積善之家必有余慶。
積善の家に必ず余慶(よけい)あり。
善行を積み重ねた家には、必ずその恩恵が子孫にまでおよぶ。
積不善之家必有余殃。
積不善の家に必ず余殃(よおう)あり。
不善を積み重ねた家には、必ずその報いが子孫にまでおよぶ。
------『易経』
◎因果教育は人心を救う(因果応報に関する基礎的な解説)
カテゴリー【因果の教育】の記事をまとめました。
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仏弟子は浄業を修めなければならない 2016-02-21
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/f17978dfab9f88daa60fb265f92347f4
もし社会の大衆が皆で業を作っていれば、大変なことになる 2016-02-13
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/d73d1bc29a92e78a151191b63b5ebecf
私利私欲は禍(わざわい)の本源 2015-04-19
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/b74677ef38ace2a7a51a42bb15296146
仏菩薩(ほとけぼさつ)は如何にして苦難の衆生を助けるのか 2015-03-14
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因果と布施を語る 2015-01-18
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法施(ほうせ) 2015-01-11
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/45240783f66c27bd3c327692a7d53354
三悪道の業因 2014-07-27
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なぜ誘惑に耐えられないのか、なぜ放下できないのか 2014-07-15
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因果を深く信じていれば外界の誘惑を防ぐことができる 2014-07-14
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四種類の慈悲 2014-07-12
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賢い人は前後を見る眼を持たなければならない 2014-07-11
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社会を救うには因果教育が必須である 2014-01-26
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感謝の心で一切の憎しみを解消する 2014-01-26
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一字の誤りで、五百世野狐身に堕ちる 2013‐12‐14
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印光老法師は一生因果教育を提唱された 2013‐11‐16
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印祖は一生で特に因果教育を重視された 2013‐11‐16
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因果の理論と事実【日本語吹替版】 2013-05-23
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如何に自分の運命を改善するか(上) 2012-03-10
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如何に自分の運命を改善するか(下) 2012-03-10
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催眠術は六道輪廻を証明している 2012-02-08
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善報悪報の言い伝え 2012-02-08
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世間における倫理道徳・因果教育の中心 2012-02-02
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悪を断ち善を修める中に深い因果教育がある 2012-01-17
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地球の災難の起源 2011-08-04
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人の果報は自業自得 2011-08-04
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メディアの責任は重大である 2011-07-31
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異常現象は警告である 2011-07-11
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人類が地球を害している 2011-06-26
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因果の教えで社会を救う 2011-06-26
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前世の行い、来世の果報を知る 2011-06-26
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三世因果 2011-06-26
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因果を深く信じる 2011-05-30
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/9093159100ecb8b7ec27a3212ad1ff93
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太上感応篇大意 2013-06-30
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/c/1bbd1274960a23e291067efeaa45473c
『太上感応篇』は道教の勧善書。因果応報の教えです。
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欲知過去因,今生受者是。
過去の因を知らんと欲すれば、今生受くるが是なり。
過去の因縁を知りたければ、今生で享受することがそれである。
欲知来世果,今生作者是。
来世の果を知らんと欲すれば、今生作るが是なり。
来世の果報を知りたければ、今生の行いがそれである。
----------- 『三世因果経』
*記事は随時訂正を加えます。
佛弟子要修淨業 / 仏弟子は浄業を修めなければならない
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第一集)2012/10/21 檔名:02-040-0095
佛教眾生要修淨業。什麼叫淨業?修善、造惡能夠不著相,就是淨業。譬如我修善,不求人天福報,這個善業是淨業。造惡業,我說我不要受三惡道苦,這個不容易。能不能做到?能做到。能做到是別有因緣,過去生中修的有大福報,這一生造作,你看經上講的五逆十惡,乃至於毀謗大乘,這麼重的罪,臨命終時遇到善知識勸導你,真正要你相信西方極樂世界,念阿彌陀佛求生淨土,他真能得生。看起來好像很僥倖,一生造業,你細想的時候,也不容易。為什麼?一生造作惡業,臨命終時頭腦清楚,這一點不容易。
仏は浄業を修めなければならないと衆生に教えています。浄業とは何でしょうか?善を修めても、悪をなしても、それに囚われないこと。これが浄業です。例えば私が善を修めて、人天(人道・天道)の福報を求めなければ、その善業は浄業です。悪業を作り、自分は三悪道の苦しみを受けたくない。これは容易なことではありません。できるでしょうか?できます。できるのには別の因縁があります。過去生の中で大きな福報を修めていることです。この一生で、今日に説かれている五逆十悪、ないしは大乗を誹謗する、これほど重い罪であっても、臨終の時に善知識がその人を導きます。本当に西方極楽世界を信じて、阿弥陀仏を念じて浄土を求生(ぐしょう:生まれることを求めること)すれば、その人は本当に浄土に生まれます。見たところ思いがけない幸いであるかのようです。一生業を作ったのですから、よく考えれば容易なことではありません。なぜでしょうか?一生悪業を作り、臨終の時に意識がはっきりしているのです。この点は容易なことではありません。
多少人臨終的時候迷惑顛倒,連家人都不認識,那就一點辦法都沒有了。所以現在醫學有所謂的老人痴呆症,一得老人痴呆症,極樂世界就沒希望了,這最可怕的事情!年歲大,他頭腦清楚,不迷惑,這就好辦。一勸他,他馬上就相信,馬上就接受,真念佛,他真往生了。
どれほど多くの人が臨終の時に迷いうろたえることでしょうか。家の人さえも分からなくなります。それではまったくどうにもなりません。ですから今の医学で言うところの、老人の認知症になれば、極楽世界の希望はなくなります。これは最も恐ろしいことです!年齢が高く、頭脳明晰で、迷いがないのであれば、何とかなります。一たび勧めれば、その人はすぐに信じます。すぐに受け入れます。本当に念仏して、本当に往生します。
如果這個社會大眾普遍都造業,麻煩大了 / もし社会の大衆が皆で業を作っていれば、大変なことになる
文摘恭錄—淨土大經科註(第五一六集)2012/9/15 檔名:02-037-0516
如果這個社會大眾普遍都造業,麻煩大了。為什麼會有這種事情發生?不能怪別人,要怪自己,在這一個階段沒有聖賢到世間來教化。為什麼聖賢不來?眾生沒修福。你看,說來說去,說到最後還在自己,我們沒有修福,天天在造業。如果我們都肯修福、都肯學好,聖賢就來了。不想學好,聖賢來了都罵他、拒絕他、不接受他,聖賢不來。
もし社会の大衆が皆で業を作っていれば、大変なことになります。なぜこのような事が発生するのでしょうか?人を咎めてはなりません。自分を咎めなければなりません。この段階では、聖賢は世間に教化しに来ません。なぜ聖賢は来ないのでしょうか?衆生が福を修めていないからです。どうでしょうか、長々とお話しして、最後には自分に帰って来るのです。私たちは福を修めることなく、毎日業を作っています。もし私たちが自ら福を修めていれば、自らよく学んでいれば、聖賢は来ます。学ぶ気がなければ、聖賢が来ても、その人を罵り、拒絶し、受け入れません。聖賢は来ません。
聖賢不來,為什麼?他來,你對他侮辱,你對他輕慢,這造罪業,不就加重你的罪業!所以菩薩來,慈悲;不來,還是慈悲。來與不來,不是他那一邊的事情,是我們眾生這一邊的事情。我想學好,他就來了。這個緣所謂是可遇不可求,不必要求,你真想學好,你就會碰到好人,就有好人教你。你不想學好,你就決定遇不到好人,為什麼?遇到好人,你會罵他,你會輕慢他,造罪業。
聖賢が来ないのは、なぜでしょうか?その人が来ても、人はその人を侮辱します。見下します。それは罪業であり、あなたの罪業を重くするのです!ですから菩薩が来るのは慈悲であり、来ないのもまた慈悲なのです。来るか来ないかは、その人(仏菩薩)の事情ではなく、私たち衆生のことなのです。自分が学びたいなら、その人は来ます。このご縁はいわゆる「遇うことは出来ても、求めることはできない」ものです。要求する必要はありません。あなたが本当に学びたければ、あなたは良い人と出会います。良い人があなたに教えてくれます。あなたが学ぶ気がなければ、決して良い人に出会うことはありません。なぜでしょうか?良い人に遇っても、あなたはその人を罵り、その人を見下して、罪業を作るからです。
在這整個世界,我們要了解這個地球上的事實真相,我們會對中國充滿了希望。中國人雖然造業,社會搞成這個樣子,他的底蘊厚!過去千萬年老祖宗教得好。只是最近這兩百年,特別是知識分子,被西方科學技術迷惑了,認為這個東西萬能,中國古聖先賢講的東西沒有用處,對於老祖宗喪失信心、失去信心,起了懷疑,這就是現前災難的根源。
この全世界において、私たちはこの地球上の事実の真相を理解しなければなりません。私たちは中国に対して十分に希望をもっています。中国人は業を作り、社会はこのようになりましたが、(中国には)深い蓄積があります!過去千万年、ご先祖様はきちんと教えていました。最近この二百年だけのことです。特に知識分子(インテリ)たちは、西洋の科学技術に迷い、これが万能で、中国の古聖先賢のものは役に立たないと思い、ご先祖様に対して自信を喪失しました。自信を失いました。疑いを持ちました。これこそが現前の災難の根源です。
沒有人教他,教他,他也不接受,他不相信。科學,要拿證據來,拿不出證據,沒人相信。說古時候怎麼怎麼好,不相信,那是人家寫出來的,不是真的,未必是真的,依舊把它看成人類的一種希求、一種幻想,不承認它是事實,那這就是災難來了。必須經過災難的洗刷,讓他頭腦再恢復清醒,真正想求聖賢、求佛菩薩來救他,這個時候來了。這個完全也是性法爾如是,自自然然的演變,不是沒有原因。
教える人が誰もいません。教えても、その人は受け入れません。信じません。科学は証拠を挙げなければなりません。証拠がなければ誰も信じません。昔はどれほど良かったのかを説いても信じません。それは人が書いたものであって、本当ではない。本当とは限らないものを、相変わらず人類の希望のように見ているのだと。それが事実だと認めません。そのようであれば災難がやって来ます。災難を通して、その人の頭を覚まさせる他はありません。本当に聖賢を求め、仏菩薩(ほとけぼさつ)に救いを求めれば、その時に来ます。これは完全に性徳であり、法爾如是(自然にそうなること)です。自然の移り変わりであり、原因がないことではありません。
自私自利 禍之本源 / 私利私欲は禍(わざわい)の本源
(佛說十善業道經 2000-04-21 新加坡淨宗學會 檔名:19-014-0001)
