未来の学校(2050年ベース)を提案してみたいと思います。
<<注意事項>>
1)暫定版なので今後、追記・修正をする可能性があります。
2)未来予測の部分と、著者(福島)が理想とするところが混在します。
3)実現可能性については、未知です。あくまで福島個人のデザインとしてご参照ください。
<<未来の学校(2050ベース)>>
☆1 そもそも”教育”や”学校”は何のために存在するか?
私はそろそろ「教育」という用語から「学び」という語に全面的に置き換えた方が良いと思っています。教育にはどうも教え込む、育成するという上から下へのニュアンスが感じられますが、学びはもっとフラットなものではないかと考えるからです。人が学ぶということはなぜ、何のためかを、自分なりにまずは明らかにしておきたいと思います。これがぶれていると目的に合致した理想の学校はデザインしにくいからです。
人が学ぶ目的としては
1)幸せな未来を享受する、あるいは自ら掴むため(個人、組織、人類全体)
2)人類の繁栄とともに地球全体の生態系を持続していくため。共存共栄のため。
3)人だからできる学びという行為自体が目的、知見を深める知的欲求を満たすため。
大きくは、このあたりだろうと考えています。
地球全体がつながっていてグローバルな活動が当たり前の未来では、1国の繁栄とか1企業の繁栄のための教育という観点では持たないであろうと考えます。
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☆2 学校イメージ(校舎を備え、固定した教師陣がいるという図式ではない学びの多様性)
おそらく、現在にも増して多様性や柔軟性が進化していると考えられます。校舎や組織としての学校というものがある場合もあれば持たない場合も考えられます。多様な選択肢の中から学びの形態を選べるようになっています。しかし、中には淘汰され、短い寿命の教育システムもありますので、無限の選択肢からの選択というよりも、いくつかの形に集約されているかもしれません。
1)人が生涯学び続けるということが世界の常識になっている。世界あるいは日本共通の優れた教育コンテンツ(あらゆる動画や書籍・資料など)をいつでもだれでもどこからでも瞬時にアクセスし、共有できるような仕組みがある。教育の機会均等は今まで以上に保証されており、人々は、自分の成長やライフプランに合わせた教育コンテンツをキャリアに合わせて費用をかけずに利用することができる。世界の津々浦々まで、知識取得においてはハードルが非常に低い状態が実現している。個々人のオーダーメードの学びが実現している。必要にせまれらたとき、何度でもいつでも学べるし、学びなおせる。
※「大学を出たら、もう一生学ぶことはない」という学習観からの脱却
2)地域などにも多種多様な学び場が用意されており、ローカルなマッチングシステムにより学ぶコンテンツを提供する側と提供される側がうまくマッチされ、ともに学びあえる世界が広がっている。従来の学校という枠組みや教科・科目を越えて多様な形態の学び場があり、個人が自立して選択し学ぶことが可能な環境が整っている。特に地域の特徴や自然環境、人の資源を活用した多彩な学習・実習プログラムが用意されている。
※「教育は学校や塾がするもの」という価値観からの脱却
3)ICTを活用した教育は幼少期より当たり前のように使われている。人々はパーソナライズされた機器で自由な時間に自由な学びの機会が提供されている。さらにそれらの機器を使ったスムーズで効率的な学びができるようなガイダンスの仕組みも確立されている。学びに必要な標準時間は提示されているが、学ぶペースも個人の学習成長に合わせる方式になっている。
※「すべてが一律の学習内容を、学年進行で学ぶ」というスタイルからの脱却
4)人間の精神や肉体の成長に関する科学的理解が進んでおり、どの年齢層で何を習得させることが脳やからだの発達にベストであるかが研究され、推奨される教育内容の目安が示されている。しかし、個人差もあるため、それらの目安を参考にしながら、あくまで保護者や本人の判断で選択する。(過度に目に負担がかからないようにする工夫、幼少期には手触りは肌触りや視聴覚の刺激が適性であるアナログ教材が使われていること、語学習得の最適年齢などの設定が提示されていることなど)
※「感覚や慣習によって決められていた発達段階と学習内容の関連」の見直し
5)幼少期(およそ2~6歳程度)においては、自立的学習・自己のマネジメント能力の育成に力点が置かれる。これは以後の学びの基礎となっていく(自分で好きなもの嫌いなものを識別する、必要な学びの内容をある自立して設計する、実行する、振り返る、他者との比較による相互評価や自己観察・自己評価ができる、自分の強み、弱みのつかみ方などを知る、人の話を聴く、他人と葛藤が起きた時の解決方法を知り実践できる、コミュニケーションの基本ができているなど)
