中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第15回):第1日目(2);関ヶ原古戦場(2)

2012年11月24日 03時52分49秒 | 中山道六十九宿

                            <笹尾山からの眺望>

歩いて巡る中山道六十九宿(第15回):第1日目(2);関ヶ原古戦場(2)

         (五十三次洛遊会;特別企画)
      2012年11月16日(金)~19日(月)

第1日目;2012年11月16日(金) (つづき)

<関ヶ原古戦場地図> 
(再掲)



<丸山烽火場から岡山烽火場へ>



■竹林を抜けて
 関ヶ原歴史民俗資料館の見学を終えて,10時29分に再び歩き出す.まずは道なりに東へ向かう.途中Y字型の分岐を右に進んで,小川沿いの道を歩く.さらに鋭角に左折して,今度は北へ向かう.そして道幅が広い自動車道路を横断して,瑞竜の集落に入る.道幅が一段と狭い登り坂になる.
 10時46分,「丸山烽火場」の案内杭の前を通過する.この案内杭を見て,今歩いてきた道が間違っていないことが確認できて,内心でホッとする.やがて道は緑鮮やかな竹林の中に入る.
 
<丸山烽火場の案内杭><緑鮮やかな竹林>

金比羅神社
 竹林の道を抜けて,10時50分,金比羅神社に到着する.
 案内板によると,この神社の御祭神は大国主命.
 
関ヶ原合戦で東軍に参加した讃岐国領主生駒一政は,捧持した金刀比羅宮(香川県琴平町)の祭神,大国主命の御神像を松の枝に掛けて戦勝を祈願した.合戦後,村人がこの御神像を貰い受けて祭祀したのが,この神社の始まりだという.
 その後,商売の神様として関ヶ原村全体から尊崇を受け,金乃比羅講が組織された.大正8年(1919年)の遷宮により現在地に移されたようである.

<金乃比羅神社>

<岡山(丸山)烽火場>

烽火場に到着
 10時51分,金比羅神社から直ぐ近くの岡山(丸山)烽火場に到着する.
 ここは高台になっていて,公園風に整備されている.烽火場に相応しく,ここからの眺望は開けている.また,今,正に紅葉の見頃である.私達は紅葉を愛でながら暫く休憩を取る.
 関ヶ原の合戦のとき,この山頂では長政と重門が陣を敷いていた,
 合戦当日,午前8時頃,霧が晴れ上がった.そして,この烽火場から狼煙が上げられた.狼煙は攻撃開始の命令である.狼煙を合図に東軍は一斉に攻撃を開始した.
 同時に,笹尾山と北天満山にも西軍の狼煙が上がる.そして,東軍と西軍は一斉に戦闘を開始した.
 私は,烽火場に立って,当時の状況を想像する.

<岡山烽火場跡>

■烽火場からの眺望
 烽火場からの眺望は素晴らしい.
 眼下には関ヶ原町の前掲が見えている.その遙か先には,土地勘のない私にはどこの山か分からないが,姿形の良い山脈が連なっている.
 この写真の正面辺りに開戦地が,そして直ぐ右手に最終決戦地があるはずである.
 こんなに長閑に見える場所で,東西十数万人もの将兵が死闘を繰り返したとは,とても想像できないほど,美しく長閑な風景である.

<烽火場からの眺望>

■鮮やかな紅葉に見送られて
 10時54分,烽火場を跡にして山を下る.紅葉が美しい山道が続く.
 やがて,竹林が混じった雑木林に囲まれた緩やかな下り坂となる.

<烽火場近くの鮮やかな紅葉>

深山の趣のある山道を下る
 烽火場から西の方向へ山道を下る.辺りは心地よい雑木林である.
 合戦のときは,この道も沢山の将兵で溢れていたと思うと,平和の有り難さが身に染みて分かるような気がする.

<心地よい雑木林を下る>

<池の畔を巡る散策路>

■中田池の畔を歩く
 やがて山を下って,静かな湖の畔に出る(10時57分).地図で確かめると,この池は中田池と言うらしい.
 池の畔に沿って,散策路が続く.人影は全くない,水面は物音一つなく静まり返っている.対岸の紅葉が何とも言えないほど穏やかで美しい.

<中田池畔を行く>

■紅葉のトンネル
 中田池を過ぎると,頭上を紅葉が覆うすばらしい散策路になる.進行方向左手には,中田池に続く小栗毛池が見え隠れしている.

<紅葉のトンネルを進む>

■小栗毛池
 紅葉のトンネルを抜けて,11時頃,小栗毛池の湖畔を回り込むように歩く.奥行きのある細長い湖のようである.ここも全く人影はなく,不気味なほどに静まり返っている.

<小栗毛池>

■八幡池
 小栗毛池の畔を半周すると,道路の反対側に3番目の池が見えてくる.八幡池である.
 ススキの向こうの湖畔に小さな小屋が見えている.展望デッキのようである.ここは木立に囲まれた一寸メルヘンチックな美しい池である.
 「あの展望デッキで一休みしましょう」


<八幡池>

■竹林の小径
 16時11分,八幡池の展望デッキに到着する.ここで景色を愛でながら数分休憩を取ってから,再び歩き出す.美しい竹林の中の散策路が続く.

<竹林の散策路>

<最終決戦地を目指して>

■地下道を潜る
 11時13分,自動車道路の下を地下道でくぐり抜ける.
 地下道を潜り終えると,これまでのメルヘンチックの雰囲気とは一変し,辺りは今様の田園風景になる.地下道はまるでタイムトンネルのようだ.

