仏法の教学、教学の宗旨、または教学の目標とは、経書によく説かれている「阿耨多羅三藐三菩提」です。これはインドのサンスクリット語の音訳です。翻訳できないのではありません。翻訳することはできます。翻訳できるのに、なぜ翻訳しないのでしょうか?昔の翻経(ほんぎょう:仏典を翻訳すること)は、文章の形式として訳さないものが五種類ありました。これは「尊重して訳さない」ものに属します。これは世尊の教学の目的・目標を尊重してサンスクリット語の音を残したのです。その意味は何でしょうか?意味は「無上正等正覚」です。ですから訳すことはできます。無上正等正覚、この言葉は仏法教学の三つの段階です。第一段階は正覚、第二段階は正等正覚、最も高い最後の段階は無上正等正覚です。「覚」とは覚悟(悟り)であり、宇宙・人生のことを真に悟ることです。宇宙とは何でしょうか?宇宙は私たちの生活環境です。人生とは何でしょうか?人生とは正に私たち自身です。あなたは仏が何を教えたのかをようやく知ることになります。仏は教えたのは私たちに自分を認識させることであり、自分の生活環境の真相を認識させることなのです。皆さん考えてみて下さい。私たちにとってこれ以上に親切な教育があるでしょうか?ありません。言い換えれば、あなたがあなた自身とあなた自身の生活環境の真相を明らかに認識すれば、もう迷うことはなくなり、あなたは学位を得るのです。
一つ目の学位は正覚の学位です。この「正」は、邪がなく、誤りがありません。その人は正覚です。学位の名称は何でしょう?阿羅漢と言います。阿羅漢は正覚の学位の名称です。今ではその人を神明と見なしますが、それは無実というものです。そのようなことがあるでしょうか!阿羅漢は学位の名称です。仏は世間にも聡明な智慧を持つ人が少なくないと話されています。その人にも悟りがありますが、正しい悟りではありません、仏門は「正」という字の看板を掲げています。この「正」という字の看板は容易に得られるものではありません。この「正」は何をもって基準とするのでしょうか?煩悩を断つことを基準とします。この世間でどれほど学位があろうと、どれほど智慧があろうと、あなたに是我(善し悪し・自分や他人といった分別心(分け隔てのある心))があり、貪瞋痴慢(とんじんちまん:貪り・怒り・無知・傲慢)があるなら、その悟りは正覚ではありません。仏はこれを基準としています。今の言葉を用いて言うなら、徳があり学があるということです。学とは智慧であり、徳は徳行です。あなたが真に煩悩を断ち、心が清浄(しょうじょう:清らかであること)であれば、その智慧は本物です。もしあなたが煩悩を断っておらず、是我があり、貪瞋痴慢があり、心の働きが自分の為であれば、智慧があるとしてもその智慧の中には染汚(ぜんま)があり、智慧の中に障碍があります。障碍の無い智慧ではありません。ですから正覚と言うことはできません。
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為了讓同修們印象深刻起見,不能不多說幾句話。我們剛才是從稱呼上來講,我們跟佛是師生關係,諸位要曉得,菩薩就是學生。在大乘佛法裡面,菩薩一共有五十一個等級,就好像念書一樣。在我們中國通常分小學、中學、大學,分得很清楚。但是在美國的學制,它就不是這樣。美國,譬如說,一年級到六年級是小學;中學,不叫初中一年級,叫七年級,七年級、八年級、九年級是初中,十年級、十一年級、十二年級是高中,他們是這麼算法。用這個方法來算,我們佛教裡面是有五十二年級。佛法裡面也分五個階段,就好比小學、中學、大學、研究所。在佛法裡面分十信、十住、十行、十迴向、十地,這就好比我們分小學、中學、大學這個意思。每一個階段裡面有十個年級,叫初信、二信、三信、四信,一直到十信。這是五十個階段,就是五十個位次,五十年級。五十年級再上去,那才真的叫研究所,我們稱為等覺,等覺是五十一年級。等覺往上去,那就圓滿了,就成佛,你就拿到最高的學位。諸位要曉得,佛門裡面有修學的課程,有學位,你把哪一個階段的課程學完,你拿到一個學位。
