<赤坂宿の概要>
歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第3日目(5);赤坂宿(2)
(五十三次洛遊会)
2012年6月22日(金)~24日(日)
2012年6月24日(日) (つづき)
<赤坂宿・青野地区地図>
<赤坂宿>
■嫁入り普請
12時48分,嫁入り普請で作られた家をほんの少しだけ覗く.ここでも先頭がドンドン先へ行ってしまうので,追いかけるのが大変である.
傍らにある説明文によると,「1861年(文久元年)の和宮降嫁のとき,大行列一行が宿泊したが,赤坂宿では,そのために54軒もの家が建て直された.これを「お嫁入り普請」という.短期間での建築工事であったため,街道沿いの表側だけ二階建てという珍しい家であり,現在も若干残っている.」
<嫁入り普請の家>
■所郁太生誕地
12時51分,「所郁太郎生誕地」の案内杭の前を通過する.私は浅学にして,所郁太郎について何も知らないが,有名な人なんだろうなと思いながら写真を撮る.
後日調べた資料6には,所郁太郎は「美濃国赤坂に生まれ、同国大野郡の医者所伊織の養子となった。初め、青木松軒や京の安藤桂洲に学ぶ。このころ、同じく美濃出身の梁川星巌と親交を結んだ。万延元年(1860年)には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学んだ。ついで京に医者として開業して、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。文久3年(1863年)には長州藩邸内の医院総督となり、八月十八日の政変では長州に下向している。元治元年(1864年)、長州藩領の吉敷郡に開業し、同年9月には刺客に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多(後の井上馨)の治療にあたり、井上の一命を救う(以下略).」という説明がある.
<所郁太郎生誕地>
■虚空蔵菩薩
所郁太郎生誕地のすぐ隣の路地の突き当たりに立派な鳥居が見えている.時間の都合もあって,寄り道している暇はないが,路地の入口に「こくぞうぼさつ」と書いてある案内板がある.
路地奥の鳥居の辺りが虚空蔵菩薩に違いないなと思いながら通過する.
<虚空蔵菩薩>
■赤坂宿御使者場跡・兜塚
12時55分,赤坂宿御使者場跡に到着する.
御使者場跡って何?
私には分からない.
帰宅後,インターネットで色々調べてみたが,権威ある情報源と思われるサイトからは,殆ど何の情報も得られない.
公園風に整備された石段の上に兜塚の案内板が立っている.この案内板の記事によると,この小さな丘は兜塚と呼ばれる古墳のようである.1600年9月14日,「関ヶ原の決戦の前日,杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍,中村隊武将野一色頼母を葬り,その鎧兜を埋めたと伝えられている.以後,この古墳を兜塚と呼ばれている。」
<御使者場跡と兜塚>
<兜松の説明文>
■美濃電気軌道廃線跡
12時55分,廃線になった美濃鉄道の踏切を渡る.
元鉄道マニアの私は,美濃鉄道がどうしても気になる.
資料7によると,「美濃電気軌道(みのでんききどう)は、かつて岐阜県一帯に鉄道路線・路面電車(軌道)路線を有していた会社。通称は美濃電。後の名鉄名古屋本線笠松駅以北と、岐阜市内線・揖斐線・高富線・鏡島線・美濃町線(いずれも、昭和30年代から2005年(平成17年)までに廃止)を運営したが、1930年(昭和5年)に岐阜進出を図る(旧)名古屋鉄道(なお、この後一旦名岐鉄道へ改称し、1935年(昭和10年)に愛知電気鉄道との合併で、現在の名古屋鉄道になる)へ合併された。」とややこしい.
夏草に覆われた軌道が残されてる.何となく哀れを感じる.
<美濃電気軌道の廃線跡>
■赤坂西公園
12時56分,赤坂西公園の脇を通過する.
地図を見ると,この辺りの地名は「昼飯町(ひるいちょう)」というらしい.廃線になった美濃電気軌道の大久保駅と昼飯駅がこの近くにあったようである.時間があれば是非訪れて見たいところである.
それにしても,面白い地名である.
<赤坂西公園>
■昼飯大塚古墳
地図を眺めながら歩き続ける.
進行方向左手(南側)に,中山道からほんの一寸離れたところに昼飯大塚古墳があるようだ.ところが沿道に沿って並ぶ民家に視界が遮られて,古墳の在処が良く分からない.私は,どこかで立ち並ぶ民家の切れ目はないかなと,焦るような気持ちで歩き続ける.
そして,13時02分,やっと民家の切れ目を探す.古墳が見えなくて元々の積もりで,大急ぎで左折して,数十メートル中に入る.すると,目の前に古墳らしい丘が見える.この丘が本当に昼飯大塚古墳かどうか良く分からないが,まあ,十中八九は間違いないだろうと確信する.資料4(p.56)によると,この古墳は全長140メートルの前方後円墳だという.また資料1(P.161)によると,この大塚古墳は岐阜県最大の古墳であり,この辺りは美濃国の中心地であったようである.
<大塚古墳>
■如来寺・善光昼(晝)飯御憩旧(舊)跡
13時05分,善光昼飯御憩旧跡と刻字した石柱のある場所に到着する.お寺の参道だが,寺の名称をメモし忘れた.でも,地図を見ると間違いなく如来寺のようである.資料4(p.56)によると,この寺は善光寺三尊仏を分身したところ.
参道の傍らに,昼飯町の由来を説明した看板が立っている.この看板の説明によると,「大阪の海で拾い上げた善光寺如来を長野の善光寺に納める一行が,この地で昼飯を摂った」ことから,この付近を昼飯(ひるめし)と呼ぶようになったが,呼称が下品なので「ひるいい」とよぶようになった」ようである.
<如来寺>
■東海道本線のガードを潜る
13時07分,東海道本線のガードを潜る.この辺りで赤坂宿から離れ,いよいよ3日目の終点,垂井宿に向かう.
<東海道本線のガードを潜る>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%80%E9%83%81%E5%A4%AA%E9%83%8E
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%9B%BB%E6%B0%97%E8%BB%8C%E9%81%93
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/fa0e64136f6cd3e007e8e30536679140
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0ac597cb44d93355c7229618496b2629
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