《感應篇》的文字雖然不長,但是古人所彙編的這些歷史公案因緣、感應故事,卻非常豐富,有理論、有事實,若詳細介紹,永遠說不盡。過去有很多感應的事實,現在更多,無論中國、外國,在報紙、電視等資訊中,常常能看到。這些報導確實長了我們的信心,決不可說我沒有親眼見到,就不承認。李老師曾比喻說:「你的父親、祖父你見過,你承認;你的曾祖父、高祖父也許沒見到,難道就不承認?」我們見不到的事情太多了,現代科學家說,我們眼睛的功能很有限,所見到的光波,只能在適合的波度才能看到,比我們能見光波長的就見不到,短波也見不到,但是用科學儀器測量,確實有長波、短波。我們見不到的,不能說它不存在,不能說它不是事實,否則就是迷信、武斷。
『太上感応篇』の文字数は長くはありませんが、古人が編纂したこれらの歴史、公案、因縁、感応の故事(物語)は非常に豊富で、理論があり、事実があり、もし詳細に紹介しようとするなら永遠に語り尽くせません。過去には多くの感応の事実がありますが、現在では更に多く、中国・外国に関わらず、新聞やテレビ等の情報で頻繁に見ることができます。これらの報道は確かに私たちの信心を深めてくれるもので、「私は自分の目で見ていないから認めない」と言うことはできません。李老師はかつてこう譬えて仰いました。「あなたは父親や祖父は見たことがあるので認めます。曾祖父や高祖父は見たことがないかもしれませんが、まさか認めないということはないでしょう?」
私たちには見えない事がたくさんあります。現代の科学者は言っています。私たちの目の機能には限界があり、目に見える光波(こうは:光の波動)は、適度な光波だけを見ることができます。私たちが見ることができる光波より長い波であれば見えず、短い波でも見えません。しかし科学の測定器で計測すると、長波と短波は確かにあるのです。私たちに見えないものは、存在しないと言うことはできません。それは事実ではないと言うことはできません。そうでなければ迷信、独断というものです。
佛是非常科學的,他讓我們去證明,宇宙之大,無奇不有。科學家知道空間有不同的維次,有三度空間、四度空間、五度空間;在理論上講,空間是無限度的。而與我們不同維次的空間,我們見不到,也無法接觸。科學家了解有不同維次空間的存在,但是無法突破。佛法不僅了解這個事實,而且也清楚其由來與演變,所以佛法有理論、有方法突破空間。佛法講不同維次的空間,是由一切眾生妄想、分別、執著造成的,眾生的妄想、分別、執著無量無邊,所以空間維次也就無量無邊。知其根源所在,只要消除根源,問題就解決了。
仏は非常に科学的です。彼は私たちに、宇宙の大きさ、あらゆる不思議なことを証明させます。科学者は空間には異なる次元の空間があることを知っています。三次元空間、四次元空間、五次元空間があります。理論上では空間は限りなくあります。私たちと異なる次元空間は見ることができません。また接触することもできません。科学者は異次元空間の存在を理解しています。しかし突破することはできません。仏法では、異次元空間は一切衆生の妄想、分別、執着によって作られたものだと説かれています。衆生の妄想、分別、執着は無量無辺なので、空間の次元もまた無量無辺なのです。その根源の所在を知り、根源を取り除きさえすれば、問題は解決します。
佛法用禪定的方法,降伏一切妄想、分別、執著,於是不同維次空間就突破了。放下得愈多,突破的層次愈深。心愈清淨,接觸的境界也愈廣大;妄念煩惱愈多,生活的空間就愈小,也就無法突破。佛法講八萬四千法門,就是八萬四千種不同的方法,然而這種種法門,皆是修禪定的不同方式而已。換言之,皆是以消除妄想、分別、執著,以恢復自性真心為目的。真心是「心包太虛,量周沙界」,「無所不知,無所不能」。我們學習佛法,就是學習「看破、放下」。真心、本性是我們的根本,現在染上自私自利,才產生問題。
仏法は禅定の方法を用いて、一切の妄想、分別、執着を降伏させ、異次元空間を突破します。たくさん放下【注1】すればするほど、突破する階層はより深くなります。心が清浄であればあるほど、接触する境界も広大になります。妄念の煩悩が多ければ多いほど、生活の空間はより小さくなり、突破できなくなります。仏法は八万四千の法門を説いています。八万四千種類の異なる方法です。そしてこの種々の法門は、すべて禅定を修める異なる方式に過ぎません。言い換えるなら、すべては妄想、分別、執着を取り除いて、自性【注2】の真心を回復させることを目的としているのです。真心は「心は太虚(大宇宙)を包み、量は沙界(しゃかい:無量無辺の世界)を周(めぐ)る」(心包太虚,量周沙界)、「知らざる所無く、能はざる所無し」(無所不知,無所不能)です。私たちが仏法を学ぶのは、要するに「看破、放下」を学ぶのです。真心、本性は私たちの根本です。今は私利私欲に染まっているので、問題が生じているのです。
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【注1】 放下(ほうげ)・・・・(執着を)捨て去ること。手放すこと。
【注2】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
【参考】 仏法は空間を突破する: http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/b2be31a023ea2b4e34ae4c17c7c10ecf
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真心是什麼樣子?大乘經講:「真心離念」。換言之,無妄念的心就是真心,有妄念的心就是妄心。最嚴重的妄念就是我執,起心動念以「我」為中心,自己的利益至上,這種錯誤的觀念,縮小了自己的生活空間,也帶來了痛苦與煩惱。現代人甚至連夫妻之間都不能坦誠相見,還有個人祕密,這麼嚴重的我執!除我之外,全世界沒有一個可靠的人,一生不敢與人說真話,這種人生活在世間,就是經上講的「可憐憫者」。而學佛人沒有自私自利,對待任何人都坦誠公開,沒有絲毫祕密。
真心とはどのようなものでしょうか?大乗経には、「真心は念を離れる」(真心離念)と説かれています。これを言い換えれば、妄念の無い心、それが真心です。妄念のある心、それが妄心です。最も重い妄念は我執(がしゅう)です。心の働きは自分の「我」が中心で、自分の利益に最高の価値を置いています。このような誤った観念は、自分の生活空間を狭め、また苦痛と煩悩をもたらします。現代人は甚だしきに至っては、夫婦の間でさえ正直に接することができず、更に個人の秘密を持ちます。これほど深刻な我執です!自分の他には、全世界に誰も頼れる人がおらず、一生人に本音を話すことができません。このような人の世間における暮らしは、正に経に説かれている「可憐憫者」(かれんみんしゃ)です。仏法を学ぶ人に私利私欲はありません。如何なる人に対しても正直に公開して、秘密はまったくありません。
所以,學佛要想有成就,要想求生西方極樂世界,親近阿彌陀佛,如果有私心,即使念佛念得再好,也是枉然。何以故?西方極樂世界是「諸上善人俱會一處」,不但是善,而且是最善、上善,我們不善如何去得了?何謂上善?就是決定沒有自私自利,為虛空法界一切眾生,有如此大的心量,才是上善。有自私自利,即使再大的福報,也只能享受一生。因此,首應拓開心量,絕不為自己,一切為正法久住。正法是教化眾生,幫助眾生覺悟,這是第一等的好事。
ですから仏に学んで成就したいと思い、西方極楽世界に生まれて阿弥陀仏に親しみたいと思っても、私心があるのであれば、どれほど上手に念仏しても徒労に終わります。なぜでしょうか?西方極楽世界は「諸上善人、倶(とも)に一処に会す」(諸上善人俱會一處)であり、善というだけでなく、最善であり、上善なのです。私たちが不善であれば、どうして行くことができるでしょうか?上善とは何でしょうか?それは決して私利私欲を持たず、虚空法界一切衆生の為にという、これほど大きな度量を持っていてこそ上善です。私利私欲があろうと、どれほど大きな福報であっても、ただこの一生で享受するだけのことです。そうであるなら度量を大きく開いて、決して自分の為にすることなく、一切を「正法久住」(正法がこの世に末永くとどまること)の為にすべきです。正法は衆生を教化し、衆生が悟ることを助けます。これが第一等の善事です。
要想社會安定,世界和平,眾生和睦相處,平等對待,互相尊重,互助合作,整個世界是一個大家庭,如何才能落實?政治、武力、經濟、科學、技術均無法辦到,幾千年的歷史,使我們明白,能達到這個目的唯有教育。釋迦牟尼佛是王子出身,武藝超群,可以作國王、作將軍,然而他都捨棄了,終身從事於多元文化的社會教育。用現代的概念來講,釋迦牟尼佛是「多元文化社會教育的工作者」,而且是義務教學,不收學費。每天三衣一缽,過最簡單的生活,清淨自在,快樂無比。
社会の安定、世界平和を思うのであれば、衆生が仲睦まじく、人と平等に接し、相互に尊敬し合い、互いに助け合うことです。全世界は一つの家族です。どうすれば具現化することができるのでしょうか?政治、武力、経済、科学、技術ではどうにもなりません。数千年の歴史で、私たちには明らかです。この目的を達するには教育しかありません。釈迦牟尼仏は王子の出身でした。武芸に秀で、国王になり、将軍になることができました。そして彼はすべてを捨てて、生涯多元文化の社会教育に従事されました。現代の概念で言えば、釈迦牟尼仏は「多元文化社会教育の活動家」です。しかも奉仕の教学で、学費は取りません。毎日、三衣一鉢【注3】で、最も簡単な生活をされていました。清浄自在にして、この上なく満ち足りていました。
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【注3】 三衣一鉢(さんえいっぱつ)・・・・「三衣」は僧が着る三種の袈裟(僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会)。「鉢」は托鉢に用いる食器の鉢。
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世尊當年在世,遊學五印度(當時的印度與中國周朝一樣,尚未統一),用教學化解了國與國之間的矛盾、衝突。我們在書上常看到,當時十六大國的國王都皈依佛法,依釋迦牟尼佛做老師。在佛教未傳到中國之前,古聖先賢也懂這個道理,所以提倡孝道,提倡師道。漢武帝制定國家教學的方針,也就是國家的教育政策,是根據《禮記‧學記》來實施。《學記》云:「建國君民,教學為先。」這是中國古老的教育哲學。
世尊がご在世の頃、インド各地を遊学され(当時のインドは中国の周朝と同じように、まだ統一されていなかった)、国家間の矛盾、衝突を、教学を用いて解決されました。私たちは書物の中に見ることができます。当時十六の大国の国王はすべて仏法に帰依して、釈迦牟尼仏を老師としていました。仏教がまだ中国に伝わる前、古の聖なる先賢もこの道理を理解していたので、孝道【注4】を提唱し、師道【注5】を提唱しました。漢の武帝は国家の教学の方針を制定しました。国家の教育政策は『礼記』の「学記」に基づいて実施しました。「学記」には、「国を建て民に君たるに、教学を先と為す」(建国君民,教学為先)と説かれています。これが中国の昔からの教育哲学です。
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【注4】 孝道(こうどう)・・・・父母に仕える道のこと。親孝行の道。
【注5】 師道(しどう)・・・・①師に仕えて学ぶ道。②人の師として守り行うべき道。
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國家之治亂,在於教育;家庭之興衰,亦在教育。家能不能興,端父母對小孩的了解,並能及時加以引導,糾正其錯誤的思想。讀書學習志在培養其操守行,智慧、技能是為社會、為國家、為全世界人類而服務,並不是為自己家庭賺錢。諺語說:「一家飽暖千家怨」,若是你一家很富裕,不照顧別人,別人都是你的冤家債主,到你運衰的時候,群起而攻之,你這個家就滅亡了。所以,要學會布施恩於人,自己有能力、有財富,要布施貧窮的人,你的家道永遠不衰。為什麼?貧窮人擁護你,「你是好人,你肯幫助別人,我們希望你發大財」。因此,我們一定要學會幫助別人,幫助社會。我們幫助別人,自己遇到困難時,別人才會幫助我們。
国家の治乱(ちらん:治まるか乱れるか)は教育にかかっています。家庭の盛衰もまた教育にかかっています。家が栄えるかどうかは、ひとえに父母の子どもを理解して、機を逸することなく指導を与え、誤った考えを正せるかどうかにかかっています。読書学習の志はその徳行を養うことにあり、智慧と技能は社会の為、国家の為、全世界の人類に奉仕する為であり、自分の家がお金を稼ぐ為ではありません。諺では、「一つの家が飽食暖衣すれば千の家が怨む」(一家飽暖千家怨)と言います。もしあなたの家がとても裕福で、他人を顧みないなら、他人は皆あなたを恨むようになります。あなたの運気が衰えた時、群をなして責め立て、あなたの家は没落します。ですから恩徳を人に施すことを学ばなければなりません。自分に能力、財産があるなら、貧しい人に施すことです。あなたの家は永遠に衰退しません。なぜでしょうか?貧しい人があなたを擁護します。「あなたは良い人です。あなたは進んで人助けをします。だから私たちはあなたに豊かになって欲しいのです」。このことからも、私たちは人を助けること、社会を助けることを必ず学ばなければなりません。私たちが人を助ければ、自分が困難に遭った時、人は私たちを助けてくれるものです。
財是通貨,像流水一樣,大去大來,小去小來,不去就不來。財不可以積,一積就錯了,佛經講「積財喪道」,所以財要用來幫助苦難的人,多做利益社會、大眾的事情,這是真實功。
「財」は通貨です。流れる水と同じように、多く使えば多く来て、少なく使えば少なく来て、使わなければ来ません。財は蓄えてはなりません。蓄えるのは間違いです。仏経には、「財を蓄えれば道を失う」(積財喪道)と説かれています。ですから財は苦難の人を助けるのに使います。社会のご利益、大衆の事に多く用いることです。これは真実の功徳です。
歸根結柢,學佛就是要放下「自私自利、名聞利養、貪瞋痴慢」,只要把這十二個字放下,學佛就能成佛。你學佛不能成佛,這十二個字總有幾個字沒放下,造成了障礙。佛菩薩之所以能成佛菩薩,就是這十二字完全沒有了。
結局、仏に学ぶとは、「私利私欲、名聞利養、貪瞋痴慢」を放下することです。この十二字を放下しさえすれば、仏に学んで仏に成ることができるのです。あなたが仏に学んで仏に成れないのは、この十二字のうち常に何字か放下していない為に、障碍が生じているのです。仏菩薩(ほとけぼさつ)が仏菩薩に成れた理由は、正にこの十二字が完全に無くなった為です。
我們常說佛菩薩乘願再來,何謂乘願再來?發的願力超過業力,當下就是乘願再來。佛菩薩是什麼願?佛菩薩應化在世間,是為大眾服務,不是為自己。我們念念為我,為我就是業力。身體不是我的,身體是為一切眾生服務的工具,你就是乘願再來,與佛菩薩無別。凡夫與佛只在一念之差,一念迷,迷什麼?這個身是我,一切都為我;佛菩薩覺,覺什麼?身體不是我,身體是為眾生服務的工具,盡量發揮這個工具的作用,為一切眾生造福。不為自己,自己的智慧、福報無量無邊。我們在這裡做一百八十度的大轉變,這一生肯定成就。
