中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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東海道五十三次宿場巡り全15回第10回(40)

2008年06月05日 11時53分29秒 | 街道:東海道五十三次

                                           <大井川大橋>

        東海道五十三次宿場巡り全15回第10回(40)
            (小田急トラベル)
      2008年3月15日(土)~17日(月)(その6)


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第10回 第3日目 3月17日(月)(2)
 晴

<大井川川越遺跡>

■番宿と札所

 7時42分にルートイン島田を歩き出した私達は,8時09分に,大井川の河畔にある大井川川越遺跡に到着する.辺り一帯に古い街並みが残っている.外との境目が障子で仕切られている建家の軒下には「六番宿」と書いた看板が吊り下げられている.障子紙一枚だけで外と仕切られている家は,いくら暖かい東海地方でも,冬はさぞかし寒かったろうと思われる.
 道路を挟んで反対側には,格子戸に囲まれた「番宿」の建物が残っている.軒下には数個の防火用水桶がピラミッド状に積み重ねられている.
 すぐ側に,「立合宿」と書いた案内板が建っている.案内板によると,ここは,立会人が詰所,あるいは川越人足頭の相談場所として利用されていたようである.往時の旅人を番宿まで案内するのも,立会人の仕事だったらしい.
 次ぎに「札所」の建物がある.ここは往時の換金所だという.一日の川越が終了すると,それぞれの番宿に出向いて川札を回収して,札場で現金に換金し,そのお金を人足達に分配していた.
 
          <立合宿跡>                 <神社の広場で休憩>

■国指定の史跡
 休憩時間中に,辺りを散策してみる.
 近くに「国指定史跡島田宿大井川川越遺跡略図」と書いた大きな看板が立っている.この看板を見ると,当時の様子が,とても良く分かる.
 この看板を見ていると,大井川の河岸から,ほぼ直角に東に向かう道の両側に,合宿跡,泉屋跡,五番宿跡,七番宿跡,川合所跡,二番宿跡,十番宿跡,九番宿跡,札場跡,立合宿跡,仲間の宿跡,荷縄屋跡,三番宿跡,酒屋跡,六番宿跡,そばや跡,口東宿跡などが,やや雑然と並んでいる様子が目に浮かぶ.
 十返舎一九の小説は読んでいないが,野次さん喜多さんのお二人も,ここで何かをしでかしたに違いないと想像する.

                  <島田宿大井川川越遺跡略図>

■島田大堤
 神社の広場で,同行の皆さんが休憩を取っている.広場の土手に「島田大堤」の説明文が立っている.
 この説明文によると,この辺りの堤防は,大雨の度に度々決壊していたらしい.その後,1644年頃までに,宿内に3本の潅漑用水路が造られ,大堤が完成した.大堤が完成してから,島田宿の米の生産量は,以前の20倍にも達したという.
 この大堤は高さ2間(約3.6m),長さ3,150間(約5,733m)だという.

                   <島田大堤の案内板>

■美しい花
 広場の土手には,美しい花が沢山咲いている.例によって,花が良く分からない私は,花の名前は書かずに,写真だけを披露したいと思う.


 
                        <広場の花>

■芭蕉の句
 近くに芭蕉の句を書いた石柱がある.その傍らに,石柱に刻まれた芭蕉の句を書いた木柱が立っている.そこには,
  “馬方は
     しらじ時雨の
        大井川“
という句が紹介されている.
 文学オンチの私には,この句の深い意味など到底分からないが,「しらじ時雨の」のところが,とても面白く感じる.この言葉から,雨で停められた旅人のことや,馬方のことが,いろいろと連想できる.素人ながらに,芭蕉は凄いなと実感する.

<大井川を渡る>

■長い橋

 8時24分,「エイ,エイ,オー」の掛け声勇ましく,川越遺跡を出発する.
 直ぐに,大井川左岸に出る.昔の東海道は,ここから人足の手を患わせて,対岸に渡ったが,現在の橋は,歩行(かち)で渡った場所から,やや北側に掛かっている.
 私達は,暫くの間,左岸を上流に向かって歩き続ける.2車線の自動車道路の脇に造られた歩道を歩く.一望の下に広い河原が見渡せる.川を渡って吹き抜けるそよ風が,少し寒いが,心地よい.前方には,これから渡る長い大井川鉄橋が見えている.
 この大井川橋は,昭和3年(1,928年)に架橋されたもので,鋼製のトラス橋だという.トラス(?)とは何かは,勉強不足で良く分からないが,橋の下部は井筒型の基礎と,門型の橋脚によって構成されているという.この橋は,当時の技術の粋を尽くして,建造されたものらしい.
 8時33分,大井川鉄橋の東側から渡り始める.自動車専用の鉄橋の脇に,巾2メートル足らずの歩行者専用の橋が寄り添うように造られている.私達は,やや急ぎ足で,橋を渡り始める.歩きながら,だれかが,
 「昨日,歩いた蓬莱橋は見えないかな・・・」
と言う.私も蓬莱橋が気になる.
 大井川の下流を見渡すと,川は東に大きく曲がって流れている.川の下流にある蓬莱橋は残念ながら影に隠れて見えないようである.
 8時24分に橋を渡りきって,大井川の西岸に到着する.橋を渡るのに5分ほど掛かった計算になる.ということは,所要時間から逆算すると,大井川鉄橋の長さは1キロメートル余りということになる.
 
