一樣不是應機而說的。你看中國《論語》,孔老夫子的,同樣一個問題學生發問、提出來,孔子的答覆不一樣,對甲的說法跟對乙的不相同。一個聖人教的,為什麼會這樣?根性、程度不一樣,根性不相同。於是我們明白了,這樣的事情在經典裡面非常之多,都是正確的;某一個程度正確,他超越這個軌道了,那另外一個講法。
あなたが理解できるなら、聖賢の教えは「資質に応じて説法する」ものでないものは一つもありません。中国の『論語』を見てください。孔夫子は同じ質問を学生にされて、答えは同じではありませんでした。甲に対する説法は乙に対するものと同じではありません。一人の聖人が教えるものが、なぜこうなのでしょうか?資質、程度が異なるからです。資質が同じではありません。それで理解できます。このような事は経典の中に非常に多く、すべて正しいのです。ある水準においては正しく、その人がその段階を越えたら別の言い方があるのです。

  這是在聖教經典裡面常有的事情,不足奇怪,你依你的解去修行,他依他的解門去修行,統統得利益。我們學習,經過老師的指點,幾十年的經驗、修學的歷程,幫助我們認識這個問題。
これは聖教経典の中によくあることです。怪しむに足りません。あなたはあなたの解法(理解の仕方)で修行し、他の人はその人自身の解法で修行して、すべてご利益があるのです。学習は先生の指導を経て、あとは数十年の経験と修学の過程とが、この問題を理解する助けとなります。

  所以下面這段說,說得好,說得好親熱:
次の段は良い言葉です。とても親しみが持てます。

  【我真正的同伴法侶們啊!所有的人類都是同一所學校裡的孩子,……那些帶來神聖啟示的一切使者,則都是這所學校裡的老師。這些老師們令眾人驚歎,無人可與之比擬。在這所屬於真理的學校中,老師們依照上帝的誨諭,來教導上帝的這些學生子女們,並以慈恩撫育他們……一直到他們把這個世界變成了一面廣大的鏡子,並讓那永恆不滅的另外一個世界,明現在此一大鏡之中。】
【私の本当の道を共にする者たちよ!すべての人類は同じ学校の子どもであり、・・・神聖な啓示をもたらす一切の使者は、すべてこの学校の先生である。これらの先生方は人々に驚嘆され、誰もそれと比較することはできない。ここは真理の学校に属し、先生方は神の教えに照らして神の学生たちを教え導き、慈恩(じおん:慈しみのある恩恵)で彼らを育成します。・・・彼らがこの世界を広大な鏡に変え、永久不滅のもう一つの世界を、この大きな鏡に映すまで。】

  這個地方,另外的世界是天堂、是極樂世界。你的功夫成熟了,極樂世界你見到了。有,念佛同修們我就遇到幾個;還有前一輩的善知識,像黃念祖老居士、李炳南老居士,或在定中、或在夢中見到極樂世界。真的,不是假的,這我們應當學習。
この部分、もう一つの世界とは天国であり、極楽世界です。あなたの技量が熟せば、あなたは極楽世界を見ます。あります。(極楽世界を見た)念仏修行者に何人かお会いしました。また一世代前の善知識、黄念祖居士、李炳南居士のような方々は、或いは定(じょう:禅定)の中で、或いは夢の中で極楽世界を見ています。本当です。偽りではありません。私たちはそれに学ぶべきです。

  今天時間到了,我們把巴哈伊的經典重要的經句學習到此地。謝謝大家。
今日は時間になりました。バハーイー教経典の重要な経文の学習はこれで終わります。皆さまありがとうございました。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 07

2020-08-11 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 07

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第七集)
2018/10/16 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0007

  諸位法師、諸位同學,大家好。這一堂我們接著前面第三十六頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。引き続き前の三十六頁を進めます。

  【上帝所派遣的一切神聖使者們,他們出現在這個世間,顯然是為了要在人類之間建立起仁愛、建立起和諧的共識……上帝的神聖宗教不是(也不應是)造成人類紛爭與分歧的原因……因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨,因為這些教誨乃是我們全體人類現狀的解救之道。】
【神が派遣された一切の神聖な使者たちは、この世間に現れると、明らかなのは人類の間に仁愛を打ち立て、調和の共通認識を打ち立てるため・・・・神の神聖な宗教は人類を紛争や分裂させる原因をつくるものではない・・・・そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない。なぜならこれらの教えは我々全人類の現状を救う道だからである。】

  這段話說得好,正是把我們當前無法解決的問題,連它的根源都拔出來了。確確實實,像經上所講的,一切宗教都是依上帝、依真神、依上主,我們說這些名詞,實際上是一個名詞,在各種不同的宗教有不同的說法。而實際,上帝只有一個,他有這麼多不同的形相、不同的名號,那是他的大慈大悲,應機說法。眾生喜歡什麼樣的人種,他就現同樣的人種;眾生喜歡什麼樣的老師,他就現什麼老師身分。恆順眾生,隨喜功德。這只有神能做到,一般人做不到。
この段は良いことを言っています。正に私たちが今解決できない問題の根源を引き出したのです。確かに経典に説かれているように、すべての宗教は神、真の神、主に基づいていますが、これらの名詞は、実際には一つの名詞なのです。様々な異なる宗教において異なる言い方があります。しかし実のところ神はただ一人であり、神には様々な形や名前があります。それは神の大慈大悲というものです。状況に応じて説法します。衆生がどのような人種を好むかによって、神はそれと同じ人種で現れます。衆生がどのような先生を好むかによって、神はそのような先生の身分で現れます。衆生に従って、嬉々として功徳を積みます。これは神だけができることで、一般人にはできません。

  他怎麼會是人類爭執的根源?不可能。人類互相競爭,與他沒關係,不能把這個加在他的身上,那是很大的罪過。所以經上講得清楚,上帝的神聖,這是指的宗教,所有宗教都是上帝建立的,所有不同的神聖都是一個上帝。大家疏忽了、忘了,沒有從這方面去認識、去理解,以為上帝很多,每個宗教都有,上帝不一樣,我喜歡這個上帝,我不喜歡那個上帝,這是不可能的。所以才說神聖的宗教,不是造成人類紛爭與分歧原因,這講不通。
神が人類の論争の根源になることがあるでしょうか?あり得ません。人類の相互の争いは、神とは無関係です。これを神の身の上に被せてはなりません。それは大きな罪です。ですから経典にも明確に説かれています。神の神聖、これは宗教を指します。あらゆる宗教は神が打ち立てたものです。あらゆる異なる神聖はすべて一つの神なのです。皆が疎かにしています。忘れています。この方面から認識し、理解しようとしません。神はたくさんいると思い、どの宗教にもあって、神は同じではないと思っています。自分はこの髪が好きで、あの神は好きではないと思っています。これはあり得ません。だからこそ神聖な宗教と言うのです。人類の紛争と分岐の原因を作るものではありません。これは話が通りません。

  『因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨』,這指的是經典。每一個宗教創始人、上帝的使者都不在人間了,留給我們的就是經典的教誨。我們讀經,是聽他們在說話;我們在學習經教,是依照神聖的教誨去學習。佛教裡面稱為修行,行代表思想、行為,思想行為錯了、偏差了,把它修正過來,叫做修行。所以修行這兩個字,是把神聖的教誨,落實在我們起心動念之處,落實在我們日常生活當中。這才是真正修正一切錯誤的行為,這叫修行。
「そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない」、これは経典を指しています。どの宗教の創始者も、神の使者はみな人間界にいなくなると、私たちのために経典の教えを遺します。私たちは読経することで、彼らの話を聞きます。私たちが経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)を学習するのは、神聖な教えに照らして学習します。仏教の中では修行と言います。「行」は思想、行為を表します。思想と行為が誤っていれば片寄りが出ます。それを修正することを修行と言います。ですから修行と言う二字は、神聖な教えを私たちの心の使い方において実行し、日常生活の中において実行します。これこそが真に一切の誤った行為を修正することであり、これを修行と言います。

  這個地方接著也說得好,『因為這些教誨』,記住,這句話指的就是,因為這些遺留在世間的經典,基督教的《新舊約》、伊斯蘭教的《古蘭經》……,是指這些。這些教誨我們要把它認清楚,『是我們全體人類現狀的解救之道』,這句話說得好,我們要記在心上。我們遇到困難了,怎麼解救?解救之道在哪裡?在這些聖賢教誨我們的經典當中。
この箇所は続けて良いことを言っています。「なぜならこれらの教えは」。覚えておいて下さい。この言葉が指すもの何でしょうか。なぜならこれらの世間に遺された経典は、キリスト教の『新約聖書』『旧約聖書』、イスラム教の『コーラン』・・・、これらを指します。これらの教えを私たちははっきりと認識しなければなりません。『我々全人類の現状を救う道だからである』、この言葉はよく言ったものです。私たちは心に留めておかなければなりません。私たちは困難に遭ったら、どのように救助するのでしょうか?救助の道はどこにあるのでしょうか?これらの聖賢の教えは経典の中にあります。

  我每天讀這些經,不是不用功,有人讀三遍、有人讀五遍,還有《無量壽經》從頭到尾念三千遍的、念五千遍的、念一萬遍的,我都見過,我對他很尊敬。他有沒有問題?有。什麼問題?自以為是。就是這裡所說的,他沒有得救,他沒有辦法解決他自己問題,總的原因,就是我們常說的,放不下!
私は毎日これらの経典を読みます。努力しない訳ではありません。ある人は三回読み、ある人は五回読みます。また『無量寿経』を最初から最後まで三千回読む人、五千回読む人、一万回読む人、私はすべて見たことがあります。私はその人を尊敬します。その人に問題はないでしょうか?あります。何の問題でしょうか?自分が正しいと思い込んでいます。正にここで説かれています。その人は救われません。その人は自分の問題を解決しようがありません。すべての原因は私がよく話している、放下(ほうげ:執著を手放すこと)できないということです!

  放不下的人,學習宗教,初級的,在宗教裡面他是初級班的學生,小學。為什麼不得其用?他沒有透徹的了解,他沒有辦法落實在他自己起心動念之處,沒有用在自己日常生活言談舉止之間,所以他不得解救之道。我們遇到了,講解給他聽,有沒有用處?沒用。為什麼沒有用?他的看法、他的想法他認為他是正確的,不能接受別人建議,這才是根源。
放下できない人は、宗教を学ぶのは初級です。宗教の中でその人は初級班の学生であり、小学です。どうして役に立たないのでしょうか?その人は透徹して理解していません。その人はその人自身の心の起こりと念の動きにおいて実行することができません。自分の日常生活で、言葉や立ち居振る舞いにおいて用いることができません。そのためその人は救いの道を得ることができません。私たちは会ったことがあります。講釈してその人に聞かせました。役に立ったでしょうか?役には立ちません。なぜ役に立たないのでしょうか?その人は自分のものの見方、考え方を正しいと考えています。他の人の提案を受け入れることができません。これこそが根源です。

  老師,會教的老師,懂得教育的方法,跟那個不懂方法的不一樣。懂得方法的,依照古人留下來的方法,要把一個人教好,要做好的榜樣給他看;也就是做樣子,做出榜樣,讓他看到,讓他豁然大悟。不容易!要做多久?什麼時候開悟了,你做這個樣子可以改變方法了。如果毛病、習氣放不下,錯誤的見解很深很厚,堅固的執著,難!
教えることのできる先生は、教育の方法を理解しています。方法を知らない人とは違います。方法を知っている人は、古人が遺した方法に照らして、一人の人をしっかりと教えます。しっかりした手本をその人に見せなければなりません。手本を示し、手本を演じてその人に見せ、その人に豁然と大悟させるのです。容易ではありません。どれくらい示すのでしょうか?いつか悟りを開いたら、この手本を示す方法を改めても良いでしょう。もし癖や習気(じっけ)を手放せないなら、誤った見解は深く厚く、堅固な執著があります。これでは難しい!

  喚醒一個人,菩薩慈悲,不捨眾生,生生世世追著他,一直追著他,到他覺悟為止;第一個階段。第一個階段圓滿了,目的達到了,第二個階段;第二個階段是幫他提升,榜樣還是離不開的。墮落很容易,跳出來可不簡單。所以稱諸佛菩薩大慈大悲,對眾生無比的恩德,只有得到經教教誨利益的人,他才知道;沒得到利益,難!
人を覚醒させるのは菩薩の慈悲であり、衆生を捨てず、生まれ変わり死に変わりその人を追いかけます。その人が覚醒するまでずっと追いかけます。これが第一段階です。第一段階が円満になり、目的が達成されます。第二段階はその人の向上を助けます。手本となる人とはやはり離れることはできません。堕落するのは容易であり、飛び越えるのは簡単ではありません。ですから諸仏菩薩は大慈大悲と言います。衆生に対して無比の恩徳があります。経教の教えのご利益を得た人だけが知っています。ご利益を得られなければ(菩薩の大慈大悲に気づくのは)難しいでしょう!

  所以佛家教導我們,學習,信、解、行、證四個字。第一個,對老師要有信心。第二個,要一門深入。這是現在人大病,學了這個法門、學了這部經典,不錯了,才學了幾遍,聽說別人告訴他,還有比這個更好的經,功德更大的,開悟最快的,他把這個放棄去學別的;幾年來大概也學了十幾部經,一竅不通。這樣的人不少,我們常見,我看到很痛心。什麼原因?不能一門深入。
仏家では、学習において信、解、行、証の四字を教えています。一つ目は先生に対する信心がなければなりません。二つ目は、一門に深く入ること。これは今の人の大きな病です。この法門を学んで、この経典を学んで、ようやく数回学んだところで、更に良い経典がある、功徳が大きく早く悟れると人から聞くと、それまでのものを放棄して別のものを学ぼうとします。数年で十数部の経を学んで、何一つちんぷんかんぷんです。このような人は少なくありません。私たちはよく見かけます。見て心を痛めています。原因は何でしょうか?一門に深く入ることができないからです。

  學別的經典可不可以?可以。什麼時候?我這部經真學通了,這部經典畢業了,我可以再選一部;畢業了,又可以選一部。不是同時,同時學兩部以上的,成就的人很難。有一等天才可以,他看到他同時學兩部、三部,他真有成就。我們不行,我們一部學多少遍還學不會,怎麼可以選擇很多部?這個道理不深,想想能想得通。
別の経典を学んでも良いのでしょうか?それは良いのです。それはいつでしょうか?この経典に本当に精通して、この経典を卒業したら、更にもう一部を選ぶのです。卒業したらまた一部を選びます。同時ではありません。同時に二部以上のものを学べば、成就するのは難しいものです。ある種の天才なら良いでしょう。その人は同時に二部、三部を学んで、本当に成就します。私たちは駄目です。私たちは一部をある程度学んでも学びきれません。多くの経を選んで良いことがあるでしょうか?この道理は深くありません。少し考えれば合点がいくことです。

  所以要記住,一門深入,一門沒有學好,不能學第二門,要專注、要扎根。怎麼扎根?經典要背誦,儒的經典要背誦,佛典也要背誦,巴哈伊教的經典還是背誦。所以你要懂方法,一部經、一個方法;能背誦了,求解;大開圓解,那就開悟了。為什麼要這樣做法?你要懂得它的道理,一接近真心,二是妄心。每個宗教神聖所說的經典,都是從一個真性或者說真心流露出來的,二心不可能。
ですから覚えておいて下さい。一門に深く入ることです。一門を学びきれないうちは、次の一門を学ぶことはできません。集中して取り組み、根を下ろさなければなりません。どのように根を下ろすのでしょうか?経典は暗唱しなければなりません。儒教の経典は暗唱です。仏典もまた暗唱しなければなりません。バハーイー教の経典もやはり暗唱です。ですから方法を理解しなければなりません。一部の経、一つの方法です。暗唱出来たら、解を求めます。円満に理解できれば、悟りを開きます。なぜこのようにするのでしょうか?その道理を理解しなければなりません。一は真心に近く、二は妄心です。どの宗教の神聖が説かれた経典もすべて一つの真性、或いは真心から流露したものです。二心ではあり得ないことです。

  真心的功德大。佛教有宗門、教下,宗門是先開悟再學經。開悟學經快!為什麼?自性、本性的般若智慧現前,一聽就明白,一看就懂。妄心沒有這個能力,跟著妄心起來的是雜念、是妄想分別執著,煩惱跟著來,智慧不見了。但是宗門難,禪宗難,必須得清淨心之後才有受用。清淨心怎麼得到?看破、放下,六根接觸六塵境界,清清楚楚、了了分明。真心對他是什麼樣子?不起心不動念、不分別不執著,有人來問,對答如流,你都能講給人聽,你有這個本事。為什麼?一切諸佛如來的經教,都是從自性流出來的,你見了自性,你流出來的跟佛沒有兩樣,是這麼個道理!
真心の功徳は大きなものです。仏教には宗門(しゅうもん:禅宗)、教下(天台、法相、賢首)があり、宗門では先に開悟してから経を選びます。開悟は教を学ぶより速いのです!なぜでしょうか?自性、本性の般若の智慧が現れれば、聞けばすぐに分かり、見ればすぐに理解できるのです。妄心にはこの能力はありません。妄心に従って起こるのは雑念であり、妄想・分別・執著です。煩悩が後から後からついてくると智慧はなくなります。しかし宗門は難しいものです。禅宗は難しい。必ず清浄心を得なければならず、その後でようやくご利益を受けます。清浄心はどのように得られるのでしょうか?心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しないことです。人が質問に来ても流れる如くに答えます。人に説いて聞かせることができます。その能力があります。なぜでしょうか?一切の諸仏如来の経教はすべて自性から流露したものだからです。あなたが自性を見極めれば、あなたに流露するのは仏と同じです。このような道理なのです!

