<仏行寺の源太塚>
早春の鎌倉路を歩く(3)
<鎌倉山・七里ヶ浜の展望を楽しむ>
(五十三次洛遊会第4回例会)
2009年3月18日(水)
(つづき)
<笛田から鎌倉山へ>
■仏行寺と源太塚
萩郷住宅地の脇に沿った小径を下って,笛田の谷戸,上庭まで下りる.ここから坂道を南へ歩き始める.そして,最初の三叉路を左折して,枝道に入る.この枝道は笛田公園に通じている.ほんの100メートルほど進むと,笛田山仏行寺に到着する.ここは日蓮宗のお寺,元妙本寺の末寺だった.1495年(明応4年),日秀が創建した.ご本尊は十界曼陀羅(鎌倉市史編纂委員会,1959,p.451).
寺の入口で,1人100円の参観料を払って,境内に入る.本堂を裏手に廻るとすばらしい庭園がある.庭園の脇から裏手の山を登り詰めると,そこに源太塚がある.梶原源太景季の片腕が葬られていると言われている塚である.私は一行に,
「これから,源太塚へ登りま.す.塚まで5~6分ほどの急坂です.ご希望の方は,私についてきてください.坂道を登るのが厭な方は,本堂裏手の椅子に腰掛けて待ってて下さい・・」
と呼びかける.
結局は,全員が源太塚まで登ってしまう.元気で何よりである.墓地の間を抜ける山道をクネクネと登る.標高が高くなるにつれて,段々と見晴が良くなる.
およそ5分,坂道を登ると,山頂の源太塚に到着する.塚は直径5~6メートルの円形の饅頭型をしている.塚を囲むように空き地がある.そこに何脚かのベンチが置いてある.ほとんど全員が「ヤレヤレ疲れた」というような仕草でベンチに座り込む.
数分の休憩の後,登りとは違う道を辿って下山する.途中から笛田地区の住宅地や鎌倉山の尾根が,とても良く見える.
<仏行寺>
<源太塚で休憩>
※プライバシ保護のため解像度を落としてあります.
■三島神社
往路を戻って,元の道に出る.この道を南に向かう.少しずつ登り勾配がきつくなる.ほんの2~3分登ると,三島神社の前に出る.本殿まで山の斜面に造られた長い石段が続く.
「ご希望の方は,どうぞこの石段を登って参拝してきて下さい.今見えている石段を登るとさらにその先の石段が見えます.全部で200位もあるでしょうか・・・」
と案内する.大半の方々が石段を登り始める.
無事参拝を済ませて,石段を下る.お一人の方が,
「・・・この石段,丁度,90段でしたよ・・・200段はありませんでした」
と私に報告する.随分長いなという印象を持っていたが,実際に数えると90段しかないとは・・・私にとっても,そんなに段数がすくなかったとは!,意外だった.
三島神社の祭神は大山津見命.笛田の鎮守である.勧請年月は不明(鎌倉市史編纂委員会,1959,p.150).
■夫婦池
再び,坂道を登り始める.段々と勾配がきつくなる.やがて右手に夫婦池が見え始める.最近,池の周囲が綺麗に整備された.今年(2009年),4月1日に,新しい公園として公開されるが,今日は未だ公園の中には入れない.残念である.
さらに少し登ると,左手の斜面で,大きなマンションが建設中である.マンション建設もやむを得ないことだとは思うが,何となく付近の景観とそぐわないような気がしてならない.
<夫婦池の畔を進む>
※プライバシー保護のために解像度をおとしてあります.
<七里ヶ浜の眺望を楽しむ>
■江ノ島方面の眺望が開ける
尾根のバス通りに出る.バス停若松のすぐ側である.バス通りをそのまま横断する.この辺りは桜の名所だが,桜の蕾は未だ固い.横断後も緩やかな坂道が続く.段々と常磐緑地が見え始める.
鎌倉市の面積の40%が森林だと言われている.確かに,ここから常磐緑地を見通すと,緑地が多いなと思う.道は,次第に,なだらかな尾根沿いの道になる.そして,尾根を登りきると,鎌倉山の裏道に突き当たる.
