中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第4回):(3)熊谷宿に到着

2013年02月04日 19時18分44秒 | 中山道六十九宿

                    <大雷神社の鳥居>

[改訂版]  歩いて巡る中山道六十九宿(第4回);(3)熊谷宿に到着
           (五十三次洛遊会:単独山行)
            2010年1月27日(水)

※本稿の初出は2010年2月3日である.
 初稿の地図を改訂し,本文を加除修正した.

<ルート地図>






<久下上宿>

■姿の良い道案内の石柱

 久下の長土手から下りて,久下小学校に隣接する久下神社を通過する.閑静な集落の中を西に向かって歩く.手許の地図を見ると,三叉路から右に曲がって少し北へ行ったところに石塔の印がある.この石塔は案内書には載っていないが,ちょっと寄り道してみようかとも思う.しかし,これまでのロスタイムを考えると,ここはパス.真っ直ぐ進む.
 10時02分,進行方向右手広場の両側に古い石柱が立っている.その石柱に「成田山・・・」という文字が刻まれている.
 「・・この石柱,何だろう・・?」
 私は,気になって,広場周辺をウロウロするが,結局,何も見当たらない.ただ,道路の反対側に,笠をかぶった姿の良い道案内の石柱が立っている.この石柱に「右吹上宿 左熊谷宿」と書いてある.この石柱が,古いものか,新しいものか,私にはよくわからない.
 
<成田山の案内石柱>               <久下上宿石柱>

■下鍛冶石碑
 10時05分,下鍛冶石碑に到着する.横向きに「此の街道旧中山道」と大きな字が彫りこまれている.事前に写真で見たときの印象より,やや小振りな感じの石塔である.

<下鍛冶石碑>

■権八地蔵
 資料5に以下のような説明がある.
 「元禄11年(1698)造立された地蔵であり,江戸時代平井権八の物語と結びつけた「物言い地蔵」として有名です.石地蔵としては,県内最古のものと推察されています.
江戸時代,江戸から中仙道を進んでいた平井権八が,久下堤で信州の商人に遭遇し,その商人の持金を奪って殺してしまった.ふと傍を見ると石地蔵が立っていることに気づいた.権八に良心が甦ったか地蔵に向かって「このことは、誰に言ってくれるな」と,地蔵は「我は言わぬが汝言うな」と口をきいたという逸話が言い伝えられています.吹上(現、鴻巣市)においても権八地蔵という名の地蔵が存在しますが,平井権八の伝説よりも後の時代の建立であると言われています.元々,権八地蔵は,久下堤防上にありましたが,堤防の改修により久下上区の人家に移された後,昭和32年,地元の人々の協力でお堂が建てられ,そこに安置されることになりました.」

<権八地蔵>

冠水橋
 石塔の先には,堤防下の道が続く.堤防を見上げると,前方に石碑のようなものが見える.もちろん,この石碑を見るために,この堤防に登る道を辿る.堤防に登ると,再び四方の見晴らしが良くなる.
 先ほど見上げていた石塔の前に到着する.大きな石塔には「久下の渡し 冠水橋」と大きな字が彫り込まれている.
 石塔の脇に立っている説明板によると,昭和30年頃までは,この辺りに冠水橋が架けられていたようである.今,辺りを見回しても,それらしい痕跡は見当たらない.正確な距離は分からないが,ここからおよそ数百メートル下流に,今は立派な久木橋が架かっている.橋の上を沢山の自動車が走っているのが見える.
 昭和30年といえば,丁度,私が大学を卒業した年である.私は,この案内板を見ながら,ついつい,茫洋とした自分の過去と重ね合わせてしまう.
 「・・・そういえば,私の人生も,冠水橋みたいな人生だったな~ぁ・・・!」
 私も,それなりにサラリーマン人生を頑張ったつもりだった・・・が,酒,マージャン,ゴルフができない環境不適合の社員だった.でも,あの頃,豪快な酒豪だった方々や,肩で風を切っていた方々の大半は,すでに向こうの世界に行ってしまった.今なお元気にこんな所を歩いていられるのは,案外,私が環境不適合型社員だったからかもしれない・・・
 私は,ハッと我に返って,また歩き出す.