学生の皆さんに深く印象付けるために、多くは言いません。先ほどの呼び方の事で言えば、私たちと仏とは師弟関係です。皆さんよく理解しなければなりません。菩薩とは学生なのです。大乗仏法の中で、菩薩は全部で五十一の等級があります。学校と同じようなものです。中国では通常、小学、中学、大学とはっきり分かれています。しかしアメリカの学制はそうではありません。アメリカでは、例えば一年生から六年生までは小学です。中学では、中学一年生とは言いません。七年生、八年生、九年生が中学です。十年生、十一年生、十二年生が高校です。彼らはこのように数えます。この方法で数えるなら、仏教の中では五十二年生まであるのです。仏法の中では五つの段階に分かれます。ちょうど小学、中学、大学、研究所(大学院)と言うように。仏法では十信、十住、十行、十廻向、十地と分かれます。これはちょうど小学、中学、大学と分かれるようなものです。どの段階の中でも十の等級があります。初信、二信、三信、四信と進み十信まであります。これは五十段階あります。正に五十の位、五十年生です。五十年生から更に上がると、それは本当の研究所であり、私たちは等覚と言います。等覚は五十一年生です。等覚から更に上がると、円満になります。仏に成ります。あなたはそれで最高の学位を取得します。皆さん理解しておかなければなりません。仏門には修学の課程があり、学位があります。一つの段階の課程を学び終えたら、あなたは一つの学位を得るのです。
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詳細によく観察して見るなら、仏教とはいったい何でしょうか?仏教は教育です。仏教は教学です。仏とは何でしょうか?仏は先生です。私たちは「南無本師釈迦牟尼仏」と言っているのではありませんか?根本の先生(老師)です。正にこの教学は彼が創始したものです。彼は私たちの根本の先生です。私たちは学生と言い、弟子と言います。弟子とは学生です。私たちと仏との関係は師弟関係です。皆さん覚えておいて下さい。師弟は平等です。宗教の中では人と神との関係で、人と神とは平等ではありません。仏は経の中で私たちに説かれています。一切衆生はどの人も仏になることが出来ます。宗教の中では誰でも神になれるとは言えません。それでは大変なことになります。それに背くことはできません。つまり仏教は宗教ではないのです。仏教は平等の法です。
仏になる、その仏とは何でしょうか?仏とは円満な智慧の成就です。どの人も円満な智慧を成就すれば、その人を仏と言います。ですから仏は円満な智慧のある人です。菩薩は円満な智慧を修めていますが、まだ究極の円満に達していません。ですから菩薩は学生です。誰でも菩薩になることが出来ます。菩薩になることは仏の学生になることです。私たちは今日仏教徒と言いますが、実のところ仏門の菩薩を言うのです。菩薩を卒業すれば、仏と言います。ちょうど私たちが学校で学ぶのと同じです。あなたは学校で学習して、まだ卒業していません。これが菩薩です。卒業すれば仏という学位をもらいます。ですから仏門の中では、その本質をはっきりと認識しなければなりません。それは教育です。それは教学です。宗教や哲学とは関係がありません。それは完全なる学校であり、ちょうど大学と同じです。各種の学科がすべてあります、その中には哲学があり、宗教もあります。宗教、哲学はその一つの学科に過ぎません。一つの学科は学校全体を代表するものではなく、学校全体の中にこの学科があるのです。私たちはこれをはっきりと認識しなければなりません。
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仏法とはいったい何でしょうか?現前の社会では・・・、この話はずいぶん昔になりますが、1983年に私はアメリカのニューヨークで講経していました。沈家楨居士がそこに招いて下さったのです。私は皆に言いました。現代の世界には四種類の異なる形式の仏教があるので、はっきりと区別する必要があります。一つ目は、今では誰もが仏教を宗教と見なしています。宗教の仏教、これが一つ目です。変質しています。変質した仏教です。二つ目は学術に変わり、哲学に変わったものです。海外の数多くの大学で仏教哲学を研究しています。仏教を哲学と見なしています。これも変質しています。仏教は哲学ではありません。仏教の中に哲学はありますが、それは哲学ではありません。三つ目は、これは最近三、四十年で現れたものです。邪教です。仏の看板を持ち出して衆生を騙し、人の心を傷つけ、社会を傷つけています。これは邪教です。最近数十年で私は更にもう一つに気がつきました。ショーとしての仏教です。演技しています。何らかの布教大会を開き、歌を歌ったり、踊ったりすることに大半の時間が割かれます。法師が来て数分ばかり話をして、あとは歌ったり踊ったりしています。ショーとしての仏教です。人がたくさん来ます。一万人以上の人がショーを見ます。とても賑やかです。この四つは仏教ではありません。実のところ、仏教に触れてさえいないのです。