  教下,不是頭等根機還是用妄心,頭等根機用真心。用妄心的人,就要返妄成真,在妄的上薰修,一遍一遍薰修。這部書讀一百遍、讀一千遍、讀一萬遍,這就是用時間來薰習。把不好的淘汰掉,清淨心讓它現出來。清淨心現出來就好辦了,一看懂了、一聽也就懂了,六根一接觸六塵境界,完全明白了。什麼原因?他放下了,徹底放下了。
教下は最上の根機(こんき:資質)ではなく妄心を使っています。最上の根機であれば真心を使っています。妄心を使っている人は、「妄」を翻して「真」としなければなりません。妄において薫修(くんじゅ:香の薫りが染みつくように深く修行すること)します。一回また一回と薫修します。この書物を百回読み、千回読み、一万回読み、時間をかけて薫修します。良くないものは淘汰され、清浄心が現れてきます。清浄心が出てくればやりやすくなります。一目見れば理解でき、聞いてもすぐに理解できます。六根が六塵の境界に一たび触れれば、完全に理解できます。原因は何でしょうか?その人は放下(ほうげ:執著を捨て去ること)したのです。徹底的に放下したのです。

  佛說,上帝也說,常常說:假的,世間一切法,如夢幻泡影。這個比喻《金剛經》上的,儒跟道用這個比喻的人很多。它不存在!現在人學科學,科學也證明了。整個宇宙的現象從哪裡來的?「唯心所現,唯識所變。」現相是心,變化是識;識是妄心,心現是真心;能現萬法的是真心,把萬法變成這個樣子是妄心,叫識心。沒有這兩種心,就沒有這兩種樣子,到哪裡去了?回歸自性了。好!回歸自性就成佛了。這個我們不能不懂,真正懂得,就肯放下了。
仏は説かれました。神も説かれています。よく説かれています。世間の一切は偽りであり、夢幻、泡や影のようなものであると。この譬えは『金剛経』のものです。儒教や道教でもこの譬えを用いる人は多くいます。(この世間は)存在しません!現代人は科学を学んで、科学的にも証明しています。全宇宙の現象はどこから来るのでしょうか?「唯だ心の現るる所、唯だ識の変ずる所」(唯心所現,唯識所変) 。相を現すのは心です。変化するのは識です。識は妄心です。心が現すのは真心です。万法を現すことができるのは真心です。万法をこのように変えてしまうのは妄心です。識心と言います。この二種類の心が無ければ、この二種類のことは無くなります。どこに行くのでしょうか?自性に回帰します。それで良いのです!自性に回帰すれば仏に成ります。これを私たちは理解しなくてはなりません。本当に理解すれば、放下する気になります。

  我學佛學了七十年了,七十年怎麼樣?七十年才搞懂。我跟的三個好老師,沒有好老師很難,有好老師。老師一針見血,教導我入門。我向他老人家請教,佛門裡頭有沒有方法教給我們很快就契入?我剛學佛的時候,向章嘉大師請教。大師看到我真誠,看著我,我也看著他,我們看了半個小時,老師說一個字:有。我心裡一振奮,他又不說了。原來傳授你法的時候,你心裡頭乾乾淨淨、一塵不染,給你講的全進去了,管用;如果你有雜念、你有懷疑,你還有分別執著,給你講沒用,這個耳朵進去,那耳出去了,沒效。所以老師用的方法高明,他看到學生整個心心平氣和、一心專注,就教你,就管用。這樣的學生到哪去找?找不到就沒傳人。
私は仏に学んで七十年になります。七十年どうだったでしょうか?七十年でようやく理解できました。私は三人の良い先生につきました。良い先生がいなければ難しいということです。(私には)良い先生がいました。先生はずばり核心に触れて、私を入門に導かれました。私はご老人に教えを請いました。仏門には私たちを早く境地に入らせる方法はありますか?私は仏法を学び始めた頃、章嘉大師にそう教えを請いました。大師は私の真誠を見ました。私を見ていました。私も大師を見ていました。私たちは三十分見ていました。先生はひと言「あります」と言いました。先生はまた話さなくなりました。なるほど法を授ける時、心の中がきれいで一塵の曇りもなければ、話したことがすべて入っていき、役に立つのものです。もし雑念や疑い、分別や執著があれば、あなたに説いて聞かせても役には立ちません。こちらの耳から入り、あちらの耳から出ていきます。効き目がありません。ですから先生が用いた方法は卓越しています。先生は学生の心が平静で穏やかになり、心を集中していれば、あなたに教えます。役に立ちます。このような学生はどこに探しに行けば見つかるのでしょうか?見つからなければ伝承者はいなくなります。

  所以我們要了解,理論、方法、境界面面都要顧到,希望在一生之中能有個成就;最低的成就,念佛往生極樂世界,沒有白學。極樂世界不能往生就難了,不能不重視淨宗這個法門。
ですから私たちは理解しなければなりません。理論、方法、境界(きょうがい:境地)のどの面にもすべて配慮しなければなりません。この一生での成就を願ってのことです。最低の成就は念仏して極楽世界に往生することです。無駄に学んだことにはなりません。極楽世界に往生できなければ(成就するのは)難しいでしょう。浄土宗という法門を重視しない訳にはいきません。

  今天時間到了,我們學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 06

2020-08-10 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 06

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第六集)
2018/10/15 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0006

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》這個小冊子,第二十九頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』この小冊子の二十九頁をご覧ください。

  【你們的上主——那位至慈的真神,祂的那顆真心,總要將全體人類都視為是一個靈魂,都視為是一個身體。】
【あなた方の主、あのこの上なく慈悲深い真の神、その御方の真心は、全人類を一つの魂として見なし、一つの体として見なしている。】

  這兩句話非常重要!六道凡夫的知見跟上主確實不一樣,今天我們要跟上主學習,就應當很認真的向他學習,把人類看成一體,而且都看為是一個身體。
この二句は非常に重要です!六道凡夫の知見は神とはまったく異なります。今日私たちは神に学んでいます。ですから真剣に神に学び、人類を一体と見なし、その上一つの体と見なさなければなりません。

  【只有當每個人的內心都願意為全體人類獻上祝福時,真正的和平與安寧才能夠實現。】
【各人の内なる心が全人類のために祝福を捧げたいと願う時にだけ、真の平和と安寧が実現するのである。】

  這句也非常非常重要,我們現前迫切需要的。要學上主,真正的和平、安寧就在這個世界實現了。
この句も非常に非常に重要です。私たちが今切迫して必要なことです。神に学べば、真の平和と安寧はこの世界で実現します。

  【上帝的人類子孫們,個個都是親兄弟。……一個人所欣求的事物,就應當為所有的兄弟們都盼求。】
【神の人類子孫たちは、どの人も皆兄弟である。・・・一人が求めるものは、すべての兄弟たちが望むものである。】

  這個話是上帝說的。每個宗教都有一個上帝,上帝只有一個;他跟佛經上所說的一樣,應以什麼身得度,他就現什麼身,應機說法,普度眾生,一個都不漏。眾生喜歡基督,就現基督身;喜歡真神,就現真神身;喜歡佛陀,現佛陀身……乃至於在中國,中國人文化悠久,上古時代,中國人最尊重的聖人,上主、上帝在中國就現聖賢,堯舜禹湯、文武周公,來教化這個地區的眾生。
この話は神が語ったものです。どの宗教も一人の神がおられます。神はただお一人だけです。これは仏経で説かれているのと同じです。どの衆生を救うかによって(その衆生にふさわしい姿で)自在に現れます。衆生を済度して、一人も漏らすことはありません。衆生がキリストを好むなら、キリストの姿で現れます。真の神を好むなら、真の神の姿で現れます。仏陀を好むなら、仏陀の姿で現れます。乃至は中国においては、中国人の文化は悠久であり、上古時代(商・周・秦・漢)中国人は聖人を最も敬いました。神、天帝は中国では聖賢として現れました。堯・舜・禹・湯、文公・武公・周公は、この地域の衆生を教化しに来たのです。

  這個概念我們在此地學到了,一切時、一切處,是真的不是假的,我們是同一棵大樹的樹葉、同一個大海的一滴海水。我們所喜歡的事情,希望人人都喜歡;我們厭惡的事情,人人都厭惡;我們所求的,就應當為所有兄弟們去祈求,而不是止於自私自利。
この概念は私たちはここで学びました。あらゆる時、あらゆる所。これは本当です。嘘ではありません。私たちは同じ一本の大樹の葉であり、同じ大海の一滴の海水なのです。私たちが好むことは、皆に好んでもらいたい。私たちが嫌うことは、皆が嫌がることです。私たちが求めることは、すべての兄弟たちが請い願うはずであり、私利私欲にとどまるものではありません。

  底下一句非常重要的話:
次の一句は非常に重要な言葉です。

  【要願意為全體人類服務,要徹底放下凡事只為自己的念頭……無論在何處,敵意與對立都只會給人類帶來黑暗;無論在哪裡,愛都必將會為我們帶來光明。】
【全人類に奉仕することを願い、およそ自分のためだけという思いを徹底して手放さなければならない。どこにいようとも、敵意と対立は人類に暗黒をもたらすだけである。どこにいようとも、愛は必ず我々に光明をもたらすであろう。】

  現在的社會混亂,地球上的居民,絕大多數,甚至於可以說是全體,都有敵意、都有對立,帶給我們社會相爭,不是相愛,彼此不能相容,給社會帶來的動亂。怎麼辦?宗教的信徒、神聖的學生,我們常常說,必須要把上帝的愛心找到。找到之後,放在自己的心上,我們代表上帝,我們讓上帝的愛心在我們身上發光;謙虛一點,不敢說教化眾生,影響大眾。我是一個真正宗教信徒,我信哪一個教,就跟哪個上帝學習,要學得像,不要求別人,要求自己;每個人都回頭,都能要求自己,效果就出來了。
今の社会は混乱しています。地球上の住民の大多数、甚だしきに至っては全体と言っても良いですが、皆が敵意を抱き、対立し、社会に争いをもたらしています。お互いに愛し合わず、お互いに相手を認め合わず、社会に動乱をもたらしています。どうすれば良いのでしょうか?宗教の信徒、神聖な学生は、私たちはよく話していますが、神の愛に気づかなければなりません。気づいた後は自分の心に留め、私たちは神の代表として、神の愛を自分の身をもって輝かせなければなりません。少し謙虚であれば、衆生を教化するとは言えません。大衆に影響を与えるのです。自分は真の宗教信徒で、信じる教えをその神に学びます。それらしく学ばなければなりません。人に要求してはなりません。自分に要求するのです。どの人も改心して、すべてを自分に要求するようになれば効果が出てきます。

  像經上所說的,敵意只會帶給人類黑暗,無論在哪裡,愛都必將會為我們帶來光明。我們要知道,敵意、看不順眼、我不喜歡,這些概念會帶來災難;小是個人,大災難像戰爭,太恐怖了!過去沒有這些科學武器,人還不能夠毀滅地球;隨著科學的進步,現在核武戰爭,人有能力毀滅地球。地球上這些苦難眾生,我們是用慈悲心去看他、對待他,還是用厭惡的態度來相對——這兩條路不能不清楚,不能沒有選擇。
経典に説かれているように、敵意は人類に暗黒をもたらすだけです。どこにいようとも、愛は必ず私たちに光明をもたらします。私たちは知っておかねばなりません。敵意、目障りに思うこと、好きでないこと、これらの概念は災難をもたらします。小さいものは個人に、大きな災難は戦争などです。恐ろしいことです!昔は科学的な武器はないので、人は地球を壊滅させることはできませんでした。科学の進歩に従って、いま核戦争が起これば、人は地球を壊滅させる力を持っています。地球にいる苦難の衆生に対して、私たちは慈悲の心で見て、接するのか。或いは嫌悪する態度で接するのか。この二つの道をはっきりさせなければなりません。選択しなければなりません。

  所以,有不少人問過我,今天世界社會混亂了,怎麼辦?關心的人愈來愈多。關心不能解決問題,要有行動,那些經典的教訓是最好的資料。
ですから多くの人が私に質問します。今日世界は混乱しています。どうしたらよいのでしょうか?関心を持つ人は増えています。関心は問題を解決しません。行動が無ければなりません。それらの経典の教訓は最高の資料です。

  【不要對任何人強加我們自己所不願意承擔的負荷;要做到己所不欲,勿施於人;這是我對你們最完善的勸誡,願你們都遵守。】
【如何なる人にも我々自身が引き受けることを望まない負担を無理強いしてはならない。「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」を実行しなければならない。これは私のあなた方に対する最高の忠告と戒めである。あなた方が遵守すること願う。】

  這個經文裡頭有一段話,用的是中國成語翻譯的,『己所不欲,勿施於人』。我們自己不願意的,絕不加之於人,這就是恩德,這就是神聖的學生、是上帝的兒女。幫助上帝教化眾生,幫助眾生回頭,向上帝學習,這就對了。經上用的字好:『這是我對你們最完善的勸誡,願你們都遵守。』
この経文の一節は、中国の慣用句を用いて翻訳した「己の欲せざる所を、人に施すことなかれ」です。自分自身が望まないことは、絶対に人にしてはなりません。これこそが恩徳です。これこそが神聖な学生であり、神の子です。神が衆生を教化するのを助け、衆生が改心するのを助け、神に学ぶ。これで良いのです。経文の言葉は良いものです。「これは私のあなた方に対する最高の忠告と戒めです。あなた方が遵守することを願う。」

  下面一段:
次の一節です。

  【藉由你的仁慈,你讓我抵達了您那神聖的地境。並允許我安住在那信仰的情誼之殿,直到我在那裡看見了關於您的慈悲的明晰徵相,觀察到了關於您無礙一體的種種明證,體會到了您莊嚴之體的光輝壯麗、您那圓融不二的根源,以及您那統治萬有的超然境界。】
【あなたの仁慈により、あなたは私をあなたの神聖な場所に到達させました。そしてあの信仰の友情の宮殿に安住することをお許しになりました。そこで私があなたの慈悲の明確な徴相を見るまで、無碍一体の様々な確証を見定めるまで、そしてあなたの荘厳な本体の輝き、あなたの円融不二の根源、そしてあなたの統治する万有の超然たる領域を体得するまで。】

  每一個宗教,仁慈的上主,都是這樣教導我,這樣的盼望著。效果從哪裡產生?從我們產生,我們要認真努力讀這些經文。第一,用經文來治自己的毛病,用經典的經文認真的學習,務必把經典的這些經文放在心上、放在日常生活裡,待人接物、起心動念、言談舉止,能夠跟上主的教誨相應就對了。
 どの宗教でも仁慈の神はこのように教え導き、このように待ち望んでいます。効果はどこから生じるのでしょうか?私たちから生じます。私たちは真剣にこれらの経文を読まなければなりません。第一に、経文を用いて自分の欠点を治します。経典の経文を用いて真剣に学びます。経典の経文を必ず心の中に置き、日常生活の中に置かなければなりません。人と接するにも、心を動かすにも、言葉や立ち居振る舞いについても、神の教えにかなっていれば良いのです。