<久下の渡し冠水橋跡> 

<堤防を降りる>

■みかりや跡

 10時14分,堤防道が下から登ってきた道と交差する.堤防道の行く手には車止めの杭が打ってある.心なしか,底から先の堤防道はベンベン草が多くなっているようである.私は直感的に堤防を降りて,北側の住宅地に入る.そして,地図を見て自分の現在地を確かめる.
 堤防からの下り坂を降り切ったところに「みかりや跡」と書いた説明文を書いた板が立っている.民家の庭先である.この説明文によると,ここには旅人相手の茶店「みかりや」があったようである.

<みかりや跡>

■東竹禅院
 ここからは,静かな住宅地になる.狭い道で歩道がない.ときどき自動車が通るので,結構歩きにくい.
 10時23分,白地に東竹院と書いてある看板が立っている路地に左折.2分ほど歩いて東竹禅院に到着する.
 この寺について予習をしていない私には故事来歴は一切分からない.どこかに案内板でもないかなと見回すが,それらしいものはない.山門は閉ざされていて,無用な者入るべからずという趣旨の注意書きがある.
 大きな寺である.人気が全くない.禅寺らしく辺り一帯に凛とした気が漂っている.私も無用な者の一人に違いないので,境内に入るのは遠慮する.そして,山門の脇から覗き込むようにして,境内の庚申塔をデジカメに収める.
 山門の前には,例によって,6枚のカルタが並んでいる.
 資料6には,「曹洞宗寺院の東竹院は,梅籠山久松寺と号する.東竹院は,久下次郎重光(法名東竹院久遠願昌居士,建久7年1196年寂)が開基,月擔承水法師(安貞元年1227年寂)が開山となり創建,深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基,的翁文中が中興開山となり中興したといわれる.江戸期には,寛永19年(1642年)には寺領30石の御朱印を拝領,忍領三十四所4番となっていた.」という説明がある.

 
<東竹禅院>                                                                    <境内の石仏群>

■大雷神社
 復路を辿り,先ほどの道路に戻る.そして,やや単調な道を,暫くの間,直進する.
 10時34分,自動車の往来が多い道と交差する.そして,10時40分,左折して枝道に入る.枝道を4分ほど歩いて,10時44分に大雷神社に到着する.

 かなり広い空地のような境内に石造りの立派な鳥居が建っている.小振りながら,厳島神社の大鳥居を彷彿とさせる袖付きの鳥居である.
 鳥居から参道を進むと,小振りながら,がっしりとした造りの社殿がある.やや不謹慎だが,社殿を覗き込むと,社殿の中にさらに小さな社殿が納められている
 
<大雷神社鳥居>                                <大雷神社社殿>

■仏説寺
 再び往路を戻って,もとの道を先へ進む.
 10時55分,進行方向右側(北側)にある仏説寺に到着する.日蓮宗の寺のようである.本殿は,一見,しもた屋風の新しい建物である.
 資料7には,「仏説寺は昭和62年(1987年)
建立された新しい寺である.開基は日蓮正宗大石寺第67世法主日顕上人
熊谷市には昭和38年(1963年に平等山法潤寺が塚本素山の発願にて建立されたが,昭和57年(1982年)に第3代住職が第67世法主日顕上人の法主としての地位を否定したため,蓮正宗の宗制宗規に違背したことにより破門されたが,現在に至るも法潤寺を占有し,居住しているため建立された.」という内容のややこしい説明がある.

<仏説寺>

<いよいよ熊谷宿>

■熊谷宿の概要
 資料3(p.61)によれば,熊谷宿の宿内人口は3,263人.内,男,1,706人,女,1,557人.宿内惣家数1,075軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒.旅籠151軒であった(天保14年(1843年)現在).
 資料1(p.24)によると,熊谷宿の中央に熊谷直実ゆかりの寺がある.忍藩の方針で飯盛女が置かれなかったので,珍しく健全な宿場だったという.
 ポツダム宣言受託後の大空襲で市街地の7割が焼失してしまった.

