浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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免疫力を高める(再掲載)

2020-05-16 | 【疑問に答える】

提升免疫力 / 免疫力を高める
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一八八集)2010/11/7 檔名:02-039-0188

災難來了,很多人擔心,瘟疫來了,非常嚴重的瘟疫,沾上三、四個小時就完了,求醫都來不及。有沒有方法應對?有。大乘經教裡,佛常講「一切法從心想生」,這是最高的指導原則,科學還沒有達到這個層次。
災難が起こり、多くの人が心配しています。疫病が発生しています。非常に強い疫病は感染してから三、四時間で亡くなってしまいます。医者に見せるのも間に合いません。対処する方法はあるのでしょうか?あります。大乗の経教(きょうぎょう:経に説かれている教え)で、仏はよく「すべては心から生じる」と説かれています。これは最高の指導原則です。科学はまだこの段階に達していません。

這個病毒細菌是怎麼回事情?從哪裡來的?從貪瞋痴慢疑裡頭變出來的。如果貪瞋痴慢疑要是斷掉,這細菌就沒有了。他有貪瞋痴慢疑,他帶這個細菌;你沒有貪瞋痴慢疑,這個細菌在你身上都不起作用。為什麼?你沒有貪瞋痴慢疑,牠跟你不相應,這就是我們講你有免疫力,牠不起作用。牠是貪瞋痴慢疑,你也心裡有貪瞋痴慢疑,這一拍即合,就這麼回事情!
このウィルス細菌とはどういう事なのでしょうか?どこから来るのでしょうか?貪り・怒り・無知・傲慢・疑い(貪・嗔・痴・慢・疑)の中から変化して現れたものです。もし貪り・怒り・無知・傲慢・疑いを断つことができれば、この細菌はなくなります。ある人は貪り・怒り・無知・傲慢・疑いの心があり、その細菌を持っています。あなたに貪り・怒り・無知・傲慢・疑いの心が無いなら、細菌はあなたの体で作用しません。なぜでしょうか?あなたには貪り・怒り・無知・傲慢・疑いの心がないので、それはあなたと相応(そうおう)しないからです。これが私たちが言うところの免疫力があるということです。ウィルスは作用しません。ウィルスとは貪り・怒り・無知・傲慢・疑いであり、あなたの心にも貪り・怒り・無知・傲慢・疑いの心があれば、すぐに調子を合わせる。つまりそういう事なのです!

  所以連科學家都告訴我們,應付二0一二的災難,教給我們斷惡修善。跟佛講的一樣,教我們改邪歸正,端正心念,你看跟佛法講的完全一樣,他們從科學上研究出來的。我們要把不好的這些毛病、習氣統統給它除掉,問題自然化解,還用得著什麼醫藥嗎?不需要了。沒有這個本事,當然斷貪瞋痴慢疑不是普通人了,至少也是阿羅漢以上,因為貪瞋痴慢疑是思惑,阿羅漢斷掉了。我們沒有斷,把它降低,把它減輕,對財色名食睡適可而止,這就是保護自己。
ですから科学者【注1】でさえ、2012年の災難に対処するのに、悪を断って善を修めることを教えているくらいです。仏が説くところと同じです。私たちに邪を改め正に帰り、心を正すことを教えています。どうでしょうか。仏法が説いているのと完全に同じです。彼らは科学的な研究から導き出したのです。私たちは良くない欠点、習気(じっけ:染み付いた良くない習慣)をすべて取り除いてしまえば、問題は自然に解消されます。さらに薬が必要でしょうか?必要ありません。しかし私たちにはこのような技量がありません。もちろん 貪り・怒り・無知・傲慢・疑いの心を断っていれば普通の人ではありません。少なくとも阿羅漢(あらかん)【注2】以上です。 貪り・怒り・無知・傲慢・疑いの心は思惑(しわく)煩悩であり、阿羅漢はそれを断っています。私たちは断っていませんが、それを抑え、それを減らして、財欲・色欲・名誉欲・食欲・睡眠欲を適度に抑えること。これが自分を守ることなのです。

<注>
1.阿羅漢(あらかん)・・・執著を断ち六道輪廻から離脱した覚者。分別、妄想は断っていない。

2.科学者・・・・2012年について言及している科学者とは、アメリカの科学者 グレッグ・ブレーデン(Gregg Braden)氏のことだと思われます。

初回掲載 2011-05-30
第一回訂正2020-05-16
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なぜ仏像の前に水をお供えするのか

2020-01-05 | 【疑問に答える】

為什麼佛像前面要供一杯水? / なぜ仏像の前に水をお供えするのか
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第五0九集)2013/11/17 檔名:02-040-0509

所以我們用什麼心?用清淨心、平等心。清淨心、平等心,用一杯水做代表。你看我們供佛,佛像前面一定供一杯水,那水代表什麼?清淨平等,心,真心。佛是真心變現出來的,極樂世界,真心變現出來的,十方世界都是真心變現的。真心裡面加上個妄心就變成十法界,變成六道,如果沒有妄心,那就是一真法界。
所以供那一杯水什麼意思?不是給佛看的,不是佛要喝水,不是,提醒我自己,我自己面對著諸佛菩薩,要用清淨平等心,這個意思。
私たちはどのような心を用いるのでしょうか?清浄(しょうじょう)心、平等心です。清浄心、平等心は一杯の水に代表されます。私たちは仏にお供えするのに、仏像の前に必ず一杯の水をお供えします。その水は何を表すのでしょうか?清浄、平等の心です。真心です。仏は真心が変化して現れたものです。十方世界はすべて真心が変化して現れたものです。真心の中に妄心が加わると十法界に変わり、六道に変わります。もし妄心がなければ、それは正に一真法界です。
その一杯の水をお供えするのはどのような意味なのでしょうか?仏に見せるためではありません。仏菩薩と向き合うのに、清浄、平等の心を用いなければならないことを自分自身に注意喚起するためです。その意味です。

我們用清淨平等心,跟佛就直接溝通,感應,我們跟佛不能感應是心不清淨、心不平等,就這麼個道理。誰用清淨心、誰用平等心,感應它就現前。理跟事都要明瞭,才知道佛法裡頭沒有迷信。佛法講的諸法實相,一切法的真相,有事有理,理跟事都要搞清楚、都要搞明白。
 私たちが清浄、平等の心を用いれば、仏と直接通じ合えます。感応します。私たちが仏と感応できないのは心が清浄ではなく、心が平等ではないからです。このような道理です。誰でも清浄心を用い、平等心を用いれば、感応は目の前に現れます。「理」と「事」を明らかにしてこそ、仏法に迷信はないことが理解できます。仏法は諸法実相、一切法の真相を講じます。事があり理があって、理と事をすべてはっきりと、明瞭にしなければなりません。
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「独り其の身を善くす」とはどういうことか

2018-05-06 | 【疑問に答える】


什麼叫獨善其身? / 「独り其の身を善くす」とはどういうことか
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第四一五集)2013/8/29 檔名:02-040-0415

我們明瞭這樁事情,把它翻過來,我們嚴持戒律,別人不持,我自己持;修六和敬,不希望別人對我六和,我對一切人一定六和。六和敬、戒律都不是叫別人學的,佛叫我學,我要學,與別人不相干,這就對了。我們持戒,別人破戒,甚至於還勸我破戒,我要不要聽他的?聽他的犯無間罪業的罪過,將來墮地獄怎麼辦?這個事情是真的不是假的。比丘遇到這些事情怎麼處置?寧捨身命也不能破戒。
私たちはこの事を明らかにしなければなりません。それを逆に言えば、私たちが厳格に戒律を守ることです。人が守らなくても、自分は守ることです。六和敬【注1】を修めます。人が自分に対して六和であることを望みません。自分はすべての人に対して必ず六和を守ります。六和敬、戒律はすべて人にさせるものではありません。仏が私に学ばせ、私が学ぶことであり、人とは関係ありません。これで良いのです。私たちは持戒(じかい:戒律を守ること)しても、人は破戒(はかい:戒律を破ること)します。甚だしきに至っては、私に破戒を勧めます。私はその人の言うことを聞く必要があるのでしょうか?その人の話を聞けば無間地獄の罪過を犯します。将来地獄に堕ちたらどうするのでしょうか?この事は本当です。嘘ではありません。比丘はこのような事に遭遇したらどう対処するのでしょうか?身命を捨てても破戒する訳にはいきません。

根本戒就是最普通的五戒,不殺生、不偷盜、不淫欲、不妄語,再加個不飲酒,這五戒是根本大戒,出家不但學這個,比丘有二百五十條戒,統統要遵守。現前的社會,出家人不談戒律了,談戒律忌諱很多。真正想學佛的,無論在家、出家,自己好好學,絕不要求別人,別人做不做於我不相干。聽到了、見到了決定不能批判、不能批評,不要把它放在心上就好,懂得什麼叫獨善其身。
根本戒は通常の五戒です。不殺生、不偷盜、不淫欲、不妄語、更に不飲酒を加えます。この五戒が根本大戒です。出家人はこれを学ぶだけでなく、比丘には二百五十条の戒があり、すべて順守しなければなりません。現前の社会では、出家人は戒律を語りません。戒律を語ればタブーが多いからです。本当に仏に学びたければ、在家であろうと出家であろうと、自分で良く学び、絶対に人に要求してはなりません。人がするかしないかは自分に関係ありません。聞いたこと、見たことは絶対に批判しません。それを心に留めなければ良いのです。「独り其の身を善くす」【注2】とはどういうことかを理解することです。