※「学習コンテンツに入る前に、学び方の方法や自立して学ぶ方策そのものを習得すること」の重視
6)ハンディキャップがある学び手にとっては、必要なツールが提供されている。視力に対してメガネ、聴力に対して補聴器が利用できるように、学習者当人が不得意とする部分を補わないと学習修得が進まない場合は、必要・必然なツールがいつでも自由に使える環境が提供されていたり、学習アドバイザー、サポーターが介在してサポートしていく。
※「より進んだノーマライゼーション」の導入
7)教える、教わる側という図式ではなく、学び合いが学習の基本となる。教師は学習全般の理論をマスターし、学び手をいざなうコーディネーターやコーチ、メンターとしての役割をなす。集団での学び合いを促進するファシリテーター役でもある。年長者、学習が進んだ者がそのリソースを学習が遅れている人に提供するといった行為は学習の常識となっている。
※「教育とは、未熟な生徒の空の器に知識を注入する」という概念からの脱却
8)職業選択に関わるところでは、企業側は、採用に必要なスキルやコンピテンシー、すなわち、どの科目のどのグレードの修得(今でいうところの専門学校や大学での履修科目)が必要とされるかが提示されている。採用を申し込む側は、当該学習科目の修得証明を提示し、面談等により選考される。企業が直接、教科プログラムをオンライン・オフラインで提供する形態の学校も存在する。
学習評価はあくまで、その学習者の持つ能力の証であり、人の序列などとは関係がなくなる。
※「学校ランキングによる序列化」は撤廃されている。
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☆3 校舎や組織として学校や教師の意義
上記2は概念的なものでした。今の学校のように校舎を持ち、組織だって学習する場というものが、2050年に存在するのでしょうか? おそらく存在はしていますが、固定カリキュラム、固定学年、固定教師といった形式は崩れてくる可能性を感じます。小学校年齢でいながら大学並みの講義を受ける人、大人年齢でも分数計算など小学校内容でつまづいている人が、シームレスに自分の理解度に応じて、必要な学びが受けられるといった自由さが担保されています。
学校が施設として存在するとしたら、その意義は、
1)一人での学びを超えて、さらに学習を促進する集団での学習効果。ライブで学ぶことの意義が活かされる場
2)芸術・体育・実技系科目の履修場所。家庭や地域の施設では学べない実習設備・道具などを持っている施設
3)集団での相互理解やコミュニケーション、協働を学ぶ場
教師の意義は、
1)学習ガイド・アドバイザー役。何をどう学んでいくかが多様になってくるので、何を学ぶかの設計部分をデザインしたり、チェックしてアドバイスしてくれる。また就職や個人の興味・関心に関連して、履修すべき学びの概要や体系をアドバイスしてくれる。
2)学習コンテンツのクリエーター役。専門知識を持ち教育効果の高いプレゼン力を発揮し、教材コンテンツ(動画や資料)の作り手。
3)コーチやメンター役。学びのペースメーカーとなって学習者のメンターやコーチとして立つ。
4)ファシリテーター役。集団での学びを設計したり促進してくれる役割。
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☆4 義務教育 最低限身につけなければならない学力の保証
学習者が自ら自分で必要な学びをコーディネートして選択学習するとなると、好きなもの、得意なものしか履修しないのではないかという懸念が予想される。(好きなものだけ食べていると成長という点で不健全であるという説)
しかしながら、これらの履修や学習を進めていくうちに、必要な科学的社会的知識、語学、コミュニケーション能力などは、自ら気づいていくはずであるし、避けて通れないものとなってくる。したがって、これらの基礎コースとしての義務教育のような学習体系に対するニーズは相変わらずあるであろう。
<<注意事項>>
1)暫定版なので今後、追記・修正をする可能性があります。
2)未来予測の部分と、著者(福島)が理想とするところが混在します。
3)実現可能性については、未知です。あくまで福島個人のデザインとしてご参照ください。
<<未来の学校(2050ベース)>>
☆1 そもそも”教育”や”学校”は何のために存在するか?
