中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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鎌倉:深沢地区社寺史跡巡り

2008年03月28日 20時29分46秒 | 鎌倉あれこれ
                     <鎌倉中央公園のサクラ>

           鎌倉:深沢の社寺史跡を巡る
               (単独散策)

           2008年3月27日(木) 
晴れ


■歯の治療が続く

 早いもので,歯科に通い始めてから,今日は2回目の診察日である。私は神妙に歯科の椅子に座る。歯科医は,患部の歯を診察しながら,
 「う~ん・・・まだ,一寸,歯茎が腫れてますね・・・今日は,悪い所を削り取ります・・」
と言いながら,ドリルで患部の歯をゴリゴリと削る。ガリガリと振動の強いドリルと,インジンと細かく頭に響くドリルを交互に使う。時々,側にいる看護士に,
 「・・・D20,・・・C(?)30・・・」
と昔の蒸気機関車のような名前の指示を出す。15分ほど,患部をゴリゴリといじった後,歯科医師が,
 「患部の治療は,来週で終わりです・・・お大事に」
と私に言う。
 来週は,もう4月になる。いよいよ,後期高齢者ナントカが始まる。願わくは,“高貴高霊者”でありたい。今,所有している保険証も,今回が見納めになる・・・まあ,いいか。



■大慶寺
 歯科医の診療を終える。まだ,日が高い。晴天とはいかないものの絶好の陽気である。真っ直ぐ自宅へ帰るのも惜しい。そこで,折角のことだから,暫く訪れていなかった深沢地区の社寺,歯石? ご免! 史跡を,ぐるり一回りしてみようと思い立つ。
 まずは,関東十刹の一つとして有名な霊照山大慶寺を訪れる。仏源禅師大休正念が開山した臨済宗の寺である(鎌倉市史編纂委員会,1959a,pp.418-419)。実は,私も大慶寺の檀家の一人である。
 深沢中学校の近くの町名に,以前,大工谷という地名があった。少し古い鎌倉の地図を見ると,この地名が掲載されている。深沢中学の校門近くにある案内板によると,この地名の由来は,大慶寺を建立する際に,このあたりに大工が住んでいたからだという。今は,もう,大工谷という地名はなくなり,寺分ナントカ丁目という無機質な地名になってしまったのが惜しい。
 梅の向こうに立派な本堂が見えている。
 この寺については,以前,このブログでも触れたことがあるので,今日の記述は,この辺で終わりにしよう。

                 <大慶寺本堂>

■等覚寺
 深沢のくねくねした細い路地を辿って,休場山弥勒院等覚寺を訪れる。古義真言宗のお寺である(鎌倉市史編纂委員会,1959a,p.184)。もともとは青蓮寺末であったが,今は高野山宝寿院末だという。この資料によると,もともとは深沢中学の辺りにあって,御霊神社と境を接していたらしい。
 ここは,相模国準四国八十八箇所第二十一番札所。開山は秀恵僧都という方らしい。 この寺についても,以前,このブログで触れたので,今回は,この辺で・・・

               <広場の向こうをモノレールが走る>

■州崎古戦場碑
 狭い道を辿って,頭上をモノレールが走る自動車道に出る。この狭い路地に,駐車場に挟まれて窮屈な場所に小さな馬頭観音(?)が安置されている。
 近くのコンビニで,清涼飲料水を買って,車の往来が激しい自動車道を,湘南深沢駅付近で横切る。目の前にはTVKの住宅展示場がある。入場者はそれほど多くないらしくて,何となく閑散としている。
 モノレールの下を,湘南町屋の方に向かう。交差点を過ぎて,登り坂を少し進むと,道路の西側,進行方向左側に,州崎合戦場碑が建っている。ここを訪れる人は,少ないらしくて,辺りは草むしたままになっている。
 この辺りは,昔,州崎郷と呼ばれていたらしい(小林,1994,p.150)。鎌倉幕府倒幕のために,「1333年,新田義貞は大群を率いて,当地に進出。これを迎え撃つ赤堀守時の6万人兵士。たった300人の新田勢に破れた・・」(カッコ内は小林。要約引用)。
 石碑に刻まれた文字は,浅学非才の私には,難しすぎて,とても読めない。
 
           <州崎古戦場碑>                                    <泣塔>

■泣塔
 再び,今来た道を少しばかり戻る。運動場の入口から,運動場脇の空き地に入る。もと,国鉄の跡地が原っぱになっている。とても広い。運動場では,地元の子ども達が草野球を楽しんでいる。原っぱの片隅で,サクラが咲き始めている。そのサクラの向こうを,湘南モノレールが軽快に走っている。
 原っぱを奥の方に歩いていく。すると,右手にこんもりとした小山の麓に至る。この小山の中腹に,有名な泣塔が建っている。小山の周辺には,金網が張り巡らされている。
 泣塔は石造りの宝篋印塔である。泣塔の後には,かなり大きなヤグラある。そのヤグラの中に数基の五輪塔が安置されている。これらは州崎合戦で亡くなった兵士を供養したものだという説がある。
 小林(1994,p.150)によれば,「むかしから,この塔のある土地を手に入れた人は必ず没落する・・・」という。まあ,それは兎も角,この塔が大切に保存されているのが嬉しい。