私たちはよく仏菩薩の乗願再来と言いますが、乗願再来とは何でしょうか?発する願力が業力を超えていれば、その場で乗願再来となります。仏菩薩は何を願うでしょうか?仏菩薩が世間に応化【注6】するのは、大衆に奉仕する為であり、自分の為ではありません。私たちは自分のことばかりです。自分の為とは正に業力です。身体は自分ではありません。身体は一切衆生に奉仕する為の道具です。あなたは正に乗願再来であり、仏菩薩と区別はありません。凡夫と仏とは一念の差に過ぎません。一念の迷い。何に迷うのでしょうか?この身体が自分だと思い、一切を自分の為だけにすることです。仏菩薩は覚っています。何を覚っているのでしょうか?身体は自分ではありません。身体は衆生に奉仕する為の道具です。できる限りこの道具の働きを発揮させ、一切衆生の為に福を造ります。自分の為でなければ、自分の智慧、福報は無量無辺です。私たちはここで百八十度の大転換を成し遂げれば、この一生で必ず成就します。
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【注6】 応化(おうげ)・・・・仏菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること。
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佛菩薩如何幫助苦難眾生 / 仏菩薩(ほとけぼさつ)は如何にして苦難の衆生を助けるのか
(1998-11-14早餐)
近幾年來,災難愈來愈多,眾生生活愈來愈苦,往後還會繼續嚴重。有人問我,「佛菩薩大慈大悲,如何來救度一切苦難眾生?」這些話說得沒錯,但正確的意思往往被曲解。諸佛菩薩慈悲救度,不是說眾生缺少食物、衣服,佛就送糧食、送衣服。佛是幫助眾生破迷開悟,讓眾生明瞭災難的起因,然後將其原因消除,災難的果報就沒有了,這才是真正的救度一切眾生。要想得到幸福美滿、自在快樂,這些是果報,果必有因,佛菩薩教我們修因,修善因一定得善果,這才是正確之理、真實救度。
ここ数年来、災難は増々多くなり、衆生の暮らしは増々苦しくなっています。今後も引き続き厳しくなることでしょう。ある人が私に、「仏菩薩が大慈大悲(だいじだいひ)であるなら、どのようにして一切の苦難の衆生を救済するのでしょうか?」と聞きました。これらは良い質問ですが、正しい意味は往々にして曲解されています。諸仏菩薩が慈悲をもって救うのは、衆生に食料や衣服がなければ仏がそれらを与えてくれるということではありません。仏は衆生が「迷いを破り 悟りを開く」(破迷開悟)のを助け、衆生に災難の起因(きいん:原因)を明らかにさせます。そしてその原因を取り除けば、災難の果報はなくなります。これこそが真に一切衆生を救うということです。幸福や自在の喜びを得ようと思うなら、これらは果報であり、果には必ず因があります。仏菩薩は私たちに因を修めることを教えます。善因を修めれば必ず善果が得られます。これこそが正しい理(ことわり)であり、真実の救済です。
世尊的慈悲,表現在他一生的生活之中。佛是福慧二足尊,也就是智慧、福報都圓滿,既然福報圓滿,為何不示現享福?《無量壽經》講,這個世間福報最大的是大梵天王,但大梵天王的福報,還比不上極樂世界下下品往生之人。我們這才明瞭,佛的福報確實是世出世間無人能相比。釋迦牟尼佛示現三衣一缽,日中一食,樹下一宿,這就是大慈大悲的落實。畢竟世間富貴人少,貧賤人多,若佛示現富貴的身分,貧賤人看到佛只有仰慕,而不敢親近。佛示現貧賤到極處,貧賤之人看到佛跟自己一樣,會感到非常親切,所以心就平了。這是佛的大慈大悲,我們要能體會。
世尊の慈悲は、世尊一生の生活の中に表現されています。仏は「福慧二足尊」、つまり智慧と福報がすべて円満です。福報が円満であるのに、どうして福を享受することを示現されないのでしょうか?『無量寿経』には、この世間の福報で最も大きいのは大梵天王であると説かれています。しかし大梵天王の福報は、極楽世界に下下品【注1】の往生をした人にも及びません。私たちはこのことからも、仏の福報は確かに世間・出世間に及ぶ人はいないことが分かります。釈迦牟尼仏は三衣一鉢【注2】を示現され、一日に一食、樹の下で眠られました。これが大慈大悲の実践です。世間には富貴の人は少なく、貧しい人が多いので、もし仏が富貴の身分で示現すれば、貧しい人はただ羨むばかりで、親しむことはできません。仏の示現はこの上なく貧しかったので、貧しい人は仏が自分と同じなのを見て、非常に親しみを覚えました。ですから心は平らかになります。これは仏の大慈大悲です。私たちは理解しなければなりません。
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【注1】 下下品(げげぼん)・・・・極楽往生には上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)の位があり、それぞれ更に上中下の区別がある。下下品(げげぼん)はその中の最下位。
【注2】 三衣一鉢(さんえいっぱつ)・・・・「三衣」は僧が着る三種の袈裟(僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会)。「鉢」は托鉢に用いる食器の鉢。
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學佛人若是高高在上,住處像皇宮一般,出門坐名牌轎車,這些苦難人看到做何感想?尤其出家人的財富、享受是十方供養的,釋迦牟尼佛成佛,也沒有這樣享受。佛一生不求人,每天托缽也只托七家,七家都托不到,今天就餓一天;托了第一家能吃得飽,就不托第二家。這種示現是教導我們要知足常樂,世間人的病根就是不知足,所以才招致無量無邊的禍害。
仏に学ぶ人がもし遥かに上で、皇宮のような所に住み、高級車に乗って出かけるなら、それを見た苦難の人々はどう思うでしょうか?特に出家人の財産、享受するものは、方々で供養されたものです。釈迦牟尼仏は仏に成られても、そのような享受はしていません。仏は一生人に求めず、毎日の托鉢も七軒だけでした。七軒(の托鉢)で得られなければ、一日腹を空かせて過ごします。一軒目で空腹を満たせれば、二軒目には行きません。このような示現は私たちに「足るを知る人は常に幸せである」(知足常楽)ことを教えています。世間の人の病根は、足るを知らないことです。そのために無量無辺の禍(わざわい)を招いています。
學佛就是向佛學習,無論是何種身分,無論從事何種行業,都要學習佛的精神、佛的理念、佛的慈悲,而且要落實在生活當中。自己生活要樸實、要知足,有多餘的要與一切眾生共享,這是佛菩薩與世間人理念不同之處;佛菩薩是有福大家享,凡夫是有福自己享,不願與人分享。佛不僅以言語教導眾生,他自己是說到做到。他真看破,看破就是世出世間一切理事因果都通達明瞭;他真放下,於世出世法絲毫不牽掛,名聞利養、五欲六塵連邊都不沾。現在有許多同修覺得自己業障深重,災難很多,問如何消業障、化解災難,實在講釋迦牟尼佛一生示現的就是。我們要是學會了,利益無量無邊,不但眼前災難可以消除,無始劫來的業習也能斷除。
仏法を学ぶとは、仏に学ぶことなのです。どのような身分であろうと、どのような仕事に従事していようと、すべて仏の精神、仏の理念、仏の慈悲に学び、そして生活の中で実践しなければなりません。自分の生活は質素にして、足るを知り、余計に余れば一切衆生と共に享受します。これが仏菩薩と世間の人の理念の異なるところです。仏菩薩は福があれば皆で享受します。凡夫は福があれば自分で享受して、人と分かち合おうとは思いません。仏は言葉で衆生を導くだけでなく、彼自身が説いたことを実践します。仏は真に看破されました。看破とは、世間・出世間一切の理、事、因果に通達し、明瞭だということです。仏は真に放下されました。世間・出世間の事に少しも気掛かりはなく、名聞利養(みょうもんりよう)、五欲・六塵【注3】の端にも染まりません。今多くの門徒は自分の業障(ごっしょう)【注4】が深く、災難が多いと感じていて、どうすれば業障を消して、災難を解消できるのかと質問します。実際には釈迦牟尼仏が一生で示現されたことがそれなのです。私たちがもし修得できれば、ご利益は無量無辺です。目の前の災難を解消できるばかりか、無始劫来の業習も断ち切ることができます。
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【注3】 五欲(ごよく)・・・・財欲、色欲、食欲、名欲、睡眠欲。
六塵(ろくじん)・・・色、声、香、味、触、法の六境のこと。
【注4】 業障(ごっょう)・・・・過去の悪業によって生じた障害のこと。
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由此可知,我們學佛實在是粗心大意。佛法沒有祕密,非常明顯的呈現在我們眼前,我們看不出來,也覺察不到,這是我們業障深重。我們雖然讀經、聽經,還是不懂經義,不能將這些教誨落實在現實生活當中,所以得不到真正利益。我們不能怪佛菩薩不慈悲,不能怪佛菩薩沒有幫助我們,佛菩薩是真幫助,而是我們沒有理會,反而讓因緣當面錯過,這個過失在自己。所以,自己要反省、要懺悔,要從反省懺悔中去學習。
ここから、私たち仏法を学ぶ者が如何に不注意かが分かります。仏法に秘密はありません。非常に明らかに目の前に現れています。私たちは見て取ることも、気づくこともできません。これは私たちの業障が深いためです。私たちは読経し、経を聴いても、まだ経義を理解できず、これらの教誨を生活の中で実践することができません。ですから真のご利益を得られません。仏菩薩には慈悲がないと疑ってはなりません。仏菩薩は助けてくれないと疑ってはなりません。仏菩薩は本当に助けます。私たちは気がつかずに、かえって因縁を目の前で逃しているのです。この過失は自分自身にあります。ですから自分で反省し、懺悔して、反省と懺悔の中から学ばなければなりません。
克服自己的煩惱習氣,就是消業障。克服的方法很多,佛家常講八萬四千法門,法是方法,門是門徑;克服煩惱的門徑,消除業障的門徑,無量無邊。在無量法門中,世尊告訴我們,念佛法門是最方便、最簡單、最容易、最有效果的。而念佛的理論一定要懂得,對於念佛就不會懷疑,佛號就能產生效果、力量;力量就是能消業障,能斷煩惱。念佛能否消業障,斷煩惱,關鍵就在如不如法,會不會念。會念的人如理如法,效果就非常殊勝。
自分の煩悩の習気(じっけ)を克服すること、それが業障を消すことです。克服する方法はたくさんあります。仏家ではよく八万四千の法門と言います。法は方法、門は手掛かりです。煩悩を克服する手掛かり、業障を解消する手掛かりは、無量無辺にあります。無量の法門の中で、念仏法門は最も簡単で、最も容易で、最も効果があると世尊は説かれています。念仏の理論は必ず理解しなければなりません。念仏に対する疑いがなければ、仏号の効果、力を生むことができます。その力は業障を消し、煩悩を断つことができます。念仏して業障を消し、煩悩を断てるかどうかは、法に適っているか、念じることができるかどうかが鍵です。念じることができる人は理に適い、法に適い、効果は非常に殊勝なものです。
所以,不但要懂得經義,還要「深解義趣」,因為對於經教解得愈深、愈徹底,信心就愈堅定,信心能轉境界。《金剛經》云:「信心清淨,則生實相」,信心真的清淨,就能轉十法界成一真法界,一真法界就是實相。能將十法界轉變成一真法界,就是「境隨心轉」。所以,佛救度一切眾生,就是教導他自己轉境界,因為境界是自己造成的,只有自己能解決,任何人都幫不上忙,諸佛菩薩也幫不上忙。《楞嚴經》上,阿難尊者遭了難,佛也不能幫助他,佛只能將遭難的前因後果講明,然後告訴他如何化解災難,化解還是在自己。自己通達明瞭,把心行轉變過來,災難就消除,境界就轉變。
ですから経義を理解するだけでなく、更に真義を深く理解(深解義趣)しなければなりません。経教をより深く、より徹底して解すれば、信心はより堅固になります。信心は境界(きょうがい:境地)を転じます。『金剛経』には、「信心清浄ならば、則ち実相を生ぜん」(信心清浄,則生実相)と説かれています。信心が本当に清浄(しょうじょう:清らか)であれば、十法界を一真法界【注5】に転じることができます。一真法界こそが実相です。十法界を転じて一真法界に変えることは、正に「境は心に随って転ず」(境随心転)です。ですから仏が一切衆生を救済するのは、正にその人自身が境界(きょうがい:境地)を転じることを教え導くことなのです。なぜなら境界(境地)は自分でつくったものであり、解決できるのは自分だけだからです。如何なる人も助けることはできません。諸仏菩薩も助けることはできません。『楞厳経』において、阿難(アーナンダ)尊者は難に遭いましたが、仏(釈尊)も彼を助けることはできませんでした。仏はただ難に遭う前の「因」と後の「果」を説き明かして、如何にして災難を解消するかを彼に説かれただけです。解消するのは自分です。自分が明瞭になれば、心行(しんぎょう)も変わり、災難は取り除かれます。境界が変わります。
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【注5】 十法界(じっぽっかい)・一真法界(いっしんほっかい)・・・・下記、参考1参照。
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起一念惡心,善境界就變成惡境界;起一念善心,惡境界就變成善境界,最明顯的是十法界。一念平等心,佛法界現前;一念六度心,菩薩法界現前;一念貪瞋、十惡心,生活的環境就是五濁惡世;一念清淨心,就是清泰安穩,就是極樂世界。佛常說:「凡所有相,皆是虛妄」,就是因為相是虛妄的,所以念頭才能轉境界,而且這種虛妄如「夢幻泡影」。所以,佛說:「種種心生,種種法生;種種法生,種種心生」,這就是說明宇宙人生的真相。又說:「一切法從心想生」,真正能透徹理解這個道理,就知道我們的心怎麼想,世界環境就怎麼變;大環境會變,小環境也會變;我們的容貌會變,體質會變,生活環境統統會變,這就是「境隨心轉」。所以,境界沒有不能轉變的,不能轉變是對理論不透徹,方法不清楚,再加上沒有耐心,這就收不到效果。若如理如法,豈有轉變不了之理?
一念の悪心を起こせば、善の境界は悪の境界に変わります。一念の善心を起こせば、悪の境界は善の境界に変わります。最も明瞭なのは十法界です。一念の平等心で仏法界が現れ、一念の六度心で菩薩法界が現れます。一念の貪(むさぼり)瞋(いかり)・十悪心で、生活の環境は五濁悪世(ごじょくあくせ)になります。一念の清浄心で、清らかで平穏になります。正に極楽世界です。仏がよく「およそ姿・形あるものは、すべて虚妄である」(凡所有相,皆是虚妄)【注6】と説かれているのは、正に相は虚妄であり、意念こそが境界を転じることができるからです。しかもそのような虚妄は夢、幻、泡、影のようなものなのです。ですから仏は「種々の心生じ、種々の法生ず。種々の法生じ、種々の心生ず」(種種心生,種種法生;種種法生,種種心生)と説かれています。これは正に宇宙・人生の真相を説明しています。また「すべては心から生じる」(一切法従心想生)と説かれています。本当に透徹してこの道理を理解することができれば、私たちの心がどう思うかによって、世界の環境がそのように変わるということが分かります。大きな環境が変わり、小さな環境も変わります。私たちの容貌も変わり、体質も変わり、生活環境のすべてが変わります。これが正に「境は心に随って転ず」(境随心転)です。ですから境界(環境、境地)は変えられないものはありません。変えられないのは理論を透徹しておらず、方法が不明確で、加えて忍耐心がないからです。これでは効果を得ることはできません。もし理に適い、法に適っていれば、変えられないという道理があるでしょうか?
