<美濃国国分寺跡>
歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第3日目(6);青墓宿と国分寺跡
(五十三次洛遊会)
2012年6月22日(金)~24日(日)
2012年6月24日(日) (つづき)
<青墓宿・美濃国分寺跡地図>
※再掲
<史跡の里青墓町>
■青墓宿の由来
資料7によると,「青墓宿(あおはかのしゅく)は、現在の岐阜県大垣市青墓にあったとされている古代・中世の東山道の宿駅。不破関の東側にある宿駅で、古くから遊女や傀儡子にまつわる伝承が存在していた(『梁塵秘抄』)。『吾妻鏡』建久元年10月29日条には上洛途中の源頼朝が、ここで宿泊して現地の長者・大炊とその娘を召したこと、合わせて頼朝の祖父源為義が大炊の姉を妾としていたこと、頼朝の父・源義朝が東国と京都の往復の際に大炊の家に宿泊したことが記されている。河内源氏 と青墓宿との関係の深さから『保元物語』や『平治物語』にも青墓宿が登場する。戦国時代に浅井氏の侵攻によって荒廃したと言われているが、詳細は不明である。」
この記事から推察すると,青墓宿は,私たちがテーマにして歩いている中山道六十九宿とは異なる宿ということになる.
■粉糠山古墳
東海道本線のガードを潜ってから,ほんの1~2分歩いたところに「史跡の里青墓町∴古墳粉糠山」と書いてある古びた木杭が立っている.
「粉糠山・・? 何だろう・・・」
気にはなるが,帰宅後調べることにして,ここは通過する.
帰宅後インターネットで調べると,資料6に「大垣市青墓町、県道216号線昼飯町交差点からJR東海道本線をくぐって、50mほど西に行った右手(北)の集落内にあります。墳丘全体が共同墓地になっています。」という記述がある.
私たちは,残念ながら,この古墳は見ないまま通過したことになる.
<青墓町案内杭>
■延長寺
13時13分,延長寺に到着する.立派な本堂が建っている.
手許の資料では,この寺が浄土真宗本願寺派の寺という以外のことは全く分からない・・・が,お参りを兼ねて,境内で立ち休憩を取る.
<延長寺本堂>
■白髭神社
13時21分,延長寺の隣にある白髭神社参道入口から白髭神社の写真を撮る.ここには立ち寄らずに通過する.
手許の資料では白髭神社の由来は良く分からない.
<白髭神社>
■照手姫の水汲み井戸
辺りを見回すと広々とした田んぼが一面に広がっている.その中に集落が点在している.
地図を見ると,中山道から,進行方向左手(南側)に少し離れたところに照手姫井戸があるようだ.折角だから,見学しようといういうことになる.
地図を頼りに,多分この辺りだろうと思われる角で左折して集落の中に入る.ところが集落には地図にない細かい道があって,たちまちのうちに自分たちの位置が分からなくなる.
何度か迷うが,13時28分,照手姫井戸に到着する.井戸に脇に案内板が設置されている.この案内板の説明は少々長いので,要約すると次のようなことが書かれている.
「照手姫は相模郡代の娘で美貌だった.そこへ常陸国司小栗判官正清が強引に婿入りした.悲嘆した照手姫は流浪の旅に出たが最後に青墓の長者に買われ,接客を強要されるが拒む.そこで長者は無理難題を次々に言い付けるが,千手観音菩薩の助けで成し遂げる.一方,小栗判官正清は美濃国役人に任命される.その後,照手姫は正清の妻になり幸せに暮らしたという.この井戸は照手姫が籠で水を汲んだと伝えられる・・」
そういえば,昔,どこかで聞いたような話である.
<照手姫の水汲み井戸>
■円願寺
照手姫の水汲み井戸から,中山道に戻る.
13時42分,街道から少し離れたところにある円願寺を横目に見ながら,西へ向かう.円願寺の由来については,全く調べていない.