<注>
1.六和敬(ろくわけい)・・・見和同解、戒和同行、利和同均、意和同悦、身和同住、語和無諍
日本のネット情報では、身和敬、口和敬、意和敬、戒和敬、見和敬、利和敬(行和敬)と見られる。読み方は、ろくわけい、ろくわきょう、ろくわぎょう等。日常のあらゆる面で「互いに敬い合う」ことが大意であろう。

2.独(ひと)り其(そ)の身を善(よ)くす
以下『孟子』尽心より抜粋

窮則独善其身
窮すれば則ち独り其の身を善くし、
困窮の中にあってはただ自分自身を善く修養し、

達則兼善天下。
達すれば則ち兼ねて天下を善くす。
栄達したなら天下の人々をも善くしたのである。

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如何にして貪瞋痴を断つか

2018-02-04 | 【疑問に答える】


如何斷貪瞋痴? / 如何にして貪瞋痴を断つか
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第三七二集)2013/7/22 檔名:02-040-0372

無明就是痴,六大煩惱裡頭貪瞋痴的痴;疑是從愚痴裡頭生出來的,它也非常嚴重;慢,慢是從瞋恚裡面生的;還有一個情執,情執是從貪心裡面生的。我有時候把情執、慢、疑講作是貪瞋痴的中心。我們如何斷貪瞋痴,能夠把情執放下,把傲慢放下,人學得謙虛,傲慢放下,懷疑放下,貪瞋痴就好斷。
無明(むみょう)とは痴(ち:愚かであること。まよい)です。六大煩悩の中の貪瞋痴(とんじんち:むさぼり・いかり・まよいの心)の痴です。疑(ぎ:真理に対する疑い)は愚痴の中から生じたもので、それもまた非常に深刻です。慢(まん:傲慢な心)は瞋恚(しんい:自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)の中から生じたものです。もう一つは情執で、情執は貪心(たんしん:貪欲な心)の中から生じたものです。私は時に情執、慢、疑を貪瞋痴の中心であると講じています。私たちは如何にして貪瞋痴を断つのでしょうか。情執を放下(ほうげ:執着を捨て去ること)し、傲慢を放下し、謙虚を学んで傲慢を放下して、懐疑心を放下できれば、貪瞋痴は断ちやすくなります。

三毒煩惱很不容易轉,你要知道從哪裡轉起比較容易。貪,找貪裡頭最嚴重的,瞋恚裡頭最嚴重的,愚痴裡頭最嚴重的,就是情執、就是傲慢、就是懷疑,我們從這裡下手。真的要放下,對人、對事、對物不懷疑了。不懷疑,我上當,人家騙我,那我不吃虧了嗎?上幾次當就學乖了。學乖了怎麼樣?學乖還要上當,上當我知道,我不是不知道,你騙我我曉得,我還是讓你騙,這叫功夫。
三毒の煩悩を転じるのは容易ではありません。あなたはどこから転じれば比較的容易なのかを知っておかなければなりません。貪欲の中で最も深刻なもの、瞋恚の中で最も深刻なもの、愚痴(ぐち:まよい)の中で最も深刻なものを探します。それは情執であり、傲慢であり、懐疑です。私たちはここから着手します。本当に放下して、人や物事に対して疑いません。疑わなければ自分は騙されます。人は私を騙します。それで自分は損をしないのでしょうか?何度か騙されると利口になります。利口になるとどうでしょう?利口になっても騙されなければなりません。騙されていることを自分は知っています。知らないのではありません。人が私を騙していることを私は知っていますが、それでも人に騙されるのです。これが技量と言うものです。

<補記>
(とん:貪り)→情執(感情的な愛着、執着の意と思われる)
(じん:怒り)→傲慢(他者を見下す心)
(ち:まよい)→懐疑(真理を疑う心)

最後のくだりは現代では?と思われるかもしれませんが、江戸時代の良寛禅師などは頻繁に騙されていたようですから、良寛禅師のエピソードを読めば参考になると思われます。

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攀縁(はんえん)と隨縁(ずいえん)の違い

2017-12-26 | 【疑問に答える】


攀緣與隨緣的差別 / 攀縁(はんえん)と隨縁(ずいえん)の違い
地藏菩薩本願經 (第十八集) 1998/5 新加坡淨宗學會 檔名:14-012-0018

佛法裡頭都是講真相,真相決定不可以執著身是「我」。把身外之物,看作我所有的,「我所」。「我」尚且沒有,哪來的「我所」?你才真的覺悟了。你要能把我、我所放下,放下不容易,你為什麼放不下?這個道理與事實真相,你沒有搞清楚、搞明白。如果真的清楚、明白了,你就很喜歡放下,你不可能不放下,這是一定之理。明白就是看破,什麼叫看破?理事因果清楚了、明白了,所以你是樣樣都放得下。放下之後,那個生活、受用,對自己來講是自在,對別人來講是隨緣,所以自在是「自受用」,隨緣是「他受用」。幫助一切眾生隨緣,隨緣裡頭沒有分別、沒有執著,有分別、有執著不是隨緣叫攀緣,攀緣跟隨緣差別在此地。隨緣的心是清淨的、是平等的、是覺悟的;攀緣的心不清淨、不平等、是迷執、迷惑的,這裡面差別很大。
仏法はすべて真相を講じています。真相とは絶対に身体は自分であると執著しないことです。身体の外の物を、自分が所有するものと見なすこと。それは「我所」(自己に属するものという執著)です。自分に「我」がなければ、どこに「我所」があるのでしょうか?あなたはようやく覚ります。あなたは自分(我)や自分のもの(我所)という意識を放下することができます。放下は容易ではありません。あなたはなぜ放下できないのでしょうか?この道理と事実の真相を、はっきりと理解できていないからです。もし本当に理解していれば、あなたは喜んで放下します。放下しないことはあり得ません。これは間違いのない理(ことわり)です。理解するとは看破です。看破とは何でしょうか?理、事、因果を明らかにすることです。それであなたは何でも放下できるようになります。放下した後、その生活はご利益を得られます。自分は自在となり、他者に対しては隨縁(ずいえん)【注1】となります。ですから自在は自分が受けるご利益であり、隨縁は他人が受けるご利益です。一切衆生の隨縁を助けます。隨縁には分別、執著はありません。分別・執著があれば隨縁ではなく、攀縁(はんえん)【注2】と言います。攀縁と隨縁の違いはここにあります。隨縁の心は清浄であり、平等であり、覚っています。攀縁の心は不清浄、不平等、とらわれ、迷いがあります。この差はとても大きなものです。
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 【注1】 攀縁(はんえん)・・・・俗事にひかれること。「攀」には「すがる」、「たよる」、「たのむ」などの意。
 【注2】 隨縁(ずいえん)・・・・縁に随(したが)うこと。
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再来の人は娑婆世界に来て隔陰の迷いはあるのか

2016-08-01 | 【疑問に答える】


再來人來娑婆世界示現還有隔陰之迷嗎? / 再来の人は娑婆世界に来て隔陰の迷いはあるのか

問:這一份是華藏衛視聽眾提問的,他們一共提了十八個問題。第一個,他說請問再來人來娑婆世界示現還有隔陰之迷嗎?下面說,不然看很多古代大德未出家或者沒有明心見性之前,好像之前的事都不知道;還是一出生就知道是再來人,而裝作不知道?順治皇帝說「我本西方一衲子,為何生在帝王家」,是他明心見性後才知道他是再來人嗎?
【質問】これは華蔵衛星テレビの視聴者からの質問です。全部で十八の質問が出されました。一つ目です。再来の人は娑婆世界に示現しても隔陰の迷い(現世に生まれ過去生の記憶を失うこと)はあるのでしょうか?多くの昔の大徳を見ると出家する前や明心見性する前は、(生まれる)前の事を知らないようです。または生まれてすぐに再来の人だと知っていて、知らない振りをしているのでしょうか?順治皇帝は「私はもともと西方の禅僧である。なぜ帝王の家に生まれたのか」と言っています。これは明心見性した後で自分が再来の人だと知ったのでしょうか?

