浄空法師説法研究

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『太上感応篇』大意 1/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

《太上感應篇》大意
(共一集)  檔名:19-006-0001 (講義の場所・日付は不明)

  諸位同修,今天藉這個機會給同學們介紹《太上感應篇》。這部書實在說是一篇不太長的文章,可是在歷代古聖先賢給我們做的註疏、講義內容非常豐富,不但包括儒家的精要,而且將道家、佛家的精華都收攬在其中,這部書的名稱就叫做《感應篇彙編》,這部書的真正作者已經很不容易考證。經文第一句:
皆様、今日はこの機会を借りて『太上感応篇』を紹介します。この書物はそれほど長くない文章ですが、歴代の古(いにしえ)の聖賢たちによる注釈や講義の内容は非常に豊富で、儒教の重要な要点が含まれているだけでなく、道教や仏教の精華がすべて収められています。この書物は『感応篇彙編』と言いますが、この書物の本当の作者についてはすでに考証するのは容易ではありません。経文の第一句は「太上曰」です。

  【太上曰。】
  太上は言われた。

  『太上』,我們可以看作至尊這一種稱呼,所謂「稱天立教」,指示人不可以疏忽,要認真的去體會天道,也就是天理,順乎人心,而去奉行的意思,所以叫「太上」。在註疏裡面,也有一些人將太上說為老子的尊稱,這是不是太上老君就是老子,我們不敢斷定,這是需要經過考證。如果是老子,我們曉得,在《史記》裡面所記載的,老子與孔老夫子是同時代的人,年齡比孔老夫子要大十幾歲。他生在公元前五六一年,卒於公元前四六七年。
「太上」、私たちはこの呼び方を至尊(しそん/祖師)と考えることができます。いわゆる「称天立教」であり、疎かにしてはならないことを表しています。天道、天理を真摯に理解し、人心に従って奉仕するという意味です。ですから「太上」と言うのです。注釈の中には、太上は老子の尊称であるとするものもあります。この太上老君が老子なのかどうか、私たちに断定することはできません。これは更なる考証を経る必要があるでしょう。もし老子のことなのであれば、『史記』の中に記載がありますが、老子と孔子は同時代の人で、年齢は孔夫子よりも十数歳ほど高いとされています。老子は紀元前561年に生まれ、紀元前467年に亡くなっています。

《史記》裡面這樣記載,說他姓老名聃,字陽,外號稱之為陽子。當中國西漢之初,老就轉為李姓,就是我們現在講的木子李,把這個字改了,改了這個李姓了。後世的子孫,在他家譜裡面追名為耳,所以我們也稱作李耳。出生在相國,相這個地方,現在河南鹿邑縣東方十五里的這個所在,他是生於相之鄉曲仁里,可見得史書裡面將他的生卒、居住記載得很詳細。
『史記』にはこのような記載があります。彼は姓を老、名を聃、字を陽、外号を陽子と言いました。中国西漢の初期、老という姓は李という姓に変わりました。私たちが今言う「李」という姓に改められたのです。後世の子孫が家計簿をたどると名前は「耳」であり、李耳という名前であったとされています。出生は相という国です。相という地域は、現在の河南省鹿邑県から東方十五里にあり、彼が生まれたのは相の瀬郷曲仁里という所です。史書には彼の生没から居住地まで詳細に記載されている事が分かります。

  相這個地方,當時是屬於陳國。在老子二十八歲的時候,也就是公元前五百七十四年,楚國滅了陳國,相這個地方就成為楚國的領土了,入了楚國的版圖,後來楚國把相這個地方改稱為苦。因此老子的籍貫,要從他出生的年代來說,他是陳國相人;要從他晚年時候來講,他是楚國的苦人,就是苦縣人。他在世的時候,壽數很大,他活了九十五歲,是一位長壽的老先生。相傳這篇東西是他老人家留傳下來的,究竟是不是姑且不論,但是這篇東西是非常有價值的。
相という地域は、当時は陳国に属していました。老子が二十八歳の時、つまり紀元前574年に、楚国が陳国を滅ぼして、相という地域は楚国の領土になりました。その後、楚国は相という地域を苦しめました。そのため老子の本籍は、彼の出生した年代から見るなら彼は陳国の相人ということになり、彼の晩年で見るなら楚国の苦人、つまり苦県人ということになります。彼は寿命が長く、九十五歳まで生きました。長寿の老先生です。相伝は老子の家に伝えられたものだと言われますが、それがどうなのかはさておき、この書物は非常に価値あるものです。

  我在北部與南部也都講過《感應篇》,所使用的時間大概是四十五個小時到六十個小時之間。當然今天在此地,我們也只能使用兩個小時來介紹《感應篇》的大意,其目的是希望諸位同修能夠提起興趣來研究、來讀誦、來實行,造自己之福,造一家之福,造社會國家之福,這是我們研學的目標。
私は北部でも南部でも『感応篇』の講義をした事がありますが、要した時間は約45時間から60時間の間でした。当然今日ここでは2時間しか使えませんので、『感応篇』の大意を紹介します。その目的は同門の皆さんに研究に関心を持って頂き、読経し、実行して頂き、自分の福を造り、家の福を造り、国家社会の福を造ることにあります。これが私たちの研究の目標です。

  全篇是以開頭的四句為總綱,這就是所說的「禍福無門,惟人自召。善惡之報,如影隨形」,這四句把感應的理與事都說得非常透徹。感好比種植,應好比是花果,有感必有應,所謂是隨感隨應,這是天然之道,這個道理非常之深,當然也不是很簡單的幾句話就能夠說得完。佛在經論裡給我們的啟示,所謂世出世間一大感應,如果要徹底探討感應之理,必須要從大經大論,所謂甚深般若之中去探索。理明瞭之後,我們對於感應,信得才真,信得才切,而後我們進修有地,成就是必然的。
全篇は初めの四句を綱領としています。それは「禍福無門,惟人自召。善悪之報,如影随形」(禍福はもともと定まってはおらず、ただ人が自分自身で招くものである。善悪の果報は、影が形に随うようなものである)です。この四句は感応の「」と「」が非常に明瞭に説かれています。「」とはちょうど種蒔きのようなもので、「」とは花や果実のようなもので、「」があれば必ず「」があります。いわゆる「随感随応」です。これは自然の道であり、その道理は非常に深く、当然簡単な言葉で言い表せるものではありません。仏陀は経論において私たちに啓示されています。いわゆる世間(衆生の世界)と出世間(仏・菩薩の世界)は一つの大きな感応であり、もし感応の道理を徹底して探究しようとするなら、必ず大経大論から、いわゆる深い般若(悟りを得る智慧)の中を探究しなければなりません。道理が明らかになれば、私たちは感応に対して、それが真実で、切実なものであると信じることができます。また修学の基礎を得ることができれば、成就するのは必然でしょう。

  在這一篇裡面,過去印光大師他老人家在一生之中留給我們的遺教,可以說是相當的豐富,現在在台灣台北有一個佛教出版社,將大師一生的遺教蒐集起來編了一個全集,是精裝六大冊。在全部遺教裡面,我在講席當中把它歸納為五句二十個字,就整個包括大師一生的教化,也就是說他老人家一生的教化綱領不出這二十個字。
この一篇には、かつて印光大師がその一生涯で遺して下さった遺訓があります。それは相当に豊富なものです。現在台湾台北のある仏教出版社で、大師一生の遺訓を集めた全集が編纂されました。上等な装丁の六冊です。すべての遺訓の中から、私は講義の中でそれを帰納して五句二十字にまとめました。そこには大師一生の教化(教え導くこと)が含まれており、大師一生の教化の綱領はこの二十字を出ないと言えるでしょう。

第一句講的是「敦倫盡分」,倫是倫常,分是本分,所謂五倫十義,這是世出世法的大根大本。第二句「閑邪存誠」,是要做心地的功夫,也就是儒家所講的格物、致知、誠意、正心,印祖以四個字來說明,「閑邪存誠」,與儒家講的這八個字是一樣的意思。第三句說「諸惡莫作」。前面的兩句,「敦倫盡分」是自修,是修身,「閑邪存誠」是修心,以身心做基礎。再進一步,修諸惡莫作,這就是消災。我們一切的災難是過去世、現在世惡業的感應,如果我們從此以後真正能夠做到諸惡莫作,我們一切的災難就漸漸的遠離。
第一句は「敦倫尽分」(倫を敦くして分を尽くす)です。「」とは倫常(人倫の道)であり、「」とは本分です。いわゆる五倫・十義(注1)のことで、これは世間(衆生の世界)と出世間(仏・菩薩の世界)の法(有形無形一切の存在)の大根本です。第二句は「閑邪存誠」(邪を閑(ふせ)ぎ誠を存(たも)つ)です。これは心の工夫が要ります。これは儒教で言う格物、致知、正心のことで、印祖は四文字で説明しています。「閑邪存誠」、これは儒教で言う八字(八徳)と同じ意味です。第三句は「諸悪莫作」(諸悪を作ること莫し)です。前の二句の「敦倫盡分」は自分の修学・修身、「閑邪存誠」は修心のことで、心身を使って基礎を作ります。更に一歩進んで、「諸惡莫作」を修めます。これは消災(厄払い)です。私たちの一切の災難は過去世、現世の悪業の感応であり、もし私たちが今後本当に「諸惡莫作」を実行する事ができれば、一切の災難は少しずつ遠ざかっていきます。

災消了以後,我們進一步要做的就是培福。培福怎樣培法?那就是要做到「眾善奉行」。這些在《了凡四訓》裡面已經把這個道理大略的說過,在這一篇裡面將這些細目具體的開示給我們,便於我們受持,便於我們依教修學,所以這一篇東西,印祖取它代替佛門的戒律,這是非常有道理的。因為佛法的修學一定是以戒律為基礎,所謂是因戒生定,因定才開慧,何況我們智慧不能夠現前就是由於我們業障太重,障礙了我們的智慧、性。
消災(厄払い)の後、私たちは更に一歩進んで為すべきことは、福を培うことです。どのように福を培うのでしょうか?それは「衆善奉行」(衆生に善の奉仕をする)を実行する事です。そのことは『了凡四訓』にその道理の概略が説かれています。私たちが受持(教えを持ち続けること)することができ、教えに依って学ぶことができるように、細かく具体的に示されています。ですから印祖はこの書物を取り上げて、仏門の戒律の代りにしました。これは非常に道理のあることです。仏法の修学は必ず戒律を基礎として、いわゆる「戒」に因って「定」が生じ、「定」に因ってようやく「慧」(智慧)が開かれるものです。智慧が開かれないなら、それは私たちの業障が重い為であり、それが智慧や性徳の障害となっているからです。

<脚注>
1.五倫(ごりん)・・・・父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。(『孟子』滕文公上)
  十義(じゅうぎ)・・・・父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟(てい/年長者に従うこと)、夫の義、婦の聴(人の言葉を聞き入れること)、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠。(『礼記』礼運)

>>>『太上感応篇』大意 2/10 につづく
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/1c2c8fd774bca8a9413be624af43259a

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『太上感応篇』大意 2/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  我們怎樣叫智慧開、性現前?首先要講消災。消災怎麼個消法?過去章嘉大師曾經告訴我,必須要修懺悔法門,所以十大願王「懺悔業障」列為第四條,這個前面四條都是屬於修學的基礎。怎麼懺除法?就是要知道善惡,要知道自己的過失,改過自新,這個才叫做真懺悔,這樣才能夠真正的消除業障。因此這一篇全篇宗旨所在就是後面的一句話,改過遷善,能改過遷善自然就能轉禍為福。
 私たちはどのように智慧を開き、性徳を体現するのでしょうか?まず消災(厄払い)から話さなければなりません。消災はどうすればよいのでしょうか?かつて章嘉大師は私に、懺悔の法門を修めなければならないと仰いました。ですから十大願王の「懺悔業障」(業障を懺悔する)を四句目に置きます。これら四ヶ条はすべて修学の基礎に属するものです。どのように悔い改めれば良いでしょうか?善悪を知り、自分の過失を知り、心を入れかえなければなりません。それでこそ真の懺悔ということができます。このようにしてようやく本当に業障を取り除くことができます。そのことからこの一篇全篇の宗旨は、その後の一句「改過遷善」(過失を改め善に立ち返る)にあります。過失を悔い改めて善に立ち返ることができれば、自然に禍を福に転じることができます。

可見我們的障礙、我們的災難,別人不能給我們排除,別人也不能夠代替,必須要靠自己認真努力,才能夠做到轉禍為福、轉迷成悟、轉凡成聖。這樁事實在講並不難,世間之難事是以求人為最難,這樁事情不必求人,這是求諸己的事情,只要自己能努力,肯發憤,一定可以做到功圓滿,這是首先我們要認識的。
私たちの障碍や災難は、他人に取り除けるものではなく、代ってもらうこともできません。必ず自分で真面目に努力してこそ、禍を福に転じ、迷いを悟りに転じ、凡人を聖人に転じることができるのです。この事は言うのは難しくありませんが、世間の難事というものは人に求めることほど難しい事はなく、この事は人に求める必要はありません。これは自己に求めるべきことであり、ただ自分で努力し、発奮することができれば、必ず円満な功徳を修めることができます。これは先に認識しておくべき事でしょう。

  我們要改造自己的命運,轉移自己的命運,關鍵所在就在這一篇能不能徹底圓滿的去實踐。就是以出世法來說,你要想學佛、成佛、成菩薩,基礎也在這一篇,所以印光大師一生當中不遺餘力來提倡,來勉勵我們後學,以這一篇代替戒律,以這一篇做為成佛作祖的根基。所以我們在華藏佛教視聽圖書館裡面,我們計劃經常開這個科目,與諸位同修共同來研究、來探討它的理論與精神,來研究它在日常生活當中可行的方法,以及聽取諸位修學的心得報告,來長我們的信念、長我們的信心。
 私たちは自分の運命を改善し、運命を転じたいのであれば、その鍵はこの一篇を徹底して実践できるかどうかにあります。出世間(仏・菩薩の世界)の法で言うなら、あなたが仏に学び、仏になり、菩薩になりたいのであれば、その基礎はこの一篇にあると言えます。ですから印光大師は一生かけて提唱に力を尽くし、私たち後学の徒を励まし、この一篇を戒律に代えて「成佛作祖」(仏と成り祖師となる)の基礎としました。ですから私たちは華蔵仏教視聴図書館において、この科目を頻繁に開講する予定です。同門の皆さんと共に理論と精神を探求しながら、それを日常生活において実行する方法を研究します。また皆さんの修学における収穫を聴取して、信念と自信を深めていきたいと思います。

我們這一方,人人都以《感應篇》來修學,斷惡修善,善人多了,我們這個地方就是福地、是善地;善人多了,我們這個城市就叫做福城。我們讀《華嚴經》善財童子五十三參,他生長在福城,居住在福城,種種的事業都在福城,福城究竟在哪裡?福城在我們心地裡面。我們有福,我居住的地方就是福城。
ここで人々が皆『感応篇』を修学し、悪を断って善を修め、善人が多くなれば、私たちのこの場所が「福地」(福のある幸せな土地)になります。善い土地になります。善人が多くなれば、自分の町が「福城」(福のある幸せな町)になります。『華厳経』の善財童子五十三参を読むと、善財童子は生まれも育ちも、住まいも、様々な事業もすべて「福城」にありました。「福城」はいったいどこにあるのでしょうか?「福城」は私たちの心にあります。私たちに福があれば、自分の住んでいる場所が「福城」になります。