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【注6】 凡所有相,皆是虚妄。(凡そ相有る所、皆是虚妄なり)・・・・『金剛経』の言葉。
およそ相(姿・形)あるものは、すべて虚妄である(相は虚妄であり、実体はない)。
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佛法之殊勝、微妙,是世出世間一切法無法相比的。我們這一生有幸得人身,聞佛法,對於甚深的義理、義趣稍微明白,真正是希有難逢,所以一定要認真努力來修學。修學就是實踐,做出樣子給一切眾生看,這是真正幫助一切眾生覺悟。樣子是招牌,招牌好,令人看了生歡喜心。佛的相好無人能比,所以佛說法眾生肯相信。只要依佛的教誨修學,都能得如佛一樣的自在、圓滿,這就是現身說法。
仏法の殊勝、微妙さは、世間・出世間一切の法と比べることはできません。私たちはこの一生で幸いにして人身を得て、仏法を聞いています。甚深(じんしん:奥深いこと)の道理、趣を少しばかり理解しています。これは本当に稀有で逢い難いことなのです。ですから真剣に努力して修学しなければなりません。修学とは実践です。実践する姿を一切衆生に見せることです。これが本当に一切衆生の悟りを助けます。姿は看板です。看板が良ければ、人に見せると歓喜心を起こします。仏の相好(そうごう)は誰とも比べることができません。だからこそ衆生は仏の説法を信じるのです。仏の教誨に即して修学しさえすれば、仏と同じような自在、円満を得ることができます。これが現身説法です。
<参考>
1.仏法の世界観
浄土(じょうど)
一真法界 生滅の無い世界
真理そのものの根源的な境界
↑
十法界(四聖法界+六道輪廻) 生滅のある世界
【四聖法界】(悟界)仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界
↑
穢土(えど)
【六道輪廻】(迷界)天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界
談因果與布施 / 因果と布施を語る
(1999-05-19早餐)
【不昧因果】
(ふまいいんが:因果をくらますことはできない)
《太上感應篇》和《了凡四訓》,都是說明業因果報的理論與事實真相。這些道理很深,事相非常複雜,因果牽連就像羅網一樣非常微細,不但是六道眾生墮落在其中,四聖法界也無法擺脫。
『太上感応篇』と『了凡四訓』は、どちらも業因果報の理論と事実の真相を説明しています。これらの道理はとても深く、事相は非常に複雑です。因果の繋がりは網のように非常に微細で、六道の衆生をその中に堕落させるだけでなく、四聖法界【注】も逃れることはできません。
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【注】 四聖法界・・・・仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界。脚注参照。
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譬如,禪宗有一則「野狐禪」的公案,有人向一位講經說法的大請教:「大修行人還落不落因果?」大修行人是明心見性的法身大士。他回答說:「不落因果。」因一句話說錯,所以墮在畜生道,做了五百世的狐狸。五百世的狐狸有修行,也能變成一個人身。當時百丈大師講經說法時,牠變成一位老人在底下聽經。百丈大師知道牠不是人,但是一般人不曉得。牠向百丈大師請教,百丈大師說:「明天講經時,你再把問題提出來。」到第二天上堂,這位老人向百丈大師提出:「大修行人落不落因果?」百丈大師改了一個字:「不昧因果。」牠到第二天就往生了,脫離狐狸身。所以,錯下一字轉語,墮五百世野狐身。
例えば禅宗には「野狐禅」の公案があります。ある人が講経説法する大徳に教えを請います。「大修行の人でも因果に落ちるのでしょうか?」。大修行の人とは明心見性した法身大士です。彼は「不落因果」(ふらくいんが:因果に落ちることはない)と答えました。ひとこと言い間違えた為に、畜生道に堕ちて、五百世ものあいだ狐狸になりました。五百世の狐狸は修行を積んで、人身に化けることができました。当時、百丈大師が講経説法している時、彼は老人に化けて聴講しました。百丈大師は彼が人ではないと分かりました。しかし一般の人には分かりません。彼が百丈和尚に教えを請うと、百丈和尚は、「明日の講経の時に、また質問して下さい」と言いました。次の日に講堂に行くと、この老人は百丈大師に質問しました。「大修行の人は因果に落ちるのでしょうか?」。百丈大師は一字を改めました。「不昧因果」(ふまいいんが:因果をくらますことはできない)。彼は次の日に往生して、狐狸身を離脱しました。ですから一字の誤りで、五百世野狐身に堕ちたのです。
這就說明,諸佛如來有沒有因果?不能說有,也不能說沒有,說有、說沒有都是錯誤的。「不昧因果」,不昧是對於因果的道理與事實真相,清清楚楚、明明白白,所以能隨類化身,隨機說法,與十法界眾生和光同塵。十法界眾生是在演戲,諸佛菩薩是來看戲,所以他能清楚、明瞭。
これはつまり、諸仏如来に因果はあるということでしょうか?あるとは言えませんし、また無いともいえません。あると言っても、無いと言っても間違いです。「不昧因果」の不昧(ふまい)とは、因果の道理と事実の真相に対して、はっきりと、明瞭であることです。ですから類に随って化身し、機に随って説法して、十法界の衆生と和光同塵するのです。十法界の衆生は劇を演じています。諸仏菩薩は劇を見に来ています。ですから彼にははっきりしていて、明瞭です。
這麼深的道理,我們想在一生當中參透不容易。為何不容易?煩惱、習氣沒有斷。百丈大師能做到,是因為他明心見性了。明心見性的境界,是分別、執著都沒有了。於世出世間一切法,不會有一絲毫的分別、執著,才能脫離六道,脫離十法界,證得一真法界。我們最困難的,就是分別、執著放不下。說不分別,還分別「不分別」,又落在分別之中;說不執著,又執著「不執著」,總無法擺脫,這是凡夫的難處。
これほど深い道理は、一生で悟るのは容易ではないと私たちは考えます。なぜ容易ではないのでしょうか?煩悩、習気(じっけ)を断っていないからです。百丈和尚には出来ました。それは彼が明心見性していたからです。明心見性の境界(=境地)には、分別・執着はありません。世間・出世間一切法において、僅かな分別・執着もなくなって、ようやく六道を離脱し、十法界を離脱して、一真法界を証得します。私たちにとって最も困難なのは、正に分別・執着を放下できないことです。分別しないと言えば、分別しないことを分別していて、また分別の中に落ちてしまいます。執着しないと言えば、また執着しないことに執着してしまい、どうしても離脱できません。これが凡夫の難しいところです。
【談布施】
布施を語る
《六祖壇經》裡有預記,六祖是禪宗第六代祖師,馬祖道一和尚是第七代祖師,六祖預記馬祖道一和尚將有兩個徒弟是菩薩化身再來的,一是出家的,一是在家的,在家的菩薩就是龐蘊居士。龐居士表演了一招,「好事不如無事」。無事不是不做事,無事是心裡無事,心地乾淨,無論做什麼事,一塵不染,也就是決定沒有妄想、分別、執著。心裡無事,才能為一切眾生服務,才能做真正的好事,做再小的善都是大功。而心裡有事,造多少善都是福報,不是功。所以,要緊的是心裡無事,不是身無事,身無事你就不會去修福,縱然有慧也沒有福報。
『六祖壇経』の中には予め記されていたことがあります。六祖(慧能)は禅宗第六代の祖師です。馬祖道一和尚は第七代祖師です。六祖は、馬祖道一和尚の二人の徒弟(とてい:弟子)は菩薩の化身であり、一人は出家、一人は在家であると予め記されています。在家の菩薩は龐蘊居士です。龐居士は、「好事不如無事」(好事は無事に如かず:良い事は何も無い事には及ばない)ということを演じました。何も無い(無事)とは何もしないことではありません。何も無いとは、心の中に何も無く、心がきれいで、どんな事をしても一塵にも染まらないことです。つまり絶対に妄想・分別・執着はありません。心の中に何も無くなって、ようやく一切衆生の為に奉仕することができ、真の善行をすることができます。どれほど小さな善を為しても、すべて大功徳です。しかし心の中に事があれば、どれほど多くの善を為してもすべて福報であり、功徳ではありません。ですから大切なのは心の中に何も無いことであり、身体で何もしないことではありません。身体で何もしなければ福を修めることはできません。たとえ智慧があっても福報は得られません。
為一切眾生服務,第一是布施,布施金錢,布施體力。體力是內財布施,功比金錢布施大;金錢是外財,是身外之物,億萬外財也比不上自己親身以勞力來布施。譬如,道場裡有很多義工,他們用自己的勞力來服務、來布施,功超過外財。有錢的人到寺廟裡去布施幾百萬,還不如在道場裡天天做義工的人。用身外財力來布施的功小,再多都小,而內財布施的功大。在《華嚴經》上,對此有很大篇幅的說明。
一切衆生の為に奉仕する、その第一は布施です。金銭を布施し、体力を布施します。体力は内財であり、功徳は金銭の布施より大きいものです。金銭は外財であり、身体の外の物です。億万の外財も、自分の身体を労してする布施には及びません。例えば、道場にはたくさんのボランティアがいます。彼らは自分の労力で奉仕し、布施をしていますが、功徳は外財を超えています。お金のある人が寺院に来て数百万の布施をしても、道場で毎日ボランティアをする人には及びません。身体の外の財力で布施をした功徳は小さいもので、どれほど多くても小さいのです。内財施の功徳は大きなものです。『華厳経』には、このことについて非常に長い説明があります。
到了法身大士,就不是講布施,而是講供養,普賢菩薩是「廣修供養」。供養與布施,實在講是一件事情,但是用心不一樣。供養是以孝順心,布施不是孝順心,所以大乘菩薩用布施,普賢菩薩用供養。普賢菩薩代表法身大士,《華嚴經》上四十一位法身大士都是普賢菩薩,都是修普賢行,普賢菩薩就是用孝順心。真誠心、清淨心、平等心、孝順心,就是修普賢行,普賢行的功是圓滿的。做的事情再小,就算布施一塊錢,功都是稱性的,與虛空法界一樣大,因為心是圓滿的。就算對常住做一點小事,掃地、抹桌子,功都是盡虛空、遍法界。修的雖是小福、小事,果報則是無量無邊。若心地不清淨,布施供養是為了自己,為自己的家庭,為自己的小道場,即使布施億萬財富,所得的福報也很小。這當中的道理,凡夫如何會明瞭?凡夫只看外表,連外表都看不清楚,如何能觀察到事實真相。
法身大士に至ると、布施を重んじません。供養を重んじます。普賢菩薩は「供養を広く修める」(広修供養)です。供養と布施は、実際には同じ事ですが、心の用い方が違います。供養は孝順の心(親孝行する心)でしますが、布施は孝順の心ではありません。ですから大乗の菩薩は布施を用い、普賢菩薩は供養を用います。普賢菩薩は法身大士の代表で、『華厳経』における四十一位の法身大士はすべて普賢菩薩であり、すべて普賢行を修めています。普賢菩薩は正に孝順の心を用います。真誠心、清浄心、平等心、孝順心、これが正に普賢行を修めることです。普賢行の功徳は円満です。どれほど小さな事をしても、一元を布施しても、功徳はすべて性(真心)を量るものであり、虚空法界と同じように大きいのです。なぜなら心が円満だからです。常住の人に少しばかり掃除をしたり、テーブルを拭いても、功徳はすべて虚空を尽くし、法界を行き渡ります。修めたことが小さな福、小さな事であっても、果報は無量無辺です。もし心が清浄でないなら、布施や供養は自分の為、自分の家族の為、自分の小さな道場の為であり、たとえ億万の富を布施したとしても、得られる福報は小さいものです。この中の道理を凡夫はどうすれば明らかにできるのでしょうか?凡夫は表面だけを見て、表面さえもはっきり見えません。どうすれば事実の真相を観察できるのでしょうか。
出家人要遠離一切名聞利養,世尊當年在世三衣一缽,接受大眾的供養,只是一缽飯而已,決定不接受錢財供養。所以,社會福利的事業應該由在家同修們去做。出家人接受財供養,是末法時期才產生的現象,因此佛法衰微了。有錢就會起貪心,就會有妄想,就會患得患失,所以錢財決定不是好東西。
出家僧は一切の名聞利養から離れなければなりません。世尊在世の当時は三衣一鉢(さんえいっぱつ)【注】で、大衆の供養を受けていました。一鉢の食事だけで、絶対に金銭の供養は受けませんでした。ですから、社会福利の事業は在家の方々が行うべきです。出家僧が金銭の供養を受けるようになったのは、末法の時期になって生じた現象で、このために仏法は衰退しました。お金があれば貪心を起こし、妄想を起こし、得失を心配するようになります。ですから金銭は絶対に良いものではありません。
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【注】 三衣一鉢(さんえいっぱつ)・・・・「三衣」は僧が着る三種の袈裟(僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会)。「鉢」は托鉢に用いる食器の鉢。
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我們明瞭有些在家同修有多餘財富想修福,不知如何修法,所以我們接受供養是代他修福。我在台灣成立「佛陀教育基金會」,就是本著這個宗旨。而修福怎麼做?我學印光大師,印光大師一生就做印經布施一件事情。他的望很高,信徒很多,所以供養的數量也多,但他自己一分錢都不用。他辦了一所「弘化社」,就是現在講的佛經流通處,將所有的錢全部用在印經布施上。「佛陀教育基金會」的性質,與之完全相同。
私たちは知っています。在家の人々は余裕のあるお金で福を修めたくても、どう修めたら良いか分かりません。ですから私たちが供養を受けるのは、その人に代わって福を修めるためです。私たちは台湾に「仏陀教育基金会」を設立しましたが、正にこのような主旨に基づいています。それでどのように福を修めるのでしょうか?私は印光大師に学びます。印光大師の一生は、経典を印刷して施すという、一つの事だけをしました。彼の徳望は高く、信徒も多かったので、供養の数も多かったのです。しかし彼自身は一銭も使いません。彼は「弘化社」を設立しました。これは今で言う仏経を流通させる所で、すべてのお金は経典を印刷する布施に使われました。「仏陀教育基金会」の性質も、これとまったく同じです。
至於救災救難,我們在《印光大師文鈔》裡看到,都是從印經款項中,抽出一部分做救災救急的工作,這是菩薩示現。印祖是西方極樂世界大勢至菩薩再來的,大勢至菩薩在末法時期為我們做個榜樣,接受供養要以這種方式、作法。但時代、環境不同,方法要有變通,能通權達變,事情才能成功,功才會圓滿。我們只有一個很單純的目的,就是利益一切眾生。基金會成立之後,做事的人很多,我們將目的、宗旨及因果之理向他們說明白,以後就是個人因果。
災難を救うことに至っては、『印光大師文鈔』の中に見られますが、すべて経典を印刷するお金の中から、一部のお金を災難を救う緊急の仕事に使っていました。これは菩薩の示現です。印祖は西方極楽世界の大勢至菩薩の再来です。大勢至菩薩は末法の時期に、私たちに手本を示して下さいました。供養を受け入れたらこのような方法、やり方をしなければなりません。しかし時代や環境が違えば、方法も臨機応変でなければなりません。臨機応変にしてこそ、事は成功し、功徳は円満になるものです。私たちはただ一つの単純な目的があるだけです。それは一切衆生を利益(りやく:人々に恵みを与えること)することです。基金会が成立した後、従事する人が多くなり、私たちは目的や宗旨、因果の理(ことわり)を彼らに説明しています。その後のことは個人の因果です。