答:順治皇帝我跟他沒見過面,不知道他的境界,但是你提出這個問題,就是再來人有沒有隔陰之迷?給諸位說,再來人很多,有的人有,有的人沒有,不能一概而定。確確實實像你這樣說的,有些人他沒有隔陰之迷,他要裝那個樣子。從哪個例子來看?從釋迦牟尼佛,你就清楚了。你看釋迦牟尼佛在《梵網經》裡面給我們說了真話,他這次到我們這個世間來示現是第八千次。他還要示現入胎,還要去示現參學,還要去示現遊覽四門看生老病死,這都是做給我們看的,演戲!這場戲在娑婆世界他已經演了八千次,在我們這個世間,其他他方世界那就不知道演多少次了,這是為教化眾生的。 如果他生下來,生而知之,他教化眾生,沒有人敢跟他學。為什麼?你是天生的,我不行,你我怎麼能學得到。他這一表現的時候,他看生老病死會覺悟,修行能成佛,「行!我跟你那個樣子做也行」,這都是教學的方便。
【回答】私は順治皇帝に会ったことがないので、彼の境界(きょうがい:境地)は分かりません(笑)。しかしあなたが提起した質問、つまり再来の人に隔陰の迷いはあるのでしょうか?皆さんにお話ししますが、再来の人はたくさんいます。ある人にはそれがあり、ある人にはありません。一概には言えません。確かにあなたが言うように、ある人には隔陰の迷いがなく、その人はそれがあるかのように装います。どの事例に見られるでしょうか?釈迦牟尼仏を見れば、はっきりします。釈迦牟尼仏は『梵網経』の中で真実のお話をされています。彼が今回この世間に示現したのは八千回目です。彼はそれでも入胎を示現され、参学を示現され、四門出遊して生老病死を見ることを示現されました。これはすべて私たちに見せて下さったのです。演劇です!この劇を娑婆世界において八千回も演じたのです。私たちのこの世間、その他の世界でどれだけ演じたのか知れません。これは衆生を教化する為です。もし彼が生まれてすぐにそのことを知り、衆生を教化したなら、誰も彼に学ぼうとはしないでしょう。なぜでしょうか?それは生まれつきのもので、自分には無理だと思ってしまいます。どうして学べるでしょうか。彼が演じて下さった時、生老病死を見て悟り、修行して仏に成ったのであれば、「よし!私もそのようにすれば良いのだ」となります。これはすべて教学の方便です。

所以你看祖師大德,近看你看印光大師,印光大師有很多人說(這也不是假的)是西方大勢至菩薩再來的。大勢至菩薩怎麼會有隔陰之迷?實際上大勢至菩薩早就成佛,在西方極樂世界示現菩薩身,協助阿彌陀佛幫助眾生。我們想到這個人決定沒有隔陰之迷,可是他還要裝,還要裝到怎麼?謗佛,年輕的時候不相信佛,謗佛、謗法,最後接觸佛法,明白了,這是讚佛。從毀謗再讚歎,這裡有道理。你看從前我們一般人謗佛也很多,到最後明白的時候也都讚佛了。接引教化的方便,可以這樣做法。 但是也有再來人真的有隔陰之迷,那是什麼?小菩薩,現在你看《華嚴經》上,《華嚴經》上菩薩有五十一個等級,哪些等級肯定有隔陰之迷?在一般來講,十信位的菩薩(我們現在講到八信),十信位的菩薩決定有,初住以上大概就沒有了。為什麼?明心見性了,那是真的分證佛,不應該有隔陰之迷,那都是大權示現。
ですから祖師大徳を見ると、印光大師を見れば、印光大師は多くの人が西方大勢至菩薩の再来だと言っています。大勢至菩薩にどうして隔陰の迷いがあるでしょうか?実際には大勢至菩薩はすでに仏に成っています。西方極楽世界で菩薩身を示現され、阿弥陀仏が衆生を救うことに協力しています。私たちはこの方には絶対に隔陰の迷いはないと考えますが、しかし彼はそれでも演じます。何を演じたのでしょうか?仏を誹謗しました。若い頃に仏法を信じておらず、仏を誹謗し、法を誹謗しました。最後に仏法に触れて理解し、仏を讃嘆しました。誹謗してから讃嘆しました。この中には道理があります。昔は一般の人は仏を誹謗する人が多かったのですが、最後には理解して皆仏を讃嘆したのです。教化の方便であり、このようにしたのです。しかし再来の人に本当に隔陰の迷いがある場合もあります。それは何でしょうか?小菩薩です。『華厳経』を見ると、『華厳経』には菩薩は五十一の等級があります。間違いなく隔陰の迷いがあるのはどの菩薩でしょうか?一般的に言えば、十信位の菩薩です。十信位の菩薩には間違いなくあります。初住以上であればおそらくありません。なぜでしょうか?明心見性しているからです。それは本当に証得しているのであり、隔陰の迷いはありません。それはすべて大権示現です。

十信位的菩薩沒有見性,沒有見性的時候說有隔陰之迷這個我們能想得通,這是非常可能。尤其是位置更低的,七信以下的,七信菩薩斷煩惱的功夫跟小乘阿羅漢相等,阿羅漢也有隔陰之迷,這是我們在經上讀到的。為什麼?沒見性。所以要以這個為標準。 你看天台大師講,沒有見性的,阿羅漢以上的,相似即佛,他不是真的,相似的,阿羅漢、菩薩。你要照《華嚴經》來算,很清楚、很明白。七信等於阿羅漢,八信等於辟支佛,九信等於菩薩(十法界的菩薩),十信等於十法界裡的佛,這不清清楚楚,明明白白!到初住,超越了,超越十法界,破一品無明,證一分法身,那個應該沒有隔陰之迷,那個來的時候是度化眾生,是來示現的。這個是沒有超過十法界的,十法界也是迷而不覺,他迷的淺,六道迷的深,迷的有淺深不同。所以在大乘教裡面,六道叫內凡,四聖法界叫外凡,還把他算作凡夫,凡夫有內外,就是迷有淺深不同。到初住,真正是聖人,超凡入聖,那是真的聖人,那不是假的。
十信位の菩薩は見性していません。見性していない時に隔陰の迷いがあるのは私たちにも想像できます。その可能性があります。特に位がさらに低く、七信以下であれば、七信の菩薩は煩悩を断っている程度は小乗の阿羅漢と同じです。阿羅漢にも隔陰の迷いがあります。これは経の中に見ることができます。なぜでしょうか?見性していないからです。ですからこれを基準にしなければなりません。天台大師は説かれています。見性していないもの、阿羅漢以上のものは、相似即仏と言います。それは本物ではなく、似ているのです。阿羅漢や菩薩です。『華厳経』に照らして数えれば、はっきりします。七信は阿羅漢に等しく、八信は辟支仏(びゃくしぶつ)に等しく、九信は菩薩(十法界の菩薩)に等しく、十信は十法界の中の仏です。これははっきりと、明瞭ではありませんか?初住に至れば十法界を超越します。十法界もまた迷いがあり覚ってはいません。彼らは迷いが浅く、六道の人は迷いが深いのです。迷いの深浅は異なります。ですから大乗教の中では、六道を内凡と言い、四聖法界を外凡と言います。まだその人を凡夫と見なしています。凡夫には内と外とがあり、迷いの深浅が異なります。初住に至れば、真の聖人です。凡を超越して聖に入っています。それは真の聖人であり、偽物ではありません。
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攀縁(はんえん)とは何か

2016-02-21 | 【疑問に答える】


什麼是攀緣? / 攀縁(はんえん)とは何か
學佛答問 2005/5/13 香港佛陀教育協會 檔名:21-268-0001

攀緣是你有意願,有目的,或者是為名,或者是為利,你想去做一樁什麼事情,這是攀緣,就是你要去找。佛法,佛教我們隨緣,隨緣跟攀緣不一樣,隨緣是別人來找你。人家找到我們,我們看到人家有苦難需要幫忙,不能不去幫助,要盡心盡力去幫助他,這是隨緣。如果隨緣當中我們有目的,有名利夾雜在裡面,也變成攀緣,這是我們一定要曉得。攀緣心不清淨,隨緣心是清淨的。為別人做事,事情做好了,他有福報;事情沒有做好,我們已經盡心盡力,功圓滿。所以,絕不妨礙自己的清淨心,這是隨緣;與自己清淨心有妨礙,這是攀緣。
攀縁(はんえん)【注1】とは、あなたに願いがあり、目的があること。或いは名のため、或いは利のために何かをすることです。これが攀縁です。つまりあなたがある事を自分からしようとすることです。仏法では、仏は私たちに隨縁(ずいえん)【注2】を教えています。隨縁と攀縁は異なります。隨縁は人があなたの所に来るのです。人々が私たちを頼って来ます。私たちは人々が苦難に遭い助けが必要なのを見て、助けない訳にはいきません。力の及ぶ限りその人を助けます。これは隨縁です。もし隨縁の中に私たちの目的があり、名利の心がその中に夾雑(きょうざつ:余計なものが混じること)していれば、それは攀縁に変わってしまいます。これは必ず知っておかなければなりません。攀縁の心は清浄(しょうじょう:清らかであること)ではありません。随縁の心は清浄です。人の為に事を行い、その事を成し遂げるなら、その人には福報があります。事が成し遂げられなくても、力を尽くしたのであれば、功徳は円満です。ですから絶対に自分の清浄心に差し支えはありません。これが隨縁です。自分の清浄心に差し支えがあるなら、それは攀縁です。

<注>
1.攀縁(はんえん)・・・・俗事にひかれること。「攀」には「すがる」、「たよる」、「たのむ」などの意。
2.隨縁(ずいえん)・・・・縁に従うこと。

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自性はどこにあるのか

2016-02-03 | 【疑問に答える】


自性在哪裡 / 自性はどこにあるのか
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第三十七集)2012/11/27 檔名:02-040-0037