  中國古人,做學問要求信、解、行、證四個字,順序。第一個,對老師信任、對父母信任、對長輩信任。這些人生我、養我、教導我,我們做學生的,要以至誠恭敬的心來對待。唯有誠敬才能建立信心,才能接受經文、經典的教訓。
中国の古人は学問をするのに「信、解、行、証」の四字を要求しました。順序です。第一は先生に対する信頼、父母に対する信頼、年長者に対する信頼です。これらの人は自分を生み、自分を育て、自分を教え導きます。私たち学生は、至誠恭敬(きょうけい:つつしみ、うやまうこと)に心で接しなければなりません。誠敬(せいけい:真心をもって敬うこと)があってこそ信心を打ち立てることができ、経文と経典の教訓を受け入れることができます。

  古人說得好,一分誠敬得一分利益,十分誠敬你得十分利益。這本經書擺在我們面前,《上帝愛世人》,我們在這個小冊子裡,看到所有宗教的上帝,或者叫所有宗教的上主,都可以,他們對我們是什麼樣的期望,我們要能體會到;然後你才見到真神的大慈大悲大愛,見到了、體會到了、相信了。
古人は良いことを言っています。一分(いちぶ)誠敬は一分のご利益を得、十分(じゅうぶ)の誠敬は十分のご利益を得る。この経書は私たちの目の前に置かれています。『神は世人を愛す』、私たちはこの小冊子の中にあらゆる宗教の神、或いはあらゆる宗教の主を見ることができます。彼らは私たちに何を待ち望んでいるのか、私たちは体得できなければなりません。その後あなたはようやく真の神の大慈大悲を見ることができます。見て、体得して、信じるのです。

  經典所說的,多多的讀誦,讀得熟,熟透了,在日常生活當中,處事待人接物、起心動念,與經文相不相應。古人講,「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」,這兩句話重要!我們能學多少,能跟古聖先賢讀聖賢書,有沒有做到聖賢,完全在看你有多少分的恭敬。所以,從哪裡下手?從誠敬,真誠恭敬下手。我有一分真誠恭敬,只得到一分,有兩分,那你只得到兩分,真的,不是假的。
経典に説かれているものは、何度も読み、熟読し、透徹して熟知して、人間関係や心の働きが経文と相応しているかどうか。古人の言う「一分(いちぶ)誠敬は一分のご利益を得、十分(じゅうぶ)の誠敬は十分のご利益を得る」というこの二句は重要です!私たちがどのくらい学ぶことができるのか、古聖先賢の書を読んで、聖賢になれるのかどうかは、完全にあなたにどのくらい恭敬があるのかにかかっています。ですから、どこから着手すれば良いでしょうか?誠敬、真誠・恭敬から着手することです。自分に一分の真誠・恭敬があれば、一分だけ(ご利益を)得ます。二分あれば二分だけ得るのです。本当です。嘘ではありません。

  中國五千年的文化,上面可以推到黃帝,堯舜禹湯就有文字、文獻流傳到後世了,不是假的。老祖宗世世代代一直承傳下來,一代傳給一代,到我們這一代發生問題了。我上一代,問題有了,還不是很嚴重;到我這一代,問題就很嚴重了。我們常常想,還是必須向經典學習,人變了,經典沒變。再過個十年、二十年,我們擔心的事情可能爆發,經典出問題了。現在人註經,給經做註解,不是古人的意思,是他自己的意思,這問題重了!這樣以後文獻、經典就不可靠了,這多可怕的事情!
中国五千年の文化は、先は黄帝にまで遡り、堯・舜・禹・湯の頃には文字、文献があり後世に伝えられました。嘘ではありません。ご先祖様が代々ずっと伝承して下さり、一代一代と伝えて、私たちの代になって問題が生じました。私の一世代上は問題はありましたが、まださほど深刻ではありませんでした。私の世代になると問題はとても深刻になりました。私たちは常に思っています。やはり経典を学習すべきです。人は変わりますが、経典は変わりません。更に十年、二十年と過ぎれば、私たちが心配していることが起こるかもしれません。経典に問題が生じます。現代人が経の註釈をし、註解をするのは、古人の意味ではありません。その人自身の意味なのです。この問題は深刻です!このようでは今後文献、経典は頼りにならなくなります。これは恐ろしいことです!

  所以我們希求,真神要派使者到人間、要派先知到世間,當老師,來教化人民,這是我們懇求的。希望夢想成真,希望我們年輕底下一代認真努力學習經典;讓經典不至於失傳,還是一代傳下一代去;這個功德第一大,這個貢獻第一大。還有什麼好事能在它之上的?找不到了。所以,「為往聖繼絕學,為萬世開太平」,這是世間頭等功德,我們要認真、要努力,其他的都是假的,都不是主要的。
ですから私たちは願っています。真の神が人間界に使者を遣わして、先覚者を世間に遣わして、先生となって人々を教化しなければなりません。これは私たちが切に願うところです。夢が真になることを願います。私たちの次の世代が真剣に努力して経典を学ぶことを願います。経典の伝承を途絶えさせてはなりません。やはり一代また一代と伝えなければなりません。この功徳は一番に大きなものです。この貢献は一番に大きなものです。まだこれ以上何か良いことがあるでしょうか?見つかりません。ですから「往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」(昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く)、これが世間の第一等の功徳であり、私たちは真剣に、努力しなければなりません。その他のことはすべて偽りであり、主要なことではありません。

  所以我們真正希望像此地所說的,經典上說的:
ですから私たちは本当にここで経典に説かれていることを願っています。

  【那宛若大海的神聖連體,如果您是這一體,汪洋城市中的居民的話,那麼您就會認識到,真神所派遣的所有先知與使者們,他們全體就是一個靈魂,就是一個身體,是同一道光明,是同一個精神;您會認識到,那位最初出現的使者,並不異於最後到來的那位,最後的那位也就是最初的那位。】
【その大海の神聖な繋がりとよく似ている。もしあなたが一体で、広大な都市の住民であるなら、真の神が派遣するあらゆる先覚者や使者たちは、彼ら全体が一つの魂であり、正に一つの体であり、同じ光明であり、同じ精神であることを、あなたは認識するだろう。最初に現れた使者は、最後に来た使者と異なるところはなく、最後の使者もまた最初の使者なのである。】

  我們能理解,不難懂,諸佛菩薩、眾神的使者常常來到世間。起不起作用?不起作用。為什麼?世間人對他不尊重,沒有恭敬心。那我們就曉得了,今天我們迫切需要的,教育。什麼教育?兒童教育,小學教育。我們把中國五千年來的小學,私塾裡面的教科書,一共有二十多種,印成一套。小孩從兩歲開始教,教到五、六歲,倫理道德根扎下去了,根深蒂固,那才叫真正人才。我們趕緊幹,不能不幹。
私たちは理解できます。難しくはありません。諸仏菩薩、神々の使者は頻繁に世間にやって来ます。影響を及ぼすでしょうか?影響はありません。なぜでしょうか?世間の人はその人を尊重しません。恭敬の心をもちません。それなら私たちは理解できます。今日私たちに最も切迫して必要なことは、教育です。何の教育でしょうか?児童教育、「小学」の教育です。中国五千年来の「小学」、私塾の教科書、合わせて二十種類以上あるものを一つにまとめて印刷しました。子どもは二歳から教え始めます。五、六歳まで教えれば、倫理道徳は根をおろします。根が深く張れば、それが真の人材というものです。私たちはすぐにでもやります。やらない訳にはいきません。

  中學六年,學四書五經、學十三經,這個漢學才能發揚光大,普度眾生。大學六年,教科書一部,唐太宗所編輯的《群書治要》。這部書的內容是什麼?古聖先賢教訓太多了,幾萬冊的圖書,在這個裡面選,精挑細選,選了六十多種。把有關於修身、齊家、治國、平天下,這四樁事情需要的智慧、需要的知識、需要的教誨,都在《群書治要》裡面,讀這一部書夠了。
中学は六年です。四書五経を学び、十三経を学びます。これで漢学は大いに発揚することができ、衆生を救うことができます。大学は六年です。教科書は唐の太宗(たいそう:李世民)が編纂した『群書治要』です。この書物の内容は何でしょうか?古聖先賢の教訓はたくさんあります。数万冊の図書から精選して、六十種余りを選びました。修身、斉家、治国、平天下に関する、必要な智慧、必要な知識、必要な教えがすべて『群書治要』の中にあります。この書物を読めば事足ります。

  今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 05

2018-10-02 | 『神は世人を愛す』を学ぶ

Learning of God Loves All Beings 05

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第五集)
2018/8/31 英國威爾士三一聖大衛大學.蘭彼得校區 檔名:21-786-0005

  諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們接著看《神愛世人》這個小冊子。
  第一個宗教,巴哈伊教。巴哈伊是新興的宗教,很難得,裡面的內容,好像是所有宗教裡面都談到。特別是他們能夠拓開心量,肯定眾神是一體,非常難得,整個宇宙是一家,非常契合我們這個課題。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日私たちは引き続きこの小冊子『神は世人を愛す』を見ていきます。最初の宗教は、バハーイー教(イスラム教シーア派から分派した一神教)です。バハーイーは新興の宗教です。得難いことに、その内容はあらゆる宗教の中で語られているもののようです。特に彼らは心を開き、人々と神とが一体であることを肯定しています。非常に得難いことです。全宇宙は家族であり、私たちの課題と合致しています。

  在它的經典上,我們節錄了幾段,這是前面的第一段:「上帝對人類派遣了他的先知、使者們,其目的有二:首先,他要使他的人類孩子們,從無知的黑暗中走出,並引導他們走向真知的光明;第二,他是要藉此來維繫人類的和平,與其心靈上的安寧,並且要為和平與安寧的實現,提供一些可行的方法。」
その経典から、私たちは数段を抜粋しました。これは最初の第一段です。
神は人類に対して預言者、使者たちを派遣した。その目的は二つある。まず、神が人類という子どもたちを無知の暗闇から抜け出させ、彼らを正しい認識の光明に導くことである。二つ目は、神が人類の平和を維持し、その心の安寧、そして平和と安寧を実現するために、いくつか実行可能な方法を提供することである
(God’s purpose in sending His Prophets unto men is twofold. The first is to liberate the children of men from the darkness of ignorance, and guide them to the light of true understanding. The second is to ensure the peace and tranquility of mankind, and provide all the means by which they can be established.)

  這些方法,在東方,中國五千年的文化;在西方有宗教,許許多多的宗教。為什麼會有這個現象?我們深入經藏之後,逐漸體會到了,大乘經教裡面交代得很清楚。神,一個真神,眾生無量無邊,體是一個,眾神一體,眾生跟神也是一體。體是誰?用佛法來說,就是自己的法身。法身沒有形相,證得法身,沒有圓滿,稱為法身菩薩;證得圓滿,就稱之為佛陀。
それらの方法は、東洋では中国五千年の文化があり、西洋では宗教があります。数多くの宗教です。なぜこのような現象があるのでしょうか?私たちは経蔵に深く入れば、少しずつ理解することができます。大乗の経教の中にはっきりと語り伝えられています。神は一つの神であり、衆生(しゅじょう:命あるもの)は無量無辺(むりょうむへん:計り知れないこと)です。体(たい:本体)は一つです。人々と神とは一体であり、衆生と神もまた一体なのです。体とは誰でしょうか?仏法を用いて言えば、正に自分の法身です。法身には形相はありません。法身を証得して、円満でないものを法身菩薩と言います。円満に証得していれば、それを仏陀と言います。

  沒有圓滿的時候,我們看到很多,像這個經上所講的,他們在無知的黑暗裡面生活,所以神要幫助他們回頭、幫助他們回歸自性,方法很多。為什麼有那麼多方法?眾生根性不一樣。神、佛菩薩說法叫應機而說,你是什麼樣的根性,就給你說什麼法,你容易契入、容易明白,道理在此地。方法無量無邊,佛法裡面講八萬四千法門、無量法門,你是什麼樣的根性,就用什麼方法教你,你真正遇到高明。高明在佛教裡面講,佛、菩薩,這是高明;阿羅漢雖然覺悟,並沒有深入。菩薩還分等級,五十一個位次,像讀書一樣,一年級、二年級、三年級……大乘教裡頭五十一個班級。最高的,十個位次,加上等覺,十一個位次,那個境界差不多都是圓滿的。經歷五十一個階級,再上面就是佛陀,功德就圓滿了。
円満ではない時、私たちは多くのものを見ると、この経典に説かれているように、無知の暗闇の中で生活しているようなものです。だからこそ神は彼らが改心するのを助け、彼らが自性に回帰するのを助けるのです。方法はたくさんあります。なぜそれほど多くの方法があるのでしょうか?衆生の資質が異なるからです。神、仏菩薩の説法は機(き:機根、資質)に応じて説くと言われます。あなたがどのような資質なのかによって、法を説きます。あなたは境地に入り易く、理解し易くなります。道理はここにあります。方法は無量無辺にあり、仏法では八万四千の法門、無量の法門と言われます。あなたがどのような資質なのかによって、(適切な)方法を用いて教えます。あなたは真に優れた人に出会ったのです。優れた人とは仏教の中では、仏、菩薩と言われます。これが優れた人です。阿羅漢は悟ってはいますが、深くはありません。菩薩はさらに等級が分かれます。五十一の位があり、学校と同じように、一年生、二年生、三年生・・・・大乗教の中では五十一の学年とクラスがあります。最も高いものは、十の位、加えて等覚、十一の位、その境界(きょうがい:境地)がほぼ円満です。五十一の階級を経て、更に上は仏陀であり、功徳は円満になります。

  大乘在中國有十個宗派,每一個宗下面又分派,所以「方便有多門,歸元無二路」,門門都能成無上道。那為什麼要設這麼多法門?根性不一樣。其實給你說真話,佛無有法教給你,你開悟了,是你自己開悟的;他有方法幫助你開悟,破迷開悟。你不經歷這些方法,你雖然開悟是自己的事情,你自己不會,迷失了方向,所以你得不到佛法的利益。因此,就要設許許多多的方便,對無量無邊的眾生,乃至於為一個眾生,也開了很多法門。這些道理我們現在慢慢都體會到了。像我們求學一樣,童年的時候讀小學,有小學課本,有小學教學法;再長大了,小學畢業了升到中學,中學有中學的教科書,有中學的教學法;乃至於大學。
大乗は中国では十の宗派があり、どの宗にも更に分派があります。ですから「方便有多門,帰元無二路」(方便として多くの門があるが、根元に帰ればニつの路は無い)と言うように、どの法門もこの上ない道なのです。それではなぜこれほど多くの法門を設けるのでしょうか?資質が異なるためです。実のところ、あなたに本当の話をすれば、仏はあなたに教える法など無いのです。あなたが悟りを開くのは、あなた自身で悟りを開くのです。仏はあなたが悟りを開くこと、迷いを破り悟りを開く(破迷開悟)のを助ける方法を持っています。あなたはこれらの方法を経験せず、たとえ悟りを開くことが自分の事だとしても、あなた自身で出来なければ、方向を見失い、仏法のご利益を得ることは出来ません。このことから様々な方便を設け、無量無辺の衆生に対して、乃至は一人の衆生の為にも多くの法門を開いたのです。これらの道理を私たちは少しずつ理解しています。ちょうど私たちが学校で学ぶのと同じように、子どもの頃は小学校で学び、小学校の教科書があり、小学校の教学法があるのです。更に大きくなれば、小学校を卒業して中学校に進学します。中学校には中学校の教科書があり、中学校の教学法があります。そして大学です。

  上帝愛世人,上帝幫助世人,派使節,像我們現在講派代表、派老師。宗教,我們把它比喻學校,上帝是校長,他的助教很多,他下面的老師很多。這些老師執行任務,幫助眾生破迷開悟、離苦得樂,所以設八萬四千法門,或者說設無量法門。在我們這個地球上,所有不同的宗教、不同的聖人、不同的先知,他們真身就是上帝;換句話說,他們都是上帝的分身、上帝的化身,是一體。
神は世人を愛し、神は世人を助け、使節を派遣しました。ちょうど私たちが代表を派遣したり、先生を派遣したりするようなものです。宗教を学校に例えれば、神は校長です。彼の助教はたくさんいます。彼の下にはたくさんの先生がいます。これらの先生が任務を執行します。衆生が迷いを破り悟りを開き(破迷開悟)、苦しみを離れて安らぎを得る(離苦得楽)のを助けます。そのため八万四千の法門、或いは無量の法門を設けたのです。この地球上の、あらゆる異なる宗教、異なる聖人、異なる先覚者。彼らの真身(しんしん:本体)は神なのです。言い換えれば、彼らは皆神の分身、神の化身であり、一体なのです。

  我們再看下面這一段,這段非常重要:「你們都是同一棵樹木的葉子,都是同一個大海中的水滴。」一滴水。這個話我們一聽就明白了,一體。他用樹跟樹葉來比喻,那一棵大樹就是上帝,變現出無量的眾生、無量的世界。一個星球是一個世界,太空當中有多少星球?數不清,我們能見到的少數,還有許許多多距離太遠了;本身放光的,我們比較容易見到,不放光的不知道有多少。科學家告訴我們,太陽系放光的就一個,太陽;不放光的有九大行星,行星還有衛星,在太陽反射之下我們見到了,反射不到的我們不知道。
次の一段を見ましょう。この段は非常に重要です。
あなた方は同じ樹木の葉であり、すべて同じ大海の中の水滴である」。
(You are all the leaves of one tree and the drops of one ocean.)

