浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

『神は世人を愛す』を学ぶ 11

2021-07-15 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 11

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十一集)
2018/10/20  聯合國教科文組織淨空之友社  檔名:21-786-0011

  諸位法師、諸位同學,請坐。請看《神愛世人》這個小冊子第四十六頁,前面講到這個地方,四十六頁。前面說到一句很重要的經文,我們回顧一下,在四十六面:
法師各位、学生の皆さま、お座りください。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。前回ここまでを講じました。四十六頁です。前回とても重要な経文についてお話ししました。振り返ってみましょう。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。】

  佛給我們講的話都是事實真相,我們迷了,一無所知;佛菩薩覺悟了,什麼都知道,所以稱為一切智。自然智,不必學的,這就是自然的。為什麼?自性本來如是,我們講自覺。換句話說,真心就是這樣的,真心充滿了智慧,一切智、自然智、無礙智,沒有障礙的智慧,統統有。怎麼沒有了,完全失掉了,丟得乾乾淨淨,什麼原因?佛給我們說出來了,妄想、分別、執著障礙了。如果我們能把這些煩惱放下、障礙放下,我們自性裡面的般若智慧,跟諸佛如來沒有兩樣,跟觀音、勢至也沒有兩樣。
仏陀が説かれた話はすべて事実の真相です。私たちは迷い、何一つ知りません。仏菩薩は悟り、何でも知っています。ですから一切智と言います。自然智とは、学ぶ必要がないものです。これは正に自然なのです。なぜでしょうか?自性は本来そのようなものであり、私たちは自覚(自ずから覚る)と言います。言い換えれば、真心とは正にこのようなものです。真心は智慧に満ちています。一切智、自然智、無礙智、障礙のない智慧が、すべてあるのです。どうして無くなったのでしょうか?完全にきれいさっぱり失った原因は何でしょうか?仏陀は私たちに説いてくださいました。妄想、分別、執著が障礙になっているのです。もし私たちがそれらの煩悩を放下し、障礙を放下できれば、私たちの自性の中の般若の智慧は、諸仏如来と何も変わりません。観音菩薩や勢至菩薩と何も変わりません。

  學佛學了幾十年,還不止,還要接上前輩、再前輩,過去無始,生生世世學佛,往生極樂世界都沒有拿到,什麼原因?六根接觸六塵境界起心動念,錯了。眼見色、耳聞聲、鼻嗅香、舌嘗味、身體的覺觸,六根接觸到六塵境界就起心動念,這是用一句話總說;要分開來說,眼在見色的時候起心動念,耳在聞聲的時候起心動念……起心動念就迷了。
仏に学んで数十年、それだけにとどまりません。前世、そのまた前世と続いて、過去に始まりがなく、生まれ変わり死に変わり仏に学んで、極楽世界に往生することさえかないません。何が原因でしょうか?六根【注1】が六塵【注2】に触れて心を起こし念を動かす、これが間違いです。眼で色(しき:物質)を見、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身体で接触して、六根が六塵の境界(きょうがい)に触れると、すぐに心を起こし念を動かします。これがひと言で言う総括です。分けて言うなら、眼で色を見た時に心を起こし念を動かし、耳で声を聞いた時に心を起こし念を動かし・・・・心を起こし念を動かせば迷います。
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【注1】六根(ろっこん)・・・眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のこと。
【注2】六塵(ろくじん)・・・色・声・香・味・触・法の六つの境界のこと。
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  佛菩薩比我們高明在哪裡?就是高明在他眼見色,看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念;耳聞聲、鼻嗅香,無不如是,都能做到不起心不動念、不分別不執著,所以他的一切智現前。一切智從哪裡來的?自性本來具足的,一點都不稀奇。一切諸佛如來具足,一切菩薩摩訶薩具足,一切眾生具足,我們個個人都具足,你要相信;你不相信,你學佛是白學了。
仏菩薩が私たちより優れているのはどこでしょうか?それは正に、眼で色を見て、はっきりと明瞭に見えていて、起心動念がありません。耳で声を聴き、鼻で香りを嗅ぎ、――それに及ぶものはありません――すべて心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しません。ですから彼の一切智は現前します。一切智はどこから来るのでしょうか?自性に本来具足(ぐそく:十分に備わっていること)しているものです。少しも奇妙なことではありません。一切の諸仏如来は具足しています。一切の菩薩摩訶薩は具足しています。一切衆生は具足しています。私たちはどの人も具足しています。あなたは信じなければなりません。信じないなら、仏に学んでも無駄です。