自性在哪裡?無有一法不是自性,天堂是自性,地獄也是自性,佛菩薩是自性,蚊蟲螞蟻也是自性,花草樹木也是自性,山河大地沒有一樣不是自性,連虛空都是自性。自性能生能現,萬物是所生所現。
自性【注】はどこにあるのでしょうか?どの法も自性でないものはありません。天国は自性であり、地獄もまた自性です。仏菩薩(ほとけぼさつ)は自性であり、蚊や虫や蟻たちも自性です。草花や樹木も自性です。山河や大地も何一つとして自性でないものはありません。虚空さえもすべて自性です。自性は生じ、現ずることができ、万物は(自性、自分の心から)生じ、現れたものなのです。
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 【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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自性真的是不可思議,你說不出來,你摸不到、看不到它,所以古說,「說似一物即不中」。雖然老和尚講經說法用黃金做比喻,以金作器,器器皆金,但是真有黃金,黃金看得到,我們自性在哪?自性真有,自性拿不出來。其實自性根本就沒有離開我們,一切時、一切處,它沒離開,它在。沒有它,時跟處都沒有,全是它變現出來的,它真是萬萬能,不生不滅,永恆不變。
自性は本当に不可思議です。あなたは語ることは出来ません。触ることも、見ることも出来ません。ですから古徳は、「説似一物即不中」(せつじいちもつそくふちゅう:何と説いてもそれそのものには当たらない)と説かれています。老和尚は講経(こうきょう:経を講じること)、説法するのに黄金を比喩に用います。金で器を作れば、どの器もすべて金です。しかし本当に金であれば、金は見ることができます。私たちの自性はどこにあるのでしょうか?自性は本当にあります。手で取り出すことは出来ません。その実自性はまったく私たちから離れていません。いつでも、どこでも、それは離れません。それはあるのです。それがなければ時間も空間もありません。すべてそれが変化して現れたものなのです。それは本当に万徳万能であり、不生不滅、永遠に変わりません。

從它變現出來的這一切現象,那個現象是剎那生滅,所以現象不是真的。生滅的頻率那麼高,就在我們眼前生滅,我們看不見;就在眼前生滅,我們聽不見,它頻率太快了,一千六百兆分之一秒,這麼高的頻率,所以就在眼前都看不到。在淨土宗稱為常寂光,學佛最後的目標就是回歸常寂光,我們的大事就圓滿了。
それから変化して現れる一切の現象、その現象は刹那の生滅(しょうめつ:生じたり消えたりすること)です。ですから現象は真実ではありません。生滅の頻度はそれほど高く、正に私たちの目の前で生滅していますが、私たちには見えません。正に目の前で生滅しているのに、私たちには聞こえません。その頻度が速すぎるのです。一千六百兆分の一秒、これほど高い頻度です。ですから目の前にあっても見えません。浄土宗では常寂光と言います。仏法を学ぶ最後の目標は常寂光に回帰することであり、私たちの大事はそれで円満になります。

常寂光叫妙覺如來,我們的色心等法完全跟常寂光融成一體,都變成常寂光了。他起作用,無量無邊,眾生有感,他就能應。應就是變現,這個變現,自己沒有起心動念,完全是眾生,恆順眾生,隨喜功。眾生想見佛,你就現佛身;眾生想見菩薩,你就現菩薩身。隨眾生心,應所知量,所以自己根本沒有起心動念,沒有分別執著。這些人在哪裡?這些人也在我們面前,我們肉眼凡夫不認識。
常寂光は妙覚如来と言います。私たちの色心(物質と精神)が完全に常寂光と一体に融け合うと、すべて常寂光に変わります。その人には無量無辺の効力が生じます。衆生が「感」ずれば、その人は「応」じます。応じるとは変化して現れることです。変化して現れるにも、自分は念を動かさず、完全に衆生に随い、喜んで功徳を積むのです。衆生が仏を見たいと思えば、仏身を現します。衆生が菩薩を見たいと思えば、菩薩身を現します。「衆生の心に随い、所知の量に応ず」(隨衆生心,応所知量)。ですから自分はまったく心を起こさず、念を動かさず、分別や執著はしません。これらの人はどこにいるでしょうか?これらの人は私たちの目の前にいます。私たちのように肉眼に頼る凡夫には分かりません。

釋迦牟尼佛身分暴露,他老早就成佛了,到這個地球上來應化的,為我們現身說法,住世八十年。他的色身是完全覺悟的色身,跟我們迷惑顛倒的色身沒兩樣,但是不相同的,他那個身體裡頭沒有起心動念、沒有分別執著,我們這個身體有起心動念、有分別執著,而且剎那不停,不一樣就在此地。
釈迦牟尼仏は身分を明かしました。彼はとうの昔に仏に成っていました。この地球上に来て応化(おうげ:仏や菩薩が世の人を救うために現れること)したのです。私たちの為に身を現して説法し、この世に八十年留まりました。彼の色身(しきしん:肉体)は完全に悟りを開いた色身でした。私たちのような迷いのある色身と変わりませんが、同じではありません。彼の身体の中には起心動念はなく、分別や執著はありません。私たちの身体には起心動念があり、分別や執著があり、しかも一瞬たりとも止まりません。同じではないのは正にここです。

我們要能夠不起心不動念,跟他就完全一樣,那這個身體也是應化身,見到自己的法身,自己法身跟一切眾生法身,跟諸佛如來法身,是一法身。所以我說這是大乘的倫理,講到最究竟、最圓滿,整個宇宙跟我同一體,《大方廣佛華嚴》就是說這個事實真相。
私たちがもし心を起こさず念を動かさなくなれば、完全に彼と同じです。それならその身体も応化身になります。自分の法身(ほっしん)を見ますと、自分の法身は一切衆生の法身、諸仏如来の法身と、一つの法身です。ですからこの大乗の倫理は、最も究極的に、最も円満に説かれています。全宇宙は自分と同一体であり、『大方廣佛華厳経』には正にこの事実の真相が説かれています。

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自性はどこにあるのか?

2016-02-03 | 【疑問に答える】


自性在哪裡? / 自性(じしょう)はどこにあるのか?
文摘恭錄—淨土大經科註 (第五0四集) 2012/9/9 檔名:02-037-0504

自性在哪裡?自性無處不在,自性無時不在。明白的人,它就在眼前,而且得受用;不明白­的人,它也在眼前,它並沒有迴避他,但是你不知道,你不認識它,所以你會做許許多多錯­事。這些過失一定要自己承當,沒有人能代替的。覺悟的人,一定是隨順自性。自性是什麼­?我昨天說得很清楚,中國傳統文化裡面四科是自性,五倫、五常、四維、八,那就是自­性,不要人教的。起心動念、言語造作決定不違背,而且都把它做出來。
自性【注】はどこにあるのでしょうか?自性は無い処はなく、自性が無い時はありません。分かった人は、それが目の前にあり、しかもご利益を受けます。分からない人にもそれは目の前にあります。それはその人を避けているのではありません。しかしあなたは分かりません。あなたはそれを認識しません。そのためあなたは数多くの誤った事をします。それらの過失は必ず自分で責任を負わなければなりません。代わってくれる人はいません。悟った人は、必ず自性に従うものです。自性とは何でしょうか?私は昨日はっきりとお話ししました。中国の伝統文化の中の四科目は自性です。五倫、五常、四維、八徳、それこそが自性です。人が教える必要はありません。心の起こりや念の動き、言葉や行為はそれらに決して背かず、しかもそれを実行するのです。
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 【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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大乘佛法是自性,­你要問自性是什麼?十善、六和、四無量心、六波羅蜜,也四樣。這四樣,十善是根;中國­傳統這四樣,五常是根,五常跟佛法裡面講十善業道幾乎完全相同。五常,仁義禮智信,跟­佛法的五戒對應,仁不殺生,義不偷盜,禮不邪淫,智不飲酒,後面信不妄語,完全對應。­本經把五戒裡面的不飲酒開出不貪、不瞋、不痴,把不妄語裡面開之為不妄語、不兩舌、不­綺語、不惡口,就是十善業道,這是根本!沒有這個根,其他行你做不到。這個根得從小­紮起,中國人講胎教,小孩出生到三歲這一千天紮根教育,學什麼?就學這個,這叫根本戒­。這個根紮好了,以後就成聖、成賢,成菩薩、成佛,這他有分;不在這個根上下手全是假­的。
大乗仏法は自性です。あなたは自性とは何かと尋ねるでしょうか?十善、六和、四無量心、六波羅蜜の四つです。この四つ、十善は根(根本)です。中国伝統の四つ、五常は根(根本)です。五常は仏法の中で言えば十善業道とほぼ同じものです。五常の仁義礼智信は、仏法の五戒と相応します。(やさしさ)は不殺生、(人が踏み行うべき正しい道)は不偸盗、(礼節)は不邪淫、(善悪を正しく見定める智慧)は不飲酒、そして(信頼される人になること)は不妄語です。完全に相応します。本経(佛説大乗無量壽荘厳清浄平等覚経)では五戒の中の不飲酒を不貪(貪らない)、不瞋(怒らない)、不痴(迷わない)に展開しています。不妄語を展開させて、不両舌、不綺語、不悪口としています。これは十善業道であり、これが根本です!この根がなければ、その他の徳行も実行できません。この根は小さな頃から育てます。中国人は胎教を重んじます。子どもが生まれてから三歳まで、その一千日に根を張る教育をします。何を学ばせるのでしょうか?まさにこれを学ぶのです。これを根本戒と言います。この根をしっかりと張れば、後には聖人になり、賢人になり、菩薩になり、仏に成ることでしょう。その人には分があります。この根から着手するのでなければ、すべて嘘偽りです。

