中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第4回):(4)戦災の傷跡残る熊谷宿

2013年02月05日 04時40分23秒 | 中山道六十九宿

               <松巌寺近くで見掛けた可愛いお地蔵さん>

[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第4回):(4)戦災の傷跡残る熊谷宿
         (五十三次洛遊会:単独山行)
         2010年1月27日(水)

※本稿の初出は2010年2月4日である.
 初稿に地図を追加し,本文の加除修正を行った

<ルート地図>



<竹本本陣跡と熊谷寺>

■竹井本陣跡
 11時38分,高城神社を後にする.往路を引き返して,11時43分に再び国道17号線に戻る.
 そろそろ,適当な食堂に入って,昼食でも摂ろうかなと思うが,一人旅なので,できるだけ安くあげたい.ところが,沿道に並ぶレストランや食堂は,いずれも1200~1500円程度は覚悟しなければだめ.サラリーマン時代から焼きついているケチ精神では,昼食に1000円も掛けるのは以ての外.そのまま何軒ものレストランを通過する.
 国道17号線の横断歩道を渡って,これまでとは反対側の歩道を歩く.
 11時50分,本陣跡に到着する.歩道の植え込みに,本陣跡を示す小さな石柱と案内板がある.
 資料5によると,「本陣は代々竹井家が務めた.敷地1600坪,建坪700坪という大邸宅であったが,明治17年に焼失した.その後縮小して建て替えられたが,これも戦災により焼失した.現在は,本陣竹井家の別邸が「星渓園」として復元,公開されている(無料).」とのことである.
 資料6によると,初代の埼玉県議会議長(1839~1912年)であった竹井澹如(たけいたんじょ)という人物が熊谷宿竹井家の14代当主であったようである.彼は「大隈重信,板垣退助,陸奥宗光らとも親交があり,陸奥宗光に働きかけて熊谷県誕生に尽力したことでも有名」のようである.教育面でも「渋沢栄一らと協力し,育英事業にも貢献した.初代の県議会議長となり,産業・土木面でも大きな功績を残した.また,慶応年間に鎌倉町に別邸として,池亭を設け,昭憲皇太后や大隈重信,徳富蘇峰などの名士が来遊した」とのことである.


<本陣跡>      

■見当たらない高札場跡
 インターネットで拾った情報によると,本寺跡の手前にある市営駐車場入口に高札場跡を示す案内板があるはずである.
 私は今来た道を戻って,古刹場跡を懸命に探が見当たらない.駐車場の裏道にも回ってみる.裏道は商店街になっていて,昼時の食堂から良い匂いが流れてくる.近所の方に高札場の所在を聞きまわるが,私の聴き方が悪いのか,一向に分からない.
 まるで動物園の熊のように,同じところを数回グルグル回っても分からない.
 私は,まだもよおしてもいないのに,市営駐車場のトイレに入って,“やけ小便”をする.そして,高札場探索を諦める.

■熊谷寺
 ふてくされた気分で,国道17号線を歩く,そして,八木橋デパート前を右折して,12時06分,熊谷寺に到着する.立派なお寺である.本堂の大きな屋根が印象的である.ただ,山門前の柵が閉ざされていて境,内には入れない.仕方なく,柵越しにデジカメを構えて写真だけを撮る.
 資料7の記事の一部を引用する.
 「
当地は平安時代末から鎌倉時代初期の武士熊谷直実の出身地であり,出家後の直実が蓮生法師として往生した場所と伝えられている.直実は建久4年(1193年)頃出家して法力房蓮生と称した.その後,関東に帰った時,熊谷館の一郭に庵を結んで僧俗に開放して教えを説いたと言う.なお,『新編武蔵風土記稿』によれば文禄4年(1595年)に中山道を付け替えた際に熊谷寺の裏手(北側)にあった街道を現在の形にした(南側)に移したとする記述があり,この時に熊谷寺はかつての館の堀ノ内から切り離されたと言う.熊谷寺は,その庵の跡に智誉幡随意白道上人が,天正19年(1591年)に建立したものと言われている.」
 なお,同資料によると,熊谷寺の見学は不可とのことである.
 