新加坡的談禪法師是我一生中最敬佩的,他穿著簡單,吃飯就是一個菜,喝水喝自來水,過最低生活的水平。他每天的工作,是在城隍廟擺攤子賣香、賣蠟燭。燒香的人很多,所以他的收入也很可觀。他幫助大陸的佛法,捐款都是美金幾十萬、幾百萬。我第一次知道他,是我在舊金山大覺蓮社講經。大覺蓮社的道場,當時買下來是美金七十萬,談禪法師捐了四十萬。到新加坡之後,我才見到他原來是一位窮苦和尚,苦行僧。
シンガポールの談禅法師は私が一生で最も敬服する人です。彼は着るものも質素で、食事は一菜、飲み水は水道水で、最低の生活水準で過ごされました。彼の毎日の仕事は、城隍廟の露店で香やロウソクを売ることです。焼香する人はとても多いので、彼の収入も相当なものです。彼は大陸の仏法を助けていて、寄付金は米ドルで数十万、数百万です。私が初めて彼を知ったのは、私がロサンゼルスの大覚蓮社で講経していた時です。大覚蓮社の道場は、当時購入したのが米ドルで七十万ですが、談禅法師は四十万寄付しています。シンガポールに来た後で、私はようやく彼が貧しい和尚、苦行僧だということを知ったのです。
我們去看他,他將我們當作貴賓看待,買礦泉水請我們,而他自己是打開水龍頭喝自來水,那是一位活菩薩。他捐出去的錢絕不過問,他說我給你是我的因果,你怎麼用是你的因果,與我毫不相關;你做得好是你的功,你做得不好將來會墮落。他的心清淨,一塵不染。這是菩薩示現,教導出家人為佛法、為眾生,應當如何作法。
私たちが彼にお会いすると、彼は私たちを貴賓として、ミネラルウォーターを買って下さいました。そして彼自身は蛇口をひねって水道水を飲んでいました。あれは生きた菩薩です。彼は寄付したお金について絶対に口を出しませんでした。彼は、「私が与えるのは私の因果であって、人がどう使うかは人の因果であり、私には関係がない」と言っていました。あなたが良い事をしたのはあなたの功徳であり、良くない事をしていれば将来堕落します。彼の心は清浄で、一塵の穢れもありません。これは菩薩の示現であり、仏法の為に、衆生の為に、如何にすべきかを、出家僧に諭されたのです。
這些都是深明因果之人,了解業因果報的事實真相,在末法時期做種種示現。一般粗心大意之人看不出來,所以我在講經中時時提起,就是為了讓大家注意,這些都是真善知識。佛教我們親近明師,明是光明之明,不是知名度高的名。知名度高不見得有用,不見得是真的。
これらは因果を深く理解した人で、業因果報の事実の真相を理解して、末法の世に様々な示現をされています。一般の粗忽な人には見抜けません。ですから私が講経の中でいつも提起しているのは、皆さんに注意喚起させる為です。これらは真の善知識なのです。仏は私たちに明師(めいし)に近づくように教えています。明は光明の「明」です。知名度が高いという「名」ではありません。知名度が高いことは役に立つとは限りません。本物とは限りません。
做一點好事,捐一點錢,還要讓報紙宣揚,讓大家鼓掌,福報立刻就報掉了。中國人常講「積陰」,陰是沒有人知道的,這個好事是真的,後面有真實的果報。惡要讓大家都知道,每個人罵你一聲,你的罪就消掉了,果報就報掉了。若惡事隱藏起來不讓人知道,惡就愈積愈厚;好事馬上讓人表揚,就統統報光了。最後所受的果報,只有惡沒有善。
少しばかり良い事をして、少しばかりお金を寄付して、それを新聞に宣伝させて人々の称賛を浴びれば、福報はすぐに無くなります。中国人はよく「陰徳を積む」と言います。「陰」とは誰も知らないということです。この善事は本物です。後には真実の果報があります。「悪」は人々に知らせなければなりません。人々があなたを罵倒すれば、あなたの罪は消えてなくなります。果報が尽きます。悪事を隠して人に知らせなければ、悪は増々積み重なります。良い事をして人に称賛させれば、すべて果報が尽きてしまいます。最後に受ける果報は悪だけになり、善は無くなってしまいます。
古聖先賢的教誨很有道理,我們要細心去思惟、體會,才知道如何斷惡修善、積功累、自求多福。以此功迴向求生淨土,豈有不成就之理!所以,要做真實的功,要做真正的好事。
古の聖なる先賢の教誨には深い道理があります。私たちは注意深く考え、体験してこそ、如何にして悪を断ち、善を修め、功徳を積み、自ら多福を求めるかを知ることができるのです。この功徳を浄土に求生することに廻向するなら、成功しない理(ことわり)があるでしょうか!ですから真実の功徳を積み、本当に良い事をしなければなりません。
<注>
仏法の世界観
浄土(じょうど)
一真法界 生滅の無い世界
真理そのものの根源的な境界
↑
十法界(四聖法界+六道輪廻) 生滅のある世界
【四聖法界】(悟界)仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界
↑
穢土(えど)
【六道輪廻】(迷界)天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界
法布施 / 法施(ほうせ)
(1995-02-15早餐)
在《華嚴經別行疏鈔》裡面,講到廣修供養-財供養不如法供養。經文中維摩居士有一番非常精彩的開示,裡面最重要的就是,真正的法施並不是像我們現在送幾本經書,送幾卷錄音帶,就叫法布施,這是太渺小了。維摩居士說:「法布施是以身作則,如法修行,做一切眾生的榜樣,這是真正的法布施。」這個開示給了我們最好的啟示,這樣我們才能得到佛法真實的利益。
『華厳経』「別行疏鈔」の中には、広く供養を修めることが説かれています。財の供養は法の供養には及びません。経文の中で、維摩居士は非常に素晴らしい開示をされています。その中で最も重要なのは、真の法施(ほうせ)は私たちが今経書を贈ったり、カセットテープを贈っているようなことではありません。これは取るに足らないことです。維摩居士は、「法施は身をもって手本を示すことであり、法に適った修行をして、一切衆生の手本となること。これが真の法施である」と説かれています。この開示は私たちに最高の啓示を与えてくれています。このようにしてこそ仏法の真実のご利益を得ることができるのです。
比如財、法、無畏布施,我們真的去做,修這三種因,就得三種果報-得財富、得聰明智慧、得健康長壽。做出來給一切眾生看,讓他看出這個果報,而向你請教:「你為什麼能得到這樣殊勝的利益?」你就告訴他要修這三種因。所以一定要做出來給別人看。從持戒,自己認真持戒,斷一切惡業,使自己心地真正達到清淨善良。乃至於忍辱、精進、襌定、般若,都要真正去做到,那就是法布施。
例えば財施(ざいせ:金銭を施すこと)、法施(ほうせ:仏の教えを施すこと)、無畏施(むいせ:衆生の苦しみを取り除くこと)を本当に実行します。この三つの因を修めると、三つの果報(財施は富、法施は聡明な智慧、無畏施は健康長寿)が得られます。実行して一切衆生に見せるのです。この果報を人に気づかせます。人はあなたに、「どうしてこれほど殊勝なご利益を得られたのですか?」と教えを請います。そしてあなたはその人に、三つの因を修めなければならないと話すのです。ですから必ず人にやって見せなければなりません。持戒することからです。自分で真剣に自戒して、一切の悪業を断ち、自分の心を本当に清浄(しょうじょう)・善良にします。ひいては忍辱、精進、禅定、般若、すべて本当に行います。それこそが法施です。
如果你做不到,講給別人聽、勸別人,這是沒有用處的,人家也未必會相信。佛在經上講:「眾生畏果,菩薩畏因」。眾生看到果報他才會反省,看到好的果報他就羨慕;看到不好的果報他就害怕。所以必須我們認真去做,把果報呈現在眾人的面前,讓他自己去觀察、去反省,然後發心來學習,這才是真正法布施。
あなたができないのであれば、人に説いて聞かせたり、人に勧めても、役には立ちません。その人も信じるとは限りません。仏は経に、「衆生は果を畏(おそ)れ、菩薩は因を畏る」(衆生畏果,菩薩畏因)と説かれています。衆生は果報を見てようやく反省します。良い果報を見れば羨み、良くない果報を見れば恐がります。ですから私たちは真剣に行わなければなりません。果報を人々の目の前に現して、その人自身に観察させ、反省させ、そうして学ぶことを発心させます。これこそが真の法施です。
<参考>
1.『華厳経』別行疏鈔・・・・『大方広仏華厳経』 普賢行願品 別行疏鈔
2.三種類の布施を学ぶ
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/b33ec5d4de9f3bd21246634f50bd14be
法施(ほうせ)・・・・仏の教えを施すこと。
財施(ざいせ)・・・・金銭を施すこと。
無畏施(むいせ)・・・・衆生の苦しみを取り除くこと。
*中国では法施は「法布施」、財施は「財布施」、無畏施は「無畏布施」と言うようです。
三惡道的業因 / 三悪道の業因
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五二O集)2011/8/3 檔名:02-039-0520
三惡道的業因一定要知道,佛講得很清楚,總的原因就是貪瞋痴慢疑,這五毒。貪心是餓鬼道,鬼是貪,人要是貪婪,跟鬼就特別有緣,他感應。愚痴是畜生,愚痴是真妄、邪正、是非、利害,他分不清楚,他看到眼前的小利,不知道後頭有大害。如果人,有聰明智慧的人,看到眼前小利,後頭有大害,這小利他不幹,不要了,他看得清楚。瞋恚是地獄道的業因。人一定要學著慈悲,要學著謙虛,要能夠忍讓,這是修善積。
三悪道【注】の業因は必ず知っておかなければなりません。仏ははっきりと説かれています。主な原因は貪瞋痴慢疑(貪り、怒り、無知、傲慢、疑い)です。これは五毒です。貪心(たんしん=貪りの心)は餓鬼道です。鬼は貪ります。人は貪婪(どんらん=貪欲)であれば、鬼との深い縁があり、感応します。愚痴(ぐち=無知)は畜生です。愚痴は真妄(真実と虚妄)、邪正、是非、利害の区別がつきません。目の前の小さな利を見て、後に大きな害があることを知りません。聡明で智慧のある人は、目の前の小さな利を見て、後に大きな害があるので、小さな利には手をつけません。要りません。はっきりと見えています。瞋恚(しんに=怒り)は地獄道の業因です。人は必ず慈悲を学び、謙虚さを学び、耐え忍んで譲らなければなりません。これは善を修め、徳を積むことです。
處處跟別人爭,果報在三途,你就是爭到了,你能享受幾天?唐太宗這個好例子,他的尊貴是爭來的,是拼命爭過來的,也不過享受二十三年,他只做了二十三年皇帝。傲慢跟懷疑三惡道統統都有,餓鬼、畜生、地獄統統都有,佛給我們講的這是五毒。這品經很長,把這五毒講得很詳細,殺盜淫妄酒每一條裡頭都具足五毒,應該有高度的警覺。這幾句總指三惡道。
どこでも人と争っていれば、果報は三途(さんず=三悪道)です。あなたはそれを勝ち取っても、何日享受できるというのでしょうか?唐の太宗(李世民)は良い例です。彼の身分は争ったものです。必死に争って勝ち取ったものです。それも享受したのは二十三年でした。彼が皇帝になったのは二十三年だけです。傲慢さと疑いの心は三悪道にすべてあります。餓鬼、畜生、地獄にすべてあります。仏が講じているのは五毒です。この経はとても長く、五毒について詳細に説かれています。殺盗淫妄酒(殺生、窃盗、邪淫、妄語、飲酒)には、どれにもすべて五毒が具わっています。よくよく注意しなければなりません。これらは総じて三悪道を指しています。
<注>
三悪道(さんあくどう)・・・地獄道、餓鬼道、畜生道のこと。悪業の結果人が堕ちていく世界。(=三途、三悪趣)
為什麼禁不起誘惑、為什麼放不下 / なぜ誘惑に耐えられないのか、なぜ放下できないのか
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二六四集)2011/2/4 檔名:02-039-0264
脫離六道輪迴談何容易!六道輪迴怎麼形成的?見思煩惱變現出來的。見思煩惱斷了,六道自然就沒有了,真的像一場惡夢一樣,煩惱斷了你就醒過來了。煩惱沒斷,永遠在裡頭作惡夢,你說多可憐!菩薩看六道眾生可憐憫者!非常的可憐,叫不醒。那只有怎麼?只有再等,等到他在六道裡頭苦受盡了,什麼時候覺悟,不想再搞了,這個時候菩薩就來了,你有這一念警覺,我不想搞六道輪迴,這一念是感,佛菩薩就應,感應道交不可思議。
六道輪廻を離脱することは、口で言うほど容易ではありません!六道輪廻はどのように形成されるのでしょうか?見思煩悩【注】が変化して現れます。見思煩悩を断てば六道輪廻は自然に無くなります。本当にまるで一場の悪夢のようです。煩悩を断てば、あなたは目が覚めます。煩悩を断っていなければ、永遠にその中で悪夢を見続けます。どれほど気の毒なことでしょうか!菩薩は六道の衆生を見て憐れみます!非常に可哀相です。呼んでも目を覚ましません。それではどうするのでしょうか?待つしかありません。その人が六道の中で苦しみを味わい尽くすのを待って、いつの日か覚り、二度と続けたくないと思った時、菩薩はやって来ます。六道輪廻を続けたくないという、あなたのこの一念は「感」であり、仏菩薩はそれに「応」じます。感応道交(かんのうどうこう)は不可思議なものです。
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【注】 見思煩悩(けんしぼんのう)・・・「見思」とは見惑(けんわく)と思惑(しわく)のこと。「見惑」は仏教の真理について迷いを覚えること。「思惑」は貪嗔痴(貪り・怒り・愚かさ)などの煩悩のこと。「惑」は煩悩の意味。
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如果我們對這六道還有貪戀,想出六道,念頭並不堅固,六道裡頭這些貪瞋痴慢一誘惑還是起現行。所以學佛的人多,成就的人少;念佛的人多,往生的人少,原因就在此地,不是不靈,是你還禁不起誘惑。這些都要自己天天認真反省,晚課就是反省,一定要提醒自己,我為什麼禁不起誘惑?為什麼放不下?放不下執著,就是放不下輪迴,還想搞六道輪迴。真不想搞六道輪迴了,於一切法,世出世間一切法不再執著了,不但不執著,分別的心也要淡化,分別的心不淡化也能障礙你出六道。
私たちが六道に未練を持っていて、六道を出たいという意思が固くなければ、六道の貪瞋痴慢の誘惑が起これば継続することになります。ですから仏法を学ぶ人は多く、成就する人は少ない。念仏する人は多く、往生する人は少ない。その原因はここにあります。効果がないのではなく、あなたが誘惑に耐えられないのです。これらは自分で毎日真面目に反省しなければなりません。晩課は反省です。必ず自分で注意しなければなりません。自分はなぜ誘惑に耐えられないのか?なぜ放下できないのか?執着を放下できないことは、輪廻を放下できないことです。まだ六道輪廻を続けたいと思っているということです。本当に六道輪廻を続けたくなくなれば、世間・出世間一切の法に執着することがなくなります。執着しないだけでなく、分別する心も薄くなります。分別する心が薄くならなければ、それもまた六道を出る障碍になります。
出六道最主要的是見思煩惱,分別是塵沙煩惱,它真正障礙你,是障礙你超越十法界。你超越六道輪迴,到四聖法界,這是佛幫助你第一個階段圓滿。第二個階段四聖法界,四聖法界是清涼世界,是淨土,好地方,如果你對這個地方有貪戀,你出不了十法界,你沒有辦法明心見性,很可能在這個地方,你又要耽誤很長很長的時間,你才會厭離。遇到淨土,那是你運氣好,真的是走大運,淨土法門是一了一切了,我超越六道,同時也超越十法界,生到極樂世界就超越了,這個事情能不幹嗎?