  現在讓我們將這一篇的大意,概略的給諸位做一個簡單的報告。全篇經文的結構可以分做七個大段,第一個大段是總綱,有四句。第二個大段是示警,就是很明顯的指示我們、警告我們。第三大段是講修福、福報,第四大段是講惡報,善有善報,惡有惡報,而是以這二段,福報與惡報,為本文的重心之所在,就像經典裡面所謂的正宗分,主要的一部分。
 これからこの一篇の大意、概略を皆さんに簡単にご説明します。全篇の経文の構成は七つの段落に分けることができます。最初の段落は綱領で、四句あります。第二段落は警鐘です。これは私たちへの明確な指示であり、警告です。第三段落は福を修めること、福報についてです。第四段落は悪報についてです。善には善報があり、悪には悪報があることが説かれています。そしてこの二段の、福報と悪報に、本文の要点が置かれています。経典の中のいわゆる本筋であり、主要な部分です。

第五個大段,「推本念初」,也就是尋求根本,要找出最初這一著。第六也是全經的旨歸,也就是用心之所在,改過遷善。末後幾句是全文的結勉,總結勸勉我們。這是一共分做七個大段。在第一大段裡面,當然每一段、每一句,我們在此地都沒有時間來細說,可是我們還是需要從本文把這個一段一段的意思介紹出來。在總綱裡面雖然只有四句,四句就是兩個小段,前面兩句:
第五段落の「推本念初」(本を推し初を念ずる)、これは根本を追求することです。執着の起こりを探し出さなければなりません。第六段落も経典全体の要旨であり、つまり努力すべきは「改過遷善」(過失を改め善に立ち返る)にあるということです。最後の数句は全文の結論であり、総括して私たちを励ましています。これら合わせて七つの大きな段落に分けられます。第一段落については、当然各段落の一字一句をここで詳細に解説する時間はありませんが、やはり本文から各段の意味を紹介する必要はあるでしょう。綱領は四句だけですが、この四句は二つの小節に分けられます。前の二句は、

  【禍福無門。惟人自召。】
  
禍福はもともと定まっておらず、ただ人が自分自身で招くものである。

  這兩句是總明感應的道理,是講感應之理。後面這兩句:
  この二句は感応の道理を明らかにし、感応の理を説いています。次の二句は、

  【善惡之報。如影隨形。】
  善悪の果報は、影が形に随うようなものである。

  『報』是報應。這兩句是總明報應之事,講這些事相。在第二段裡面,示警,文字比較上要長一點,我們可以把它分做兩個中段,第一個是示警,第二個是鑑察。在第一個中段裡面分三個小段,第一總明,第二別示六句,第三是總結、結示。經文裡面:
  「報」とは因果応報のことです。この二句はすべて因果応報の事であり、それらについて説かれています。
 第二段は、警鐘です。文字を比較すると少し長くなりますが、それは二つの段に分ける事ができます。一つ目は警鐘であり、二つ目は監察(監督・査察)です。一つ目はさらに三つに分けられ、第一は概要、第二は別説の六句を示し、第三は総括、結論です。経文はこうです。

  【是以天地有司過之神。依人所犯輕重。以奪人算。】
  天地には司過神(しかしん/注1)がいて、人が犯す罪業の軽重により、人の算(寿命)を奪う。

  儘管今日有許許多多人不相信有天、有神、有鬼,可是真正相信的人依然是不在少數,不但我們中國信的人很多,在日本、在韓國、在東南亞,甚至於在歐美,相信有鬼神的還是很多。事實上有沒有?給諸位說,有,絕對有。關於這些事情,我們留在講《文昌帝君陰騭文》的時候再加以詳細的說明。在此地我們只注重哪些是善行,哪些是惡事,我們必須要辨別,然後我們才能夠斷惡修善,成就我們的行,培育我們福報的基礎,這是重要的。
 今日では多くの人は天があり、神や鬼がいる事を信じませんが、本当に信じている人も依然として少なくありません。信じる人が多いのは中国だけではなく、日本、韓国、東南アジア、更には欧米に至るまで、鬼神を信じる人はたくさんいます。実際にいるのでしょうか?皆さんに言っておきますが、います。絶対にいます。この事に関しては、『文昌帝君陰騭文』の講義をする際に、詳細に説明をします。ここではただ、何が善行であり、何が悪事なのか、それを見分けることを重視します。それができてはじめて「断悪修善」(悪を断ち善を修める)ことができ、徳行を成就して、福報の基礎を養うことができるのです。これは重要なことです。

『天地有司過之神』,「司」是司理、管轄的意思。『是以天地有司過之神,依人所犯輕重,以奪人算』,這個幾句是總明,下面有六句是別說。奪人之算,「算」在中國一般的講法是一百天。你造了大的惡事,奪算,奪一算就是一百天,一紀是十二年。所以有大善可以延壽,有大惡可以減壽。
天地有司過之神」、「」とは取りまとめること、管轄の意味です。「是以天地有司過之神,依人所犯輕重,以奪人算」、これらの句は概要であり、次の六句は別説です。人の算を奪う、この「」は中国の一般的な言い方では百日ということです。あなたが大きな悪事を犯せば、算を奪われます。「」を一つ奪うとは、百日奪われるということです。「」(という単位)は十二年です。大善を行えば寿命が延びて、大悪を働けば寿命は減らされます。

<脚注>
1.司過神(しかしん)・・・・人間の行動を監視して、取り締まる神のこと。

>>>『太上感応篇』大意 3/10 につづく
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『太上感応篇』大意 3/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【算減則貧耗。】
  算を減らせば、貧窮し消耗することになる。

  這是一樁事情,這就是報應,算減你就得『貧耗』,「貧」是貧困,「耗」是損耗。
  これは因果応報です。算を減らせばあなたは「貧耗」を得ます。「貧」は貧困、「耗」とは消耗することです。

  【多逢憂患。】
  憂いと苦しみに多く見舞われる。

  凡是操心的事情,災難的事情,常常遇到。
  いつも心配事や災難に見舞われるということです。

  【人皆惡之。】
  人は皆このような人を憎む。

  這是第三。俗話說某人倒楣,某人不走運,人見到他都討厭他,都不歡喜他。
  これは三つ目。諺にあるように、ある人が不運に遭い、運が向かなくなり、誰もがその人を嫌うようになることです。

  【刑禍隨之。】
  刑罰としての禍はこのような人に随う。

  天災人禍都來了。
  天災と人災がすべて降りかかります。

  【吉慶避之。】
  吉慶(おめでたいこと)はこのような人を避けていく。

  凡是好的事情、吉祥的事情,他遇不到。
  およそ良い事、縁起の良い事に遇うことはありません。

  【惡星災之。】
  悪星はこのような人に災いする。

  『惡星』就是凶惡之星,所謂是凶神惡煞,別人遇不到的他遇到了。這是別說的六樁事情。末後一句,這是這一個中段的總結:
  「悪星」とは凶悪の星であり、いわゆる殺人鬼のことで、他の人は遇いませんが、(罪業を犯して算を減らした)その人は遇ってしまいます。これが別説の六つの事です。そして最後の一句は、この中段の結論です。

  【算盡則死。】
  算が尽きれば死んでしまう。

  俗話說「祿盡人亡」,也是這個道理。這是示警的這一段,提出來警告我們,不要以為我們動一個惡念,做一樁別人不知道的壞事,以為可以瞞過別人,殊不知可以瞞過人,不能瞞過天地鬼神、不能瞞過自己的良心。我們做了惡事、動了惡念,心不安,所以與這些司過之鬼神就起感應道交。他怎麼知道的?他怎麼來的?我們心有所感,他有所應,感應道交。諸位細細去想這個道理,這個裡面沒有迷信,也不牽強附會,而句句是真實之理,真實之事。
  諺に「禄尽くれば人亡ぶ」と言いますが、これもこの道理です。これは警鐘の一段であり、私たちへの警告です。悪い考えを起こし、人知れず悪い事をしても、人をごまかせると考えてはなりません。天地の鬼神をごまかすことはできません。自己の良心をごまかすことはできません。私たちは悪事を行い、悪念を起こすと、心が不安になります。そのため司過の鬼神との感応が起こるのです。鬼神はどうして分かるのでしょう?鬼神はどのように来るのでしょうか?私たちの心に働きかけがあるから、鬼神はそれに応じて感応するのです。皆さんよくこの道理について考えてみて下さい。そこには迷信はありません。こじつけもありません。一字一句が真実の理であり、真実の事です。

  第二段講鑑察,就是天地鬼神對人間之事看得很清楚。明白這一大段,《了凡四訓》裡面告訴我們,我們要知畏,在在處處有畏懼之心,我們的心才能夠養成誠敬,誠敬是福的根源。說:
  第二段は監察(監督・査察)です。天地の鬼神は人間界の事をはっきりと見ています。この一段を理解するには、『了凡四訓』にも説かれているように、私たちは畏れを知らなければなりません。どこにいても畏れる心(畏敬の念)があれば、私たちは誠実に敬う心を育てる事ができます。誠実に敬う心は福徳の根源です。

  【又有三台北斗神君。在人頭上。錄人罪惡。奪其紀算。】
  また三台(注1)に北斗の神君(注2)がいる。人の頭上にいて、人の罪悪を記録し、その「紀」や「算」を奪うのである。

  這一些詳細的諸位可以去查看《感應篇彙編》,或者是《感應篇直解》,都解釋得非常的詳細。這一段是講天神的鑑察,人與天、人與鬼神、人與六道,乃至於人與盡虛空遍法界,息息相關,感應道交。感應之理甚深難以覺察,感應之事非常的微細,也不是我們粗心人能夠觀察到的。如果你有定功,有甚深的定力,你在定中可以見到這些理,可以見到這些事。所以功夫要認真的做,而後這功夫愈深,理愈明;理愈明,愈能進功夫,所謂是行解相應、理事一如。
  この部分の詳細は『感應篇彙編』、或いは『感應篇直解』をご覧下さい。どちらも詳細に解説されています。この一段は天神の鑑別についてです。人と天、人と鬼神、人と六道、或いは人と尽虚空遍法界は、密接な関係があり、感応し合っています。感応の理は非常に深く、感じ取ることはできません。感応の事は非常に微細であり、私たちのような粗忽な人間が観察できるものではありません。もしあなたに禅定の技量(定功)があり、深い定力があるなら、あなたは定(禅定)の中においてこれらの理・事を見ることができます。ですから実質的な技量を身に付けるためには真摯に実行しなければならず、技量が深まるほど道理が明らかになり、道理が明らかになるほど技量が深まります。いわゆる行解相応(ぎょうげそうおう/注3)、理事一如です。

  下面一段,這是講的身中神。在佛法裡面所謂識神,《華嚴經》裡面所謂同生、同名二童子。我們看經文:
  次の一段は身体の中の神についてです。仏法でいわれる識神、『華厳経』の中では同生・同名の二童子といわれます。経文を見てみましょう。

  【又有三尸神。在人身中。每到庚申日。輒上詣天曹。言人罪過。】
  また三尸の神(注4)がいる。人の身体の中にいて、庚申の日(注5)には、天曹(注6)に行って人の罪過を報告するのである。

  這就是身中神,他不離開我們,我們舉心動念他都知道,所以不必天神鑑察我們,身中神到時候,『庚申日』,每六十天當中就有一個庚申日,換句話說,兩個月裡面他要上天去報告一次。這一個人,他心的善惡、行的善惡,諸位想一想,他怎麼不知道?第三是:
  これは身体の中の神で、私たちから離れません。彼らは私たちの心の起こりや意念の動きをすべて知っています。ですから天神は私たちを観察する必要はありません。身体の中の神が六十日に一度ある「庚申の日」、要するに二ヶ月に一度、彼らが天に報告しに行くという事です。

  【月晦之日。灶神亦然。】
  月の晦日(つごもり/注7)には、灶神(そうしん=かまどの神)もまた同じように、

  奉祀灶神,在過去中國大陸可以說每一家、每一戶對於灶神都非常恭敬。灶神有一副對聯,我記得我小時候常常看到,「上天奏好事,下地保平安」,這是我們世人對於灶神的期望,既然有這個期望,我們要符合神明的期望。上天奏好事,當然我們是「諸惡莫作,眾善奉行」,他一定去奏好事,去報告我們的好事。「下地保平安」,憑什麼保佑你平安?感應道交,我們是積善修,尤其是廣積陰功,這是我們平安的張本。末後這幾句是結勸,勸勉我們:
  灶神(そうしん=かまどの神)を祭ることは、昔の中国大陸では、どの家でもと言って良いほど非常に敬っていました。灶神には対聯(ついれん/注8)を貼ります。私は子供の頃によく見たのを覚えています。「上天奏好事,下地保平安」(上には天に好事を奏し、下には地に平安を保んずる)。これは私たち世間の人間の灶神への願いであり、このような願いがある以上は、私たちは神明の願いに適うようにしなければなりません。「上には天に好事を奏し」、当然私たちは「諸悪作莫、衆善奉行」(諸悪を作ることなく、衆生に善を施す)、人が好事を奏すれば、私たちの好事を報告してくれます。「下には地に平安を保んずる」、何によってあなたの平安を護るのでしょう?感応道交(注9)、私たちが善を積み徳を修め、特に広く陰徳を積めば、それが私たちの平安の根源となります。 最後の数句は、私たちへの激励です。

  【凡人有過。】
  人に過失があれば・・、

  『凡』是通指一般人,如果有過失:
  「凡」とは一般の人を指します。もし過失があれば、

  【大則奪紀。】
  (その過失が)大きければ紀を奪い、

  一紀是十二年,這是大過失。
  一紀は十二年ですから、これは大きな過失です。

  【小則奪算。】
  小さければ算を奪う。

  『算』是一百天。不一定是你減少了壽命,減少了十二年,或者減少一百天的壽命,亦不盡然是這種講法,可以說做大的惡事,十二年不走好運,做小的惡事一百天沒有好運。諸位細細在這個裡面去觀察,這個感應之事、感應之理,你能夠看得出來,你能夠體會得到,這也是一門實際的學問。
  「算」とは百日のことです。寿命が減るとは限りません。十二年、或いは百日寿命が減るというのは、全部その通りなのではなく、大きな悪事を働いたら十二年不運に陥り、小さな悪事を働いたら百日は不運に見舞われると言っても良いでしょう。皆さんよくこの部分をよく観察してみれば、この感応の事、感応の理というものは、自分で見ることができ、体験することができるものです。これも一つの実践的な学問です。

<脚注>
1.三台・・・・上台、中台、外台の三つ。上台は生死を、中台は福報、下台は禄・財産を管轄している。
2.北斗の神君・・・・道教には北斗と南斗の神君がおり、南斗は「生」、北斗は「死」をつかさどる。
3.行解相応(ぎょうげそうおう)・・・・修行と理解の釣り合いが取れている。
4.三尸の神(さんしのかみ)・・・・道教で人体に住んでいる三匹の虫のこと。上尸神は人の頭上にいて、人を混乱させ、眼を眩ませ、髪を脱けさせる。中尸神は人の胃腸の中に住み、人に食べさせ、忘れさせ、悪事をさせる。下尸神は人を好色にさせ、貪らせ、殺させる。
5.庚申(こうしん)の日・・・・陰暦では六十日に一度庚申の日がある。
6.天曹(てんそう)・・・・四王天、忉利天を指す。
7.月の晦日(つごもり)・・・・月の最後の日。旧暦の30日。
8.対聯(ついれん)・・・・対句を二枚に書き分けて、入口・壁面・神棚などに左右に分けて貼ったもの。向かって右のを上聯、左のを下聯という。
9.感応道交(かんのうどうこう)・・・・仏の働きかけと、それを感じ取る人の心が通じ、相交わること。