一滴の水です。私たちはこの話を聞いてすぐに理解できます。一体です。(バハイ教では)樹木と葉とを用いて例えています。その大樹は正に神であり、無量の衆生、無量の世界に変化して現れます。一つの星は一つの世界です。宇宙にはどれほどの星があるのでしょうか?数え切れません。私たちが見ることのできるのは少数で、まだまだ遠い彼方には数限りなくあります。それ自身が発光するものは見え易いですが、発光しないものがどれほどあるか知れません。科学者は言います。太陽系で発光するのはただ一つ、太陽です。発光しないのは九つの惑星があり、惑星には更に衛星があります。太陽の反射を受けて私たちは見ることが出来ます。反射しなければ私たちには分かりません。

  科學不斷的在提升,我們的視野不斷的在擴大,這是得利於科學,發明許多儀器,幫助我們看到肉眼所很難見到的,我們都見到了;這宏觀世界。再看另外一頭,微觀世界,生物更多了,它幫助我們看到肉眼看不到的細胞、細菌。我們從科學報告裡頭知道這些常識,是不是就是這麼多?不敢說,肯定不是這麼多,有更多。我們等待科學儀器再提升,不斷的進步,使所有看不見的,在顯微鏡裡面統統看到。說明我們是同一個法身,這裡講的,同一棵樹木的葉子。
科学は絶えず進歩しています。私たちの視野は絶えず広がっています。これは科学のお陰を被っています。様々な計測機器を発明して、私たちが肉眼で見られないものを見るのを助けてくれています。これはマクロの世界です。また別の一方を見れば、ミクロの世界です。生物は更に多く、それは私たちが肉眼で見られない細胞、細菌を見るのを助けてくれます。私たちは科学のリポートからこれらの常識を知っています。それだけなのでしょうか?そうとは言えません。間違いなくそれだけではなく、もっと多いでしょう。科学の計測器が更に進化し、絶えず進歩すれば、すべての見えないものを顕微鏡の中で見ることが出来るでしょう。私たちは同じ一つの法身であることの証明です。ここで説かれている、同じ一つの樹木の葉なのです。

  我們這邊走出去,街道的兩旁邊是公園,樹木有年代了,都非常高大,所以有很好的樹蔭給我們乘涼。所有這麼多樹,就像經上講的,你們有這麼多人,都是一棵樹木的葉子。親切,不是獨立的樹,我們是樹上一片樹葉。
ここから外に出ると、道の両辺は公園で、年数を経た樹木があります。どれも高くて大きいので、良い木陰ができて涼むことができます。これらの樹木は、経に説かれているように、――皆さんはこのようにたくさんいますが――すべて一つの樹木の葉なのです。親しみがわきます。独立した樹ではなく、私たちは樹木の一葉なのです。

  後面還有一句:「都是同一個大海的水滴。」大海距離我們不遠,巴黎的外面是大西洋,大海望不到邊際,芸芸眾生就像一滴海水一樣。這個比喻很親切,把我們人與人、人與上帝的關係講清楚了、講明白了。我們有沒有接受?沒有。為什麼沒有?我們迷得太深、迷得太厚了。
その後更に一句「すべて同じ大海の中の水滴である」とあります。大海はここから遠くはありません。パリの外は大西洋です。大海はその果てを望むことはできません。あらゆる衆生は一滴の海水のようなものです。この比喩はとても親しみがわきます。私たち人と人、人と神との関係をはっきりと、明瞭に説いています。私たちはそれを受け入れているでしょうか?受け入れていません。なぜでしょうか?私たちの迷いが深く深刻だからです。

  所以我們不能離開上帝,不能離開上帝派到這個世間來的使者。使者是上帝的助教、是我們的老師,我們對他要尊重、我們對他要信任,不能懷疑。帶著懷疑的心來學道,難;帶著懷疑去學科學,行,學道不行,道是形而上的。所以我們要肯定,這些都是上帝的話,都是上帝使者教給我們的,我們信心從這裡建立。有了信心之後,我們再來解決問題。
ですから私たちは神を離れることはできません。使者たちは神がこの世に派遣しました。使者は神の助教であり、私たちの先生です。私たちはその人を尊重し、信頼して、疑うことはできません。懐疑的な心を持って道を学ぶのは、難しいものです。懐疑的な心を持って科学を学ぶのは良いのです。道を学ぶことはできません。道は形而上のものです。ですから私たちは肯定しなければなりません。これらはすべて神の話であり、すべて神の使者が私たちに教えたものなのです。私たちの信心はここから打ち建てます。信心が生まれた後、私たちは更に問題を解決します。

  修行,依照經典的教訓認真學習,把經典的教訓變成自己生活的規範。起心動念不離開經典,言語造作不離開經典,這是上帝的兒女,這是聖賢的弟子。
修行は経典の教訓に照らして真摯に学びます。経典の教訓を自分の生活規範に変えるのです。心の働きは経典を離れず、言葉や行為は経典を離れません。これが神の子です。これが聖賢の弟子です。

  有同修告訴我,我們很想學習,但是就是入不了境界,怎麼辦?我告訴大家從哪裡入門,儒、佛,再看一切宗教經典,能入門要行、證。我們聽講聽明白、聽懂了,沒有把它變成我們的生活行為,那不管用,我們入不進去。幾乎所有宗教也是同樣的道理,都是主張從放下入門。放下什麼?放下妄想、放下分別、放下執著,你就會看到門,你就能入門。
ある人が私に言いました。「私たちは学びたいと思っていますが、境界(きょうがい:境地)に入ることが出来ません。どうしたものでしょうか」。私はどこから入門すべきかを皆に話しました。儒、仏、そして一切の宗教経典を見ます。入門するには行(ぎょう:修行)、証(しょう:証得)をしければなりません。私たちは説くところを明瞭にし、理解しなければなりません。それを私たちの生活、行為に変えていないのであれば、役には立ちません。(境界に)入ることはできません。およそあらゆる宗教も同じ道理であり、すべて放下(ほうげ:執著を捨てること)から入門することを主張しています。何を放下するのでしょうか?妄想を放下し、分別を放下し、執著を放下すれば、あなたは門を見るに到ります。あなたは入門することができるのです。

  有些同修告訴我,就是放不下,怎麼辦?我勸你學經教。你為什麼放不下?你不了解事實真相,所以你放不下;如果了解事實真相,你就不會把它放在心上,自自然然放下。放下就自在,放下就生智慧。那我再告訴你,你真正想學,學道,這十個宗教都合起來,無論你學哪一個,沒有例外的,都是從把煩惱習氣放下。煩惱習氣是根,樹木的根,根放下了,枝葉自然就沒有了。
ある人たちは私に言います。「正に放下することが出来ないのです。どうしたものでしょうか」。私は経教に学ぶことを勧めます。あなたはなぜ放下できないのでしょうか?あなたは事実の真相を理解していません。だから放下できないのです。もし事実の真相を理解すれば、あなたはそれを心に留めたりしません。極自然に放下します。放下すれば自在になります。放下すれば智慧が生じます。私は更に言います。あなたが本当に道を学びたいなら、この十の宗教を合わせて、あなたはどれを学ぼうと、例外はありません。すべて煩悩の習気(じっけ)を放下することからです。煩悩の習気は根であり、樹木の根です。根を放下すれば、枝葉は自然になくなります。

  中國的儒,儒家從哪入門?格物、致知;然後才有修身、齊家、治國、平天下。那儒家這個根什麼意思?不能不懂,不能不講究。格物,格是格鬥,打仗,跟誰打仗?跟自己打仗。物是什麼?物是欲望。這個東西害死我們,我們時時刻刻沒辦法離開,眼見色、耳聞聲、鼻嗅香、舌嘗味,它起作用。起的作用是迷,不是覺。覺怎樣呢?不起作用的時候就覺了。所以從哪裡下手?放下物欲、放下煩惱、放下習氣、放下一切錯誤。
中国の儒、儒家はどこから入門するのでしょうか?格物(かくぶつ)、致知(ちち)です。その後で修身(しゅうしん:身を修めること)、斉家(せいか:家を整えること)、治国(ちこく:国を治めること)、平天下(へいてんか:天下を平和にすること)が出てきます。儒家のこの根はどのような意味でしょうか?理解しなければなりません。研究しなければなりません。格物の「格」とは格闘です。戦いです。誰と戦うのでしょうか?自分と戦うのです。「物」とは何でしょうか?「物」とは欲望です。これは私たちを害するものです。私たちは時々刻々離れることが出来ません。眼で色を見て、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わいます。それが作用を起こします。起こる作用は迷いであり、覚りではありません。覚りとはどのようなものでしょうか?作用が起きなくなった時が覚りです。ですからどこから着手すべきでしょうか?物欲を放下し、煩悩を放下し、習気(じっけ)を放下し、一切の誤りを放下することです。

  知道錯了馬上就要改,怎麼改法?先放下,再學習,功夫就得力了。你一面放下一面又再做,那你怎麼能放得下?放下之後智慧就現前,所以致知。智慧從哪裡來的?煩惱輕的人智慧就多,煩惱重的人智慧就少。妄想、分別、執著只生煩惱,不生智慧;可是妄想、分別、執著你就放不下,你不但不肯放,你還在上添油添醋。這是念經沒錯,修行錯了,方向、路統統走錯了。
誤りと知ったらすぐに改めなければなりません。どのように改めるのでしょうか?まず放下して、更に学習すれば、技量を得ることが出来ます。あなたが一方で放下して、一方ではまた繰り返すのであれば、どうして放下出来るのでしょうか?放下した後で智慧が現れます。だから致知(知を致す)なのです。智慧はどこから来るのでしょうか?煩悩が軽い人は智慧が多く、煩悩が重い人は智慧が少ないものです。妄想、分別、執著はただ煩悩を生むばかりで、智慧を生みません。しかし妄想、分別、執著を放下出来ないのは、あなたが放下しようとしないばかりか、あなたが自分で味付けをしているのです。これは経を正しく読みながら、修行を誤っています。方向、道、すべて誤っています。

  佛法裡面講看破、放下,儒家講的格物、致知。格物就是跟物欲打仗,要把它打敗;致知就是開智慧。我們現在沒有智慧,是因為欲望太多、妄想太多,那不是真的。從今之後,我們要把這個放下,不放在心上,心上只放上帝的愛。我們這裡總標題是「上帝愛世人」,沒有一部經典不講上帝愛世人,上帝愛世人是真的,不是假的。我們一定要曉得,一定要把它搞清楚,在這裡下手就對了。
仏法の中では看破、放下を説き、儒家では格物、致知を説きます。格物とは物欲との戦いです。それを打ち負かさなければなりません。致知とは智慧を開くことです。私たちは今は智慧がありません。それは欲望が多く、妄想が多いためです。それは真実ではありません。今からはこれを放下して、心の中に留めず、心の中には神の愛だけを留めます。私たちのここでの題目は「神は世人を愛す」です。どの経典でも神が世人を愛することを説かないものはありません。神は世人を愛するのは真実です。偽りではありません。私たちは必ず理解しなければなりません。必ずそれをはっきりさせ、ここから着手すれば良いのです。

  循著這個順序不斷向上提升,提到最後,治國、平天下;這是講我們沒有離開地球,還住在這邊,你的功德圓滿。再向上提升,我們就會跟上帝在一起,生到天國去了,佛法生到極樂世界去。這問題才是徹底搞清楚了,徹底終極最高的利益我們真正得到了,大圓滿,這是我們努力的方向。所有的這些經典、神聖、先知告訴我們,我們可以做到,不是做不到。只要下定決心,真肯幹,我們共同在一起互相幫助,不斷的向上提升。
この順序に従って絶えず向上したなら、最後は治国、平天下です。これは私たちが地球を離れることなく、ここに住んでいながら、功徳が円満になることです。さらに向上すれば、私たちは神と共にあり、天国に生まれます。仏法では極楽世界に生まれます。これで問題が徹底的にはっきりします。徹底して最高のご利益を得るのです。大円満です。これが私たちの努力の方向です。あらゆる経典、神聖、先覚者は、私たちには出来ると言います。出来なくはありません。ただ決心をして、本当に実行することです。私たちはお互いに助け合って、絶えず向上していきます。

  今天時間到了,我們就學習到此地。
時間になりました。学習はここまでとします。

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『神は世人を愛す』を学ぶ 04

2018-09-15 | 『神は世人を愛す』を学ぶ

Learning of God Loves All Beings 04

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第四集)
2018/8/30 英國威爾士三一聖大衛大學.蘭彼得校區 檔名:21-786-0004

  諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們繼續來談《神愛世人》。
  宗教團結的深化,必須要建立在各宗教彼此深入學習對方的經典,在這個基礎上才能夠達成。各宗教的傳教師與信徒們,都可以認識到彼此經典的共通之處,彼此都是同一位真神的子民。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日は引き続き『神は世人を愛す』についてお話し致します。宗教の団結を深めるには、必ず各宗教でお互いに相手の経典を深く学習しなければなりません。この基礎の上においてこそ達成できるのです。各宗教の伝教師と信徒たちは、お互いに経典の共通するところや、お互いが同じ神の子であることを認識することが出来ます。

  有鑑於對於各宗教經典的認識與學習是如此的重要,我們這一次從世界十一大宗教的聖典之中,擷取出各宗教經典中的一些精華經句,讓讀者認識到,眾神確實是一體的,他們都擁有著一體不二的大愛、一體不二的真心。這是我們學習的基礎、是我們學習的核心,否則的話,宗教團結的意義就失掉了。《神愛世人》這個小冊子,可以幫助我們契入境界。
その点を考慮しますと、各宗教の経典に対する認識と学習はこれほど重要なのです。私たちはこの度、世界十一大宗教の聖典の中で、各宗教経典の中のエッセンスとなる言葉を抜粋し、読者に人々(衆)と神とは一体であることを認識できるようにしました。彼らはすべて一体不二の大いなる愛、一体不二の真心を備えています。これは私たちの学習の基礎であり、学習の核心です。そうでなければ、宗教団結の意義が失われます。『神は世人を愛す』という小冊子は、私たちが境界(きょうがい:境地)に入る助けとなります。

  我們知道,學習的根夾在這一句話裡頭:一體不二的大愛、一體不二的真心。首先肯定,完全沒有懷疑,從經典上認識,每個宗教都建立在神聖教誨的基礎上。我們要怎樣把這個愛找到?這個愛,神聖的愛,是從真心流露出來的,妄心裡頭沒有。什麼叫妄心?有分別、有執著是妄心;或者我們總的說一句,起心動念是妄心,分別、執著是妄心。必須要把這個妄心放下,真心就現前。真心就是上帝的愛心;真心,一切眾生跟上帝沒有兩樣。
私たちは知っています。学習の根本はこの一句の中にあるのです。一体不二の大いなる愛、一体不二の真心。まずそれを肯定して、完全に疑わないこと。経典の中から、どの宗教もすべて神聖な教誨(きょうかい:教え)を基礎としていることを認識します。私たちはどのようにその愛を見つけるのでしょうか?その愛、神聖な愛は、真心の中から流露するもので、妄心の中にはありません。妄心とは何でしょうか?分別があり、執著があるのが妄心です。或いは総じて言えば、起心動念(きしんどうねん:心の起こり、念の動き)は妄心です。分別、執著は妄心です。必ずその妄心を放下(ほうげ:手放すこと)しなければなりません。真心はそうして現れます。真心とは神の愛です。真心は、一切衆生(いっさいしゅじょう:生きとし生けるもの)と神とは何も違いはありません。