六道を出るのに最も大切なのは見思煩悩(を断つこと)です。分別は塵沙煩悩です。それは本当に障碍になります。あなたが十法界を超越する障碍になります。あなたが六道輪廻を超越すれば、四聖法界に達します。これで仏があなたを救う第一段階が円満になったのです。第二段階は四聖法界です。四聖法界は清らかな世界であり、浄土です。良い場所です。あなたがこの場所に未練を持てば、十法界を出ることはできません。あなたは明心見性することはできません。またこの場所で途方もなく長い時間がかかれば、あなたは離れたくなくなります。浄土(教)に巡り合うのは、運が良いことです。本当に好運なことです。浄土法門は「一了一切了」であり、六道を超越して、同時に十法界をも超越します。極楽世界に到れば超越します。この事をしないでいられるでしょうか?
<仏法の世界観>
浄土(じょうど)
一真法界 生滅の無い世界
真理そのものの根源的な境界
↑
十法界(四聖法界+六道輪廻) 生滅のある世界
【四聖法界】(悟界)仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界
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穢土(えど)
【六道輪廻】(迷界)天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界
深信因果能抵擋外境的誘惑 / 因果を深く信じていれば外界の誘惑を防ぐことができる
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二O八七卷)2009/12/10 檔名:12-17-2087
在今天這個社會,我們看到很多修學一、二十年,二、三十年,修得很不錯的,做得也很不錯的,但是到最後一遇到這個境界他就變心了。什麼境界?名聞利養的境界,一現前,他抵擋不住,貪瞋痴起來了。他自己也知道錯誤,不對,他就是回不了頭,誘惑的力量太大,禁不起誘惑。
今日この社会では、十年、二十年、二、三十年修学した人をたくさん見かけます。よく修めていて、行いも悪くありません。しかし最後にある境界に出会うと心変わりしてしまいます。どんな境界でしょうか?名聞利養【注1】の境界です。一たびそれが現れると、その人は食い止めることが出来なくなり、貪瞋痴【注2】が起こります。その人自身もそれが間違いであり、正しくないと知っています。それでも改めることができません。誘惑の力が大き過ぎて、誘惑に耐えられません。
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【注1】 名聞利養(みょうもんりよう)・・・・名声と利得。名誉欲と財欲に駆り立てるもの。
【注2】 貪瞋痴(とんじんち)・・・・「貪」は貪り、「嗔」は怒り、「痴」は愚かさ。三毒。
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所以從這裡我們就想起印光大師一生提倡因果教育,就感到非常重要。這個老和尚真的了不起,把這個時代的根,根之根掘發出來了。人要真正懂得因果報應,深信不疑,什麼樣的誘惑他也會不動心。所以這個老人的提倡我們明白了,我們覺悟了。所以我在台灣這幾個月,見的人也很多,我都是勸他們深信因果,提倡印祖所說的《了凡四訓》、《安士全書》、《太上感應篇彙編》。這三種書都是明清人的著作,都是用文言文寫的,現在要大量流通應當要把它寫成白話文,最好還有詳細的講解,對現在社會會有很大的幫助。
ここから私たちは印光大師【注3】が一生因果教育を提唱されたことを思い起こし、非常に重要なことだと感じます。この老和尚は本当に大したものです。この時代の(問題の)根本の根本を掘り起こしました。人は本当に因果応報を理解して、深く信じて疑わないなら、どのような誘惑にも心を動かされることはありません。ですから老和尚が提唱されたことがよく分かります。私は台湾でこの数か月、多くの人とお会いしました。私は因果を深く信じること、そして印祖(印光大師)が言われた『了凡四訓』、『安士全書』、『太上感応篇彙編』をお勧めしました。この三冊の書物は明、清の人の著作で、すべて文語文で書かれています。今大量に流通させようとするなら口語文にしなければなりません。更に詳細な講釈があれば良いでしょう。現代社会の大きな助けになります。
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【注3】 印光大師(1861-1940)・・・・釈印光、法名を聖量、字を印光、自称・常慚愧僧。浄土宗第十三代祖師。
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網路、電視這是非常好的工具,用這種工具把這三樣東西,祖師的一生心血,極力提倡。我們要能夠繼承祖師的志向,用現代這些科學工具把它發揚光大,能救社會。人要真正相信因果,《十善業道》跟《弟子規》就踏實了,他真幹,他不是幹假的。沒有因果這個觀念他可能還作假,用這個東西來裝飾門面,達到他名聞利養的目標。這些事情我相信在印祖那個時代他就看到了,就看得很清楚,所以才極力提倡因果。
インターネット、テレビなどはとても良い道具です。これらの道具を使って、祖師が一生心血を注がれたこの三つを、極力提唱します。私たちは祖師の志を継承しなければなりません。現代の科学の道具を使って大いに発揚すれば、社会を救うことが出来ます。人が本当に因果を信じれば、『十善業道』と『弟子規』は実行できます。本当に実行します。誤魔化しはしません。因果の観念がなければ、誤魔化しをするかもしれません。これらを使って表面を飾り立て、名聞利養の目標を達成するかもしれません。このような事は印祖の時代にも見られたことでしょう。はっきりと見られたことでしょう。だからこそ極力因果を提唱されたのです。
四種慈悲 / 四種類の慈悲
文摘恭錄—淨土大經解演義(第九十三集)2010/8/1 檔名:02-039-0093
慈悲是與智慧有關係,身心不安生煩惱,煩惱裡面哪來的慈悲?有時煩惱裡面也有慈悲,那是佛經上講的四種慈悲前面的兩種,這個凡夫有。第一個叫「愛緣慈悲」,大概都是對自己的親朋好友,我愛他,他跟我有關係,我會幫助他,我會愛護他、會照顧他,但是不是親朋好友這個心生不起來,這叫做愛緣慈悲。
慈悲は智慧と関係があります。身心の不安は煩悩を生みます。煩悩のどこに慈悲があるのでしょうか?時には煩悩の中にも慈悲があります。それは仏経に説かれている四つの慈悲のうち、最初の二つです。これは凡夫が持つものです。一つ目は「愛縁慈悲」と言います。だいたいが自分の親しい友人に対する愛です。自分と関わりのある人であれば、その人を助け、世話をします。しかし親しい友人でなければこの心は起こりません。これを「愛縁慈悲」と言います。
讀書人有行、有學問,他心量拓開,也就是《弟子規》上講他已經達到「凡是人,皆須愛」,到這個境界,這個境界在佛法裡面叫「眾生緣慈悲」,把自己的愛心拓廣了,能夠慈悲一切眾生,這很難得。在我們中國人稱這種人為聖賢,大聖大賢,他的慈悲心能夠達到一切眾生,與他毫無關係。
読書人には徳行があり、学問があります。彼は心を大きく開いて、『弟子規』に説かれている「凡是人,皆須愛」(人たる者は、皆愛し合わなければならない)【注】の境界に達しています。この境界を仏法では「衆生縁慈悲」と言います。自己の愛を大きく広げて、一切衆生に慈悲の心を持ちます。これは得難いものです。私たち中国人はこのような人を聖賢、大聖大賢と言います。彼の慈悲心は一切衆生、まったく関わりのない衆生にまで及びます。
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【注】 「凡是人,皆須愛」・・・・『弟子規』の中の「泛愛衆」の一節。
凡(およ)そ是(これ)人、皆須(すべか)らく愛すべし。
「人たる者は、皆愛し合わなければならない」は筆者の意訳。
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第三個,這佛門的菩薩,叫「法緣慈悲」,他不是佛,他在學佛。佛說遍法界虛空界萬事萬物跟我是一體,他在學習,他也把他的慈悲心像佛一樣廣被法界一切眾生,他的起心動念沒斷,分別執著沒有了,還起心動念。
三つ目は仏門の菩薩です。「法縁慈悲」と言います。彼は仏ではなく、仏に学んでいます。仏は遍法界虚空界【注】、万事万物は自分と一体であると説かれています。彼は学んでいます。彼もまた仏と同じように慈悲心を法界の一切衆生に向けますが、起心動念(きしんどうねん、心の働き)を断っていません。分別・執着はありません。まだ起心動念があります。
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【注】 遍法界虚空界(へんほっかい、こくうかい)・・・・因果に支配される全宇宙(法界)と、それを超越した根源的な真如の世界(虚空界)のこと。
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到最後就是「無緣慈悲」,這是佛。這裡講的是無緣慈悲,無緣是沒有條件,緣可以用現在條件兩個字來解釋,無條件的。為什麼無條件?一體,一體哪有條件!所以佛是無緣大慈大悲,菩薩是法緣,聖賢是眾生緣,一般凡夫只有愛緣。所以到聖賢,他的慈悲心、他的愛那就拓廣,真的是「凡是人,皆須愛」,看年歲跟我父母差不多大的,對他的禮敬跟自己父母就沒有兩樣;看到年齡小的跟自己兒女一樣的,他就會把他看作自己兒女一樣去照顧,這是世間聖賢。佛法的修學沒有別的,一步一步向上提升,決定沒有逼惱的這種心態。
最後は「無縁慈悲」です。これは仏です。ここで説いているのは無縁慈悲です。無縁とは条件がないということです。縁は今でいう「条件」の二字で解釈することが出来ます。無条件です。どうして無条件なのでしょうか?一体だからです。一体であればどこに条件があるのでしょうか!ですから仏は無縁大慈大悲です。菩薩は法縁、聖賢は衆生縁、一般の凡夫は愛縁だけです。ですから聖賢に到れば、彼の慈悲心、彼の愛は大きく開かれます。本当に「凡是人,皆須愛」(人たる者は、皆愛し合わなければならない)です。自分の父母と同じような年齢の人に対しては、自分の父母と同じように敬います。自分の子どもと同じような年の子どもを見れば、自分の子どもと同じように面倒を見ます。これが世間の聖賢です。仏法の修学は他でもありません。一歩一歩向上していくもので、絶対に無理強いするような考えはありません。
<参考>
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E7%B8%81
聰明人要有前後眼 / 賢い人は前後を見る眼を持たなければならない
文摘恭錄—淨土大經科註(第二一九集)2012/2/29 檔名:02-037-0219
早年李老師常常提醒我們,說聰明人要有前後眼。這是什麼意思?前後眼就是能看到古人,能看到未來。吸取古聖先賢的教誨、經驗,認真修行,創造美好的將來,這個人才算是聰明人。決定要相信因果報應,善人決定得善果,惡人決定得惡報,善惡果報絲毫都不差,千萬不要看錯了。
昔李老師はよく、賢い人は前後を見る眼を持たなければならないと仰り、私たちに注意喚起されました。これはどういう意味でしょうか?前後を見る眼とは古人を見ることが出来て、未来を見ることが出来るということです。古の聖賢の教誨・経験を取り入れて真剣に修行し、美しい将来を創造すること。このような人は賢い人と言えるでしょう。必ず因果応報を信じなければなりません。善人は必ず善果を得ます。悪人は必ず悪報を得ます。善悪の果報は寸分も違うことはありません。絶対に見誤ってはなりません。
惡人,今天他享福,好像因果是假的;那個善人,人心地善良,可是他非常清苦,這好像是跟因果講的完全相違背。這什麼原因?我們只有現前,只看到現在,沒有看到過去,也沒有看到未來,只是很狹窄的這個一段被我們看到了。這個人過去生中修的大福報,這一生所造的惡業很多,他現在享受的是過去的福報,還沒享完,繼續在享受,是這個意思;這一世所造的惡,沒報。
悪人が今日福を享受していると、まるで因果は偽りであるかのようです。ある人は善人で、心は善良ですが非常に貧しい暮らしです。これは因果の説くところと完全に相反するかのようです。この原因は何でしょうか?私たちは今現在しか見ていません。過去を見ていません。未来も見ていません。とても狭いこの一時の状況しか見ていません。その人は過去世で大きな福報を修めたのです。この一生で悪業を多く造っていますが、今享受しているのは過去の福報なのです。まだ享受し尽くしていないので引き続き享受している、そういうことなのです。この一世で造った悪業は、まだ報いがありません。