注釈(脚注1、2、4、5、6)の典拠:
http://www.amtb-m.org.my/zh/online-buddhist/2009-12-01-11-14-33/shijin/540-2009-12-02-09-37-23

>>>『太上感応篇』大意 4/10 につづく
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『太上感応篇』大意 4/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【其過大小。有數百事。】
  その過失には大小があり、数百もの事柄がある。

  像這一篇裡面,大大小小的一共就說了一百多條。
  この一篇のように、大小様々な過失は合わせて百以上あると言います。

  【欲求長生者。先須避之。】
  長生きしたいと思う者は、まずこれを避けなければならない。

  『長生』是人祈求的一種。每個人都求著自己長壽,俗話所謂是「多福,多壽,多男子」,這是我們中國世俗裡面一般人,人人、家家所希求的。這一段是講的示警,尤其末後結勸得太好了,我們要求長壽、要求富貴,必須先要把我們不吉祥的惡心、惡的行為,災禍的果報,我們要曉得避免。怎麼避免法?不造因,不會遇到這些不好的事情。
  「長生」は人が希求するものの一つです。誰もが自分の長寿を願っています。諺に言う「福が多く、寿命が長く、男の子が多い」、これは中国の世俗の一般人であれば、誰でも、どの家でも願うものです。この一段は警告であり、特に最後の結論は素晴らしいものです。私たちは長寿を求め、豊かさを求めるなら、まず先に私たちの不吉な悪心、悪い行い、災いの果報を避けること、それを理解しなければなりません。どのように避けるのでしょう?原因を造らなければ、これらの悪い状況に遭遇することはありません。

  第三段這是講福報,我們在這一段認識哪些是福,如何的修福。這個裡面也分做幾個段落,我們一面念一面再說明:
  第三段は福報についてです。私たちはこの一段で何が福なのか、どのように福を修めるのかを理解します。この中もいくつかの段落に分かれますが、読みながら説明を加えていきます。

  【是道則進。非道則退。】
  正しい道であれば進み、非道であれば退く。

  這個兩句是總說。是道我們就進,不是道我們就退。道這一字,究竟它的定義是什麼,一定要搞清楚。我在《了凡四訓》裡面講過,倫常、八是世出世間的正道,是世出世間的根本大道。印祖給我們開示的五句話二十個字,「敦倫盡分,閑邪存誠,諸惡莫作,眾善奉行,老實念佛」,這是學佛四眾弟子的大道、正道。一切的思慮、一切的言行,符合這個標準我們就進,不符合這個標準我們就退,這個是道。所以在這個福報裡面,首先講積善,積善裡面這兩句是總綱,詳細的諸位去看註解。
  この二句は総括です。私たちは道であれば進み、道でなければ退きます。道という字の定義はいったい何か、必ずはっきりさせなければなりません。私は『了凡四訓』の中で話したことがあります。倫常、八徳は世間(衆生の世界)と出世間(仏・菩薩の世界)における正道であり、根本の大道です。印祖は私たちに五句二十字で開示して下さいました。「敦倫尽分,閑邪存誠,諸悪莫作,衆善奉行,老実念仏」。これは仏法を学ぶ四衆弟子(注1)の大道、正道です。一切の思慮、一切の言動がこの基準に適っているなら私たちは進み、基準に適っていないなら退くこと。これが道です。ですからこの福報においては、まず先に積善を重んじます。積善の中でこの二句は綱領です。詳細は皆さん註解を見て下さい。

  【不履邪徑。不欺暗室。積累功。慈心於物。忠孝友悌。】
  誤った道を行かず、暗室において欺かず、徳を積み功を重ね、衆生に対して慈悲の心をもち、忠・孝・友・悌を実行する。

  這個幾句是講的修己。積善不外乎自行與化他,就是修己與教育這個兩樁大事。在這個幾句裡面,『不履邪徑』,「邪」就是邪惡的思想,與正道相違背的思想行為,我們都要避免。『不欺暗室』,這是養誠,就是存誠,閑邪存誠,養我們誠敬之心。縱在暗室,我們也是光明磊落,心地坦然。『積累功』,唯有做到前面兩句,功才能累積。『慈心於物,忠孝友悌』,這個兩句是修敬,存誠修敬。後面幾句是講的化他:
 この数句は自己を修めることです。積善とは自分で行う事と、人を教化する事に他なりません。つまり自己を修めることと教育することの二つの大事です。この数句の中に「不履邪径」(誤った道を行かない)とありますが、「邪」とは邪悪な思想のことで、正しい道と相反する思想的行為のことです。私たちはこれを避けなければなりません。「不欺暗室」(暗室において欺かない)、これは誠を養うこと、邪心を静めて誠実さを保つことです。私たちの敬いの心を養うことです。暗い部屋にいても、私たちは公明正大で、心は平静に保たなければなりません。「積徳累功」(徳を積み功を重ねる)、前の二句を実行できてこそ、功徳を積むことができます。「慈心於物、忠孝友悌」、この二句は敬いの心を修めること、誠を保ち敬いの心を修めることです。次の数句は人を教化することです。

  【正己化人。】
  自己を正して人を教化する。

  我們要想教化別人,先要端正自己。自己要不端正,我們先教人,別人能相信嗎?別人不能相信。所以要叫別人相信,聽從你的教化,聽從你的勸導,自己先要端正,這是化他的張本。
  私たちは人を教化しようと思うなら、まず先に自己を正さなければなりません。自己を正さずに人に教えるなら、人は信じることができるでしょうか?人は信じません。人に信じてもらい、あなたの教化、あなたの忠告を聴き入れてもらうには、まず自己を正さなければなりません。これは人を教化する根本となるものです。

  【矜孤恤寡。】
  孤児や寡婦を憐れみ助ける。

  對於孤寡的人要特別的憐惜他,盡心盡力的去照顧他。
  孤独な人々に対しては特に憐れみの心を持ち、力を尽くしてその人を助けます。

  【敬老懷幼。】
  お年寄りを敬い、幼い子を懐かせる。

  對於老人,我們要尊敬;對於幼童,我們心裡頭常常要念著他,要去照顧他。這個兩句,推己及人,這就是行仁。不但我們要推己及人,而且要仁民愛物,所以:
  お年寄りのことを、私たちは尊重しなければなりません。幼い子供たちのことを、私たちはいつも心に留めて、面倒を見なければなりません。この二句は、「推己及人」(人に身になって考える/注2)であり、これが仁を行うということです。私たちは人の身になって考えるだけでなく、人々に仁愛を施し衆生を愛さなければなりません。ですから、

  【昆蟲草木。猶不可傷。】
  昆虫草木といえども、傷つけてはならないのと同じである。

  我愛自己,我也愛別人。知道愛別人,我也愛物,昆蟲是動物,草木是植物,無不愛惜,都在自己仁心、愛心含育之中。從這個地方我們可以看得出來,天地萬物之間有一團和睦的氣象,活活潑潑、坦坦誠誠,這種氣象多麼的美好,這是要我們從修己而及人、及物,才能夠做得到。下面這是講行義,前面是講行仁。後面講行義:
  私は自己を愛し、人も愛します。人を愛することを知り、衆生をも愛します。昆虫は動物、草木は植物ですが、大切にしないものはなく、すべて自己の仁心(思いやりの心)、愛する心に含まれます。ここに私たちは天地万物の間に打ちとける気概を見ることができます。活気に満ちあふれ、正直であること、このような気概のなんと美しいことでしょうか。これは私たちがまず自己を修め、それが人に及び、物に及んで、ようやく実現できることなのです。

  【宜憫人之凶。】
  人が禍に見舞われるのを憐れむ。

  別人遇到了凶災、不吉利的事情,我們要有同情心、憐憫心。
  人が災難に遭い、縁起の悪い事に遭ったなら、私たちは同情する心、憐みの心を持ちます。

  【樂人之善。】
  人の善を喜ぶ。

  人家有好事情,我們見到了,我們聽到了,心裡頭非常的歡喜,分享別人之樂。
  人に良い事があり、私たちがそれを見たり聴いたりしたなら、心の中でとても嬉しく思い、人の喜びを分かち合います。

  【濟人之急。】
  人の危急を助ける。

  人家有急難的時候,我們要幫助他、救濟他。
  人が危急の困難に遭った時、私たちはその人を助け、救済しなければなりません。

  【救人之危。】
  人の危険を救う。

  人家有危險的時候,立刻就要去救他。
  人が危険な状況にある時は、すぐに助けなければなりません。

  【見人之得。如己之得。】
  人が得るのを見たなら、自分が得たようなものである。

  人家得到了功名、得到了富貴、得到了利樂,就如同自己得到一樣,為什麼?人如己,國如家,這是博愛,這是真正的仁慈,這是平等。
  人が功名、財産、利益や喜びを得たら、それは自分が得たのと同じようなものです。なぜでしょう?人は自分のようなものであり、国は家のようなものだからです。これは博愛です。これは真の仁慈であり、平等です。

<脚注>
1.四衆弟子・・・・比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)。
2.「推己及人」・・・・己を推して人に及ぼす。(人の身になって考える)

<参考> 『論語』 衛霊公24
 子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。
 子貢問いて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。
 子貢が質問した。「この一言なら生涯守るべき信条とするに足る、そのような言葉はありますか。」

 子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人也。
 子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すことな勿れ。
 孔子は答えた。「それは恕(おもいやり)であろう。人にされたくない事は、人にもしないことだ。」

>>>『太上感応篇』大意 5/10 につづく
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『太上感応篇』大意 5/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【見人之失。如己之失。】
  人が失うのを見たなら、自分が失ったようなものである。

  由此可以體會到人我一體這種的大道理。別人的得失等於我們自己的得失,我們關心別人就跟關心自己是一樣的。
  ここから人我一体の大道理を理解する事ができます。人の得失は私たち自身の得失と同じであり、私たちが他人に関心を持つのは、自分に関心を持つのと同じなのです。

  【不彰人短。】
  人の短所は明らかにしない。

  『彰』是宣揚,別人有短處不宣揚,所謂隱惡揚善。
  「彰」とは宣揚することです。他人の短所を言いふらさないこと。いわゆる「隠悪揚善」(他人の悪事をかばい、善行を称揚すること)です。

  【不衒己長。】
  自己の長所をひけらかさない。

  自己有長處不必到處去宣揚。
  自分の長所を方々でひけらかす必要はありません。

  【遏惡揚善。】
  人の欠点をかばい、善い所を褒める。(『易経』大有/訳者注)

  『遏』是遏止。阻止一切的惡事,表揚一切的善事,這個裡面就有勸勉的意思,因為人皆有羞恥的心,他雖然做錯事情,他不願意別人知道,你知道了不說,使他有反省改過的機會。別人有善事,我們應當要讚歎、要表揚,激起大眾來效法他、來向他學習。
  「遏」とは阻止することです。一切の悪事を阻止して、一切の善事を褒めることです。この中には励ましの意味が含まれます。人には誰でも羞恥心があるので、過ちを犯したら人に知られたくないものです。あなたはそれを知っても話さず、その人に反省して過失を改める機会をもたせることです。人が善い事をしたなら、私たちは褒め称えて、人々がその人を見習うようにすべきです。

  【推多取少。】
  多く推して少なく取る。

  這是養廉,斷除我們的貪心。
  これは老後の費用のことです。私たちの貪りの心を断つことです。

  【受辱不怨。】
  侮辱されても怨まない。

  這是學忍辱、學忍讓,破除我們瞋恚的煩惱。
  これは忍辱を学び、我慢して譲歩することを学んで、私たちの瞋恚(怒り)の煩悩を打破することです。

  【受寵若驚。】
  恩寵を受けて恐縮する。

  這是無痴。所以後面這三句也就是佛法裡面講的三種根本煩惱。破除三種根本煩惱,反過來就叫三善根:不貪、不瞋、不痴,這個三句恰恰好是這個意思。『推多取少』是不貪,『受辱不怨』是不瞋,『受寵若驚』是不痴,與佛菩薩所講的三善根意思完全相同。
  これは愚かでないこと(無痴)です。ですから後のこの三句は、仏法でいう三種の根本煩悩(貪・嗔・痴)についてです。三種の根本煩悩を打破すれば、その反対は三善根と言います。貪らず、怒らず、迷わない、この三句はちょうどこのような意味です。

  【施恩不求報。與人不追悔。】
  恩を施して報いを求めず、人に与えて後悔しない。

  施是布施,對人家有恩,絕不求報答,所謂是我們的義務,應當如此。幫助人是應該的,沒有任何條件,這是真正的助人,這是真正的修善。如果是有代價、有報償,這不叫修善,這是商業行為,買賣的性質,豈能談到善行?又何況能談到是積?『與人不追悔』,施捨給人絕不後悔。這幾條就舉出來,說明這些善事,我們應當要修福。
  「施」とは布施のことです。人に恩があっても絶対に見返りを求めません。いわゆる私たちの奉仕であり、当然そうすべきことです。人を助けることは当然の事であって、如何なる条件もありません。これが本当に人を助けるということであり、本当に善を修めるということです。もし代価や褒賞があるなら、それは善を修めるとは言えません。それは商業行為であり、売買の性質があります。どうして善行と言えるでしょうか?どうして徳を積むと言えるでしょうか?「與人不追悔」、これは人に施しをして絶対に後悔しないことです。この数ヶ条を挙げて、これらの善行について説明しています。私たちは福を修めなければなりません。

  後面一段是講的善報,你只要修積有善的因,當然會有善的果報。我們看經文:
  次の一段は善報についてです。あなたが善を修めれば善の因があるので、当然善の果報があります。経文を見てみましょう。

  【所謂善人。人皆敬之。】
  いわゆる善人に対しては、誰もが尊敬する。

  這是第一種果報。你平常修善積,大家都歡喜、都尊敬你。尊敬也是一種福報,是一種果報。
  これは第一の果報です。あなたが平素から善を修めて徳を積んでいれば、誰もが喜んであなたを敬います。尊敬も一つの福報であり、一つの果報です。

  【天道佑之。福祿隨之。眾邪遠之。神靈衛之。】
  天道はこれを助け、福禄はこれに随い、衆邪はこれを遠ざかり、神霊はこれを護る。

  『天道佑之』,就是保佑你,天神保佑你。『福祿隨之』,你沒有福,因為你修善,你的福報隨著你來,不會失去,無論在什麼環境當中,沒有任何人能夠把你奪去。『眾邪遠之』,一切邪神凶煞都會避得你遠遠,不會接近你,為什麼?類不同不會相聚在一起。『神靈衛之』,那些善神都來保佑你、都來保衛你。正如同佛法裡面所講的,真正三皈之人有三十六位護法神,日夜不離開你、保護你。
  「天道祐之」とは、あなたを護り、天神のご加護があるということです。「福禄随之」とは、あなたに福がなくても、あなたが善を修めれば、福報はあなたに付いて来るということです。失うことはありません。どのような環境にあっても、如何なる人もあなたから奪うことはできません。「衆邪遠之」とは、一切の邪神・凶紳があなたから遠ざかり、近づけないということです。なぜでしょう?同類でなければ一緒に集まることはできないからです。「神霊衛之」とは、善の神が来てあなたを護って下さり、ご加護があるということです。ちょうど仏法で説かれているのと同じです。本当に仏法に帰依した人には三十六の護法神がいて、日夜あなたを離れず、あなたを護っています。