<参考>
五常の徳
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/daeed54678d44baaefee80e87d83612a

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どうすれば不退の心でいられるか

2016-01-06 | 【疑問に答える】


怎樣才能不退心 / どうすれば不退(ふたい)の心でいられるか
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第一二一集)2013/1/13 檔名:02-040-0121

人人都能有成就,問題就是你能堅持到多久。有人二、三年就退心了,有人十幾年退心的,還有二、三十年退心的,我們親眼見到過。深深的體會到,要怎樣才能不退心?只有一句,真幹。真幹的人不會退心,真幹的人一定天天有進步。如果不是真幹,特別是現前的社會,幫助你退心的這個緣太多了,叫退緣。
誰でも成就することができます。問題なのは、あなたがどれくらい堅持することができるのかです。ある人は、二、三年で退心(たいしん:仏道に精進する心がなくなること)します。ある人は十数年で退心します。またある人は二、三十年で退心します。私たちは自分の目で見て来ました。深く理解しています。どうすれば不退の心でいられるのでしょうか?ひと言に尽きます。本当に行うことです。本当に行う人は退心することはありません。本当に行う人は必ず毎日進歩があります。もし本当に行わないのであれば、特に現前の社会では、あなたの退心を助ける縁がたくさんあります。これを退縁と言います。

自己內裡面有煩惱、有習氣,外面有許許多多的誘惑,怎麼可能不退心!所以今天學佛退心的現象是非常正常。一般群眾不仁不義,變節,俗話說跳槽,這種現象也不能怪他們,也都是正常現象。為什麼?教失掉了,沒人教了,什麼是道,什麼是,什麼是倫常,什麼是因果,沒人知道。知道一點皮毛不管用,那以章嘉大師的標準是不承認的。
自分の中に煩悩があり、習気(じっけ)があり、外の様々な誘惑があれば、どうして不退の心でいられるでしょうか!ですから今日仏法を学んで退心する現象は正常です。一般の群衆が仁に背き、義に背き、変節し、俗にいう鞍替えをする、このような現象も彼らを咎めることはできません。これも正常な現象です。なぜでしょうか?教えが失われたからです。教える人がいません。道とは何か。徳とは何か。倫常とは何か。因果とは何か。知る人がいません。上っ面を少しばかり知っていても役には立ちません。それは章嘉大師【注1】の基準では認められません。
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 【注1】 章嘉大師(1890-1957)・・・・第十九世、章嘉呼図克図。本名は羅森班殿・丹畢蓉梅といい、一般には章嘉大師、章嘉活佛と称される。呼図克図(ホトクト)はモンゴル語であり、漢訳すると「明心見性,生死自主」(悟りを開いた生死自在の聖者)の意味である。チベット仏教中国内モンゴル地区の最高活仏(生き仏)。達頼喇嘛(ダライラマ)、班禅額爾徳尼(パンチェン・オルドニ)、哲布尊丹巴呼図克図(ジェプツンダンバ・ホトクト)と同じくチベット仏教四大指導者の一人。(「維基百科」より抜粋して翻訳)
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你沒有能落實,雖然聽了,沒聽懂。真正聽懂了,哪有不落實的道理!為什麼?他曉得古人說的這個是自己的性,那怎麼會不奉行?奉行性,這個人叫自愛,真正愛自己。把自己的性疏忽了,丟掉了,不自愛。那依中國的標準來說,五倫做到了,五常做到了,四維做到了,八做到了,這個人叫真正自愛。真正自愛的人是什麼?是聖賢。在佛法裡面講,真正自愛的人是法身菩薩。
あなたが実行できなければ、たとえ聞いても、理解できません。本当に聞いて理解できれば、実行しないという道理があるでしょうか!なぜでしょうか?その人は、古人の説かれているものは自分の性徳(しょうとく)【注2】だということを知っているからです。それならどうして奉行(ぶぎょう:仏陀の教えを実行すること)しないことがあるでしょうか?性徳を奉行すること。このような人を自愛と言います。真に自己を愛しています。自己の性徳を疎かにして、失っていれば、自愛できません。中国の基準で言えば、五倫を実行し、五常を実行し、四維を実行し、八徳を実行するなら、その人は真に自分を愛していると言えます。真に自愛する人とは何でしょうか?聖人です。仏法の中で言えば、真に自愛する人は法身菩薩です。
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 【注2】 性徳(しょうとく)・・・・衆生が本性として具えている生まれつきの能力。
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あなたは普段何を考えているか

2016-01-04 | 【疑問に答える】


你平常起心動念在想什麼? / あなたは普段何を考えているか
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二二一集)2010/12/14 檔名:02-039-0221

我們在臨命終的時候,什麼念頭起來?念佛的念頭起來,對阿彌陀佛、對極樂世界感恩的念頭生起來,他能不往生嗎?佛能不接引嗎?在這個時候,我們的念力不夠會生惡念,這在日常生活當中自己一定要曉得。我們生活裡面把佛的念頭忘掉,這在佛法叫失念,你念失掉了,你會起心動念想這些想那些。你想些什麼?如果想自私自利、想名聞利養、想五欲六塵,你要曉得,這叫輪迴業,想就在造輪迴,意在造;你說,說是口在造;你有這些行為的話你是身在造,你身口意三業都在造。
私たちは臨終の時に、どのような思いを起こすのでしょうか?念仏の思いを起こします。阿弥陀仏や極楽世界に対する感謝の思いが起こるなら、その人が往生しないことがあるでしょうか?仏が引導しないことがあるでしょうか?その時に、私たちの念じる力が足りなければ、悪念が起こります。これは日常生活の中で自分がよく知っているはずです。生活の中で仏を忘れること、これを仏法では失念と言います。念じ忘れれば、私たちはあれを考えたりこれを考えたりします。あなたは何を考えるでしょうか?もし私利私欲を考え、名聞利養を考え、五欲、六塵を考えているなら、あなたは理解しなければなりません。これを輪廻の業と言うのです。考えるとすぐに輪廻を作り出します。意念(思考)が作っています。あなたが言えば、口で作っています。あなたがそれらの行為をすれば、身体で作っています。あなたは身口意(しんくい)の三業をすべて作っています。

如果想的不是想自己,現在災難很多,想怎麼樣來幫助這個世界救度苦難眾生,這是善業。善業裡面還是有自己在裡頭,我來造,那你也出不了六道輪迴,你這種心生天,這是人天道的業。善福少的人道,善福大的生天道,都看你平常起心動念在想什麼。起心動念想的是正法久住,想的是苦難眾生,這裡頭沒有我,像《金剛經》上所說的,「無我相,無人相,無眾生相,無壽者相」、「無我見,無人見,無眾生見,無壽者見」,這是佛道。
もし考えていることが自分のことではないなら、今は災難が多いので、この世界の苦難の衆生をどのように助ければ良いのかを考えるなら、それは善業です。善業の中に自分のことがあるなら、「我」で行うなら、あなたはやはり六道輪廻を出られません。あなたがこのような心であれば天に生まれます。それは人道・天道の業です。善福の少ない人は人道に生まれ、善福の大きい人は天道に生まれます。すべてはあなたが普段何を考えているかを見ます。考えることが正法をこの世に永く留めること、苦難の衆生を救うことで、その中に「我」が無いのであれば、『金剛経』に説かれているように、「無我相,無人相,無衆生相,無寿者相」、「無我見,無人見,無衆生見,無寿者見」、これは仏道です。

不要問人,自己比什麼人都清楚。晚上睡覺你會作夢,夢些什麼?夢中的境界就是善惡業種發現的時候,在夢中發現,醒來之後你要有警覺心。為什麼?人臨終的時候就像作夢一樣,現在夢中的境界就是你臨終那個時候的境界相彷彿。你曉得這怎麼辦?想到這一點,警覺心才能提起來,你不能不怕。還想不想繼續搞六道輪迴?輪迴真苦!特別是生在現代的社會,太平盛世不容易感覺到,亂世是非常明顯。還幹這個事情嗎?不能再幹了,那得想出輪迴;出輪迴,除念佛之外,別的方法都難。斬釘截鐵一句話,憑我們自己能力做不到,念佛是憑阿彌陀佛的願力。所以要記住,這是他力法門。
人に尋ねてはなりません。自分が誰よりも明らかです。夜眠ると夢を見ます。夢に何を見るでしょうか?夢の中の境界(きょうがい)で善悪の業種を知ったなら、目が覚めた後で注意しなければなりません。なぜでしょうか?人は臨終の時、ちょうど夢を見るのと同じだからです。今の夢の中の境界は、あなたが臨終するその時の境界相に似ているからです。どうすれば良いのでしょうか?この点を思えば、注意する心が出て来ます。心配せずにはいられません。また六道輪廻を続けたいのでしょうか?輪廻は本当に苦しいものです!特に現代の社会に生まれていると、天下泰平を感じることは容易ではありません。乱世であることは明らかです。またこの事をしたいでしょうか?する訳にはいきません。それならば輪廻を出ることを考えなければなりません。輪廻を出るには、念仏を除いて、別の方法では難しいのです。はっきりと言うなら、自分の能力に頼っていては出来ません。念仏は阿弥陀仏の願力に頼るのです。ですから覚えておかなければなりません。これは他力の法門なのです。

