<紅坂一里塚付近を行く>
中山道六十九宿巡り(第12回);第1日目(6);紅坂一里塚・深萱立場跡
(五十三次洛遊会)
2012年4月6日(金)~8日(月)
第1日目;2012年4月6日(金) つづき
<深萱立場跡地図>
※前掲図
<下街道への岐れ路>
■茶屋水戸屋跡
13時59分,西行の森で休憩を終えて歩き出す.小さな起伏のある尾根沿いの長閑な道が続く.歩いていても実に心地よい.道路の両側には雑木林が続く.
14時06分,茶屋水戸屋跡を通過する.そこには「茶屋水戸屋」と書いた小さな杭が打ち込んである.
<茶屋水戸屋跡>
■下街道と槇ヶ根立場跡
14時11分,大きな案内板の前に到着する.この案内板には,槇ヶ根立場の案内文がビッシリと書かれている.説明文の全部を紹介することはできないが,この説明文によると,ここは中山道槇ヶ根追分である.ここで,中山道と分かれて西へ下る道は,名古屋,伊勢方面に向かう下街道である.
江戸時代,この辺りは中山道の通行者と,木曽や尾張方面の商人荷,善光寺屋伊勢神宮参拝者が行き交っていた.そのためにこの道の両側には多くの茶屋があったようである.
近くに立つ別の案内板によると,江戸時代末期には,ここに槇本屋,水戸屋,東国屋,松本屋,中野屋,伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が9軒あったという.
これらの茶屋は,明治初め宿駅制度が変わり,脇道ができ,さらに中央本線の大井駅が開設されるにつれて寂れてしまった.
<槇ヶ根立場説明板>
■伊勢神宮遙拝所
槇ヶ根立場の案内板のすぐ近くに,伊勢神宮遙拝所の説明文がある.説明文によると,近くに小社遺構の礎石があるようだが,どれなのか良く分からない.多分,この写真の囲いの中にあるのだろうと勝手に想像する.
伊勢神宮参拝の人は,ここで中山道と別れて,下街道を西へ行ったが,伊勢までの旅費や時間のない人は,ここで手を合わせて伊勢神宮を遙拝したという.
<伊勢神宮遙拝所跡(かな?)>
■下街道事情
案内板の記事によると,中山道を上街道といい,ここで分かれて下る道が下街道.下街道は竹折,釜戸から鷹山(現土岐市),池田(現多治見市)を経て名古屋の向かう道である.
この道は,「途中に内津峠の山道があるが,土岐川沿いの平坦地を進み,人家も多い.そのうえ名古屋までの距離は上街道より4里半(約18キロメートル)近かった.そのため下街道は一般旅行者に加えて,商人や伊勢参拝者も多く大変賑わった.しかし,幕府は中山道の宿場保護のため,下街道の商人荷の通行を禁止し,尾張藩も厳しく取り締まったが,徹底することができず,幾度も訴訟裁定を繰り返した」という.
<様々の史跡を辿る>
■七本松坂から姫御殿へ
槇ヶ根立場跡のある七本松坂を下ると,一旦,舗装された自動車道に出る.この道路を横断して,道路の路肩沿いの砂利道に入る.やや急な登り坂である.やがて砂利道は歩道道路と離れて山道になる.
標高378メートル地点を越えると下り坂になる.
14時22分,姫御殿に到着する.ここは祝峠と呼ばれる見晴らしの良い場所.楽宮(さざのみや)や和宮の休息所が置かれていた(資料1,p.155).
今は公園風に整備されている.
近くのある説明文によると,ここは旅人にとって格好の休息地であったという.お姫様が通行のときは,ここに仮御殿を建てた.
「1804年(文化元年)12代将軍家慶のもとへ下向した楽宮がご通行のときは,6畳と8畳2間の仮御殿を建てた.また,1861年(文久元年),14代将軍家茂のもとに下向した和宮ご一行は,岩村藩の御用蔵から運んだ檜の無節の柱や板,それに白綾の畳を敷いた御殿を建てて,御休みになった.地元の人たちは,この御殿は漆塗りであったと伝え,ここを姫御殿と呼んでいる」(以上説明文).
<姫御殿跡>
■首なし地蔵
九十九折りの下り坂を進む.雑木林の中の野趣溢れる山道である.
14時25分,急な下り坂の曲がり角にある首なし地蔵跡に到着する.傍らに案内板があるが,光ってしまい読みにくい.
資料1(p.155)によると,この辺りは急坂なので,大名行列が乱れたと言い伝えられている.
資料3(p.46)によると,昼寝をしていた武士が殺され,動向の武士が怒って地蔵の首をはねたという伝説がある.
<首なし地蔵>
■下座切場跡
14時29分,下座切場跡を通過する.手持ちの資料では,下座切場跡の故事来歴は不明.
<下座切場跡>
<坂道を上り下り>
■石畳の路
14時30分頃,綺麗に整備された石畳の路を歩き続ける.所々に,各種各様の案内板が林立している.その中に「熊出没入山注意」の看板にギクリとする.
<石畳の路>
<様々な案内標識>
■かくれ神坂
みたらしの坂(下り),乱橋を通過して,14時55分,かくれ神坂(下り)の標識の前を通過する.
<かくれ神坂>
■数々の茶屋跡
14時59分から,平六茶屋跡.ひやいと茶屋跡,夫婦茶屋跡などを次々に通過する.
<平六茶屋跡> <ひやいと茶屋跡>
<夫婦茶屋跡> <地図を確かめながら歩く>
<紅坂を下る>
■紅坂の一里塚
15時04分,紅坂の一里塚に到着する.江戸日本橋から89里目の一里塚.京まであと45里である.
珍しく道路の両側に塚が残っている.
<紅坂の一里塚>
<紅坂の一里塚>
■ぼたん岩
15時07分,ぼたん岩に到着する.一見何処がぼたん岩か良く分からないが,路面の岩がぼたんの花のような模様になっている.
このような模様の岩をどこかで見たなと思いながらも,なかなか思い出せない.後になって,
「ああ・・・そうだ! 丹沢大山の下社から山頂までの登山道の途中にあったな・・」
と漸く思い出す.
<ぼたん岩>
■古い道標
ところどころに,江戸時代のものと思われる古い道標がある.
<古い道標>
<乳母が茶屋跡>
■集落が近い
15時10分,民家が見え始める.久々に人の匂いのする場所に到着する.本日の終点深萱立場跡まで,あと僅かである.
<集落に入る>
<今日の歩程もあと僅か>
■常夜灯
15時14分,立派な常夜灯の前を通過する.
進行方向右手に神明神社の境内と思われる森が見えている.
<常夜灯>
■稲荷神社
15時15分,稲荷神社の前を通過する.たくさんの赤い鳥居が印象的である.
<稲荷神社>
<深萱立場跡>
■藤村の高札場
15時17分,藤川に架かる藤大橋を渡る.
対岸に藤村の高札場跡が見えている.
■深萱立場跡に到着
15時21分,深萱立場跡に到着する.
ここは十三峠のほぼ中央に位置している.辺りは公園風に整備され,バス停がある.
私たちの第1日目の旅は,ここが終点.
「やれやれ,やっと歩いた・・・」
というのが率直な印象である「
<深萱立場跡>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;五街道ウォーク事務局,発行年不明,『ちゃんと歩ける中山道六十七宿』
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e59f7eebae3268aadda3d5e87416488c
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/231a5a352b775e9a59018f337b5f0ee9
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