<赤坂宿を行く>
歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第3日目(4);赤坂宿(1)
(五十三次洛遊会)
2012年6月22日(金)~24日(日)
2012年6月24日(日) (つづき)
<赤坂・青野周辺地図>
<赤坂大橋を渡る>
■多賀神社
12時27分,昼食を終えた私たちは,ソバ屋を出発する.そして,12時33分,多賀神社の前を通過する.
<多賀神社>
■中山道道標
何処と言って特徴のない平凡な自動車道を西に歩く.頭上に設置されてい中山道の案内板を見付けて,自分たちが間違いなく歩いていることを確認する.
資料6(p.56)によると,この辺りに,刀鍛冶「関の孫六」が住んでいたという.
資料6には,関の孫六(本名孫六兼元)について以下のように紹介している「孫六兼元(まごろくかねもと)は、室町後期に美濃国で活動した刀工である。兼元の名は室町時代から江戸時代を経て現代にまで続いているが、そのうち2代目を特に「孫六兼元」と呼ぶ。尚、孫六は、兼元家の屋号である。後代兼元には「まこ六」などとかな文字で銘を切るものもある。古刀最上作にして最上大業物。」
<中山道道標>
■赤坂大橋
12時37分,杭瀬川に架かる赤坂大橋を渡る.
街の中心街に入ったらしくて,住宅が軒を連ねている.
<赤坂大橋>
■赤い欄干の橋
12時40分,赤い欄干の短い橋を渡る.橋の下を流れる小川は旧杭瀬川である.
資料4(p.56)によると,旧杭瀬川は,今でこそ小川になってしまったが,昔は川幅のおおきな川であったという.
<旧杭瀬川の赤い欄干の橋を渡る>
<赤坂港跡>
■川燈台
赤い欄干の橋を渡るとすぐに赤坂湊の川燈台がある.写真右手が旧杭瀬川に架かる赤い橋である.
資料4(P.56)によると,赤坂湊の最盛期には川舟350艘が尾張名古屋間を往復していたという.
資料1(p.160)には,「(杭瀬川は)ガマ水を水源とするために水量が一定していた」という説明がある.でも,ガマ水って一体何だろう?
私には良く分からないが,多分,水利施設の一種をガマと言うのだろう.
<赤坂湊の川燈台>
■赤坂港跡のモダンな建物
川燈台に隣接して,バス停赤坂港の案内板がある.その側にモダンな建物がある.建物の周囲が公園風に整備されている.
この建物はどうやら資料館のようである.立ち寄る時間もないので資料館はパス.
<赤坂湊の資料館>
<廃線跡に沿って>
■浅間神社
12時41分,浅間神社の前を通過する.立派な鳥居が眼を引く.
<浅間神社>
■赤坂本町駅跡
12時43分,踏切を渡る.踏切の右手に「赤坂本町駅跡」と書いてある案内杭が立っている.
元鉄道マニアの私には,こういうのに訳もなく興味がある.帰宅後調べると,どうやら,私たちが渡った線路は西濃鉄道のものらしい.資料7には.「西濃鉄道は、現在旅客扱いを行わない貨物専業鉄道となっているが、戦前・戦中にあたる1930年 - 1945年の間は鉄道省初のガソリン気動車を用いて、東海道本線支線(大垣駅 - 美濃赤坂駅)に乗り入れる旅客列車を運行していた。」とのこと.これで良く分かった.
<西濃鉄道の踏切>
<赤坂本町駅跡>
<赤坂本陣公園>
■本陣跡
12時44分,赤坂宿本陣跡に到着する.
資料8によれば,本陣跡一体は赤坂本陣公園として整備されている.公園入口に誰かの像が安置されている.
「誰だろう?」
私は興味があったが,そんなことに一向関心を示さない一行は,ドンドン構わずに先へ行ってしまう.残念.
帰宅後,インターネットで調べてみる.すると資料8にこんな記事が掲載されていた.「
山道69次の宿場町の一つで江戸時代大名が参勤交代など通行の途次宿泊した高級旅館であった赤坂本陣公園。現在は建物も無いが新しく幕末の青年の志士所郁太郎の国家社会に尽くした功績を顕彰して銅像が建立された。また、江戸末期の文久元年(1861)公武合体の名目で、第14代将軍徳川家茂と婚儀が成立し皇女和宮が降嫁された際宿泊された赤坂本陣跡に和宮をしのぶ顕彰碑がある。」
つまり,写真左手の銅像は志士所郁太郎という人物だった.
<本陣跡>
<谷汲巡礼街道>
■谷汲巡礼街道分岐
12時45分,谷汲巡礼街道分岐に立つ道標に到着する.公園風に整備された一隅に道標が立っているが,例によって道標は崩し字で書かれているので,私には全く読めない.
近くに赤坂宿の案内板が立っている.そこに谷汲街道の説明も書かれている.
<谷汲巡礼街道道標>
■街の中心の四つ角
この案内板の説明によると,谷汲巡礼街道との四ツ辻は,北へ向かうと谷汲巡礼街道,南へ向かうと伊勢に通じる養老街道の起点である.そして,町筋には本陣,脇本陣,旅籠17軒,商家などが軒を連ねていたという.
<赤坂宿の案内板>
■脇本陣跡
12時47分,脇本陣跡を通過する.
傍らに立っている案内板によると,飯沼家代々が脇本陣役を務めていたという.飯沼家は,同時に問屋,年寄役も兼務していた.明治維新後は,現在まで旅館として営んでいるという.
家の前に大垣市景観遺産のプレートが埋め込まれている.
<脇本陣跡
<大垣市景観遺産のプレート>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%85%AD%E5%85%BC%E5%85%83
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%94%BA%E9%A7%85
資料8;http://www.akasaka-ogaki.jp/kankou/kan_18.html
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/fa0e64136f6cd3e007e8e30536679140
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c9f0bd576d077944b1f3dba36f39e126
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