欧陽竟無居士(この方は仏門の大徳であり、中国近代仏教に大きな影響力を持った大居士である)は、民国十二年に第四中山大学で講演されました。題目は「仏法は宗教に非ず。哲学に非ず。今まさに必要なものである」(佛法非宗教非哲學,而為今時所必需)です。民国十二年に私はまだ生まれていません。この講演の題目は私が1977年に初めて香港で講経した時―――私の記憶では『楞厳経』でした―――その時は香港に四ヶ月滞在しました。「中華仏教図書館」に二ヶ月、その後は藍塘道壽冶老和尚の道場に二ヶ月住みました。私は図書館で欧陽竟無の題目を見たのです。彼の学生・王恩洋がそれを記録していました。図書館には何冊もあったので、私は一冊を台湾に持って行き、それを印刷して流通させました。彼はよく言ったものです。「仏教は宗教ではない。哲学ではない」、それではいったい何でしょうか?彼は言いませんでした。ただ「今まさに必要なものだ」と言っただけです。現代のどの人にも必須のものです。
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ポール院長は遠回しに、私にこの学院に来て仏学研究所をやってもらえないかという意思を示されました。彼がこの意思を出されたので、私は「この学校の学生は、一年間学ぶのに学費・雑費・宿泊費はどのくらいかかりますか?」と質問しました。彼は概算で答えました。一年に三万オーストラリアドルです。三万であれば、だいたい米ドルで二万ドルです。オーストラリアでは間違いなく高い学費です。私はこの様子、この状況を聞いて、仏学研究所を開設するのは容易ではないと思いました。しかも私は独りで行く訳にもいきません。今仏学研究所を開くとしても、私は助教さえ見つけることが出来ません。これは苦しい事です。なぜでしょうか?仏学(仏教学)を研究する人はたくさんいます。外国で仏学の博士号を取得した人もたくさんいます。しかしその人の仏学と私の講じるものは違います。その人が講じるのは学問であり、私が講じるのは生活です。その人が講じるのは深遠で高尚なものであり、私たちの生活とは関連がありません。私はその仏学を学びたくはありません。なぜでしょうか?学んでも役に立たないからです。どれほど時間と労力の無駄なことでしょうか。私がそれをしても何の価値もありません。私たちが今日学ぶのは、学んですぐに役に立つものです。私はこれを学びたいのです。ですから仏学とは生活教育であり、高遠な哲理ではありません。その中には確かに高遠な哲理がありますが、高遠な哲理は私たちの日常生活の中に溶け込んでいるのです。だからこそ私たちが学んで役に立つのです。しかし私と同じ理念、同じ認識、同じ見解の助教は一人も見つかりません。ですから最後に考えたのは、彼らに講義をするために、時間があればオーストラリアに長く滞在して、学校で週に二回講義することです。いくつか単元を講じるなら難しくはありません。せいぜい通訳を二人探して下されば良いのです。
ここから分かったのは、今のこの世間では、どの国、どの地域であろうと、遭遇している社会の困難な問題はほとんど同じだということです。しかもこれらの困難には、大乗仏法が、それも『華厳経』が本当に助けとなるのです。真に私たちの智慧を啓発し、二十一世紀の社会問題を解決する助けとなり、迷いを破り悟りを開き、苦しみを離れ安らぎを得る助けとなるのです。特に『華厳経』の最後の部分、五十三参です。ですから今回この地に来て、今日が初めての講義となります。初めはまず仏法を正しく認識しなければなりません。一般社会の大衆は仏法を宗教と見なし、仏教は世界の六大宗教の一つだとしています。この見方は誤りです。もし仏法を宗教として見るなら、あなたは仏法の中に何も得ることはできません。
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私は晩年に全世界で仏法を発揚しています。私はこの八字を用いて総題目としています。そして一つ副題を付けます。小さな副題を付けてから、何かしらの経を講じます。香港でのこの期間に、皆さんはこのような殊勝な因縁があり、私たちは『華厳経』の善財童子五十三参を講じることとなりました。この経の味わいは尽きることがありません。完全に私たちに演じて見せてくれています。私たちにこの中で仏となり、菩薩となることを学ばせます。正に現前の生活において学び、現前の仕事の中で学ぶのであり、生活の仕方を変える必要はありません。また仕事を変える必要もありません。どの人も師であり、どの人も模範であり、どの人も仏であり、どの人も菩薩なのです。(そうなれば)香港は仏菩薩の世界に変わります。真の仏国土です。仏国土は大円満であり、真実の円満です。
しかし私たちは「五十三参」の題目を講じる前に、先に仏法に対する認識を持たなければなりません。もし仏法を誤解しているなら、難しいことです。どこから講じればよいか分かりません。仏法を知るだけでなく、更に『華厳経』を知らねばなりません。仏家の経典を知ってこそ、そこに入ることが出来るのです。