私はそろそろ「教育」という用語から「学び」という語に全面的に置き換えた方が良いと思っています。教育にはどうも教え込む、育成するという上から下へのニュアンスが感じられますが、学びはもっとフラットなものではないかと考えるからです。人が学ぶということはなぜ、何のためかを、自分なりにまずは明らかにしておきたいと思います。これがぶれていると目的に合致した理想の学校はデザインしにくいからです。
人が学ぶ目的としては
1)幸せな未来を享受する、あるいは自ら掴むため(個人、組織、人類全体)
2)人類の繁栄とともに地球全体の生態系を持続していくため。共存共栄のため。
3)人だからできる学びという行為自体が目的、知見を深める知的欲求を満たすため。
大きくは、このあたりだろうと考えています。
地球全体がつながっていてグローバルな活動が当たり前の未来では、1国の繁栄とか1企業の繁栄のための教育という観点では持たないであろうと考えます。
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☆2 学校イメージ(校舎を備え、固定した教師陣がいるという図式ではない学びの多様性)
おそらく、現在にも増して多様性や柔軟性が進化していると考えられます。校舎や組織としての学校というものがある場合もあれば持たない場合も考えられます。多様な選択肢の中から学びの形態を選べるようになっています。しかし、中には淘汰され、短い寿命の教育システムもありますので、無限の選択肢からの選択というよりも、いくつかの形に集約されているかもしれません。
1)人が生涯学び続けるということが世界の常識になっている。世界あるいは日本共通の優れた教育コンテンツ(あらゆる動画や書籍・資料など)をいつでもだれでもどこからでも瞬時にアクセスし、共有できるような仕組みがある。教育の機会均等は今まで以上に保証されており、人々は、自分の成長やライフプランに合わせた教育コンテンツをキャリアに合わせて費用をかけずに利用することができる。世界の津々浦々まで、知識取得においてはハードルが非常に低い状態が実現している。個々人のオーダーメードの学びが実現している。必要にせまれらたとき、何度でもいつでも学べるし、学びなおせる。
※「大学を出たら、もう一生学ぶことはない」という学習観からの脱却
2)地域などにも多種多様な学び場が用意されており、ローカルなマッチングシステムにより学ぶコンテンツを提供する側と提供される側がうまくマッチされ、ともに学びあえる世界が広がっている。従来の学校という枠組みや教科・科目を越えて多様な形態の学び場があり、個人が自立して選択し学ぶことが可能な環境が整っている。特に地域の特徴や自然環境、人の資源を活用した多彩な学習・実習プログラムが用意されている。
※「教育は学校や塾がするもの」という価値観からの脱却
3)ICTを活用した教育は幼少期より当たり前のように使われている。人々はパーソナライズされた機器で自由な時間に自由な学びの機会が提供されている。さらにそれらの機器を使ったスムーズで効率的な学びができるようなガイダンスの仕組みも確立されている。学びに必要な標準時間は提示されているが、学ぶペースも個人の学習成長に合わせる方式になっている。
※「すべてが一律の学習内容を、学年進行で学ぶ」というスタイルからの脱却
4)人間の精神や肉体の成長に関する科学的理解が進んでおり、どの年齢層で何を習得させることが脳やからだの発達にベストであるかが研究され、推奨される教育内容の目安が示されている。しかし、個人差もあるため、それらの目安を参考にしながら、あくまで保護者や本人の判断で選択する。(過度に目に負担がかからないようにする工夫、幼少期には手触りは肌触りや視聴覚の刺激が適性であるアナログ教材が使われていること、語学習得の最適年齢などの設定が提示されていることなど)
※「感覚や慣習によって決められていた発達段階と学習内容の関連」の見直し
5)幼少期(およそ2~6歳程度)においては、自立的学習・自己のマネジメント能力の育成に力点が置かれる。これは以後の学びの基礎となっていく(自分で好きなもの嫌いなものを識別する、必要な学びの内容をある自立して設計する、実行する、振り返る、他者との比較による相互評価や自己観察・自己評価ができる、自分の強み、弱みのつかみ方などを知る、人の話を聴く、他人と葛藤が起きた時の解決方法を知り実践できる、コミュニケーションの基本ができているなど)