今度は南側の眺望が一気に開ける.眼下には七里ヶ浜東の住宅地が広がっている.その先に広町緑地の山々が,さらにその奥に江ノ島が見えている.ただ,黄砂が舞っていて,折角,晴れているのに,富士山や箱根の山々は茫洋としていて,殆ど見えないのが残念である.
<七里ヶ浜の眺望>
■肉弾三勇士碑
三叉路を左折する.ここは,笛田方面から七里ヶ浜へ抜ける抜け道になっている.そのため,結構,自動車の往来が激しい.路肩を歩いていても,なかなか落ち着いた気分になれない.仕方なく我慢しながら歩き続ける.
やがて,次の三叉路に到着する.この三叉路を,ほんの少し七里ヶ浜東住宅地の方に下ると,再び三叉路がある.ここに肉弾三勇士碑が建っている.1932年,上海事変のときに,火が点いた爆弾を,3人の工兵が持って,敵の鉄条網を破った.私のように古い人間は,戦争中,修身で習ったことがある.
“キグチコヘイは死んでもラッパを放しませんでした”
“スギノはいずこ,スギノはいずこ・・”
などの話と一緒に,この肉弾三勇士の話は,今でも私の頭の中にこびり付いている.
■鎌倉山神社
元の三叉路に戻る.そして,抜け道から閑静な道路に入る.進行方向右手に,七里ヶ浜が広がっているのが見下ろせる.何時来ても,ここは素晴らしい所である.
やがて,鎌倉山神社に到着する.ここは,先ほど参拝した三島神社の分社である.小さい神社だが,鬱蒼とした森に囲まれた素晴らしい雰囲気の神社である.
境内から空を見上げると,大きな木の枝から沢山の小枝が空を覆うよう延びている.沢山の青葉が,互いに重ならないように繁茂している.この青葉を見ているだけで,とても気分が良くなる.私は,一行に,
「空を仰ぎ見てください・・・」
と勧める.でも,一行のお一人が,
「上を見上げましたが,何もなかったですよ・・・」
と私に質問する.私はガッカリする.
<鎌倉山神社の参道>
<陣鐘山の尾根を楽しむ>
■由比ヶ浜・材木座海岸の眺望
14時58分に鎌倉山神社を出発する.尾根道が続く.やがて,進行方向左手の眺望が開ける.今度は,由比ヶ浜と材木座海岸が見下ろせる.その向こうには逗子マリーナが見えている.鎌倉市街を取り囲むように,仙元山,阿部倉山,二子山,三浦アルプス北尾根の山々が見えている.
眺望があまりに素晴らしいので,ここで数分,立ち休憩を取る.
■聖福寺跡と陣鐘山
住宅地の外れから,山道に入る.途端に滑りやすくて,歩きにくい道になる.私は足許に十分注意するように皆さんに伝える.路面が少し濡れていて滑りやすいが,それでも,全員が難なく通過する.山道は,やがて七里ヶ浜を囲むように連なる尾根道に突き当たる.ここを左折する.
最近,下草を刈ったらしくて,歩きやすい散策路になっている.進行方向右手に七里ヶ浜の海岸を眺めながら崖上の尾根道を南南東に歩き続ける.
ここは陣鐘山と言う. 1333年,新田義貞は,鎌倉攻めのために,この山の山麓にあった聖福寺に本陣を構える.そして,陣鐘山の山頂で,陣鐘,陣太鼓を鳴らして,将兵を鼓舞したといわれている.そんな故事を思い浮かべながら,尾根道を進む.
ちなみに,聖福寺は1252年(建長4年),執権北条時輔が,子どもの時宗が健やかに成長することを祈願して創建したといわれる.寺の名前は時輔の幼名,聖寿丸に由来するという(小林,1996,p.172).