今年の四月初旬に、私は用事でオーストラリアに行きました。オーストラリアのゴールドコーストに、ある大学を訪問する機会がありました。ボンド大学です。この大学はオーストラリアで初めての私立大学です。学校はとても非常に良く、オーストラリアの著名な貴族学校です。私たちは貴族と聞きました。納める学費は高く、そこで学ぶ学生は皆地位があり、富があるから、その学校に通うことが出来るのです。私は学校の中で、人文社会科学院のポール・ウィルソン(Paul Wilson)院長に迎えて頂きました。彼は学校の概況を紹介して下さいました。この学校には現在二千人以上の学生がいて、全世界三十数か国から来ています。小さな国連と同じです。このような状況下で、彼らにはある問題が生じていました。しかもオーストラリア人はこの問題を相当に重視しています。通信の発達、交通の発達によって、全世界の異なる国、異なる種族、異なる文化、異なる宗教信仰、異なる生活方式に一度に接触すれば、その中で矛盾や衝突は免れ得ません。ですから学校は如何にして異なる背景を持つ学生が、お互いに仲良くできるのか、お互いに協力し合えるのか、社会の繁栄と安定をもたらし、世界の永久の平和を実現できるのかを研究しようとしていました。
彼らは今日この問題を教学の中心的な問題として入れています。ポール院長は私に「何か方法はありませんか」と尋ねました。私は彼に言いました。『大方廣佛華厳経』こそが解決の方法です。彼はそれを聞いて喜ばれました。彼は仏教に深く触れていませんが、仏教に関心があると仰いました。私は『華厳経』の概略を、短い時間で簡単に紹介しました。『大方廣佛華厳経』こそは尽虚空、遍法界を融合しています。また地球上の事ではありません。この小さなものが何だというのでしょうか。十方無量無辺諸仏刹土、九法界の衆生がどうすれば仲良くできるのか、どうすればお互いに尊重し合い、偏見を持たずにいられるのか。本当に正直に協力し合い、己を捨てて人の為に行うことができるのか。皆が社会の為を思い、衆生の為を思い、自分の事を考えずにいられるのか。唯一仏法の教学だけが真実の円満なのです。
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師となり模範となって何か良い事があるのでしょうか?良い事はたくさんあります。師となり模範となること。皆さんよく理解して下さい。これこそが仏菩薩(ほとけぼさつ)の生活です。考えてみて下さい。どれほど幸せで円満であることでしょうか!凡夫の生活は悩みが絶えません。私たちが仏菩薩の生活を送るには、現実の生活を変えなければならないのでしょうか?確かに現実の生活なのです。皆さんに申し上げますが、表面は何も変わりません。仏菩薩の生活をすると、今生活が苦しければたちまちお金が得られるなど、決してそのような意味ではありません。あなたがこのように考えているならそれは完全な思い違いです。仏菩薩の生活とは、私たちの現実の物質生活と変わりません。しかし精神生活は完全に変わります。精神生活が変われば、たとえ生活が貧窮していても、それを楽しめます。それまで貧しくて苦しかったのが、今では貧しくても楽しめるのです。
貧しくてどうして楽しめるのでしょうか?貧しくても楽しめる人はたくさんいます。二千五百年前、孔夫子(こうふうし:孔子のこと)に一人の貧しい学生がいました。顔回です。彼は孔夫子が称賛し、尊重した素晴らしい学生です。しかし福報がありませんでした。これは仏門で言えば、顔回はおそらく前世で慧(え=智慧)を修めて福を修めなかったので、非常に聡明でありながら福報がなかったのです。生活は貧しくても、彼には高度な智慧がありました。貧窮していても楽しめたのです。書物の記載は真実です。嘘ではありません。顔回はどれほど貧窮していたのでしょうか?「一簞(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)」(一簞食,一瓢飲)。ご飯を食べる茶碗もありません。「簞」とは何でしょうか?竹で編んだものです。竹の籠のように編んだものにご飯を盛ったのです。水を飲むのにコップもありません。瓢箪を使って水を飲んでいたのです。それほど貧しかったのです。夫子は感嘆して言いました。普通の人はこのような暮らしでは憂い悩むものです。他の人にとっては耐え難いものです。しかし顔回はどうでしょうか?彼は毎日喜んで暮らしていました。これが師となり模範となることです。彼の喜びはどこから来るのでしょうか?これは智慧の中から生じたものです。仏は私たちに、仏になり菩薩になることを教えています。仏菩薩は神仙ではありません。仏菩薩は人です。どのような人でしょうか?宇宙・人生の真相を透徹して理解した人です。分かれば楽しめます。分からなければ苦しみます。ですから分かる人は乞食であっても仏であり、菩薩なのです。彼は喜ばしくて仕方がありません。諸仏菩薩は『華厳経』の中で言う男女老少、各行各業にいます。『華厳経』は完全に諸仏菩薩の生活であり、一切の群衆の中で実行するのを私たちに観察させ、学ばせるのです。この経は仏法の円満なる法輪です。