  【所作必成。神仙可冀。】
  行うことは必ず成就し、神仙もこいねがうほどである。

  前面是講善報,講的果報。這個兩句是講你所作的,凡是你想做的一定有成就,所謂是有求必應,有願必成,你縱然想做到神仙也能辦得到,這是講到極處。後面幾句是勸勉的話,勉勵我們修善:
  前のは善報、果報についてです。この二句はあなたの行い、あなたが思うことは必ず成就するということです。いわゆる「有求必應」(求め有らば必ず応ぜらる)、「有願必成」(願い有らば必ず成る)ということです。あなたが成し遂げたいと思っているなら神仙も助けることができます。これは極論が述べられています。次の数句は激励の言葉で、私たちが善を修めることを励ましています。

  【欲求天仙者。當立一千三百善。欲求地仙者。當立三百善。
  天仙になろうとする者は、千三百の善を修めなければならない。地仙になろうとする者は、三百の善を修めなければならない。

  仙人有天仙、有地仙,也有鬼中之仙,佛在《楞嚴經》裡面講仙道說得很清楚,有理論也有修行的方法,也有仙道的一些果報境界,都有詳細的說明,諸位可以去讀《楞嚴經》。你要求天仙,太上在此地告訴我們,你要修一千三百條善事;你要求地仙,應當立三百善事,這是都說的最低的標準。只要你真正明瞭這個道理,懂得方法,照這個方法去修,我們所求所願的一定可以圓滿。福報就講到此地。
  仙人には天仙、地仙があり、鬼の中にも仙があります。仏陀は『楞厳経』の中で仙道について明瞭に説かれています。理論があり、修行の方法があり、仙道の果報・境地など、詳細に説明されています。皆さん『楞厳経』を読んでみて下さい。あなたが天仙になりたいのであれば、太上は、千三百の善事を修めなければならないと言っています。地仙になりたければ、三百の善事を修めなければなりません。これらは最低の基準です。この道理と方法を本当に理解したなら、この方法によって修行すれば必ず願いは適うでしょう。福報についてはここまでです。

  下面這是講的惡報。福報我們明瞭要修學,惡報我們也要明瞭要遠離。如果自己在心行上有的,必須要痛下功夫戒除。這一篇在全文裡面是最長的一段,裡面一共分十七個小段,我們一段一段的來介紹。
  次は悪報について説かれています。私たちは福報を明確に理解して学び、悪報もまた明確にして遠ざけなければなりません。もし自分の心や行いに不正があるなら、徹底して取り除かなければなりません。この一篇は全文の中で一番長い段で、全部で十七の小段があります。一段一段紹介しましょう。

  【苟或非義而動。背理而行。以惡為能。忍作殘害。陰賊良善。暗侮君親。慢其先生。叛其所事。誑諸無識。謗諸同學。虛誣詐偽。攻訐宗親。剛強不仁。狠戾自用。】
  非義でありながら動き、理に背いて行い、悪い事を肯定し、人に知られずに殺生し、陰で善良な人を傷つけ、暗に君主や両親を侮り、その先生を侮り、それらの事を叛き、見識のない者をたぶらかし、同学の士をたぶらかし、偽りを言って人を騙し、親族の過失を暴いて攻撃し、不仁を無理強いし、欲深く独りよがりである。

  這一段是「背逆大惡」,這是裡面第一個小段。這在惡行裡面是屬於重大的,必須要戒除,在這裡也不能細細的介紹,至於某一句怎麼講法,它是什麼意思,諸位都可以從註解裡面去研究。第二段是「仕宦之惡」,這是指一些做官的,在社會上有地位的:
  この一段は「背逆大悪」(道理に背き大悪を犯すこと)のことで、これは最初の小段です。これは悪行の中でも重大なもので、必ず断たなければなりません。ここで詳細に紹介することはできませんが、どのような意味なのかは、皆さん註解を見て研究して下さい。第二段は「仕宦之悪」(仕官の悪行)についてです。これは役人や、社会的に地位のある人を指します。


<訳者注>
「『太上感応篇』大意」の原文では、下線を引いた「當立一千三百善。欲求地仙者。當立三百善。」の部分が欠落していましたが、『太上感応篇』の原文に即して補足しました。

>>>『太上感応篇』大意 6/10 につづく
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『太上感応篇』大意 6/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【是非不當。向背乖宜。虐下取功。諂上希旨。受恩不感。念怨不休。輕蔑天民。擾亂國政。賞及非義。刑及無辜。殺人取財。傾人取位。誅降戮服。貶正排賢。凌孤逼寡。棄法受賂。以直為曲。以曲為直。入輕為重。見殺加怒。】
  是非の分別は妥当でなく、趣向は正しい道に背き、部下を虐げて功積をあげ、上司に諂って迎合し、恩を受けて感謝することなく、怨み言を言い続け、人々を軽蔑し、国政を乱す。功なき者に褒美を与え、罪なき者を懲罰に科し、人を殺して財を貪り、人を押しのけて地位を奪い、降伏した者を殺し、正しく聡明な者を追い払い、孤児を侮辱し未亡人に無理強いし、法を犯して賄賂を受け取り、真っ直ぐなものを曲がっていることにし、曲がっているものを真っ直ぐだとし、軽い罪を重罪にしてしまい、死にそうな人を怒って罵る。

  這些我們一看,都是屬於在社會上有地位、有官爵的,他有權,他才能做這些惡事,無權無勢的他做不到。在政府地方做官的,有權有勢的時候,像這些惡的念頭,這些惡的行為,我們必須要戒除,要常常記在心裡。起了這些念頭,有這些事,要提高警覺。佛法裡面常講「不怕念起,只怕覺遲」,惡念起來不要緊,起來立刻就覺悟,這是惡念,這是不好的念頭,我應當要改過來,改過來就是善人。第三段「世俗之惡」,就是一般念書的人、老百姓:
  これらを見ますと、どれも社会的な地位・官爵がある人のことです。権力があるからこのような悪事を犯すのであって、権力を持たない人にはできないことです。地方政府の役人は権力を持った時、これらの悪い考え、悪い行いを必ず断たなければなりません。いつも心に留めておくことです。これらの考えが起きたら、より注意しなければなりません。仏法ではよく「不怕念起,只怕覚遅」(念の起こりを恐れず、ただ悟りが遅れることを恐れよ)と言われます。悪念が起こっても構わずに、これは悪念であり、これは良くない考えだから、必ず改めなければならないと、すぐに悟ることです。改めれば善人になります。第三段は「世俗の悪」、つまり一般の知識人、庶民に対するものです。

  【知過不改。】
  誤りと知りながら改めない。

  曉得自己有過失不肯改,這是惡。
  自分の過失を知りながら改めないこと、これは悪です。

  【知善不為。】
  善と知りながら行わない。

  曉得好事不肯幹。
  良い事と知りながら行おうとしません。

  【自罪引他。】
  自分の過失に人を巻き込む。

  自己有了罪過,故意還要牽扯幾個人來陪你受罪、受累。
  自分で過失を犯し、故意に何人もの人をさらにその過失に巻き込んでしまいます。

  【壅塞方術。】
  価値ある学問や技術を(独占して)人に伝えない。

  你自己所知道的,學問也好,技術也好,不肯傳授給別人。
  あなたが知っていること、学問なり技術なりを人に伝授しないことです。

  【訕謗聖賢。侵凌道。】
  聖賢を誹謗し、道徳を侮辱する。

  對於聖賢人毀謗、諷刺、譏笑,對於有道的人,想種種方法去破壞他,這是一般念書人跟老百姓的過失,這是必須要戒除的。第四段是講「殺生之惡」,這個好懂:
  聖賢を誹謗し、風刺し、嘲笑い、道徳のある人に対して様々な方法で妨害する。これは一般の知識人や庶民の過失であり、これはかならず断たなければなりません。第四段は「殺生の悪」についてです。これは理解しやすいでしょう。

  【射飛逐走。】
  飛ぶ鳥を射落とし走る獣を捕まえる。

  『飛』是指禽鳥,『走』是指獸類。
  「飛」は鳥のこと、「走」は野獣のことを指します。

  【發蟄驚棲。】
  土の中の虫を掘り起し、鳥を驚かせる。

  『蟄』是小蟲在這個土裡面,『棲』是鳥棲息在樹上,牠實在是無害於人,你又何必去害牠?
  「蟄」は土の中の虫、「棲」とは鳥が樹の上に生息すること。彼らは人に害を与えることはないのです。どうして彼らを害する必要があるでしょうか?

  【填穴覆巢。傷胎破卵。】
  虫の巣穴を埋め、鳥の巣を覆い、身ごもっている動物に危害を加え、卵を破る。

  這些殺生之惡,一個是喜歡打獵的年輕人,另外一種是無知的兒童。對於喜歡打獵的人,我們要勸他;對於兒童,我們要好好的加以教導,使他養成一種慈悲心,不傷害眾生之生命。第五「柔弱之惡」,柔弱裡面也有許多錯誤的思想:
  これらの殺生の悪をするのは、狩猟の好きな若者か、或いは無知な子供です。狩猟の好きな人に対して、私たちは忠告しなければなりません。子供に対しては、しっかりと教えて、衆生の命を傷つけない慈悲心を養わせなければなりません。第五段は「柔弱の悪」です。柔弱の中には誤った観念が多く含まれています。

  【願人有失。】
  人に過失があることを願う。

  這些你看,都是心理,沒有表現在外面。
  これらはすべて心理的なことであり、表に表現されないものです。

  【毀人成功。危人自安。減人自益。以惡易好。以私廢公。竊人之能。蔽人之善。形人之醜。訐人之私。耗人貨財。離人骨肉。侵人所愛。助人為非。】
  人の成功を誹謗し、人の安穏を危うくし、人の利益を減らし、悪い事を良い事とし、私心によって公益を廃し、人の成果を盗み、人の善を覆い、人の醜聞を暴露し、人の私事を暴き、人の財産を浪費し、肉親と離れるようにそそのかし、人が愛しているものを奪い、人が悪事を行うのを助ける。

  像這些經文都說「柔弱之惡」。下面幾句恰恰是相反,是剛強的暴惡:
  これらの経文はすべて「柔弱の悪」についてです。次の数句はちょうど反対で、無理強いする暴悪です。

  【逞志作威。辱人求勝。敗人苗稼。破人婚姻。苟富而驕。苟免無恥。認恩推過。】
  勝手気ままに威張り散らし、人を侮辱して自分の勝ち求め、農婦の再婚を失敗させ、人の婚姻生活を破たんさせ、少々裕福になれば驕り高ぶり、その場だけ罪を免れて恥を知らず、恩を認めて過失は人に押し付ける。

  好的事情都認為是自己做的,有了過失推給別人。
  良い事はすべて自分がしたことだと思い、過失があれば人に押し付けてしまいます。

  【嫁禍賣惡。沽買虛譽。包貯險心。挫人所長。護己所短。乘威迫脅。縱暴殺傷。】
  過失を人に転嫁して悪を売り、虚栄を売り買いし、悪賢い心をもち、人の長所を挫き、自分の短所を護り、勢力を笠に着て人をいじめ、我がままに暴力をふるい、殺したり傷つけたりする。

  這些都是剛強之惡,所謂是軟有軟的惡行,剛有剛的惡行。下面第七段是「不愛惜物力」:
  これらは無理強いする悪です。いわゆる気が弱い人(軟)には相応の悪行、気が強い人(剛)には相応の悪行があるということです。次の第七段は、「物を大切にしない」ことについてです。


>>>『太上感応篇』大意 7/10 につづく
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『太上感応篇』大意 7/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【無故剪裁。非禮烹宰。散棄五榖。勞擾眾生。】
  理由なく衣類を裁断し、生き物を礼に反して料理し、五穀を無駄にし、衆生を働かせ混乱させる。

  這是一段。對於物力不知道愛惜。物是養人的,萬不可以任意的糟蹋,這是招來無量的過失。第八是「顯之惡」:
  この一段は、物を惜しみ大切にすることを知らないことです。物は人を養うもので、決して身勝手に粗末にしてはなりません。それは計り知れない過失を招きます。第八は「顕横の悪」(明らかな横暴の悪)です。

  【破人之家。取其財寶。決水放火。以害民居。紊亂規模。以敗人功。損人器物。以窮人用。】
  人の家を破産させ、その財産を奪い、水を打ち火を放って民家に危害を加え、秩序を乱し、人の功積を無にし、人の器物を損なって、使えないようにする。

  顯是明顯,是行霸道,這是舉這幾種例子。底下第九段是「陰藏之惡」:
  「顕」とは明らかということ、「横」は非道横暴なことで、これはいくつかの例を挙げているのです。次の第九段は「陰蔵の悪」(陰に隠された悪)です。

  【見他榮貴。願他流貶。】
  人の栄華を見て、その人が左遷させられることを願う。

  這是暗中咒人。
  これは密かに人を怨むことです。

  【見他富有。願他破散。見他色美。起心私之。負他貨財。願他身死。】
  人が裕福であるのを見て、その人が破産することを願い、美しい夫人を見れば、欲情を起こし、人に財産を借りていれば、その人の死を願う。

  死了就不要還債,存心不好,存心惡,雖然沒有表現在行為上,這心地就不好,就造了罪業。第十是「有陰之惡」:
  死ねば返済しなくて済むからです。心根が悪く、心根が悪であれば、行為に現れなくても、罪業を犯すことになります。第十段は「陰のある悪」です。

  【干求不遂。便生咒恨。】
  求めたことが思い通りにならないと、恨みを抱く。

  去求人,人家沒有答應就懷恨在心,這是錯誤的。我們有求於人,人家能做到,或者不能做到,他有他的因素。他實在不能滿我們的願,他有他的困難,所以確實有時候愛莫能助,我們要能夠體諒他人。他已經盡了心,可是在事上沒有滿足我們的願望,我們還是應當要感激他,豈能咒詛人?
  人に求めて、人が答えてくれないと心の中で恨めしく思う。これは間違いです。私たちは人に頼み事があっても、できるかどうかは人それぞれの要素があります。その人が自分の頼み事を聴いてくれなくても、その人にはその人なりの困難があるものです。確かに時には助けたくても助けられないことがあるもので、私たちは人の気持ちを理解しなければなりません。その人はすでに心を尽くしてくれました。しかし実際には希望を満たしてくれません。私たちはそれでもその人に感謝すべきです。どうして恨む必要があるでしょうか?

  【見他失便。便說他過。】
  人の過失を見れば、その人の過失を言いふらす。

  人家有了不如意的事情,我們就說某人有過失。
  人がうまくいかない事があれば、その人の過失をあげつらいます。

  【見他體相不具而笑之。】
  人の身体的な欠点を見れば、それをあざける。

  『體相不具』是說六根不全,不可以譏笑,應當生憐憫之心。他遭到不幸,我們怎麼可以譏笑他?
  「体相不具」とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が完全ではないということで、嘲笑ってはなりません。憐みの心を持つべきです。人が不幸に遭ったのに、どうして嘲笑うことができるでしょう?

