中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(6);番場宿から小摺針峠へ

2012年11月14日 03時49分13秒 | 中山道六十九宿

                           <小摺針峠の木陰で一休み>

歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(6);番場宿から小摺針峠へ
           (五十三次洛遊会)
    2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第2日目;2012年9月16日(日) (つづき)

<番場宿地図>



<番場宿あれこれ>

■番場宿の概要
 番場宿は江戸日本橋から62次の宿場である.
 資料3(p.329)によれば,番場宿の宿内人口は808人.内,男389人,女419人.宿内惣家数178軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠10軒.
 なお,資料7により,これらの数値は,天保14年(1843年)刊行の『中山道宿村大概帳』という出版物が出所になっていることを,今頃になって知った.
 資料1(p.168)によれば,「番場宿は米原港を経て琵琶湖の水運に通じる宿として誕生した.山間の寒村で,宿の長さは中山道の中で最短.長谷川伸の小説の主人公忠太郎が番場宿出身に設定され,宿の名を有名にした.」という.

番場の忠太郎
 残念ながら,不勉強な私は,番場の忠太郎の名前ぐらいは知っているが,長谷川伸の小説は読んでいない.
 資料5によれば,番場の忠太郎は「長谷川伸(しん)の戯曲「瞼(まぶた)の母」の主人公。
近江(おうみ)(滋賀県)番場生まれのやくざ。5歳のとき生きわかれた母をさがしに旅にでる。江戸柳橋の料理屋水熊の女将(おかみ)おはまが母とわかるが,おはまは名のらず,忠太郎は母への思いを胸にふたたび旅だつ。昭和6年の初演以来,舞台,映画,テレビなどで数おおく上演」されている.
 そういえば,ずっとずっと昔,ラジオかな,この話を聞いたことがあるような,ないような・・
 改めて原作を読んでみたいなと思い始める.

<番場宿を歩く>

■久礼の一里塚
 北陸自動車道米原JCTのガードをくぐり抜け,11時36分,久礼の一里塚に到着する.「中山道一里塚」と刻字された大きな石塔が置かれている.江戸日本橋から117番目の一里塚である.私達は日本橋から117里歩いたことになる.京まであと19里,いよいよ「上り(あがり)」の京都も目線に入るところまで来ている.
 一里塚跡は綺麗に整備された公園になっている.公園の向こうには大きくて立派な民家が建ち並んでいる.如何にも豊かそうである.
 ここで暫く立ち休憩を取る.

<久礼の一里塚>

■問屋場跡
 自動車道路を横切って旧中仙道の道路に入る.
 11時46分,米原道との十字路近くにある問屋場跡を通過する.民家の庭先に「中山道番場宿問屋場跡」と刻字された案内杭が立っている.
 辺りには昔の縁(よすが)を偲ぶようなものは何一つ残っていない.

<問屋場跡>

■問屋場跡・脇本陣跡
 11時48分,問屋場跡・脇本陣跡に到着する.どちらも民家の庭先に案内杭が立っているだけである.

<問屋場跡・脇本陣跡>

■本陣跡
 引きつづき.11時48分,本陣跡を通過する.ここも民家の庭先に案内杭が立っているだけで,昔を偲ぶ雰囲気は全くない.


<本陣跡>

再び問屋場跡
 11時49分,問屋場跡に到着する.ここも案内杭だけ.隣に「明治天皇番場御小休所」と刻字された大きな石柱が立っている.

<問屋場跡>

■蓮華寺
 11時51分,「史跡蓮華寺」と書いてある大きな案内杭を見付ける.地図で確かめると,ここから路地を東南東に約200メートル弱入ったところにある.街道から一寸離れている.私も何となく立ち寄る気分にならない.
 先頭がどんどん先へ行くので,まあ,いいかで通過する.
 資料6によると「蓮華寺は聖徳太子が建立し,当初は法隆寺と称していた.しかし,建治2年(1276年)落雷により消失したが,弘安7年(1284年)一向上人を迎えて時の権力者である土肥三郎元頼が再興し「八葉山蓮華寺」と称した.当寺は歴代天皇の帰依厚く,花園天皇より勅願寺院としての勅許を賜り,寺紋として菊の門を下賜されている.また、当寺は,時宗一向派大本山の一大念仏道場として隆盛を極めたが,後に浄土宗に帰属して現在は浄土宗本山となっている.当寺には,北条仲時以下400余名が自刃した歴史があり,今も,お墓を守っている.戯曲「瞼の母」の長谷川伸氏が「南無帰命頂礼親を尋ぬる子には親を,子を尋ぬる親には子をめぐり合わせた給へ」と悲願を込めた番場忠太郎地蔵尊が建立されている.」
 私は帰宅後,
 “しまった! やっぱり蓮華寺は訪れるべきだった・・・”
と後悔する.こういうのを“後の祭”という.

<蓮華寺>

■法雲寺
 11時52分,蓮華寺近くにある法雲寺を通過する.真言宗大谷派の寺のようである.山号は松風山.この寺の由来を調べたが,今のところ不明.