(つづく) [参考文献]
鎌倉市史編纂委員会(編),1959『鎌倉市史社寺編』吉川弘文館
小林伸男,1996『神奈川ぶらりーいウオーキング鎌倉・江ノ島・藤沢編』神奈川図書
「五十三次洛遊会」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a81514905f7c37f7c817c4e52a0416c4
「五十三次洛遊会」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/163a6e1c9388e4e0b4c7a67b46937241
早春の鎌倉路を歩く(3)
<鎌倉山・七里ヶ浜の展望を楽しむ>
(五十三次洛遊会第4回例会)
2009年3月18日(水)
(つづき)
<笛田から鎌倉山へ>
■仏行寺と源太塚
萩郷住宅地の脇に沿った小径を下って,笛田の谷戸,上庭まで下りる.ここから坂道を南へ歩き始める.そして,最初の三叉路を左折して,枝道に入る.この枝道は笛田公園に通じている.ほんの100メートルほど進むと,笛田山仏行寺に到着する.ここは日蓮宗のお寺,元妙本寺の末寺だった.1495年(明応4年),日秀が創建した.ご本尊は十界曼陀羅(鎌倉市史編纂委員会,1959,p.451).
寺の入口で,1人100円の参観料を払って,境内に入る.本堂を裏手に廻るとすばらしい庭園がある.庭園の脇から裏手の山を登り詰めると,そこに源太塚がある.梶原源太景季の片腕が葬られていると言われている塚である.私は一行に,
「これから,源太塚へ登りま.す.塚まで5~6分ほどの急坂です.ご希望の方は,私についてきてください.坂道を登るのが厭な方は,本堂裏手の椅子に腰掛けて待ってて下さい・・」
と呼びかける.
結局は,全員が源太塚まで登ってしまう.元気で何よりである.墓地の間を抜ける山道をクネクネと登る.標高が高くなるにつれて,段々と見晴が良くなる.
およそ5分,坂道を登ると,山頂の源太塚に到着する.塚は直径5~6メートルの円形の饅頭型をしている.塚を囲むように空き地がある.そこに何脚かのベンチが置いてある.ほとんど全員が「ヤレヤレ疲れた」というような仕草でベンチに座り込む.
数分の休憩の後,登りとは違う道を辿って下山する.途中から笛田地区の住宅地や鎌倉山の尾根が,とても良く見える.
<仏行寺>
<源太塚で休憩>
※プライバシ保護のため解像度を落としてあります.
■三島神社
往路を戻って,元の道に出る.この道を南に向かう.少しずつ登り勾配がきつくなる.ほんの2~3分登ると,三島神社の前に出る.本殿まで山の斜面に造られた長い石段が続く.
「ご希望の方は,どうぞこの石段を登って参拝してきて下さい.今見えている石段を登るとさらにその先の石段が見えます.全部で200位もあるでしょうか・・・」
と案内する.大半の方々が石段を登り始める.
無事参拝を済ませて,石段を下る.お一人の方が,
「・・・この石段,丁度,90段でしたよ・・・200段はありませんでした」
と私に報告する.随分長いなという印象を持っていたが,実際に数えると90段しかないとは・・・私にとっても,そんなに段数がすくなかったとは!,意外だった.
三島神社の祭神は大山津見命.笛田の鎮守である.勧請年月は不明(鎌倉市史編纂委員会,1959,p.150).
■夫婦池
再び,坂道を登り始める.段々と勾配がきつくなる.やがて右手に夫婦池が見え始める.最近,池の周囲が綺麗に整備された.今年(2009年),4月1日に,新しい公園として公開されるが,今日は未だ公園の中には入れない.残念である.
さらに少し登ると,左手の斜面で,大きなマンションが建設中である.マンション建設もやむを得ないことだとは思うが,何となく付近の景観とそぐわないような気がしてならない.
<夫婦池の畔を進む>
※プライバシー保護のために解像度をおとしてあります.
<七里ヶ浜の眺望を楽しむ>
■江ノ島方面の眺望が開ける
尾根のバス通りに出る.バス停若松のすぐ側である.バス通りをそのまま横断する.この辺りは桜の名所だが,桜の蕾は未だ固い.横断後も緩やかな坂道が続く.段々と常磐緑地が見え始める.
鎌倉市の面積の40%が森林だと言われている.確かに,ここから常磐緑地を見通すと,緑地が多いなと思う.道は,次第に,なだらかな尾根沿いの道になる.そして,尾根を登りきると,鎌倉山の裏道に突き当たる.