  相信怎麼辦?我們還是會起心動念,起心動念在我們已經養成習慣了,不是這一世,過去世中就已經養成習慣,生生世世、無量劫來,這個妄想、雜念根深蒂固,把我們降到六道眾生。人天還稍微好一點,還有一點善業,其他的四惡道(一般講三惡道,修羅我也把它說成惡道),時間久了,回不了頭,沒有福報。什麼叫沒有福報?沒有機會接觸到佛法;有機會接觸到佛法是他的福報大。
信じてどうするのでしょうか?私たちはそれでも起心動念します。起心動念することがすでに習慣になっています。この一世だけでなく、過去世の中でも習慣になっていました。生まれ変わり死に変わり、無量劫(むりょうごう:限りなく長い時間)において、この妄想、雑念が深く根を張って、私たちを六道の衆生に落としているのです。人天はまだ良いほうです。まだ少しの善業があります。その他の四悪道(一般的には三悪道と言いますが、私は修羅道も悪道としています)、長い時間を経て、改心できなくなり、福報がありません。福報がないとはどういうことでしょうか?仏法に触れる機会がないということです。仏法に触れる機会があるのは、その人の福報が大きいからなのです。

  今天得人身,在這個世間,很難得。接觸到佛法,他就能相信,他不懷疑,他很尊重,他能理解,這個難得,接著再修。修的裡面最重要的是什麼?放下;解門裡頭最重要的是看破。淨宗歷代不少大德,出家在家,主修,淨土五經一論;助修,很多人都用《金剛經》、《心經》,它不太長,很適合初學,不但適合初學,老修也適合。這個經教我們什麼?教我們看破、放下。看破跟我們講「凡所有相,皆是虛妄」、「一切有為法,如夢幻泡影」,這是真的,不是假的,與科學家所說的完全相同。既然是假的、既然是虛妄的,就不應該起心動念。
今日人身を得て、この世間にいるのは得難いことです。仏法に触れ、その人は信じることができ、疑いません。その人は(仏法を)尊重し、理解することができます。これは得難いことです。(過去世から)引き続き修めるのです。修めることの中で最も重要なことは何でしょうか?放下することです。解門の中で最も重要なのは(この世の真相を)看破することです。浄土宗の歴代の多くの大徳は、出家も在家も、浄土五経一論を専攻していました。補助として多くの人は『金剛経』、『心経』を用いました。それはあまり長くないので初学者に適しています。初学者に適しているだけでなく、長年修めた人にも適しています。この経は私たちに何を教えてくれるのでしょうか?看破、放下です。看破は「凡(およ)そ相(そう)有る所,皆(みな)是(これ)虚妄(きょもう)なり」、「一切(いっさい)有為(うい)の法、夢・幻・泡・影の如し」と説かれています。これは本当です。偽りではありません。科学者が言うことと完全に同じです。(この世のすべてが)偽りであり虚妄であるからには、心を起こし念を動かすべきではありません。