<熊谷寺>

<稲荷大明神と熊野神社>


稲荷大明神

 続いて,熊谷寺の隣にある稲荷大明神を詣でる
 資料8には,この稲荷大明神について,次のような説明がなされている.
 「
当山鎮守稲荷の神躰は弘法大師の御作にして直実朝に拝し夕に念する所也直実所所の戦場に剛敵を破り抜群の勲功を源平の陣頭に輝す時熊谷弥三左衛門と名乗り陣中に奇功を顕し危を助け堅きを砕き猛威をそふ或時は小童となり或時は壮士となり其出没の跡を知る者なし中にも一の谷大手の戦に先陣に向かひ戦しに一人附従加勢の世の常ならざりしかば其姓を尋るに我わ汝か常に念する所の稲荷なり急難を済んため軍用の形を現ずる也と跡を隠し給へり依て帰国の後弥左衛門稲荷と加号し居城の鎮守と信敬す唯陣中に顕るゝの口にあけづ其後告有けるは我を念ずる家又形をうつし祭り又は我名を唱ふる輩には火災盗難を除しむべしと有しが夢覚て秘符あり是を守袋に入置しに直実直家ともに数度戦場に向かふといへども運強く武名を顕せしは神徳による所なるべし夫より数百年遠近の男女 熊谷稲荷と号して信る輩各々願に随ひ成就せすと云事なし爰に慶長年中当山中興幡随意上人に神告ありしは凡仏心の感応はその国所によるもの也我を念する者は火災盗難を消除し開運出世の徳を授け又安産子育の利益を与べし其上出生の男女童形の内我眷属となり朝暮念ずる輩には無病成長うたかふ事なかれ此秘符を所持の者には右の分はさら也猶更福寿無量子孫繁昌せしむべし汝か法徳久修練行の念力を加持せば弥虎に角を添る如くなるべしと夫より上人神授の秘符え法威をそへ永々当山に伝へしめらるゝ者也追々諸人渇仰せしかば日に月に神威倍増し遠近の諸人現益を蒙る者挙てかぞへがたし別て子育の利益衆人のしる所也委くは本縁起のごとし。」

<稲荷大明神>

■熊野神社
 正面から見て,稲荷大明神の境内の左手に,熊野神社がある.
 「・・あれ,こんなところに熊野神社が・・・」
と思いながら参拝する.
 この熊野神社の由来は,写真の由来記のとおりである


熊野神社の由緒>


<熊野神社>

<八木橋デパート>

■八木橋デパートで昼食

 稲荷大明神境内から,往路を引き返して,国道17号線まで戻る.
 すでに12時を少し過ぎている.そこで,交差点の角にある八木橋デパートで一休みすることに決める.とりあえずデパートの中に入ってみる.大きくて,なかなか立派なデパートである.また,急に思いついて,7階の食堂を覗いてみる.
 結構品数も多く,値段もお手頃である.
 「よお~しっ・・ここで食事にしよう・・」
 私は入口近くにいるウエイトレスに,
 「禁煙席,ありますか?」
と伺う.
 「当店は全部禁煙になっています」
とのことである.
 私は煙草の臭いが大嫌いである.特に食事中に煙草の匂いが漂ってくると,折角の料理がまずくて台無しになる.禁煙と聞いて,私は安心して食堂に入る.
 眺望の良い窓際の席に座って,ゆっくりと昼食を楽しむ.