這我們明白了,這一世造的業因來世報,因果通三世。這一世造善業沒有得善果,但是他要能夠堅持,再苦、再難還是要積善、要修,好!過去生中沒有修福報,沒有善行,沒有福報,這一生得到的苦報;但是這一生行善,來生的福報好,善果在來世,一定要懂得。要不然為什麼這個世間有人富貴、有人貧賤?好像老天待人不平等。這個事情實際上與老天不相干,都是眾生自作自受,這個道理一定要懂。
ここを理解しなければなりません。この一世で造った業因は来世で報いがあります。因果は三世に通じています。この一世で善業を造って善果を得られなくても、堅持し続けて、どれほど苦しくても、どれほど難しくても善行を積み、徳を修めることです。それは良いことです!過去世の中で福報を修めず、善行をしていなければ、福報はなく、この一生は苦報を得るのです。しかしこの一生で善を行えば、来世の福報は良いものです。善果は来世にあります。必ず理解しなければなりません。そうでなければ、なぜこの世間ではある人は裕福で、ある人は貧しいのでしょうか?まるで神様が人に対して不平等であるかのようです。この事は実際には神様と関係はありません。すべて衆生の自業自得です。この道理は必ず理解しなければなりません。
拯救社會必須因果教育 / 社会を救うには因果教育が必須である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一四一集)2010/9/12 檔名:02-039-0141
真正拯救社會,核心的教育是因果教育。我們大家都知道,倫理道好,如果沒有因果教育支持它,一個一生行倫理道的人,一旦遇到高名厚利,往往還會動心,還會明知故犯,他禁不起誘惑;小名小利他不會動心,大名大利的時候他就動心了。懂得因果教育不敢作惡,為什麼?知道將來有報應。敢殺人嗎?殺人要償命,欠債要還錢,就不敢了。所以因果教育救亂世是非常有效的一個方法,這就講祕術,祕術就是這個。印光大師,你看一生真的是盡心盡力提倡因果,佛門的大。我是一九七七年第一次到香港來講經,講經的場所是九龍界限街中華佛教圖書館,這個圖書館是倓虛老法師辦的,我在那個地方看到他蒐集很多弘化社出版的經論善書。弘化社是印光大師的,他老人家十方供養他的錢就拿來流通經書,他就做這一樁事情,他不幹別的事情,全都用來弘法,而對於因果教育他特別提倡。
本当に社会を救う核心の教育は、因果教育です。私たちは皆、倫理道徳の良さを知っています。しかし因果教育の支えがなければ、一生倫理道徳を実践している人でも、ひとたび大きな名利を目の前にすると往々にして心が動き、道理を知りながら罪を犯してしまいます。誘惑に耐えられません。小さな名利には心を動かさずとも、大きな名利であれば心を動かします。因果教育を理解していれば、敢えて悪事を働こうとはしなくなります。なぜでしょう?将来の果報を知っているからです。敢えて人を殺そうとするでしょうか?人を殺せば命をもって償わなければならず、借りは返さなければなりません。敢えてしようとはしなくなります。ですから因果教育は乱世を救うのに非常に効果的な方法であり、これこそが奥の手です。奥の手は正にこれなのです。
印光大師【注1】は一生因果の提唱に尽力された、仏門の大徳です。私は一九七七年に初めて香港で講経しました。講経の場所は九龍(カウルーン Kowloon)の界限街にある中華仏教図書館です。この図書館は倓虚法師【注2】が開設したものです。私はそこで、弘化社で出版された経論の善書がたくさん収集されているのを見ました。弘化社は印光大師のもので、大師は各地で供養されたお金を経書の流通に使っていました。大師はこの事だけをして、他の事はしませんでした。すべて弘法に使いました。また因果教育について、大師は特に提唱されました。
我在那個時候發現,印光大師印送《了凡四訓》,這算是儒家的,講因果的,《感應篇彙編》、《安士全書》這三種書,我翻後面的版權頁,我概略的給它估計了一下,超過三百萬冊,我感到非常驚訝。在那個時代,大概是八十年前的時候,八十年前那個時代,印這麼大的分量,這驚人的!佛門大,為什麼淨土宗經典沒印那麼多,這三樣東西印那麼多?我想不通,在今天看看這個社會我們就恍然大悟。周安士居士講,「人人信因果,天下大治之道也;人人不信因果,天下大亂之道也」,這兩句話講絕了。
私はその時に気がつきました。印光大師は『了凡四訓』【注3】――これは儒家に属し、因果を説くものです――、『感応篇彙編』、『安士全書』【注4】、この三つを印刷されました。私が後ろの奥付の頁を開いて概算してみると、三百万冊を超えていました。私は非常に驚きました。あの時代、およそ八十年前のあの時代に、これほど大量に印刷していたとは、驚くべきことです!仏門の大徳が、なぜ浄土宗の経典はそれほど多く印刷せず、この三つを大量に印刷したのでしょうか?私は理解に苦しみました。しかし今日の社会を見れば、私たちは忽然と悟ります。周安士居士は、「人人信因果,天下大治之道也;人人不信因果,天下大乱之道也」(人々が皆因果に明るければ、天下は大いに治まり、人々が因果に暗ければ、天下大乱の道である)と説かれています。この二句で説き尽くされています。
印光大師一生做出這些舉動,讓我們後人看到之後能夠醒過來。要救眼前這個社會、這個災難,怎麼辦?明因果,災難就化解,再也不敢幹壞事了。《十善業道》裡面講的殺盜淫敢不敢做?不敢做了。為什麼?殺人要償命。現在年輕的女孩子隨便去墮胎,她要曉得因果她就害怕了。妳墮一次胎就欠一條命,妳欠他命,妳將來要還他,墮兩次妳就要還兩次命,不是沒事。通靈的人看到,看到妳後面有小鬼跟著妳,妳能不怕嗎?用不正當的手段謀奪別人的財物,統統要還錢。所以懂得因果的人心是平的,心是清淨的,他清清楚楚,人在世間有沒有吃虧的?沒有,有沒有佔便宜的?也沒有。古人講「吃虧是福」,佔便宜全都要還債,你佔什麼便宜?你來生還的時候還要加上利息。所以懂得因果的人再不敢了。
印光大師が一生行われたこれらの活動は、私たち後世の者が見ると、目を覚まさせられます。現前のこの社会、この災難を救うにはどうすれば良いのでしょうか?因果を明らかにすれば、災難は解消されます。二度と悪い事をしようとしなくなります。『十善業道』の中に説かれている殺・盗・淫をしようとするでしょうか。しようとはしません。なぜでしょう?人を殺せば命で償わなければなりません。今若い女性は自由に堕胎しています。若い女性が因果を理解すれば恐ろしくなります。一度堕ろせば一つの命の借りができます。彼女は命の借りをつくり、将来その人に返さなければなりません。二度堕ろせば二回の命を返さなければならず、無事では済みません。霊感のある人は、彼女の後ろに小鬼がついているのが見えます。若い女性は恐がらずにいられるでしょうか?不当な手段で他人の財物を略奪すれば、すべて返済しなければなりません。
ですから因果を理解している人の心は平静です。心は清浄です。その人にははっきりしています。世間において損することがあるでしょうか?ありません。うまい汁を吸えることがあるでしょうか?それもありません。古人は、「損することは福である」と言っています。うまい汁を吸えばすべて返済しなければならないのに、あなたは何の利益を得ようというのでしょうか?あなたは来世で利子をつけて返済しなければなりません。ですから因果を理解する人は二度としようとしません。
<脚注>
1.印光大師(1861-1940)・・・・釈印光。法名を聖量、字を印光、自称・常慚愧僧。浄土宗第十三代祖師。俗姓は趙、名は丹桂、字は紹伊、号は子任。陜西省郃陽(現・合陽)孟庄郷赤城東村の人。大師は仏教の中でも特に浄土宗の振興に偉大な功労をされ、中国の近代仏教に最も深い影響をもたらした人物の一人である。(「百度百科」より抜粋して翻訳)
2.倓虚法師(1875-1963)・・・・倓虚(たんきょ)法師。中年で出家し、近代天台宗の高僧諦閑法師について修学し、仏教教育の振興に従事した。仏教道場の建設に大きく貢献した。1925年、諦閑和尚は倓虚に天台宗第44代の法巻(継承の証となる書)を伝え、倓虚法師は天台宗代44代の継承者となった。
自称“湛山老人”。中国仏教界に広く知られる“三虚”(倓虚法師、虚云和尚、太虚大師)の一人。民国初年から東北各省で布教を行い、長白山と黒竜江を南北各地に歴訪し、最後には海南に渡って、香江にて講義を行った。倓虚は中年に至って出家し、北方各地で経典の説法を行い、多くの道場を改修し、建造した。その中で最も著名なのは北京の“法源寺”である。一生を「僧伽教育」に尽力し、「佛法発揚の根本は僧にあり」と考えていた。誰も仏法を広めなければ、外国人の虐げを待たずに仏教そのものが滅んでしまう。そのため各道場を建ててから、仏教学院を創設して僧侶の育成に努めた。(百度百科より抜粋して翻訳)
3.『了凡四訓』(りょうぼんしくん)・・・・(書名)中国民代の儒学者、袁了凡(えん りょうぼん)が息子の袁天啓に語る勧善の書。陰隲録(いんしつろく)とも言われる。袁了凡は53歳で寿命を終えるという宿命は変えられないと思い悩んでいたが、雲谷禅師と出会い因果の教えを学び、「積善」こそが運命を変える根本だと悟る。
4.『安士全書』・・・・周安士居士の著作。「文昌帝君陰騭文講義節録」「万善先資」「欲海回狂」「西帰直指」の四部を含む。中国浄土宗十三代祖師である民国の高僧・印光大師より“善世第一奇書”(世の中を善くする第一の珍書)と称され、蘇州の弘化社により流通した書籍。原書はすべて古文であり、現代人が読むのに不便があるため、現代社会では読む人は数少ない。(百度百科より抜粋して翻訳)
*「文昌帝君陰騭文講義節録」の「陰騭」(いんしつ)(=阴骘)とは、陰徳のこと。
<参考>
和語陰隲録 袁了凡(原著)、無名上人(原著和訳)、三浦尚司(校註) 梓書院 (2007/7/20)
http://www.amazon.co.jp/%E5%92%8C%E8%AA%9E%E9%99%B0%E9%9A%B2%E9%8C%B2-%E5%85%A8-%E8%A2%81-%E4%BA%86%E5%87%A1/dp/4870352923
立命の書『陰隲録』を読む http://www.amazon.co.jp/%E7%AB%8B%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%80%8E%E9%99%B0%E9%A8%AD%E9%8C%B2%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E8%87%B4%E7%9F%A5%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E5%B2%A1-%E6%AD%A3%E7%AF%A4/dp/4884741811/ref=pd_cp_b_0
用感恩的心化解一切怨懟 / 感謝の心で一切の憎しみを解消する
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五三一集)2011/8/10 檔名:02-039-0531
任何一個人,一生的際遇全是業報,善因善果,惡因惡報。修善的時候也是有業障,遇到正法信心不容易生起來,這個原因我們很清楚。小時候接受聖賢教誨的這個緣沒有,就像《三字經》上所說的,「性相近,習相遠」,沒有聖賢教誨,他的習性跟他的本性,習性是不善,本性是善,習性跟本性距離就愈來愈遠了,遠到後來本性不起作用,起作用全是習性。習性是什麼?貪瞋痴慢疑,習性的造作是殺盜淫妄酒。本性是善的,它不起作用了。這個道理我們懂,這個事實真相我們天天都看到,對自己來說是一種高度的警覺心。那我們要做出來,表演給大家看,這是行菩薩道。表演什麼?表演能夠忍受,難行能行,難忍能忍。順逆境界都一樣,順境裡頭沒有貪戀,清淨平等覺能保得住,不會被迷住;逆境裡面不起怨恨惱怒煩。順境逆境只有一種心,感恩的心,報恩的心。
どのような人でも、一生の機会はすべて業報です。善因善果、悪因悪報です。善を修める時にも業障があり、正法と出会っても信心を起こすのは容易ではありません。この原因は明らかです。子どもの頃に、聖賢の教誨を受けるご縁がないからです。『三字経』には「性相近,習相遠」(人の本性はもともと善であり似通っているが、習慣により遠く隔たってしまう)と説かれています。人の習性は不善であり、本性は善です。聖賢の教誨を受けなければ、習性と本性の距離は少しずつ遠くなります。遠く隔たった後では本性は作用しなくなり、作用するのはすべて習性になってしまいます。習性とは何でしょう?貪瞋痴慢疑(とん・じん・ち・まん・ぎ)【注1】です。習性が造り出すのは、殺盗淫妄酒【注2】です。本性は善ですが、それが作用しなくなってしまいます。この道理を私たちは知っています。この事実の真相を私たちは毎日見ています。自分としては、それを強く肝に銘じておくことです。私たちはそれを実践して、人々に演じて見せなければなりません。それは菩薩道を行じることです。何を演じるのでしょうか?耐え忍べることを演じます。行い難きを行い、忍び難きを忍ぶことです。順境でも逆境でもすべて同じです。順境の中で貪ることなく、清浄・平等・覚を保ち、迷わされないこと。逆境の中では怨・恨・悩・怒・煩を起こさないことです。順境、逆境においてはただ一つの心、感謝の心、報恩の心があるだけです。