  【見他才能可稱而抑之。】
  人の才能を見れば、褒めることなくかえってさげすむ。

  人家很能幹,有智慧、有才幹,你故意去貶抑他、去障礙他,這是過失。國家社會得一個能幹的人是大家的福,你障礙他實在是障礙大家的福報,諸位想想,這個結的罪有多重?我們又何苦來做這種愚痴的事情?下面幾句是「無因之惡」:
  人が優秀で、智慧があり、才能があると、故意にその人をさげすみ、邪魔しようとする。これは誤りです。国家社会が優秀な人材を得ることは人々の福であり、あなたがその人の障害となるなら、事実上あなたが人々の福報の障害となっているのです。皆さん考えてみて下さい。この罪業はどれほど重いことでしょう?またどうしてわざわざこのような愚かな事をするのでしょうか?次の数句は「無因の悪」(理由のない悪)です。

  【埋蠱厭人。】
  証拠をでっちあげて人を陥れる。(虫を埋めて人を嫌がらせる)

  這在大陸南方苗疆一帶常有這種事情。抗戰期間我在貴州念書,貴州苗族很多,『埋蠱厭人』是那個地方常常有的事情,這是無因之惡
  中国大陸の南方では苗族の住む一帯ではこのような事がよくあります。抗日戦争(日中戦争)の頃、私は貴州で勉強していましたが、貴州には苗族が多く、「埋蠱厭人」(証拠をでっちあげて人を陥れる)はこの地方でよくありました。これは「無因の悪」(理由のない悪)です。

  【用藥殺樹。恚怒師傅。抵觸父兄。強取強求。好侵好奪。】
  薬を使って樹木を枯らし、教師を恨み、両親に反発し、力ずくで奪い取り、侵害することを好む。

  這都是無緣無故的。在佛法裡面講是惡業習氣太重,遇到境界、遇到緣,惡習氣起現行,這是讀書明理之人應當要戒除的。下面第十二段,「奪志之惡」:
  これらは何の理由もありません。仏法では悪業の習気が重過ぎる為だと言われますが、ある環境・ある縁に遭遇すると、悪い習気が働きだします。学問をして道理を明らかにしようとする人は、(この悪習を)必ず断たなければなりません。次は第十二段、「志を奪う悪」です。

  【擄掠致富。巧詐求遷。】
  略奪して金持ちになり、ずる賢い手段で昇進しようとする。

  『遷』是升官、升遷。用一些技巧詐謀,自己升了官,實在講「因果報應,絲毫不爽」,用的這些巧詐的,還是你命中在這個時候應該要升遷。你命裡頭不應該升遷,用什麼樣計謀你也得不到,如果你要是得到,巧詐能成功,因果報應就講不通,感應這一篇早應該廢除。這樁事情我們要細細的去讀《了凡四訓》,然後才能夠曉得一切事是強求不得的,它都有個理在,所以應當要如理如法不可以強求。
  「遷」は官位が上がること、栄転することです。巧妙な手段でうまく昇進したとしても、実際には「因果報應,絲毫不爽」(因果応報は、少しも違うことがない)であり、うまく騙したのだとしても、もやはり命の内にはこの時に昇進するはずだったのでしょう。あなたの命の内に昇進がないなら、どのような計略を使っても得ることはできません。もし(命の内にないのに)巧妙な手段で成功したなら、因果応報の道理が通らず、感応の道理を説いたこの一篇もとうの昔に破棄されていたでしょう。この事は『了凡四訓』を精読してみれば、すべては無理に得ようとしても得られるものではないことを理解できるでしょう。それはすべて道理があるものなのです。ですから必ず理に適い、法に適うように努めて、無理に求めてはなりません。

  【賞罰不平。逸樂過節。】
  褒賞や懲罰は不公平で、安逸な享受は節度を越えている。

  超過了節度。
  節度を越えています。

  【苛虐其下。恐嚇於他。】
  自分の部下を虐げ、人を恐れさせる。

  這是得志的時候常常有的這些惡的行為。底下第十三段講「無忌諱之惡」:
  これは志を成し遂げた時、よくこのような悪い行いがあるものです。次の第十三段は、「忌諱(タブー)を無視する悪」です。

  【怨天尤人。訶風罵雨。鬥合爭訟。妄逐朋黨。用妻妾語。違父母訓。得新忘故。口是心非。貪冒於財。欺罔其上。造作惡語。讒毀平人。】
  天を怨み人を咎め、(思うようにならない)雨風を罵り、争いをそそのかして訴訟を起こさせ、みだりに徒党に加わり、妻や妾の道理に合わない話を鵜呑みにし、両親の教訓に背き、新しいものを好んで古いものを忘れ、言葉と本心が一致せず、不正な財産を貪り、上司を欺き、悪言をでっちあげ、無実の人を誹謗中傷する。

  平白無辜的人。
  まったくの無実の人(に対して)です。

  【毀人稱直。罵神稱正。棄順效逆。背親向疏。指天地以證鄙懷。引神明而鑑猥事。】
  人を謗って自らを正しいと思い、神明を罵って自らを公正だと思い、天理を棄てて天理に背いた行いをし、肉親に背いて他人に媚びへつらい、天地を指さして自分の考えを正当化し、神明を引き合いにしながら猥らな事を手本としている。

  這些都是所謂肆無忌憚。不要看這些惡小,累積小惡就成大惡了。凡是犯這種惡行、存這些惡心的,這種人在一生當中不會有成就的,這是我們千萬要記住的。我們要想有成就,在智慧上、在福上、在事業上要想有成就,要想能保全,這種惡心不可以有,這種惡事當然更不可以有。下面第十四段,「不仁者之惡」:
  これらはすべて勝手気ままで、忌み憚ることがありません。このような悪行を些細な事と思ってはなりません。小さな悪が積み重なって大きな悪となるものです。およそこのような悪行を犯すのは、悪い心を持っている人で、このような人は一生で成就することはできないでしょう。これはくれぐれも覚えておかなければなりません。私たちは智慧、福徳、事業において成就し、それを守りたいのであれば、このような悪心があってはなりません。悪事を働くことなど尚更あってはなりません。次の第十四段は、「不仁なる者の悪」です。

>>>『太上感応篇』大意 8/10 につづく
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『太上感応篇』大意 8/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【施與後悔。】
  施しを与えた後で悔いる。

  先布施,布施之後,後悔。
  先に施しをして、施しをした後で後悔します。

  【假借不還。】
  借りたものを返さない。

  這是不仁。
  これは不仁です。

  【分外營求。力上施設。淫慾過度。心毒貌慈。穢食人。左道惑眾。短尺狹度。輕秤小升。以偽雜真。採取奸利。壓良為賤。謾驀愚人。】
  分不相応な物を求めて、力の限りを尽くし、淫欲は節度を越え、内心は陰険悪辣で外見だけは情け深く、汚れた食物を人に与え、邪道をもって人々を惑わし、標準より短い物差しで長さを狭く測り、標準でない秤で少なく量り、まがい物を本物と混ぜてごまかし、善良な人を卑しい人とし、愚かな人をあざけり見くびる。

  有不明了的地方請看註解,我們由於時間的關係不能夠細講。這一段都是指不仁之人,什麼叫做不仁?凡是有這些存心、有這些行為的人,這是不仁之人。底下第十五段是講「家庭之惡」,文字比較長,這個家庭是很瑣碎的,有許多很瑣碎的事情,太上也是舉出幾條重要的來開導我們,希望我們能舉一反三:
  時間の関係で細かな解説はできませんので、不明な所があれば註解をご覧下さい。この一段はすべて不仁の人を指しています。不仁とは何でしょうか?およそ下心があり、そのような行動をする人を、不仁の人と言います。次の第十五段は「家庭の悪」です。文章はやや長いですが、家庭にはたくさんの細々とした事があります。太上もいくつか重要なものを挙げて導かれており、私たちが一を聞いて十を知るよう願っています。

  【貪婪無厭。咒詛求直。嗜酒悖亂。骨肉忿爭。男不忠良。女不柔順。不和其室。】
  飽くことを知らず欲を貪り、神を呪いながら道理に適うことを願い、酒を好んで心を乱し、肉親と言い争い、男性は忠義と善良さに欠け、女性は従順でなく、家族は仲が悪い。

  這是指夫婦不和。
  これは夫婦の不和を指します。

  【不敬其夫。每好矜誇。】
  妻は夫を尊重せず、夫はいつも驕り高ぶっている。

  說話不實在,喜歡誇張。
  本当の話をせず、誇張を好みます。

  【常行妒忌。無行於妻子。失禮於舅姑。】
  常に寵愛を得ようと争って嫉妬し、妻に礼節を用いず、嫁は姑を敬わない。

  舅姑是公公婆婆,這是媳婦對公婆來說。
  「舅姑」は舅(しゅうと/夫の父)、姑(しゅうとめ/夫の母)のことです。これは嫁が姑に対する話です。

  【輕慢先靈。】
  ご先祖様を侮る。

  『先靈』是指祖先,對祖先不敬,沒有盡到祭祀。
  「先霊」とは祖先のことを指します。祖先に対して不敬で、祭祀が十分でないことです。

  【違逆上命。】
  年長者の命に逆らう。

  上命是父母之命。
  「上命」とは両親の命令のことです。

  【作為無益。】
  無益なことを為す。

  平日所作所為,對個人、對家庭、對社會做一些無意義的事情、沒有利益的事情。
  平素の行いが、個人・家庭・社会に対して無益であり、まったく益にならないことです。

  【懷挾外心。】
  密かにふた心を懐く。

  這就是有私心,對於自己的家庭不忠實。
  これは私心があり、自分の家庭に忠実でないことです。

  【自咒咒他。偏憎偏愛。越井越灶。跳食跳人。損子墮胎。行多隱僻。】
  自分を呪い人を呪い、人の好き嫌いに偏りがあり、井戸やかまどを跨ぎ、食物や人を飛び越え、嬰児を堕胎し、行いはこそこそしている。

  『隱僻』就是行為不光明正大,所謂是鬼鬼祟祟。這幾句是指的家庭之惡。第十六,「不敬天地神明之惡」:
  「隠僻」とは行いが公明正大でなく、陰でこそこそしていることです。この数句は家庭の悪についてです。第十六段は、「天地神明を敬わない悪」です。

  【晦臘歌舞。】
  月末・年末に歌い踊る。

  『晦』是一個月的最後一天,『臘』是一年的最後一天。月底、年底都有許多正事要處理、要辦,哪有時間去歌舞?把正事廢掉了。
  「晦」は月の最後の一日です。「臘」は一年の最後の一日です。月末、年末はおおくの仕事を処理しなければなりません。歌ったり踊ったりする時間はどこにあるのでしょうか?本来行うべき事をやめてしまうことです。

  【朔旦號怒。】
  月の初めの早朝に怒鳴り散らす。

  每個月的初一叫『朔』,每一天的早晨叫『旦』。所謂是「一日之計在於晨,一年之計在於春」,這個時候正是有許多一天重要的事情要來預先籌劃,如果說一怒一叫,心就亂了,不能辦事,何況這是對天地鬼神大不敬。
  毎月の初めを「朔」と言い、毎日の早朝を「旦」と言います。いわゆる「一日の計は早朝にあり、一年の計は春にあり」です。この時は正に一日の重要な事を前もって計画するのであり、もし怒鳴り散らすなら、心が乱れて行う事はできません。ましてやこれは天地鬼神に対する大不敬です。

  【對北涕唾及溺。】
  北を向いて鼻をかみ、痰を吐き、大小便をする。

  此地這個北方是代表上方,我們對上方要敬,這是表這個意思。
  この北方とは上方(陽気の生ずるところ。北・東を指す。)のことです。私たちは上方を敬わなければなりません。これはこのような意味を表します。

  【對灶吟詠及哭。】
  かまどに向かって歌を歌ったり泣いたりする。

  這是對灶神不敬。
  これはかまどの神に対する不敬です。

  【又以灶火燒香。穢柴作食。】
  かまどの火を使って線香をつけ、汚い柴を薪にして食事を作る。

  這兩句在現在除了鄉村之外,都市裡面都不用灶了,而且也沒有廚灶了,所以這個事情當然是少有,這種精神我們要明瞭、要懂得。
  この二句は今では農村を除いて、都市部ではかまどを使わなくなり、かまど自体ありません。ですからこのような事は当然少なくなったでしょう。しかしこのような心掛けは、よく理解しなければなりません。

  【夜起裸露。八節行刑。唾流星。指虹霓。輒指三光。久視日月。】
  夜起きだして丸裸になり、八節(立春、立夏、立秋、立冬、春分、秋分、夏至、冬至)に刑罰を執行し、流星に向かって唾を吐き、虹を指さし、三光(太陽・月・星)を指さし、太陽や月を長く注視する。

  這幾句很多同修們起疑問,說這有什麼關係?你說沒有關係,可以說沒有關係。聖人教給我們是以此來養敬,來培養我們對於天地鬼神畏懼之心,培養我們對於天地鬼神、一切人事恭敬之心,所以我們懂得這個道理,我們就很樂意的去接受,依教修行。
  これらの数句は多くの人が疑問を持つでしょう。これらは何の関係があるのでしょう?あなたが関係ないと言うなら、そう言えば良いのです。聖人はこのように私たちの敬いの心を養い、天地の鬼神に対する畏敬の念を養い、すべてに対する恭敬の心を養うのです。ですから私たちはこの道理を理解したなら、喜んで受け入れ、教え通りに修行することです。

>>>『太上感応篇』大意 9/10 につづく
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『太上感応篇』大意 9/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【春月燎獵。】
  春に山林を焼いて猟をする。

  這是指春季放火燒山、網捕野獸,這個叫『燎獵』,這個造的惡太大了,為什麼?傷害物命最多,也可以說殺業裡頭最重的殺業無過於「燎獵」。
  これは春に山を焼いて野生の動物を狩ることを指します。これを「燎獵」と言います。これは非常に大きな罪業です。なぜでしょう?生命を最も多く傷つける行為だからです。また殺生の業の中で「燎獵」より重いものはないとも言えます。

  【對北惡罵。】
  北に向かって悪口を言う。

  『北』,剛才講了,是上方,對上方我們要尊敬。上方代表我們的長上、我們的父母、我們的師長、我們的國君、我們的領袖,上方是代表這些,所以我們必須要恭敬,怎麼可以在上方惡罵?
  「北」は先ほど話しましたように、「上方」であり、「上方」に対して私たちは敬わなければなりません。「上方」は私たちの目上の人々、両親、先生、国の君主、指導者を表します。ですから必ず敬わなければなりません。どうして「上方」に悪口を言えるでしょうか?