  所以說到最後,我們會體認到,經教裡面所說的這些句子,我們節錄下來了,往下我們都能看到,不但眾神是一體,整個宇宙是真心所現,妄心所變。真心顯露的是天堂、是極樂世界,妄心所現的是十法界;十法界跟極樂世界、跟天堂,也是一不是二。
結論を言えば、経典の中のそれらの言葉を、私たちは体験して認識することができます。私たちは要点を抜粋しています。後ほどすべてお見せします。人々(衆)と神とは一体であるばかりか、全宇宙は真心の現れであり、妄心によって変化したものなのです。真心が現すものは天国であり、極楽世界です。妄心が現すのは十法界です。十法界は極楽世界や天国と一つであり、二つではないのです。

  經典上都說得好,「凡所有相,皆是虛妄」,這是真的不是假的。我們能把虛妄的放下,不要放在心上,這個時候我們的心就是真心。那些開悟的人、明心見性的人,跟我們的差別在哪裡?就在這個地方。明心見性的人,眼見色,不起心不動念,看得清清楚楚、了了分明;耳聽聲音,聽得清楚、聽得明白,也是不起心不動念。我們從這裡就了解,古聖先賢他們修行證果的祕訣在哪裡。搞清楚了、搞明白了,要學!學就叫功夫、學就叫修行。行就是動,行動。凡夫的行動,裡面有妄想、分別、執著,有煩惱、有習氣;明心見性的人,他六根在六塵境界上,真正是不起心不動念、不分別不執著,差別就在此地。
経典に説かれています。「およそ姿・形あるものは、すべて実体がない」(凡所有相,皆是虚妄)。これは真実であり、偽りではありません。私たちは実体のない虚妄を放下して、心の中に留めてはなりません。その時の私たちの心こそが真心です。開悟した人、明心見性した人と、私たちとの違いはどこにあるのでしょうか?違いは正にここにあります。明心見性した人は、眼で物を見ても、心を起こさず、念を動かしません。はっきりと明瞭に見えています。耳に音を聞くと、はっきりと明瞭に聞こえていますが、やはり心を起こさず、念を動かしません。私たちはここから理解することが出来ます。古(いにしえ)の聖なる先賢たちの修行と証果の秘訣はここにあるのです。はっきりと、明瞭になったら、学ばなければなりません!学びとは技量であり、学びとは修行です。行とは動、行動です。凡夫の行動は、その中に妄想、分別、執著があり、煩悩があり、習気(じっけ)があります。明心見性した人は六根が六塵の境界にあって、本当に心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しません。違いはここにあるのです。

  明心見性不是要離開世間,那你就錯了!世間是離不開的,真妄是在一體,你怎麼能離得開?怎麼辦?佛菩薩教給我們,所有宗教的教主、上帝,以及上帝的使者、教化六道眾生這些大德、大師,他們不但教給我們,而且給我們做模範、做榜樣;我們能契入他們的境界,俗話說「得道」,你得到了,得到什麼?你得到明心見性的道路,你就曉得怎麼走法,就是六根在六塵境界上學習。眼見色是修行,是學習明心見性。現在開始下手,就是所見的色相,不分別、不執著、不放在心上,就對了。
明心見性とは世間を離れることではありません。それは間違いです!世間とは離れられません。真と妄とは一体です。あなたはどのように離れるのでしょうか?どうするのでしょうか?仏菩薩は私たちに教えています。あらゆる宗教の教主、神、及び神の使者、六道の衆生を教化する大徳、大師、彼らは私たちを教えるだけでなく、私たちの模範になってくれます。私たちが彼らの境界に入ることが出来ると、俗にいう「得道」すると、あなたは何を得るのでしょうか?あなたは明心見性への道を得ます。あなたはどのように行けば良いのかが分かります。つまり六根が六塵の境界にあって学ぶのです。眼で物を見るのは修行です。明心見性を学ぶのです。今から着手するなら、眼に見える色相に対して分別せず、執著せず、心に留めないこと。それで良いのです。

  一般凡夫他的問題在哪裡?問題是把所有的現象,真的、假的,統統放在心上。他不知道真心、本性裡面是清淨的,一塵不染,雖見色,沒放在心上;雖聞聲,也沒有放在心上;乃至於鼻嗅香、舌嘗味,都不放在心上。所以稱它叫一如、真如。真如是什麼意思?真妄是一不是二,叫一如、叫真如。不起分別、不生執著,這是入門的地方,要用功夫去練。你真正做到了,方東美先生教我的一句話你也得到了,「學佛是人生最高的享受」,得到了;我得到了、你也得到了、他也得到了、人人得到了。怎麼得到的?不起心不動念、不分別不執著、不放在心上,就對了。放在心上的是凡夫,把真心變成妄心,把本性變成習性,問題就出在這裡。我證實了方先生這句話,「人生最高的享受」。
普通の凡夫の問題はどこにあるのでしょうか?問題はあらゆる現象、本当のこと、偽りのこと、すべてを心に留めていることです。その人は真心を知りません。本性は清浄(しょうじょう:清らかなこと)であり、一塵にも染まらず、物を見たとしても、心に留めません。音を聞いたとしても、やはり心に留めません。または鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わったとしても、すべて心に留めません。ですからそれを一如、真如と言います。真如とはどのような意味でしょうか?真と妄とは一つであり二つではありません。これを一如と言い、真如と言います。分別を起こさず、執著を起こさないこと。これが入門の場所であり、時間を掛けて訓練しなければなりません。あなたは本当にできるようになれば、あなたも方東美先生が私に教えた言葉を得るのです。「仏に学ぶことは人生最高の享受である」。それを得るのです。私は得ていますし、あなたも得るのです。彼も得ますし、誰もが得るのです。どうすれば得られるのでしょうか?心を起こさず、念を動かさず、分別せず、執著せず、心に留めないこと。それで良いのです。心に留めるのは凡夫です。真心が妄心に変わります。本性が習性に変わります。問題はここに出てくるのです。私は方先生の「人生最高の享受」という言葉を実証しました。

  有人問我:我修了幾十年了,煩惱重重,沒有得到安樂,你是怎麼得到的?我告訴他:你要跟我學,你也會得到,學什麼?不放在心上。這句話說得容易,做起來很難。為什麼?你已經把起心動念、分別執著養成一種習慣;眼見色立刻就起心動念,耳聞聲立刻也起心動念,六根在六塵境界上,個個都忙著起心動念,這麻煩可大了!心上有起心動念叫做妄心,不是真心。把起心動念放下、分別執著放下,心上什麼都沒有,那是真心、那是自性。千經萬論幫助我們認識諸法實相,一切法的真相認識;認識之後,認識是在解,信、解、行、證,認識是在解,你沒修行。行是什麼?是放下。這一放下,你的認識就變成智慧,不是煩惱。
ある人が私に聞きました。「私は数十年修めましたが、煩悩が重く、安らぎを得られません。法師はどのように得られたのでしょうか」。私はその人に言いました。「あなたが私と学ぶなら、あなたにも得られます。何を学ぶのでしょうか?心に留めないことです。この話は言うのは簡単ですが、行ってみれば難しいものです。なぜでしょうか?あなたは心を起こし、念を動かし、分別し、執著することが一つの習慣として身についているからです。眼に物を見れば、すぐに念を動かし、耳に音を聞けば、すぐに念を動かし、六根が六塵の境界にあれば、忙しく念を起こし、念を動かすのです。これは面倒なことです!心の中に念を起こし、念を動かすことを妄心と言います。真心ではありません。心を起こりと念の動き、分別と執著を放下して、心の中に何もなければ、それを真心と言います。それが自性です。千経万論は私たちが諸法実相、一切法の真相を認識する助けとなります。認識は「解」(理解、解釈)にあたります。(教義を信じること)、(教義を理解すること)、(教義を実践すること)、(証得すること)。認識は解にあたります。あなたはまだ修行をしていません。「行」(ぎょう)とは何でしょうか?(行とは)放下です。ひとたび放下すれば、あなたの認識は智慧に変わります。煩悩ではありません。

  放下是你的修行。所以我向章嘉大師請教,佛門有沒有方法讓我們很快就契入?他老人家聽了我這個問題之後,看著我,我看著他,我們兩個對看了半個小時。他看著我,我不知道什麼意思,他是在等我靜下來,不靜下來,老師講的你不相信。半個小時就像入定一樣,定了半個小時,心清淨了,沒有雜念了,他說了一個字:有。那我們的注意力就集中了,又錯了,又起心動念了,他就又不說了,大概又看了十分鐘。前面三十分鐘,定下來了,他說個有,我們的心又動了、又起分別執著,有了,所以他就不講了。十分鐘之後,我就又定下來,告訴我:「看得破、放得下,看破幫助你放下,放下幫助你看破。」我就明白這個方法了,佛法的修行是什麼?看破、放下,看破是智慧,放下是功夫。
放下はあなたの修行です。私は章嘉大師に「仏門には私たちが早く境地に入れる方法はありますか?」と教えを請うたことがあります。ご老人は私の質問を聞いた後、私を見ていました。私はご老人を見ていました。私たち二人は三十分見合っていました。ご老人は私を見ていましたが、私はどういう意味か分かりません。ご老人は私の心が静まるのを待っていました。心が静まらなければ、先生が話しても信じられません。三十分はまるで入定したようでした。三十分落ち着いて、心が清浄になり、雑念がなくなると、ご老人はひと言「あります」と言いました。それで私の注意力は集中し、また誤りを犯しました。また心を起こし、念を動かしたのです。ご老人はまた話さなくなりました。だいたい十分ほどです。最初は三十分で落ち着きました。ご老人が「あります」と言うと、私の心はまた動き、分別と執著を起こしました。それがあるので、ご老人は話さなくなりました。十分後に、私はまた落ち着きました。そして「看破できれば、放下できる。看破は放下を助け、放下は看破を助ける」と私に言いました。私はこの方法を理解しました。仏法の修行とは何でしょうか?看破、放下です。看破は智慧であり、放下は技量です。

  在日常生活當中,你要想得到受用,不能不把人事統統放下,不放在心上,你就有智慧。好處太多了!你能慢慢的入佛境界,佛菩薩明心見性,你也明心見性了。明心見性是自性本有的,不是外頭來的。功夫也是本有的,功夫是禪定,心裡有事就不定了;妄想、分別、執著統統放下,心定下來。定生智慧,智慧是自性本有的。然後經愈看愈深入,它的深度、它的廣度慢慢你就看到。這個我們不能不知道,希望同學們慢慢琢磨。
日常生活の中でご利益(りやく)を得たいと思うなら、世間のことを放下しなければなりません。心に留めなければ、あなたには智慧が生じます。良いところがたくさんあります!あなたは少しずつ仏の境界(きょうがい:境地)に入ることができます。仏菩薩(ほとけぼさつ)は明心見性しています。あなたも明心見性するのです。明心見性は自性にもともとあるもので、外から来るものではありません。技量もまたもともとあるものです。技量とは禅譲です。心の中に物事を留めていれば落ち着けません。妄想、分別、執著をすべて放下すると、心が落ち着いて来ます。定(じょう:禅定)は智慧を生み、智慧は自性にもともとあるものです。その後は経にますます深く入ります。その深さ、その広さを少しずつ知るのです。これは知っておかなければなりません。学生の皆さんが少しずつ研鑽されることを願っています。

  最好,這是福報,一生能夠不管人、不管事、不管錢。把人放下、把事放下,事來的時候做,做完了不放在心上,錢放下。方先生這句話,「學佛是人生最高的享受」,你就體會到了。
最も良いのは、これは福報だということです。一生人、事、お金に関わりません。人を放下し、事を放下して、用事が来れば対処して、対処し終えたら心に留めません。お金も放下します。「仏に学ぶのは人生最高の享受です」という方先生の言葉を、あなたは体験することができるのです。

  時間到了,我們就學習到此地。
時間になりました。学習はここまでとします。

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『神は世人を愛す』を学ぶ 03

2018-09-09 | 『神は世人を愛す』を学ぶ

Learning of God Loves All Beings 03

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第三集)
2018/8/26 英國倫敦Excel展覽中心 檔名:21-786-0003

  諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們繼續來談談「神愛世人」。前面有一個報告還沒講完,今天我們繼續講。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日私たちは引き続き「神は世人を愛す」についてお話し致します。先の報告につきましてはまだ話し終えておりません。今日は引き続きお話し致します。

  英國歷史哲學家湯恩比博士曾經說到,所有宗教的創始人都是那個時代偉大的社會教育家,一直到今天,我們還深受影響。由此可知,宗教教育深得人心。如果我們疏忽了,失去對宗教的信仰,那就是文明走向崩潰的時刻。
イギリスの歴史哲学者トインビー博士はかつて、すべての宗教の創始者はその時代の偉大な社会教育者であると語っています。今日に至るまで、私たちは深い影響を受けております。このことから分かるのは、宗教教育は深く人心を得ているということです。もし私たちが疎かにすれば、宗教に対する信仰を失ってしまい、それは正に文明が崩壊に向かう時です。

  我們不斷的接觸宗教、認識經典,在這當中深深體會到,一切宗教與真神的聖哲都是一體的,他們所有的核心就是一個「愛」字,宗教教育就是愛的教育。它的核心,就是引導人們去把愛發揚光大,讓人們真正懂得,如何用一顆無私的心去愛他人、去愛一切生命、去愛整個宇宙。愛是自性、是真心第一德。
私たちは絶えず宗教に触れて、経典を知り、その中で深く身にしみていることは、一切の宗教と神の聖哲はすべて一体であり、すべての核心は正に「愛」の一字であり、宗教教育は正に愛の教育であるということです。その核心は、人々の愛を発揚するように導くものであり、如何にして無私の心で人を愛し、一切の生命を愛し、全宇宙を愛するのかを人々に真に理解させるものです。愛は自性【注】であり、真心の第一の徳です。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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  我們學習宗教,受經典的薰習,「上帝愛世人」就是宗教的核心。我遇到過不少人,問我,宗教是什麼?我告訴他,宗教就是愛,宗教是教育,宗教是愛的教育。如何學會把神愛世人這種大公無私的愛,放在我們自己心上,我們代表上帝去愛世人,上帝愛世人這就落實了;否則的話,上帝愛世人是一句空話。
私たちは宗教を学び、経典の薫陶を受けました。「神は世人を愛す」は正に宗教の核心です。私は「宗教とは何ですか」と質問する人にたくさん出会いました。私は言います。「宗教は愛です。宗教は教育です。宗教は愛の教育です」。如何にして「神は世人を愛す」といった公正無私の愛を身につけ、自分の心に留めるか。私たちが神を代表して世人を愛すること、「神は世人を愛す」はそれで実行されます。そうしなければ、「神は世人を愛す」は空論に過ぎません。

  我們追問一句,上帝怎麼愛世人?這個理、事我們都要搞清楚、搞明白。上帝的愛,是大公無私的愛、是沒有條件的愛。為什麼?幾乎每個宗教都給我們講到眾神是一體的,往後我們學習每個宗教,在經文裡面就看到了,「眾神一體,宗教一家」。如果我們能夠契入這種認知、這個境界,那麼我們距離宗教的大團結就不遠了。宗教團結帶給人類真正的幸福,眾神歡喜。
私たちは問いかけます。神はどのように世人を愛するのでしょうか?私たちはこの理、事をはっきりと、明確にしければなりません。神の愛は公正無私の愛であり、無条件の愛です。なぜでしょうか?どの宗教でもすべて人々(衆)と神とは一体であると説いています。後になって各宗教を学ぶと、経文の中に見られます。「人々と神とは一体であり、宗教は家族である」。もし私たちがこのような認知、この境界(きょうがい:境地)に入ることができれば、宗教の大団結はそう遠くはないでしょう。宗教の団結は人類に真の幸福をもたらします。人々と神とが喜びます。

