中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第1日目(5);追分宿そぞろ歩き

2013年07月01日 16時22分30秒 | 中山道六十九宿

                       <追分本陣跡>

[改訂版]    歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第1日目(5);追分宿そぞろ歩き
              (五十三次洛遊会)
         2010年6月12日(土)~14日(月)

※本稿の初出は2010年6月21日である.
 初稿の地図を入れ替えて,本文の誤字脱字転換ミスの訂正と加除修正,推敲
  を行った.


第1日目:6月12日(土)
(つづき)

<ルート地図>

■追分宿とその周辺

                            ↓
■追分宿詳細図      ※破線の枠内を拡大


<追分宿に入る>

■追分宿の概要
 14時48分,頭上の「追分宿」の案内板を通過する.
 資料5によると,「追分宿とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて20番目の宿場.現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる.北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する.元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え,飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた.また,民謡に多く見られる追分節の発祥の地である.旧脇本陣の油屋は,堀辰雄や立原道造,室生犀星らに愛され,堀辰雄の小説「菜穂子」に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである.」と紹介されている.

<追分宿の案内板>

■追分節
 資料5の説明文に出てくる「追分節」については,資料6に次のような解説がある.
 「・・謡の王様と呼ばれた「江差追分」.その源流は,信州の中山道と北国街道の分岐点である追分の宿で唄われたものであるといいます.その元は何であったのか.単純に碓氷峠を越え行く「馬子唄」が「追分」になったとよく云われます.もう少し補足すると「馬方節」「夜曳き唄」等と呼ばれる「博労節」であったようです.
 これらが追分の宿に伝わって,酒席で唄われるようになり,それが「追分節」と呼ばれるようになりました.
 もともと追分宿は、飯盛女と呼ばれる女性達がたくさんいたといい,座敷で唄は三味線の伴奏をつけて唄うようになったといいます.」
 この説明文を読んで,私は,
 「へえ~・・・そうだったのか!」
 小諸生まれの私は,何となく追分節の存在は知っていたが,こういうことだったのか.改めて自分の無関心さ,無知さを思い知らされる.

■追分一里塚
 14時50分,追分一里塚に到着する.道路の両側に一里塚が残っている.
 資料7によると,この一里塚は江戸か36番目の一里塚だという.左右の塚の大きさが違うが,大きい方の塚の高さは2.5間(約4メートル)あるという.
 
<追分一里塚>

<追分宿内そぞろ歩き>

■馬頭観世音
 14時55分,馬頭観世音に到着する.
 信濃追分郷土館の入口,深い森林を背景に,大きな石碑が立っている.近くに立ている案内板によると.「追分宿を営んでいた人々により役馬の安全・供養を祈願して,1794年(寛政6年)6月に建立された」という.『地所寄付・小川要蔵世話人とし土屋新九郎,関卯右右衛門,土屋元五右衛門,内堀九郎次』の銘が彫られている.高さ約3メートルあり軽井沢町の文字碑としては規模が大きな碑である.明治十一年の北陸の御幸行の折りに,道路改修により破棄され,郷土館開館に伴い改修展示する.軽井沢町立追分郷土館」と記されている.
 
<威風堂々の馬頭観世音>

■信濃追分郷土館と常夜灯
 馬頭観音の側に立派な建物が建っている.信濃追分郷土館である.
 中に入るには,なにがしかの入館料が必要である.それが惜しくて,入館を断念する.後で後悔.馬鹿だな私は・・・
 14時57分,立派な常夜灯の前を通過する.
 
<信濃追分郷土館>

■浅間神社
 14時58分,浅間(あさま)神社を通過する.
 境内に掲げられている案内板の記事によると,この神社の本殿は室町時代のもので,軽井沢町の木造建築としては最古のものだという.ここは,「浅間大神遙拝の里宮で 大山衹神(おおやまつみかみ)と磐長姫神の2神が祀られている」という.浅学の私には神様のお名前は全く分からない.

 さらに説明文には,「明治2年5月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年9月明治天皇の勅祭が行われた社として有名」だという.
 境内には,
  “ふきとばす
      石も浅間の
          野分かな”

という芭蕉の句碑が,1793年(寛政5年)春秋庵二世長翠の書で安置されているようである.
 残念ながら,この句碑は見ずに通過.

<浅間神社>

■堀達雄文学記念館
 15時04分,堀達雄文学記念館に到着する・・・が,何となく入館しないで通過する.恥ずかしながら,私は堀達雄の作品を一つも読んでいない.
 資料4には,以下のような説明が記されている.
 「(堀達雄は)明治37年東京に生まれ,昭和初期に活躍した作家 堀 辰雄は,大正12年19歳の時に軽井沢を訪れて以来,毎年のようにこの地を訪れるようになり,軽井沢を舞台とした数々の作品を残しました.昭和19年からは追分に定住し,この地に建てた家で昭和28年に49歳で亡くなりました.
 この記念館は,軽井沢をこよなく愛した作家,堀 辰雄に関する資料を展示・保管する文学館です.館内には,原稿・書簡・初版本・遺愛の品々が展示され,堀 辰雄の生涯と文学の背景を知ることができる展示室,辰雄が晩年を過ごした住居,愛蔵書が納められた書庫があります.閲覧室では堀 辰雄の著書や関係資料を閲覧することができ,この記念館を訪れることにより,堀 辰雄の文学に触れることができます.
 また,記念館の周辺は堀 辰雄ゆかりのエリアで,散策を楽しむこともできます.」

<堀辰雄文学記念館>

■あぶら屋脇本陣
 15時06分,あぶら屋脇本陣に到着する.入口に「お宿油屋」と書いた屋根付きの看板がある.敷地の中を覗いてみる.樹木が繁茂する広い敷地である.