  【無故殺龜打蛇。】
  何の理由もなく亀や蛇を殺す。

  這是無緣無故去傷害這些眾生,前面講了,已經是不慈悲。何況龜與蛇的壽命都非常長,牠有那麼長的壽命,你殺害牠,確實是於人不忍,連天地鬼神對牠都特別慈憫,所以我們無故殺龜打蛇,這是天地鬼神都不容我們。到這個地方一共是十六段,都是講的惡報,指出這十六大類。下面一段是結罪,造這些惡,果報如何?底下就說了:
  これは何の理由もなくこれらの衆生を傷つけることです。前述のように、これは無慈悲なことです。ましてや亀や蛇の寿命は非常に長く、あれほど長い寿命なのに殺してしまうのは確かに忍びなく、天地の鬼神さえも憐れむものです。ですから理由もなく亀や蛇を殺すことは、天地の鬼神も許しません。ここまで全部合わせて十六段ですが、すべて悪報に関する十六種類の指摘です。次の一段は、罪業を犯し、悪い行いをした果報はどうなるのかです。次のように説かれています。

  【如是等罪。】
  このようなものはすべて罪である。

  『如是等』就是指前面所列的一百七十項。從「背逆大惡」說起,一直到『無故殺龜打蛇』,一共是有一百七十項。
  「如是等」とは前述の百七十項目を指します。「背逆大悪」から始まり、「無故殺亀打蛇」まで合わせて百七十項目あります。

  【司命隨其輕重。奪其紀算。算盡則死。】
  司命(寿命をつかさどる神)は罪の軽重に随って、その紀・算を奪い、算が尽きれば死ぬのである。

  這個幾句正是說明他的罪報,好像法官判案定罪。這就證明除了正報之外,還有餘殃:
  この数句は正に罪の果報を説明しています。ちょうど裁判官が判決を下して罪を定めるようなものです。これは正報の他にも、余殃(よおう/子孫にまで及ぶ災い)があるという証明です。

  【死有餘責。乃殃及子孫。】
  死んでも罪を帳消しにできなければ、子孫にまで災いが及ぶ。

  這就是《易經》裡面所說的「積不善之家,必有餘殃」,道理就在此地。「積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃」。
  これは『易経』に説かれている「積不善之家,必有余殃」(積不善の家には、必ず余殃あり)であり、道理はここにあります。「積善之家,必有余慶;積不善之家,必有余殃」(積善の家には、必ず余慶あり。積不善の家には、必ず余殃あり。/注1)。

  下面有兩段是重申,惡業最重,要特別提高警覺心,要戒除,一個是盜,一個是殺。盜,欠眾生財物上的債,所謂欠錢還錢、欠債的還債、欠命的還命。殺是欠命,盜是欠財、是欠債。我們與眾生要是多欠命、多欠債,諸位想想,哪一生、哪一劫才能還得清?所以聰明人不欠眾生的債,不欠眾生的命,我們一生當中自然心安理得。
  次の二つの段は重ねて言明したものです。悪業が最も重く、特に強く戒めて断たなければならないもの、一つは「盗」(盗み・窃盗)、もう一つは「殺」(殺生)です。「盗」とは、衆生の財産上の借りがあること、借金していれば返済し、命の借りがあれば命で償うことです。「殺」は命の借りがあること、「盗」は金銭の負債のことです。私たちは衆生と多くの命の借りを作り、多くの負債を作れば、いったいどの一生で、いつになったら返済できるのでしょうか?ですから聡明な人は衆生との負債を作らず、衆生の命に借りを作りません。そうすれば私たちは一生を自然と心安らかに過ごすことができます。

  【又諸取人財者。乃計其妻子家口以當之。漸至死喪。若不死喪。則有水火盜賊。遺亡器物。疾病口舌諸事。以當妄取之直。】
  人の財産を横取りして、妻子や家族の為に用いることを企て、少しずつ死に至らしめ、もし死ななければ、水害・火災・強盗・盗難に遭い、財産を失い、病気になり、いろいろな訴訟を起こされて、奪い取った分は清算される。

  『口舌』就是打官司。可見強取強奪得來的財物,自己能不能享受?不能享受。不但不能享受,現在招惹許多麻煩,到來世還要還清,這又何苦來?底下一段:
  「口舌」とは告訴することです。強引に奪い取った財産は、自分で享受することはできるでしょうか?できません。享受できないばかりか、多くの面倒を引き起こし、来世においても返済しなければなりません。何をわざわざ苦しむのでしょうか?次の一段です。

  【又枉殺人者。是易刀兵而相殺也。】
  理由なく人を殺す者は、戦禍によって殺される。

  雖然只有兩句,我們要記住,殺人償命,所謂是『易刀兵而相殺』。你殺他,他來殺你,人死為羊,羊死為人,生生世世沒有完了的時候,這種道理我在學佛沒多久的時候就明白,也就相信了。我在年輕的時候很喜歡打獵,我自己知道我殺生很多,殺業很重,所以二十六歲那一年接觸到佛法,懂得這個道理,我才學佛六個月,我就發心吃長素,不吃一切眾生肉,這就是我相信欠下的命債是必須要償還的。過去無知,現在覺悟了,覺悟了就要改過自新,改過最徹底的方法就是不吃眾生肉,不與一切眾生再結惡緣,從此將自己所修的功、善行迴向給過去冤家債主,求他們超度,為他們培福、為他們修福,來補償過去無知所犯的錯誤。末後有兩句話是比喻來說明:
  たった二句しかありませんが、私たちは覚えておかなければなりません。人を殺した者は命をもって償うのです。いわゆる「易刀兵而相殺」です。あなたが人を殺せば、その人があなたを殺します。人が死んだら羊になり、羊が死んだら人になります。生まれ変わるたびに繰り返されるこの道理を、私は仏法を学んで間もない頃に理解し、信じました。私は若い頃、狩りをするのが好きで、たくさん殺生をしたので、殺生の業がとても重いことを自分で知っています。二十六歳で仏法に触れて、その道理を理解しました。仏法を学んで六ヶ月で、菜食を決意しました。衆生の肉は食べません。これは命に借りを作れば、必ず償わなければならないことを信じているからです。以前は無知でしたが、今は道理を悟り、悟ったなら悔い改めなければなりません。悔い改める最も徹底した方法は、衆生の肉を食べず、一切の衆生と二度と悪縁を結ばないことです。こうして自分で修めた功徳、善行は過去の恨みを持つ衆生を供養し、彼らを済度し、彼らの為に福を培うことで、過去の無知ゆえに犯した過ちを償うのです。最後の二句は比喩で説明しています。

  【取非義之財者。】
  非義の財(道義に反する財貨)を貪った者は、・・・

  不應該得到的財富你去取。
  得るべきでない財産を受け取ることです。

  【譬如漏脯救飢。鴆酒止渴。非不暫飽。死亦及之。】
  例えば腐った肉で飢えを満たし、鴆(ちん)という毒鳥の酒を飲んで渇きを癒そうとするようなもので、少しも空腹を満たせず、命を失うようなものである。

  這是講『非義之財』萬萬不可以取,你要取來之後,就好比『漏脯救飢』,脯是乾肉。在從前老的房子,下雨天屋裡要是漏了,漏的水滴在乾肉上,這乾肉是有毒的,吃了之後人就會中毒,那是要送命的。鴆酒,鴆鳥的羽毛也是非常的毒,把這個羽毛浸在酒裡頭,人喝了立刻就死。這是把「非義之財」比做「漏脯」,比做「鴆酒」。所以你得來的時候,非但不能飽,你得不到受用,一切禍害就來了。非義之財決定不可以妄求。到這個地方是將這個惡報講完了。後面雖然文字不多,但是它是三個大段落,第一個大段落是念本,「推本念初」:
  この「非義之財」(道義に反した財貨)は決して受け取ってはなりません。あなたが受け取れば、それはちょうど「漏脯救飢」(腐った肉で飢えを満たす)ようなものです。「脯」(注2)は干し肉のことです。昔の古い家は、雨の日に雨漏りしました。雨漏りの水滴が干し肉にかかると、その干し肉は毒を生じて、食べると中毒になって命を落とします。鴆(ちん)という鳥の羽には強い毒があり、この羽を酒に浸すと、飲んだ人は即死します。これは「非義の財」を、腐った肉、鴆の酒になぞらえたのです。ですから、あなたがそれを受け取った時、満足するどころか利益を得ることすらできず、一切の災難が降りかかります。「非義の財」は決して求めてはなりません。ここまでで悪報について話し終わりました。後の文章は多くありませんが、三つの段落のうち最初の段落は根本を念ずること、「推本念初」(本を推し初を念ずる)です。

  【夫心起於善。善雖未為。而吉神已隨之。或心起於惡。惡雖未為。而凶神已隨之。】
  心に善の心が起これば、善の行いをまだしていなくても、吉の神はその心に感応して随う。また心に悪の心が起これば、悪の行いをまだしていなくても、凶の神はその心に感応して随う。

  可見得善惡吉凶禍福的根本在這個心的一念之間。心裡面剛動念,還沒有表現在行為,吉凶禍福這個預兆就非常的明顯。一念善心起,還沒有行善事,善神就來擁護,就來保護你,我們又何樂而不為之?一個壞的念頭剛剛起,還沒有做壞事,惡神凶煞已經就追隨你了,你又何苦來?這是沒有智慧,這是愚痴。所以我們推求根本,就是一念之初就定下吉凶禍福,換句話說,就決定我們的命運。下面一大段是本經的主旨,也就是太上這篇訓誡的用意之所在:
  善悪吉凶禍福の根本は心の一念の間にあります。心の中で念が動いたばかりで、まだ行動を起こしていなくても、吉凶禍福の予兆は非常に明らかです。一念に善の心が起こり、まだ善行をしていなくても、善の神はあなたを護りに来ます。私たちはどうして好んでそうしようとしないのでしょうか?一つ悪い考えが起こったばかりで、まだ悪い事をしていなくても、悪の神・凶鬼はもうあなたの後に付き従っています。あなたはどうしてわざわざ苦しんでそうするのでしょう?これは智慧がなく、愚かなことです。ですから私たちは根本を探究します。それは念の起こり初めに吉凶禍福が決まるからです。言い換えれば、私たちの運命を決定するのです。次の段はこの経の主旨であり、また太上感応篇の訓戒の意図が記されています。

<脚注>
1.積善之家,必有余慶。積不善之家,必有余殃。 『易経』 (坤・文言伝)
  積善の家には、必ず余慶(よけい)あり。積不善の家には、必ず余殃(よおう)あり。
  善行を積み重ねた家では、善の果報が幸せとなって子孫にまで及ぶ。
  不善を積み重ねた家では、悪の果報が災いとなって子孫にまで及ぶ。

2.「漏脯」・・・・中医では、乾いた肉に雨水がかかって生ずる毒のことを「漏脯毒」という。

>>>『太上感応篇』大意 10/10 につづく
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/d179b27078c236847d3cff73089e9518

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『太上感応篇』大意10/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  【其有曾行惡事。】
  もしかつて悪事を働いたなら、・・・

  無論哪一個人,「人非聖賢,孰能無過」,我們都有過失,我們自己要知道過失,不隱諱自己的過失,佛法主張發露懺悔,露是顯露出來叫大家都知道我有過失,這是懺悔,我後不再做。『曾行惡事』:
  どのような人でも、「人非聖賢,孰能無過」(人聖賢に非ざれば、孰か能く過ち無からん)(注1)、私たちは誰でも過失があるものです。私たちは自ら過失を知り、自分の過失を隠さず、仏法では懺悔の発露を主張しています。発露とは(心に隠していた過失を)明らかにして、皆に自分の過失を知らせることです。これが懺悔であり、もう二度としないことです。「曾行悪事」(かつて悪事を働いた)のであれば、

  【後自改悔。】
  後に自己を悔い改める。

  以後覺悟了,我們立刻就要悔改。
  これからは道理を悟り、すぐに悔い改めます。

  【諸惡莫作。眾善奉行。久久必獲吉慶。所謂轉禍為福也。】
  諸悪を行うことなく、多くの善を行い、久しく行えば必ず吉慶を得る。いわゆる“災い転じて福となす”である。

  這是這一篇終極的目標。說了這麼多話,希望就在這一句,太上是希望我們能夠真正做到『諸惡莫作,眾善奉行』。「諸惡」是前面惡報這一段所舉的一百七十多條,「眾善奉行」是福報那一段。我們明瞭什麼叫做福、什麼叫做禍、什麼叫做善、什麼叫做惡,然後我們才懂得斷惡修善、改過自新,這樣轉禍為福。末後這一段是結勉,是全文的總結;
  これはこの一篇の究極の目標です。これだけ多くのことを述べて、願うのはただこの一言だけです。太上は私たちが本当に「諸悪を行うことなく、多くの善を行う」ことを願っています。「諸悪」とは前述の悪報の段で挙げた百七十余りの条目であり、「衆善奉行」とは福報の段のことです。私たちは何を福と言うのか、何を禍と言うのか、何を善と言い、何を悪と言うのかを明瞭にしてこそ、悪を断って善を修め、過ちを改め、禍を福に転じることができるのです。最後のこの一段は結びであり、全文の総括です。

  【故吉人語善。視善。行善。】
  故に善人は言葉・見解・行為のすべてが善である。

  『語』是言語,『視』是所見,『行』是行為。
  「語」は言語、「視」は所見、「行」は行為です。

  【一日有三善。三年天必降之福。】
  一日に三つの善行を積めば、三年で天は必ず福をもたらす。

  這個三年就是積善,換句話說,什麼時候效應現前?三年。只要你照這個方法去做,三年一定有感應。你能夠行三年,沒有福,福報就現前,可以轉禍為福,轉短壽為長命,真能做得到。所以將《感應篇》跟《了凡四訓》合起來看,真是像佛經裡面所講的「如觀掌中庵摩羅果」,非常的清楚。
  この三年とは積善です。言い換えれば、いつ効果が表れるのでしょう?三年です。あなたがこの方法で行えば、三年で必ず感応が生じます。あなたが三年行えば、福がなくても福報は目の前に現れます。禍を福に転じることができ、短命を長寿に転じることが本当に実現できます。ですから『感応篇』と『了凡四訓』とを合わせて読めば、本当に仏典の中に「如観掌中庵摩羅果」(掌中の庵摩羅果を観る如し)(注2)と説かれているように、非常にはっきりします。

  【凶人語惡。視惡。行惡。一日有三惡。】
  悪人は言葉・見解・行為のすべてが悪であり、一日に三つの悪行を犯す。

  這個是講的積惡。
  これは悪を積むことです。

  【三年天必降之禍。】
  三年すれば天は必ず禍をもたらす。

  這是以惡感必然有惡的報應,有凶的報應。末後一句是勉勵我們:
  これは悪の感応は必ず悪の報い、凶の(不吉な)報いがあるということです。最後の一句は私たちへの励ましです。

  【胡不勉而行之。】
  どうして努めて善を行おうとしないのか。

  『胡』當為什麼講,為什麼我們不勉勵自己來修行?就是修斷惡修善,來改造自己的命運,來求得自己真正的幸福,來求得自己人生更有意義、更有價值、更美滿、更豐富。所以這些並非是純粹的理想而達不到的,說實在話,樣樣都能夠達成,樣樣都能夠做到,它有理論、有方法,所以我們目前所須要求的就是如何如理(合理)、怎樣如法(也就是合法),我們要合理合法的去修學,可以說沒有不成就的。合理合法的去修學,如果說不成就,沒有感應,可以說無有是處。當我們求不到,我們要認真的檢討反省,我們必定自己犯了過失、錯誤,所以才沒有感應道交。如果理論上不違背,方法上沒有錯誤,決定有感應。我個人本身不但將理論方法常常說給人聽,同時我本身的感應道交就是一個實際的例子。我是用這個方法奠定自己的基礎,以這種方法來求得感應道交。
  「胡」は「どうして」ということです。どうして私たちは自分の修行を励まさないのでしょうか?つまり悪を断って善を修めることで、自分の運命を変革し、自己の真の幸福を求め、自己の人生を更に有意義に、更に価値あるものに、更に幸せで円満に、更に豊かにすることができるのです。これらは純粋な理想で実現できないということは決してありません。実を言えば、どれも実現できるものであり、どれも実践する事ができます。理論があり、方法があるからです。ですから私たちが目下求めるものは如何に理に適い、法に適うかであり、理に適い法に適った修学をすれば、成就しない人はいないと言うことができます。理に適い法に適った修学をして、成就せず感応も生じない、そのようなことは有り得ないと言えます。私たちは成果を得られないなら、真摯に検討して反省する必要があります。必ず自分自身に過失や間違いがあるはずであり、だからこそ感応道交(注3)がないのです。もし理論に背かず、方法に間違いがなければ、必ず感応があります。私自身、理論や方法を人に語るだけではなく、同時に私自身に生じる感応道交が一つの実例です。私はこの方法を用いて自分の基礎としており、このような方法で感応道交を得ています。