  這種無私的大愛、真實的愛心,就是上帝的大愛、佛陀的慈悲,他們彼此是一不是二。他們其實,所有宗教經典裡面講的愛,是同一個愛。宗教的信徒,特別是神職人員,都能夠代表上帝去愛世人時,上帝的天堂就會降臨到這個地球上。我們確實都有責任,把上帝的天堂帶到這個苦難的人間。
このような無私の愛、真実の愛は、正に神の大いなる愛であり、仏陀の慈悲であり、それらはそれぞれ一つの事なのです。実のところ、すべての宗教経典の中で説かれている愛とは、同じ愛なのです。宗教の信徒、特に神職者が神の愛を代表して世人を愛することが出来れば、神の国はこの地球上に降臨するのです。私たちは間違いなく誰もが責任を負っています。神の国をこの苦難の人間界にもたらすことを。

  多年來我們團結宗教,我是在一九九八年、一九九九年在新加坡嘗試著做,做成功了,用了一年的時間。二OOO年我移民到澳洲,在澳洲也做實驗,做成功了,時間長一些。新加坡一年做圓滿,澳洲我們用了比較長的時間,我記得好像是十三年,我們才做成功。現在這個社會,沒有好的榜樣,大家很難相信,最好是做出來,他看到了,親身體會到了,他才相信。怎麼做?人與人之間最重要的是接觸,如果不接觸就難了。
長年私たちは宗教を団結させてきました。私は一九九八年、一九九九年にシンガポールで試みて、成功しました。一年の時間がかかりました。二〇〇〇年に私はオーストラリアに移住して、オーストラリアでも実験をして成功しました。時間は少し長くかかりました。シンガポールでは一年で円満になり、オーストラリアでは長い時間がかかりました。私の記憶ではおそらく十三年です。私たちはようやく成功しました。今のこの社会には良い見本がありません。皆なかなか信じません。一番良いのはやって見せることです。人はそれを見て、自分の身をもって体験して、ようやく信じるのです。どのようにするのでしょうか?人と人との間で最も重要なのは接触することです。接触しなければ難しいでしょう。

  我在澳洲圖文巴這個城市,怎麼樣跟大家交朋友?我初到澳洲的時候,買了個教堂,把教堂改成佛堂,除了把十字架換成阿彌陀佛之外,教堂絲毫沒有改變。沒想到得到當地人的歡喜,知道我們不破壞文化,我們要保留文化,他們在旁邊看。開幕這一天,我們邀請了街道上兩邊的鄰居,參加我們移民到圖文巴,建立一個佛堂歡喜的日子。晚上我們用晚宴、素食招待他們,給他們做報告,我們為什麼到這邊來。想做實驗,我們所理想的,「宗教是一家,眾神是一體」。
私はオーストラリアのトゥウンバ(Toowoomba)で、どのように友達付き合いをしたのでしょうか?私は初めてオーストラリアに行った時、教会を買いました。教会を仏堂に変えたのです。十字架を阿弥陀仏に変えた以外は、教会は何も変えていません。思いがけず現地の人が喜びました。私たちが文化を壊さないことを知ったのです。私たちは文化を残さなければなりません。彼らは隣で見ていました。開幕した日、私たちは通りの両隣の人を招待しました。私たちがトゥウンバに移住して、仏堂を建てた喜ばしい日に参加してもらいました。私たちは夜の宴会を開き、精進料理で彼らをもてなして、私たちがなぜここに来たのかを彼らに報告しました。私たちが理想とする「宗教は家族であり、人々と神とは一体である」ことを実験をしたかったのです。

  晚宴散會的時候,有十幾個街坊來看我,我接見他們,他們提出問題:「法師,你辦這個活動我們很歡喜,能不能常常辦?」我非常歡喜,一個星期辦一次,他們都皆大歡喜。所以,我們在那裡團結大眾,用的是溫馨晚宴,每個禮拜六晚上舉行一次,大家歡歡喜喜在一塊聚餐、在一塊交流。他們對佛教不了解,很好奇,喜歡問,我們為他解答。一年一年過去,都沒有改變,一直到今天,還是星期六晚宴,溫馨晚宴。
宴会をお開きにした時、十数人の隣近所の人々が来て、私は彼らとお会いました。彼らは問題を提起しました。「法師、あなたがこのような活動をすることを私たちは嬉しく思います。頻繁に行うことは可能でしょうか?」。私は喜んで、一週間に一度やりましょうと言うと、彼らは皆大喜びしました。そうして、私たちはそこで大衆を団結させました。用いたのは暖かい夜の宴会です。毎週土曜日に一度行い、皆は喜んで一緒に食事をして、一緒に交流しました。彼らは仏教に対して理解しておらず、好奇心をもって質問しました。私たちは彼らの質問に答えました。一年一年と過ぎて、すべて変わっていません。今日に至るまで、やはり土曜日の夜に宴会を開いています。暖かい宴会です。

  我們心目當中,就是佛陀的慈悲、上帝的大愛,突破了宗教的界限,宗教與宗教之間和睦相處。十三年,十幾個宗教團體,他們的領導、代表人來找我。告訴我,他們對我們在圖文巴這麼多年的貢獻非常感謝,我們願意團結起來,給其他的大眾做一個榜樣:宗教是可以團結的,宗教是可以變成一家人,相親相愛,互助合作;做到了,我看到很歡喜。
私たちの心の中では、正に仏陀の慈悲、神の大いなる愛は宗教の境界線を突破しており、宗教と宗教との間も仲睦まじくすべきなのです。十三年経ち、十数種類の宗教団体の指導者、代表者が私に会いに来ました。彼らは私たちのトゥウンバでの多年にわたる貢献に対して非常に感謝していると言いました。私たちは団結を望んでおり、他の大衆に一つの手本を示したいのです。宗教は団結できるのだと。宗教は家族になることができ、お互いに愛し合い、助け合うことが出来るのだと。それが出来て、私は嬉しく思います。

  去年三月,巴黎聯合國教科文組織有九位大使,我們邀請他們到圖文巴來考察、來觀光,他們看到了,對於我們常常在一起交流、討論,希望宗教團結、希望宗教回歸教育。圖文巴看過之後,這個信心升起來,他們回來做了一份詳細報告,還附帶為我要了一個辦公室,就是我們今天活動這個場所,我起了個名字——「淨空之友社」。這是教科文組織長年的做團結宗教、做宗教教育,我們擔任了這一門。這正是我們的願望,是聯合國他們章程上的主要活動。
去年の三月、パリのユネスコ(UNESCO、国連教育科学文化機関)の九人の大使をトゥウンバの視察と観光に招待しました。彼らは見ました。私たちが頻繁に交流し、討論していることに対して、宗教の団結を希望され、宗教が教育に回帰することを希望されました。トゥウンバを見た後、その自信が高まり、彼らは帰国して詳細な報告を行い、更に私のために事務室を設けて下さいました。それが今日活動しているこの場所です。私は「浄空之友社」と名付けました。これはユネスコが長期的に宗教の団結を行い、宗教教育を行うもので、私たちはこの部門を担当します。これは正に私たちの願いであり、国連憲章における主要な活動なのです。

  這個學社成立了,使用這個攝影棚做我們的活動工具、做我們的教室,我這今天是第二天。由於身體比去年差很多,古人所講的年歲不饒人,去年有感覺、不嚴重,今年比去年嚴重很多。
この学社は成立しました。この撮影室を私たちの活動手段として、私たちの教室として、私は今日で二日目になります。去年より身体が衰えたために――古人が言うところの「歳月は人を待たず」です――去年は厳しくないと感じていましたが、今年は去年よりもだいぶ厳しくなりました。

  我講經六十年,有同學,這有心人,幫助我做整理,蒐集六十年講經的這些教材、筆記,很完整的一些資料,我自己看到都感到驚訝。過去年輕,身體不錯,有體力、有精神,一天可以講四個小時。當年講《華嚴經》,沒有感覺得到累,音聲宏亮。有不少的一部分,留著有錄影帶,錄影、錄像,我們講錄像,現在依然可以用。我讓同學們在這個裡面,選擇我們大家需要聽的、想聽的經,我這裡有現成的,可以用衛星或者是網路來傳播,提供初學同學們做參考。這些資料,聽過的人很多,依教修行的人也很多,確實帶給我們信解行證。
私が講経(こうきょう:経を講じること。説法)を行った六十年。心ある学生たちが六十年講経してきたそれらの教材、筆記を整理して下さり、資料をすべて揃えました。私自身それを見て驚きました。昔は若くて、身体も健康で、体力があり、気力があり、一日に四時間講じることが出来ました。当時『華厳経』を講じていて、疲れを感じたことはありません。声も大きくてよく通りました。ある部分はビデオテープが残っていて、今でも使うことが出来ます。私はその中から皆さんが必要とするもの、聞きたいであろう経を選びました。ここにあるものは衛星テレビやインターネットを使って放送し、初学者の参考として提供することが出来ます。これらの資料は、聞いたことがある人はたくさんいます。教えに従って修行する人もたくさんいます。間違いなく(教義を信じること)、(教義を理解すること)、(教義を実践すること)、(証得すること)をもたらすものです。

  信是信心,對佛法生起信心;解,是對於經典明白了、理解了;行,是依教修行,經典裡面所說的,我們完全接受過來,變成我們自己的思想、言行,甚至於對我們日常生活、我們從事的這些行業都有很大的幫助。所以,證明佛教是教育,我們將來把這個擴大,所有的宗教都是教育。
信とは信心です。仏法に対する信心を起こすことです。解とは経典を明らかにすること、理解することです。行とは教えに従って修行すること。経典の中に説かれていることを、完全に受け入れて、私たち自身の思想、言行に変えることです。そのうえ日常生活、私たちが従事する業種に対する大きな助けとなるのです。ですから仏教は教育であると証明することができます。私たちは将来「あらゆる宗教は教育である」ことを推し広めていきます。

  教什麼?教倫理、教道德、教因果、教聖賢的智慧。這四門在今天教育疏忽了,學校教育,甚至於宗教教育,都很少講這四門功課,這四門功課非常重要,我們把它找回來。我們來做,希望由我們來牽頭;終極的目標,希望所有的宗教我們集合成一體,我們確實認知,所有宗教的神聖都是一個真神的化身。換句話說,所有宗教的神聖是一個真神,「眾神一體,宗教一家」。宗教可以復興,西方的社會可以恢復秩序,社會安定和諧;東方恢復儒釋道的教學,中國傳統的教育。
何を教えるのでしょうか?倫理、道徳、因果、聖賢の智慧を教えます。この四つは今日の教育では疎かになっています。学校教育、そして宗教教育においてもこの四つの課目はあまり講じられていません。この四つの課目は非常に重要です。それを取り戻さなければなりません。私たちが行います。私たちが先頭に立って行います。最終的な目標は、あらゆる宗教が集まって一体となることです。私たちは確かに認識しています。あらゆる宗教の神聖(な聖者)は一つの神の化身であること。言い換えれば、あらゆる宗教の神聖(な聖者)は一つの神なのです。「人々と神とは一体であり、宗教は家族である」。宗教は復興出来ます。西洋の社会は秩序を回復し、社会を安定させ、調和させることが出来ます。東洋は儒教、仏教、道教の教学、中国伝統の教育を回復させます。

  在今天,無論是中國、外國,我們細心去觀察,具足倫理、道德、因果,中國有。其他的有沒有?有,我們在各個宗教經典裡面看到,不是沒有;沒有人講、沒有人提倡、沒有人落實,所以沒辦法傳出來。我們今天明白了、認識了,從「神愛世人」這裡做起。我們要把所有宗教經典裡面,所講的「神愛世人」、所講的「眾神一體」、所說的「宗教一家」,從我們身上做出來給大家看。用這個方法恢復西方的宗教教育、恢復中國傳統的教育,來幫助社會、幫助地球化解衝突、促進安定和諧。這是我們淨空之友社要做的事業。
今日、中国であろうと外国であろうと、私たちは注意深く観察してみると、倫理、道徳、因果は中国にあるものです。その他にもあるでしょうか?あります。私たちは各宗教の経典の中に見ることができます。無いのではなくて、講じる人がいないのです。提唱する人がいないのです。実行する人がいないのです。そのため伝えることが出来ません。私たちは今日はっきりと認識しています。「神は世人を愛す」から実行し始めることです。私たちはあらゆる宗教の経典の中に説かれている「神は世人を愛す」、「人々と神とは一体である」、「宗教は家族である」を、私たち自身から行って人々に見せなければなりません。この方法を用いて西洋の宗教教育を回復させ、中国伝統の教育を回復させ、社会を助け、地球の衝突を解消させ、安定と調和を促進する助けとするのです。これが私たち浄空之友社がやるべき事業です。

  今天時間到了,我們就講到此地。祝福大家,身心健康,法喜充滿!
今日は時間になりましたので、学習はここまでとします。皆さまのご健康、並びに法喜充満(ほうきじゅうまん:法の喜びに満ち溢れること)を祝福致します!

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『神は世人を愛す』を学ぶ 02

2018-09-02 | 『神は世人を愛す』を学ぶ

Learning of God Loves All Beings 02

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第二集)
2018/8/25 英國倫敦Excel展覽中心 檔名:21-786-0002

  諸位同學、諸位朋友,今天我們開闢這個單元——《神愛世人》。為什麼要開這個單元?便利於對宗教諮詢的同學們。這些年來,我們做宗教團結的工作,有一點成就,現在大家都知道,宗教團結是有必要的,因為它能夠幫助我們化解衝突、化解對立、促進社會安定和諧。
学生の皆さま、友人の皆さま、今日私たちは『神は世人を愛す』という単元を始めます。なぜこの単元を開かなければならないのでしょうか?宗教の質問をする学生の皆さまのためです。ここ数年来、私たちは宗教を団結させる仕事をしており、少しばかり成就しました。今では皆が、宗教の団結が必要であることを知っています。なぜならそれは衝突を解消し、対立を解消し、社会の安定と調和を促進する助けとなるからです。

  我是從二十六歲,遇到方東美先生,我跟他學哲學。最後一個單元,他給我講佛經哲學,我感到很詫異,我說佛是宗教,它怎麼會有哲學?老師告訴我:你還年輕(那年我二十六歲),你不知道,釋迦牟尼是世界上最偉大的哲學家,大乘經典是全世界哲學的最高峰。確實我沒聽說過,第一次聽方先生講。
私は二十六歳から、方東美先生と出会い哲学を学びました。最後の単元は、方先生は仏経哲学を講じて下さいました。私はいぶかしく思いました。私は「仏教は宗教です。それにどうして哲学があるのでしょうか」と言いました。先生は「君はまだ若いから知らないのです。釈迦牟尼仏は世界で最も偉大な哲学者であり、大乗仏典は全世界の哲学の最高峰です」と私に言いました。私は(そのような話は)聞いたことがありませんでした。方先生から初めて聞いたのです。

  我接受他的教誨,在最後,總結我們的課程,他提出來,佛教是哲學,學佛是人生最高的享受。這句話很動聽,對我們年輕人來說是很契機,我們聽了很喜歡。真的學佛能帶給我們一生幸福快樂嗎?人生最高的享受?我今年九十二歲,通過六十年的學習,證明老師的話是真的,我佩服到五體投地。
私は方先生の教誨(きょうかい:教え諭すこと)を受け入れました。最後に、課程の総括をする段になると、方先生は提起されました。「仏教は哲学である」「仏に学ぶことは人生最高の享受である」。この言葉は人を引きつけました。私たち若者にとっては契機となり、私たちはそれを聞いて喜びました。本当に仏に学ぶことは私たちに一生幸福と喜びをもたらすのでしょうか?人生最高の享受なのでしょうか?私は今年で九十二歳になります。六十年の学習を通じて、先生の話が本当だったことを証明しています。私は五体投地(ごたいとうち:仏教の最敬礼)するほど敬服しています。

  世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家。這是我跟方先生,他為我開了這門課,我非常感謝他!這堂課時間並不很長,才三、四個月,我重新認識宗教,肯定世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家。方老師教我這些,我通過六十年的學習,肯定他的話是正確的。
世界のあらゆる宗教の創始者は、明心見性した社会教育者です。方先生は私のためにこの講義を開講して下さったのです。私は方先生にとても感謝しています!この講義は時間としてはさほど長くはなく、三、四ヶ月ほどです。私は宗教を再認識し、世界のあらゆる宗教の創始者は、明心見性した社会教育者であると認めました。方先生は私にこれらの事を教えました。私は六十年の学習を経て、先生の話は正しかったと思います。

  「明心見性」是佛教的術語,佛教修學最高的境界就是明心見性,明心見性就叫成佛。佛陀的教育它有四個層次:信、解、行、證。第一個是講信仰,你對它要有真誠的信心,才能夠得到利益。這個道理,在中國過去,不是宗教的,是教育裡面所要求的,中國古人非常重視教育。