  所以,你的過失錯在哪裡?錯在六根接觸六塵境界,一接觸就起心動念,麻煩在此地。你要問這是什麼原因?我可以老實告訴你,無始劫以來的習氣所造成的。現在怎麼辦?現在這一生遇到佛法,搞清楚、搞明白了,功夫,功夫深淺、功夫大小,完全在你能夠看破多少、放下多少,這是真功夫。徹底放下,就能往生,臨命終時,一句佛號,求阿彌陀佛來接引,承如來的威德,接引往生極樂世界。多!不少,我這一生見到的就十幾個。我很感恩,他來做榜樣給我看,在我面前表演,讓我深信不疑,我們感恩戴德。
ですからあなたの間違いはどこにあるのでしょうか?間違いは六根が六塵の境界にひとたび触れると、心を起こし念を動かすことです。面倒なのはここなのです。あなたはこれは何が原因なのかと質問するでしょうか?私は真面目に答えます。これは無始劫以来の習気(じっけ)によって作られたものです。今どうすれば良いのでしょうか?今この一生で仏法と出会い、はっきりと理解しました。技量の深浅、技量の大小は、完全にどれだけ看破できるか、どれだけ放下できるかにあります。これが本当の技量です。徹底して放下すれば往生することができます。臨終の時、一句の仏号で阿弥陀仏がお迎えに来て、如来の威徳を受けて、極楽世界に往生することを求めます。たくさんいます!少なくありません。私はこの一生で十数人見ています。私は感謝しています。その人たちはお手本を見せてくれたのです。私の目の前で演じて下さり、私に信じて疑わせません。有り難いことです。

  所以《大方廣佛華嚴經》這一段,我們要常常記在心裡,句句是真話,沒有一個眾生不具有如來智慧。記住,他沒有說「沒有一個人」不具足如來智慧,他說眾生,眾生包括了所有的生物。畜生是不是眾生?是的;野外樹上、草上那些小爬蟲是不是眾生?是眾生。牠也具足如來智慧嗎?是,你可別輕視牠。所以,要愛護眾生,說不定牠成佛在我之前,很難說。畜生道裡頭有沒有佛菩薩?有,應以什麼身得度,佛菩薩就現什麼身。所以佛菩薩現餓鬼身、現畜生,大的現牛馬這些大畜生,小的,蚊蟲螞蟻,今天我們講的生物。眾生就是現在名字叫生物,統統具有如來智慧,我們要把牠看作什麼?看作如來、看作佛、看作菩薩,不能輕慢,培養我們謙卑的、禮讓的心態。對蚊蟲螞蟻都恭敬,何況對一切眾生,何況對於人類,何況對一切宗教的神聖,真誠恭敬心就生得起來。否則的話,對一切眾生來講,生起恭敬很難,對人都不容易生起,何況對一切生物,都沒有看在眼裡,這是我們的過失。
ですから『大方廣佛華厳経』のこの一段は、私たちは常に心に留めておかなければなりません。どの言葉も真実であり、いかなる衆生も如来の智慧を具えていないことはありません。覚えておいてください。彼は「いかなる人も」如来の智慧を具足していないことはないとは言っていません。彼は衆生と言っています。衆生とはあらゆる生物を含みます。畜生も衆生でしょうか?そうです。野外の樹木や草の上にいる爬虫類も衆生でしょうか?衆生です。彼らも如来の智慧を具足しているのでしょうか?そうです。あなたは彼らを軽視してはなりません。ですから衆生を愛護しなければなりません。彼らは自分より先に仏に成るかもしれません、何とも言えません。畜生道には仏菩薩がいるでしょうか?います。どの衆生を救うかによって、仏菩薩はその衆生にふさわしい姿で現れます。仏菩薩は餓鬼身、畜生として現れます。大きいものは牛馬などの大きな畜生、小さいものは蚊・虫・蟻などです。今日私たちは生物と言います。衆生とは今でいう生物です。すべて如来の智慧を具えています。私たちは彼らをどう見たらよいでしょうか?如来として、仏として、菩薩として見ます。侮ってはなりません。謙遜し、礼儀を厚くして譲る心を養うことです。蚊・虫・蟻に対して敬うのですから、ましてや一切衆生、ましてや人類に対して、一切の宗教の神聖なものに対して、真誠(しんせい)恭敬(きょうけい)の心を起こすのは尚更のことです。そうでなければ一切衆生を敬う気持ちを持つことは難しく、人を敬うことさえ容易ではありません。ましてや一切の生物など眼中にもありません。これが私たちの誤りです。