  這二十多年來,有許多同修問我,為什麼常常看到我好像是心開意解,非常的自在,從哪裡來的?從《了凡四訓》、從《感應篇》而得來。只要我們能夠認真依照這個方法、這個理論去修學,你也可以得到。《感應篇》雖然不是佛經,經過蓮池大師提倡在前,印光大師弘揚在後,我很幸運能夠遇到這個法門,我深信它、我力行它。我在功課之餘,每天晚上睡覺以前一定要把《感應篇》念一遍,反省我一天的心行與太上的教訓有沒有違背。
  この二十数年来、多くの同修(注4)が私に、なぜ私はいつも心を広く開いて真意を解し、とても自在なのですか?それはどこから来るのですか?と質問しました。それは『了凡四訓』、『感応篇』から得たものです。この方法と理論に依って真摯に修学すれば、あなたも得ることができます。『感応篇』は仏典ではありませんが、蓮池大師の提唱と印光大師の発揚を経て、私は幸運にもこの法門と出会い、深く信じて実行して参りました。私はお勤めの他に、毎晩寝る前に必ず『感応篇』を一度読んで、私の一日の心と行為は太上の教訓に背いていないか反省します。

  我勸別人,盡形壽,就是一生當中,我們有一天生命,我們就要讀一天《感應篇》,就要照《感應篇》去做一天,把它當作戒律來看待,一時一刻不可以離開。我自己這樣做有效果,我相信每位同修,你只要照這樣去做,你也一定有效應,換句話說,你有感應,到你自己感應現前的時候才是真正的心開意解、法喜充滿。我在講堂裡也常常奉告諸位,法喜不容易得到,必須要明理,必須要如法,行解相應,才能夠獲得法喜。
  私は人に勧めています。「尽形寿」(命が尽きるまでの一生涯)、つまり一生において今日一日の命があるなら、私たちは『感応篇』を一日読み、『感応篇』に照らして一日を過ごし、それを戒律とみなして、片時も離れてはなりません。私自身このようにして効果を得ています。私は同修の皆さんも、このようにするなら必ず効果があると信じています。言い換えれば、あなたに感応が生じ、あなた自身が感応を体現できた時、本当に「心開意解、法喜充満」(心を開いて真意を解し、法の喜びに満ち溢れる)となるでしょう。私は演壇でいつも皆さんに申し上げていますが、法の喜び(法喜)は容易に得ることはできず、必ず道理を明らかにし、必ず法に適っていなければならず、行いと理解が一致してこそ法の喜びを得ることができるのです。

法喜是從內心裡面生出來的喜,是無有窮盡的,只要我們去修,果然是認真的,認真去學習,人人都能夠獲得。到法喜充滿現前的時候,你對聖人的教訓,佛菩薩的經典,你才能夠真正的喜愛它,百讀而不厭,千讀萬讀不會厭倦的,愈讀愈歡喜,愈讀愈有受用,其樂無窮。如果我們在讀聖賢人之書、讀經典感覺不到興趣,那是我們對於經論的理解力不夠,領悟的淺,換句話說,領悟的深度不夠,所以它裡面的味道,就是這個樂趣的味道,我們沒有嘗到。
法の喜びは心の内から生じる喜びであり、尽きることはありません。ただ私たちが真摯に学習しさえすれば、誰でも得ることができます。法喜充満を体現したその時、あなたは聖人の教訓、仏・菩薩の経典を本当に好きになり、いくら読んでも飽きることがなく、千遍でも万遍でも読んで飽きることがなくなり、読めば読むほど歓喜に溢れ、ご利益を受け、その楽しみは尽きません。もし聖賢の書を読み、経典を読んで興味が湧かないのであれば、それは私たちの経論に対する理解が足りないからです。言い換えれば、理解(悟り)の深さが足りないので、その中の味、つまりこの楽しみの味を味わうことができないのです。

  說到這個地方,我們為什麼讀聖賢書而得不到樂趣?這是由於我們的基礎不夠,基礎也就是我們在斷惡修善上做得不夠。聖人之心、佛菩薩之心是純善,沒有一絲毫惡念,沒有一絲毫私心,而我們充滿了妄念,充滿了私心,與聖教不相應,所以我們讀聖賢的教訓感覺格格不入,而不能發生興趣,原因就在此地。我們要想糾正這個原因,斷除這個惡習,依《了凡四訓》、《感應篇》,不必用多,以三年的功夫來奠定這個基礎,而後我們就會有非常良好的效應,就是有非常好的結果、收穫。這一點我們應該要明瞭,要好好的把它記住,要認真努力的修學,來改造我們自己的命運,創造我們自己光明美滿的前程。人人都是這樣祈求,只要如理如法,人人都可以滿願。我們記住太上最後一句話,為什麼我自己不努力、勉勵去力行?
  ここまで話しましたが、私たちはどうして聖賢の書を読んで、その楽しみを得られないのでしょうか?それは私たちの基礎が足らないからです。基礎とはつまり、私たちが悪を断って善を修めることにおいて、行いが足りないのです。聖人の心、仏・菩薩の心は純善です。わずかな悪念もなく、わずかな私心もありません。しかし私たちは妄念と私心に満ちあふれ、聖なる教えと一致していません。そのため私たちは聖賢の教訓を読んでもしっくりしないと感じて、興味が出てこないのです。原因はここにあります。私たちはこの原因を正そうと思うなら、悪い習慣を断ち、『了凡四訓』、『感応篇』に依拠して、多くを学ぶのではなく、三年の時間をかけて基礎を定めれば、その後は非常に良い効果を得ることができるでしょう。素晴らしい結果、収穫を得ることができます。この点を明確にして、しっかりと覚え、真摯に努力して修学し、私たち自身の運命を好転させ、光明に満ちた前途を創造しましょう。誰でもこのように切に願い、理に適い法に適ってさえいれば、誰でも願いを適えることができます。私たちは太上の最後のひと言を覚えておきましょう。どうして自分は努めて善を行おうとしないのでしょうか?

  今天到這個地方,時間也到了,我們將《太上感應篇》就介紹到此地。下一次我們再繼續介紹《文昌帝君陰騭文》與《大勢至菩薩念佛圓通章》,謝謝。
  今日はここまでで時間になりました。『太上感応篇』の紹介はここまでとします。次は継続して『文昌帝君陰騭文』、『大勢至菩薩念佛圓通章』を紹介します。ありがとうございました。

<脚注>
1.「人非聖賢,孰能無過」
  人聖賢に非ざれば、孰か能く過ち無からん。
  人は聖賢(聖人・賢者)ではないから、誰にでも過ちはあるものだ。

2.「如観掌中庵摩羅果」

  掌中の庵摩羅果(あんまらか)を観る如し。
  手に乗せたマンゴーの果実を見るように一目瞭然である。(筆者訳。下記は訳の典拠)

 <典拠>「掌中庵摩罗果」
 (譬喻)楞厳経二曰:“阿那律,見閻浮提。如視掌中庵摩羅果。”以喻一目了然也。阿那律,為天眼第一。
 http://cidian.foyuan.net/word/484171/

3.感応道交(かんのうどうこう)・・・・仏の働きかけと、それを感じ取る人の心が通じ、相交わること。
4.同修・・・・中国語で仏法を学ぶ者同士のことを「同修」と言う。学生同士では「同学」。職場の同僚は「同事」。

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『太上感応篇』 (全文)

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

『太上感應篇』


太上曰。禍福無門。惟人自召。善惡之報。如影隨形。

是以天地有司過之神。依人所犯輕重。以奪人算。算減則貧耗。多逢憂患。人皆惡之。刑禍隨之。吉慶避之。惡星災之。算盡則死。

又有三台北斗神君。在人頭上。錄人罪惡。奪其紀算。又有三尸神。在人身中。每到庚申日。輒上詣天曹。言人罪過。月晦之日。灶神亦然。凡人有過。大則奪紀。小則奪算。其過大小。有數百事。欲求長生者。先須避之。

是道則進。非道則退。不履邪徑。不欺暗室。積累功。慈心於物。忠孝友悌。正己化人。矜孤恤寡。敬老懷幼。昆蟲草木。猶不可傷。宜憫人之凶。樂人之善。濟人之急。救人之危。見人之得。如己之得。見人之失。如己之失。不彰人短。不己長。遏惡揚善。推多取少。受辱不怨。受寵若驚。施恩不求報。與人不追悔。

所謂善人。人皆敬之。天道佑之。福祿隨之。眾邪遠之。神靈衛之。所作必成。神仙可冀。欲求天仙者。當立一千三百善。欲求地仙者。當立三百善。

苟或非義而動。背理而行。以惡為能。忍作殘害。陰賊良善。暗侮君親。慢其先生。叛其所事。誑諸無識。謗諸同學。虛誣詐偽。攻訐宗親。剛強不仁。狠戾自用。是非不當。向背乖宜。虐下取功。諂上希旨。受恩不感。念怨不休。輕蔑天民。擾亂國政。賞及非義。刑及無辜。殺人取財。傾人取位。誅降戮服。貶正排賢。凌孤逼寡。棄法受賂。以直為曲。以曲為直。入輕為重。見殺加怒。知過不改。知善不為。自罪引他。壅塞方術。訕謗聖賢。侵凌道。

射飛逐走。發蟄驚棲。填穴覆巢。傷胎破卵。願人有失。毀人成功。危人自安。減人自益。以惡易好。以私廢公。竊人之能。蔽人之善。形人之醜。訐人之私。耗人貨財。離人骨肉。侵人所愛。助人為非。逞志作威。辱人求勝。敗人苗稼。破人婚姻。苟富而驕。苟免無恥。認恩推過。嫁禍賣惡。沽買虛譽。包貯險心。挫人所長。護己所短。乘威迫脅。縱暴殺傷。無故剪裁。非禮烹宰。散棄五縠。勞擾眾生。破人之家。取其財寶。決水放火。以害民居。紊亂規模。以敗人功。損人器物。以窮人用。

見他榮貴。願他流貶。見他富有。願他破散。見他色美。起心私之。負他貨財。願他身死。干求不遂。便生咒恨。見他失便。便說他過。見他體相不具而笑之。見他才能可稱而抑之。

埋蠱厭人。用藥殺樹。恚怒師傅。抵觸父兄。強取強求。好侵好奪。擄掠致富。巧詐求遷。賞罰不平。逸樂過節。苛虐其下。恐嚇於他。怨天尤人。呵風罵雨。鬥合爭訟。妄逐朋黨。用妻妾語。違父母訓。得新忘故。口是心非。貪冒於財。欺罔其上。造作惡語。讒毀平人。毀人稱直。罵神稱正。棄順效逆。背親向疏。指天地以證鄙懷。引神明而鑒猥事。

施與後悔。假借不還。分外營求。力上施設。淫慾過度。心毒貌慈。穢食人。左道惑眾。短尺狹度。輕秤小升。以偽雜真。採取姦利。壓良為賤。謾驀愚人。貪婪無厭。咒詛求直。

嗜酒悖亂。骨肉忿爭。男不忠良。女不柔順。不和其室。不敬其夫。每好矜誇。常行妒忌。無行於妻子。失禮於舅姑。輕慢先靈。違逆上命。作為無益。懷挾外心。自咒咒他。偏憎偏愛。越井越灶。跳食跳人。損子墮胎。行多隱僻。晦臘歌舞。朔旦號怒。對北涕唾及溺。對灶吟詠及哭。又以灶火燒香。穢柴作食。夜起裸露。八節行刑。唾流星。指虹霓。輒指三光。久視日月。春月燎獵。對北惡罵。無故殺龜打蛇。如是等罪。司命隨其輕重。奪其紀算。算盡則死。死有餘責。乃殃及子孫。

又諸取人財者。乃計其妻子家口以當之。漸至死喪。若不死喪。則有水火盜賊。遺亡器物。疾病口舌諸事。以當妄取之值。

又枉殺人者。是易刀兵而相殺也。取非義之財者。譬如漏脯救饑。鴆酒止渴。非不暫飽。死亦及之。

夫心起於善。善雖未為。而吉神已隨之。或心起於惡。惡雖未為。而凶神已隨之。其有曾行惡事。後自改悔。諸惡莫作。眾善奉行。久久必獲吉慶。所謂轉禍為福也。故吉人語善。視善。行善。一日有三善。三年天必降之福。凶人語惡。視惡。行惡。一日有三惡。三年天必降之禍。胡不勉而行之。

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『太上感応篇』 七五調訳の試み

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

『太上感応篇』 七五調訳の試み


  準備中



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『太上感応篇』 日本語訳1/3

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

『太上感応篇』 日本語訳

<第一段落 綱領>
  【太上曰】
  太上は言われた。

  【禍福無門。惟人自召。】
  禍福はもともと定まっておらず、ただ人が自分自身で招くものである。

  【善惡之報。如影隨形。】
  善悪の果報は、影が形に随うようなものである。


<第二段落 警鐘>
2-1警鐘
  【是以天地有司過之神。依人所犯輕重。以奪人算。】
  天地には人間の行動を監視する司過神(しかしん)がいて、
  人が犯す罪業の軽重によって、人の算(寿命)を奪うのである。

  【算減則貧耗。】
  算を減らせば、貧窮し消耗してしまい、

  【多逢憂患。】
  多くの憂いと苦しみに見舞われ、

  【人皆惡之。】
  人々は皆その人を憎むようになり、

  【刑禍隨之。】
  さまざまな禍(わざわい)がその人に付きまとい、

  【吉慶避之。】
  吉慶(おめでたいこと)はその人を避けていき、

  【惡星災之。】
  不運の星はその人に災いし、

  【算盡則死。】
  算が尽きれば死んでしまう。

2-2監察
  【又有三台北斗神君。在人頭上。錄人罪惡。奪其紀算。】
  また(生死・福報・財産を管轄する)三台には北斗の神君がいる。
  人の頭上にいて、人の罪悪を記録し、その「紀」や「算」を奪うのである。

  【又有三尸神。在人身中。每到庚申日。輒上詣天曹。言人罪過。】
  また三尸(さんし)の神がいる。人の身体の中に住んでいて、60日に一度の庚申の日には、欲界の天曹(てんそう)に行って人の罪過を報告するのである。

  【月晦之日。灶神亦然。】
  月末の晦日(つごもり)には、灶神(そうしん=かまどの神)もまた同じように、

  【凡人有過。】
  人に過失があれば、

  【大則奪紀。】
  (その過失が)大きければ紀(十二年)を奪い、

  【小則奪算。】
  小さければ算(百日)を奪うのである。

  【其過大小。有數百事。】
  その過失には大小があり、数百もの種類がある。

  【欲求長生者。先須避之。】
  長生きしたいと思う者は、まずこのような過失を避けなければならない。


<第三段落 福報>
総括
  【是道則進。非道則退。】
  正しい道であれば進み、非道であれば退きなさい。

自己を修める
  【不履邪徑。不欺暗室。積累功。慈心於物。忠孝友悌。】
  誤った道を行かず、暗室においも欺くことなく、徳を積み功を重ね、衆生に対する慈悲の心をもち、忠・孝・友・悌を実行しなさい。