今度は南側の眺望が一気に開ける.眼下には七里ヶ浜東の住宅地が広がっている.その先に広町緑地の山々が,さらにその奥に江ノ島が見えている.ただ,黄砂が舞っていて,折角,晴れているのに,富士山や箱根の山々は茫洋としていて,殆ど見えないのが残念である.
<七里ヶ浜の眺望>
■肉弾三勇士碑
三叉路を左折する.ここは,笛田方面から七里ヶ浜へ抜ける抜け道になっている.そのため,結構,自動車の往来が激しい.路肩を歩いていても,なかなか落ち着いた気分になれない.仕方なく我慢しながら歩き続ける.
やがて,次の三叉路に到着する.この三叉路を,ほんの少し七里ヶ浜東住宅地の方に下ると,再び三叉路がある.ここに肉弾三勇士碑が建っている.1932年,上海事変のときに,火が点いた爆弾を,3人の工兵が持って,敵の鉄条網を破った.私のように古い人間は,戦争中,修身で習ったことがある.
“キグチコヘイは死んでもラッパを放しませんでした”
“スギノはいずこ,スギノはいずこ・・”
などの話と一緒に,この肉弾三勇士の話は,今でも私の頭の中にこびり付いている.
■鎌倉山神社
元の三叉路に戻る.そして,抜け道から閑静な道路に入る.進行方向右手に,七里ヶ浜が広がっているのが見下ろせる.何時来ても,ここは素晴らしい所である.
やがて,鎌倉山神社に到着する.ここは,先ほど参拝した三島神社の分社である.小さい神社だが,鬱蒼とした森に囲まれた素晴らしい雰囲気の神社である.
境内から空を見上げると,大きな木の枝から沢山の小枝が空を覆うよう延びている.沢山の青葉が,互いに重ならないように繁茂している.この青葉を見ているだけで,とても気分が良くなる.私は,一行に,
「空を仰ぎ見てください・・・」
と勧める.でも,一行のお一人が,
「上を見上げましたが,何もなかったですよ・・・」
と私に質問する.私はガッカリする.
<鎌倉山神社の参道>
<陣鐘山の尾根を楽しむ>
■由比ヶ浜・材木座海岸の眺望
14時58分に鎌倉山神社を出発する.尾根道が続く.やがて,進行方向左手の眺望が開ける.今度は,由比ヶ浜と材木座海岸が見下ろせる.その向こうには逗子マリーナが見えている.鎌倉市街を取り囲むように,仙元山,阿部倉山,二子山,三浦アルプス北尾根の山々が見えている.
眺望があまりに素晴らしいので,ここで数分,立ち休憩を取る.
■聖福寺跡と陣鐘山
住宅地の外れから,山道に入る.途端に滑りやすくて,歩きにくい道になる.私は足許に十分注意するように皆さんに伝える.路面が少し濡れていて滑りやすいが,それでも,全員が難なく通過する.山道は,やがて七里ヶ浜を囲むように連なる尾根道に突き当たる.ここを左折する.
最近,下草を刈ったらしくて,歩きやすい散策路になっている.進行方向右手に七里ヶ浜の海岸を眺めながら崖上の尾根道を南南東に歩き続ける.
ここは陣鐘山と言う. 1333年,新田義貞は,鎌倉攻めのために,この山の山麓にあった聖福寺に本陣を構える.そして,陣鐘山の山頂で,陣鐘,陣太鼓を鳴らして,将兵を鼓舞したといわれている.そんな故事を思い浮かべながら,尾根道を進む.
ちなみに,聖福寺は1252年(建長4年),執権北条時輔が,子どもの時宗が健やかに成長することを祈願して創建したといわれる.寺の名前は時輔の幼名,聖寿丸に由来するという(小林,1996,p.172).
(つづく) [参考文献]
鎌倉市史編纂委員会(編),1959『鎌倉市史社寺編』吉川弘文館
小林伸男,1996『神奈川ぶらりーいウオーキング鎌倉・江ノ島・藤沢編』神奈川図書
「五十三次洛遊会」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a81514905f7c37f7c817c4e52a0416c4
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