我們現在要常常想到,我有沒有起惡念?我還有沒有邪見?邪見就用佛經上講的這五大類,時時刻刻檢點,第一個是身見,邊見、見取見、戒取見、邪見,所有一切不正確的見解我有沒有?有怎麼辦?古大教導我們,「不怕念起,只怕覺遲」。這就是起是應該的,為什麼?你是凡夫,你要不起這個念頭你是聖人,你不是凡人,六道凡夫哪有不起念頭的道理!正常的。祖師大教我們怎樣?把它換掉,用「阿彌陀佛」把它取而代之。
私たちは常に考えなければなりません。自分に悪念はないかどうか。邪見はないかどうか。邪見は仏経に説かれている次の五つを用いて、時々刻々点検することです。第一は身見(しんけん:身体は自分だとする誤った見解)です。辺見、見取見、戒取見、邪見。すべての誤った見解が自分にないかどうか。あるならどうすれば良いのでしょう?古(いにしえ)の大徳は教え導かれています。「念の起こりを恐れず、ただ悟りが遅れることを恐れよ」(不怕念起,只怕覚遅)。これはつまり念が起こるのは当然だということです。なぜでしょうか?あなたは凡夫だからです。あなたがこれらの念を起こさないのであれば、あなたは聖人です。凡夫ではありません。六道の凡夫が念を起こさない道理があるでしょうか?それは正常なのです。祖師大徳はどのように教えているでしょうか?それを交換します。「阿弥陀仏」を用いて、それと取り換えるのです。


<参考>
『法句経』(ダンマパダ) 第二十一章 296
ゴータマ(釈尊)の弟子は、いつもよく目を覚ましていて、昼も夜も常に仏を念じて(観想して)いる。

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最も役に立つのはただ一人だけ

2016-01-02 | 【疑問に答える】


問神、問鬼、問菩薩、問佛、問通靈的,都不靈;只有一個最靈 / 神に尋ね、鬼に尋ね、菩薩に尋ね、仏に尋ね、霊に通じた人に尋ねても役に立たない。最も役に立つのはただ一人だけ。
淨土大經解演義(第一八五集) 2010/11/4 香港佛陀教育協會 檔名:02-039-0185

你要曉得,我們現在在凡夫位,有人見佛、見菩薩、見神、見鬼,都是這一個道理,是你自己心裡變現的。那要用什麼態度來對這樁事情?
あなたは理解しておかなければなりません。私たちは今、凡夫の位です。ある人が仏を見たり、菩薩を見たり、神を見たり、鬼を見たりするのは、すべて一つの道理なのです。それはあなた自身の心が変化して現れたのです。それではどのような態度でこの事を受け止めれば良いのでしょうか?

佛在經上講得很好,「凡所有相,皆是虛妄」,你不放在心上,不理它,《楞嚴經》上:好境界;如果你理會它,你就錯了,你就迷了。明白這個道理,這個世間人,也是通病,趨吉避凶,不同國家的人,不同族群的人,不同信仰的人,這個同不同?這個同,都知道趨吉避凶。吉凶禍福從哪裡來的?從心想生,你能躲避得了嗎?躲避不了。怎樣才能夠了?
仏は経の中で説かれています。「およそ相(そう:姿・形)あるところ、皆これ虚妄なり」(すべて姿、形のあるものには実体がない)(『金剛経』)。心に留めておかないことです。気にしないことです。『楞厳経』に説かれています。良い境界(きょうがい:境地)であっても、気に掛けるのは誤りです。あなたは迷います。この道理を理解することです。これは世間の人の共通の病でもあります。吉を求めて凶を避けます。異なる国の人、異なる民族の人、異なる信仰の人であっても同じでしょうか?これは同じです。すべて吉を求めて凶を避けようとします。吉凶禍福はどこからくるのでしょうか?心の思いから生じます。あなたは避けることができるでしょうか?避けられません。ではどうすれば良いのでしょうか?

所以這個事情不要問別人,問神、問鬼、問菩薩、問佛、問神仙、問通靈的,都不靈;有一個最靈的人,問自己,自己最靈,為什麼?一切法從心想生,問你的心想。你的心想要是純正,你就沒有災難。你的心想就是念頭不正,什麼不正?貪瞋痴慢疑不正,殺盜淫妄不正,自私自利不正,你心裡有這些念頭那就有災有禍。個人的災就是多病、多煩惱,事事不順心,這個人災難;共業的災難,現在講自然災害,也有人禍,人禍是戰爭。現在戰爭大家都知道,如果戰爭爆發,第三次世界大戰是核武、生化,整個世界會毀滅,人禍!
この事は他人に尋ねてはなりません。神に尋ね、鬼に尋ね、菩薩に尋ね、仏に尋ね、神仙に尋ね、霊に通じた人に尋ねても、役には立ちません。一人だけ最も役に立つ人がいます。自分に尋ねることです。自分が最も役に立ちます。なぜでしょうか?すべては心の思いから生じるからです。あなたの心の思いを問うのです。あなたの心の思いが純正(じゅんせい:純粋で正しいこと)であれば、あなたに災難はありません。あなたの心の思いが正しくないのであれば、(何が正しくないのでしょう?貪瞋痴慢疑は正しくありません。殺盗淫妄は正しくありません。私利私欲は正しくありません)あなたの心にこれらの思いがあれば災禍に見舞われます。個人の災いとしては、病気がちで煩悩が多く、何事も思うようになりません。これが個人の災難です。共業【注1】の災難は、今でいう自然災害です。また人災もあります。人災は戦争です。今の戦争は誰でも知っているように、もし戦争が勃発すれば、第三次世界大戦は核兵器、生物化学兵器です。全世界は壊滅してしまいます。これは人災です!
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 【注1】 共業(ぐうごう)・・・・自然災害や社会の発展・衰退など、誰もが共通して受ける果報のこと。
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所以都要問我們的心,起心動念純淨純善,那你是大吉大利,你什麼災難都不會有。不要問別人,問自己,為什麼?佛經上講兩句真言,「相隨心轉」,這關於個人,我個人吉凶禍福是我們心在做主,所以人不能沒有善心。人有善心,你就跟善感應,跟佛菩薩感應,跟善神感應;心不善,跟魔感應,跟妖魔鬼怪感應。我們明白這個道理,問題全解決了。
すべて私たちの心に問いかけます。心の働きが純浄純善であるなら、あなたは縁起が良くなり、何の災難もなくなります。人に尋ねてはなりません。自分に尋ねることです。なぜでしょうか?仏は経の中で真実の言葉を説かれています。「相は心に随って転ず」(相随心転)。これは個人に関することです。自分自身の吉凶禍福は、私たちの心が決めるのです。ですから人は善心を持たなければなりません。人は善心を持てば、善と感応します。仏菩薩と感応します。善神と感応します。心が不善であれば、魔と感応します。妖怪や悪魔と感応します。この道理を理解すれば、問題はすべて解決します。

  學佛要相信佛的教誨,相信聖人的教誨,不能有絲毫疑惑,為什麼?聖賢、佛菩薩,他們的行持、他們的言語全是自性裡頭流露出來,真言!「傲不可長,欲不可縱」,凡夫當然有欲望,財色名食睡,適可而止,不能太過分;過分,災難就來了。能夠守住這個標準,這就是戒律,我決定不過分,那你這個享受是正常的。「志不可滿,樂不可極」,樂極生悲,時時刻刻懂得節制,就是決定不能過分。人之大欲,財跟色,所以聖人教給我們,「臨財毋苟得」。財擺在面前,要想想該不該得,不該得的不能要,要了怎麼樣?禍害就來了。你應該得的,沒有問題,那是你的福分;不應該得的,招災難來!不是好事情。
仏法を学ぶには仏の教誨を信じ、聖人の教誨を信じて、少しでも疑ってはなりません。なぜでしょうか?聖賢、仏菩薩、彼らの行持、彼らの言葉はすべて自性(じしょう)【注2】の中から流露した、真実の言葉なのです!「傲(おご)りは長ずべからず。欲は縦(ほしいまま)にすべからず」(傲不可長,欲不可縦)。凡夫には当然欲望があるので、財・色・名・食・睡(財欲、色欲、名欲、飲食(おんじき)欲、睡眠欲)を適度にとどめて、度を越してはなりません。度を越せば、災難がやって来ます。守るべき基準、それこそが戒律です。度を越していなければ、その享受は正常です。「志は満たすべからず。楽しみは極むべからず」(志不可満,楽不可極)。楽しみが極まれば悲しみを生じます。時々刻々節制をわきまえて、決して度を越してはなりません。人の大欲は、財(財欲)と色(色欲)です。ですから聖人は私たちに、「財に臨みては苟(いやしく)も得んとすることなかれ」(臨財毋苟得)と教えています。財を目の前にしたら、得るべきかどうかをよく考え、得るべきでないものは求めてはなりません。求めるとどうなるでしょうか?災難がやって来ます。あなたが得るべきものなら、問題はありません。それはあなたの福です。得るべきものでなければ、災難を招きます!良い事ではありません。
--------------------------------------------------------------------------
 【注2】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
--------------------------------------------------------------------------