「明心見性」とは仏教の術語(じゅつご:専門用語)です。仏教修学の最高の境界(きょうがい:境地のこと)とは明心見性です。明心見性のことを成仏(仏に成る)と言います。仏陀の教育には四つの段階があります。(教義を信じること)、(教義を理解すること)、(教義を実践すること)、(証得すること)。一つ目は信仰です。あなたはそれに対する真誠(しんせい:まこと)の信心がなければなりません。それでこそご利益を得ることが出来るのです。この道理は、中国では昔、宗教ではなく教育の中で要求されました。中国の古人は非常に教育を重視していました。


  兩千多年前,孔子可以說是開私人教學的,用現在的話說私人辦學,做得很成功。從此之後,歷代讀書人都重視教學。而讀書人,幾乎他們唯一的前途,將來怎麼生活,多半靠教學,私塾裡面的老師。教的學生不多,少的五、六個,多的二、三十個;二、三十個就很多了,通常十幾個學生,一個老師,私塾教學。教什麼?教倫理、教道德、教因果、教聖賢承傳下來的智慧,這是私塾教學的內容、教材。
二千年余り前、孔子は個人の教学をしました。今の言葉で言えば私塾を開いて成功したのです。それ以降、歴代の読書人は教学を重視しました。また読書人は、ほとんど彼らの唯一の前途、将来どのように生活するか、その大半は教学に頼っていました。私塾の先生です。教える学生は多くはありません。少なければ五、六人。多ければ二、三十人。二、三十人では多いほうです。通常では十数人の学生に一人の先生です。私塾の教学です。何を教えたのでしょうか?倫理、道徳、因果、聖賢が伝えた智慧を教えました。これが私塾教学の内容、教材です。

  一千多年前,我們的老祖宗,世世代代,從生活經驗體會當中,觀察小孩要受什麼教育─—童蒙教育——應該教些什麼。小孩從什麼時候開始教?一般是三歲,上私塾。古人編的這套教材,現在我們把它蒐集起來,總共有二十三種,把它印成一套,《聖學根之根》。根之根就是扎根教育,像一棵樹一樣,根深蒂固才能夠長成大樹,所以中國人重視扎根教育。
一千年余り前、私たちのご先祖様は、代々、生活経験の中から、子どもに何の教育を受けさせるか――童蒙教育(幼児教育のこと)――では何を教えるべきかを観察していました。古人が編纂したそれらの教材、私たちはそれを集めました。合わせて二十三種あり、それを一つにまとめたものが『聖学根之根』(という本)です。根本の根本とはつまりは根(基礎)を張る教育です。ちょうど樹木のように、根を深く張ってこそ大樹に育つことができるようなものです。ですから中国人は根を張る教育を重視していました。

  對小孩教育從什麼時候開始?更早的從胎教開始;也就是說,母親懷孕,懷孕這十個月之間,就要注意怎樣能養一個好兒女。母親的責任很重,這十個月期間,心沒有妄想、沒有雜念,因為妄想、雜念會影響嬰兒的智慧、德行,會影響。所以,凡是負面的言行、思想都不能有,要重視倫理道德,把這個影響傳給下一代。小孩出生之後,母親是第一任的老師,在嬰兒面前,言行舉止都要端莊,沒有邪思、沒有惡念。言行舉止都要合乎規矩,規矩是我們自己從小學的,現在要用來教下一代。所以中國古時候的教育,大概從三歲正式入學,就入私塾,由老師教了;從出生到三歲是母親教、父親教。
子どもの教育はいつから始めるのでしょうか?更に早く胎教から始めます。つまり母親が妊娠して、妊娠している十ヶ月間に、どのように良い子を育てるかに注意を払わなければなりません。母親の責任は重いです。この十ヶ月の期間、心に妄想をせず、雑念を持ちません。なぜなら妄想、雑念は胎児の智慧、徳行に影響するからです。ですからおよそ良くない言行(ごんぎょう:言葉と行為)、思想があってはなりません。倫理道徳を重視しなければなりません。これは次世代に影響します。子どもが生まれた後、母親は最初の先生になります。子どもの前では、言行、振る舞いを正さなければなりません。邪(よこしま)な思い、悪い念があってはなりません。言行、振る舞いは規律正しくなければなりません。規律は私たち自身が子供の頃から学んだことです。今それを次の世代に教えなければなりません。中国の昔の教育は、だいたい三歳から正式に入学します。私塾に入ります。先生が教えます。生まれてから三歳までは母親が教え、父親が教えます。

  童蒙養正的教科書,古人編寫的這個,在中國用了一千多年。最晚的,明清時候編的,也有七百多年。成功了,這教學成功了。小學學業完成了,向上提升,我們今天做為中學。中學學什麼?學四書五經,這個裡面講求的,修身、齊家、治國、平天下。儒家講得多,經驗非常豐富。所以聖賢教育!
幼児を正しく育てる教科書について、古人はこれを編纂しており、中国では一千年余り用いられました。最も遅いもので、明、清代の編纂され、それでも七百年以上です。成功しました。この教学は成功しました。小学校の学業が完成したら、上に上がります。私たちは今日中学としています。中学では何を学ぶのでしょうか?四書五経【注】を学びます。この中で求めるものは、修身(しゅうしん:自分の身を修めること)、斉家(せいか:家を整えること)、治国(ちこく:国を治めること)、平天下(へいてんか:天下太平の世を築くこと)です。儒家は多くを説いており、経験も非常に豊富です。ですから(教えるものは)聖賢の教育です!
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【注】 四書五経(ししょごきょう)・・・・儒教の基本書とされる書物。
 四書・・・・『大学』 『中庸』 『論語』 『孟子』
 五経・・・・『易経』 『詩経』 『書経』 『礼記』 『春秋』
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  養小孩,無論是男的是女的,都希望他長大成聖人、成賢人,是以這個為目標。跟現在不一樣,現在的教育重視知識,是為了將來自己生活。古時候不是這個,古時候聖賢教育是學聖人、學賢人;像學佛,希望自己能證得阿羅漢、菩薩,當然最高的是希望能成佛。確實如此。
子どもを育てるのに、男であろうと女であろうと、成長したら聖人、賢人になることを願いました。それを目標としました。今とは違います。今の教育は知識を重視して、将来の自分の生活のために学んでいます。昔はそうではありません。昔の聖賢の教育は聖人に学び、賢人に学ぶのです。仏に学ぶように、自分が阿羅漢、菩薩の境地を証得したいと願いました。当然最も高いものは仏に成ることです。間違いなくこのようでした。

  所以可以說,世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家,跟現在教學的目的不一樣。東方有儒釋道,西方宗教教育,宗教教育裡面,我們看西方宗教的經典,也都是至善圓滿的教育。我們能夠肯定,東西方教育,西方教育是宗教,宗教教育裡面補足了東方的倫理、道德、因果、智慧。都是一個時代偉大的社會教育家。
世界のあらゆる宗教の創始者は、すべて明心見性した社会教育者だったと言えます。今の教学の目的とは違います。東方には儒教・仏教・道教があり、西洋は宗教教育です。宗教教育の中には、西洋の宗教の経典を見ますと、この上なく円満な教育があります。私たちは東西の教育を肯定することが出来ます。西洋の教育は宗教であり、宗教教育の中に東方の倫理、道徳、因果、智慧の教育を補足するのです。すべて一つの時代の偉大な社会教育者です。

  湯恩比說過一句話,說得好,他說:宗教教育確實是人類不能缺少的根本教育。我們學習宗教六十年了,我覺得湯恩比這句話說得非常好,是他一生研究人類文明歷史的心得總結。他也說過,當人們失去對於既有宗教的信仰時,那就是文明走向崩潰。
トインビー【注】はある言葉を述べています。よく言ったものです。彼は「宗教教育は間違いなく人類が欠かすことのできない根本教育である」と言いました。私たちは宗教を六十年学習しました。私はトインビーのその言葉は素晴らしいと思います。これは彼が一生涯人類の文明と歴史を研究して得られた総括です。彼はまた「人々が宗教の信仰を失った時、それは正に文明が崩壊に向かっているのである」と言っています。
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【注】 アーノルド・ジョセフ・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)(1889-1975)・・・・英国の歴史家・文明批評家。歴史の基礎を文明におき、文明の消長の一般法則を体系づけ、独自の歴史観を展開した。著書に『歴史の研究』、『試練に立つ文明』などがある。トインビー氏は「21世紀の人類社会を救うのは、中国の儒教思想と大乗仏教しかない」との見解を示している。
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  今天我們有憂慮。二O一五年,我跟威爾士大學校長見了面,我談到我有憂慮。他問我什麼憂慮?我擔心東方的漢學會失傳,東方是儒釋道,就是中國傳統文化。為什麼?現在沒人學了。老一代,我年輕的時候,還能找到二、三十個人,對中國國學有根柢的人,一些老教授;現在這些人都走了,剩下恐怕十個都不到。再過十年,他們全都走了,你要想學,沒人教你了,這太可怕了!世界、社會為什麼這麼混亂?與教育的關係太大了!東方人修的,確實學做人,怎麼樣做一個好人,怎麼樣做一個真正對於社會、對人類有貢獻的好人,我們學這個,現在沒有人學了。我這個顧慮,校長有同感,我們談了很長的時間,談了三個多小時。
今日私たちは憂慮しています。二〇一五年、私はウェールズ大学の校長とお会いした時、私には憂慮していることがあると話しました。彼は私が何を憂慮しているのかと聞きました。私は東方の漢学の伝承が絶えることを心配しています。東方は儒教・仏教・道教、つまり中国の伝統文化です。なぜでしょうか?今では学ぶ人がいないからです。一つ上の世代、私が若い頃には、まだ二、三十人はいました。中国の国学に対する造詣が深い人、老教授たちです。今これらの人はこの世を去りました。残っているのは十人にも満たないかもしれません。更に十年も経てば、彼らは全員世を去ります。あなたが学びたくても、教える人がいなくなります。これは恐ろしいことです!世界、社会はなぜこれほど混乱しているのか?これは教育と大いに関係があります!東方の人が修めるのは、間違いなく人としての身の処し方です。如何にして良い人になるか。如何にして真に社会に対し、人類に対して貢献できる良い人になるか。私たちはこれを学ぶのです。今では学ぶ人がいません。私はこのような心配があります。校長も同感されていました。私たちは長い時間話しました。三時間余り話しました。

  我回到香港,過了一個月,校長帶了他們學校的兩位教授到香港來看我,我們就談這個問題。他很積極,提出一個方案,我們共同來辦一個漢學院,這就是今天的英國的漢學院。現在是第二個學期,第二個學期結束之後,下面就第三個學期。我們招收一批年輕人,給他獎學金,勸他來讀書,我們希望他們這批人,能夠繼承中國儒釋道的聖賢教育,不能讓它斷掉。
私は香港に帰りました。一ヶ月が過ぎると、校長は彼らの学校の二人の教授と共に香港にやってきました。私たちはこの問題を語り合いました。彼はとても積極的で、ある提案を出されました。共同で漢学院を作ることです。これが今日のイギリスの漢学院です。現在第二学期です。第二学期が終わった後、次は第三学期です。私たちは若者を募集しました。奨学金を出して、学習することを勧めたのです。私たちは彼らが中国の儒教・仏教・道教の聖賢教育を継承して絶やさないことを願っています。

  他們也想到宗教,校長想到宗教,提出了一個方案,辦一個宗教傳教師的博士班。招收二十五個學生,三年畢業,宗教傳教師。把宗教傳教師的學位提升,現在拿到博士學位的人不多,希望將來每個傳教師都有宗教博士學位。好事情!我贊成。這個也開班了,非常難得。
彼らは宗教にも思い至りました。校長は宗教に思い至り、一つの提案をしました。宗教の伝教師の博士コースを作ることです。二十五人の学生を募集して、三年で卒業です。宗教の伝教師です。宗教の伝教師の学位を引き上げます。現在博士号を取得する人は多くありません。将来どの伝教師も宗教の博士号を持っているようにします。良い事です!私は賛成しました。これもまた開講しました。非常に得難いことです。

  只要有後繼,繼承傳人,我們心就安了。希望世世代代,把宗教教育,宗教一定要回歸教育,把東方的中國傳統文化復興起來。為什麼?衝突可以化解。人學過聖賢、讀過聖賢書,決定在一生不會跟任何人發生衝突,別人惡意的對我,我以善意回報。絕大多數的人都被感化了,惡人變成善人,壞人變成好人。
後継がいさえすれば、継承者に伝えさえすれば、私たちは安心です。代々宗教教育を――宗教は必ず教育に回帰しなければなりません――東方の中国伝統文化を復興させることを願っています。なぜでしょうか?衝突が解消されるからです。人は聖賢に学んだことがあり、聖賢の書を読んだことがあれば、必ずや一生で如何なる人とも衝突せず、人が悪意を持って接してきても、自分は善意で報いるものです。大多数の人は感化され、悪人は善人に変わり、悪党は良い人に変わるのです。

  宗教師。中國教小朋友的,私塾,這童蒙老師,三家村的私塾老師,他們講求信解行證,相信聖賢教育,對自己有大利益。用它來修身、用它來齊家,家庭幸福;用它來創業,你的事業有著正面的發展,好啊!如果再提升,我們用現在的話說大家容易懂,小學小私塾課程畢業之後,提升,中學,跟小學相彷彿,學四書五經。這個裡面有很多講的是治國、平天下的這些學問、知識,學了以後,可以貢獻給社會、貢獻給國家。你懂得治國,現在的社會,你是很好的議員;你懂得平天下,你是很好的領導。難得!
宗教の先生。中国で子どもを教える人、私塾の幼児を教える先生、田舎の私塾の先生。彼らは(教義を信じること)、(教義を理解すること)、(教義を実践すること)、(証得すること)を求めます。聖賢の教育を信じることは、自分にとって大きなご利益があります。それを用いて身を修め、それを用いて家を整え、家庭を幸せにします。それを用いて仕事をすれば、あなたの事業はまっすぐに発展します。良い事です!今の言葉で言えば皆さん理解しやすいでしょう。私塾の小学の課程を卒業した後、上に上がり、中学では小学と同じように四書五経を学びます。この中には国を治めること、天下を平らかにするといった学問、知識がたくさんあります。学んだあとで、社会に貢献し、国家に貢献することができます。あなたが国を治めること、今の社会を治めることを理解していれば、あなたは良い議員です。あなたは天下を平らかにすることを知っています。あなたは良いリーダーです。得難いことです!