■八丁の一里塚
 仏説寺を後にする.そして,11時01分,八丁の一里塚跡に到着する.江戸日本橋から16里目の一里塚である.
 そこには1枚の説明板がある.傍らに,菱形の石碑が建っている.石碑には「皇太子・・・」という文言が刻まれている.その奥に,小振りだが立派な祠が安置されている.
 塚跡のすぐ隣は,大きな集合住宅が聳えている.今日は天気が良いので,各家のベランダは布団干しの満艦飾である.
 
<小さなお社>                                  <八丁の一里塚跡>

■万平公園
 一里塚を2分ほど見学してから,また先へ進む.進むほどに,周辺の住宅がだんだんと密度を増してくる.その様子を見ていると繁華街が近いことが予感できる.
 11時04分,秩父鉄道の踏切に到着する.
 私は,ここで,このまま踏切を渡って真っ直ぐ進むか,それとも,少し寄り道をして万平公園を訪れようかと迷う.
 結局は,一人旅の気安さで,どんどん寄り道をしようと決める.
 踏切を渡らずに,ほんの10数メートル先まで行ったところで左折する.住宅地の中の細い道を真っ直ぐ進んで,11時08分に万平公園に到着する.
 公園は,予想していたよりも,ずっと広くて立派である.園内をぐるり一周するように子ども鉄道が敷かれている.広場では,何組もの幼児連れの親子が遊んでいる.見ているだけで微笑ましくなる.
 ここには,昔の熊谷堤が,100メートルほど,そのまま保存されている.まずは,堤に登ってみる.堤の両側には桜の並木が残っている.どれも老木である.桜の老木の間で,私も,また,1~2分,立ち休憩をとる.桜の木の間から公園を見回しながら,
 「・・やっぱり,寄り道してよかったなあ~・・」
と思う.
 
<万平公園>                                  <桜の堤>

■熊谷駅前
 11時13分,往路を戻って,再び秩父鉄道の踏切まで戻る.今度は踏切を渡り,上越新幹線のガード下を潜り,さらに高崎線の踏切を渡る.すると辺りの雰囲気が一変,賑やかな繁華街になる.
 熊谷宿である.
 道路の真ん中に疏水が流れている.星渓園から流れ出す星川の水が疏水になっているそうである.
 熊谷駅周辺で早目の昼食にしようかとも思ったが,まだ空腹感がないので,そのまま先へ進むことにする.
 

■高城神社参道
 旧熊谷宿の街道を西南西に進む.
 11時36分,高城神社参道入口に到着する.参道には,石造りで真っ白な大きな鳥居が何本か並んでいる.鳥居を潜りながら参道を進む.参道の途中の中華そば屋から旨そうな匂いが漂ってくる.匂いに釣られて,中華そば屋に引き込まれそうになるが,我慢して先へ進む.

<高城神社の参道>

■高城神社
 11時38分,高城神社本殿の前に到着する.作法通りに参拝.ここは熊谷直実の氏神だったという.
 資料8には,「城神社の創建年代は不詳だが,延喜5年(905年)に作成された延喜式式内社に比定される古社である.江戸時代には忍藩主阿部豊後神忠秋公により,寛文11年(1671)社殿の寄附を受けた他,阿部家より多くの寄進を受け,現在熊谷市指定文化財として残されている.明治時代に入り村社に列格,ついで大正5年県社に列格していた.」という趣旨の説明がある.


<高城神社>

■常夜灯
 境内には熊谷市指定有形文化財の常夜灯がある.なるほど立派な常夜灯である
 
<高城神社の常夜灯>

[加除修正]

2013/2/4  ルート地図の差し替え,および本文の加除修正を行った.

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/qa/024.htm
資料6;http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_kuge_tochiku.html
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%AA%AC%E5%AF%BA
資料8;http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/shrine_miyamachi_takagi.html 
                                    (つづく)

「中山道六十九宿巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/32aaaef9ed44e6a183afe004369a51e6
「中山道六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/61a030362649699f4965a7a1d2e7292a
 
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e

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