<法雲寺>

立派な灯籠
11時53分,立派な灯籠が立っている.路地の奥に何かありそうで気になるが,先頭集団が委細気にせずにどんどん先へ行ってしまうので,私も写真だけ撮って,跡を追いかける.

<立派な灯籠>

■川沿いの道・鎌刃城趾への案内板
 11時57分頃,小さな橋を渡り,小川の左岸沿いの道を川上に向けて歩き始める.
 川岸に「鎌刀城趾ここより3キロ」と書いてある大きな案内柱が立っている.3キロメートルも離れていては,どうにもならない.これまで歩いてきた道端のところどころに鎌刀城の案内杭が立っていたので,少々気にはなっている.
 資料8には,「国史跡,山城サミット加盟,主郭に続く尾根が鎌の刃のように切り立っている」とだけ紹介されている.この城に付いての経緯は,手許の資料では余りよく分からない.
 ただ資料9で紹介されている鎌刃城趾の説明文を要約すると,「この城は標高384メートル山頂にある典型的な戦国時代の山城である.江北と江南のさいにあたることから鎌刃城は国境を警備する目的として,応仁の乱の頃には築城されていたようである.城主堀氏は当初浅井氏の家臣であったが,元亀元年(1570年)織田信長に与したため,信長軍の最前線基地となる.このため浅井長政や一向一揆勢に度々攻められ,木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の援軍によってかろうじて落城を食い止めることができた・・・」

<小川沿いの心地よい散策路>

■北野神社
 12時05分,北野神社に到着する.立派な神社である.この神社の由来は手許の資料では不明.
 参道入口で鳥居の写真を撮っただけで通過する.

<北野神社>

■称揚寺
 12時07分,称揚寺に到着する.真宗大谷派の寺で山号は青龍山.
 資料10によれば,この寺はもと天台宗の今福寺.寛永12年(1635年)に真宗に改宗した.本尊は阿弥陀如来.

<称揚寺>

■本授寺
 12時09分,本授寺の前を通過する.参道入口に浄土真宗本願寺派楓樹山本授寺と刻字された大木は石柱が立っている.参道の置くに本堂の瓦屋根が見えている.
 資料11によれば,もと天台宗の寺.文明年間(1469~1487年)に浄土真宗に改宗.天和4年(1694年)に中興された.本尊は網阿如来.

<本授寺>

<小摺針峠>

■オ~ィ・・待てぇい!
 12時14分,番場宿を通り抜ける.進行方向左手の高いところには名神高速道路が並行して走っている.前方には小高い山が見えている.地図で確かめるとあの辺りが小摺針峠に違いない.
 一行の列が極端にばらける.この写真は列の真ん中辺りの位置から撮影したものである.
 先頭を行く2人は,全く後ろを見ずに,どんどん先へ行ってしまう.
 「先頭が早すぎるよ・・・」
と数人が愚痴を言う.私は,
 「先頭は先頭! 急いではダメ.ゆっくりマイペースで・・・遅れても構わないよ・・」
と遅れている人を勇気付ける.
 私は,平素から山歩きをしているので,先頭の2人に追い付くのはいとも簡単なことだが,ここは,どこまでも足の遅い人と一緒に歩こうと決める.

<蒸し暑い道を小針摺峠目指して歩く>

■小摺針峠を越える
 道路の勾配が次第にきつくなる.やがて,左側に並行している名神高速道路が前方の山腹を貫くトンネルに入る.私達はそのトンネルの上を通る坂道を登り続ける.そして,12時29分,漸く峠に到着する.
 峠の木陰に身を寄せ合って,暫くの間,休憩を取る.
 先を歩いていた人達も,結局は足の遅い人達を待っていることになる.

<小針摺峠頂上付近>

■地蔵堂と泰平水
 峠近くに小さな地蔵堂と,その脇に泰平水がある.
 12時32分,地蔵堂前から峠を下りはじめる.
 私達は11時半頃から,どこか適当な食堂があったら昼食を摂りたいなと思っているが,12時30分を過ぎても,食堂らしいところは見当たらない.私個人は,あんパンなど若干の食べ物は持っているが,皆に分けるほどの量もない.勿論,1人だけ昼食を摂るわけにもいかないので,皆と同じように,昼食を摂るのを我慢する.

<地蔵堂と泰平水>

                                        (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://kotobank.jp/word/%E7%95%AA%E5%A0%B4%E3%81%AE%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E
資料6;http://maibara.jp/?p=719
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E5%A0%B4%E5%AE%BF
資料8;http://www45.tok2.com/home/todo94/castlepage/castle-shiga.htm
資料9;http://kenkou-ikka.com/~hutihata/kamaha-siro2.jpg
資料10;http://www.kokokujitanbo.com/maihara-14-1.htm
資料11;http://kokokujitanbo.com/maihara-14-2.htm

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b38ecdfd181beeab3e44b280473092d9
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c07ea8ed730cede8d5e50434e8b3e56e


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