  所以宗教是什麼,我們現在搞清楚了,宗教是教育。教什麼?所有宗教經典裡面,我們去讀它,哪一個字出現得最多?愛。所以我肯定,宗教教育是愛的教育。我們向上帝學習,學習祂的大愛;學習了之後,代表上帝,愛世人,愛地球上所有的生物;這是上帝的子女、上帝的學生。所以宗教要回歸教育,宗教要辦學,像現在辦這個大學,好啊!學什麼?學這些課程,學會愛世人、學會化解衝突。
宗教とは何か。今明らかになりました。宗教は教育です。何を教えるのでしょうか?あらゆる宗教経典の中に、私たちはそれを読んでみて、どの字が最も多いでしょうか?愛です。ですから私は宗教教育は愛の教育であると認めています。私たちは神に学び、神の大いなる愛に学ぶのです。学んだ後は、神を代表して世人を愛し、地球上のすべての生物を愛すのです。これが神の子、神の学生です。ですから宗教は教育に回帰しなければなりません。宗教は学校を創立しなければなりません。ちょうど今この大学のように。良い事です!何を学ぶのかと言えば、世人を愛すること、衝突を解消するといった課程を学ぶのです。

  今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりましたので、学習はここまでとします。

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『神は世人を愛す』を学ぶ 01

2018-09-01 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 01
學習《神愛世人》 / 『神は世人を愛す』を学ぶ(第一集)
2018/8/24 英國倫敦Excel展覽中心 檔名:21-786-0001

  諸位法師、諸位同學,大家好。今天是我在聯合國教科文組織淨空之友社第一次講演,我們首先簡單的做一個介紹。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日はユネスコ浄空之友社における最初の講演になりますので、まず簡単にご紹介致します。

  去年三月,我們邀請聯合國的大使到澳洲去參觀,參觀圖文巴的宗教團結、族群團結,大家看了很歡喜。在過去,我們曾經做好幾次的報告,雖然說得很詳細,但是沒有人相信;直到大使們歸來,向大會做出報告,這才肯定宗教團結、族群團結的一線希望。很難得,他們做了一樁好事,在報告裡面建議大會給我們一個辦公室。我們接受了,正式進入聯合國。這半年以來,承蒙大家的努力,同學們護持,淨空之友社成立了,附設這個攝影棚也啟用了。
去年の三月、私たちは国連の大使をオーストラリアの見学に招待しました。トゥウンバ(Toowoomba)の宗教の団結、民族の団結を見学して頂きますと、皆それを見て喜ばれました。以前、私たちはかつて何度も報告したことがあるのですが、たとえ詳細に説明したとしても信じる人はいませんでした。大使たちが帰国され、会議で報告されると、そこでようやく宗教の団結を肯定し、民族の団結に一筋の希望を持たれました。得難いことです。彼らは良い事をしました。報告の中で私たちに事務所を与えるよう提起して下さったのです。私たちはそれを受け入れて、正式に国連に入りました。この半年以来、皆さまのご努力を被り、学生たちの護持をもちまして、浄空之友社が成立しました。付設されたこの撮影室も運用が始まりました。

  今天第一堂課,我們宗教進入聯合國,這是好事,聯合國對全世界宗教,肯定宗教是教育不是迷信。有不少朋友問我,宗教是教育嗎?感到奇怪。我說你看看,世界上每個宗教的教主、創始人,都跟釋迦牟尼佛一樣講經教學。釋迦牟尼佛三十歲為我們示現開悟了,開悟之後,對於宇宙人生徹底明白了,到鹿野苑把五個同伴找回來,跟他們做報告。釋迦牟尼佛講經教學就從這裡開始,傳到今年三千年了。我們再細細的觀察,比佛教晚一點的,有不少宗教在過去一千年前,陸陸續續傳播開來。現在傳教有成就的有十幾個宗教,我們所熟知的。但是一定要有正確的認識,中國傳統的文字,這個名詞,宗教這個名詞是什麼意思。
今日は最初の講義です。私たち宗教が国連に入ったことは良い事です。国連は全世界の宗教に対して、宗教は教育であり、迷信ではないことを肯定したのです。少なくない友人が私に「宗教は教育なのですか」と聞きました。私は変だと思います。世界のどの宗教の創始者も、釈迦牟尼仏と同じように講経(こうきょう:経を説くこと)教学をしていたのです。釈迦牟尼仏は三十歳で悟りを示現されました。悟りを開いた後、宇宙・人生を徹底して明らかにし、鹿野宛で五人の同行者を探し、彼らに説かれました。釈迦牟尼仏の講経・教学はそこから始まります。今年まで伝わり三千年です。もう少し詳細に観察してみますと、仏教よりも少し後のもの、多くの宗教が過去一千年に次々と伝わりました。現在伝教の成就した十数種類の宗教は、私たちがよく知っているものです。しかし正しい認識が必要です。中国伝統の文字において、この宗教という名詞はどのような意味なのでしょうか。

  中國的漢字,也是世界上獨一無二的、優秀的傳統文化,它不是從事拼音,它所說的每個字的含義很深。從這兩個字,我們把它拆開來看,宗跟教這兩個字,宗有三個意思:第一個「主要的」,第二「重要的」,第三個「尊崇的」;教也有三個意思:教育、教學、教化;宗教完全具備了這些含義。所以宗教兩個字連起來,那就是:人類主要的教育,人類重要的教學,人類尊崇的教化。真的嗎?你不相信,你仔細去看看。
中国の漢字もまた世界で唯一無二のものであり、優秀な伝統文化です。それは表音式表記ではなく、どの字にも深い意味が含まれているのです。この(宗教の)二字を分解してみると、「宗」と「教」の二字、まず宗には三つの意味があります。一つ目は「主要な」、二つ目は「重要な」、三つ目は「尊崇な」です。教にも三つの意味があります。教育、教学、教化です。宗教にはこれらの意味が備わっています。ですから宗教の二字を繋げてみると、それは人類の主要な教育、人類の重要な教学、人類の尊崇な教化となります。本当でしょうか?信じないのであれば、注意深く見てみて下さい。

  佛教在中國流傳二千五百年了,確確實實,在中國傳統文化,佛教佔有一席之地。中國保存的典籍最豐富,稱之為《大藏經》,在中國傳統文化它佔有相當的分量。歷代這些祖師大德,跟釋迦牟尼佛沒有兩樣,終身從事於佛陀教育這個工作。每一個朝代,外國人講世紀,現在二十一世紀,每一個世紀都有傑出的大師,出家、在家的,在家稱居士,這大師級的人才可以給我們做證明。
仏教は中国に伝わって二千五百年になります。間違いなく中国の伝統文化において、仏教は一定の領域を占めています。中国が保存している典籍は最も豊富で、『大蔵経』と呼ばれています。中国の伝統文化においてそれは相当の分量を占めています。歴代の祖師大徳は、釈迦牟尼仏と何も変わりません。一生涯仏陀教育の仕事に従事されていたのです。どの王朝時代にも、――外国人は世紀と言いますが、今は二十一世紀です――どの世紀にも傑出した大師がいました。出家、在家、在家は居士と言います。この大師クラスの人物であってこそ私たちに証明して見せることができるのです。

  在今天,我們要問,既然宗教是教育,宗教教的是什麼?課程教的是什麼?所有宗教經典裡面,諸位都能看到,它有倫理教育、它有道德教育、它有因果教育、它有智慧的教育。開悟了,大徹大悟,就是自性、真心圓滿智慧起作用、出現了,在佛法裡面稱之為證果。
今日、私たちは問いかけます。宗教は教育だといっても、宗教が教えているのは何でしょうか?その課程で教えているのは何でしょうか?あらゆる宗教の経典の中に、皆さんは見ることが出来ます。それには倫理教育があり、道徳教育があり、因果教育があり、智慧の教育があるのです。悟りを開き、大徹大悟すれば、自性【注】、真心の円満な智慧が作用し、現れます。仏法の中では証果(しょうか)と言います。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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  這二千五百年,佛教傳到中國兩千年,東漢時候傳過來的,距離孔子、孟子很近,所以它也變成中國不能缺少的傳統文化。談到中國傳統文化,儒釋道代表了。中國儒釋道都講倫理、都講道德、都講因果、都講聖學;這些聖賢們,他們開悟之後也講經教學,留下來不少的資料。
この二千五百年、仏教が中国に伝わって二千年、東漢時代に伝わったもので、孔子や孟子の時代に近いです。それは中国の欠かすことのできない伝統文化に変わりました。中国の伝統文化に言及するなら、儒教・仏教・道教がその代表です。中国の儒教・仏教・道教はすべて倫理を説き、道徳を説き、因果を説き、聖学を説きます。これらの聖賢たちも、悟りを開いた後で講経・教学をしており、少なからずの資料を残されています。

  唐朝開國,太宗李世民找了五個漢學家,為他編了一部書,《群書治要》。這部書是什麼?是中國傳統文化的精華,唐太宗就靠這部書修身,就靠這部書齊家,再靠這部書治國、平天下。大唐三百年等於說實驗,中國傳統文化做了一次實驗,真管用。那個時候管用,現在還管用,用《群書治要》來治國,我相信一定有非常好的政績可觀,可以給政治領導人做一個好榜樣。
唐王朝が開国し、太宗李世民は五人の漢学者を集めて、彼のために『群書治要』を編纂させました。この書物は何でしょうか?これは中国伝統文化の精華(せいか:真髄)です、唐の太宗はこの書物を頼りに身を修め、大家族を整え、国を治め、天下を平らかにしたのです。大唐三百年は実験のようなものと言えます。中国の伝統文化を実験して、本当に役に立ちました。その頃に役に立ち、今でもまだ役に立ちます。『群書治要』を用いて国を治めれば、必ずや素晴らしい政治上の業績をあげることができると私は信じています。政治指導者に良い見本を示すことができるでしょう。

  佛的文化根深,在中國,歷代帝王沒有不尊崇佛陀教誨,這在歷史上看到了;一直到今天,古時候的寺廟還都存在,可以做見證。那麼他教什麼?剛才說過了,他教倫理、教道德、教因果、教他們所修學所得到的智慧。不但當代受用,流傳給後世。
仏の文化は深く根を下ろし、中国では歴代の帝王で仏陀の教誨(きょうかい:教えいましめること)を敬わない人はいません。これは歴史に見られます。今日に至るまで、古い寺院はまだ存在していることから、証明することができます。ではそれは何を教えたのでしょうか?先ほど言った通り、倫理、道徳、因果を教えて、彼らが修学して得たところの智慧を教えました。その時代に役に立ったばかりでなく、後世に伝わりました。

  今天這部書,有十幾種不同的文字翻譯本,我們相信,每個國家領導人如果都讀這部書,不但能強國,能用真實智慧、歷史經驗,來化解現在世界上許許多多的對立、戰爭帶來的災難。這部書可以治國、可以平天下,平天下就是天下太平,也就是我們希望追求的,希望這個地球能走向安定和諧、共存共榮。這部書真有功德!宗教的教育跟這部書相輔相成,現在我們都找到了,大量的翻印、流通,我們來提倡、介紹給世人。
今日この書物は、十数種類の異なる文字の翻訳本があります。どの国の指導者も、この書物を読めば、国を強くできるばかりか、真実の智慧、歴史の経験を用いて、今の世界の様々な対立、戦争がもたらした災難を解消することが出来ると私たちは信じています。この書物は国を治め、天下を平らかにすることができます。平天下とは天下太平のことであり、私たちが追求するものです。この地球が安定と調和、共存共栄に向かうことを願っています。この書物は本当に功徳があります!宗教の教育とこの書物は相互に補完するものです。私たちはそれを見つけ、大量に印刷し、流通させて、世の人に紹介しています。

  首先我們要身心健康。這將近兩個月了,沒講經,我感覺得對同修們應該要道歉。這兩個月在做什麼?在調養身體,調養有一點效果。中國古人所謂的歲月不饒人,這句話是真話,不是假話。九十二歲了,身體老化,視力不如過去,過去看書不需要眼鏡,現在看書離不開眼鏡;耳朵要戴上助聽器;寫字,真的體驗到了古人所謂的提筆忘字。不但我有,我還有兩個老同學,徐醒民教授、江逸子教授,我們三個碰到頭,深深都感到,老了!精神、體力不如過去,跟過去一年、二年相比,都有很大的差距。所以我是把講經停了下來,把身體調整一下;還算不錯,有一點效果。
まず私たちは心身ともに健康でなければなりません。この二ヶ月近く講経をしていません。私は学生の皆さまにお詫びしなければなりません。この二ヶ月は何をしていたのでしょうか?身体を養生していました。養生して少し効果が出ています。中国の古人が言うところの「歳月は人を待たず」というのは本当です。嘘ではありません。(数え年で)九十二歳になりました。身体は老化して、視力も昔のようではありません。昔は書物を見るのに眼鏡は要りませんでした。今では書物を見るのに眼鏡は手放せません。耳には補聴器をつけています。字を書くことでは、本当に古人が言うところの「筆を執りて字を忘る」を体験しました。私だけではありません。私には古い学友がいます。徐醒民教授、江逸子教授と三人でお会いして、年をとったものだと深く感じたものです。気力、体力とも昔には及びません。一年、二年前と比べても、大きな違いがあります。ですから私は講経を中止して、身体を養生していました。悪くはありません。少しばかり効果がありました。

  沒想到聯合國給我們的任務,是要我們幫助這個地球化解衝突、化解對立,希望宗教能團結、族群能團結。大家把心量拓開,能包容別人,包容不同的宗教、不同的族群,我們是一家人。因此這兩個多月,我看了一些不同宗教的經典。
国連が私たちに与えた任務は思いがけないものでした。私たちにこの地球の衝突、対立を解消して、宗教を団結させ、民族を団結させて欲しいというものです。皆が心を開いて、他人を包容し、異なる宗教、異なる民族を包容できれば、私たちは一つの家族になります。このことからこの二ヶ月余り、私は別の宗教の経典を見ています。

  《宗教36O》將宗教主要、主修的這些經典找出來了,宗教核心的思想,也就是我們學習的中心,我們把它抓到。中心是什麼?就是一個字,「愛」字。所有的宗教經典裡頭,沒有不講博愛、仁愛、謙愛。所以一句話全包了,「神愛世人」,這是宗教教育的中心思想。
『宗教360』(という本)は宗教の主要な、専攻すべき経典(の内容)を探しました。宗教の核心となる思想、つまり学習の中心を把握します。中心とは何でしょうか?それは「愛」の一字です。あらゆる宗教経典の中に、博愛、仁愛、謙愛(けんあい:謙虚と慈愛)を説かないものはありません。ですからひと言ですべてを含む「神は世人を愛す」、これが宗教教育の中心思想です。

  我們要把自己的愛,自己的愛跟上帝的愛完全相同,沒有絲毫分別,把它找回來,放在自己的心上。把自己的妄心、雜念拋棄掉,真心、愛心放在心上,代表上帝、代表神、代表佛菩薩、代表真主去愛世人,這就是宗教教育。它的課程就是四門,這四門我們要認真的修學,倫理的教育、道德的教育、因果的教育、聖賢智慧的教育,這是它教學的四科、它教學的內容。倫理丟掉了,不能不找回來,要想社會安定、世界和平,必須把它找回來。
私たちは自分の愛、――自分の愛は神の愛と完全に同じであり、少しの違いもありません――それを取り戻し、心の中に留めなければなりません。自分の妄心、雑念を捨て去り、真心、愛を心に留めて、神を代表し、仏菩薩(ほとけぼさつ)を代表し、主を代表して世人を愛すること。これこそが宗教教育です。その課程は四科目あります。この四科目は真摯に修学しなければなりません。倫理教育、道徳教育、因果教育、聖賢の智慧の教育です。これが教学の四科目、教学の内容です。倫理が失われたなら、取り戻さない訳にはいきません。社会の安定、世界平和を思うなら、必ずそれを取り戻さなければなりません。

  中國古聖先賢對於教育非常重視,教的內容也就是這四樣。所以佛陀教育傳到中國來,中國人立刻能夠接受,為什麼?跟中國古聖先賢所說的非常接近,無二無別。現在這個時代,科學技術發達,這四種教育都沒有了。科學這裡面還接近智慧,但是因果、道德、倫理沒有了。所以今天,富貴,富而不樂;貴,地位雖然很高,社會大眾沒有看在眼裡。所以變成什麼第一?金錢第一。社會怎麼會不亂?
中国の古(いにしえ)の聖賢は教育を非常に重視しており、教える内容はこの四つでした。ですから仏陀教育が中国に伝わると、中国人はすぐに受け入れました。なぜでしょうか?中国の古の聖賢が説くところと非常に近く、違いがないからです。今この時代は、科学技術が発達し、この四つの教育は無くなりました。科学は智慧に近づきましたが、因果、道徳、倫理はありません。ですから今日では富貴といっても「富みて楽しまず」(裕福になっても気持ちが満たされない)であり、地位がどれほど高くても社会の大衆は目もくれません。何が第一に変わったのでしょうか?金銭が第一です。社会が乱れないことがあるでしょうか?

  所以我們想不辜負聯合國對我們的一番情義,對整個世界的宗教這番情義,給我們設立了辦公室,我們非常感謝。我們要把神聖的宗教教育找回來,認真學習;先學習自己的宗教,然後再學其他的宗教,求同存異。終極的目標,希望世界永遠不再有衝突、不再有對立、不再有誤會,希望這個地球上真正的仁愛、和平能夠實現。
私たちは国連の私たちに対する信義、世界の宗教に対する信義に背きません。私たちのために事務所を設立して下さったことを、非常に感謝しております。私たちは神聖な宗教教育を取り戻し、真摯に学ばなければなりません。まず自分の宗教を学び、その後でその他の宗教を学び、共通点を見い出して異なる点は保留する(求同存異)ことです。最終的な目標は、世界に永遠に衝突がなくなり、対立がなくなり、誤解がなくなること。この地球上に真の仁愛、和平が実現することです。

  所以我們第一堂課跟大家說的,認識宗教的真義。今天時間到了,我們就學習到此地,謝謝大家。
第一講で皆さまにお話ししたのは、宗教を知ることの真義についてです。今日は時間になりましたので、学習はここまでとします。ありがとうございました。
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