中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(第12回);第1日目(5);十三峠・西行塚

2012年04月21日 04時28分51秒 | 中山道六十九宿

                         <西行塚展望台の眺望>

      中山道六十九宿巡り(第12回);第1日目(5);十三峠・西行塚
             (五十三次洛遊会)

           2012年4月6日(金)~8日(月)

第1日目;2012年4月6日(金) つづき


<大井宿・槇ヶ根坂地図>



<大井宿の続き>

■中野村庄屋居宅
 私たちは,レストラン「エイト」での昼食を終えて,12時59分に,午後の歩きを開始する.メインストリートにしては,少々道幅が狭い道路を西へ向かって歩き出す.地図を見ると,この辺りは栄町というらしい.
 13時07分,中野村庄屋居宅に到着する.
 軒下の案内板の説明によると,屋号は本酒屋.1861年(文久元年),皇女和宮が中山道を通るに当たり,その準備に追われていた.当時,大湫宿の助郷村であった野井村が,岩村藩代官から強制的に賄役をさせられ羅.このときの不満から野井村百姓代熊崎新三郎は,和宮の通行が終わったあと,この庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に切りつけたということである.

<中津川庄屋家居宅>

■長島橋を渡る
 13時08分,長島橋を渡る.この辺りで大井宿も終わりである.
 地図と道標を確認しながら,中町を通り過ぎて五叉路を通過する.地図で確かめると,この辺りの標高は273メートルである.
 
<長島橋>                           <道標>

■坂上石仏群
 13時13分,欄干に「坂上石仏群」と書いてある石段を登る.そこにはたくさんの石仏や五輪塔が立ち並んでいる.
 手許の資料では,これらの石仏群の故事来歴は分からない. 

<坂上石塔群>

■豊玉稲荷大明神
 13時14分,豊玉稲荷大明神参道に到着する.赤い鳥居が立ち並ぶ石段の参道が見えている.参道が長いようなので,ものぐさをして参拝を省略.そのまま通過する.
 この神社の故事来歴は分からない.

<豊玉稲荷大明神>

■上町観音堂
 13時20分,上町観音堂入口に到着する.入口には「上町観音堂」と刻字した案内石塔が建っている.
 民家に挟まれた参道に奥に赤い屋根の観音堂が見える.

<上町観音堂>

■西行硯水公園
 13時22分,西行硯水公園に到着する.こぢんまりとした公園である.園内を一回りする.
 案内板の説明によると,1186年(文治2年)西行は二度目の欧州の旅に伊勢を出発,鎌倉で源頼朝に会い,平泉で1年滞在した後,木曾路を経てこの地を訪れ,3年間暮らしたという.
 西行は,ここの泉の水を汲んで墨をすったといわれる.


<西行硯水公園>


<西行硯水の泉>

■神明神社
 13時25分,神明神社に到着する.
 資料2(p.232)および資料3(p.45)によると,神明神社は中野村の産土の神である.

<神明神社>

<是より西十三峠>

■西行塚道標

 13時27分,中央本線踏切近くにある西行塚道標に到着する.
 このとき,踏切の警鐘が鳴り出す.
 「電車が来るぞ・・・」
 もと,列車マニアであった私には,たまらない瞬間である.早速,踏切近くから迫り来る中央本線の電車をデジカメに収める.
 
<西行塚道標>                                      <中央本線踏切>

■是より西十三峠
 中央本線の踏切を越えて,国道19号線のガードを潜る.
 13時32分,いよいよ十三峠の入口に差し掛かる.「是より西十三峠」と酷似した石碑が立っている.ここから石畳の坂道が始まる.いよいよ西行坂である.
 今回の旅で,最大の難所が,この十三峠である.どんなところが興味津々である.

<十三峠入口を示す石柱>


<十三峠の坂道が始まる>

■馬頭観音
 十三峠を登り始めてまもなく,13時33分,馬頭観音の前を通過する.道端に「馬頭観音」と書かれた小さな案内杭が打ってある.その杭の奥に小振りな馬頭観音が安置されている.

<馬頭観音>

<西行苑>

■階段道を登る
 13時34分,進行方向右手に階段道の分岐に到着する.
 土地勘がないので,この先どうなるのか分からないが,とにかくこの階段を登ってみることにする.ところが,これまでの坂道の連続に草臥れたのか,数名の仲間が,
 「戻ってくるのか・・・下で待っている」
という.この先,どうなるか分からないとしか答えようがない.
 ほんの2分程,階段道を登ると,伝西行塚と書いてある案内杭がある.その先に,大きな五輪塔が立っている.案外近かったので,改段下付近で立ち止まっている仲間に,
 「お~ぃ!・・・登ってこないか」
と声を掛けるが応答がない.

<階段の枝道に入る>

■伝西行塚
 小高い丘の上に,かなり大きな五輪塔がある.
 近くにある案内板の記事によると,西行は,晩年,この地に竹林庵を結び3年ほど暮らしたらしい.西行は,ここで自分の死期を悟り,村人に自分が死んだら,この中野坂に埋葬するように単打という.村人は西行の遺言通りにここに埋葬して,五輪塔を建てたと伝えられる.

<伝西行塚>

■展望台に立つ
 この辺りは西行苑と呼ばれる公園になっている.ここは西行の偲んで整備された公園である.
 高台の眺望の良い所に休憩所が建っている.素晴らしい眺望である.私たちは,登ってこない同行者のことは,しばし忘れて,素晴らしい風家を眺め続ける.

<西行苑の休憩所>



<休憩所からの素晴らしい眺望>

<槇ヶ根の一里塚と西行の森>

■槇ヶ根の陣地跡
 13時45分,西行苑展望台から歩き出す.道なりに下ると,先ほどの分岐から少し上った所に跳びだす.
 登ってこなかった人たちの姿が見当たらない.仕方なく一番若手のオウタムさんに,坂の下まで探しに行ってもらうが見当たらない.途中で携帯電話でやり取りしたところ,すでに,ここから少し先の槇ヶ根の一里塚に到着して,私たちを待っているとのこと.
 それでは・・・と言うことで石畳道を先へ進む.
 資料3(p.45)の記事によると,一里塚の少し手前に,槇ヶ根陣地跡があるらしいが,見当たらないまま,どうやら通過してしまう.
 同資料の記事によると,岩村藩は水戸天狗勢を迎え撃つために,この当たりに陣地を築いたが戦わずして通過させてしまったと伝えられる.

<石畳道を進む>

■槇ヶ根一里塚
 13時56分,同行者が待っている槇ヶ根一里塚に到着する.道の両側に一里塚が残っている.ここは江戸日本橋から88番目の一里塚である.京まであと46里のところまで来たことになる.
 傍らに立つ案内板によると,岐阜県内に現存する一里塚は,この槇ヶ原一里塚を含めて7ヶ所,貴重な文化財だという.



<槇ヶ根一里塚>

■西行の森
 槇ヶ根一里塚付近は公園風に整備されている.この公園を「西行の森」と呼ぶようである.園内には吾妻屋や大きな石碑が立っている.
 ここから眺望がかなり開けて見えている.西行苑まで登ってこなかった仲間が,眺望を楽しみながら,ここで待っている.
 
<西行の森>                        <大きな石碑>


<西行の森>

                                    (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;五街道ウォーク事務局,発行
年不明,『ちゃんと歩ける中山道六十七宿』
資料4;岐阜県恵那市,発行年不明,『てくてく恵那を歩いて行こう』


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2887e06550198fb2e1fa7f7c168cf97c
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8ebf9535a5457086e0f98012c3a263cb

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