<八木橋デパートで昼食>

■中山道の石塔が見つからない
 
レストランの居心地が良かったので,眼下に広がる熊谷の街を見下ろしながら,随分と長い間,休憩を取ってしまう.
 食事後,各フロアーを,ざっと眺めながら,13時頃,八木橋デパートから外に出る.
 中山道は,このデパートの敷地を通って,交差点近くに抜けていたらしい.案内書によると交差点付近の表通りに,「中山道の碑」という大きな石塔が立っているようである.
 私は,もう少し熊谷寺の周りをまわってみたかったので,少々遠回りをして熊谷寺の裏手まで散策する.その後,地図を頼りに件の石塔探しをする.ところが,この辺りにあるなと見当をつけた場所に到着しても見当たらない.
 通りがかりの方に伺っても,
 「さあ・・知りません・・」
という回答しか返ってこない.
 うろうろと10分ほど探し回るが,どうしても見当たらない.
 案外,何でもない所に立っているに違いないのだろうが,私の先入観もあって,目に入っているのに,分からないでいるのかもしれない.ついには200メートルほど離れた一本隣の大通りまで行ってしまう.そうなると,一体自分がどこにいるのかも怪しくなってくる.
 私は迷った時は原点に帰るという山の原則を思い出して,一旦,八木橋デパートまで戻ることにする.地図を頼りに10分ほどあるいて,ようやく元の八木橋デパートに戻る.
 私は,中山道の碑は見付けるのを止めにして,先へ進むことにする.
 こうして,痛い51分のロスタイムの後,13時34分,ようやく午後の部を再開する.
 このロスタイムが,後で大きく響くことになる.
 (注)後日,私と同じ経路を歩いた方から,
     「なんであんなに分かりやすいところにある石塔が見付けられなかったんですか?」
    と不思議そうに言われた.


<松厳寺と八坂神社>

■松巌寺
 八木橋デパート近くの交差点から,国道17号線の北側を走る旧中山道に入る.密集した住宅街の中を通る狭い道である.
 13時38分,松巌寺を通過する.臨済宗のお寺である.
 山門から境内に入ってみる.本堂は近代的なコンクリート建築である.壮大な木造の本堂かと期待していたので,何となく興味を殺がされた気分になる.
 資料9に,「松岩寺は慶長元年(1596年)に喜庵西堂和尚によって開創された臨済宗妙心寺派の禅寺である.開創以来いくたびかの火災にあい,詳しい寺史は明かではない.1920年代に境内にあった墓地を都市計画によって大原地区へ移転した.昭和20年(1945年)8月14日の熊谷空襲によって,山門の一部を残し,すべてを焼失した.昭和34年に本堂を再興.その後,諸建物と山門を再建して現在に至っている.」という趣旨の記述がある.
 なるほど,空襲で焼かれたのでは,古い建築物が残っていなくても仕方がないなと納得する. 

 
<松厳寺山門>                               <松巌寺の本堂>

■西田幾太郎の言葉
 松巌寺近くに西田幾太郎の言葉が掲示されている.掲示を読みながら,口はばったいが,
 「なるほど! その通りだ!」
と合点する.
 なかなか含蓄のある言葉である
 この言葉,全くその通りだなと何度も,何度も,頷きながら読み直す.

<西田幾太郎のことば>

■八坂神社
 13時43分,八坂神社を参拝する.石造りの立派な鳥居のある神社である.
 準備不足の私には,この神社の由来なおは全く分からない.
 熊谷と言えば,八坂神社の「うちわ祭」有名なようだが,この写真の八坂神社は「うちわ祭」とは関係がないだろうなと思いながら,神社の前を通過する.


<八坂神社>

■熊谷警察署
 八坂神社を参拝してから国道17号線にそって真っ直ぐ西北西に向かって歩き続ける.途中で道草を食いすぎたので,大分時間が押している.
 13時47分頃,やや大きな交差点を通過する.この交差点を左折すれば,すぐのところに「秩父道志るべ」があるはずだが,今回「秩父は無関係」と妙な理屈で割り切ってパス.そのまま先へ進む.
 やがて,大きな交差点の右手前方に立派な建物が見えだす.何だろうと地図で確かめると熊谷警察署である.あまりに威風堂々の建物なので,写真を撮ることにする

<熊谷警察署>

                          (つづく)

[加除修正]

2013/2/5  ルート地図の追加と本文の加除修正を行った.

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/naka-4.htm
資料6;http://www.city.kumagaya.lg.jp/about/rekisi/tyomeinajinbutu/takeitanjo.html
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%AF%BA_(%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%B8%82) 
資料8;http://www.yukokuji.com/mt_annai/2006/04/post_13.html
資料9;http://www.shoganji.or.jp/
                                   (つづく)


「中山道六十九宿巡り」の前回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/32aaaef9ed44e6a183afe004369a51e6
「中山道六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/86f2a74d694c89d9df79b12adb3354e4
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e

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