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管理人曰:
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講経の総題目は、現在のシンガポールでも、ここに来て講じても、また他の国や地域であっても、およそ私は講経の依頼があれば、題目は「学びて人の師と為り、行いて世の範と為る」(学為人師,行為世範)、この八字を総題目としています。確かに大乗仏法とは正にこの意味なのです。この題目は私が去年の五月に、中国大陸で北京師範大学を訪問した際に、北京師範大のロビーにこの八字があったのです。門に入るとすぐにこの八字が見えて、私は非常に歓喜しました。校長が私を案内して下さり、この八字は全校の先生が共同で立案したものだと言いました。私は振り返って校長と数名の教授に、「大乗仏法は正にこの八字です」と言いました。特に『大方広佛華厳経』です。『華厳経』では何を講じているのでしょうか?正に私たちに師となり模範となることを教えているのです。ですから諸仏菩薩は九法界衆生の最高の模範であり、手本なのです。彼らの学校の中にこの八字が掲げられているのは学生を教え導くためです。そこは師範学校であり、国家最高の教師を育成する場所なのです。将来その先生方が皆学生の模範となり、学生の良い手本になることを願っています。得難いことです!
しかし仏陀の教育の意義は更に広く深いものです。仏は私たち一人一人に、発心して師となり模範となることを教えています。師とは何でしょうか?群衆の手本です。範とは社会の模範です。近代では、私たち仏門の四衆弟子が最も敬慕する大徳は、印光大師です(近代のその世代は印光大師の名を挙げると蕭然として尊敬の念を起こさない人はおりません)。他の大徳の方々に対して、印光大師は一生で何を教えたのでしょうか?ご老人は何を修めたのでしょうか?何を教えたのでしょうか?私たちは理解しなければなりません。実のところご老人が一生で自ら行じ、他人を教化したのは十六字のことです。その十六字について大師はよく話されており、『印光大師文鈔』の中で数十回も説かれています。私たちは『文鈔』を一度読み通すと、他の言葉は忘れ去って、この四句が忘れられなくなります。なぜでしょうか?数十回も読めば、印象が深くなるものです。「敦倫盡分,閑邪存誠,深信因果,信願念佛」。正にこの四句、十六字です。この十六字は、正に「学びて人の師と為り、行いて世の範と為る」(学為人師,行為世範)の註解です。しかしご老人の註解はとても深いものです。浅いものではありません。
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管理人曰:
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私の記憶ではたしか十二年前、私は香港で講経(こうきょう:経を講じること=説法)していました。その時シンガポールの居士が三人で経を聞きに来ました。私たちは界限街の仏教図書館におりました。彼らは聞き終わると歓喜され、私を南洋に招きたいと言いました。私は南洋に言ったことがなく、彼らは非常に親切でした。私は「良いですよ!遊びに行きましょう」と言いました。初めてシンガポールに十日間遊びに行って、六回の講演を行い、シンガポールと法縁を結ぶこととなりました。当時「シンガポール居士林」にはある居士がおられました。また「シンガポール青年弘法団」の団長李木源居士ともその時に知り合いました。知り合った後、李居士は発心されて、弘法の仕事を熱心にされるようになり、それからは毎年私を招待して下さいます。少なくとも一回、或いは二回です。そうして私はシンガポールで(今年で十二年になりますが)中断したことがありません。
昔のシンガポールには念仏する人は少なく、念仏を知りませんでした。私たちはこの期間に浄宗(浄宗学会)を持ち込みました。シンガポールは今では念仏する人が多いばかりか、念仏往生する人がたくさんいます。更にはマレーシア、インドネシア周辺の国家地域にも念仏の気風を持ち込みました。現在マレーシアにはすでに八つの浄宗学会があり、現在あと十ヶ所でも準備しているところです。私たちは南洋をシンガポールの中心として、南洋全体の浄宗の教学を促進しています。浄宗の修持はよく成就しております。