「臨難毋苟免」,這句話更重要,災難現前,如果是共業不能避免,老實念佛求生淨土,問題不就解決了嗎?對這個世間沒有一絲毫的貪戀,這對的,正確的。所以經典裡面,佛給我們說的、給我們做示現的,都是給我們的啟示,你細心觀察,在這裡面學到很多東西。
難に臨みて苟(いやしく)も免(まぬが)るること毋(なか)れ」(臨難毋苟免)。この言葉は更に重要です。災難が目の前に現れ、もしそれが共業で避けることが出来ないなら、静かに念仏して浄土に生まれることを求めます。それで問題は解決するのではないでしょうか?この世間に対して少しも未練を持たないこと。これで良いのです。正しいのです。ですから経典の中で、仏が私たちに説かれたこと、示現されたことは、すべて私たちへの啓示なのです。あなたは注意深く観察していれば、その中に多くを学ぶことができます。

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境随心転とは何か

2015-06-28 | 【疑問に答える】


什麼是境隨心轉 / 境随心転とは何か
文摘恭錄—2012淨土大經科註 (第二十八集) 2012/11/22 香港佛陀教育協會 檔名:02-040-0028

今天人得財寶生歡喜心,聞佛法不生歡喜心,是什麼?愚痴。業障煩惱習氣很重,雖然天天­聽經,真的沒聽懂,這是真話。為什麼?聽懂了,你會跟釋迦牟尼佛一樣。怎麼一樣?王位­捨棄了,榮華富貴不要了,去當苦行僧。那就是什麼?他真懂了,那個裡頭的樂趣絕對不是­做帝王,絕對不是擁有億億萬財富,不是的,不能比。沒有人知道,人聽不懂,聽懂了那不­是凡人。
今日人は財宝を得ると歓喜心を起こして、仏法を聞いても歓喜心を起こしません。なぜでしょうか?愚痴(ぐち:無知で愚かなこと)です。業障・煩悩の習気(じっけ)が重いので、毎日お経を聞いても、本当には理解できません。これは本当の話です。なぜでしょうか?聞いて理解できれば、あなたは釈迦牟尼仏と同じになります。どう同じなのでしょうか?王位を捨てて、栄華や富は要らなくなり、苦行僧になります。それはどういうことでしょうか?その人は本当に理解したということです。その中の喜びは絶対に帝王になることではありません。絶対に億万の財産を持つことではありません。違います。比べることはできません。知る人はいません。人は聞いても理解しません。聞いて理解できるなら、その人は凡人ではありません。

真的捨掉了,真的不要了,心地恢復到清淨平等覺,對於宇宙萬法沒有一樣不清楚­、不明瞭,到那個時候,三明六通,這是現在人講特異功能,全都現前了。是什麼?是你本­有的,不是外來的。障礙除掉了,本能就現前,這個裡頭真樂。
本当に捨て去り、本当に要らなくなり、心に清浄・平等・覚を取り戻します。宇宙万法について何一つ不明瞭なことはなくなります。その時に至れば、三明六通【注】です。これは今の人が言う超能力(注:中国語で特異功能)です。すべてが現前します。これは何でしょうか?これはあなたが本来具えているものです。外から来たものではありません。障碍が取り除かれると本能が現れて、その中に真の喜びがあります。
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 【注】 三明六通(さんみょうろくつう)・・・・「六通」は六神通(神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通)のこと。そのうち宿命通、天眼通、漏尽通を「三明」という。
参考:http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A
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凡人眼睛裡頭,釋迦牟尼佛過的生活很苦,法身大士眼目當中,釋迦牟尼佛住在極樂世界,­這是怎麼回事情?佛在經上,大小乘經都講,那這就是很重要的開導,「一切法從心想生」­。法身菩薩沒有妄想分別執著,他看這個世界是什麼?極樂世界。我們看這個土地是泥,是­沙、石頭,他們看到是七寶,眾寶所成,這就是境隨心轉。我們看到凡夫這個肉身,他們看­到的是「身有無量相,相有無量好」。所以境是假的,隨著念頭在轉變。你自己迷惑顛倒,­你不能了解別人的境界,就是你的心跟他的心不一樣,他的心能把這個環境變成大自在,變­成無量珍寶莊嚴,那真的是如是。
凡人の目には、釈迦牟尼仏が過ごされた生活はとても苦しいと映ります。法身大士の目には、釈迦牟尼仏は極楽世界に住んでいるように映ります。これはどういうことなのでしょうか?仏は経において、大乗小乗すべての経で説かれています。それならこれこそが重要な開示です。「すべては心から生じる」。法身菩薩に妄想・分別・執著はありません。法身菩薩はこの世界をどう見ているでしょうか?極楽世界です。私たちはこの土地を泥、砂、石と見ていますが、法身菩薩たちは七宝と見ます。たくさんの宝で出来ています(衆宝所成)。これこそが境随心転(境は心に随って転じる)です。私たちが見るのは凡夫の肉身ですが、法身菩薩たちが見るのは「身に無量の相あり、相に無量の好あり」(身有無量相,相有無量好)です。ですから「境」は偽りです。思いに随って変化します。あなた自身が迷っていれば、あなたは人の境界(きょうがい:境地)を理解することはできません。あなたの心と法身菩薩の心は異なります。法身菩薩の心はこの環境を大自在に変えることができます。無量珍宝荘厳に変えることができます。それは真の如是というものです。

所以法身菩薩,放下妄想分別執著的人他看到,每一個放­下的人都看到,不是假的。縱然法身菩薩去度地獄眾生,菩薩看到地獄是什麼?都是七寶莊­嚴,他變的。可是地獄眾生是受盡無量的苦楚,是他的心變現的。你要沒有這個罪業,地獄­在面前你見不到。
ですから法身菩薩、妄想・分別・執著を放下した人は見ることができます。誰でも放下した人には見えます。嘘ではありません。法身菩薩は地獄の衆生を済度しに行きますが、菩薩には地獄がどう見えるのでしょうか?すべて七宝荘厳です。その人が変えたのです。しかし地獄の衆生は無量の苦しみを受け尽くします。これはその人の心が変化して現れたのです。この罪業がなければ、地獄が目の前にあってもあなたには見えません。

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仏法を学ぶ多くの人は外道に変わり、自分でも気がつかない

2015-03-07 | 【疑問に答える】


多少學佛的人變成外道,自己也不知道 / 仏法を学ぶ多くの人は外道に変わり、自分でも気がつかない
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四八五集)2011/7/8 檔名:02-039-0485