※「学習コンテンツに入る前に、学び方の方法や自立して学ぶ方策そのものを習得すること」の重視
6)ハンディキャップがある学び手にとっては、必要なツールが提供されている。視力に対してメガネ、聴力に対して補聴器が利用できるように、学習者当人が不得意とする部分を補わないと学習修得が進まない場合は、必要・必然なツールがいつでも自由に使える環境が提供されていたり、学習アドバイザー、サポーターが介在してサポートしていく。
※「より進んだノーマライゼーション」の導入
7)教える、教わる側という図式ではなく、学び合いが学習の基本となる。教師は学習全般の理論をマスターし、学び手をいざなうコーディネーターやコーチ、メンターとしての役割をなす。集団での学び合いを促進するファシリテーター役でもある。年長者、学習が進んだ者がそのリソースを学習が遅れている人に提供するといった行為は学習の常識となっている。
※「教育とは、未熟な生徒の空の器に知識を注入する」という概念からの脱却
8)職業選択に関わるところでは、企業側は、採用に必要なスキルやコンピテンシー、すなわち、どの科目のどのグレードの修得(今でいうところの専門学校や大学での履修科目)が必要とされるかが提示されている。採用を申し込む側は、当該学習科目の修得証明を提示し、面談等により選考される。企業が直接、教科プログラムをオンライン・オフラインで提供する形態の学校も存在する。
学習評価はあくまで、その学習者の持つ能力の証であり、人の序列などとは関係がなくなる。
※「学校ランキングによる序列化」は撤廃されている。
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☆3 校舎や組織として学校や教師の意義
上記2は概念的なものでした。今の学校のように校舎を持ち、組織だって学習する場というものが、2050年に存在するのでしょうか? おそらく存在はしていますが、固定カリキュラム、固定学年、固定教師といった形式は崩れてくる可能性を感じます。小学校年齢でいながら大学並みの講義を受ける人、大人年齢でも分数計算など小学校内容でつまづいている人が、シームレスに自分の理解度に応じて、必要な学びが受けられるといった自由さが担保されています。
学校が施設として存在するとしたら、その意義は、
1)一人での学びを超えて、さらに学習を促進する集団での学習効果。ライブで学ぶことの意義が活かされる場
2)芸術・体育・実技系科目の履修場所。家庭や地域の施設では学べない実習設備・道具などを持っている施設
3)集団での相互理解やコミュニケーション、協働を学ぶ場
教師の意義は、
1)学習ガイド・アドバイザー役。何をどう学んでいくかが多様になってくるので、何を学ぶかの設計部分をデザインしたり、チェックしてアドバイスしてくれる。また就職や個人の興味・関心に関連して、履修すべき学びの概要や体系をアドバイスしてくれる。
2)学習コンテンツのクリエーター役。専門知識を持ち教育効果の高いプレゼン力を発揮し、教材コンテンツ(動画や資料)の作り手。
3)コーチやメンター役。学びのペースメーカーとなって学習者のメンターやコーチとして立つ。
4)ファシリテーター役。集団での学びを設計したり促進してくれる役割。
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☆4 義務教育 最低限身につけなければならない学力の保証
学習者が自ら自分で必要な学びをコーディネートして選択学習するとなると、好きなもの、得意なものしか履修しないのではないかという懸念が予想される。(好きなものだけ食べていると成長という点で不健全であるという説)
しかしながら、これらの履修や学習を進めていくうちに、必要な科学的社会的知識、語学、コミュニケーション能力などは、自ら気づいていくはずであるし、避けて通れないものとなってくる。したがって、これらの基礎コースとしての義務教育のような学習体系に対するニーズは相変わらずあるであろう。