李居士は95年に弘法の人材を育成することを発起されました。彼は私に言いに来ました。「良い事です!あなたがやるなら私は必ずお助けします」。そして彼は「浄宗弘法人材育成班」を創設しました。育成する対象はすべて中国大陸の若い法師です。私は「この構想は非常に良いです」と言いました。私は必ず彼に協力し、彼の教学を助けます。今年で育成班は四期目です。これらの若い法師は非常に優秀で、現在国内の至る所で講経・弘法されています。私は本当に黄念祖居士の願いがシンガポールで実現するとは思いもよりませんでした。これは私たちがどう考えても思いつかなかったことです。私は前から、この理想を中国で実現したいといつも妄想していたのですが、思いがけず李木源居士に先を越されてしまいました。ですから現在私はシンガポールに住む時間が長く、一年に少なくとも八、九ヶ月は滞在しています。
特に今年からは、第四期の育成班で『華厳経』を始めました。これは大経です。もともと学生たちに教学したいと考えていましたが、後から考えてみると昔からこの経を講じる因縁は非常に稀有なものです。この経は毎日二時間講じるとすると、だいたい四年から五年でようやく円満に講じることができます。それほど長い時間を要します。同時に、聞く機会も非常に稀有なのです。ですからその二十数名の学生に対して講じるよりは、社会の大衆に公開で講じる方が良いと考えました。李居士はとても喜ばれ、居士林の講堂を提供して下さいました。その講堂はとても大きく、二階建てです。上の階は八百人収容することが出来ます。下の階では300インチの大きなモニターを用い、現場にいるよりもその効果は殊勝なものでした。この二つの階はおそらく二千人近くを収容できるほどで、そのような殊勝な法会でありました。彼はこの二階建てのビルを改装するのに、シンガポールのお金で百六十万以上使いました。彼は本当に金銭を惜しまず使い、本当に熱心にやってくれます。それならこの経をそこで講じなければ申し訳が立ちません。彼はそれほど熱心で、それほど多くの人が聞くのです。私たちの要求に完全に応えて下さいました。これは稀有な因縁です。
(つづく)
管理人曰:
まだまだイントロは続きます。
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長く翻訳から離れていましたが、こうして訳し始めると、やはり楽しいです!
青年協会の梁会長、法師各位、同修各位、
本日は「香港仏教青年協会」にお招き頂きまして、この地で皆様と少しばかり法縁を結ぶこととなりました。青年協会は私と縁が深く、1977年に私が仏教図書館で講経した際、青年協会の熱烈なご支援を頂きました。往年、袁文忠会長、李倚芬、簫会長とは非常に親しくさせて頂きました。最近の八年間は香港に来でいません。去年香港が返還された時、私はお祝いに参加しに来て古い友人と再会したのです。彼らは言いました。「法師は七年も香港にいらっしゃっていませんね」
私は「それほど長く経っていないでしょう?」と言いましたが、後で勘定してみると確かに七年も来ていませんでした。
「どうして来なかったのですか?」と言われましたので、
私は「私を呼ぶ人がいなかったからです。来ては申し訳ないといつも思っていますので」と答えました。
おそらく去年この話をして、彼らは今私を招待しました。呼ばれれば私は来ます。呼ばれなければ私も来る訳にはいきません。ですから、因縁はこの場所から再び継続します。
私はすでに晩年に至っています。中国の古人はよく「古稀之年」と言います。やるべき事はほとんどやりました。晩年の時間、仏法の中で最も重要なことは、若い法師を助けることに優るものはありません。仏門の後を受け継ぐ人、若い人に「続佛慧命」(仏の智慧を継承するの意)させること。これが晩年の最も重要な仕事です。
かつて黄念祖居士がご在世の頃、何度も私に話されました。また手紙でよく注意喚起されました。「法師、あなたはこれほど長く講経されています。もう十分です!もう講じることはありません。あちこち出歩くことはありません。晩年で最も重要な仕事は二つです。一つは人材の育成。一つは書物を書くことです」
私は言いました。「よく分かりました。ですが仏法の中では一切は因縁を重んじます。縁がなければ、やろうとしてもできません。どこかに縁があっても、自分の好きな場所だからと言ってそこに留まるものでもありません。それはできないのです」
(つづく)
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管理人曰:
予告通り「善財童子參學報告」を少しずつ訳していきたいと思います。
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