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【注1】 貪瞋痴慢疑・・・・貪(とん)は貪り、瞋(じん)は怒り、痴(ち)は愚かさ、慢(まん)は傲慢さ、疑(ぎ)は仏の正法を疑うこと。
【注2】 殺盗淫妄酒・・・・殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、飲酒(おんじゅ)の五戒のこと。
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要知道,別人對我不善,我也要報恩。什麼恩?我在這個境界裡面平安通過,我沒有起怨恨,等於說他來考試,不通過這個考試,我怎麼知道自己忍辱的功夫?我怎麼知道自己有智慧?這一考試就考出來,我沒有迷惑,我有智慧,我沒有怨恨,我感激,感激他這一次考試,讓我知道我的境界提升了。你要不知這個恩,你就不會感恩,知恩報恩。所以一切逆緣,一切逆境,對修行人全是幫助。他要不覺悟,這處處都是障礙,他退心,那就錯了。不能怪別人,怪自己,境界永遠是中立的,沒有善惡。善惡在哪裡?善惡是在你自己的感受,你自己的反應。
知っておかなければなりません。他人が自分に対して不善でも、自分は恩に報いなければなりません。何の恩でしょう?自分がこの境界を無事に通過して、恨みの心を起こさないなら、それはその人がテストしに来たのと同じです。そのテストがなければ、自分はどのように自分の忍辱【注3】の技量を知るのでしょうか?どのように自分に智慧があることを知るのでしょうか?このテストに試されることで、自分に迷いがなく、智慧があり、恨みをもたないことが分かるのです。私は心から感謝します。このテストによって、自分の境地の向上を知らせてくれたことに、心から感謝します。この恩が分からなければ、あなたは感謝することはできません。恩を知ってこそ、恩に報いるものです。ですから一切の逆縁、一切の逆境は、修行者にとっては、すべてが助けとなります。それを覚らずに、何もかもが障碍だと考えて落ち込むなら、それは間違いです。他人を咎めることはできません。自分を咎めます。境界は永遠に中立であり、善悪はありません。善悪はどこにあるのでしょう?善悪はあなた自身の感じ方、あなた自身の反応にあります。
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【注3】 忍辱(にんにく)・・・・屈辱や苦しみに耐え忍び、心を動かさないこと。六波羅蜜の三つ目、忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)。
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這個人毀謗我,無緣無故胡造謠言毀謗來傷害我,我如果覺悟,這好事情,消我的業障,不通過這個際遇,業障怎麼能消得了?他造罪業消我的業障,我能不感恩嗎?我能沒有報答嗎?我怎麼報答?我把我修學的功迴向給他,他將來墮落在惡道裡面,他受罪就很輕,他不會受那麼苦。
(例えば)ある人が自分を誹謗します。何の理由もなく根拠のないデマを飛ばして自分を傷つけます。もし自分が覚っていれば、それは良い事です。自分の業障を消してくれるからです。その巡り合わせがなければ、どのように業障を消すことができるのでしょうか?その人は罪業を造って私の業障を消してくれるのです。私は感謝せずにいられるでしょうか?私は恩に報いずにいられるでしょうか?私はどのように恩に報いれば良いでしょうか?私は自分の修学の功徳をその人に廻向(えこう)します。その人が将来悪道の中に堕落しても、受ける罪は軽くなります。それほど苦しむことはありません。
提婆達多處處是處心積慮來破壞釋迦牟尼佛,想害他,想破壞他的僧團。釋迦佛能忍受,表現給我們看。沒有提婆達多的行為,我們怎麼能看得出釋迦佛的行?對釋迦牟尼佛的那種恭敬心,你怎麼會生得起來?所以在釋迦牟尼佛的心目當中,提婆達多不是壞人。提婆達多墮地獄,釋迦牟尼佛說,他在地獄的享受跟忉利天一樣,快樂!為什麼?成就釋迦牟尼佛的功,讓大家都知道,釋迦牟尼佛沒有怨恨他。
ダイバダッタ(提婆達多)は至る所で釈迦牟尼仏を害そうともくろみます。彼の僧団を破壊しようとします。釈迦牟尼仏は耐え忍んで、私たちに見せてくれたのです。ダイバダッタの行為がなければ、私たちはどのように釈迦牟尼仏の徳行を見ることができるのでしょうか?釈迦牟尼仏に対する恭敬の心を、あなたはどのように起こすことができるのでしょうか?ですから釈迦牟尼仏の心の中では、ダイバダッタは悪人ではありません。ダイバダッタが地獄に堕ちると、釈迦牟尼仏は、「彼が地獄で享受するものは、忉利天(とうりてん)と同じように快適である」と言いました。なぜでしょう?釈迦牟尼仏の功徳を成就させ、人々に知らせたからです。釈迦牟尼仏は彼を怨みません。
由此可知,善惡因果全在自己的一念,與外頭境界不相干。我意念善,害我的人他得到善報,墮地獄他不受苦,這個道理很深很深,要細心去參究,你才能懂得。懂得之後,你能夠換一種心情來處事待人接物,那你就快樂無比。有對立,就有煩惱,就有痛苦,就有苦報。把對立化解了,別人對我對立沒關係,對立再多,我這裡全部化解,沒有了,得大自在。
このことから、善悪の因果はすべて自分の一念にあり、外の境界とは関係ないということが分かります。自分の意念が善であれば、自分を害した人は善報を得て、地獄に堕ちても苦しみを受けません。この道理は非常に奥深いもので、注意深く参究してようやく理解できるものです。理解した後、あなたは心を入れ替えて物事に対処するようになり、そうなればあなたの喜びは計り知れません。対立の心があれば煩悩が起こり、苦しみが生じ、苦報があります。対立の心を解消すれば、他人が自分と対立しても関係ありません。対立がどれほど多くても、自分のところですべて解消して、なくしてしまいます。大自在を得るのです。
<訳者補足>
「感恩」(かんおん)はそのまま表記せず、「感謝」と訳しました。感恩は「人の行為や恩義に感謝すること」(大辞泉)と辞書にも出ているので、そのまま用いても間違いではないと思いますが、やはり馴染みがないというところで「感謝」としました。ちなみにベトナム語の「ありがとう」は「カムオン cam on」と発音し、「感恩」が語源のようです。
錯下一個字轉語,墮五百世野狐身 / 一字の誤りで、五百世野狐身(やこしん)に堕ちる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五四八集)2011/8/19 檔名:02-039-0548
古時候翻經的人,這是李老師以前告訴我的,都是修行證果,至少三果以上。這是老師講中國人得天獨厚,聖賢來主持翻譯,不是凡人。凡人有自己的想法、自己的看法,聖人沒有自己,沒有自己你才看到真相。有自己,看到是假相,真相我不懂,我以為假相是真的,把真相照我的方法來改,都改成我的假相。這是古人所謂「錯下一個字轉語,墮五百世野狐身」,你要背因果責任,這個因果是地獄、餓鬼、畜生。
これは李老師が以前私に話して下さった事ですが、昔翻経(ほんぎょう=経典の翻訳)をした人は、修行の証果は少なくとも三果以上でした。このことについて老師は、中国人は恵まれていると仰いました。聖賢が翻訳をしたのです。凡人ではありません。凡人には自分の考え方、自分の見解があります。聖人には自己はありません。自己が無くなってはじめて真相を見ることができるのです。自己があれば偽相は見えても、真相は理解できません。偽相を真実であると思い込み、真相を自分の方法で改めてしまいます。自分の偽相に改めてしまいます。これは古人の言うところの、「錯下一個字轉語,墮五百世野狐身」(一字の誤りで、五百世野狐身に堕す)です【注1】。あなたは因果の責任を負わなければなりません。この因果は地獄、餓鬼、畜生です。
這句話也是有出處的,唐朝百丈大師,百丈是第八代,六祖惠能的徒孫,每天上堂說法,禪宗不講經,禪宗講開示,這個開示記錄下來叫語錄;換句話說,用現在話說,分享修學的心得報告。每一次上堂說法都有一個老人,頭髮、鬍鬚都是白的老人來聽講,他住在後山。百丈大師知道牠不是人,牠是個老狐狸,修行能夠變成人形來參加法會,一般人不知道,百丈大師曉得。
この話には典拠があります。唐朝の百丈大師(749-814)【注2】です。百丈は(禅宗の)第八代、六祖・慧能の孫弟子です。毎日壇上で説法します。禅宗では講経(こうきょう)をせず、開示をします。その開示を記録したものを語録と言います。言い換えれば、今の言葉で言うなら、修学の心得を報告して共有することです。毎回お堂で説法していると一人の老人が現れます。髪も髭も真っ白な老人が聴講しに来ます。彼は裏山に住んでいました。百丈大師は、彼は人ではないことを知っていました。彼は年老いた野狐(やこ)でした。修行して人の姿に化けて、法会に参加していたのです。一般の人には分かりませんが、百丈大師には分かりました。
牠向大師提出一個疑問,就是大修行人還落不落因果?他在過去是大法師,有個人向他請教,大修行人落不落因果?他說不落因果,墮五百世野狐身。這狐狸有靈性,過去是大法師修得不錯,這一生遇到百丈。
彼は大師に、「大修行の人でも因果に落ちるのか?」と質問します。彼の過去世は大法師でしたが、ある人に「大修行の人は因果に落ちるのか?」と問われて、彼は「不落因果」(因果に落ちることはない)と答えたので、五百世ものあいだ野狐身に堕ちていました。この野狐には霊性があります。過去には大法師として、よく修行していました。今生でようやく百丈と出会いました。
百丈大師告訴他,「你明天來,你把當年人家問你這個話,你在講堂裡面提出來問我。」第二天來了,老和尚在講開示,他出班跪在地下,恭恭敬敬的問這句話,「大修行人還落不落因果?」百丈禪師說,「不昧因果。」你看他是不落因果,一個字,這一個字講錯墮五百世野狐身,他把它修正過來,不是不落,是不昧因果,他的問題解決了,第二天沒有來了。
百丈大師は、「明日また来て下さい。あなたは当時人からこの質問をされたのでしょう。講堂で私に質問して下さい」と言いました。翌日になるとやはり来ました。百丈和尚が開示をしていると、彼は進み出て跪くと、恭しくその質問をしました。「大修行の人でも因果に落ちるのでしょうか?」 百丈禅師は「不昧因果」(因果を昧すことはできない)と言いました。 彼は「不落因果」(因果に落ちることはない)と言い、この一字を言い間違えて五百世ものあいだ野狐身に堕ちました。彼はそれを正されたのです。落ちない(不落)のではなく、昧(くらま)すことはできない(不昧)ということです。彼の問題は解決して、翌日は来ませんでした。
老和尚說:昨天那個老頭常常來聽經的,牠是個老狐狸精,牠解脫了,離開狐狸身,我們到後山去把牠的屍體找來埋葬起來,照出家人的禮節來葬牠。到後山去果然找到,這就是錯下一個字轉語,墮五百世野狐身。真有這個事情,它不是假的,就錯一個字,不落是什麼?不落是沒有因果,叫不落。不昧什麼?有因果,清清楚楚、明明白白。
百丈和尚は言いました。昨日のよく経を聴きに来ていた老人は、狐狸の精です。彼は解脱して、狐狸身を離れました。裏山に彼の死骸を探しに行って、埋葬しましょう。出家僧の礼節をもって弔います。裏山に行って見ると、本当に見つかりました。これが、「一字の誤りで五百世野狐身に堕す」ということです。この事は本当にありました。これは嘘ではありません。正に一字の誤りです。落ちない(不落)とはどういう事でしょう?落ちないと言うのは、因果はないということです。昧すことはできない(不昧)とはどういう事でしょう?因果は、はっきりと、明らかにあるということです。
<脚注>
1.「錯下一個字轉語,墮五百世野狐身」(一字の誤りで、五百世野狐身に堕す)
2.百丈大師(749-814)・・・・百丈懐海。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%88%E6%87%90%E6%B5%B7
<参考>
百丈和尚の有名な「百丈野狐」の一節。
岩波文庫(青版)の『無門関』に、原文と翻訳が載っています。
古人錯祇対一転語、堕五百生野狐身
古人、錯(あやま)って一転語(いつてんご)を祇対(しつい)し、五百生野狐身(やこしん)に堕す。
【誤】 不落因果(ふらくいんが)・・・・(大修行の人は)因果に落ちることはない。
【正】 不昧因果(ふまいいんが)・・・・(大修行の人でも)因果を昧(くらま)すことはできない。
*野狐(やこ)は、山野にすむキツネのことです。野狐(のぎつね)。