中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
最初に左下の“カテゴリー”を選んで,クリックして下さい.

歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(5);醒井宿から河南へ

2012年11月13日 03時57分42秒 | 中山道六十九宿

                                   <河南を行く>

  歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(5);醒井宿から河南へ
           (五十三次洛遊会)
    2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第2日目;2012年9月16日(日) (つづき)

<醒井宿地図> (再掲)



<醒井宿の大イチョウと十王水>

■了徳寺遠望
 了徳寺の大きなオハツキイチョウを離れたところから見上げながら通過する.
 私は植物のことは全く分からないが,資料5によると,「
オハツキイチョウは、他のイチョウに比べて葉柄がやや細長く、葉の縁に種子を付けるのが特徴です。石龍山了徳寺の境内に、周囲の家並みを圧して、ひときわ高くそびえるこのオハツキイチョウは、幹囲約2.5m、高さ約20m、樹齢約200年。毎年8月から11月上旬頃に数多くの実を付けますが、その一部は、葉の面になります。発育は不完全な物が多く、小型で楕円形、普通のものと著しく異なっています。数は多いもので5個、おおむね1、2個で、葉脈が次第に太くなり、先端のところに形作られます。これは、化石から出土するイチョウとよく似ており、先祖返りと考えられます。昔から「花も咲かずに実のなる木」と、付近の人に不思議がられていますが、花が枝や葉の一部だという学説を裏付けるものです。
 イチョウは、全国の神社や仏閣に植えられ、一般に親しみ深いものですが、この種のものは珍しく、昭和4年(1929)に国指定の天然記念物になっています。」とのことである.

<了徳寺の大きなオハツキイチョウ>

■十王水
 10時52分,十王水に到着する.下の写真のような案内が立っている.
 念のため,案内板には,「平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中,この水源を開き,仏縁で結ばれたと伝えられる.もとより浄蔵水と称すべきところを,近くに十王堂があったことから,「十王水」と呼ばれるようになったいう」と書かれている.

<十王水>

<児醒井>

■居醒橋を渡る

 10時53分,居醒橋を渡る.
 橋の袂に北陸自然遊歩道の案内杭が立っている.どうやら,ここで北陸自然遊歩道と直行しているようである.

<居醒橋を渡る>

■西行水の案内板
 10時55分,「西行水」と書いてある案内板を見付ける.この案内板のところで左折して路地に入る.路地は直ぐに山裾に突き当たる.その突き当たりが西行水である.
 岩の間から水がこんこんと湧出している.
 
<西行水の案内板>                              <山肌に突き当たったところに西行水がある>

■西行水と泡子塚
 岩の間から水が湧き出ている.池の中に灯籠や石仏などが沢山祀られている.
 写真で撮ることはできなかったが,岩の上に五輪塔があるという.
 案内板の説明によると,「西行法師東遊のとき,この泉の畔で休憩を取った茶店の娘が西行に恋をした.西行が立った後に,西行が飲み残した茶の泡を飲んだところ懐妊して男の子を出産した.西行法師が関東からの帰途,娘からこのことを聞いた.西行は児を凝視して「今一滴の泡変じてこれ児となる.もしわが子ならば元の泡に帰れ」と祈り,
   “水上は 清き流れの醒井に
       浮世の垢をすすぎてやみん”
と詠むと,児は忽ち消えて,元の泡になった.そこで西行は実に我が子なりと,この所に石塔を建てたという.今もこの辺りの小字名は児醒井という」とのことである.

<西行水と泡子塚>

■中山道醒井宿標識
 10時58分,中山道醒井宿標識を通過する.周辺は長閑な雰囲気の集落が続く.

<醒井宿道標>

■六軒茶屋跡
 11時02分,六軒茶屋跡に到着する.古びた木製の案内杭と説明板が立っているだけで,昔を偲ぶよすがは何もない.
 案内板の説明によると.「醒井宿はもともと幕府の直轄地だったが,享保9年(1724年),大和郡山藩の飛地領となった.藩主柳沢侯は,彦根藩枝折との境界を明示するために,中山道の北側に,同じ形の茶屋6軒を建てた.この「六軒茶屋」が中山道の名所になり,安藤広重の浮世絵にも画かれている」という.

<六軒茶屋跡>

一類魂等衆の碑
 私達が歩いている旧道は,やがて現在の広い道に合流する.合流直後の「11時05分,一類魂等衆の碑の前を通過するが,あいにく広い道の反対側にあるために近づけない.やむなく反対側の道路から写真を撮る.
 石塔の左に案内板が立っているが,距離が離れているので全く読めない.
 資料4(p.58)によると,行き倒れになった人々を供養したものだという.

<一類魂等衆の碑>

<河南>

■丹生川を渡る
 11時06分,丹生川を渡る.広い川である.どこの山か分からないが,遠くに姿の良い山が見えている.
 いよいよ醒井宿ともお別れである.

<丹生川を渡る>

■河南の集落に入る
 暫く自動車道を歩いた後,11時11分に右手の旧道に入る.旧道沿いに河南(かわなみ)の集落が続く.
 人影を殆ど見掛けない閑静な集落である.

<河南の集落に入る>

■中山道道標
 11時22分,「中山道ひぐち」と書いてある看板の前を通過する.
 「ひぐち」って,この辺りの地名? それともこの辺りにお住まいの方の苗字?
 良く分からないが,まあ,いいか・・・

<中山道ひぐちの看板>

■敬永寺
 11時32分,敬永寺に到着する.山門の脇に真宗大谷派敬永寺と刻字した石柱が立っている.
 境内にある案内板によると,山号は竹林山.もともと天台宗の寺だったが,顕如上人の頃,浄土真宗に改宗された.寛文13年(1673年),東本願寺宣如上人から木仏本尊を,後に一如上人から親鸞聖人御影を下付されたという.

<敬永寺>

                                         (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www.biwako-visitors.jp/search/flower_nws_3768_22.html

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b5700d7929b9a43d172912bbc22a88b5
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/806bf48bffa06bf689e719b830452afe


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.ご不快に感じられましたら,以後,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然,原則として訂正しませんので,このことをご承知の上でご覧下さい.



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。