「《資持記》云:言外道者,不受佛化,別行邪法。」這是講人,從人事上講。有一類眾生不接受佛的教誨,我們現在講他不信佛,他信別的教,這也算是外道,完全從現實人事上來說,這是外道。《天臺淨名疏》,淨名是《維摩詰經》,「云:法外妄計,斯稱外道」,這又是一個說法。法外,這個法是佛法,與佛法所講的不相應,與佛法所講的相背,這稱外道,這個道是道門。「又《圓覺經集註》曰:心行理外,故名外道。」這是從心性上講的,我們心裡面的思惟,行是言語跟行為,違背真理,這叫外道。以中國傳統文化來說,我們違背五倫,父不父,子不子;違背五常,五常是仁義禮智信,換句話說,不仁不義、無禮、無智、無信,這是外道。違背四維八,四維是禮義廉恥,無禮、無義、無廉、無恥;違背八,八是孝悌忠信仁愛和平,這叫外道。
『資持記』ふ。外道は、仏化(仏の教化)を受けず、邪法を別行するを言ふ。」(『資持記』云:言外道者,不受佛化,別行邪法。)。これは人のことを言っています。人の行いから説いています。ある種の衆生は仏の教誨を受け入れません。今で言うなら、その人は仏を信じません。他の教えを信じています。これも外道に含まれます。完全に現実の人の行いから、これは外道であると説かれています。
『天台浄名疏』、浄名とは『維摩詰経』です。「云ふ。法外を妄計す。斯(こ)れ外道と称す。」(云:法外妄計,斯稱外道)。これはもう一つの言い方です。「法外」、この「法」は仏法です。仏法の説くところと相応せず、仏法の説くところに背いている。これを外道と言います。この「道」とは道門です。「又(また)『円覚経集註』に曰く、心行(しんぎょう)理外(りがい:道理を外れている)、故に外道と名づく。」(又《圓覺經集註》曰:心行理外,故名外道。)。これは心性から説かれたものです。私たちの「心」の中の考え、「行」とは言葉と行為、これらが真理に背くこと。これを外道と言います。中国の伝統文化で言えば、五倫【注1】に背くことです。父親は父親(の役割)をせず、子どもは子ども(の役割)をしません。五常【注2】に背くことです。五常とは仁義礼智信です。言い換えれば、不仁、不義、無礼、無智、不信、これが外道です。四維【注3】・八徳に背くことです。四維は礼儀廉恥です。無礼、不義、無廉、無恥。八徳に背くことです。八徳は孝悌忠信仁愛和平。これ(に背くこと)を外道と言います。
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 【注1】 五倫(ごりん)・・・http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/b7f30775ee46f9683691ce9da2a761c4
 【注2】 五常(ごじょう)・・・http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/daeed54678d44baaefee80e87d83612a
 【注3】 四維(しい)・・・http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/1d84721e1389a8449ff2c2bceb0af00b
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「又《俱舍玄義》云:學乖諦理,隨自妄情,不返內覺,稱為外道」,這是對學佛人講的。我們用錯心,走錯方向,我們所學的是違背了性。這個理是自性,如果能夠明理見性,你沒有學過戒律,你的言行舉止自然合乎戒律。為什麼?戒律是從心性流出來,你見性,沒學過,必然如法,為什麼?這叫道共戒。道明白了,起心動念、言語造作他都在道上。戒律就是道,一條一條寫出來了,你沒有學過,做出來跟他一樣,一點都不會違背。定共戒,定是心地清淨平等,這些規矩沒有學過,他自然吻合。所以諦理重要,不能隨自己的情執,妄情不行。隨順妄情叫不返內覺,不知道回光返照,不知道反求諸己,這一類的都叫外道。所以佛法這個外道範圍非常之廣。自古以來,多少學佛的人,結果是變成外道,他自己也不知道。自己現前不知道,死了以後就知道,為什麼?死了以後他不是跟佛在一起,真正修得好的、有功夫的,他跟魔在一起,跟妖怪在一起,妖魔鬼怪,跟他們在一起。那是哪一類?最著名的修羅、羅剎,他到那裡去了,路走偏了、走歪了。
又(また)『倶舎玄義』に云ふ。学びて諦理(たいり:真実の道理)に乖(そむ)き、自ら妄情に随ひ、内覚に返らざるを、称して外道と為す。」(又『俱舍玄義』云:学乖諦理,随自妄情,不返内覚,称為外道。)。これは仏法を学ぶ人に対して説かれたものです。私たちが心を誤って用いれば、誤った方向に進み、学んだことは性徳に背いています。この「理」は自性(じしょう)【注4】です。もし理を明らかにして見性することができれば、あなたは戒律を学んだことがなくても、言行、振る舞いは自然に戒律に適うようになります。なぜでしょうか?戒律は心性から流露したものだからです。あなたは見性すれば、学んだ事がなくても、必ず法に適います。なぜでしょうか?これを「道共戒」と言います。道を理解すれば、心の起こり、念の動き、言葉や行為はすべて道の上にあります。戒律は正に道であり、一条ずつ書き出したものです。あなたは学んでいなくても、行いはそれと同じになり、少しも背くことはありません。「定共戒」の定(じょう)とは心が清浄・平等であることです。これらの規範を学んだことがなくても、自然に適います。ですから「諦理」は重要です。自分の情執に随ってはなりません。妄情は駄目です。妄情に随うことを「内覚に返らず」(不返内覚)と言います。一時の興奮に過ぎないことを知りません。原因を自分自身に求めて反省することを知りません。この類はすべて外道と言います。ですから仏法の外道の範囲は非常に広いのです。
昔から、仏法を学ぶ多くの人が、結果的に外道に変わり、自分でも気がつきません。自分は現前(の世界)では気がつきません。死んだ後で分かります。なぜでしょうか?死んだ後、その人は仏と一緒にいないからです。本当によく修行して、技量もありながら、その人は魔と一緒にいるのです。妖怪と一緒にいるのです。妖怪や悪魔たちと一緒にいるのです。それはどの類でしょうか?最も著名なのは修羅(しゅら)、羅刹(らせつ)です。その人はそこに行きます。道を偏って歩き、道を誤ったのです。
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 【注4】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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<参考>
ある上人が名聞の為にお堂を建てて、天狗になったこと 2015-03-07
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/a84dc77b1161419d13edd062d2225a48

功徳と福徳 2012-09-23
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/367bcb2b686895cafc8d2309df235c05

功徳と福徳の区別 2013-02-16
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/ca56572351b7c495b6e7ab41c43ef8a3

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諸仏菩薩は絶対に神通を用いて仏事を行わない

2015-02-08 | 【疑問に答える】


諸佛菩薩決定不用神通做佛事 諸仏菩薩は絶対に神通を用いて仏事を行わない
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一八四集)2010/11/3 檔名:02-039-0184

「更加以外聖易信」,這是六道凡夫的習氣,聽說有神、有仙,你就很容易去相信他,「己靈難明」,你看佛在經上常講「一切眾生本來是佛」,我本來是佛,這個很難明瞭,自己也不承認,我是一身罪業的凡夫,我怎麼是佛?所以自己自性難知,相信別的容易。這一句話我們今天讀到此地,得要有高度的警覺,自古以來,不管是中國、外國,對於靈異都有很容易相信這種趨向,這是好還是不好?很難說。如果真的是聖賢菩薩,你易信,那是你有善根;如果是妖魔鬼怪,是假的、冒充的,那你就上大當。
更加以外聖易信」(更に加へて外聖を以て易く信ず)。これは六道凡夫の習気(じっけ)です。神がいる、仙人がいると聞くと、簡単に信じてしまいます。「己霊難明」(己霊(これい)を明らかにし難し)。仏は経において「一切衆生本来是仏」(いっさいしゅじょうほんらいこれほとけ)と説かれています。自分は本来仏です。これを明らかにするのは難しく、自分でも認められません。自分は罪業だらけの凡夫なのに、どうして仏なのでしょうか?ですから自分の自性【注】を知ることは難しく、他のものを信じるのは容易なのです。今日はこの一句まで読みました。しっかりと注意しなければなりません。昔から、中国だけでなく外国でも、霊異に対して信じやすい傾向があります。これは良い事なのでしょうか?何とも言えません。もし真の聖賢・菩薩であるなら、容易に信じられるのは、あなたに善根があるからです。もし妖怪や悪魔、偽物であれば、あなたは騙されています。
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 【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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所以佛在大乘經教裡講得很清楚,諸佛菩薩跟阿羅漢決定不用神通做佛事,為什麼?如果你用神通來接引眾生,妖魔鬼怪都有這個能力,佛魔就不能夠辨別,魔會變成佛菩薩,變假的。所以佛不許用神通,因為什麼?阿羅漢以上都有神通,不用。用什麼?講經教學。這個魔不行,魔不會,魔會變把戲、變魔術,你叫他講出一番大道理,他講不出來,這個要知道。所以釋迦牟尼佛一生在世,沒有顯神通這個事情,三十歲開悟了,悟了就是一切具足,智慧、神通、道力全具足,他講學,七十九歲過世,講經教學四十九年。他後世的學生有沒有現神通這些事情?也有,不多。
ですから仏は大乗の経教ではっきりと説かれています。諸仏菩薩と阿羅漢は、絶対に神通を用いて仏事を行いません。なぜでしょうか?もしあなたが神通を用いて衆生を引きつけるなら、妖怪や悪魔にもその能力があるので、仏と悪魔の区別がつかなくなります。悪魔が仏菩薩に成り替わります。ですから仏は神通を用いることを許しません。なぜでしょうか?阿羅漢以上は皆神通がありますが、用いません。何を用いるのでしょうか?講経、教学です。これは悪魔では駄目です。悪魔には出来ません。悪魔では曲芸に変わり、魔術に変わります。あなたが大道理を語らせても、語ることはできません。このことは知っておかなければなりません。ですから釈迦牟尼仏ご在世の一生では、神通を現すことはありませんでした。三十歳で開悟しました。悟れば一切を具足します。智慧、神通、道力、すべてが具わります。彼は講学をしました。七十九歳で亡くなりました。講経、教学は四十九年です。彼の後世の学生は神通を現したでしょうか?ありますが、多くはありません。

《高僧傳》裡面有一部書叫《神僧傳》,這一部書裡面記載的,就是歷代這些出家人,也有在家居士顯神通的,在特殊條件之下可以。這種特殊,影響力很大的國王大臣、長者居士,他們有很大影響力的,你不現神通他不相信,一示現神通他相信了,他來護持正法,影響力就非常大,這個可以。一般沒有影響力的,你在他面前現神通那就錯了,這是佛不許可的。在特殊因緣,這個人過去生中久修善根,現在來到人間,一時迷惑,度他一個人,讓他回頭,這也是個緣分,也可以。別人不知道,只有他一個人知道,多半這種人在一生當中決定成就,不是開悟,就是念佛往生;換句話說,他在六道輪迴這一生是最後的一生。不是像這種特殊狀況之下,決定不許可用神通。
『高僧伝』の中には『神僧伝』と呼ばれる書があります。この書物の中に記載されているのは、正に歴代のそれらの出家人です。在家の居士で神通を現した人もいます。特殊な条件の下では良いのです。特殊とは、影響力の大きな国王・大臣、長者の居士、彼らには大きな影響力があります。あなたが神通を見せなければその人は信じません。一たび神通を示現すればその人は信じます。その人は正法を護持します。影響力は非常に大きなもので、これは良いのです。一般の影響力のない人には、その人の前で神通を見せるのは間違いです。これは仏が許しません。特殊な因縁においては、その人が過去生で久しく善根を修めていて、今人間界に来て一時迷っているなら、その人一人を救います。その人を改心させます。これもご縁ですから良いのです。他の人は知りません。その人一人だけが知っています。大半のこのような人は一生で必ず成就します。開悟ではありません。念仏して往生します。言い換えれば、その人は六道輪廻において、この一生が最後の一生です。このような特殊な状況でなければ、絶対に神通を用いることは許されません。

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