          <泣塔>                <花の向こうにモノレール>

■ヤグラもどき
 ふたたび,空き地の入口に戻る。ここから空き地沿いの道を西北西に,ブラブラと歩く。この辺りを歩くのは数ヶ月ぶりのことだが,辺りの様子が,かなり変わっている。道路の北側のかなり広い一角が,柵で囲まれている。どうやら,ここにマンションを立てる計画があるらしい。近くには「住民無視のマンション建設反対」と書いた立て札が建っている。
 その隣には,巨石を積んだ石垣に囲まれた随分と大きな屋敷がある。この石垣の石の大きさにビックリさせられる。同時に,登山学校で習っている岩登りのことが,すぐに頭から出てくる。
 「うん・・・この岩は,ここと,ここに足を置けば,上まで登れるぞ・・・」
と,ついつい実行したくなる。
 さらに先へ進むと上町屋の住宅地になる。この辺りの道路は実に複雑に絡み合っている。何回来ても,途中でこんがらがって,自分がどこにいるのか良く分からなくなる。いい加減,デタラメに歩くと,何時の間にか,崖沿いの道になる。崖にはヤグラもどきの孔が沢山並んでいるが,どう見てもヤグラではないようである。何時の時代でも,人は穴を掘るので,何とも言えないし,調べた訳ではないが,そう古い穴ではなさそうである。

        <巨石を積んだ石垣>                <ヤグラもどき>

■天満宮
 曲がりくねった道を辿って,天満宮に到着する。祭神は,勿論,菅原道真。平安時代に平良文が創建したという。社殿は1781年に建立された(鎌倉市史編纂委員会,1959a,p.148;小林,1994,p.150)。
 立派なお社である。住宅地の中にあるのに,境内はとても静かである。

                  <花満開の天満宮>

■泉光院
 続いて泉光院を訪れようと思う。暫く来なかった間に,道順を忘れてしまう。同じ所を二度も歩いたりしながら,漸く天守山高音寺泉光院に到着する。ここは古義真言宗のお寺である。もと青蓮寺末で,今は京都大覚寺末。何時開山したかは分からないという(鎌倉市史編纂委員会,1959a,p.183)。
 本堂は新しい。明るい色をしている。鉄筋コンクリート製らしい。本堂の前に,お大師様の石像が建っている。

                <泉光院:傍らにお大師さまの石像がある>

■湘南町屋駅
 泉光院から,住宅地を適当に抜けて,モノレールの湘南町屋駅を目指す。途中,三菱電機関連の会社が立ち並ぶ一角を通過する。そして,三菱電機の門の前を通過する。守衛が入口をガードしている。何だか叱られそうな気がして,道路の端をシオシオと通り過ぎる。
 湘南町屋駅に向かう坂道から,これから訪れようと思っている藤塚が良く見える。 坂を登る右側には,鎌倉市の資材置き場がある。トラックターが絶えずうるさい音を立てながら,資材を動かしている。この辺りは,実に混沌としたところだなと思う。
 ついでに,湘南町屋駅に立ち寄る。先日,車輌事故を起こしてから,随分と日が経つが,まだ,7分ごとの正常ダイヤに復帰していない。ダイヤの所々に穴が空いていて,かなり複雑なダイヤになっている。

                    <湘南町屋駅と富士塚>

■富士塚
 町屋の坂を登る。この坂は,現役時代に毎日上り下りしていたところである。サンデー毎日になってからは,平素,何となくこの坂を敬遠しがちである。なぜならば,この坂を通ると,ついつい,現役時代のやるせなさが,心の中を過ぎるからである。
 坂を登り詰めた所で右折して,南から西へ回り込むように歩く。道が突き当たる手前から,南側を見ると,数本のサクラの木が野放図に自生している富士塚が見えている。ただ残念なことに,塚の縁まで住宅が浸食している。
 道が角に突き当たる。ここから見下ろす藤沢方面の風景は,一見に値する。残念ながら,今日は,残念ながら富士山は見えないが,ここから見る富士山や丹沢の風景はなかなかなものである。

                <サクラに覆われた富士塚>

 角を道なりに進むと行き止まりになる。ここから数段の階段を登ると,いよいよ富士塚への山道になる。細い山道が塚の上に向かって,渦巻きのように続いている。富士塚の山頂には,首なしの地蔵像が,木立と藪に囲まれて鎮座している。私は,この像の前で,そっと手を合わせる。
 再び,今来た山道を下る。入り口付近から,東側の藪の中に続く微かな踏み跡を辿って,少し登る。すると「小御□□・・」書いた石碑が建っている(□のところは読めない)。
 
      <富士塚への登り口>                    <富士塚頂上の石仏>

 この富士塚から,1941年頃,縄文土器が散在しているのを発見されたという(鎌倉市史編纂委員会,1959b,pp.43-44)。それ以上のことは手許にある資料では分からない。
 もう,2~3年前のことになるが,この石碑の位置から,さらに藪こぎをして,もう一つ石碑を見たような気がするが,あまり定かではない。今日も,もう少し藪こぎをしてみようかと思った。でも,私がガサガサしている気配を察してか,近くの住宅で飼われている犬が激しく吠えだした。怪しまれて,面倒を起こしたくないので,早々に退散することにする。

           <富士塚の小径>                 <富士塚の石碑>

■鎌倉中央公園のサクラ
 京浜急行のデマンドバスが通る自動車道を東南東に進む。そして,鎌倉中央公園のサクラを見物する。この所の暖かさで,瞬く間に咲き始め,今は4~5分の咲き具合である。今週末は,多分,サクラの見頃になるに違いない。
 残念ながら,今週末の土曜日は,某クラブのハイキングに参加することになっている。今日の内に,公園のサクラを良く見ておこうと思う。
                          (おわり)
[参考資料]
小林伸男,1994,『神奈川ぶらりいウオーキング:鎌倉・江ノ島・藤沢編』神奈川図書
鎌倉市史編纂委員会,1959a,『鎌倉市史:社寺編』鎌倉市
鎌倉市史編纂委員会,1959b,『鎌倉市史:考古編』鎌倉市


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