<あぶら屋脇本陣>

■旧本陣
 15時08分,旧本陣を通過する.ここも広い敷地である.

<旧本陣>

■追分宿高札場跡 
 15時09分,高札場跡を見学する.ここにも説明文が掲示されている.
 「高札場は,問屋前の路中央にあった.法度,掟書(おきてがき)などを記した.また,さらし首,重罪人の罪状を記し,多角化が下駄板札を高札という.
 1633年(寛永10年)の古文書によると,広さ9尺,横1間,高さ3尺の芝土手を築き,高札場」の柱は5寸角のものを使用し,駒よせ柱は4寸角で,高さ6尺の規模であった.
 昭和58年,当時の古文書等から,高札場を復元した.」
 高札場の写真を撮るが,逆光になってしまい,どうも思うような写真が撮れない.

<高札場>

■高札場掲示の事例
 ここに掲示してある高札は,複製品で,現物は追分宿郷土館に保管されている.」
 私は説明文を読んで.
 “な~んだ・・複製品か.それなら郷土館を見学しておけば良かった・・”
と後悔する.
 ”こんな野ざらしの所に,本物を掲示することなどあり得ないではないか.馬鹿者!”
 私は,自分の心の奥底に巣くっているもう一人の私から嘲笑される.

<掲示の事例>

■シャーロックホームズ像
 15時10分,シャーロックホームズ像と漢字で書いた石碑の前を通過する.
 「何だろう・・・?」
 元シャーロックホームズのマニアだった私は,とても気になる.ところが,一同は無視してサッサと先へ行ってしまう.
 「やっぱり一人旅でないとダメだな」
私にはストレスが貯まる.
 資料10によると「この像は,翻訳家延原謙(のぶはらけん)が追分油屋旅館の離れを仕事場に,『シャーロック・ホームズ』シリーズの翻訳を手がけたことから,ホームズ生誕100周年を記念して昭和63年(1988)に作られたもの」らしい.
 
<シャーロックホームズの案内>  
          <シャーロックホームズ像>※この写真は資料10から引用した.

■諏訪神社
 15時12分,諏訪神社の参道入口を通過する.道路から境内を一瞥しただけなので,この神社の曰く因縁は皆目分からない.

<諏訪神社>

■泉洞禅寺
 15時13分,諏訪神社の直ぐ近くにある浅間山香華院泉洞禅寺の参道入口を通過する.慌て気味に,参道脇に立っている説明文をデジカメに収める.
 この説明文の記事によると,この寺は曹洞宗.横浜の総持寺の末寺で,ご本尊は聖観世音菩薩.1598年(慶長3年)3月,上州(群馬県長野原市)常林寺5世心庵宗祥禅師により開山されたという.

<泉洞禅寺>

■枡形の茶屋
 15時16分,枡形の茶屋に到着する.
 入口ある説明文によると,「徳川家光の頃,諸大名の参勤交代が実施され,種宮内に問屋,本陣,脇本陣を設置し,宿の西入口のこの辺りに枡形の道と土手(高さ約2.5メートル)を築いて種宮内の警備取り締まりをした」という.
 現在は,「その面影を見ることはできないが,当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる」と書いてある.
 
<「かしわや」>                                                             <枡形の飾り>

■分去れの道標
 15時21分,分去れ道標(わかれされのみちしるべ)を通過する.分去れ説明文によると.「右の北国街道を辿ると「乳母捨山の「田子との月」で知られる更級へ,左は中山道で京都へ,そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという右意味である」と説明している.
 私たちは,いよいよ追分宿とお別れである.

<分去れの常夜灯>

■北国街道とお別れ
 私たちは,ここで北国街道とお別れして,中山道を辿ることになる.この写真の右側の道が北国街道,左側が中山道である.
 もし,私がここで同行の方々とお別れして右側の北国街道を歩けば,夕方には間違いなく,生まれ故郷の小諸に辿り着くだろう.誰しも自分の生まれ故郷は懐かしいだろう.私も,ここで皆さんとお別れして,故郷に戻りたいという衝動に駆られる.
 “また,近々,小諸へ戻ろう!”
と思いながら,中山道に入る.

                               
<北国街道との分岐>※この写真は資料5から引用した.
                              (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%88%86%E5%AE%BF
資料6:http://senshohamada.hp.infoseek.co.jp/minyou/minnyou-sinanooiwake.htm
資料7:http://kazeno.info/karuizawa/8-shi/8-shi-1-04.htm
資料8:http://www.town.karuizawa.nagano.jp/ctg/01613100/01613100.html
資料9:http://www.konoha-house.com/nakasendo/n212oiwake1.htm
資料10:http://domestic.travel.yahoo.co.jp/bin/tifdetail?no=jtba2501990

[加除修正]
2013/7/1  地図の差し替え,誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/12a62f9872f3005091bd80973c43a095
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/795dd178591a7098db0d7f6dafb7f765  
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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