  怎麼會變成這個樣子?記住,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、執著而不能證得。這一句經文把它念熟,早晨起來念幾遍,晚上睡覺之前念幾遍,提醒自己:我今天有沒有妄想?有沒有分別執著?有,趕快丟掉;沒有,很好、很難得,繼續精進。自作還要自度,靠別人是不行的,要靠自己,一切時一切處,要把自己的虛妄顛倒妄想分別執著統統放下。
なぜこのように変わってしまったのでしょうか?覚えておいて下さい。自分の虚妄(きょもう:事実でないこと)であり顛倒(てんどう:道理にそむく考え)した妄想・分別・執著によって証得(しょうとく:真理を悟ること)できないのです。この一句の経文をよく読んで、朝起きたら数回読み、夜寝る前に数回読んで、自分に注意喚起します。自分は今日妄想したでしょうか?分別や執著はあったでしょうか?あるなら、すぐに捨て去ります。ないなら、それで良いでしょう。得難いことです。引き続き精進します。自分で取り組み、自分を救わなければなりません。人に頼っては駄目です。自分に頼ります。いつでも、どこでも、自分の虚妄・顛倒した妄想・分別・執著をすべて放下しなければなりません。

  我們把下面這個文念一遍就懂了。「當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時,他們便會完整地獲得那圓滿智慧的真實受用;而這種眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,無礙智現前,「這也是一切眾生真心本具、不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一切智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染」,這種智慧乃是本自清淨無染的,就是前面所說的一切智。這三種智慧成就了。
私たちは以下の文を一度読めば理解できます。「衆生が自分の妄念・煩悩を徹底して放下した時、彼らは完全な形で円満なる智慧の真実のご利益を獲得する。しかもこの種の衆生が本来具えている円満なる智慧は、正に宇宙万法に徹底して通達した無礙(むげ:妨げのないこと)の智慧である」。無礙智が現前します。「これも一切衆生の真心に内在し、外から得られない真実の智慧である」。これを自然智と言います。「この種の智慧は、正に如来大覚者の智慧である。ここにおける一切の智慧の中で、覚者たちが究極的に認識するに至った自己の真心は、正に本来自ずから清浄で穢れがありません」。この種の智慧は本来自ずから清浄で穢れがないもので、正に先に話した一切智です。この三種類の智慧が成就します。

  一切智、無礙智、自然智是自己本有的,並沒有丟掉,是我們被起心動念、妄想執著障礙住。怎麼辦?修行。行是行為,起心動念、言語造作叫做行,錯了、出了問題了,把它修正過來,叫修行。用什麼修?放下、看破。看破是理明白了,智慧現前;智慧現前還不夠,必須要徹底放下,放下是事上的修行,真修行;就那麼簡單的兩句話,看得破、放得下。
一切智、無礙智、自然智は自分がもともと具えているもので、失った訳ではありません。私たちの起心動念、妄想・執著に障碍を受けているのです。どうすれば良いのでしょうか?修行です。行(ぎょう)とは行為です。起心動念、言葉や行為を行というなら間違いです。問題が出てきます。それを修正するのが修行なのです。何を用いて修めるのでしょうか?放下、看破です。看破は道理が明らかになることで、智慧が現前します。智慧が現前するだけでは足りません。必ず徹底して放下しなければなりません。放下とは実際の修行、真の修行です。正にとても簡単な二句の言葉、「看破することができれば、放下することができる」です。

  我是這兩句話,二十六歲的時候,章嘉大師教給我的。我的看破是從方東美先生那裡得來的,放下是從章嘉大師這得來的。起了一點作用,這六十年來講經教學,接觸不少的朋友,各個階層,社會各階層的人都有,跟他們往來的時候,我所談的,他們所提問的都能解答。我沒讀那麼多書,能夠解答,還沒解錯,這是什麼?一切智、自然智、無礙智自然現前。
私のこの二句の言葉は、二十六歳の時に、章嘉大師が教えてくださったものです。私の看破は方東美先生から得たものです。放下は章嘉大師から得たものです。少しばかり役に立ち、この六十年来講経・教学をして、多くの友人と接しました。様々な階層、社会の様々な階層の人がいました。彼らと交流する時、私が話したことに対する彼らの質問にはすべて答えることができました。私はそれほど多くの書物を読んでいませんが、答えることができて、解釈を間違えていません。これは何でしょうか?一切智、自然智、無礙智が自然に現前したのです。

  好,今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。

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