人を教化する
  【正己化人。】
  自己を正して人を教化しなさい。

人に身になって考える
  【矜孤恤寡。】
  孤児や寡婦を憐れみ助け、

  【敬老懷幼。】
  お年寄りを敬い、幼い子を懐かせ、

  【昆蟲草木。猶不可傷。】
  昆虫草木といえども、傷つけてはならない。

  【宜憫人之凶。】
  人が禍に見舞われるのを憐れみ、

  【樂人之善。】
  人の善を喜び、

  【濟人之急。】
  人の危急を助け、

  【救人之危。】
  人の危険を救いなさい。

  【見人之得。如己之得。】
  人が得るのを見たなら、自分が得たようなものである。

  【見人之失。如己之失。】
  人が失うのを見たなら、自分が失ったようなものである。

  【不彰人短。】
  人の短所は明らかにせず、

  【不衒己長。】
  自己の長所をひけらかしてはならない。

  【遏惡揚善。】
  人の欠点をかばい、善い所を褒めなさい。

貪らず(不貪)
  【推多取少。】
  人に多く譲って、自分は少なく取り、

怒らず(不瞋)
  【受辱不怨。】
  侮辱されても怨むことなく、

愚かでない(不痴)
  【受寵若驚。】
  恩寵を受ければ恐縮し、

  【施恩不求報。與人不追悔。】
  恩を施して報いを求めず、人に与えて後悔しない。

これらの善行の果報
  【所謂善人。人皆敬之。】
  このような善人であれば、誰もが尊敬するであろう。

  【天道佑之。福祿隨之。眾邪遠之。神靈衛之。】
  天道はその人を助け、福禄はその人に随い、衆邪はその人から遠ざかり、神霊はその人をお護り下さる。

  【所作必成。神仙可冀。】
  行うことは必ず成就し、神仙もこいねがうほどである。

  【欲求天仙者。當立一千三百善。欲求地仙者。當立三百善。】
  天仙になろうとする者は、千三百の善を修めなければならない。
  地仙になろうとする者は、三百の善を修めなければならない。


>>『太上感応篇』 日本語訳②へ
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/f09c343b10b490beb9db61c210d0f5e9

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『太上感応篇』 日本語訳2/3

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

<第四段落 悪報>
①道理に背いた大悪
  【苟或非義而動。背理而行。以惡為能。忍作殘害。
  非義でありながら動き、理に背いて行い、悪い事を肯定し、人に知られずに殺生し、

  陰賊良善。暗侮君親。慢其先生。叛其所事。
  陰で善良な人を傷つけ、暗に君主や両親を侮り、その先生を侮り、それらの事を叛き、

  誑諸無識。謗諸同學。虛誣詐偽。攻訐宗親。剛強不仁。狠戾自用。】

  見識のない者をたぶらかし、同学を騙し、偽りを言って人を騙し、親族の過失を暴いて攻撃し、不仁を無理強いし、欲深く独りよがりである。

②役人の悪行
  【是非不當。向背乖宜。虐下取功。諂上希旨。
  是非の分別は妥当でなく、趣向は正しい道に背き、部下を虐げて功積をあげ、上司に諂って迎合し、

  受恩不感。念怨不休。輕蔑天民。擾亂國政。
  恩を受けて感謝することなく、怨み言を言い続け、人々を軽蔑し、国政を乱す。

  賞及非義。刑及無辜。殺人取財。傾人取位。
  功なき者に褒美を与え、罪なき者を懲罰に科し、人を殺して財を貪り、人を押しのけて地位を奪い、

  誅降戮服。貶正排賢。凌孤逼寡。棄法受賂。
  降伏した者を殺し、正しく聡明な者を追い払い、孤児を侮辱し未亡人に無理強いし、法を犯して賄賂を受け取り、

  以直為曲。以曲為直。入輕為重。見殺加怒。】
  真っ直ぐなものを曲がっていることにし、曲がっているものを真っ直ぐだとし、軽い罪を重罪にしてしまい、死にそうな人を怒って罵る。

③世俗の悪行
  【知過不改。】
  誤りと知りながら改めず、

  【知善不為。】
  善と知りながら行わず、

  【自罪引他。】
  自分の過失に人を巻き込み、

  【壅塞方術。】
  価値ある学問や技術を(独占して)人に伝えず、

  【訕謗聖賢。侵凌道。】
  聖賢を誹謗し、道徳を侮辱する。

④殺生の悪行
  【射飛逐走。】
  飛ぶ鳥を射落とし走る獣を捕まえる。

  【發蟄驚棲。】
  土の中の虫を掘り起し、鳥を驚かせる。

  【填穴覆巢。傷胎破卵。】
  虫の巣穴を埋め、鳥の巣を覆い、身ごもっている動物に危害を加え、卵を破る。

⑤気の弱い者の悪行
  【願人有失。】
  人に過失があることを願い、

  【毀人成功。危人自安。減人自益。以惡易好。
  人の成功を誹謗し、人の安穏を危うくし、人の利益を減らし、悪い事を良い事とし、

  以私廢公。竊人之能。蔽人之善。形人之醜。
  私心によって公益を廃し、人の成果を盗み、人の善を覆い、人の醜聞を暴露し、

  訐人之私。耗人貨財。離人骨肉。侵人所愛。助人為非。】
  人の私事を暴き、人の財産を浪費し、肉親と離れるようにそそのかし、人が愛しているものを奪い、人が悪事を行うのを助ける。

⑥気の強い者の悪行
  【逞志作威。辱人求勝。敗人苗稼。破人婚姻。
  勝手気ままに威張り散らし、人を侮辱して自分の勝ち求め、農婦の再婚を失敗させ、人の婚姻生活を破たんさせ、

  苟富而驕。苟免無恥。認恩推過。】
  少々裕福になれば驕り高ぶり、その場だけ罪を免れて恥を知らず、恩を認めて過失は人に押し付ける。

  【嫁禍賣惡。沽買虛譽。包貯險心。挫人所長。
  過失を人に転嫁して悪を売り、虚栄を売り買いし、悪賢い心をもち、人の長所を挫き、

  護己所短。乘威迫脅。縱暴殺傷。】
  自分の短所を護り、勢力を笠に着て人をいじめ、我がままに暴力をふるい、殺したり傷つけたりする。

⑦物を大切にしない悪行
  【無故剪裁。非禮烹宰。散棄五榖。勞擾眾生。】
  理由なく衣類を裁断し、生き物を礼に反して料理し、五穀を無駄にし、衆生を働かせ混乱させる。

⑧明らかな横暴の悪行
  【破人之家。取其財寶。決水放火。以害民居。
  人の家を破産させ、その財産を奪い、水を打ち火を放って民家に危害を加え、

  紊亂規模。以敗人功。損人器物。以窮人用。】
  秩序を乱し、人の功積を無にし、人の器物を損なって、使えないようにする。

⑨陰に隠された悪行
  【見他榮貴。願他流貶。】
  人の栄華を見て、その人が左遷させられることを願う。

  【見他富有。願他破散。見他色美。起心私之。
  人が裕福であるのを見て、その人が破産することを願い、美しい夫人を見れば、欲情を起こし、

  負他貨財。願他身死。】
  人に財産を借りていれば、その人の死を願う。

⑩陰のある悪行
  【干求不遂。便生咒恨。】
  求めたことが思い通りにならないと、恨みを抱く。

  【見他失便。便說他過。】
  人の過失を見れば、その人の過失を言いふらし、

  【見他體相不具而笑之。】
  人の身体的な欠点を見れば、それをあざけり、

  【見他才能可稱而抑之。】
  人の才能を見れば、褒めることなくかえってさげすみ、

⑪理由のない悪行
  【埋蠱厭人。】
  証拠をでっちあげて人を陥れる。(虫を埋めて人を嫌がらせる)

  【用藥殺樹。恚怒師傅。抵觸父兄。強取強求。好侵好奪。】
  薬を使って樹木を枯らし、教師を恨み、両親に反発し、力ずくで奪い取り、侵害することを好む。

⑫志を奪う悪行
  【擄掠致富。巧詐求遷。】
  略奪して金持ちになり、ずる賢い手段で昇進しようとする。

  【賞罰不平。逸樂過節。】
  褒賞や懲罰は不公平で、安逸な享受は節度を越えている。

  【苛虐其下。恐嚇於他。】
  自分の部下を虐げ、人を恐れさせる。

⑬忌諱(タブー)を無視する悪行
  【怨天尤人。訶風罵雨。鬥合爭訟。妄逐朋黨。
  天を怨み人を咎め、(思うようにならない)雨風を罵り、争いをそそのかして訴訟を起こさせ、みだりに徒党に加わり、

  用妻妾語。違父母訓。得新忘故。口是心非。
  妻や妾の道理に合わない話を鵜呑みにし、両親の教訓に背き、新しいものを好んで古いものを忘れ、言葉と本心が一致せず、

  貪冒於財。欺罔其上。造作惡語。讒毀平人。】
  不正な財産を貪り、上司を欺き、悪言をでっちあげ、無実の人を誹謗中傷する。

  【毀人稱直。罵神稱正。棄順效逆。背親向疏。
  人を謗って自らを正しいと思い、神明を罵って自らを公正だと思い、天理を棄てて天理に背いた行いをし、肉親に背いて他人に媚びへつらい、

  指天地以證鄙懷。引神明而鑑猥事。】
  天地を指さして自分の考えを正当化し、神明を引き合いにしながら猥らな事を手本としている。

⑭不仁なる者の悪
  【施與後悔。】
  施しを与えた後で悔いる。

  【假借不還。】
  借りたものを返さない。

  【分外營求。力上施設。淫慾過度。心毒貌慈。
  分不相応な物を求めて、力の限りを尽くし、淫欲は節度を越え、内心は陰険悪辣で外見だけは情け深く、

  穢食人。左道惑眾。短尺狹度。輕秤小升。
  汚れた食物を人に与え、邪道をもって人々を惑わし、標準より短い物差しで長さを狭く測り、標準でない秤で少なく量り、

  以偽雜真。採取奸利。壓良為賤。謾驀愚人。】
  まがい物を本物と混ぜてごまかし、善良な人を卑しい人とし、愚かな人をあざけり見くびる。

⑮家庭における悪行
  【貪婪無厭。咒詛求直。嗜酒悖亂。骨肉忿爭。
  飽くことを知らず欲を貪り、神を呪いながら道理に適うことを願い、酒を好んで心を乱し、肉親と言い争い、

  男不忠良。女不柔順。不和其室。】
  男性は忠義と善良さに欠け、女性は従順でなく、家族は仲が悪い。

  【不敬其夫。每好矜誇。】
  妻は夫を尊重せず、夫はいつも驕り高ぶっている。

  【常行妒忌。無行於妻子。失禮於舅姑。】
  常に寵愛を得ようと争って嫉妬し、妻に礼節を用いず、嫁は姑を敬わない。

  【輕慢先靈。】
  ご先祖様を侮る。

  【違逆上命。】
  年長者の命に逆らう。

  【作為無益。】
  無益なことを為す。

  【懷挾外心。】
  密かにふた心を懐く。

  【自咒咒他。偏憎偏愛。越井越灶。
  自分を呪い人を呪い、人の好き嫌いに偏りがあり、井戸やかまどを跨ぎ、

  跳食跳人。損子墮胎。行多隱僻。】
  食物や人を飛び越え、嬰児を堕胎し、行いはこそこそしている。

⑯天地神明を敬わない悪行
  【晦臘歌舞。】
  月末・年末に歌い踊る。

  【朔旦號怒。】
  月の初めの早朝に怒鳴り散らす。

  【對北涕唾及溺。】
  北を向いて鼻をかみ、痰を吐き、大小便をする。

  【對灶吟詠及哭。】
  かまどに向かって歌を歌ったり泣いたりする。

  【又以灶火燒香。穢柴作食。】
  かまどの火を使って線香をつけ、汚い柴を薪にして食事を作る。

  【夜起裸露。八節行刑。唾流星。
  夜起きだして丸裸になり、八節(立春、立夏、立秋、立冬、春分、秋分、夏至、冬至)に刑罰を執行し、流星に向かって唾を吐き、

  指虹霓。輒指三光。久視日月。】
  虹を指さし、三光(太陽・月・星)を指さし、太陽や月を長く注視する。

  【春月燎獵。】
  春に山林を焼いて猟をする。

  【對北惡罵。】
  北に向かって悪口を言う。

  【無故殺龜打蛇。】
  何の理由もなく亀や蛇を殺す。


>>『太上感応篇』 日本語訳③へ
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/408a19131c120d1650e5cf091b58ad53

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『太上感応篇』 日本語訳3/3

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

これらの悪行の果報
  【如是等罪。】
  このようなものはすべて罪である。

  【司命隨其輕重。奪其紀算。算盡則死。】
  司命(寿命をつかさどる神)は罪の軽重に随って、その紀・算を奪い、算が尽きれば死ぬのである。

  【死有餘責。乃殃及子孫。】
  死んでも罪を帳消しにできなければ、子孫にまで災いが及ぶ。

  【又諸取人財者。乃計其妻子家口以當之。漸至死喪。
  人の財産を横取りして、妻子や家族の為に用いることを企て、少しずつ死に至らしめ、

  若不死喪。則有水火盜賊。遺亡器物。
  もし死ななければ、水害・火災・強盗・盗難に遭い、財産を失い、

  疾病口舌諸事。以當妄取之直。】
  病気になり、いろいろな訴訟を起こされて、奪い取った分は清算される。

  【又枉殺人者。是易刀兵而相殺也。】
  理由なく人を殺す者は、戦禍によって殺される。

  【取非義之財者。】
  非義の財(道義に反する財貨)を貪った者は、・・・

  【譬如漏脯救飢。鴆酒止渴。
  例えば腐った肉で飢えを満たし、鴆(ちん)という毒鳥の酒を飲んで渇きを癒そうとするようなもので、

  非不暫飽。死亦及之。】
  少しも空腹を満たせず、命を失うようなものである。


<第五段落 根本の追求>
「推本念初」(本を推し初を念ずる)
  【夫心起於善。善雖未為。而吉神已隨之。
  心に善の心が起これば、善の行いをまだしていなくても、吉の神はその心に感応して随う。

  或心起於惡。惡雖未為。而凶神已隨之。】
  また心に悪の心が起これば、悪の行いをまだしていなくても、凶の神はその心に感応して随う。

  【其有曾行惡事。】
  もしかつて悪事を働いたなら、・・・

  【後自改悔。】
  後に自己を悔い改める。


<第六段落 究極の目標>
  【諸惡莫作。眾善奉行。久久必獲吉慶。所謂轉禍為福也。】
  諸悪を行うことなく、多くの善を行い、久しく行えば必ず吉慶を得る。いわゆる“災い転じて福となす”である。


<第七段落 総括>
  【故吉人語善。視善。行善。】
  故に善人は言葉・見解・行為のすべてが善である。

  【一日有三善。三年天必降之福。】
  一日に三つの善行を積めば、三年で天は必ず福をもたらす。

  【凶人語惡。視惡。行惡。一日有三惡。】
  悪人は言葉・見解・行為のすべてが悪であり、一日に三つの悪行を犯す。

  【三年天必降之禍。】
  三年すれば天は必ず禍をもたらす。

太上の激励
  【胡不勉而行之。】
  どうして努めて善を行おうとしないのか。

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