<円願寺>
■国分寺道道標
地図を眺めながら西へ進み,青野町の集落に入る.中山道を右折して300メートルほど北に行けば美濃国国分寺跡があるはずである.
「折角だから,国分寺跡を是非見ていこう・・」
と提案する.
リーダーお二人が同意する.そこで,13時43分,「国分寺道・薬師如来・・」と刻字された道標のある三叉路を右折する.
<国分寺道道標>
■教覚寺
三叉路を右折してすぐ左手(西側)に教覚寺がある.
今日も日射しが強くて,少し蒸し暑い.多少バテ気味の人も居るので,バテ気味の方々には教覚寺の日陰で待ってもらうことにして,希望者だけ国分寺跡を見物することにする.結局,何時ものメンバー数名が寺の日陰で待つことになる.
資料4(p.56)によると,この寺の境内に稲葉正休碑があるようだが,見学は省略する.
資料8によれば,「稲葉 正休(いなば まさやす)は、江戸時代前期の旗本・大名・若年寄。美濃青野藩主。旗本・稲葉正吉の長男。大老・堀田正俊は従甥に当たる。美濃と縁の深い稲葉氏の一族である。旗本・稲葉正吉 ... 突如正俊を刺殺した。正休自身も同席していた老中大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らにメッタ斬りにされて殺され、稲葉家は改易処分となった。享年45。」
<教覚寺>
<美濃国分寺跡歴史公園>
■しわすの里
13時47分,国分寺跡に到着する.国分寺跡は広大な原っぱである.片隅に「しわすの里」と刻字された石柱が立っている.
広々とした芝生が広がっている.私たちは、広大な広場の中を適当に歩き回る.私たち以外の訪問客は,ほんの数名しか見当たらない.
なぜ,ここを「しわすの里」というのか,行きずりの私には良く分からない.
<しわすの里>
■国分寺の伽藍配置
広い敷地に入ると,「美濃国分寺跡附窯跡」と題した案内板が設置されている.そこには美濃国分寺に関する詳細な説明が記述されているが,ここで到底全部を紹介することはできないが,発掘調査結果の説明が書かれている.
発掘調査の結果,下図のような伽藍の配置が確認されたという.
<美濃国分寺の伽藍配置>
■南門復元図
案内板の記事によると,正門の南門は基壇の大きさ東西19.9メートル,南北12メートル,東西の中央部から幅6.2メートルの築地塀が連なっていた.案内板の復元図真だけを転載する(下図).
なお,この説明によると,ここには国分寺建立以前から,かなり大規模な寺院が存在していたようである.
<南門復元図>
■現在の国分寺
国分寺跡の先に小高い山が見えている.その山裾に寺院がある.私たちが居る場所から,この寺院まで,かなり距離があるので,残念ながら見学に行く時間はない.
地図で確かめると,遠くに見えている寺院も国分寺というらしい.
<青墓町の国分寺>
<垂井を目指して>
■常夜灯と青野一里塚
13時51分,国分寺跡から往路を引き返す.
教覚寺で待っている仲間達と合流して,再び,中山道を歩き出す.
13時58分,常夜灯に到着する.この常夜灯の傍らに青野一里塚跡を示す案内杭が立っている.ここは江戸日本橋から111里目の一里塚.後,京の三条大橋まで25里に迫っている.
<常夜灯> <青野一里塚>
■平御坊道標
14時08分,大きな石でできた「平御坊道標」に到着する.
平御坊って何?
帰宅後,インターネットで調べてみたが,今のところ権威ある解説記事は探せないままになっている.
<平御坊道道標>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://kofuntokaare.tonosama.jp/page056.html
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%A2%93%E5%AE%BF
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/fa0e64136f6cd3e007e8e30536679140
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c303cd54b29f3ef2afaa23420bb7430a
今回から「断り書」は省略しますが,記事の正確さは保証できません.
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