           <大井川橋を渡る>                <浮世絵:大井川を渡る>

<金谷宿>

■大井川鉄道

 橋を渡りきったすぐ側の堤防に,花魁が4人の人足に担がれて,大井川を渡る浮世絵が飾られている.図柄がなかなか面白いので,思わず写真を撮る.
 私達は川の下流に向かって少し下り,直ぐに右折して西へ向かう.辺りは金谷の街中に入ったらしく,住宅が軒を連ねている.歩道もなく,センターラインも引いてない狭い道路を,黙々と進む.隊列は次第にばらばらになり,道路半分に広がっている.
 8時48分,私達はいよいよ金谷宿に入る.宿の入口に立っている案内杭には「島田市金谷宿八軒屋橋」と書いてある.
 暫く進むと,前方に大井川鉄道の踏切が見えてくる.その時,幸運にも踏切の警報器が「カン,カン」と鳴り出す.こうなると,私の心の奥底に潜んでいた元汽車マニアの性格がモクモクと沸き上がっている.私は先頭を行くリーダーに断って,大急ぎで踏切に近付く.そして,踏切を通過する電車の写真を撮る.ところが,私の持っている安物のデジカメは,レリーズタイムが少々長いので,なかなかうまく撮れない.こんなときに本当にイライラする.もう少し,性能の良いカメラに買い換えなければと焦り出す.
 
                        <大井川鉄道>

■金谷宿に入る
 金谷宿は,江戸から24番目の宿である.本陣3箇所,脇本陣1箇所,旅籠51軒,宿内戸数1,004戸,宿内人口4,271人の大きな宿である.私達はいよいよ金谷宿に到着である.
 8時54分,大井川鉄道の踏切を通過する.線路の幅はJRと同じ狭軌.単線である.こんな分かり切っていて単純なことでも,自分の目で確かめると,とても嬉しくなるのもマニアの特性だろう.本当はレールを撫で撫でしながら,感触を楽しみたいのだが,団体行動なので,そうもしていられない.
 前方を見ると,うねうねと続く丘陵が見えている.誰かが,これからあの丘陵に登るのではないかと心配している.そうこうしているうちに,道幅が,何時の間にか狭くなっている.少し登り坂になる.

        <佐塚屋本陣跡>                   <柏屋本陣跡>

■柏屋本陣跡
 9時08分に,佐原本陣跡,同10分に柏屋本陣跡を通過する.ここに「柏屋本陣跡」と書いた大きな案内板が建っている.
 この案内板によると,柏屋本陣の建坪は264坪(約870平方メートル),表間口9間半(約17メートル),奥行40間(約72メートル)だったらしい.この柏屋の先祖は功により,徳川家康から屋敷を賜り,以後,2百数10年にわたり,その子孫が,金谷宿の経営と名主を努めていたという.ただ,栄枯盛衰,今はその面影は全くなく,金谷の商店街の中に埋もれてしまっている.
 なだらかな登り坂の商店街が続く.私達は進行方向左側の歩道を,とぼとぼと登っていく.そして,9時15分,大井川鉄道のガード下を潜って,金谷駅南側の駅前に出る.駅舎に入って,時刻表を写真に収めたかったが,団体行動なので,それもできない.

                   <柏屋本陣跡>

■石畳茶屋
 駅前を通過して,すぐにかなり急な登り坂になる.坂道を登って,9時20分,私達は石畳茶屋に到着する.ここで,暫くの間,休憩となる.休憩場の入口には,白い字で「旧東海道石畳入口」と書いてある大きな杭が建っている.その脇に「すべらず地蔵尊」と書いた案内板が鉄柱に貼り付けてある.
 駐車場から数十段の石段を登ると石畳茶屋の売店がある.純日本風の美しい建物である.ただ,残念ながら月曜日は休館日になっている.売店前のベンチに座る.どこからともなくチンチョウゲの花の香りが漂ってくる.
 
                     <石畳茶屋>

 下の駐車場では,坂道でやや疲労気味の一行が,ベンチにへたり込んでいる.
 傍らに広重の「金谷宿」の絵を拡大した看板がある.絵の下には「西に小夜の中山峠,東に大井川,二つの旅の難所に挟まれ「川越」の宿場として栄え,金谷本宿と河原町の二つの町で構成されていた・・・」という説明文が載っている.
 
        <駐車場で休憩>                <石畳茶屋にある花魁の絵>
 
                            (つづく)
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