<地下道を潜る>

ローソンで昼食を購入
 さて,現実に戻って,そろそろ昼食のことを考えなければならない.
 近くに適当なレストランや食堂はなさそうなので,たまたま目に付いたローソンで弁当を購入して,適当な場所で食べることにする.地下道をくぐり抜けるとローソンが見えている.
 11時15分から20分まで,自動車道路沿いのローソンで弁当などに買い物を済ませる.


■最終決戦地
 ローソンの裏手から,自動車道路の裏手にある道を西へ向かう.舗装はされているが自動車も人も全く通っていない道である.前方に大きな石柱が立っているのが見えている.
 「あそこが最終決戦地だ・・・あの辺りで昼食にしようか・・・」
 11時23分,最終決戦地に到着する.
 辺りは公園風に整備されていて,ベンチもあるが,吹きさらしの場所のため冷たい風が苦になる.
 「風が冷たいですね・・・もう少し風の当たらない場所を探しましょう・・」
ということで,最終決戦地は通過する.

<最終決戦地>

<笹尾山>

■紅葉が美しい笹尾山全景
 最終決戦地を過ぎると,右手前方に紅葉が見事な山が近付いてくる.笹尾山である.
 私は地図を見ながら,自信はないものの,
 「多分,あそこが石田三成の陣地跡でしょう・・・あそこで食事にしましょう」
と提案する.
 ここは石田三成,島左近,蒲生郷舎の陣地跡でもある.

<笹尾山全景>

■笹尾山を登る
 11時26分,笹尾山に到着する.
 山麓には大きな駐車場がある.駐車場の真ん中辺りに登山口の階段がある.階段は木柵の間から山頂まで続いている.
 木柵は山麓を囲むように幾重にも作られている.この木柵のことを「馬防柵」と呼ぶらしい.騎馬の進入を阻止する目的で作られていたようである.
 かなり急で長い階段が連続する.

<馬返しの間の長い階段を登る>

石田三成陣跡
 11時24分,笹尾山山頂に到着する.ここは石田三成の陣地跡でもある.
 傍らに立つ案内板によると.陣地正面に竹矢来の柵を二重に配置し,前衛隊長の島左近らの指揮のもと,すさましい死闘が展開された.
 小早川等の裏切りは,戦況を一変させ,西軍の実線兵力は3万5000人前後に激減し,西軍の敗色が濃厚になると,最早これまでと石田三成は北国街道沿いに敗退する.
 案内板の文章を読んでいると,栄枯盛衰.勝者必衰,世の無常・・・そんな言葉が次から次へと脳裏に浮かんでくる.
 ある有名な学者が言っていたが,「歴史に『もしも(if)・・・』はない・・」と言っていたが,もし,小早川の裏切りがなかったら・・・,もし石田三成が勝者になっていたら・・・.私は考えてみても仕方がないことを,ついつい考えてしまう.強い権力を持つ人物のちょっとした考えや,時の弾みで,後世の歴史が大きく違ってしまうに違いないからだ.
 もし小早川が,
 「う~ん・・・やっぱり裏切りは止めた・・・!」
と思い直したら・・・徳川幕府は成立しなかったのは確実である.ならば,石田幕府かな? でも,石田三成の性格から,石田三成が天下を取っても,石田幕府はなかったろうな・・・なんて,ついつい空想してしまう.

<石田三成陣地跡>

■笹尾山山頂
 笹尾山山頂には吾妻屋が建っている.
 ここからの眺望は実に素晴らしい.四方八方が実に良く見える.ここからの景色を眺めていると,石田三成がここに陣地を構えた理由がとても良く分かる.

<笹尾山山頂の吾妻屋>

■笹尾山からの眺望
 笹尾山山頂直下に広場がある.広場にはベンチも幾つかある.
 私達は,ベンチに腰掛けて,少々早めの昼食を摂ることにする.ここは冷たい風も気にならない.柔らかい陽光を浴びながらの昼食である.
 私は,先ほどのコンビニで購入した弁当を広げる.コンビニで暖めて貰った弁当は,まだ十分に暖かい.

<笹尾山からの眺望>

■コンビニ弁当
 写真は,私が購入したコンビニ弁当である.「おすすめ幕の内」398円也.
  こんな・・・と言ってはいけないかもしれないが,この弁当は暖めて貰ったこともあって,大変美味しい.何と言ってもコストパフォーマンスの良さは抜群である.サンデー毎日氏である私の身の丈にあった弁当である.
 “コンビニ弁当万歳!”
 私は心の中で万歳を叫びながら,実に美味しく頂戴する.

<美味しい>コンビニ弁当>

■観光客が続々と登ってくる
 私達が食事をしている間に,沢山の観光客が登ってくる.若い女性のグループから,かなり年配の方々まで,実に様々な方々である.中には長居登り階段でヘトヘトになった方も居られる.
 どうやら,笹尾山はこの辺りでは有名な観光地らしい.
 私達は昼食を終え,12時丁度に下山を開始する.登ってくる観光客とすれ違いながら,長居階段道を下る.


                              (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;関ヶ原町役場地域振興課『このまち,まるごと,古戦場』
資料6;「関ヶ原合戦史跡めぐり」

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c4e05db3da50e0e366a3e1d1afc92480
「中山道道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5bec765015b89a19675bfdb10c64a526

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